療養記(15) 


 

2006年6月12日月曜日
 入院中に書いたものを読み返していると、100メートルの廊下を往復して病室に戻るのに15分かかった、みんな追い抜いていく、と書いてあった。これを思うとめざましい回復力といっていいだろう。駅まで身体のことを過信もしていないし、油断もしていないつもりだが、もっと元気になれたらと思う。

 しかし、たしかに回復していると感じるのだが、今、死に不可逆的に近づいていることは疑いない。身体はもとには戻らない。しかし、小泉義之の言葉を借りると、それでも暫定的であってもいいから「それとして完成された状態」として落ち着くこと、あるいは、「あるプラトー(平面)」が生じることを願っている(『病いの哲学』ちくま新書、p.166)。

 前にも書いたが、退院前に受けた検査の時のほうが僕は緊張していた。予期不安とでもいえばいいだろうか。準備、それどこから何の余裕もなしにいきなり事に臨むほうが冷静でいられるということもあるように思う。吃音で困ってられた患者さんのことを思い出した。子どもが大きくなって保育園にやがて通うようになるが、電話をする時にうまく用件を伝えられないと困るから、とこられた。その方によると電話を受ける時は比較的話せるのだが、こちらから電話をかけようと思うと言葉がうまく出てこないといわれる。電話がかかってくることは予期できないし、考える間もなく電話に出ないといけないが、こちらからかけるとなると緊張するわけある。今はよくわかる。長く歩いてもそんなに上がらない血圧が電話をしようと思うだけで上がってしまう。

 夕方睡蓮と蓮がどうなっているか見に行った。 

2006年6月13日火曜日
 今日は疲れたのか、午前中銀行に行く用事を頼まれていたのに果たせず、昼食をたべてかなりしてからようやく銀行に行き、その後、図書館に本に行った。少し本を読んだが、これだけで日が暮れてしまった。もう体力的には問題ないはずなのに、アドラーのテキストを広げて訳していくというただそれだけのことに着手できない。学生の質問を受けて、やる気は待っていても出ないといつも答えているのだが。前に書いた言葉を使うと、アドラーにtuning inするに十分なパワーが戻ってないのかもしれない。本だけはたくさん(同時進行で)読んでいる。

 今日は暑い日だったのに、暑さがそんなに応えなかった。もちろん、これくらいはまだ序の口なのは知っているが。娘が帰ってきて、暑い、暑い、とクーラーをかけるので驚くほど。血圧の降下剤を飲まなくても、血圧は低いし、脈拍も少ない。自分では計れないvital signsがどうなっているかは気になる。

『最終講義』(中井久夫、みすず書房)再読中。統合失調症を扱ったものだが、僕自身の生活についてもさんこうになる。

 付録(—仕事のみならず、一般に生活再開に当たっての助言から)
○同時に新しいことを二つ始めない。
○「一日の労苦は一日にして足れり」は理想かもしれないが、48時間で”収支”を合わせれば、まず大丈夫である。つまり一日やりすぎたと思ったら翌日は手を抜く。一日睡眠不足なら翌日はさっさと寝る。

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