読書ノート

 
さくら

回想の人びと

命をみつめて

日本の弓術

大人になるって何?

東京の戦争

戦時期日本の精神史―1931‐1945年

私は「蟻の兵隊」だった―中国に残された日本兵

ハーバーマス―コミュニケーション行為

だれも沖縄を知らない 27の島の物語

新装版 戦中派不戦日記

奥野修司『心にナイフをしのばせて』(文藝春秋)
 高校一年生の息子に同級生に殺された家族の視点から、事件後家族がどうなったかが描かれている。取材した著者が不思議に思ったことに決して家族は犯人の少年Aへの恨みや憤りを口にしない。しかし家族は歳月を重ねても癒されるどころか着実に壊れていく。本の最後のほうになってようやく少年Aの消息が明らかになる。弁護士になっていたのである。母親は意を決してAと約束をする。Aは直接待ち合わせの場所にこないで、電話を入れてきた。そのやりとりの中で母親はAに謝ってください、と強くいう。それに対するAの言葉、「なんで俺が謝るんだ」を読んで僕は力が抜けてしまった。
 奥野はいう。たしかに少年法の趣旨からは彼は「更生」した。
「だがその一方で、彼の「狂気」によって奈落に突き落とされた家族は、四半世紀以上も前の悲しみを、いまだに癒されず背負い続けている。「更生」などといわれても、寒々しく響くだけにちがいない。なんと不公平なことだろう。「更生」は、彼ら被害者が少年Aを許す気持ちになったときにいえる言葉なのだ、と思う」(p.250)
 少年法の問題を鋭く突いた本なのだが、ではどうすればいいかということになるとむずかしい。厳罰に処ればいいのかどうか、にわかに判断できない。(2006年11月1日)
 

マイケル・J・フォックス『ラッキーマン』(SOFT BANKS)
 アメリカの中間選挙を前にしてマイケル・フォックスが出演したCMが話題となっていて、前に読んだフォックスの本のことを思い出した。 
『バック・ツー・ザ・フューチャー』などで有名なマイケル・フォックスが人気の頂点にあった三十歳の時にパーキンソン病である、と宣告される。
 俳優生命は後十年と宣告され、マイケルは「なにが大切かという感覚」(p.291)が180度変わったという。病気を受容するのは容易ではなく、ユング派のカウンセリングを受けたりするが、やがて「ぼくは依然としてぼくなのだ。ただぼくにパーキンソン病がプラスされただけだ」(p.308)と思えるようになる。「時間や失ったもののことをあれこれ思い煩うのではなく、一日一日を大切にし、前に進み、なにか大きなことが起こっていること、なにごとにもそれ自体のタイミングやバランスがあるのだということを信じることが大切なのだ」(p.316)という。
 2003年の4月に僕はこの本を読んだのだが、病気の種類はまったく違うけれどもフォックスがいうことがよくわかる。これを書いている今退院して半年が経過した。うかうかしていて何もできないままに夕方になってあせることはよくあるが、生き長らえた日々は長く感じられる。(2006年11月1日)

加藤周一『小さな花』(かもがわ出版)『羊の歌』(岩波書店)
 父のわずかな蔵書の中にあった加藤周一の『読書術』(今は岩波現代文庫)を読んで以来、この著者に関心を持つようになり、高校生、大学生の頃に書いていた日記にもしばしば引用した。
 加藤が後に『小さな花』(かもがわ出版)の中で書いている「美しい時間」をふみにじるものへの怒りが『羊の歌』の通奏低音である。
 戦死した友人について、こんなふうにいっている。
「彼はまだ生きはじめたばかりで、もっと生きようと願っていたのだ。みずから進んで死地に赴いたのでも、「だまされて」死を択んだのでさえもない。遂に彼をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである」(『羊の歌』p.198)。
 加藤の経験はこうだ。
「細い径の両側に薄の穂がのびて、秋草が咲いていた。雑木林の上に空が拡がり、青い空の奥に小さな雲が動く。風はなく、どこからも音は聞えて来ない。信州の追分の村の外れで、高い秋と秋草の径は、そのとき私に限りなく美しく見えた。たとえ私の生涯にそれ以外の何もないとしても、この美しい時間のあるかぎり、ただそのためにだけでも生きてゆきたい…」(『小さな花』p.9)
 このような「美しい時間」は計画して手に入れることはできない。人生設計には役立たない。しかし何のために人生設計をするのだろうか。
「何のために働き、苦労をし、時々気ばらしをしながらでも、生きてゆくのか。美しい時間が人生にどう役立つかではなく、それが私の人生にどんな意味をあたえるかということだけが、根本的な問題であるように私には思われる」(ibid.)
 美しい時間は誰でももつことができる。
「その人にとっての一つの小さな花の価値は、地上のどんなものとも比較しても測り知ることができない。したがってそういう時間をもつ可能性を破壊すること、殊にそれを物理的に破壊すること、たとえば死刑や戦争に、私は戦争に賛成しないのである」(ibid.)
 加藤の友人はこのような美しい時間を持つことを奪われてしまったのである。


小熊英二『日本という国』(理論社)
 入院していた時、安静の必要があって本を読むことを禁じられていたが、許可になて最初に持ってきてもらった三冊の本の中の一冊。入院の前日に買った。今起こっていること、そしてこれから起こりうることの背景を僕はよく理解できた。
「日本は正しいことを、ほかの国よりさきに行ったのです。世の中に、正しいことぐらい強いものはありません」これは1947年に文部省から出された『あたらしい憲法のはなし』の中に書かれている言葉である。戦後には左派勢力が改憲を主張し、教育基本法に反対していた。同じ著者による『<民主>と<愛国>—戦後日本のナショナリズムと公共性』(新曜社)を読むと、戦後、愛国、民族というような概念についてねじれがあり、nationalismが民主主義と結びついていたことなど、今日の諸問題を考えていく時に、知っていなければならないことが多々あることに気づかされ、興味深い。

梅田望夫『ウェブ進化論』(ちくま新書)
 辺見庸が脳内出血で倒れたのは2004年。その後も精力的に発言、執筆を続けたということだが、僕は2006年3月8日付けの朝日の寄稿で久しぶりに辺見の言葉に接した。小泉政権が驚異的な支持率を獲得、群衆の政治アパシーから政治的観衆へと一気の素早い変わり身にマスコミはそのプロセスを制動したかといえばそんなことはなく、むしろ拍車をかけた。辺見はレジス・ドブレは「今や政治はショーかスポーツの様相を呈し、市民の政治参加はサポーターの応援合戦のようになりつつある」、こうした社会は「ファシズムよりましというだけで、民主主義ではない」という言葉を引いている(『いまここに在ることの恥』毎日新聞社ではpp.65-6)。
 2005年9月11日の総選挙で小泉自民党は圧勝した。梅田望夫は、衆議院解散とほぼ同時に小泉圧勝を予感していた、とその先見を誇っている(『ウェブ進化論』p.151)。アメリカにいて、解散の直後に、日本のブログ空間の言説を丹念に読んだ。「私は情報を分別するリテラシーは高いほうなどで、数時間かけて、だいたいの感じを掴むことができた。そして驚いた。凄い小泉支持率じゃないかと」(ibid.)。
 折しも母親から国際電話がかかってきた。母親は梅田に相談した。「今回の選挙は誰に入れるべきか」と。梅田は今回は小泉支持だと母親に伝えた。そして、家族、親戚という小さなコミュニティの中で、そこでの信用をもとに小さな影響力を駆使した。こんなことが日本中で起こっているのではないか、と梅田はいう。「総表現社会参加層はブログ空間に影響されて判断し、リアル社会でミクロに「大衆層」に影響を及ぼす。そんな連鎖が起きた最初の事例として小泉圧勝を読み取ることもできるのではないだろうか」(p.152)。僕はわからないのである、なぜ梅田が(そして多くの人が、ということだろう)小泉が支持されているという情報をもとに、なぜ「今度は小泉支持だ」と判断したのか。他の誰と違っても私はこの人を支持するという自主的な判断をしないのか。梅田は「情報を分別するリテラシー」によってウェブ空間での小泉への強い支持を読み取った。それはよしとしよう。しかし、だからといって「今回は小泉支持」という結論を出すのはおかしい。小泉を支持するのがいけないといっているのではない。皆が支持しているから私も支持するというのでは、誰に入れるべきか、とたずねてきた母親と何も変わらない。これは民主主義ではない。

工藤美代子『本所区東両国工藤写真館の昭和』(小学館)
 話は「写真師」工藤哲朗が大正15年7月に摂政宮裕仁殿下を撮影したところから始まる。哲朗を軸に描かれる工藤家の戦前、戦後の歴史はそのまま日本人の歴史でもあったといえるだろう。戦争についての正しい情報がほとんど伝えられることがないまま、戦勝を信じる一方で子どもたちが出征するなど生活に次第に忍び寄る戦争の影、そしてついには昭和20年の東京大空襲は東京を焼け野原にしてしまう。あの時代もいいところもあったというようなノスタルジーはこの本にはない。
 本書に多数掲載されている写真の中の一枚が胸を打った。哲朗が自ら撮った二人の息子の写真である。哲朗は二人を並んですわらせると、ファインダーをのぞいて「もう少し離れて」という。妻のやすはいった。「そんなに離れなくっても」。しかし哲朗は妻の言葉に応えず厳しい視線で睨んだだけだった。
 二人の写真が仕上がった時、哲朗はつまに説明した。
「なぁ、ここの真ん中から切れば、どちらか一人が欠けた時にでも葬式の写真に使える。だから離れろと言ったんだ」(p.205)
 哲朗は写真家でも写真屋でもなく、写真師だった。戦争中写真館には出征する兵士が次々と記念写真を撮りにきた。「もうすぐ消えようとする生命を、四角い枠組みの中に封印するように、哲朗は丁寧に、死んでゆく者たちの肖像写真を撮った」(p.329)。戦争が終わり、もはや「悲壮な覚悟で時間を凍結する必要がなくなった時」(ibid.)、写真師の時代は終わった。

西加奈子『さくら』(小学館)
「小さな頃。幸せだった、あの尊い時間」(p.319)
 読み進みながら、家族が皆一緒に暮らしていた頃のことを思い出した。妹が結婚し、母は死んだ。父が引っ越し、僕は新しい家庭を築いた。母の看病のために父が不在の時、僕は大きな家の中で一人過ごした。ついこの間まで共に過ごした家族が今や離れていることの不思議を思った。 
「変われへんもんが、きっとあるんです」(p.276)
 長谷川一家にあって変わらぬものとして生きているのが、犬のサクラなのかもしれない。

『回想の人びと』(鶴見俊輔、ちくま文庫)
 安田武、富士正晴、金芝河ら鶴見があった23人をめぐる回想録。初めて知った人も多かった。物理学者である武谷三男の話が印象的だった。「めったにやりこめられない武谷三男が、自ら言いだして、あやまりを認めたことがある」(p.42)
 戦中獄死した布施杜生の妻が家事手伝いとして武谷と同居していた。戦争が終わった時、布施夫人は喜んだ。そして手作りのポスターを、新橋駅付近の電柱に貼りにいくいうポスターには「獄中同志を救いだしに行こう」と書いてあった。彼女を武谷は止めた。あなたがしなくても、誰かがするだろう。
 戦後40年経って武谷はこの話を鶴見にした。ふりかえれば、そういうことをした人は誰もいなかった。それなのにそのただ一つの行動を武谷は止めたことになる。
 ひとりでもやめる(戦争からの離脱)
 ひとでもやる(戦争反対の運動)


『知識人99人の死に方』(荒俣宏監修、角川ソフィア文庫)
 死なない人はいない。
 退院して間もなく読んだ本。死に焦点をあてた簡単な伝記。享年と死因が記してある。99人のうち12人だけが証明記事で長文。次々に読むと死の恐れが麻痺してくる。本文は病死した人だけが紹介されているが、巻末に事故死、自殺、処刑などで死んだ人の名前と略歴が書いてある。自殺も立派な死に方だと思うので、この扱いは不当である。
 入院中、おくやみの記事ばかり読んでいた。僕より若い人だと知らない人のことでもどんなふうにその人が亡くなり、その死がまわりの人にどんな波及効果があったかと想像して落ち込んだ。

『命をみつめて』(日野原重明、岩波現代文庫)
 講演をまとめたもので話が重複するところもあるが、何度も繰り返し話されたことは日野原にとって重要な意味があるわけである。
 日野原自身が病気になって入院した時に、いかに医療従事者が患者のことを知らないかわかったということが書いてあって、僕の生還記も少しは意味があるかもしれない、と思った。ことに、主治医の書いた病歴と看護師の書いた看護記録を読んで後になって自分がどう扱われたかを知った時、外から見た記録と、内から自分が感じた記録とがずいぶん違っているのに気がついた、と日野原が書いているのは印象に残った(p.276)
 入院していた時、毎夜、ひどい汗をかいた。しかし、寝巻きを換えるのも遠慮する、という。「この病院に何十年も勤めている私ですら看護婦さんに遠慮するのですから、一般の人はどんなでしょう。看護婦さんが具合を尋ねてくれても、「まあまあです」といってすませているのではないでしょうか」(p.279)
 ナースコールを押すのを僕はいつもためらっていた。押そうと決心するまでに何十分もかかったりしたものだ。ある看護師さんが入院した時のことを話してくださったのを思い出した。勤務先の病院なので、自分で点滴を落とす速度を落とすなどひどく気を遣ったという。中には頻繁にナースコールを押すような人がいるかもしれないが、患者としては遠慮していてはいけない、と今は思っている。
 死ぬ時、人は一人である。このことに触れて、日野原は、死を前にして「この方と一緒であるということを信じることができれば、決して私たちはそこで挫折しないでしょう」(p.48)と書いている。
 この方は、神であったり仏である。「もし、信じている神や仏と一緒になっている、という強い信仰があれば耐えられます」(ibid.)。でも、信仰がなければ、どうなるのだろう。入院している時にある人に「臨死体験しましたか?」とたずねられ驚いたことがあるのだが、世にいわれているような経験はしなかった。心筋梗塞で倒れた水上勉は一種の臨死体験をしたと書いているが(『泥の花』河出書房新社、『心筋梗塞の前後』文藝春秋)、なにしろ僕の場合は、意識ははっきりしていたのである。
 自分が痛みを経験していないと、患者の痛みを理解できないのか。日野原はこのように書いている。「私自身にしても、心筋梗塞を専門としてまいりましたけれども、心筋梗塞ならではの苦しみ、死ぬのではないかという死の不安をもった胸の痛みは私には理解できません」(p.156)。ある医学の教科書には、この苦しみを「絶滅感」と書いてある、と徳永進の本に書いてあったが、僕にはわかる。医学の教科書は医師が書くものだと思ってきたが、病気を体験した患者で知的に表現ができるverbalization(言語化)できる人の協力が必要であるという日野原さんの考えに賛成である(pp.156-7)。

『死をどう生きたか』(日野原重明、中公新書)
 退院してから人がどんなふうに死んでいったか、何冊か読んだ中の一冊。5月29日の日記に僕は「この本にあげられている人たちのような立派な死に方はできそうもない」と書いた。僕は心筋梗塞だったので、死にどう向かうか考える余裕もなく、オペの間冷静でいたと思うが、いよいよ死ぬとわかったらどうなっていたかわからない。
 日野原が、医師になって最初に担当した結核性腹膜炎と診断された16歳の少女の話は日野原のその後の医師としての人生に影響を与えた(p.2以下、特にpp.8-10)。僕にとっても考えるきっかけになった。

『日本の弓術』(オイゲン・ヘリゲル、岩波文庫)
 
 中島義道の『<対話>のない社会』(PHP新書)に引用してあった。東北大学で哲学を教えていたヘリゲルは、弓道を学ぶ。弓というのは矢を放つタイミングがむずかしい。どうしてもうまくいかないヘリゲルは師匠の阿部研造にたずねる。返ってきた答えはこうだ。
「あなたがそんな立派な<意志>をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。あなたは頃合いよしと<感じる>かあるいは<考える>時に、矢を射放とうと<思う」(p.33、原文は<>内は傍点)
要は「無心」になれ、「無我」になれ、と阿部はヘリゲルに諭す。この答えをありがったりはしないヘリゲルは納得できずさらにたずねる。
「無になってしまわなければならないと言われるが、それではだれが射るのですか」
そんなことがわかったら師匠はいらない、経験してからでなければ理解できないことを言葉でどうして説明できよう、と師はつっぱねる。時は経つ。しかし矢はただの一度も正しく放たれることはない。
「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それでは以上進むはずはない」
 ヘリゲルは引き下がらない。
「少なくとも無心になるつもりにならなければならないでしょう。さもなければ無心ということがどうして起こるのか、私には分からないのですから」
師は途方に暮れ、答える術を知らなかった。
 河合隼雄が、「あなた方は、ディスカッションとかいうことが好きらしいけれど、我々の国では、そんなことはしないんです。私の話が終わったらみんな静かに帰ったらいい」とドイツでの講演の際にいったことを7月30日の日記で紹介したが(『なるほどの対話』河合隼雄、吉本ばなな、NHK出版、p.68)、日本では対話を排除し、圧殺しようとする傾向が強いように思う。質問をしないことがいいかのようである。僕が教えていた学校で質問が少ないので気になっていたら、ある先生が講義中に先生に質問してはいけないという指導がされていた。毎回、紙に書いた質問はたくさんよせられるが、リアルタイムで直接のやりとりができなくて残念だった。
 ヘリゲルがそれでも対話を求めようとしたことは見習いたい。わかったような気になってはいけないと思う。
 さらに一年後ヘリゲルは初めて師に認められる発射に成功した。ヘリゲルはこんなふうにいう。「良い射方が次第に悪い射方よりも多くなった。しかもどのようにして正しい射方をするかと問われれば、私は知らないとしか答えることができない」(p.41)。中島はこのヘリゲルの発言には言及していないのだが、プラトンなら、正しい射方を知らないが正しく射ることができるとしたら、「正しい思わく」は持っていることにはなる。知っていれば、言葉で語れるはずなのである。

『大人になるって何?』(鶴見俊輔と中学生たち、晶文社)
 哲学者、鶴見俊輔と中学生たちとの対話である。この中で鶴見は十分だけ三十年ぶりの講義をしている。鶴見はいう。自分が取り組んでいるもとの問題、「親問題」を捨ててはいけない、と。
「人は生きているかぎり、いまをどう生きるかという問題をさけることができないでしょう。生きていれば、そこに問題がでてくる。どうして、生きているのかなって。自分でそう問うことが、問題をつくることが、「親問題」」(p.73)
 バートランド・ラッセルを引いている。ラッセルは記号論理学の体系を作ったが、「親問題」を手放さなかった。人間は生きている限り、「親問題」から離れることはできない。しかも究極的に解決することができない。だからといって向き合うのを止めようと思っていけない。
 これこそが哲学で、哲学史すら本来的な哲学ではない。なぜなら、大学での哲学の講義では「自分を含まない集合として、プラトン、スピノザ(のこと)が話されていくだけ。それを筆記していく」(p.81)だけだからである。
「みなさんは、これから長いあいだ、○×をやらざるをえないけれども、その○×に魂を売り渡さないこと。わたしは、それを希望します」(ibid.)
 やさしい言葉を使っても鶴見がいう本格的な「親問題」はむずかしい。しかし、哲学者が言葉が難しいことをやむをえないとしているのはまちがっていると思う。
 他にいくつか言葉をひろってみると…
「生徒から学べない教師は、教師として相当まずいんじゃないかな」
「生徒がまちがっていても、まちがっている方向があるんだ」

 シモーヌ・ヴェイユは、女子高等中学校(リセ)で哲学を教えていた。今日残されている講義ノートは(『ヴェーユの哲学講義』ちくま学芸文庫)学生が筆記したものなので講義を忠実に再現したものではないが、レベルは高い。
「彼女は、どんなカリキュラムもたてず、すべての教科書を脇へおしやり、真に学ぶべき事柄だけにひたすら(学生の)努力を傾けさせようとした」(田辺保『シモーヌ・ヴェイユ』講談社新書
 ヴェイユの教育法は、大学入試資格試験(バカロレア)の準備には不向きだった。
 鶴見俊輔が対話をした中学生の一人の言葉を引いて、これからの社会は「自分が意見をいうと、その答えが返ってくる」社会にしたいという。そして日本では講演会の後の質問がどんなふうであるかを紹介している。
 質問を受けると、手を上げて講師と同じくらい長い話をしかもテーマと関係のない話をする人。
 講演や講義の時には質問ありますか、といっても何もいわないで終わってから、個人的に質問する人。
 イヴァン・イリッチが来日した時、講演の後、質問ありませんか、というと、ある人が「クリシュナムルティをどう思いますか」といった人がいたことを紹介している(pp.67-8)。もちろん、講演内容とは何も関係がない。要は自分がクリシュナムルティを読んだということをいいたいのである。
 こんな現状を若い人に変えてほしい、と鶴見はいう。講演や講義であればその時集う皆で、「親問題」を一緒になって考えていきたい。

『東京の戦争』(吉村昭、ちくま文庫)
 戦時下の庶民の暮らしがわかって僕には興味深い。東京空襲対策をつかさどっていた東京都防衛本部が、関東大震災の被害状況を参考にして一万人の死者が出ると予想し、一万個の棺を用意していた(p.122)。被害が大きくならないように対策を講じるというのならわかるが、棺を用意していたとは驚きである。実際には三月九日の空襲だけでも翌日の夕方までに犠牲者は7万人を超えていた。防衛本部は棺を使うことを断念し、人目につかない公園に遺体を集め、穴を掘ってその中に遺体を埋めた。この時、刑務所に服役していた受刑者がこの作業に従事したという。

『戦時期日本の精神史 1931〜1945年』(鶴見俊輔、岩波現代文庫)
鶴見俊輔のカナダのマッギル大学での講義を自ら翻訳したもの。日本史の知識(ことに現代史)が貧しくて、つとめて歴史の本を読もうとしているが、英語でカナダの大学生を前に行った講義なので説明の仕方が日本人を相手に話す場合とは明らかに異なる。鶴見のテーマである「転向」論が軸にある。
 初めて知ったことが多々あった。キリスト教無教会派である灯台社の反戦活動。日本の支部長である明石順三の息子、真人は徴兵されるとただちに、自分は人を殺すことに反対である、といって渡された銃を上官に返し、そのため軍法法廷で裁判になった。このことがあって灯台社は警官に襲撃され、明石一家を含む26人が連れ去られた。いわゆる良心的懲役拒否はあまり例がなかった頃のことである。しかし、後に真人は転向する。
 神風特攻隊員だった林尹夫の話。林は、最後の日までレーニンの『国家と革命』を読み続け、自分が意味のない目的のために死ぬのだという結論に到達する。林の手記である『わがいのち月明に燃ゆ』(講談社)は前に読んだことがある。
 戦艦大和は帰路用の燃料を積まずに出撃した。日本の岸を離れると、士官部屋には完全な言論の自由が立ち現れた。なぜ自分たちが死ぬのか、その目的についての白熱した議論が行われた。その中、白淵大尉はいった。われわれのこの出撃は戦略から見て無意味であり敵に対して何らの打撃をも与えないだろう、しかしわれわれの目的は、このような行動の無意味であることを実証することであり、このためにわれわれは死ぬのだ、と。この言葉は、海に放り出されて救い上げられた吉田満によって記録された(『戦艦大和ノ最期』講談社)。
「〔特攻攻撃に参加した〕林尹夫、吉田満は、戦争の末期の時代の密閉された状態の濃密な空気の中で、それぞれただ独りで考えることを始めました。彼らは、この密閉状態から自分を引き離す力を持っていませんでしたし、鎖国されているこの国にクサビを打ち込んで、それを突き崩すというような力はもちろん持ち合わせていませんでした。しかし彼らの孤独な声は、今日に届きました」(p.193)

『私は「蟻の兵隊』だった』(奥村和一、酒井誠、岩波ジュニア新書)

 奥村は敗戦後も軍の命令で、中国に残り、中国の内戦を戦った。残留兵2600人のうち550人が戦死している。奥村は戦闘で負傷し、6年間の捕虜生活を送った後帰国した。ところが、軍の命令で残留したのに、現地除隊したことになっており、奥村は逃亡兵として扱われた。
 奥村は初年兵教育の仕上げとして、中国人を刺殺することを上官から命じられた。銃剣で、後ろ手を縛られ立たされている中国人を突き刺すのである。こうして初年兵は殺人machineに仕立て上げられる。
 この時のことを奥村は終生一度たりとも忘れることができないでいたが、映画撮影のために中国を訪ねた時、奥村らが刺した中国人は無辜の民間人ではなく、日本軍が雇い管理していた炭坑の警備隊員であり、彼らは、八路軍と内通し、闘いを途中で放棄したとして、みせしめのために処刑されたことがわかった。このことを知って奥村は気が動転してしまった。この時の警備隊員のうちたった一人だけ処刑の前日に、留置場から脱走して生き延びた人がいた。奥村はその人の子どもと孫と話す機会を得たのだが、自分が殺したのは、罪のない農民ではないことがわかった時、八路軍と内通したことがわかれば処刑されるのは当たり前だ、私が殺したのが悪いのではなく、殺されたほうが悪い、と彼らを追求してしまう。「このときの私は昔の日本兵にもどってしまいました。軍隊の論理で彼らを追及してしまったのです」(p.163)。このことに奥村はすぐに気づいたのではなく、その夜になってからだった。「そのときの心境を言えば、自分は農民を殺したのではなく警備隊員を殺したのだと知って、罪がそれだけ軽くなったような気がしたのです…あれほど憎んでいた日本軍の思考がまだ自分の中に残っていると知ったときはすごくショックでした。六〇年も経っているのに日本兵に戻ってしまったんですから」(p.165)
 奥村の話については戦争責任にからんで書きたいことがあるが、稿を改めることにして、ここでは人が何かを選択する時に、その決定に及ぼす影響因があまりに強く、ほとんど自由意志を想定することが不可能であると見えるケースがあるのではないかということを最近考えていることを書きとめたい。無論、アドラーならそんな場合でも責任の所在を曖昧にしたりはしないのだが。奥村も人を殺した事実は死ぬまでつきまとい、人を殺した罪が消えるわけではない、といっている(pp.173-4)。
 奥村の受けた初年兵教育においては上官の命令は絶対的なものだった。中国人を殺すことを命じられた時、その命令を拒むことは実質的はありえなかったであろう。しかし、古年兵にどやされながら、蜂の巣のように刺した後、暫くの放心状態の後、人を殺したという達成感を得、そのことに喜びを感じる(p.23)。
 中岡成文がすべての発言は妥当要求(注)を掲げるべきだというハーバーマスの主張は、現実の複雑さに十分対応できるだろうか、と沖縄の座間味島での集団自決の例をあげている(中岡は「ある島」と記している、中岡成文『ハーバーマス』講談社pp.82-3、以下の記述は『だれも沖縄を知らない』(森口豁、筑摩書房)から補った。p.250以下)。
 沖縄県史では「老人子供は村の忠魂碑の前に集合、玉砕すべし」という軍の命令に従ったことになっていたのだが、事実はそうではなかったことが、村の幹部とともに、自決用の弾薬を日本軍の部隊長に要求しに行っ女子青年団長の残したノートによって判明した。それによると、部隊長は熟慮した後、要求をとりあえず退け、彼らを帰した。つまり、軍命があったというのはうそで、村の人たちは村の幹部たちの支持で自殺したことになる。しかし、この女子青年団長はうその証言をした。軍命だったいうことにしないと、自決した人たちの遺族に遺族年金が支給されないからだった。しかし、うその証言をすることを村の長老に説得されたことが、この女性が残したノートに記されていた。このノートは「娘への遺言」で、娘が母親の死後10年の歳月を経て、自殺の真相を明らかにしたのである。そのために島の住人から嫌がらせや脅迫を受けることになるが、うその証言をした時、女子青年団長(母)は遺族年金給付を狙う島の長老からの説得、真実よりも共同体の利益を優先することを強いる共同体からの圧力に屈服したことになる。
 自決した島民についていえば、軍命がなかっても、玉砕を選ぶ教育を受けてきたので、自決は自発行為とはいえないことになる。奥村が受けた初年兵教育に見られるように、軍隊において反論することは許されなかったのだが、このことのバックボーンとしてあったのが、教育勅語や戦陣訓だった。これらは軍人のみならず民間人をも縛った。戦陣訓にある「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」は座間味島での集団自決のみならず、多くの悲劇を生んだことは知られてる。忠魂碑という言葉を聞いた時、いよいよ死ぬのだなという気持ちになったと、この時自決しようとして果たせなかった人が証言している。
 戦争の頃の映像は白黒のものが多いので、なんとなくあの頃の世界がモノクロだったような印象を持っていたことがあるが、もちろんそんなことはなく、空は快晴で、夕日が赤く空を染め、日没後の西の空には宵の明星が輝いていたはずである。そんな中、迫り来るアメリカの兵士に怯え、捕虜になるよりはと、あるいは青酸カリを服用し、あるいは、断崖絶壁から海へと飛びこみ、あるいは手榴弾で自決をとげた沖縄の人たちの話を読んだ時、気が重くなった。投降を嫌う兵士に民間人が撃たれた話や、子どもが泣くと危険だから殺せ、といった兵士の話は憤りを覚える。
 しかし、自決した人が皆進んで死んでいったとは思えない。比嘉園子は手記の中でこう書いている。
「自決、ただ、それのみが私たちに残された唯一の道なのであろうか。この敗戦にとって、あるいは万一の勝ち戦にとって、私一個(もはや団体の中の一個ではなかった)の自決が、どれだけの意味を持つものだろうか。一少女の自決、それは美しい話にちがいない。しかし美しい話のみが真理であろうか」(仲宗根 政善『ひめゆりの塔をめぐる人々の手記』角川文庫、p.327)
「心の奥にはなお生への執着が根強くはっていた」(p.334)
 これを読むと、誰もが恐れを抱くことなく死んでいったのではなかったことがわかる。池澤夏樹が何度か繰り返し使っている言葉を借りると「無念の死」だったのではないか。
注:ハーバーマスのいう妥当要求。(1)自分は真理を表明している、(2)自分は正しい規範に従っている、(3)自分は意図どおりのことを誠実に述べている。この三つを掲げてこそ、発言は有意味のものとなる。
 

山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社文庫)
 東京空襲の激しさに驚く。それでも、爆撃だけではこの国は滅ばない。科学は戦争の決定的因子にはなりえない、「最後のものは精神力だ」という人があったことが記録されている(p.380)日記は回顧録とは違って、その時々のリアルタイムでの記述であるから、後から見ればまちがったことも書かれることもあるのは当然だが、だからこそ、戦争中の「民衆の記録」(p.4)は貴重である。文語体で書かれた日記が多いことが『戦中派虫けら日記』との大きな違いである。この文語体も敗戦後少なくなる。空襲の罹災者がいった言葉が印象的である。路傍にぼんやりと腰を下ろしていた女性がふと青空を仰いで呟いた。「ねえ……また、きっといいこともあるよ。…」(p.111)きっとまたいいことがあることを待っていてはいけないのだろう。

『戦争とたたかう 一憲法学者のルソン島戦場体験』久保栄正+水島朝穂、日本評論社)
 実際に戦争に参加した久保栄正の証言であり、この書に記されたような体験をすればこそ、そこから出てくる反戦の言葉は重い。本書は水島朝穂が久保にインタビューしてまとめあげたもの。
 戦時中の上官の自己保身ぶり、兵士たちの切り捨ては驚くべきである。特攻は「強制された自殺」だと久田はいう(p.172)。体当たりして死ぬことが自己目的化された。体当たりを否定した佐々木友次伍長は出撃の度に爆弾を投下して帰ってくる。ところが上官の富永中将は「死んでこいといったら死んでくるんだ!」と命令。しかし、出撃の度に生還し、ついには全国紙の一面に「佐々木伍長戦艦に体当たり」という記事が出、故郷に軍神として祭られた。1985年8月21日付けの読売新聞には、今も健在で戦後米作り一筋に生きてきたという記事が掲載されたということである。
 作戦実行の見地からすれば爆撃して帰還するほうが、自爆して飛行機を失うよりもはるかに効率的なはずである。ところが、死ぬことが自己目的化されるようになると、作戦実行の効率よりも大義の方が重要になってしまった。今でもたびたびこれに類した愚行は繰り返されている、と思う。
 旧制高校の生徒は軍人教官を呼び捨てにするなど、自由な雰囲気があったが、旧制高校の生徒は「泥臭い”軍なるもの”」に違和感を感じていた旧制高校の生徒は、バカにしていた軍隊にとられ、前線に駆り出されていくことになる。
 久保が軍隊生活の中でどんどん人間ではなくなっていく様子が鬼気迫り怖い。しかし軍隊の教育がそのようなものであっても、水島は追及の手を緩めたりはしない。久田は将校への道を選ぶがそのことについて水島は「でも、将校になるというのは、兵隊のままでいるのとは異なり、戦争に積極的に協力するという姿勢を明確にしたことを意味しませんか?」というふうにである。
 個性も思想も全て違うはずの人間を「均質な製品」に仕上げるのが軍隊である。そのために徹底した規則優先、管理主義が必要である。
 水島は今日の学校における校則による管理とダブらせる(pp.64-5)。
「(教師は)子どもを管理する対象にしか見ない。個性あふれる生きた人間として見ていない」
「個性を尊重されない、均質的な扱いを受けていると、自分とちょっと違うものを異端視して、排除しようとする」(p.86)

 父は戦争中、予科練に志願して奈良で訓練を受けていた。もう少し戦争が長引いていたら父も特攻機で出撃していただろう。京都に戻ったら両親は栄養失調で亡くなっていた。だから僕は父方の祖父を知らない。
 父が京都に帰ったら親が二人とも亡くなっていたという話は実は僕にはよく理解できないのである。親が死ねば普通は子どもに知らされるだろう。そういうことが許されなかったのか、家族側が連絡しないでおこうと決めたのだろうか。直接父にたずねたらいいわけだが、聞きそびれている。予科練の制服に憧れたというが、今は戦争に強く反対している。話を聞くたびに体験の重みを感じる。亡くなった母が、母の父が空襲の際に焼夷弾を顔に受け、大火傷を負ったという話をよくしてくれた。そんなことはいくらでもあったことなのかもしれないが、戦時であればこそ起こることで、戦争という人為的なことで人が傷つき、殺されるというようなことが繰り返されてはならない、と愚直に思う。

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