夢見る人 


 

 僕はギリシア哲学を学ぶ決心をする前は、日本の哲学者に興味があって努めて読んでいた時期があったが、やがて離れてしまった。哲学を学ぶにはギリシア哲学から始めるしかないと考えたからである。哲学(philosophia)という言葉もその概念もギリシアのものであるから、必ずしも、それが優れているということではないにしても、ギリシア哲学を学ぶことなしに、他の哲学を学んでも意味はない、と思った。このことについては、今もその通りだと思っている。
 三年前の春に思うところがあって、仕事場に三木清の全集の一部を持ち込み、読み返した。その頃の日記やメールに僕は三木清をしばしば引用した本との邂逅にも時期というものがあるのだろう。
 四十八歳で亡くなった三木清は、二十巻の全集を残しているのだが、僕の書斎にはこれだけの本を置くだけのスペースがなくなってきたので、前の家に残してある書斎の不遇な場所にしまいこんでしまっていた。なぜ不遇かといえば、この全集をある日雨漏りのために痛めてしまったからである。本に残された雨の染みの後は痛々しい。
 僕が三木清に関心を持ったのは、後に二十巻にもなる全集を残すほどの多作の三木が構築しようとしていた体系としての哲学ではなくて、二十三歳の時に書いた『語られざる哲学』を読んだからである。若い三木の人生に対する姿勢に共感した。後に、三木の書簡や日記の中に名を残す芹沢光治良の『人間の運命』には、あきらかに三木のことだと思える人物が哲学者としては立派ではあるが、人間としては破綻していることが緻密に描写されていて、僕は愉快ではなかったが、実際の三木がどんな人であったかはわからなくても、それとは関係なく、『語られざる哲学』は僕の心を捉えた。
 三木清はこんなふうにいっている。この世界をこんなものだと決めてかかっている人がいる。そんな人は自分の生活が当たり前だと思っているから、それ以外の生き方をしようとする者があれば、不思議に思いながら嘲笑する。
「彼等が本当に自分自身に生きようとする人、生命の源に立ち返って人生を味おうとする人が悩み、悲しみ、夢みつつあるのを見るとき、彼等は合点が出来ないと云わぬばかりの顔をして大人振った口の利き方をしながら云う、「君達はまだ人生を知らないのだ。現実がどんなものだか分かっていないのだ」
 僕は自分がこんなことをいって恥じない人間にはなっていないことを誇りに思いたい。三木の次の言葉に当時深く納得したものだ。
「しかしながら何故に彼等が、自分の心の奥で味うこともなく単に便宜的に観念してかかったもののみが、人生や現実やの如実の姿としてひとり妥当する権利をもち得るかは私には分からないことだ。寧ろ本当に生きようとする人が体験するところのものが人生であり現実であるのではなかろうか」
「人生に於いて大切なことは「何を」経験するかに存せずして、それを「如何に」経験するかに存するという云うことを真に知れる人はまことに哲学的に恵まれた人である」
 三木清は、また、こんなふうにいっている。
「かくて本当の哲学者は本当に夢みる人である。なんとなれば彼の闇と憂鬱とは意識的にせよ無意識的にせよ永遠なるものと関係しておるのであるからその限り必然的に夢みずにはいられないような種類のものであるからである。無邪気さと純粋さとはそれが如何なる処にあろうともいつでも子供のように夢みている」
 三木に「世なれた利口な人達」は親切そうにいった。
「君はトロイメルだ。その夢は必ず絶望に於て破れるものだから、もっと現実的になりたまえ」
 トロイメルは夢見る人という意味である。これへの三木の答えを僕はずっと覚えていて、もしもそんなふうなことをいわれたら答えようと思っていた。
「私は何も知りません。ただ私は純粋な心はいつでも夢みるものだと思っています」
 たとえ夢が絶望において破れることがあろうと、夢を見るのを止めたくない、とずっと思ってきた。
 三木は人生を砂浜にあって貝を拾うことにたとえている。すべての人は広い砂浜でめいめいに与えられた小さい籠を持ちながら一生懸命貝を拾ってその中へ投げ込んでいる。その拾い上げ方は人によって違う。無意識的に拾い上げたり、意識的に拾い上げたり。ある人は習慣的に無気力に、ある人は快活に活発に働く。ある人は歌いながら、ある人は泣きながら。また戯れるようにであったり、真面目に集めたり…
 この砂浜の彼方に大きな音を響かせている暗い海がある。それに気づいている人もいれば気づいていない人もいる。籠の中に次第に貝が満ちてくるが、何らかの機会に、ふいに籠の中を点検する。するとかつて美しいと思っていた貝が少しも美しいものではないことに気づき愕然とする。一つも取るに足らないものばかりだ。しかしその時、海は破壊的な大波で人をひとたまりもなく深い闇の中に連れ去ってしまう…
「ただ永遠なるものと一時的なるものとを確に区別する秀れた魂を持っている人のみは、一瞬の時を以てしても永遠の光輝ある貝を見出して拾い上げることが出来て、彼自ら永遠の世界にまで高められることが出来るのである」
 広い砂浜は社会、小さい籠は寿命、大きな海は運命、そして強い波は死である。
「かようにして私達には多くの経験よりも深い体験が更に一層価値あるものであることは明らかである」
 死についての三木のイメージがあまりに暗いように前には思ったが、たしかに死はひとたまりもなく人を深い闇の中に連れ去ってしまうものであるということは今はわからないではない。ただそこから先がどうなのかはわからない。三木は治安維持法違反で検挙され敗戦後に獄死した。独房で誰一人看取るものもなく、寝床から転がり落ちて絶命した。1945年9月26日のことだった。時の政府は戦争が終わったにもかかわらず、戦争批判派の釈放を急がなかった。
 死がどのようなものであれ、死を免れることはできないのであるから、うっかり人生がすぎてしまうことがないよう、多くの経験ができなくても、経験を深めていきたい。

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