愛するということ(3) 


 

 個性の説明は「AはAである」ということにつきるのではないか、ということを先に書いた。「あなたは落ち着いている」という説明の「落ち着いている」に相当する部分は、他の人にも適用しようと思えば適用できる記述なので、最終的な説明にはなりえない。そんなことを書いた。他ならぬあなたについては、AはAであるとしか説明がしようがない。
 このような他の人に決して置き換えることができない人に邂逅するのである。森有正は、「二つの独自の存在が、かくも偶然に、そしてかくも必然的に出会うこと、それが僕らの生を底まで汲み尽くす」(『森有正全集』14、p.10)といっている。森は、他の人とは置き換えることができない無二の存在として会うという意味でこの「邂逅」という言葉を使っている。<あなた>に会うのであって、あなたのような人に会うわけではない。
 それでは、人が人を好きになる時に、あなたがあなたであるがゆえに好きになるというのであれば、私とあなたとの関係性とは別に、あなたのことを好きになるということではないか。僕は『アドラー心理学入門』の中で、たしかに僕はこれとは相容れないように見えることを書いた。よいコミュニケーションがある時、好きになるのであって、好きだからよいコミュニケーションができるわけではない、と。
 たしかにコミュニケーションを離れた印象はまちがっていることが多い。講演のアンケートに、最初、僕のことが怖そうに見えたと書いてあって驚いたことがある。話してみたら印象が違うということはあるだろう。相手の個性についていえば、コミュニケーションを重ねるに連れて、最初の印象は、「あなたは落ち着いて見える」だったのが、「あなたは落ち着いている」に変わり、さらには、何かに不意に驚き大きな声をあげ動転する様子を見ても、落ち着いているという印象を覆すことはなくなるということもある。
 三木清はこんなふうに書いている。「私はただ愛することによって他の個性を理解する。分ち選ぶ理智を捨てて抱きかかえる情意によってそれを知る。場当たりの印象や気まぐれな直観をもってではなく、辛抱強い愛としなやかな洞察によってそれを把握するのである」(『人生論ノート』p.147)。個性の理解は(ここで三木は「愛」という言葉を使っているが)このように(愛という)コミュニケーションの中でなされるわけである。「しかしながら愛するということは如何に困難であるか」と、この引用した個所のすぐ後で三木がいっているのは、本当にその通りである。
 森有正の、「二つの独自の存在が、かくも偶然に、そしてかくも必然的に出会うこと、それが僕らの生を底まで汲み尽くす」という言葉だが、すべてはたしかに偶然といえば偶然だが、なぜ他方、それが必然かといえば、邂逅を偶然のものに終わらせるか、必然のものにまで育てることができるかは本人次第だからである。偶然に出会っても、それを必然の出会いにまで育む準備ができていなければならなかったのである。たとえその時、こちら側の準備が完全に整っていなくても、「縁」があれば、邂逅は少しずつ完成してく。
 ●啄同時(そったくどうじ、●は口に卒)という言葉がある。鶏の卵がかえる時、雛が殻を中からつつくのと、時と場所を同じくして、母鶏が外からカラを噛み破るということがなければならないということである。
 人が人と出会うためには、そのきっかけは外からしかこないかもしれないが、会っていても、こちらの側の準備が整っていなければ、邂逅は偶然のものに終わり、意味のある邂逅にはならないということもあるわけである。
 辻邦生が幸田文に会った日のことを次のように語っている(『手紙、栞を添えて』朝日文庫、p.180f.)。この日二人は「人生における”縁”」というテーマで対談をしたのである。辻はこの時五十代の半ばだった。幸田は歯切れのいい清楚な色気のあふれていた。夏の着物を着た幸田は、背をしゃんとしてこんなふうに話した。
「今日は本当によいご縁をいただきました。ただにおりましてはね、私、多分辻さんにお目にかかるご縁はなかったと思いますんですよ。まるで違う世界におりますし、歳もたいへん離れておりましょ。やはり、これは私の七十七の夏にちょうだいした一つの得がたいご縁と思って、それで今日はうかがいましたの」
「ただ」にいては会えないような人にこの人生で出会えたことの喜びを思う。それまでの人生が一つでも違っていたら会えなかったであろうことを思うと不思議である。
 また、邂逅は相互的である。僕は今も藤澤先生のことが強く思い出す。入院中は夢まで見た。僕にとって先生との出会いは邂逅だったと思うが、では、逆はどうだろう、と思わないわけにはいかない。でも、そうだったらいいな、と思えるほど僕は自信がないのだが。手のかかる生徒だったけれど…邂逅は生きる喜びである。
 邂逅がなぜ必然に思えるかというと、そのことによってその後の人生が変わってしまうからである。もしもあの時会わなかったら、と後に思い当たることは多い。僕にとって先生との出会いは邂逅だったと思うが、逆はどうだろう、と思わないわけにはいかない、と先に書いたが、僕自身の経験では教師の立場で学生と邂逅することは当然ある。賀茂忠行は安倍晴明に自分が知ることのすべてを伝えたが、そのありさまは『今昔物語』には「瓶の水を移すが如し」と書いてある。哲学の場合は伝授ではなく、絶えず対話が行われるのであり、その場合、よき対話者を得られたら教える側も不断に学び続けるのである。
 経済学の教科書を丹念に読んだことがあった。『読書術』(岩波現代文庫)で加藤周一は本にはいろいろな読み方があって、そのうち精読する本の例として教科書をあげている。ところで考えてみれば、哲学にはこんな教科書はありえないように思う。たしかに哲学入門という題の本は多々あるし、哲学史の本も出ているのは本当である。しかしくり返し精読するといっても試験に出るので覚えるために読むというようなことはない。大学院の試験に哲学史があったので、たしかにその準備のために時間をかけて同じ本を丹念に線を引きながら読んだけれども、哲学の本を試験のために読んだことはない。書かれている内容を暗記しようと思ったこともない。思うに暗記する必要がないところが僕にとって哲学の魅力だったわけで、しばしば解答に至らない哲学の問いの場合、途中の思考過程こそが大事なので、結論だけを知ってもあまり意味がない。
 そのようなのが哲学なので、基本的には教師が教える立場ではあるが、哲学を教えられた弟子がすぐに師を抜いてしまうということは大いにありうる。もっとも繰り返しいうと僕のことではないのだが。

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