愛するということ(2) 


 

自分をなくすのはおかしい
 人を動かすことのもう一方の極端を考えると、自分をなくして相手に合わせようとする人がある。特異な状況で一時的に自分をなくすということは可能かもしれないが、そのようなことを恒常的に続けることは不可能ではないにしても、困難であろう。
 このように人を支配するわけではなく、かといって、自分をなくして人に合わせるのではなく、もちろん、自分と他者は無関係であると考えるのではなく、自分はこの自分のままでいながら、他者と関わることはできないだろうか。

共鳴(レゾナンス)
 森有正はこんなふうに書いている。
「リールケの名は私の中の隠れた部分にレゾナンスを引き起こし、自分が本当に望んでいるものは何であるか、また自分がどんなに遠くそれから離れているかを同時に、また紛らわせようもなく、明確に、感得させてくれる」(「リールケのレゾナンス」全集4、p.243)。
 あなたが私の中で共鳴するのである。私と、私の中で共鳴するあなたが時空を隔てていても共鳴の妨げにはならない。人間は本質的に孤独である、と森は繰り返しいっている。それにもかかわらず共鳴するのである。

私は私である
 自分の中に相容れないかもしれない二つの心があるように見え、その違う面を見て、人が自分について異なる評価をするということがあるという時、三木清はこのように説明している(『語られざる哲学』八節)。一個の個性は一人の人間でありながら、同時に数人の人間として互いに相対立し矛盾し衝突する心を持っている。だから、個性を分析したり抽象したり記述し、定義しようとしても、個性を説明することにはならない。「あなたは落ち着いている」と記述しても、同じ人の中にそれとは相容れない面があるかもしれず、そういう面を知っている人は、「あなたは落ち着きがない」というかもしれない。また、落ち着いているということは、同時に別の人に適用し得る記述でもあるから、あなたの個性の記述としては十分でないということもできる。
 三木はいう。
「それ故に個性の説明は終局は「AはAである」という云う同一命題以上に出でることが出来ず、個性の評価はそれの全体に向かい得る直観に於いてのみ正当になされると云うことができる」
 あなたを説明しようとすれば、あなたはあなたである、としかいいようがないということである。それ以外の一切の記述は、他の人をも記述し得るわけであり、一般的ではあっても、個性の記述にはなりえない。
「かようにして個性と個性の理解は、語られざる点に於いてではなく語られざる点に於いて深き根底を見出すが如き理解である」
 私のことを好きな理由を問われても答えることはできないことになる。このあたり僕は、中島義道の言葉を引きながら論じた(『不幸の心理 幸福の哲学』p.139)。厳密には人を愛する理由はいうことはできない。そのような理由がなくても、人は人を好きになるのであり、理由を強いていうならばあなたがあなただからとしかいえない。外面的なこととか学歴とか社会的な地位などのような愛する理由がなくなっても「なおそれでも「愛する」ところに愛情物語の神髄はある」(中島義道『哲学の教科書』p. 114)のである。
 若い頃に書いた日記を読み返すと、なぜ僕が哲学に惹かれ心理学に向かわなかったかという説明として、心理学は一般的な私(これは既に語義矛盾だが)を説明しようとするが、私は私であって、私を一般的な命題に解消することは許せないというようなことを書いている。三木はこんなことを書いている(『人生論ノート』p.141)。「私は法則のためではなく例外のために作られたような人間の一人である」
「私は私の個性が一層多く記述され定義されることができればできるほど、その価値が減じてゆくように感じるのである」 

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