愛するということ(1) 


 

私を超える 
「私」を超えることはできるのだろうか。「人が自分のことをどう思っているかなぜ気になるのですか」と学生が講義の後に質問にきたことがあった。こういう質問はなかなかむずかしい。「人に嫌われることを気にしないためにはどうしたらいいですか」なら答えられるかもしれない。実際、講義中にこの質問が出た。しかし上の質問はなかなかむずかしい。「視線を感じて振り返ったらマネキンだったという場合、なんだってほっとするでしょう? でも、それが人だったら恥ずかしいと思う。この違いは何かわかりますか? 私は「他者の他者」として存在するからなのです。私は他の人について何かを感じたり思ったりします。そのように他の人も私について感じたり思ったりしていると思うから、人が自分のことをどう思っているかが気になるのです」
 私は一人では生きているわけではないのである。人はどんなにしても一人であるし、たとえ身体を重ねたところで、人が本質的に孤独であることをどうすることもできない、と考えることができる。
 だからといって人は孤立しているわけではないから、他者との関係を離れて生きることができないのであれば、他者とどんな関係において生きていけばいいのかを考えていかなければならない。
サロメ
 ルー・サロメは誰かある男性と情熱的に接すると、九ヶ月後にその男は一冊の本を生んだ。ニーチェもリルケもである。アリストテレスが神を定義して不動の動者といっている。自らは動かないで、他者を動かす。サロメには定めしこのような魅力があったのだろう。
 ルー・サロメがウィーン精神分析学協会の集まりに出席していたことはよく知られている。ニーチェやリルケと親交のあったサロメを、フロイトは愛情をこめて「詩神」(ミューズ、ムーサ)と呼んでいた(ピーター・ゲイ『フロイト』p.326)。「フロイトは彼女のことが心から好きで、必死に彼女を惹きつけようとしたのだった。やがてサロメはゲッティンゲンでみずから精神分析を始めるが、フロイトには途切れることなく愛情あふれる手紙を送りつづけた。フロイトも彼女のことをますます深く愛するようになった」(ibid. pp.226-7)
愛の証としての仕事
 リルケは、サロメのために、彼の愛の徴として、またよく勉強している証拠として日記をつけ、イタリアの印象を彼女に送る約束をした。この約束から生まれたのが『フィレンツェだより』である。
 ルー・サロメは若いリルケに大きな影響を及ぼした。内面的なことももちろんあるのだが、リルケの筆跡が著しく変化したことが指摘されている(H.F.ペーターズ『ルー・サロメ 愛と生涯』p.335)。ルーに会う前はぐにゃぐにゃした読みにくい字を書いていたが、きちんと正確な字を書くようになった。名前も変えた。ちょっと女みたいとルーにひやかされたリルケは、ルネというフランス語形の名前をライナーと改めたのである。
人が人に与える影響
『ドゥイノの悲歌』第二歌には、古代のギリシア人たちが、我々とは違って自制的でつつましいものだったことが書かれている。力を加えるのではなく、そっと触れ合うことが人の定めである、とリルケは、自制できない自分にいい聞かせるかのように詠っている。
人を支配することはできない
 人と人はこんなふうにしか関わることはできない。人を直接的に動かすことはできないのである。それなのに、他者を支配できると思う人は多い。そのことを意識していればまだしも救いはあるかもしれないのだが。
 力を用いて人を支配するというような場合であれば、誰にでもその人の支配しようとする意図は一目瞭然であるが、一見、わかりにくいこともある。例えば、「私は不安におそわれている」という人はそういうことで、不安を他の人を支配するための道具として使っているのである(アドラー『個人心理学講義』p.122-3、注1、p.12)。そのような人のまわりには、その人を支えている人がいるはずである。
 しかし、だからといって、他者に何らの影響をも及ぼさないかといえば、そんなことはない。サロメとリルケの関係について見た通りである。
 例えてみれば、池に小石を投げ入れると、その時できた波紋はやがて消えてしまって見えなくなってしまっても、影響を及ぼし続ける。人はこのような意味で「全体の一部」であり、世界から切り離されて生きることはできない。
 たしかに見たところ、他の人に関心が内容に見え、あたかも自分だけが生きているようにふるまう人もいないわけではない。世界は自分だけで完結しているかのようである。しかし、そのような人であっても、本当に、他者に関心がない人はないように思う。必要があって、関心がないかのようにふるまうということはある。 〔この稿続く〕

 

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