『母の恋文』(谷川徹三、多喜子) 


 

 谷川俊太郎は、親に反発して親とは別の道に進んだのかと思いこんでいたのだが、どうやらそうではないようだ。父、徹三も若い頃は詩を書き、息子の詩にコメントをしているからである。
「しかし、私の『ことばあそびうた』という、ちょっとノンセンスな語路合わせみたいな詩は認めなかった。やっぱり哲学者は意味というものにこだわるんだなあと思った」(谷川俊太郎、長谷川宏『魂のみなもとへ』近代出版、p.3)
 こういうことは当然あるだろう。
 子どもも父親を厳しい目で見ることはあっただろう。
「哲学者も詩人も、書くもので読者に評価されるが、読者であると同時に身内でもある人間は、書くものだけで評価しない。哲学者も詩人も、身内には毎日の暮らしの中でのその人となり、行動によって評価されるのは致しかたのないことだろう」(p.4)
 谷川はここで哲学者だけでなく、「詩人も」と書いているから、一方的に父親のことだけを念頭に置いているわけではないだろうが、ソクラテスを引き合いに出し、立派な死に方をしたということだが、妻や子どもにとってよい夫、父親であったかはうかがいしれない、といっている。
 谷川の父、徹三と母、多喜子の往復書簡集が『母の恋文』(新潮社)という題で出版されている。残された膨大な手紙のおよそ四分の一が収録されている。二人の熱っぽい恋文…その中に、たしかに詩や歌がたくさん書いてある。
 相思相愛の二人だが、会えないことの不満、嫉妬などが率直表明される。徹三は思いが高じて病の多喜子への欲望(手紙の中ではフランス語desirという言葉が使われている)を抑えることができない。ところが多喜子は結核に感染していて、キスすら避けようとする。それでもあなたと同じ病気になるのなら嬉しい、と徹三は押し切るのだが、一度二人が心だけではなく身体をも許しあうようになるともう何も二人を止めるものはない。
 とりわけ印象的なのは、多喜子から徹三へ宛てられた「三十年後の手紙」。このような書簡が公開されたことに驚いた。徹三の心が多喜子から離れ別の女性へ向かっていったことへの悲哀と傷心、それでも今なお衰えぬ多喜子の性欲が赤裸々に語られている。この種の日記や書簡集からはおそらくこの種の記述は割愛されるのではないか、と思える内容もそのまま掲載されていることに驚かないわけにはいかない。
 ことに三年後に多喜子が徹三へ宛てた手紙には、なぜこれほど愛し合った二人なのにやがて部屋を別にし、セックスをもあまりしなくなったかという経過が書かれている。思春期の俊太郎の前で性の匂いをさせてはいけない、というのが一つの理由だが、それだけではない。
 多喜子は別の部屋で寝る時自分で慰めることを覚えた、と書いているように、性欲が減じたわけではない。徹三が共に暮らしている別の女性への思いもある。また、徹三が求めても「不思議なことにあれほど一人であなたを思いながらいい気持ちになれるのに、痛さが先にきて、いい気持ちになれない始末です」といっている。これらのことを率直に多喜子は訴える。
「この頃少しくどくこんなことばかりいってあなたはいやにお思いになると思いますが、私はまったく、あなたと俊太郎に対する愛の生活以外何もないのです。許してほしいです」
 晩年の多喜子の写真を見ると幸せそうな表情をしている。
 本書の題名は正確には『父母の恋文』と題すべきだが、あえて、『母の恋文』にしたことの理由を谷川俊太郎は次のように語っている。
「父は仕事一本槍の人間でその書き物も多少は人に知られているが、母は父のかげに隠れて一生を終えた人である。だが父に対する母の愛情は、父の母に対するそれよりもはるかに苦しみ多く、深いものだったのではないかと思う」
「哲学・詩・哲学2」の中で、林達夫が「三木氏といい谷川徹三氏といい、そして少し飛び離れるがプラトンといいデカルトといい—私の親炙している哲学的精神はみんな詩人としての知的出発点を持っているのは興味のないことではない」(「三木氏の魅力」『林達夫セレクション3』平凡社ライブラリー、pp.344-5)と書いてあることを紹介した。
 ここで三木清の名前に並んで谷川徹三の名前が言及されているのはたまたまのことではない。三木と多喜子との恋愛事件については、林のエッセイで初めて知った。三木はこのことで京都大学の教授のポストを得ることができなくなった。
 今、手元に『母の恋文』を持ってないので確かめられないが、この本にはこのことは書いてなかったように記憶する。どの家庭にも他人がうかがい知れぬ秘密があっても不思議ではない。 

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