哲学・詩・宗教


 

 僕はギリシア哲学を学ぶ決心をする前は、日本の哲学者に興味があって努めて読んでいた時期があったが、やがて離れてしまった。哲学を学ぶにはギリシア哲学からはじめるしかないと考えたからである。哲学(philosophia)という言葉もその概念もギリシアのものであるから、必ずしも、それが優れているということではないにしても、ギリシア哲学を学ぶことなしに、他の哲学を学んでも意味はない、と思った。このことについては、今もその通りだと思っている。
 ギリシア哲学を学び始める前は、西田幾多郎や三木清など日本の哲学に関心があった。その後、カントのものを読んだりしたが、その頃、森有正にも関心があった。森有正は、東大の助教授だった時にパリに留学した。そして、そのまま東大教授のポストを蹴り、パリに住みつくことになった。渡仏後森が書くようになった「あの思いがけない叙情的な、そして心理的にきめ細かい、旅行記風の哲学的考察の文章」(中村真一郎「仏文教室の森さん」全集1所収、森有正をめぐるノート1)に僕は強く惹かれた。当時、講師だった中村はこの森の書くものの変化について、「魂の内奥に至るまでの全面的組みかえという操作」と形容している。森の文章に行きわたっている「叙情」が女性の影響によるものかどうかは(小川国夫、前掲ノート)さしあたって、僕の関心にはなかったのだが、僕にもきっとこのような操作が必要なのだろう、とその頃思ったものである。
 ところがギリシア哲学を専攻し、ギリシア語の文献を読むことに日々の時間の大半が費やされるようになると、森有正への関心は、急速に失われてしまった。森の書いた『バビロンの流れのほとりにて』のような書簡体のエッセイは、哲学とはいえないと思った。かくて森有正の全集も三木清の全集と同じくすぐには目につかない本棚の奥へと押しやられることになった。やがてギリシア哲学に没頭し、プラトンやアリストテレスの文献をギリシア語で読む厳しい訓練を受ける日々が続いた。三木清のような日本の哲学者も森有正ももはや省みる余裕はなくなった。
 ところで西田幾多郎や三木清はたくさん歌を残していることも僕は知っていた。人生や世界について語るのは哲学だけでないということも知らないわけではなかった。西田幾多郎は数学に入るよう勧められた。しかし、乾燥無味な数学を一生学ぶ気にならず、能力があるか自信はなかったが、論理的能力のみならず、詩人的空想力を必要とする哲学に入ったといっている(『続思索と体験』)。数学を学んでいる人にとって、数学についての西田の批評があたっているのかはわからないのだが、西田にとってはどんな問題も、ただ論理の問題として考察されたわけではなかったのである。
 こんなこともあった。僕が師事していた藤澤令夫の先生にあたる田中美知太郎の『哲学初歩』を読むと(このことについては『不幸の心理 幸福の哲学』p.148以下で論じた)、哲学は本来、具体的なものである、と書いてあり、説明は単純明解だったが、そんなことも知らずに哲学を学ぼうとしていたことに恥じ入ってしまった。世界とその中で生きる人を正しく理解するためには、現実的な諸条件を抽象することなく、具体的に見ていかなければならないのである。
 もしも哲学にそのようなことが求められているとするならば、哲学者が歌を詠むことは決して特異なことではないし、一見、哲学の領域を超える宗教の言葉を使うことも許されるであろう。 

 林達夫がこんなことを書いている。
「三木氏といい谷川徹三氏といい、そして少し飛び離れるがプラトンといいデカルトといい—私の親炙して いる哲学的精神はみんな詩人としての知的出発点を持っているのは興味のないことではない。彼らが哲学者になったのはミューズたちから見離されたではなくし て、逆に彼らの哲学が人を惹きつけるのは、その思想の背後に絶えずミューズたちが唄っているからでからとも言えるであろう。三木哲学の魅力には、だからど こかしらミューズ的なものがあるというわけだ」(「三木氏の魅力」『林達夫セレクション3』平凡社ライブラリー、pp.344-5)
 ここに名が上げられている谷川徹三は、谷川俊太郎の父である。
「生まれ落ちたときから、うちには哲学者が一人でいた。だから哲学者がどういう人間かは知っている」
と谷川俊太郎は書いてある(『魂のみなものとへ 死と哲学のデュオ』谷川俊太郎、長谷川宏、近代出版、p.2)
 父は若い頃は詩を書いていた。息子、つまり谷川俊太郎が詩を書き始めた時、すすで欄外に寸評をメモしたりもした。他方、息子は父が書いたものについてこんなふうに書いている。
「ところで、私はうちの哲学者の書いた文章が気に入っている。難しい哲学用語を使っていないからだ」(p.4)
「哲 学者も詩人も、その考えや表現の根っこを毎日の生活に下ろしているのである。プラトンの言うイデアという考えだって、いきなり空中に出現したのではないだ ろう。日常のうちに生きながら、日常を超えたなにものかに向かおうとするところに、哲学者と詩人の接点がある。それを他者に伝えるのに、難解な哲学用語や 詩語は必ずしも必要ではないと私は思う。魂のみなもとを探ろうとする心はどんな人間にもあるのだから」(p.5)

 林が言及する三木清が 『幼き者の為に』というエッセイを書いている。林は「彼の筆になったもののうちでは最も美しいものの一つであった」といっている(林達夫、前掲書、 p.345)。これは七歳で母親を亡くした娘の洋子さんに宛てた手紙である。僕は最初に掲げられたカリマコスの「ここにアカンティオスのディコーンの息 子、サオーン聖なる眠りを眠れり―善き人々は死せりというなかれ」というギリシア語に惹かれたが、この中で「因縁というものについて深く考えるようになっ た」と書いていることが僕の注意を引いた。
 娘の洋子さんは、母親が死の床にあった時、伊勢にいた。いよいよ絶望的だということで、祖母が夜行で 東京へ連れ帰ることになった。ところが、前夜、非常に元気で汽車に乗ったのに、朝六時過ぎ、突然顔面蒼白になって祖母をひどく驚かした。ちょうどその時 分、母の魂はこの世を去ったのである。前の晩、母は看護婦にいった。私は西国へ行くのだし、洋子は東へ来るのだから途中で会うはずである、と。
  若い頃この話を読んだ時には、哲学者がこのようなことを書くことを意外に思ったのだが、今は違ったふうに思えるようになった。僕自身が母を亡くす経験を し、僕自身も死の淵から生還するという経験をしたからかもしれない。母は49歳で脳梗塞で亡くなったのである。この年、僕は大学院でギリシア哲学を本格的 に学び始めようとしていたのが、思いがけずも、人生の大きな転機を迎えてしまった。
 三木は、私には浄土真宗がありがたい、おそらく私はその信仰 によって死んでいくのではないか、と書いている。獄死後、疎開先から「親鸞」と題するノートが発見されている。こんなことも当時は僕の理解を超えていたの だが、今は三木の胸中がわからないわけではない。僕は三木の歳を超えてしまった。
 プラトンも時にミュートス(物語)をソクラテスに語らせている のである。それに何よりも豊かな文学的才能をも持ったプラトンは師のソクラテスを登場させる対話篇を書いているのである。今日、哲学者がこのような対話篇 を書くことは皆無とはいえないけれどもまずないだろう。このことに思い当たった時、僕は哲学についての見方を大きく変えないわけにはいかなかった。哲学は ただ論理だけのものだけではなかったのである。
 こんなことを考えて少しばかり混乱し始めていた頃、僕はあなたに会った。  

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