母の愛、父の愛 


 

 藤澤令夫先生が亡くなってから、母のことをよく思い出すようになった。母は四十九歳で亡くなった。もちろんそれまで思い出さなかったということではないのだが、よく見ていた母の夢も次第に見なくなっていた。ギリシアの墓碑には、目の前にいながら、既にこの世を去った人であることがわかるものがある。この世で愛したであろう人の前にいるにもかかわらず、視線はあらぬ方に向けられている。夢に見た母もそうだった。
 フロムが、母親の愛についてこんなことを書いているのを読んで、母のことを思った。私は母親の子どもだから愛される。無力だから愛される。「私は今のような私だから愛される…私が私だから愛される」(『愛するということ』p.66)。その愛は無条件であり、愛されるためにしなければならないことは何もない。しなければならないことといえば、生きていることだけである、そうフロムはいう。
 それなのに、僕はこの母親から愛されていると意識していなかった。三十代の初めの頃、そのことに思い当たり、今さらながら母がいないことに思い当たり、数少ない僕の味方を失ったという強い喪失感におそわれた。
 父親の愛はこれとは違う、とフロムはいう。父親は母親とは違って条件をつけるというのである。この点については異論がある。僕は教師をしていても、あまりこの意味で父親的ではなかったかもしれない。奈良女子大学で僕はギリシア語を教えていたが、たとえ学生ができないからといって、見捨てるなどということは一度もなかった(できない学生はいなかったのだが)。
 フロムのいうことを何気なく読むとそうかと読み過ごしてしまいそうだが、そしてフロムは触れていないのだが、子どもがしなければならないことといえば、生きていることだけであるということであれば、親よりも先に亡くなる、あるいは、この世に生まれる前、あるいは直後に亡くなる子どもは親不孝ということになってしまうだろう。
 しかしそんな状況に置かれた親とて子どもをそんなふうには見ないだろう。僕には生まれてすぐに亡くなった弟がいたが、母がその頃毎日泣き暮らしていたことはよく覚えている。
 西田幾多郎が、子どもを亡くした時に詠んだ歌がある。
すこやかに二十三まで過ごし来て夢の如くに消え失せし彼
 この歌を読んだ時、僕は涙を抑えることができなかった。僕が中学校二年生の時、交通事故にあった。バイクと正面衝突したのである。その事故のことを母が職場の父に電話で告げた時、父は最初の母の声を聞いて僕が死んだと思ったと後に語ってくれた。母が弟(僕の叔父)を亡くした時も、母は父に電話をした。その時、僕は隣にいたのでよく覚えているが、母は叔父の名前をいっただけで後は言葉にならなかった。あれから四半世紀が経ったのに、今もその時の母の声が耳に残っている。
 生きているというのはいつもこんなぎりぎりのところで考えていかなければならない。亡くなった人を不孝者とは決していわないだろうし、まして、生きているのであれば、条件などつけることはないだろう。生きているということですでにどんなにありがたいことなのかと思う。だからこそ、いっそう、生きていることを確認して生きたいと思うのである。しかし生きているのがすべてであるのに、それ以上のことを求めてしまうのだが。
 フロムが父親の愛は母親の愛とは違って条件つきであるといっていることについては先に少し触れたのが、父との関係を振り返ってみてあまり思い当たらない。「私はおまえを愛するのは、おまえが私の期待にこたえ、自分の義務を果たし、私に似ているからだ」(p.71)。たしかに僕は父の期待にはこたえてこなかった。期待にこたえなければその愛を失うが、父の愛を失うことは恐れたことはなかったのである。父親の愛の肯定的な側面は、条件つきで、何もしなくても愛されるのではなく、それを得るために努力するというところである、とフロムはいうが、努力はしたが、父に提示された条件を満たそうと思ったことはない。
 母親的とか父親的というふうにラベルをはるのは僕は賛成できないが、自分の中に二つの側面があるというのはフロムがいうとおりかもしれない、と思う。母親的良心はいう、「おまえがどんな過ちや罪を犯しても、私の愛はなくならないし、おまえの人生と幸福にたいする私の願いもなくならない」。父親的良心はいう、「おまえは間違ったことをした。その責任を取らなければならない。何よりも、私に好かれたかったから、生き方を変えなければならない」(p.73)。おそらく、僕は人には前者であり、自分に対しては後者なのだろう。自分へは要求水準が高い。ありのままの自分を認めることができない。無批判にそのままのあなたを受け入れることができるというのに。 

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