成熟した愛 


 

 大雨や台風の被害の記事は読むと胸が痛む。一方で猛暑の日々が続くのに、他方では豪雨というのも異常気象なのだろう。僕の家は浸水したのであって、氾濫した川に家が押し流されというようなことはなかったのだが、深夜に(昼間ということがなかったのが不思議である)水かさが増してきて、いよいよもうだめだとわかると、おおいそぎで家具やたたみ(濡らすわけにはいかない)を二階に運んだ。僕の記憶ではその二階まで浸水したことがある。その時は近くのビルに避難したが、家が流れていくのを見たのをよく覚えている。
 このように家が浸水した時に何が一番必要かといえば、他でもない、水で、飲み水としても必要なことはいうまでもないが、物を運んだ時に手が汚れてもそれを洗う水すらないというのでは困るので、水の確保は重大問題だった。とはいえ、当時、井戸水に頼っていたわが家はポンプが使えなくなるので容易なことではなかった。
 このようなことがあると、本当に必要なものは、お金ではないのだ、と痛感したものである。子どもの頃のことで僕のライフスタイル(性格)の形成に影響を与えたことの一つかもしれない。お金も、名誉も重要なことではないのだということはその後の僕の人生では母が病気で倒れた時に、もう一度強く思い当たることになる。『アドラー心理学入門』に、「母は亡くなり、看病のために数ヶ月大学に行けませんでしたが、やがて私は復学しました。しかしもはや以前の私ではありませんでした」と書いたのは誇張ではない。
 今回の心筋梗塞の後、この時に感じたことをさらに強く感じた。死んでいたらこれはいらなかったはず、と奇異なことを思って、たくさん書類を捨てた。本は捨てるわけにはいかないので、さしあたって読むことはないであろう本を前の家の書斎に移した。
 しかし移した本と同じだけの本を退院後早くも買い込んだ。もちろん、買っただけではなく、かなり読んだのも本当だが、物の所有にはあまりこだわらなくなったと思っていても、本への執着は今も昔も変わらないともいえる。コンピュータも同じである。それらが知的生産の道具である、と割り切れきれたらいいのだが、本を得るための出費が家計を圧迫するので、本が物であるという感覚はなかなか捨てられない。

 フロムはこんなふうにいっている。「ひたすら貯めこみ、何か一つでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的にいえば、貧しい人である」(『愛するということ』p.45)。しかし、貧困がある程度を超えると、与えることができなくなる。与える喜びを奪うことになる、とフロムは指摘する。そういうことはあるかもしれない。
 しかし、与えることのもっとも重要な部分は、物ではなく、人間的な領域にある。物ではなく何を与えるのか。「自分自身を、自分のいちばん大切なものを、自分の生命を、与えるのだ」(p.46)。生命を犠牲にするという意味ではなく、自分の中で息づいているものを与えるということである。「自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているもののあらゆる表現を与えるのだ」(ibid.)。何気なく書かれている「悲しみ」という言葉に僕は注目する。「このように自分の生命を与えることによって、人は他人を豊かにし、自分自身の生命感を高めることによって、他人の生命感を高める」。与えられる立場に立った時よくわかるのだが、与えられる時(それが悲しみであれ)どんなに自分が苦しんでいても、力が漲る思いがする。だから逆の立場の時は、フロムがいう意味で僕の生命、僕の中で息づいているものを与えられたらと思う。
 子どもは母親に愛されるが、母親の子どもへの愛は無条件であるから、子どもの側は愛されるためにしなければならないことは何もない。この経験は受動的なものである。このことの否定的な側面は、愛されるに資格はいらないが、それを獲得しよう、作り出そうと思ってもできるものでもないということである(pp.66-7)。
 やがて、自分自身の活動によって愛を生み出すという新しい感覚が生まれる。何かを贈ったり、詩や絵を作り出すことを思いつく。「生まれてはじめて、愛という観念は、愛されることから、愛することへ、すなわち愛を生み出すことへと変わる」(pp.67-8)
 さらに思春期になると、愛されるために、小さく、無力で、また病気であったり、良い子であったりするというのではなく、愛することを通じて、愛を生み出す能力を自分の中に感じる。フロムは次のようにいう。
「幼稚な愛は「愛されるから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。未成熟な愛は「あなたが必要だから、あなたを愛する」と言い、成熟した愛は「あなたを愛しているから、あなたが必要だ」と言う」(p.68)
 さて僕は成熟した愛を生きているのだろうか。 

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