愛は燃え尽きない 


 

「持つ」(to have)ことと「ある」(to be)こと
 エーリッヒ・フロムは、西洋の言語において、動詞よりも名詞が使われるようになったことの一つの例として、「愛」という名詞は、愛するという活動を抽象したものにしかすぎないのに、人間から切り離されて、実体化された、と指摘する。活動や過程を「持つ」ことはできない。それらは、ただ経験することができるだけである。愛を持つというようなことはなく、愛を経験するだけである。その経験は不断にいわば流れるものであり、刻々に変化する。一度この人への愛を持てばその人への愛は成就するというわけではない。いつもリアルタイムで変化していくものであるから、常に愛を(正確には愛というプロセスを)更新していく努力が必要である。

 フロムは、人間が生きているうえでの二つの基本的な存在の仕方、すなわち、「持つ」(to have)ことと「ある」(to be)ことを区別している。母が脳梗塞で倒れた時、僕が思ったのはフロムの言葉を借りるとこんなことだった。こんなふうに動けなくなった時に、名誉もお金も「持って」いても何も意味もないではないか、と僕は思った。「もしも私が持っているものであるとして、そして私が持っているものが失われたら、その時、私は何ものなのか」(To Have or To Be,  p.96)。

 しかし、とフロムはいう。「ある」様式においては持っているものを失う心配も不安もない。なぜなら私は持っているものではなく、「ある」ところのものだから。「持つ」ことは減るものにもとづいているが、「ある」ことは実践によって成長する。費やされるのに失われない。フロムが「燃えるしば」に言及しているのは興味深い。燃える柴は燃えてもなくならない。「見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない」(『出エジプト記』3.3)。

 もしも持っているものであれば、あらゆるものを持とうとするであろうし、持った(と思った)ものを失うことは自分が自分でなくなることを意味することになるだろう。母は身体が麻痺した状態で病床にあった時、母ではなくなったのか。もしもフロムのいうもう一つの存在様式である「ある」ということを考えれば、違った見方ができる。

持つことに執着しない
 持つことに執着することをやめればどんなに楽だろうと思う。生命(正確には、生きること、living)は所有できない。そのように考えれば、それは持てるものではないのだから、失う恐れもない。

 ソクラテスの流れをくむ犬儒派と呼ばれる哲学者の一人、ディオゲネスは、何も持たず酒樽の中で暮らしていた。それでも水を飲むために茶碗を持っていたのだが、ある日、子どもが川の水を素手ですくって飲んでいるのを見て「私はこの子に負けた」と、その茶碗まで捨ててしまった。僕は母が亡くなった時、名誉も何もかも捨ててしまったはずなのだが。

 もしも子どもに負けたからといって持つのをあきらめるというのでは、「持つ」から「ある」へ移行したことにはならないだろう。捨てるのは惜しいというのではない。また、与えることは持っているものをなくすということではない。自己犠牲でももちろんなく、与えることが(その同じものが返ってくるわけではないが)受けることであり、喜びであるというような逆説が成り立つような対人関係をフロムは考えているように思う。

愛は燃え尽きない
 しかし、そもそも初めから、僕が何も持っていなかったら、怖れることはなかったはずなのである。フロムはこんなことをいっている。「もし私が私の持っているものであるとして、もし持っているものが失われたとしたら、その時の私は何者なのだろう…私は持っているものを失うことがありうるので、必然的に、持っているものを失うだろう、とたえず思いわずらう」(『生きるということ』p.153)。知識ですら「持っている」と思えば、失うことを怖れることになるだろう(まだ、書くほどには考えが熟していないが、知は「もの」ではなく「こと」である)。

 しかし、持っているものを怖れる不安や心配は、「ある」様式には存在しない、とフロムはいう。「もし私が、私があるところの人物であって、持つところのものでないならば、だれも私の安心感と同一性の感覚を奪ったり、脅かしたりはできない」(p.154)。

 フロムが次のようにいっていることが僕の注意を引いた。「持つことは、何か使えば減るものに基づいているが、あることは実践によって成長する」(ibid.)。燃えてもなくならない「燃えるしば」は、聖書におけるこの逆説の象徴である。モーセが神の山ホレブにくると、ヤハウェの使いが、めらめらと燃えている柴の中でモーセに現れた。よく見ると不思議なことに、火が柴をなめているのに、柴は燃え尽きなかったのである(『出エジプト記』3.1)。「理性の、愛の、芸術的、知的創造の力、すべての本質的な力は、表現される過程において成長する」(ibid.)。愛は燃え尽きない。 

トップに戻る