私としての生き方


 

 父が働いていた頃は、55歳で定年だった。幸い、その後10年関連企業で働いたのだが、55歳は当時でも若いと思った。僕も50歳で定年を迎えたと思えばいいのだろう、と入院していた時思ったものだ。そんなことは誰も許してくれないだろうし、何よりもせめて本を書くことができたらずっと自宅療養になっても構わない、とひどく悲観的になって岡田先生に笑われた頃の僕は誰とも違う人生を送ることになってもいいと思った。
 みんなできることは違うのだから、私は私としての生き方を頑張れたらいいと思う、という若い友人の言葉を思い出した。たしかに、自分は自分の人生しか生きることはできない。矢野顕子の「Happiness」という歌がある(岸見一郎『不幸の心理 幸福の哲学』p.217)。他の人が幸福に見えたので、その人に代わってみたが、幸福になれなかったという歌である。幸福に見えることではなく、実際に幸福でなければ意味がない。
 こんな話になったのは、僕が「できることから始めよう」という話をしたからだった。私としての生き方を頑張れるために、できることから始める。つまり、できることからしか始められないことでもある。僕はこのことについて『アドラー心理学入門』の中で書いた。
 そんな私としての生き方を始めた時、まわりの者は誰も止めることができない。
 鶴見俊輔がある文脈の中で「重大な決断の底には必ず深いものがあって、知的な命題に換えられないんです」(『同時代に生きて』岩波書店、p.50)といっているのが僕の注意を引いた。傍から見れば無謀であったり無思慮に映るようなことも、本人にとってはきっと深い意味がある。僕が哲学を専攻するといった時父は反対し母に止めさせるようにといった。母は父の言葉を聞いて答えた。「あの子がすることはすべて正しい。だから見守ろう」(『不幸の心理 幸福の哲学』pp.129-30)。僕は母の期待に反してそれまでもその後も正しくないことをたくさんしてきたが、僕の決断を止めても無駄なことを母は知っていたのかもしれない。
 シュヴァイツァーについてこんなことを書いた(p.191)。シュバイツァーが突然アフリカに行く決心をした。アフリカの人を助けるために、もう三十代になっていたが、医学部に入学した。医学的な興味というより、人道的見地からだった。
 神学生だった時、帰省中の床の中で一つの決心に達した。「30歳までは学問と芸術に生きることが許されている、と考えよう。それから後は、人間として直接、人に奉仕する道に進もう」。実際、大学で神学と哲学を学び、神学博士になり、26歳で大学の講師になっている。またオルガン演奏でバッハの研究で名を成し、哲学の分野ではカント哲学の研究もすぐれたものがあるが、先の決心どおり、30歳になった時、赤道アフリカ地方での黒人の窮状を知って奉仕に一生を捧げようし、医師になり、ラムバレネの水と原生林のはざまに病院を建て、奉仕活動を始めたのである。
 どうして先生は止めなかったのですか、とシュバイツァーの相弟子がビドル先生(オルガンの先生)にいったら、先生は両手を開いていった。「神さまが呼んでいるらしい。神さまが呼んでいるというのに、私は何をすることができるか」。こんな仕事のことを天職という。英語、ドイツ語ではcalling, Beruf.神に呼ばれるとか、呼び出されるという意味である。
 ギトンが天職と野心について次のように区別している。いつもこれは天職なのか、野心なのかを問うことは必要だと思う。
「野心は不安です。天職は期待です。野心は恐れです。天職は喜びです。野心は計算し、失敗します、そして成功は、野心のすべての失敗の中で最も華々しいものです。天職は自然のままに身をゆだね、すべてが彼に与えられます」(ギトン『私の哲学的遺言』p.311)
 僕が母の病床でずっと考えていたのは、先に書いたことだが、ひとつはこのような状況においても人は自由でいられるかということ。もうひとつは、こんなふうに身体が動かなくなった時でもなお自分がそれまでの人生においてしてきたことが、意味のあることだったと思えるかということだった。
 僕は哲学を学ぼうとしたそもそもの目標を見失いつつあったことに気がついた。僕はギトンの言葉を借りるならば、野心にとらわれていたのである。お金とはこれからも縁がないであろうことはよくよく承知していたつもりだが、なお名誉には未練があった。しかし、そんなことも末期の身にあっては何の意味もない。母と共に入院していたといっても過言ではない三ヶ月の闘病生活の後、母と共に病院を後にした僕はもはや以前の僕ではなかった。