生還記(8) 


 

2006年4月29日土曜日
 2004年の2月9日の日記に、僕はこんなことを書いている。「夢の中で足がひどく重くなって歩けなくなることがある」。立ち止まって、一体どうしてしまったのだろうと思う。この時、僕はこの夢は、かつて捻挫したり骨折した足の痛みのことを指しているのだろう、と思った。しかし、今になって振り返ってみると、一種の予知夢なのかもしれない、と思ったりもする。あるいは歩けなくなって蹲った時ふと思い出したという意味では一種のdeja vueといえるかもしれない。
 大学院の時の友人が夢に現れる。彼が教授になったことについて「よかったね。おめでとう」というと、いつもクールな彼はこういうのだ。「本当は君はそんなことをいうつもりはないのだろうね」。こちらにきてから時間だけはたっぷりあるので本をあれこれ読んでいるのだが、今読んでいるPaul AusterのThe Invention of Solitudeに彼が研究していたドイツの詩人ヘルダーリンの話が出てきて、朝方の夢を思い出した。一体、僕は何というつもりだったというのか。
 25日夕方の岡田医師との話の続き。「まあとにかく静かにしていてください」という主治医の言葉を僕はかなり厳格に守っていると思う。メンタル・ストレスが一番いけない、といわれる。
 僕も今の仕事をしていていつも感じるのだが、無理をしないで、といっている当の本人が一番無理をしているという現実。岡田先生は、後進を育てたいが、24時間態勢、絶えず待機していなければならないこの仕事を引き継ぐ人が少ないといわれる。
「医師になりたての頃からずっとこのオペをし続けて、私もいつまでも若いと思っていたが、いつのまにか25年が経ってしまった。たしかに学生の頃は、私も哲学の本を読み、興味を持っていたが、そんなこともできなくなってしまった。たしかに大変だが、だからといってしんどいからしないというようでは困るのです」
 僕と話しているはずの先生はいつもどこか遠くの方を眺めて話される。
「心筋梗塞は怖い病気です。愛する人の前で、その場で死亡宣告をしなければならないこともあります。たしかにあなたは助かりましたが、失ったものもたくさんあるのです。
 運命のようなものを感じないわけにはいきません。どこで倒れ、どの病院に運ばれたか、救急車を呼ぶタイミングが遅れたとか、救急車が渋滞に巻き込まれてしまって、そのために治療開始が一時間遅れたとか…そんなことが生死を決めてしまうのです」
 先生は「時の運」という言葉をしばしば使われる。
 僕はこれまでの人生を振り返って強運だと思ったことはないのだが、心筋梗塞で倒れたことは不幸なことだったとしても、19日の朝に自宅で倒れたことは幸運だったと思う。講演先のアバディーンで心筋梗塞に倒れたアルフレッド・アドラーの二の舞いを演じることになっていたかもしれないのである。アドラーは救急車の中で息絶えた。19日以前の日記を読み返していると、今回の「大きな最初の発作」(岡田先生)に先行して何度か発作を起しているのがわかる。しかし、その時ではなくて、19日の朝に、今のこの病院に運ばれ、岡田医師にオペを手がけてもらわなければならなかったのである。もちろん、後進の若い医師を先生が育てられていることは知っているが、学会出張で不在で他の先生によるオペであればまた違った結果が出たかもしれない。
 23日くらいからノートにメモや断想を書き留めていたのだが、手書きはたいそう疲れた。読みなおそうにもほとんど判読不可能である。その頃はまだ身体が今ほどには回復していなかったこともあるだろう。その後、キーボードで打てるようになってからはほとんど力が要らないのでありがたい。それでもiTunesで音楽を聴くためにコンピュータを持ち込んだが、最初はキーを叩く気にはなれなかった。Audio Expressというプログラムを持っているので、声を録音したこともあった。三回に分けて30分くらい入院した時のことから始めて話したが、これはだめだった。一つにはその頃は声を出すだけの力が十分なかったということ。そして、まだ入院後日が浅かったので、入院時の話をすると落ち込んでしまったのである。今は、キーボートを叩いていると疲れないわけではないが、もしもそうしていなければ、制限回数を超えて歩いてしまいそうであり、そのことが確実に負担になるのがわかっている。ようやく室内を歩けるようになったので部屋の戸を開けてみたら廊下があった。反対の並びにも病室があるかと思っていたらなくて、窓から遥か遠くの山まで見渡せるのである。早くこの廊下を歩きたい。逸る心を抑えて安静に努め、養生したい。
 岡田先生は続けてこんな話をされた
「なぜ私がという被害者意識が出てくるのです。他の人は呑気にやっているのにというような」
 あの時、死んでいたかもしれないのだから、今こうして生きているだけでありがたいことなのだが、休職を保障されているわけではない自由業の僕としては失ったかもしれない仕事のことを思うと、先生がいわれるような気持ちになることはありうるだろう。いや、最初に書いた四月に教授になった友人の夢を思うと、既にそんなことを思ってしまったのかもしれない。仕事のことは、今は考えないようにしている。
 1時過ぎに父がきた。一度自宅によってから妻と車できた。さやはちょうど出かける時眠り込んでいてこなかった。年老いた父にこんなふうに会うのはなかなか辛いものがある。状態を伝えると、心臓カテーテルの検査、治療経験がある父は「私とは違う。ずいぶんと重い」とうなっていた。昔から心配のかけ通しである。
 ようやく夕食の時間である。空腹でくらくらする。ここでは何事も急いではいけない。わずかな量の食事を一人で黙って食べると10分もかからない。食べたら後はまた長い夜が待っている。一日あたり1600kcal。減塩食(7グラム)である。水分も制限されていて一日1000ml。この分ではこの先、一生外食できないのではないかと思ってしまう。
 夜、退院後のことについて僕の担当看護師である北原さんとしばらく話しこんだ。ニトロの服用の仕方について教えてもらった。狭心症には効果があるが、心筋梗塞にはさほどではないという考えもあるが、退院時に処方されるようである。仕事の復帰の話も少し話題になったが、これについてはまだ考えないでおこう。リハビリのプログラムを律義に守っていることを認めてもらっていてよかった。人によっては胸の痛みがなくなったということで、勝手に出歩いたりするというようなこともあるらしい。「そんなことをいわなくてもわかってられるでしょうからいいませんでしたけど」。血管が壊死してもろくなっているので、心臓に負荷をかけると血管が破れることもあるという話は怖い。
 パリとロンドンの話は楽しかった。「モナリザの写真、たくさん撮りました」「僕もです。でも、今は規制されているみたいですよ」といった他愛もない話。「また行けますよ」という言葉に励まされた。