生還記(29) 


 

2006年5月20日土曜日
 朝、部屋の片づけ。まだ体力がなくて、疲れるので休み休み少しずつ本を鞄に詰め込んだりしていると、救急病棟で二回話をした(名前は知らない)看護助手さんがふいに部屋に入ってこられる。「覚えてます?」とたずねられるので「もちろん」と答えた。「こっちにきたはったんやね」「〔病棟を変わるのは〕突然だったんです」「一月くらいになりますね」。よく憶えてくださっていてうれしい。今朝の病棟は忙しかったようで、中西看護師を別にすればこの方以外とはほとんど言葉を交わせなかった。 
 やがて妻が迎えにきてくれた。入院費などの支払いを済ませ、ナースステーションに帰れることを伝えに行く。前日、日勤で昨夜は夜勤だった中西さんが薬のこと、外来受診について詳しく説明してくださる。
 僕は常は人前で感情を出したり、本音をいえないのに、中西さんにはすっかり心を許し甘え切ってしまった。おかげで何度も精神的な危機を乗り切れたと思う。母が49歳で脳梗塞で倒れた時、大学院に通っていた僕は学業を断念し、三ヶ月の間、僕自身が入院していたといっていいくらい長い時間病院の中で過ごしたことがあった。その時のことを僕は後に何度も書き、そして話してきた。今度は僕自身が死の淵まで行って戻ってきた。南丹病院での日々のことはきっと生涯忘れることはないだろうし、お世話になった人たちのことも忘れることはできないと思う。時の運に助けられて、生還できた。母の時もだったが今度は自分でこんな経験をすることがなければ決して見ることができないことを見てしまった。そのことを十分言葉で表現できるまでには、気力のほうがまだ回復していないように思うが、これから少しずつ言葉にしていくことになるだろう。
 母はとうとうiCUから生きては出ることができなかった。ICUから救急病棟の個室にストレッチャーに乗せられて移動する時に、野々村さんが「空気が違いますか?」とたずねられた。「違います。人の匂いがします」という僕の返事は今思い返すと奇妙ではあるが、たしかにそう思った。その後、長い間病室から外に出ることはできず、やがて病棟内を自由に歩いていいことになり、部屋からはほとんど見ることができなかった外の景色を見ることができるようになったが、なお外に出ることはなかった。
 帰る時、ナースステーションにはほとんど看護師さんたちの姿はほとんど見えなかったが、挨拶をしてひっそりと病院を後にした。病棟を後にする時に、何の脈絡もなく、二つのことを思った。中西さんは僕の担当看護師として僕についてどんなサマリーを書かれるのだろうということ、そして、こうして退院して日常生活に戻るのはプラトンが描く哲学者が再び洞窟の中に戻っていくことのようだ、と。
 外は初夏の爽やかな風が吹き渡っていた。