生還記(13) 


 

2006年5月4日木曜日
「あなたがたがあった試練で、世の常でないものはない。神は真実である。あなたがたが耐えられないような試練にあわせることはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである」(『コリント人への第一の手紙』10.13)
 昨日、「たいそうな運動」と書いたのだが、その後、疲れはなかなか取れなかった。何事もなければ、ただ疲れたな、ちょっと横になる、ですむところが、こんな病気で入院していると弱気になってしまう。手術したけれど、再び閉塞し始めているのではないか、と思ってしまうからである。
 ナースコールを押したものか、迷ってしまった。今日の準夜勤の看護師さんは誰だったか、と思った。そう思ってしばらくしたら当の田口さんが手袋をはめて「お薬塗っておきましょうか」といいながら入ってこられた。僕が「vital (signs)を計ってほしい」といったら、彼女はすぐに事情を察知してくれた。それからの行動は機敏で、判断は適切だった、と思う。
 道具を持って戻ってきた田口さんは、「モニターでは不整脈は見られなかった」とまず告げ、続いて血圧を測ると上が160あった。熱は36.9度(最近にしては高め)。saturationは99と普段よりも良好だった。氷枕をあててしばらく休むことにした。薬を塗るのは一時間後ということにしてもらった。「モニターで見てるし、何かあっても病院におるんやし」という言葉は僕の気持ちを楽にした。
 その後、9時半に薬を塗りにこられていったん、おやすみ、と挨拶をして横になっていたが、再び10時過ぎに、「やっぱり心配やから心電図取っとくわ」と機械を運んでこられる。電極が僕の身体はつけにくくて皆苦労されるのだが、この若い看護師はあざやかな手つきであっという間に一度で心電図を取られた。「ドクターに診てもらうし。もし何もなければ…いや、やっぱり何もなくても報告にくるしね」と行って部屋を出ていった。11時頃、ノック。「先生、何も問題ないって。ただ疲れてたんだろう、て」。これで安心して眠れたのはいうまでもない。安心はしたけれどあれこれ考えると不安になるので、まだ飲まないでいたレンドルミンを飲んだ。報告があるのを待っていたのである。
 不安な時はいろいろなことを考えたり、思い出したりするものである。『ヒトラー最期の三日間』という映画の中でゲッペルスの妻が、子どもたちを睡眠薬で眠らせてから、一人ひとりに毒を含ませ殺していく場面などが頭に浮かんだ。薬は幸いすぐに効いたようで、入院以来初めて途中で覚醒しないで朝まで眠ることができた。今日は朝食後もしばらく横になっていて、今(17:18)までまだ一度も外に出て歩いていない。
 髪の毛を洗ってもらった。力があれば歩いていけない距離ではなかったが、8ステージであるというと車椅子を用意してもらえた。入院以来初めての洗髪などで気持ちがよかった。
 昼から息子がきてくれた。親子三人で話をしたのは久しぶりだった。最初、少し、「でしょう?」というので東京で暮らすとこんなことになるのだ、と驚いたが、すぐにいつもの口調に戻った。学校の話などあれこれ聞き、刺激を受けた。毎週たくさん本を読まないといけない、と病室にきた時もマックス・ヴェーバーの本を手にしていた。研究者というのは読みたくない本でも読まないといけないのだという話をしたら、納得していた。「こんなゼミにでも出ていないとこんな本普通読まないものな」と。学生は8人。読めなかったりすると、厳しく叱責される。ゼミの時間が1時間目に設定してあって、その時点でやる気のない学生を振り落とす意図があるというような先生についている。そんな話をいつまでもいつまでも語る。次に息子が帰省する夏には元気になっていますように。病気については、「これ以上〔生活は〕悪くなりようがないので、普通の人の生活をしろ」とこれからの生活について息子に注意された。「朝、早く起きて、村上春樹のように午前中に仕事を済まして後は好きなことをしてたらいい」などなど。
4月29日の日記に、夢の中で古くからの友人が現れた話を書いた。
「大学院の時の友人が夢に現れる。彼が教授になったことについて「よかったね。おめでとう」というと、いつもクールな彼はこういうのだ。「本当は君はそんなことをいうつもりはないのだろうね」
 そのまさに彼から昨日、着任を知らせる葉書を受けとった。印刷されたフォーマルなもので私信は添えてなかったのだが、メールアドレスが書いてあったので、メールを送ってみることにした。

「ご着任を知らせるはがき、受けとりました。ますますのご活躍期待しています。
 僕の方は先月の19日に急性心筋梗塞で入院しました。早朝に救急車で運ばれ、心臓カテーテルによるPTCA(経皮的冠動脈形成術)を受け、一命をとりとめました。今は一般病棟に移り、心臓リハビリに取り組んでいるところです。どれくらい社会復帰できるのかはまだわからないですが、今は仕事のことなどは考えないで療養するしかありません。
 忙しそうな様子ですが、くれぐれも無理されませんように」

 夜に彼から返事がきた。一度会って対話の時を持ちたい、と。
 畏友丸橋裕君がきてくれるのであれば、二年前に藤澤令夫先生の葬儀の折りに会って以来である。同期では彼が一番親しかった。家に行ったこともあるし、結婚式の披露宴にもきてくれた。結婚祝いに何かリクエストはないか、とたずねられたので、バッハの『マタイ受難曲』のレコードを所望したことなどを思い出した。
 前任者の石井誠士先生が2月にジョギング中に心筋梗塞で倒れ、亡くなられたという。彼はこの先生とのつながりでヴァイツゼッカーの研究会に参会している。藤澤先生の葬儀の際、ヴァイツゼッカーはおもしろい、といっていたのに、その時にはそれ以上話を聞く余裕はなかった。