京都だよりアーカイブ 7月15日〜27日


 

2006年7月27日木曜日
 今日も暑い日になった。東京の出版社の編集者と仕事の打ち合わせ。入院中、ずっと自宅療養になってもかまわない、でも本を書けなかったら生きている意味がない、と主治医の岡田先生に話したことがあったことは前に書いたが、その頃の見通しよりも今ずっといい状態にいられてありがたい。
 昨日引いた上田三四二にこんな歌がある。
 死後には用なきものを予約せし諸橋漢和大辞典をことわりぬ
『うつしみ』によると、
「いま書架にある縮刷版の諸橋轍次『大漢和辞典』がちょうど発売になろうということで、観念してその予約を取り消したことも思い出される」(p.64)
 病気の宣告は未来を奪ってしまう。
(ついでながら、諸橋轍次のことは僕の『不幸の心理 幸福の哲学』の38頁でとりあげた。生来虚弱にもかかわらず、白寿までの長命を保てたわけをたずねられ、言下に義理を欠いたから、と答えたという話。義理を欠くこともそれへのまわりからの抵抗を思うとストレスになりそうだが)
 あましたる稿つぐことを業とおもふまでに心はおとろへにけり
 僕はこんなふうには思わなかった。病床で校正をすることは力がなくたしかに大変だったが、生きる励みになった。
 ダナンよりユエよりきたる報道を人の死としてわれはかなしむ
 上田がこの歌を読んだ昭和41年はベトナム戦争が酣だった。
「ダナンとかユエとか、北辺の街の戦闘が伝えられた。 おそろしく無駄な戦争に、おそろくたくさんの無辜の血が流されていた。そして死を前にした男に世界の情勢は何の関心も呼ばず、私はただ、戦争の報道を、一人ひとりの、おびただしい人の死として悲しんだ」(p.62)
 僕の命は多くの人の人力で救われたが、他方で、あっけなく奪われる命もあることの不条理を思う。
 第一次世界大戦が始まった時パリにいた島崎藤村は無関心ではないにしても、その意味をよく理解していなかった。
「パリ人の戦争に対する身構えと用意が藤村にはまだ殆んど理解されていないことがよく分かる。昭和一八年八月に死んだ藤村は、戦争の悲惨というものを本当に体験しないで死んだと言ってよいと思うが、もし彼が敗戦の日まで生きていたら、《巴里の市民が争って食料品を貯えたりすることは、私共には実に不思議な現象でした》とは決して書かなかったに相違ない」(『藤村のパリ』河盛好蔵、新潮文庫、p.227)
 文学に、絵に、学問に打込むのはいいが、自分が生きた時代のことにもっと切実な関心を持つべきだろう。思慮なしに行動するのは問題だが、何もしないで無関心でいることが一番危険である(『不幸の心理 幸福の哲学』p.159)。

2006年7月26日水曜日

 昨日の夜、息子から電話。skypeで一時間以上話す。来月帰ってくる。嬉しい。ずっと一緒に暮らしていたが、息子がいない生活になかなか慣れないものだと思っているうちに、早々僕は入院することになった。5月の連休に一度見舞いにきてくれた時のことは、生還記(13)に書いた。これ以上〔生活は〕悪くなりようがないので、普通の人の生活をするようにという息子の助言は守れているが、朝に仕事をすますことはできてない。
 図書館で借りた上田三四二の『うつしみ』(平凡社)を少し読む。この歌人の短歌が好きで、図書館に行って時折借りてくる。他に借りる人はないようだ。歌集『涌井』(『上田三四二全歌集』短歌研究社所収)は、上田が結腸癌に罹患した時のことを詠んだもの。『うつしみ』はこの時のことを書いたエッセイである。
 上田は、同じ病を得、高橋和巳のことに触れている。高橋は半ば死を予感しながらも決定的な病名を告げられていなかった。「臨床日記」の中で、「しずかな余生」を語っている。「しずかな余生への夢、旅、釣り、山、風景」。日当たりのいい家で草木を共として暮らす。そんな隠遁の夢を病床で育んでいたが、ついに生還はかなわなかった。四十歳。
 ICUにいた時に夜幻覚を見たことを思い出した。ベッドのまわりの床に何か虫のようなものがはい回っている。ありえないとわかっているのにリアルだった。
 まだ導尿の管が外れず、点滴も何種類もしていた頃、なぜ哲学を学んだのですか、とふいにたずねた看護師さんがおられた。
2006年7月25日火曜日
 今日はしばらく行ってなかったのだが、図書館に行ってきた。退院したのは5月20日だったが23日に初めて図書館に行った。今なら何でもない距離だが、図書館までの緩やかな上り坂を歩くのも、傘をさすのも、本(図書館で借りた三冊の本)を鞄に入れて歩くのも初めてで緊張した。今は当然、これでは運動にならないのでもっと歩いているが、体重だけはたしかにかなり減ったものの思うような血液データが出ない。食事もかなり気をつけているのだが。この数日身体がつらくて横になることはあまりない。翻訳の解説原稿に取り組んでいる。入院前ほどではないが寝る時間が遅くなってきているのは問題。
 誰も読んだ形跡のない本を借りた。手に入りにくい本こそ図書館にあるのが望ましい。街の新刊と雑誌しかない書店のようにならないことを願う。図書館が民営化されたらこんなことになりかねない。学生の頃利用していた文学部の図書館ではどの本を見ても読んだ後があって驚いた。

2006年7月24日月曜日
 ぼんやりしていたのか万歩計を洗ってしまった。胸のポケットにいれたまま洗濯機の中に入れたようだ。当然、使えなくなった。新しいのを手に入れないといけないだろう。万歩計を使うことには一長一短がある。持っていると歩数をかせぐために歩くようなところがないわけではない。他方、これを使っているからこそ、外出が億劫でも(ことに最近のように雨の日、外に出なくても僕は平気である)無理にも出かけることができる。
 外での仕事ができない分、ここでできることをしないと思って頑張るのだが、突然、不調になって横にならないといけないことがあってつらい。予想がつかないからである。この数日は調子がいいようだ。
 丸谷才一が、丸谷さんはどのくらい(書斎に)入っていらっしゃるんですか、という問いに答えて、僕はせいぜい一時間ですね、と答えている。「一時間ぐらい書くと、もういやになって、居間にお茶を飲みに行ったり、新聞をのぞいたり、三十分くらい遊んで、また書斎に戻る、そんなもんですよ」(『思考のレッスン』)。
 休憩を取るのが僕は下手で行き詰まってしまう。なるほどなあ、こんなんでいいんだと思ったが、丸谷は、一時間こもって三十分遊んでまた書斎に戻るというプロセスを何回繰り返すかは書いてないので、これだけ読んでずいぶんのんびりしているなと思ったらとんでもない見当違いということになるかもしれない。
 僕は休憩を取らないで疲れ果てるまで仕事をするほうだったが、入院以来このやり方で仕事することができないので、生産量が落ちたように思う。

2006年7月23日日曜日
 今日も雨。今のところ川の間近にある前の家は雨漏り以外は被害はなかった。台風23号の時は床上浸水した。今は離れたところに住んでいるので、異変に気づいて車で行こうとしたが、もはや道が冠水していて近づけなかった。浸水は水が引いても復旧するのには数ヶ月かかる。
 前に飼っていた犬の夢。僕が寝ている部屋に入ってこようとする。「ここには入ってこられないんだ」と僕はいったがふすまなら止めようがない。水をやってなかった、と思った途端に夢から覚め、そうだった、アニーはもう死んでたんだ、と思い至った。須賀敦子が『ミラノ霧の風景』のあとがきに、「いまは霧の向こうの世界に行ってしまった友人たちに、この本を捧げる」と書いている。死者は遠いところに行ってしまったわけではなく、「霧の向こう」にいる。霧ならすぐに行き来できる。
 昨日取り上げた藤田嗣治の『サイパン島同胞臣節を全うす』については、この絵がどんな評価を受けたか、そもそも他の戦争画のように聖戦美術展に展示されたかどうかもわかっていない。近藤史人は「単純な戦意高揚のために描かれたものではないことが一見してわかる」という(『藤田嗣治「異邦人」の生涯』講談社文庫、p.279)。題材からして玉砕が軍の宣伝になるとは思えない。
 藤田の、ただ画くことが愉しくてたまらないという「職人的絵描きの側面」が指摘されることがあるが(湯原かの子『藤田嗣治 パリからの恋文』p.214)、残された絵を見ると、戦争画を何の思想もなく、ただリアリズムを追求するために描いたとは思えない。
 藤田が日本を去る時、羽田空港での記者会見において、「絵描きは絵だけ描いてください」といっている。これは「仲間げんかをしないでください」という発言とあわせると、画壇とのもめごとを指していて、”政治”(どんな大学でも学会でも見られる)には関わりなく絵を画くことに専念せよ、といっているのだろうが、藤田は別の意味で”ただ”絵を描いていたわけではなく、そのことが結果として日本にいることを困難にしたことをも指しているのかもしれない、と思った。芸術も学問も、ただそれ自体のために追求されるだけでいいものかは難しい問題である。世事とは関わりなく孤高に打込む芸術、学問があるとすれば、どんな意味があるのか。

2006年7月22日土曜日

 一日が短く感じられる。教えに行くこともカウンセリングもしていないのだが。大きな理由は睡眠時間が入院前に比べて長くなったからだろう。もっとも入院していた時のように10時には横になって寝るということはなくなった。あの頃も一日が終わるのが早く感じられ、眠るのが惜しいと思っていた。
 藤田嗣治は戦争画を画いたことで戦争責任を問われた。このことをめぐって画壇と関係が紛糾し、藤田は日本を離れ、フランスに帰化した。今回の展覧会で初めて藤田の戦争画を見た。軍部が果たして、藤田の絵が戦意を高揚するのに貢献したと判断したとしたら驚きである。『サイパン島同胞臣節を全うす』では画面右側に後にバンザイ・クリッフと呼ばれることになった崖から女性が投身するまさにその瞬間が描かれている。右手までは銃口を口にいれ、右足の指でまさに引き金を引こうとしている。最後の祈りを捧げる人々の顔には絶望の表情しか僕には読み取れない。カタログに記されているような「死を覚悟した毅然とした態度」とは僕は思えない。戦争画というより反戦画ではと思うほどの悲壮感が画面に漂っている。
 藤田は今わの際にどうして戦争画を描いたのか、とたずねられ、「なぜ」には答えなかったが絶え絶えの息でこう答えたという(『藤原嗣治 パリからの恋文』湯原かの子、新潮社、p.285)。
「戦争というのは本当に悲惨なもので、あの絵を見てもらったらわかるけど、あそこは将校は一人も描いてない、死んでいく兵隊がかわいそうで兵隊しか描いていない」
 僕はなくしかけた命をめぐってこれほどあれこれ考えているが、戦場においては誰彼の区別なく人は殺されていく。『アッツ島玉砕』では敵味方が見分けがつかなくなるほど死体が死屍累々している。『哈爾哈爾河畔之戦闘』という絵があるが、これには軍に内緒に描いた別ヴァージョンのものがあったという。この絵には無残な地獄絵が現出していた(前掲書、p.200)。はたして藤田は芥川龍之介の『地獄変』が書いた絵師のように(p.218)ただリアリズムを追求した画家だったのか。僕はどうもそうとは思えない。
 美術館の帰りに白川沿いに歩いた。岡崎辺りは歩くとふとセーヌ川を思い出す。  

2006年7月22日土曜日

  一日が短く感じられる。教えに行くこともカウンセリングもしていないのだが。大きな理由は睡眠時間が入院前に比べて長くなったからだろう。もっとも入院し ていた時のように10時には横になって寝るということはなくなった。あの頃も一日が終わるのが早く感じられ、眠るのが惜しいと思っていた。
 藤田 嗣治は戦争画を画いたことで戦争責任を問われた。このことをめぐって画壇と関係が紛糾し、藤田は日本を離れ、フランスに帰化した。今回の展覧会で初めて藤 田の戦争画を見た。軍部が果たして、藤田の絵が戦意を高揚するのに貢献したと判断したとしたら驚きである。『サイパン島同胞臣節を全うす』では画面右側に 後にバンザイ・クリッフと呼ばれることになった崖から女性が投身するまさにその瞬間が描かれている。右手までは銃口を口にいれ、右足の指でまさに引き金を 引こうとしている。最後の祈りを捧げる人々の顔には絶望の表情しか僕には読み取れない。カタログに記されているような「死を覚悟した毅然とした態度」とは 僕は思えない。戦争画というより反戦画ではと思うほどの悲壮感が画面に漂っている。
 藤田は今わの際にどうして戦争画を描いたのか、とたずねられ、「なぜ」には答えなかったが絶え絶えの息でこう答えたという(『藤原嗣治 パリからの恋文』湯原かの子、新潮社、p.285)。
「戦争というのは本当に悲惨なもので、あの絵を見てもらったらわかるけど、あそこは将校は一人も描いてない、死んでいく兵隊がかわいそうで兵隊しか描いていない」
  僕はなくしかけた命をめぐってこれほどあれこれ考えているが、戦場においては誰彼の区別なく人は殺されていく。『アッツ島玉砕』では敵味方が見分けがつか なくなるほど死体が死屍累々している。『哈爾哈爾河畔之戦闘』という絵があるが、これには軍に内緒に描いた別ヴァージョンのものがあったという。この絵に は無残な地獄絵が現出していた(前掲書、p.200)。はたして藤田は芥川龍之介の『地獄変』が書いた絵師のように(p.218)ただリアリズムを追求し た画家だったのか。僕はどうもそうとは思えない。
 美術館の帰りに白川沿いに歩いた。岡崎辺りは歩くとふとセーヌ川を思い出す。

 

2006年7月21日金曜日
 夜、聖カタリナ女子高校の試験問題を作り、メールで送る。知識を問う試験ではないので、試験ではないので、どの学生も通ればいいのだが。試験を作っていたからではないが、その後、眠れず。とうとう朝まで一睡もできなかった。『藤田嗣治 パリからの恋文』(湯原かの子)を読み進む。この題にある恋文は藤田が最初の妻とみに宛てたもの。大言壮語とも見える誇張した言葉で将来の夢を語り続ける藤田だが、とみとは離婚に終わっている。とみの書簡の引用がないので、膨大な書簡を藤田に書かせ、藤田の詩神であったととみの人柄がよくわからないように思った。
 嫌な夢を見た。僕の死ぬ歳を予言した人が出てきた。76歳で死ぬ、といわれた。はて、僕は今何歳なんだろう、と思った。夢の中の僕は71歳だった。よくぞここまで生き延びられたと思い、76歳なら十分だと思ったが、こんな予言はまっぴらごめん、と思った。先のことを知りたいとは思わない。
 娘の三者懇談に行ってきた。僕しか都合がつかなかった。先週まで通っていた学校を越えてまだしばらく行くとある。写真は校門。ここで娘に電話をしたらすぐに迎えに出てきてくれた。娘さんの進路について何かお考えがありますか、と担任の先生にたずねられたが、娘がやりたいと思う方へと進んでくれたらいいと思っている、といった。それしかいいようがないだろう。娘の人生なのだから。 急な山道を歩くのは無理なので、行きは駅からタクシーを使ったが、帰りは歩いてみた。途中、少し息切れがした。

2006年7月20日木曜日
 藤田嗣治展に行ってきた。清岡卓行の『マロニエの花が言った』(新潮社)や湯原かの子の『藤田嗣治 パリからの恋文』(新潮社)を読み終えてから、と思ったが、会期がすんでしまうので、雨の中出かけることにした。地下鉄の東山駅から五分ほど歩くと京都国立近代美術館に着く。突然思い立っていったのでもう4時近くになっていたが、会場は人が多く、また一点ずつゆっくり見る力がなかったのは残念だったが、藤田の絵を見られてよかった。
 本も絵も音楽も強い印象で心の中に突き刺さるようだ。
 辻邦生は、ヘミングウェイが第一次世界大戦に志願し、看護兵としてイタリア戦線に従軍した時のことを『武器よさらば』に書いたのは十年後だったという話を紹介している。
「つまり、それ(イタリア戦線の出来事)を追憶の中に全部入れてしまった。現実のイタリアの戦線、ウーディネという町から見たアルプスの姿、雨の降っているミラノの町などは、まったく自分のなかから消えてしまって、そういうものを引き出すときは、自分の心のなかで、ミラノの夜の雨がどうしても書きたいと思うまで待つわけです。ですから、そこで書かれたミラノの雨は、彼が実際に経験した雨ではない」(『言葉の箱』メタローグ)
 事実を書くのではなく、自分の想像力が生んだイメージによって書くのである。
「かつての思い出、かつてのたくさんの出来事、パリでの恋愛事件、雨のしぶきも全部自分の心の中から出てきて、それが「言葉の箱」のなかに入れられていけば、必ず力強いものが生まれる」
 僕は過去の出来事を繰り返し繰り返し書いたり講演で話している。辻の考えによれば、そういうこともよしとされるということである。
 辻に大きな影響を与えた哲学者の森有正の言葉を借りると、過去の一度きりの出来事を何度も同じようにしか話さない「体験」ではなくて、言葉の箱の中でいわば発酵し、過去の一度きりの出来事であっても、絶えず、その出来事の意味を反芻し新たな意味を見出していくような「経験」にしていかなければならない。
 そのような経験は、現実が不幸や苦悩に満ち満ちたものであっても、それを乗り越えさせる力を持っているのであり、日常性を超えたところでそういう経験を書いていくところに文学の意味を辻は見出している。
 人が死ねば、多くの思い出、経験された様々な出来事はどうなってしまうのか。雨に煙る東山を望んで歩くと、僕は追憶の中にしまわれていたことを次々に想起した。消え去ることがないように「言葉の箱」に入れたい、と思った。

2006年7月18日火曜日
 今日も雨だったが、朝と夕方、雨の止んだ合間に散歩した。最近、体調がいい間に急いで仕事をするのと似ている。
 懐疑や批判の精神を失った子どもへと教育しないこと。それは必ずしも反抗するという意味ではないが、親や教師、大人がいうことを本当にそうなのか、立ち止まって考える子どもであってほしい。アドラーがアメリカで目にした子どもたちは、教師を教師であるというだけで尊敬しない子どもたちだった。
 よく話すことなのだが、この世に強制できないものが二つある。一つは尊敬、もう一つは愛である。人も国ももしも愛されることを願うのであれば、どんな形であれ強制する方法は有効ではない。


2006年7月19日水曜日
 翻訳はやりとげた(前書きと付録のチェックだけが残っている)。後、その後、よく眠れなかった。寝つくまでが息が苦しくてよくない。朝、目が覚めた時は楽に呼吸できている。今日のような日は大雨でも濡れずにすむのでありがたいが、社会から取り残されているような気がする。出かけなくても仕事をしているのだからこんなふうに思わなくていいはずなのだが。

2006年7月18日火曜日 

 僕は学生を終えて仕事に就いたのはずいぶんと遅く、仕事といっても大学などの非常勤講師の期間が長かった。一番長いのは奈良女子大学で13年勤めたが、そこを辞めてからもどこかの学校には籍を置いていたのに、20年ぶりでどこにも所属しないで生活している。ソクラテスは自分を「世界人」といっていたという話が伝えられているが(『アドラーを読む』p.39)、僕も同じである。
 入院中は上り調子でよくなったわけではなく、何度か起き上がれなくなったことがあった。もともと力がなかったから、無理をすることもできず、本を読むことも、もちろん、コンピュータに向かうこともできず横になるしかなかった。そんなある日、主治医の岡田先生は僕を見て顔を曇らせた。看護師さんも心配してくださった。そんなことがあって、合理的な感情ではないことはわかっているが、この人のためによくなろう、と思った。
 写真は先週まで講義をしていた聖カタリナ女子高校。僕は信仰がないが、朝、始業前の賛美歌と主の祈り(『マタイ福音書』6.9)の時間は、本を読むのを止めた。「御心が行われますように」。僕が生き延びたことが神のはからいで御心でありますように、といつも思いながら聞いていた。 

2006年7月17日月曜日  

 ある本を読んでいたら、偶然は必然であり、それは ある意味で因縁である、とか、社会は(実際にはないのに)思い込みにしか過ぎず、それは神の存在を信じるのと同じという意味のことを、なぜそういうふうに 考えられるかということが十分(あるいはまったく)論じられることなく書いてあると先に読み進むことができなくなる。少なくとも哲学の本とはいえないだろ う。
 眠っている時以外はずっと何かを考えたり、本を読んだり、書いたりしている。暇でしようがないというような経験を一度でもしたことはあっただろうか。
 入院前の日記を読んでいると時間がない、もう少し時間をください、と何度も書いている。病気のことを予感していたわけではなかったのだが。あせってもどうしようもないが、走れるところまでは走りたいという思いである。
 アドラーが世界を変えたい、と考えていたことに共感する。僕ができることは限られているが、チャンスは掴みたい。なかなか思うようにはいかなくても諦めない。

 2006年7月16日日曜日
 今日は不調で横になっていた。診察を受けた木曜日に調子がよかったので残念。
『人生があなたを待っている 1』(ハドン・クリンバーグ・ジュニア、みすず書房)を読み上げる。ヴィクトール・フランクル夫妻が7年にわたって人生を語っている。フランクルはアメリ カに亡命のチャンスがあった。高齢の両親はウィーンの逼迫した状況の中でフランクルを必要としていたが、フランクルの幸福とまだ成し遂げていないライフ ワークのためになるから、と亡命を勧めた。
 フランクルは悩む。シュテファン大聖堂の近くを歩くとオルガンの音が聞こえてきた。フランクルは中に はいっていき、神に祈った。自分がウィーンを去れば、両親は二週間も経たないうちに強制収容所に送られるだろう。私の責任は何か。ライフワークに専念する ことか。それとも両親の面倒を見ることか。一時間ほど考えたが決心はできなかった。
 家に戻ったら父がいた。シナゴーグの廃虚から拾ってきた石の かけらを持っていた。それは十戒の一部で、ヘブライ語の文字が刻み込まれていた。「ヴィクトール、この石が十戒のどの部分が私にはわかる。この文字で始ま る掟は一つしかないからだ。『あなたの父と母を敬え。これは、あなたの神、主が賜る地で、あなたが長く生きるためである』」
「その瞬間、私は自分に言った。これが答えだと。私のビザの期限はそのままになった」(p.163)
 父親はフランクルと共に最初に送られたゲットーであるテレージエンシュタットで病死、母親もビルケナウへ移送されガス室で殺された。フランクル自身がどうなったかはよく知られている。

 モーセは民の愚行を見て怒り、シナイ山で神から与えられた掟が記された石の板を投げつけ、山の麓で砕いた(『出エジプト記』32.19)。

 R.D.レインが自伝(『レイン わが半生』岩波書店)の中で次のようなマルティン・ブーバーのエピソードを引いている。
「ブー バーは講演台の向こう側に立って、人間の条件だとか、神だとか、アブラハムの契約だとかについて話をしていた、その時、急に、前にあった大きな重い聖書を 両手でつかみ、できるだけ高い頭の上に持ち上げてから講演台の上に投げつけるように落とし、両腕を一杯に伸ばしたまま、こう絶叫した。『強制収容所でのあ の大虐殺が起こってしまった今、この本が何の役に立つと言うのか!』ブーバーは、神がユダヤ人に対して行なったことに憤激していたのである。無理もない」  

2006年7月15日土曜日
  祇園祭の宵々山に行ってみた。雨も上がり、ひどく暑くはなかったが、当然予想していたが、人が多く思うように歩けず、そのうち流れるように汗が出て(こん なことは手術前はなかった)辛くなって結局最初室町を、途中から新町を四条から上がり御池まで歩いただけだった。精神科の医院に勤務していた頃、仕事が終 わった後、脇目も振らずに人をかきわけて帰ったことを思い出した。

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