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心筋梗塞生還記・京都だよりを連載しています。

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著作、翻訳一覧

新刊『アドラーを読む―共同体感覚の諸相』
アドラーを読む―共同体感覚の諸相

 

心筋梗塞生還記目次

第1回(2006年4月19日)

第2回(2006年4月20日)

第3回(前兆はあったのか) 

第4回(2006年4月21日〜23日)

第5回(2006年4月24日

第6回(2006年4月25日〜26日)

第7回(2006年4月27日〜28日)

第8回(2006年4月29日)

第9回(2006年4月30日)

第10回(2006年5月1日)

第11回(2006年5月2日)

第12回(2006年5月3日)

第13回(2006年5月4日)

第14回(2006年5月5日)

第15回(2006年5月6日)

第16回(2006年5月7日)

第17回(2006年5月8日)

第18回(2006年5月9日)

第19回(2006年5月10日)

第20回(2006年5月11日)

第21回(2006年5月12日)

第22回(2006年5月13日)

第23回(2006年5月14日)

第24回(2006年5月15日)

第25回(2006年5月16日)

第26回(2006年5月17日

第27回(2006年5月18日)

第28回(2006年5月19日)

第29回(2006年5月20日)

第30回(退院後の日々1)

第31回(退院後の日々2)

第32回(退院後の日々3〜病院へ)

第33回(退院後の日々4〜この病気)

第34回(退院後の日々5〜初講義)

第35回(退院後の日々6〜鬼手仏心)

第36回(退院後の日々7)

第37回(退院後の日々8)

第38回(退院後の日々9)

第39回(退院後の日々10)

第40回(退院後の日々11)

第41回(退院後の日々12)

第42回(退院後の日々13)

第43回(退院後の日々14)

第44回(退院後の日々15)

第45回(退院後の日々16)

第46回(退院後の日々17〜退院後初受診)

第47回(退院後の日々18)

第48回(退院後の日々19〜リハビリとナースコール)

第49回(退院後の日々20〜ストレスについて 1) 

第50回 (退院後の日々21〜ストレスについて 2)

第51回(退院後の日々22〜ストレスについて 3)

第52回(退院後の日々23〜汝死すべきものよ)

第53回(退院後の日々24)

第53回(退院後の日々25) 

第54回(退院後の日々26~なぜ眠れないのか、あるいは眠くなるのか )

第55回(退院後の日々27)

第56回(退院後の日々28)

第57回(退院後の日々29〜手を振って生きよ) 

第58回(退院後の日々30)

第59回(退院後の日々31) 

第60回(退院後の日々32) 

第61回(退院後の日々33) 

第62回(退院後の日々34) 

第63回(退院後の日々35)

第64回(退院後の日々36〜徳は教えられるか) 

第65回(退院後の日々37〜永遠の時があるかの如く) 

第66回(退院後の日々38〜今止めるわけにはいかない) 

第67回(退院後の日々39〜私の人生)

第68回(退院後の日々40)

第69回(退院後の日々41)

第70回(退院後の日々42) 

第71回(退院後の日々43)

第72回(退院後の日々44~2回目の受診)

第73回(退院後の日々45)

 ある日の夜明け。もう一度こんな空が見たい、といつも思っていた。書斎から。

  虹が好きで写真に撮るチャンスをねらっている。しかし簡単なことではない。これも書斎から。

 ある日、疲れてソファに横になっていた時、何気なく空を眺めていたら虹が出ていました。

  電車から虹が出ているのを見つけ嵯峨嵐山駅で降りて撮った写真です。

 アルフレッド・アドラーの診療所は、下町にあった。今は一枚のプレートが打ち付けてあるだけだった。1999年9月にウィーンで撮影。

  ちょうど入院する一週間前、嵯峨野渡月橋で。この日、駅を降りてしばらく歩けなくなったのですが、その後、二時間ほど嵯峨をあちらこちら歩くことができました。しかし、この時、すでに相当悪かったはずです。


 

 

What's New

 11月7日から9日まで入院していました。退院後半年を経過してその後ステントを留置した個所、前回未処置の個所がどうなっているかを確認するための心臓カテーテル検査のためです。結果は思わしいものではありませんでした。「検査入院」というタイトルで何度かに分けて連載します。(2006年11月10日)

 

読書ノート

11月1日更新。奥野修司『心にナイフをしのばせて』

検査入院 

第1回(入院前夜、一日目その1) 第2回(一日目その2)

第3回(二日目その1) 第4回(二日目その2) 第5回(二日目その3) 

new第6回(三日目、退院) new第7回(自分について知ったこと)


京都だより  読書と思索の日々

手を開いてください(2006年6月25日) 『魂の文章術』(2006年6月26日) 後になってわかるということ( 2006年6月27日) うっかり人生が(2006年6月28日) 夢見る人(2006年6月28日) 子どもは待っているかもしれない(2006年6月29日) 子どもと相談する(2006年6月30日) 子どもが自立する時(2006年7月2日) 変貌(2006年7月3日) 私としての生き方(2006年7月4日) 愛は燃え尽きない(2006年7月6日) 与えるということ(2006年7月8日)  尊敬と配慮(2006年7月8日)  未来に意識をフォーカスする(2006年7月9日) 成熟した愛(2006年7月10日)  母の愛、父の愛(2006年7月11日) 集中力(2006年7月11日)  哲学・詩・宗教(2006年7月12日)   『母の恋文』(2006年7月12日) 経験を深める(2006年7月15日) 愛するということ1(2006年7月17日)  愛するということ2(2006年7月18日) 愛するということ3<邂逅> 言葉かけは慎重に(2006年10月10日)newそれならもう一度(2006年10月24日)

京都だよりアーカイブ(7月15日〜27日)

 

2006年11月4日土曜日
 入院が近づくにつれてあれこれ考えてしまい、不安になったり、いらいらしたり、ひどくナーヴァスになっている。前回鼠蹊部からカテーテルを入れた時、血が腿を伝ってベッドに流れ落ちた感覚があった。カテーテルが挿入されるのは麻酔がされているとはいえ、気持ちのいいものではない。手順がおおよそあらかじめわかっているとかえって恐くなる。
 今回は短期間の入院とはいえ(そうだることを願っている)それなりの準備もいるのにまだ手をつけられていない。短い原稿の締め切り日が入院当日になっているのでそれも仕上げないといけない。
 夜、ロワイヤル仏和中辞典についていたCD-ROM版のデータを今度入院する時も持って行くつもりでいるPowerBookで読めるようにした。締切のある仕事をいくつも抱えているので、入院中進行が止まることを思ってあせってしまうのだが、いくつかのプログラムをダウンロードしインストールしてのデータ変換の作業に没頭することでその間だけでも病気のことや仕事のことを考えないですんでよかった。

2006年11月1日水曜日
 昨日、皮膚科を受診した。調子がよかったのに季節の変わり目、ステロイドのレベルを下げてもらったが功を奏せず、10月の初めに薬を変えてもらったが、なおそれでもだめで昨日、また薬を変えてもらった。薬が効いているか効いていないかは医師も外から観察することでわかるだろうが、飲んだ時の身体の感じについては患者自身でないとわからないのではないか、と思う。僕の場合、問題なのはこの薬ではだめだとすぐにわかってしまったのに、一月に一度の受診と決めてしまっていたので、薬が底をつくまで行かないで我慢してしまうことである。電車に乗り、長く待つことを思っておっくうになったということもあるが、しかし思いきって受診すればその後快適に過ごせるのであれば、ある日受診のために時間を取ることは決して損はないであろうに。心臓についても、心筋梗塞になるまで無理に無理を重ねてしまった。早く決心をするというのは僕には難しいことだったのである。

2006年10月30日月曜日
 ヘラクレイトスは同じ川に二度はいることはできない、といっている。たしかに流れは刻々変わる。それでも、川には同じ名が付けられ、同じ川であることを誰も疑わない。人も同じだな、とふと考えていた。前はあまり身体のことに注意を向けないで過ごしてきたが、今はいつも心臓のことを考えている。言葉で何とも表現しようがない、ふわりとした感覚、身体から魂が抜けてしまうように感じる時は、身体から意識を離すことができない。そしてもちろん調子がいい時もある。どんな時も僕は僕であるということは考えれば難しい問題になりうる。
『父親たちの星条旗』という映画を観た。硫黄島にアメリカ兵が立てた星条旗にまつわるこの物語を見ながら、長期化、泥沼化しているイラク戦争のことが思い出された。硫黄島に星条旗が立てられた時に撮られた写真と兵士たちは戦時国債を国民に買わせるための宣伝に使われた。写真には六人の兵士が写っているが、硫黄島の激戦はこの時終わったわけではなくなおも続き、このうちの三人は戦死している。原作(Bradley, James. Flags of Our Fathers)には(Flagsと複数形になっているのは映画を観ればわかるが意味がある)、この六人について、この写真は彼らに「一種の不死—顔のない不死を与えた」(p.4)と書かれている。写真には顔が写っていないのである。たしかに帰国した兵士は戦意高揚のためにいろいろな場所に引っ張り出されたが、硫黄島で闘い死んだ兵士たちと同様、誰であったか、個人としての意味はなかったのである。
 著者は旗を立て帰還した兵士の一人であるJohn Bradleyの息子にあたる。彼は父親の死後初めてこの旗をめぐる真実を知ることになる。父親は頑なに硫黄島のことを家族にすら生涯語ることはなかった。息子は父親だけでなく他の五人についても遺族と接触しその生涯を詳細に本の中で記している。彼らに「一種の命」を与え、アメリカの記憶の中に彼を再生させることを試みた(p.23)。かくて時間的にも空間的にも遠く離れ何のかかわりのなかった彼らが本を読み進むにつれ、僕の中にも蘇ってきた。戦場で戦わなければならなかった兵士たちは決してチェスや将棋の駒などではなく、誰もが固有の歴史と家族、友人らのいる個人であることを忘れてはいけないだろう。そう考えた時、めぐりあわせで敵味方に分かれ闘うことになった兵士たちにアメリカ人、日本人の差異はない。戦争がいかに空しいものであるかあらためて強く思った。
 

2006年10月27日金曜日
 数日来ひどい肩凝りで苦しかった。昨日は息をするのもつらかったが今朝から楽になったのにともなって呼吸も楽になった。時々、ここに深呼吸ができないということをたびたび書いてきたが、強い痛みではなくても慢性的に肩が凝っていてそれが呼吸を苦しくさせてきたのかもしれないと今日は思った。あいかわらず鼻はつまっているのだが。何か原因がひとつだけあるというわけでもないのだろうから、様子を見たい。
 今日は電車になる機会があった。帰り、駅に電車が着いた時、ちょうど階段の手前だったのでまだ僕の前には一人か二人しかいなくて思わず階段を駆け上がってしまった。少し前はほとんどの人が上った後に階段の手すりをつかんで一歩一歩上ったことを思い出し、こんなことができることになったと嬉しかった。
 25日に山鉾の巡行を見に行った。この日は小雨が降ったり、日が照っていたかと思うと空一面を厚い雲が覆ったりする不順な天候だったが、真夏に行われる京都の祇園祭とは違ってこの季節の祭りも趣があるものである。どんなに古い記憶の意図を辿っても鉾の巡行を見たことを思い出せない。小学校の6年生の時に小学校の校舎が改築になった。その前の古い校舎の廊下に、僕が画いた祭りの絵が長くかけてあったのを思い出した。それは巡行する鉾ではなかった。鉾の上の空に月を描いた絵だった。その夜、店などを見て歩いたはずだが、一筋外れ人通りも少なく寂しいところに建っている鉾の方が僕の印象に残っているあたり、僕のライフスタイルが読めないわけではない。この絵がその後どうなったかはわからない。

2006年10月24日火曜日
 地元の祭の宵山に出かけた。懐かしい人に声をかけられたり、もう長らく足を踏み入れたことのないところを訪ねると、忘れていたことを次々に思い出す。楽しい思い出という意味では必ずしもないのだが。

2006年10月23日月曜日
 久しぶりの雨。退院してからよく散歩するようになった。生まれからずっと同じ街に住んでいるのに、子どもの頃あまり出歩かなかったからか、いまだにこんな道があると思って、一体どこに出るのだろうと思って歩くことがある。明後日神社の祭りがある。今日から鉾が立っている。祭りにもほとんど出かけたことがない。今年は体調がよければ見に行こうかと考えている。
 先日見た映画の中で救急車で運ばれた患者の家族に医師が「どうしてこんなになるまで」という場面があった。長く一緒に暮らしていなかったから、と家族は答えていたが、これは家族の立場ではいわれたくない言葉であるように思う。今、そんなことをいわれてもどうしようもないからである。
 手術の致命率を教えてもらっても、もしも救急で今他の手術の選択肢がないのであれば、不安がかき立てられるだけであまり意味がないように思う。もっとも本人と家族から手術書の同意書へのサインを得ないといけないので、必要な情報としていわれるわけだが。僕は自分ではサインできなかったが、オペの致命(致死)率ははっきりと聞いた。これで死ぬのかと寂しい思いがしたが、妙に落ち着いていた。

2006年10月21日土曜日
 今日はたくさんの訪問者があって、田圃の中の道を歩いて前の家まで歩いていった。薄が風に揺れ、さざ波の立つ川面には煌めいていた。無花果の時期はもう過ぎてしまったが、今度は柿の実がたわわになっていた。また近く柿を取りにくることになるだろう。近くにコスモス園がある。先月に比べ、丈が伸び風になびく様子は壮観だった。
 去年教えた看護学校の学生さんから就職が決まったというメール。国家試験、がんばってほしい。
 今日は血圧が低く、脈拍が遅くてつらかった。

2006年10月20日金曜日
 ほとんど欠かさず参加してきた日本アドラー心理学会に今年は参加できない。毎年この時期の一大イベントで、いろいろな意味で強い刺激を受けるのだが。外泊ができるようになるのは一体いつのことか。もうそんな日はこないかもしれない。
 恩田陸の『ドミノ』(角川文庫)を読んだ。米原万里が解説の中に「この小説のようにとまではいかないだろうが、全体を俯瞰して見渡してみるならば、実は皆どこかで何らかの形でドミノ倒し的につながっているのではないかと思えて仕方がないのだ」と書いていることに共感する。今日、話していた看護学校の教え子は僕が中学生の時に家庭教師をしてもらっていた先生に大学で学んでいる。別の教え子も同じ先生にやはり大学時代に学んでいた。仔細にたずねなかったが、この二人の教え子たちにも接点があるかもしれない。ICUで何回か話した看護師さんもたずねなかったが同じ先生に学んでいるはずである。こうして僕はいつも世間は狭いと思うのだが、人がどこかで何らかの形でつながっているのはよくても、米原も指摘しているが最後は皆がドミノの如く共倒れということでは困る。

2006年10月18日水曜日
 僕は喫煙の習慣がなかったので禁煙には何も問題がなかったが、なかなか煙草を止められない人にはニコチンを注射すると冠状動脈がどれだけ攣縮するかというビデオを見てもらうという話があった(『心臓にいい話』(小柳仁、新潮新書)p.134)。この方法は何かを止める(喫煙、過食、過剰な塩分の摂取など)動機づけにはなりうると思うのだが、運動をすることについてはあまり有用ではないのではないか、と思ってきた。食事に加えて運動(僕の場合は散歩だけだが)が毎月の血液検査の結果をよくするのは明らかなので頑張れるわけだが。僕は外に出かけるくらいなら本を読んだり原稿を書いたり、じっとしているのを好むのだが、何とか出かける気になれるように、散歩を薬の服用と同じと位置づけてみたり、iPodで外国語のニュースを聞いてみたり、何か用事(買い物など)を散歩のついでにすることにしてみたり工夫している。
 どれも功を奏していると思うのだが、同じ『心臓にいい話』にはこんなことも書いてあいて、リハビリが必要なことについてこれは強い動機づけになると思った。閉塞が時間をかけて進行した場合は、脇の血管が発達してこれが自然のバイパスになって血流が保たれることがある(p.162)。側副血行路という。このバイパスを増やすことが心臓リハビリの狙いのひとつである。完全に壊死した部分は駄目だがトワイライト・ゾーンと呼ばれる半死半生の部分(p.72)のあたりは運動をしたら血流が増えるのである。そのために心臓に一割増しの負担をかければいい。

2006年10月16日月曜日
 書評をまとめた本はつまらないか読後に嫌な感じが残るのでどちらかというと避けてきたが週刊文春に連載されていた米原万里の「私の読書日記」が収めてある『打ちのめされるようなすごい本』(文藝春秋)を読んでいる。日記なので本のことだけでなく著者の生活が、とりわけ自身の闘病の様子が書かれていて、5月18日号の記事が絶筆となった。僕がまだ入院していた時に亡くなられたのではなかったか。「私が一〇人いれば、すべての療法を試してみるのに」(p.192)と書いてあるように様々な療法を試したがかいなく、最後の記事には治療者が「いちいちこちらの治療にいちゃもんをつける患者は始めてだ。治療費全額返すから、もう来るな」といったことまで書いてある。患者は自分の命をかけているのだから、説明を求めて当然だろう。
 米原は1996年にここ20年ほど一日平均7冊を読んできたという(p.333)。しかしやがて視力の衰えと共に読むスピードも急減速した。この事実を認めたくはないので以前と同じペースで本を買い続けた米原はいう。「それは皮肉にも能力の衰えを、それに人生に読める本にも限界があるという単純な真実を残酷なほどハッキリ自覚せしめた。読む本を以前より厳しく選ぶようになった」(ibid.)。今は僕も同じ思いである。

2006年10月15日日曜日
 昨夜はテンションが高く、いつまでも話し続けたので家人は大いに辟易したようだ。深夜になってもこんなふうだったので眠れそうになく、久々にレンドルミンを飲んだ。しばらくすると今度はそれまでとは反対にひどく落ち込んでしまって、悲しくなった。どうやらこの感情の浮き沈みは『心臓にいい話』(小柳仁、新潮新書)を読んだことがきっかけだったようだ。入院していた頃のことをずっと考えていた。
 この本の著者の小柳はもともとは心臓外科を志していたのではなかったが、外の世界も見ておいたほうがいいのではないか、と考えて聖路加国際病院にインターンとして入った。その時の内科医長が日野原重明だった。ちょうど50歳くらいで毎朝6時間から一人で病棟の回診を始めるような人だったという。入院していた時、主治医の岡田先生を初めとしてスタッフがよくしてくださったことをあらためて思った。
「また肉体的な問題だけでなく、手術の直後に精神的に不安定になったり妄想や錯乱が出ることもあり、ICU症候群といいます。心臓の手術というのは、精神に影響が及ぶほど負担の大きいものなのです」(p.161)
 はっきりこのように書いてあると、僕もそうだった、とある意味で安心する。心筋梗塞について恥ずかしいほど何も知らなかった。主治医の話を聞いたり、心臓に関する本を読むにつけ僕が思っていたよりははるかに死の近くにいたことがわかる。
 ある患者さんの話。「家族に病人がいると、その家族はいい家族になるんだよ」という先生の言葉が忘れられない、と(p.168)。病気のために家族がひとつになることを医師としてたびたび経験した、と小柳はいっている。
 僕も家族には感謝の言葉しかない。

2006年10月14日土曜日
 今日は月に一度のヴァイツゼッカーの講読会の日だった。退院した翌月から参加していて、今日は5回目だった。この会はもう長く続いていて僕は目下一番新しいメンバーである。最初に参加した日は休憩をはさむとはいえ4時間すわって本を読むのはきつくて、帰ってから血圧を測ったら高い数値だったことを覚えている。身体的には無理をしてしまったが、失職し茫然としていた時だったので気力を養うためにはよかったと思う。木村敏先生を初めとする参加者から毎回強い刺激を受ける。今月も参加できてよかった、といつも思う。
 7月の会の時に木村先生が「心筋梗塞は二度目が怖いのです」といわれたのは先生の友人で現象学的精神病理学の権威ヴォルフガング・ブランケンブルクがマールブルクからハイデルベルクへ向かう列車の中で心停止を起して急死したことが念頭にあったのではないかと思うのだが、4月に治療できなかった閉塞している2個所とステントを留置したところがどうなっているかは気になる。検査入院の際に提出する同意書にも、再狭窄の個所があれば治療する旨が書いてあった。ステントも、管の内側や両端に脂肪や細胞が付着していれば再狭窄の可能性はある。僕の治療に使われたのかは聞きそびれてしまっているが、最近使われるようになった金属の表面に細胞の増殖を抑える薬が塗ってあるステントでさえ、日本ではまだ使われて一年なので再狭窄の時期が先延ばしになったのだけのか、このステントによって完全に再狭窄を防げるのかはわからないようだ(小嶋仁『心臓にいい話』新潮新書、p.106)。
 帰り30分ほど平安神宮の前を通り地下鉄の東山駅まで歩いた。目に映る景色から昔のことがあれこれ思い出された。

2006年10月12日木曜日
 今日は研修会で尼崎まで。ラッシュ時に出かけることはめったにないので人の多さに圧倒された。
 長らく気がつかなかったのが僕が寝ている部屋は携帯電話に圏外と表示される。docomoのfomaだけなのだろうが。何となく今僕が置かれている状況のように思ってしまう。山の中などにいるわけでなく、すぐに人の中に出ていけるところにいるのになお圏外にいる。そんな気がする。

2006年10月11日水曜日
 気が立っているのか夜、一睡もできない日がある。昨夜は音楽を聴いていたらいつのまにか寝たようだ。
 今日は昼から雨が上がったので思い立って嵯峨野を歩いてきた。電車で快速なら一駅、七分くらいで嵯峨嵐山駅に着く。そこから往復一時間ほど歩く。仇野念仏寺まで片道三十分だが、緩やかな上り坂なのでいつも近所をこれくらいの距離を歩いているのに、少し汗ばみ息が切れてしまった。
 左の列の下の方に渡月橋の写真を掲げているが、これは前回出かけた時に撮ったものである。入院する前の週で、この日も駅を降りて少し歩いたところで苦しくなってしばらく立ち止まって楽になるのを待ったのだった。無論、同じ場所を通りかかったからといってそこでまた発作が起きるわけはないが、PTSDではこんなふうに思え恐怖感が募るだろう(アドラーは否定しているが)。あの時はもう暑くて、自動販売機で水を買おうとしたのになくてお茶を買った、とか細かいことがいろいろ思い出された。無事歩き通せたが、あまり早く歩けず後から追い抜かされる。この頃よくそんなことがある。
 稲刈りが始まっていた。今日は雨なので誰も出ていなかった。田圃の向こうは落柿舎である。

2006年10月8日日曜日
 このところ心がずっと緊迫していたのにふいに糸が緩んだかのようになってしまって昨夜は長い時間眠ることができた。娘が出かけたのも、息子から電話があったのも気がつかなかった。
 風が強く少し肌寒かった。暖かいかと思って上着を着ないで出たのだが、駅のホームで震え上がった。病気の前と比べて血圧や心拍数が低く少なくなったが、このことでこれからの季節をどんなふうに過ごすことになるのか想像がつかない。心筋梗塞は当然年中起こるが、統計的には寒い季節に多いようである。再発しないように気をつけなければならない。
 書店で偶然万引きの現場に居合わすことになった。小学生の男の子が店員に叱られてうなだれている。その子は警察には通報されることなく解放されたのだが。
『須賀敦子全集』河出文庫が文庫(河出文庫)になった。まだまだ読めていないのだが、可能なら断簡零墨まで読みたいと思わせる数少ない人。故人が書いたものを読む時、その人に直に接しているのである。

2006年10月6日金曜日
 久しぶりに呼吸が苦しくて、仕事をしては横になるという繰り返し。それでも一時に比べたらずいぶんよくなった。鼻の粘膜が常に出血寸前という様子だったのだから。このところ夜、眠れない。夜中に目を覚ましてじっとしているのはたいそう辛い。
 飲んでいる薬の関係があって出血することがないように気をつけている。ところが昨日はとうとう包丁で人さし指を傷つけてしまった。幸い、ごく浅い傷だったのだが。実際、出血したら血が止まりにくいのかわからないのだが、身体のあちらこちらに充血した痕があることがあるので、止血しにくいのだろう。怪我ともいえない傷なのに痛い。

2006年10月5日木曜日
 季節が変わり空気が乾燥すると皮膚にはよくないようで、ステロイドと対ワセリンの比率を下げたのに少しアトピーの症状が悪化したようである。そのことに気づきながら、我慢していたのはよくなかった、と思う。心臓のことで担当看護師の中西さんとこんな話をしたことを思い出した。
「(退院してから)おかしいと思ったらきてくださいね」
「おかしい、だったら僕はこられないかもしれない」
「いつもと違ったら?」
 違うは必ずしもマイナスの判断ではないので、常と違ったら病院に行くと決めておいたほうがいいとその時考えた。幸い、循環器科のほうは予約の日以外に受診する必要はこれまでなかったのだが。
 近所のスーパーに二、三日ごとにイオン水を取りに行くのが習慣になっている。3リットルの容器は軽くはないが、入院中、自分で水筒を汲みに行くことすら重いという理由で許してもらえていなかった頃のこととか、退院後も濡れた洗濯物の入った籠をベランダまで運べなかったことを思うとよくなったことを実感できる。このスーパーでは買い物をしないが、水を取りに行ったついでに果物を買うことがよくある。今夜は二十世紀とグレープフルーツを買った。娘のためにヨーグルトを買って帰ったら「ちょうどほしいと思ってた」と喜んでくれてよかった。

2006年10月3日火曜日
 どうにも身体の調子がよくなくて夜もよく眠れないので、今日は皮膚科を受診した。前回からまだ一月も経ってないのでためらっていたが、先週内科での採血の際、好酸球の値が高いことがわかっていたのだから(強いアレルギーのある時に値が上がる)、次の日でも受診すればよかったのである。決断が遅いのが僕の癖のようだ。好酸球のことをいうと早速検査結果を参照してもらえ、塗り薬も飲み薬も変えることになった。涼しくなって空気が乾燥しているのでアトピーが悪化したのだろうということだが強いアレルギー反応が何にもとづくのかはわからない。帰宅して昼食後早速薬を飲んでみたところ、身体が楽になるのが実感できた。今月の終わりか来月の初めにもう一度皮膚科を受診することになるだろう。その後、いよいよ検査入院。カテーテルが血管の中を巡る様子をイメージしては怖くなる。風船で閉塞部を開通させる手術がなされるようになったのは1980年代のようだが(ステント留置はもっと後のこと)、その頃心筋梗塞になっていたら助からなかっただろう。
 外を歩くと金木犀の匂いがどこからともなくする。

2006年10月1日日曜日
 雨の日。夜中に目が覚め眠れず、朝まで翻訳の仕事。人生にあまりに期待するので、他の人よりも人生に容易に失望する人がある、とアドラーはいう。このところアドラーに反発しながら訳していることが多いが、納得できる言葉に出会うこともある。
 先週から体調はあまりよくない。季節の変わり目だからだろうか。アレルギーがひどい。何にこんなに反応しているのかわからない。生きること?
 出版社から印税が届く。前に訳したアドラーの翻訳が増刷になったようだ。あの頃も今と同じように大学の非常勤講師をする以外はほとんど家にいて、昼間は誰もいない、柔らかい日の光が射し込むダイニングにコンピュータを持ち込んで、来る日も来る日も翻訳をしていた。もう10年も前もことである。

2006年9月29日金曜日
 11月の初めに予定されている検査では左手の上腕動脈からカテーテルを挿入し、冠動脈造影をすることになっている。救急車で運ばれた時と、退院前の検査の時は足からだったので手術、検査後の安静はたいそうつらかった。3キロ(だったと思う)砂嚢が置かれ、動けないようにされるのである。腕からだとこの点検査後は(比較的ということだが)楽である。ただ問題はないわけではなくて、入院時の検査の時、腕からにしなかったのは僕が書くことを仕事にしているからだった。今度はどちらからするかという話になった時、実のところ一瞬迷ったが、検査後の負担を思うと選択の余地はなかった。足からの時は止血が大変で、特に心筋梗塞の治療に際しては太いカテーテルを使うので止血は力一杯医師が馬乗りになって行われた。それが20分ほど続いたのではなかった。カテーテルの治療そのものよりもこの痛みのほうが耐えがたいものだった(カテーテルによる治療は局部麻酔がされているので痛みはない)。腕の止血がどれくらいの程度の力と時間を要するものなのか、気になるところである。
 一日二回は歩くようにしているが、部屋で書いたり読んだりしているほうが楽なので気候がよくなってきたのになかなか外に出かける気にならない。昨日、Paul Austerのインタビューを手に入れたので、これをiPodで聴きながら歩いてみた。中身に気を取られていつのまにかいつも以上の時間歩くことができた。治療のために始めた散歩は、食事の摂生と同様、終わりはない。始めるのは簡単だが、続けるのは難しい。

2006年9月28日木曜日
 4回目の診察。予約を入れていても、緊急のオペなどがあればその間医師はそちらに手を取られるので必ずしも時間通りには診察を受けられない。退院して最初の診察の時、かなり待たなければならず、この間まで入院していて退院後もまだ用心に用心を重ねて無理をしないでおこうと心がけていたのに、こんな長い時間待たないといけないのだと驚いたものである。入院していた時とは違って、主治医とも話す時間はわずかしかなく、退院したという実感、定期的に受診するとはいえ、これからは一人で頑張っていかないといけない、と強く思った。『アドラーを読む』は入院中に何度か校正し、退院後の6月に出版された。入院中は主治医の岡田医師にゲラを見せて話しこんだこともあったが、外来で見かける岡田医師には驚くほど多くの患者が頼っていて、とてもゆっくり話す時間はない。それでもあの頃よりは今のほうがはるかに僕にとってはここまで復帰できたのだからありがたいと思う。
 中性脂肪、コレステロールの値がようやく満足できるものになった。コレステロール値はなかなか下がらず入院中の方がよかった時もあって血液検査の結果を見てはためいきをついていたが、退院四ヶ月にしてようやく思う結果が出た。粘り強く養生してやっとのことである。これからもこの状態を維持しなければならない。寒くなり基礎代謝量が増したのか、食事の量は変わりはないのに体重は減り続けている。診察室で先生に計ってもらった血圧は106-56だった。前とは身体が変わってしまったようだ。救急病棟にいた時に、ただ助かったですませないで頑張りましょうといってくださった看護師さんの言葉をいつも忘れないでおこうと思っている。
 検査入院の日程が決まった。初めて鼠蹊部からではなく肘部を上腕動脈からカテーテルを挿入し、冠動脈造影をすることになる。もしも冠動脈狭窄があれば(あるのは既に前回入院時にわかっているの。至急に治療の必要な、という意味)冠動脈形成術を施されることになる。検査だけで終わりますように。

2006年9月27日水曜日
 明日は4回目の診察。いい結果が出ればいいのだが。いつも気にしていないつもりなのに、そわそわしてしまって仕事をしていても散漫になってしまう。次回の診察は検査入院になるだろう。体重は十分落としたのに(9キロ)、コレステロール値が思うように下がらない。
 死刑判決のニュースを見ていて思う、更生の余地がないなどとはどうしてわかるのだろう、と。死刑は応報刑だろう。応報、報復…これらは人類が超えなければならない課題だと思う。

2006年9月26日火曜日
 今週は診察を受けるので生活と身体を整えようと思うのだが、思うように夜眠れない日が続く。
 虹は人のまなざしと同じで気がついた時には、気づく前よりも存在している。なかなか見ることができない。どんな気候条件で虹が出るか知っていてもである。
 昨日、植物園の中を歩いていたら職員の若い男性が「こんにちは」と声をかけてくださった。僕はどぎまぎして「こんにちは」といった。知らない人に挨拶をしていけない理由はないし(植物園の職員と訪問者という緩い関係はあるのだろうが)、挨拶をする前に知らなかったことも問題にならない。

2006年9月25日月曜日
 夜中に目が覚めてしまい、眠れなかったので朝方まで翻訳の仕事をしていた。そのため朝起きる時間が遅くなってしまった。3時頃、思い立って京都府立植物園に行ってきた。温室にあるバオバブの木に花が咲いているという情報も得ていたが、着いたのが遅く温室には入れなかった。早くも夕方の気配があった。常は決まった道を歩いているが、どこをどう歩いていいかわからず一時間ほど歩き回った。閉園間際になると、自転車に乗ってマイクを持った職員が園内をまわっていた。蛍の光か何か音楽でも流れるのかと思ったら違った。悪鬼(わるがき)と書かれたTシャツをきた男性(彼はその日本語の意味がわかっているのだろうかと思った)が一生懸命噴水の写真を撮っているので、どうしてなんだろう、と思ってカメラを構えて見てわかった。小さな虹が噴水の中に生まれていたのである。
 この頃は前のように重いかばんを持ち歩けない。帰りに書店に寄って、ロワイヤル・ポッシュ仏和・和仏辞典を買った。小さな辞書なので、これで外に出た時も(あまり出かけることはないが)仏文を読める。ささいなことだが嬉しい。

2006年9月24日日曜日
 今日は父が墓参りにきた。身体の具合はよくないようだが、精神的にはわりあい元気そうに見えた。お前のほうが私より重い、と父はいうが、少し歩くと疲れ、ゆっくりとしか歩けない父と歩いていると、たしかに僕が入院していた頃はそんな感じだったが、今は父と比べたら僕はすっかり完治しているようにも見えるほどである。心配をかけないように元気になりたい。
 津島佑子の『火の国』で、桜子の母が亡くなる場面がある。桜子が看病をしていた。子どもたちが集まったが、皆自分の生活に戻らなければならない。有太郎が帰ろうとした時、桜子が突然たたみに顔をこすりつけ、大声で泣き出した。
—有ちゃん、わたしを置いていかないで!……江田島にいっしょに連れてって。ねえ、連れてってよう。
 母が死んだ後、どうして一人でこの大きな古びた家に一人でいられるだろう。恐ろしい空虚に桜子は直面したのである。
 僕の母が49歳で死んだ時は父がいた。やがて父が横浜に行くといった時には、僕は結婚していた。僕は一度も一人になったことはなかった。
 

2006年9月23日土曜日
 昨夜は講演。退院してすぐに高校で講義をしていたが、マイクを使ってまとまった話をする講演は久しぶりだった。二時間ほどかかり、たどり着いた時には疲れてしまっていたので、以前は必ず立って講演していたが、椅子にすわって講演することを許してもらった。たぶん力は衰えてはいなかったと思うが、まだ9時台でも満員の電車で長く立つのは慣れないだけかもしれないがいささか辛かった。だからといって代わってもらうわけにもいかない。ともあれまだ次の日に十分休めるのであれば、できないわけではないことがわかった。
 電車の中で翻訳の仕事をしようと思ったのだが、辞書を忘れてしまったことやすわれなかったことで断念。その代わり、津島佑子の『火の山—山猿記』を読み終えることができた。もうすぐ終わるテレビのドラマの原案らしいが、たしかに決して「原作」ではない。脚本家がこれほど勝手に改変するのはひどいと思った。しかし、テレビはNHKらしく薄っぺらいつまらない出来だが、この小説の存在を知ることができ忘れられない小説になったのはありがたい。原作は構成が煩瑣で最初読みにくかったのだが、下巻に入る頃には置くことができず、一気に読んだ。小説では画家になっているが津島の父親がモデルらしい杉冬吾がテレビでは女性と心中するという結末にはおそらくならないのではないか。桜子のフィアンセの実家の話など小説には出てこない。

2006年9月21日木曜日
 退院して体調が回復してきて、さりとてあまり根を詰めて何かをするという気力がなかった頃は手当たり次第に本を読んでいたが、この頃、あまりゆっくりと本を読むことがないように思う。次第に読む本が系統だってきて、目下の仕事に焦点を合わせている。それに時間が限られているという思いがいつもある。読む本を厳選する必要を感じる。
『悲劇の外交官 ハーバート・ノーマンの生涯』(工藤美代子、岩波書店)を図書館に返す。この頃、図書館で本を借りることが多い。コンピュータで調べてから行くのだが、多くが書庫に入っている。そのたびに係の人の手を煩わすことになる。優れた日本学者でもあったカナダの外交官ハーバート・ノーマンは、日本の敗戦後GHQの政策中枢で活躍したが、アメリカで吹き荒れる反共主義の義性に見える形で謎のカイロで自殺を遂げている。47歳だった。
 ノーマンは前夜医師の診察を受け、自死について語っている。しかしこの医師は結果的には力になれなかったことになる。ノーマンには「心のすべてを委ね、この人がいるのなら、さらに自分は生き続けることができると思えるような人は、残念ながら一人もいなかったようだ」(p.378)と工藤は書いている。僕はそんな人になりたいと思ったし、今も思っているが、そのためには元気にならないといけない。気が弱くなって、これからは自分のためにだけ生きようと思ったこともあったのだが。

2006年9月20日水曜日
 昨日書いたことの続きだが、今は仕事をしていないので前にもましてデスクワークが多くなってしまった。一日の最後もだが、休憩することなく仕事をし続けるわけにもいかない。そこで休みを取ることになるのだが、これが苦手で、気がついたら根を詰めて原稿を書いたり翻訳をするのでひどく疲れてしまう。適当に休みを取った方が結果的には長く続けられるのだろう。始業、終業の時間が決まっているわけでなく、時間に縛られることなく、途中休みを取っても、外に歩きに行っても誰に引き留められるわけではない。この自由はなかなか厳しい。
 普通ではないだろう時間に寝ていることがあって(だから出かけているわけではないのに)「なかなか連絡がつかなくてハラハラした」と今週の講演の担当の方に叱られた。

2006年9月19日火曜日
 夜、練る時間が遅くなっている。夜は翻訳をしていることが多いが、なかなか止める決心がつかないのである。BMI(体格指標)でいうと痩せ過ぎかもいしれない。退院して4ヶ月。強い意志はいるが、体重を減らすのはそんなにむずかしいことではない。カロリーを制限し、間食をしない。もっとも食事内容を考えなければコレステロール値、血糖値はなかなか下がらない。塩分も入院来制限している。血圧が下がったのは完全閉塞した冠状動脈をステントの力を借りて開通させたことによるところが大きいが、手術後はしばらく安定せず薬を使っていたが(点滴)、ほどなく必要ではなくなった。今は血圧の薬は飲んでいない。今のところ大きな異常はないようだが、過信して大きなイベントに臨むと疲れが尾を引くようだ。
 アドラーのいうライフスタイルの意味を説明する時に、人は生まれるとすぐに自叙伝を書き始めるが、死と共に完結する、その自叙伝を書く時の文体に相当するのがライフスタイルであるという説明をすることがあるが、まだ完結したくない。しかし文体は変えないといけないだろう。

2006年9月18日月曜日
 人が生きるということにはどんな意味があるか。この解けない問いを何年も問い続けている。今回の前を思い出せば中学生の時、交通事故に遭って重傷を負って以来のことである。高校生の頃書いた日記には、西田幾多郎の言葉を書きとめているのだが、「思索などする奴は緑の野にあって枯れ草を食う動物の如しとメフィストに嘲られるかも知らぬが」と西田がゲーテの『ファウスト』を引いて語っている言葉が印象に残った。
 スロー・リーディング」を勧める平野啓一郎は、小説を例に引き、小説は速読できない。なぜなら「小説には、様々なノイズがあるからである」(『本の読み方 スローリーディングの実践』PHP新書 ,p.44)といっている。ノイズばかりといっていいくらいである。プロットを追うことにどれだけ意味があるか。要は、とまとめてしまったら大抵の小説は読む必要はない。小説に限らない。人生そのものがノイズではないとしても、人生のその時々の細かなことにこそに意味があるのであって、人生を要約しても意味がないし、自分の人生をまとめられても困惑するだろう。

2006年9月17日日曜日
 神経が高ぶってなかなか眠れず寝るのが遅くなったこともあって今朝は起きるのが常よりかなり遅くなってしまった。雨の合間を少し歩いた。喫茶店で翻訳の仕事をしたが、この店は禁煙ではないので(そういう店の方が多いだろう)三人の男性が次々に絶え間なく煙草を吸うと店はたちまち煙草の煙が立ちこめ、店を出る頃には服に煙草の匂いがついてしまった。受動喫煙の問題は心筋梗塞後の僕には深刻である。
 西田幾多郎がドイツの哲学者フェヒネルを引いてこんなことを書いている。フェヒネルは、死後の生命を認めている。
「母の胎内にある胎児に目や耳が生ずる。それは母の胎中にある限り無駄なものであるが、誕生してから大事な役に立つ。同様に現世において生きている人間には役に立たないいろいろのことを考える。しかし、それは死後、もっと高い魂の生活をする時に、なくてはならない役を演じるのである」(『哲学概論』)
 母の胎中にあることと人がこの世で生きることが対比できるのか、また死後において(それを認めるとしても)魂の生活が高いものかわからない。ただ入院していた頃からずっと考えていることだが、今こうやって考えていることが死ねば雲散霧消するようでは生きることはずいぶんとつまらないものだ。入院中、ドイツ語から離れてしまったのでアドラーの翻訳するために一から始めるつもりでドイツ語の知識に磨きをかけなければならなかった。もうかれこれ4ヶ月勤勉に学んでいるので、難解な(下手な、といえばアドラーに叱られるかもしれない)ドイツ語にも親しめてきたように感じているが、こんな目に見えない知識はどうなるのだろうか。そういったものが死後の生命を認めることで初めて価値があるとして、しかるに死後は何もないとしたら虚しい。しかしどうやら僕の今回の経験では、死後には何もないほうに賭けないといけないように考えることがある。

2006年9月16日土曜日
 今日はヴァイツゼッカーの講読会。退院後すぐに参加し始め今月の会で4回目。今回は訳を担当させてもらった。皆の前でドイツ語を読み上げることは久しぶりで緊張してした。今思えば最初の頃はすわっているだけで大仕事だったから、体力がずいぶん戻ってきたことがわかる。
 帰り、タクシーに乗った時に、障害者手帳のことについて運転手さんにたずねてみた。「前にタクシーに乗った時、手帳の番号と名前を控えられたことがあったのですが、そんなこと京都市ではありませんよね」「それはおかしいです」「やはり。タクシーに乗る時に名前がいるはずはないですね」「私たちは〔会社から〕手帳も見ないようにいわれているのです。手帳を所持しているかは当然確認されるだろうが、名前まで見たりはしないということである。

2006年9月15日金曜日
 昨夜は尼崎で保育さんたちの集まる研修会へ。もう何年も毎月一度通っていたが、最後に行ったのは入院する前の週の4月13日で、長く中断することを余儀なくされた。久しぶりだったのに、前月に引き続いての研修であるかのように自然に迎えてもらえて嬉しかった。
 4月の研修会へ行った時は前日ほとんど眠れなかった。その頃、夜、眠れないということがよくあった。新しいことをするのは緊張する。退院後一番の遠出だった。まだ電車ですわれなかったりすると応える。もう体力は十分回復していると思うのだが。帰ってからもテンションが下がらず、遅くまで寝つけなかった。ひとつ何かを達成できると自信が持て、次の課題へと繋いでいけるように思う。

2006年9月14日木曜日
 今夜は退院後初めての講演。研修会なので講演というと大仰なのだが、久しぶりに遠方にしかも夜、出かけるので緊張している。今月はもう一件、講演の予定がある。少しずつ復帰できれば、と思っている。前のように行かないのは講演前に外食ができないということと、もしも夕方食事をしなければ帰ってから夜遅くに食べることになるのだが、それは食事療法上避けたい。食べないのが簡単なのだが(空腹になることを別にすれば)夕方薬を飲まないといけなくて、いくつかある薬の中には空腹時を避けることと注意書きにあるのである。さてどうしたものかと悩みながら、そろそろ用意をして出かけなければならない。

2006年9月13日水曜日
 野球は普段見ないのだが、ヤンキーズの松井秀喜が復帰するというので中継を見た。最初に打席に入る時、観客が立ち上がって拍手、声援を送るのを見て、わがことのように嬉しかった。松井が左手首を骨折したのがちょうど僕が入院していた時で、辛いだろうと思った。その後もリハビリの様子などを伝えるニュースを注意して見ていた。「いつ戻れるとか、来年まで戻れないと考えず、その時できることを一生懸命頑張ってきた。やり残したことはない」と松井はいっているが、先のことを考えずにその時できることを頑張ることはそんなに簡単なことではないことが僕にはよくわかる。

2006年9月12日火曜日
 今日は南丹病院へ行ってきた。ただし今回は循環器内科は受診せず、皮膚科だけ。アトピーがひどくて心筋梗塞で入院した時にはそちらの治療はどうなるかと危惧したが、寺澤先生がICHの病室まで往診してくださって、それまで別の皮膚科医院でもらっていたのとは別の薬を処方してもらって以来、劇的によくなっている。ステロイドとワセリンを混合した薬は少しずつステロイドの割合を減らしていき、ついに今日はステロイドそのものをこれまでよりは弱いものに切り替えることになった。飲み薬は変わらないが、前回から出してもらっているシナールというビタミンCの薬は、回復と共に色素沈着してしまった皮膚の個所の色を薄くし、見た目にもずいぶんとよくなった。痒みがあると夜も寝られず、昼間も仕事への集中を欠かせ、そのことがひどいストレスになっていて心筋梗塞を誘発する一つの原因になっていたかと思う。かくて心筋梗塞の危険因子の一つが解消しつつある。
 今回のアトピーは一九九八年の夏以来悪化し、治療を受けてきたが、一体、長年の治療は何だったのだろうか、と思う。一度何かのきっかけで(近くにあるとか、紹介とか)一人の治療者にずっとかかることになることが多いように思うが、セカンド、さらにはサード・オピニオンを求めることは必要である、と今回思った。
 今朝は電車に間に合いそうになくて少しいつもより早足で歩いた。そのためか病院で待っている間少し苦しい気がしたが(苦しい気がするのと苦しいのとでは実際のところは区別はないのかもしれない)無理はしてはいけない、と思った。

2006年9月11日月曜日
 この頃、僕はもう本当は完治しているのに、治ってないといって仕事から逃れているのではないかと思うことがある。もっといけないのは、そんなふうに人から思われているのかと思うことである。前はもっと仕事ができたのにというようなことを思うのはやめよう。
 5年前の9月11日はロンドンから帰ってきた日だった。もう5年も経つというこの5年間政治はいよいよ悪くなっている感を拭えない。アメリカがしかけた大義なき戦争に政府は思慮なく追随し、莫大な軍事費を出費した。イラクを破壊しておいて復旧支援という名のもとに憲法に違反して自衛隊派遣が強行された。アメリカでは5年経った今戦争への反省がなされているというのに、そんなことどこ吹く風といわんばかりに小泉政権がイラク戦争を支持したことの間違いを指摘する人は少ないように見える。政府によって9・11テロの犠牲者が戦争の口実にされることを潔しとしない家族を失った人たち団体「ピースフル・トゥモローズ(平和な明日)」があることも忘れてはならない。

2006年9月10日日曜日
 僕に休みの日はないが、土曜、日曜日は学校が休みなので起きるのが遅くなる。そのことを計算して、遅くまで起きて仕事をしていた。雑誌原稿を出版社に送ることができた。三回連載のうちの二回目。1200字では書き始めたと思ったら終わりという感じ。文字を削り、削りして書き上げる。入院中に引き受けたこの原稿の前回の締切は退院後間もなくの6月10日だった。次回の締切は、入院と重なるかもしれないので早めに書かないといけない。
 両親が共稼ぎだと子どもに無関心である、と政治家が発言しているのを聞いて、昔、子どもを保育園に送り迎えしていた頃、園長が「私が子どもの頃は、帰ったら親が手作りのおやつを用意していたものですけどね」というのを聞いて驚き呆れたことがあった。今はこんな保育園があるとは思わないのだが。いつか土曜日に親子遠足があって、親が同伴しないといけなかったので、どの親もその日仕事を休むのに大変な思いをした。それなのに、保育園に帰ってからの園長の挨拶はこうだった。「日頃は皆さんは子どもと接する時間が少ないでしょうから、今日はそのための時間を取りました」。たしかにその日子どもと過ごせたことはよかったが、余計なお世話だ、と僕は思ってしまった。
 テレビで発言していた政治家は、この園長と同じく、育児をとりまく現状を知らないのではないか。親は頑張って働き、帰宅後は昼接することができない分、一生懸命子どもと関わるのである。女性は働かないで育児に専念しないといけないというような考えに僕は与さないが、共稼ぎをしないわけにいかないという人も多い。逼迫した経済事情を棚上げにして、共稼ぎをしている親を子どもに無関心であると批判するのはおかしい。子どもに無関心であるかどうかは働いているかどうかには関係がない。政治家が教育について発言するのを聞くと、どんなふうに子どもと過ごすかまでは放っておいてほしいと思う。

2006年9月9日土曜日
 今日は血圧が低くて、つらかった。二十歳代の頃からずっと血圧が高くそれなりに慣れていたので、血圧が低いことにまだ慣れない。常は適当な高さで、立ち上がったらふらつくというようなことはないのだが。
 できる時に仕事を集中してたくさんするのか、毎日少しずつむらなく仕事をするのかいいのか。こんなふうに迷っているうちに先に進むこと。毎日、少しだけ、しかもむらがあるというのではどうしようもない。

2006年9月8日金曜日
 強い雨が降り涼しくなっていたが、今日は日差しが強かった。
 毎日8時前になると、近くの建材店から放送が流れてくる。それが「朝礼!」とただ一言なので驚く。その時間には起きているから問題はないが、それにしても大音量で放送することはないだろう。
 入院していた時のことを思い出したのである。ICUを出て救急病棟の個室に移ったのだが、折しも選挙中で窓からある候補者の選挙事務所があった。やかましくても入院している患者は逃げられなかった。
 昼間、家にいるのでよくセールスの電話がかかってくる。創刊33年という学生新聞の勧誘電話。学生新聞をなぜ僕が買わないといけないのか、とたずねてたら先輩方に、と。創刊33年なのになぜ今ごろ僕のところに電話をかけるのか。今年は文学部の卒業生にかけている、という答え。もちろん、買うはずもない。
 ある日はこんな電話。「〜さんいますか?」(敬語を使わない人だった)「いません」「ご主人は?」「いません」「今日は帰りますか?」「知りません」「今夜はずっと帰らないんですか?」もちろん、ここで切った。
 またある日の電話。「高校生の〜さんはおられますか?」「いませんが」「お父様でしょうか?」「違います」「そうですよねえ」勝手に納得している人。
 いずれも僕の部屋にかかってくる電話ではないので(疲れた時横になるために書斎にはいないのである)出なくてもいいのだが、鳴り続ける電話が止むのを待つのはイライラする。

2006年9月7日木曜日
 激しい雨のため、外に出るたびに濡れてしまう。今日は図書館の本を返すために出かけたが、あまり考えないで出かけたので図書館に着いた頃にはかなり着いてしまった。小降りの時もあったであろうに。最近は図書館に行く前に蔵書検索をしてから行く。書庫にある本が多い。どういう基準で書庫に入っていくのかといつも思う。図書館が新刊書店のようにならなければいいのだが。
 締切の雑誌原稿を抱えている。書き始めると(たぶん)すぐに書けると思うのだが。
 食事についてはかなり厳格に制限を課すことに成功しているのに、生活時間については前と変わらずルーズである。入院していた時は10時には寝ていたのに。退院して家に帰った時の、また最初から生き始めようと思った感覚が失せかけているのはよくない。身体がつらくなるとこのことに思い当たる。その時、歩けるところまで歩こう、それしかない、と思う。
 写真は、京都市美術館の横を流れている白川。

2006年9月6日水曜日
 娘たちが準備を進めていた文化祭の出し物が完成した。「お父さん、くる?」といってくれたので、どんなふうになったか見に行ってきた。チラシや雑誌を切って(7mmX7mmに切った紙、23万400枚)作成されたモナリザは高さ4メートルほどある。学校に入る時に受付で名前を書き、黄色いリボンをつけるようにいわれた。行きは険しい上り坂で僕には無理なのでタクシーを利用した。帰りは勾配が比較的なだらかなので歩いてみたが、山道に変わりはなく、駅まで歩くと息が切れてしまった。
 心筋梗塞になって身体障害者手帳を交付してもらっている。タクシーは1割引になる。京都市内では手帳を見せるだけでいいのだが、今日は手帳を見せてください、と番号と名前を控えられた。どうしてそのことが必要かわからない。手帳を使う機会はあまりないが、気になっているのは、地下鉄、バスは一人で乗る時も、割引が適用されるが(半額)、JRは介助がある時にしか割引はない(半額、つまり二人で一人分)。たしかに一人でも割引されることがあるが、片道100キロ以上でないと適用されない。僕は今は一人で出歩けるが、介助も必要だがいつも介助の人の援助を得られるわけではなくそれでも一人で外出しなければならない人はどうなるのか、と思う。

2006年9月5日火曜日
 京都市美術館で今日から開催のルーブル美術館展に行ってきた。古代ギリシア芸術・神々の遺産というテーマで、彫刻、壺など134点が出品されている。これほどの規模の展覧会が可能になったのはルーブルの古代ギリシア、ヘレニズムの展示室が改修工事に入るからである。僕は1999年にルーブル美術館に行った。パリには二日しかいられなかったのだが、ギリシアの展示室には二日とも通って丹念に見た。懐かしい。二ヶ月あるので何度か足を運ぶことになりそうである。
 ジャン=リュック・マルティネーズ、ルーブル美術館古代ギリシア、エトルリア、ローマ美術部門主任学芸員の講演を聞いた。講演のテーマは当初予定されていた「ヴィーナスの誕生」が変更になり、「アングルと古代」になった。知っていればアングルについて勉強していくことができたのに残念である。
 話は、アングル(1780〜1867)がギリシア、ローマの古典の作品を参照データとして、膨大なデッサンをもとに自分の作品に取り入れたことを画像で示していくというもので、たしかにこの絵のこの部分はこの彫像がもとになっているという指摘はおもしろかったが、このような手法は当然アングルだけが採ったものではないであろうし、どういうところがアングルの優れているところかという点がわかりにくいように思った。しかし、よく知られたアングルの絵にモデルとなった彫像などがあることがわかり興味深かった。独創ということの意味を考えた。写真は京都市美術館。鳥居は平安神宮のものである。 

2006年9月4日月曜日
 昨日前の家に立ち寄ったついでに本棚から『私の読書法』(岩波新書)を持ち出してきた。この本はもう何度となく読んだのだが、田中美知太郎、渡辺照宏、加藤周一の書いたものが印象に残っている。あらためて読んでみて、この中の仏教学者である渡辺の「病床の読書」が、療養中の今の僕には共感できる。この渡辺のエッセイは、同じ渡辺の『外国語の学び方』(岩波新書)とあわせて、外国語の勉強への刺激になった。
「語学の勉強に時間をかけたのもただ本が読みたいためだった」(p.144)
 しかし勉強はめちゃくちゃで無駄が多かった、と読んで、僕のこんな勉強の仕方でもいいのだといい聞かせた。ひとつの外国語をマスターする前に、次のものに手を出し「慢性の消化不良」にかかったと渡辺がいっているのは、まさに僕と同じだと大学生の頃思った。
「絶対安静から少し恢復すると軽い本を選ぶ」(p.148)
 軽いというのは本の重さのことで、内容のことではない。心筋梗塞は絶対安静が必要で自分の判断で動くと命に関わる。絶食が続き、身体の向きを変えるのも看護師さんにお願いしなければならなかった。読書などとんでもなかったので、読書が許可になるまで辛かった。やがて本を読むようになったが、ベッドで寝たままだったから、渡辺が書いているように、重い本はだめだった。
「十年前に入院していたころ、患者仲間で「あれはフランス文学の先生だそうだ」と噂したとか。実をいうとフランス語を習いたいという若い患者が二、三人私の病室に出入りしていたというだけの話である」(p.146)
 僕の入院が長引けばこんなこともあったかもしれない。イタリア語を教えてほしいという看護師さんもあったそうだ。僕の場合は部屋から外に出られなかったり、室外に出ることが許可になってからもあまり外に出なかったから他の患者さんと話をするようなことはほとんどなかった。ある日見舞いにきてきた家族をエレベータのところまで見送りにいったら、談話室のテーブルのところで男性が本を読んでいる姿を見かけた。新聞でも週刊誌でもなかったので、本を読んでいる人がいるのだ、と思ったことを覚えている。
 入院中はありあまるほどの時間があったはずなのに、結局、持ち込んだ本を全部読み切ることはできなかった。時間があっても、なんといっても病者だったので、体調が悪いときなどは本を読みたくても読めなかったのである。僕は僅か一ヶ月で退院したから渡辺とは違うが、渡辺が次のように書いているのはよくわかる。
「私のような長期療養者は毎日の生活において制約を受けているばかりではなく、喀血や発熱でいつルートが遮断されるかも知れないという脅威にさらされている」(p.147)
 最近は、「遮断」されることは少なくなってきてありがたいと思う。

2006年9月3日日曜日
 どんなことでも始めるのは簡単だが、続けるのはむずかしい。僕にはむらなところがあって、寝食を忘れて打込むこともあれば、あっという間に熱意を失ってしまうことがある。もちろん、これでは仕事に差し障りがある。
 退院してから参加するようになったヴァイツゼッカーの講読会に参加している人が、脳梗塞を患ってドイツ語をすべて忘れたという話をされていたことを思い出した。「ですからこうやって今ドイツ語を読むのは私にとってリハビリなのです」僕は脳ではなかったのだが、生還記の中に書いたように、倒れる前、話をしている時に舌がもつれることがあったし、話の筋道を忘れてしまうことが時々あった。どちらも心筋梗塞に至った血液循環に起因する問題だったと思う。僕は幸い心臓だったので何もかも忘れるところまではいかなかったが、入院前の発音の困難と忘却のことを思うと、再発が怖い。
 夜、前の家に無花果をとりにいった。誰が植えたというわけでもないのに、大きな木になった。収穫は4個。昼間に行くべきだった。

2006年9月2日土曜日
 外に出かけられないのでうつうつとしていたところ、読書会を開くという話が持ち上がり、お世話をしてくださった方の尽力ですぐに実現した。遠方からたくさんの人が来訪。久しぶりに人前で話をする。初めてのことは(退院後は初めてのことばかり)力の入れ具合がよくわからない。何事も始めるのは簡単だが続けるのは難しい。
 前にも書いたが講義に行かなくなったので9月になったという例年の感慨がないままに9月になってしまった。いくつか締切のある仕事に頑張りたい。
 飛行機に乗った時にヴェジタリアンのメニューを選べると聞いたことがあるが、外食時に塩分を制限したりカロリーを制限したメニューを選べたら、といつも思う。

2006年9月1日金曜日
 夜、雨が降り出した。何ヶ月ぶりだろうか、傘をさして散歩した。
 退院してからもう長くなるが、毎日、入院していた時のことを思い出す。仕事が終わってから病室に立ち寄って様子をたずねてくださった看護師さんのことや、誰とも話さず一人で黙々と食事をしていたことや、部屋の外にも出られず外の様子がわからなかった時、朝毎日掃除にこられる人にその日の天気をたずねていたこと、また入院していることを知らせようかどうしようかと迷っていたことなどなど。
 医師や看護師さんたちには患者の入院は日常的な経験で、僕が退院してもすぐに別の人が入院してくるであろうし、一々患者のことなど覚えてられないと思うのだが、患者の立場の僕にとっては生涯の間何度もない入院生活からは後々影響を与える。
 保育園の時に入院したことも覚えている。もっとも今となっては二つのことしか記憶にない。入院することになったので保育園を途中でやめることになったこと、局部麻酔の手術だったので意識があったので手術の間(おそらく)医師と話しをしていたことである。途中で麻酔が切れたのかひどい痛みにおそわれ意識を失い気がついたら病室のベッドで寝ていた。しかし、今となってはよくわからない。
 中学生の時交通事故で入院した時のことも今はよくわからないことがある。夜、眠れなかった時に母が付き添ってくれていて長く話しこんだこと、その時、空高く飛行機が飛ぶ音がしたことなど夢の中のようである。

2006年8月31日木曜日
数日行方不明だったケーブルを見つけた。夜中にふとわかった。処方してもらっている薬を入れる箱がある。ここからそこから1週間分だけを出して飲み忘れないように常時手元の目に付くところに置いているのだが、箱の方は邪魔になるので息子の部屋の机に置いてある。土曜日になると薬を箱から出して曜日、時間別に分類できる箱に入れるのだが、その時に僕はあまり気にかけずに箱の中にiPodとデジカメのUSBケーブルをしまったわけである。箱は家人が息子の部屋の机の上に移動した次第。
 渡辺一夫の『敗戦日記』(博文館新社)の続き。渡辺がロマン・ロランを引いている。戦いのさなかにあって、人間同士の平和をあくまでも守ろうとしたら、その信条のゆえに自分の安息、名声、さらには友情すら失いかねない。しかし「いったい、そのために何一つ危険を冒さぬような信念に、何の価値があろうか?」
 平和を守る主張はいつの世も多数派にはならないように見える。
 写真は最近時々自転車で走っていた道。農道で用水路がある。道は十分広いのだが、落っこちてはいけないなどと意識すると吸い込まれていきそうだ。自転車は僕にはきつすぎるようなので、また歩いている。
 使わないでとってある付箋がある。入院していた時にうっかりコップの中に落としてしまった。その場にいた看護師さんが取り上げて、ていねいにガーゼで水分をとって乾かしてくださった。しわくちゃになってしまったが、僕が大切にしていたものだったのでうれしかった。もう使えないね、といわれてもおかしくない状況だったのだが。

2006年8月30日水曜日
秋の気配がした。ありがたい。とはいえまだ昼間に歩くには暑い。
 ケーブルは見つからない。忽然と姿を消したとしかいえない。なんだこんなところにあった、と思いたくて、何度も探したのだが。しまう時にぼんやりしていたのだろう。いつも目覚めていないといけない。大学の書庫にあった張り紙を思い出した。必ず元の場所に返してください。永遠に見つからなくなります。
 二週間前に注文した本が届く。渡辺一夫『敗戦日誌』(博文館新社)。他に、香料間際に見つかった日記(「続・敗戦日記」)とエッセイ、書簡を収録。敗戦日記はほとんどがフランス語で記されている。原文が写真版で口絵に収録されている。
「この小さなノートを残さなければならない。あらゆる日本人に読んでもらわなければならない。この国と人間を愛し、この国のあり方を恥じる一人の若い男が、この危機にあってどんな気持ちで生きたかがわかるからである」(1945年6月6日)
 すわっていても息が苦しくなってやむをえず横になることがよくあったが、そういうことは少なくなってきた。入院前の仕事時間にはるかに及ばない。

2006年8月29日火曜日
 朝、息子が帰ってきた。結局、こちらには一泊もしないですぐに夜行バスで東京に行ってしまった。年末は帰れないかもしれないといっていた。旅行のことなど話を聞きたかったが、あまり時間がなかった。息子が旅に出かけている間借りていた『<民主>と<愛国>—戦後日本のナショナリズムと公共性』の残りを読み上げた。知覧の特攻隊の話は少しした。同じ年代の青年が出撃したことをどういう思いでとらえたか。
 夕方撮った写真をコンピュータに転送しようと思ったのにケーブルが見当たらない。こんなところにしまったらわからなくなると少し思ったのは記憶にあるのだが。大事な書類をいれた封筒がなくなって二日探したら、まったく思っていなかったところにしまっていた。ぼんやりしていることがあるようだ。
 再発作が起きたらどうしようと今日はふとそんなことを考えてしまった。ステントを留置してあるところはともかく、それ以外の閉塞している個所がどうなっているのかと心配になる。

2006年8月28日月曜日
 昨日は気分が散漫で仕事があまり進まなかったが、今日は先に進めることができた。
 朝日新聞を読んでいたら、ミスをした時どうするかという記事があって、反省しなくても原因を探ってもマイナス思考になるだけという話をたしかにそうだろうと読み進めていたら、最後の方に、甲子園に出場したある高校の監督の話が書いてあって驚いた。選手がミスをした時に、タイムをとって伝令を送ることの効果に触れ、著者こう書いている。「監督はエースのふがいなさに「死ね」という強烈な言葉を伝令に託して発奮を促した。ただし、これは監督とエースが親子ともいわれるほどの間柄だったからこその言葉」「ただし」とは書いてあっても、著者はこのいい方を肯定していることには変わりはない。親子だったら「死ね」といういい方も許されると読めないこともない。こんなことをいわれて発奮する高校生もいるのだろうか。この言葉に憤慨する人はいないのだろうか。同じ言葉を子どもにいわれたらこの監督はどう思うのだろうか。こんなふうにいわれた高校生は、将来自分の子どもに同じことをいうのだろうか。僕はこれは暴力だと思う。

2006年8月27日日曜日
 疲れたのかソファで寝てしまった。目が覚めたらもう夕方になっていたので、外に出かけたら雨が降った跡があった。気がつかなかった。
 アドラーのドイツ語がむずかしくて先に進めないことがある。関係代名詞をいくつも使い、いつまでたってもピリオドまで到達しない。ヴァイツゼッカーの読書会の時、木村敏先生が、「しかし本当のところは何にいいたいのか」とか「わかりにくい、一体何いってるんですかねえ。全体の底に何かがある。それを見つけなければ、読めないですね」といってられたことを想い出した。本を読むというのはそういうことである。言葉を拾っていってもそれだけでは読んだことにはならない。このことは外国語を読む時のことだけではない。さらに、同じ難しさは話を聞く時にもある。相手の話がよくわかると思えた時はわかってないかもしれないのである。

2006年8月26日土曜日
 長崎に二泊した息子は、夕方7時間かけて鹿児島に到着したらしい。知覧に行く。憲法99条を知らない政治家が特攻攻撃に出ていった若者について「国家のためにすすんで身を投じた人」と書いているが、本当に「すすんで」だったのだろうか。加藤周一が戦死した友人について、こんなふうにいっている。「彼はまだ生きはじめたばかりで、もっと生きようと願っていたのだ。みずから進んで死地に赴いたのでも、「だまされて」死を択んだのでさえもない。遂に彼をだますことのできなかった権力が、物理的な力で彼を死地に強制したのである」(『羊の歌』p.198)。
 高校で倫理社会を教えてもらった先生が、文化祭の時、生徒のバンド演奏を聴き、この子たちを二度と戦場に送ってはいけない、と若い数学の先生と不戦の誓いをしたという話を時々思い出す。「一人の友人にくらべれば、太平洋の島の全部に何の価値があるだろうか」(『羊の歌』ibid.)。先の政治家はいう。「たしかに自分のいのちは大切なものである。しかし、ときにはそれをなげうっても守るべき価値が存在するのだ」。大義や国益のために人が殺されることがあってはならない。

2006年8月25日金曜日
 久しぶりに自転車に乗った。4月に入院したのは19日、曜日でいうと水曜日だったが、その前の日曜日に自転車に乗った最後の日だった。もともと常日頃あまり自転車には乗らないのだが、その頃歩くと苦しくなることがあって、土曜日には内科を受診している。用事ができて出かけることになって、自転車なら大丈夫だろう、と思っていたら、それでも苦しくなった。平坦な道なら何でもないのにどうしたんだろう、と思ったことを覚えている。今日乗ってみてわかったが、まずスピードが出るのが怖いということ、長い時間乗ったわけだが、歩いた後よりはるかに疲れがひどい。怪我をして出血すると怖いので(薬の関係)避けていたが、様子を見てまた挑戦してみようと思う。いつも書いていることだが、どんなことでも初めてする時は緊張してしまう。

 2006年8月25日金曜日
 息子は昨日、広島から長崎に着いたという連絡があったが、今日はどうするのか知らない。離れて暮らしていると日々ことさらに息子のことが気になるわけではないのだが、夏休みになって、また前のようにしばらく一緒に暮らしたので、旅に出たとなると気にかかる。学会があってよくあちらこちらに出かけたが、そういうのではなく本格的な(というのかわからないが)旅行をしたのは、1999年ウィーンとパリだった。ほとんど文字でしか知らないドイツ語やフランス語が通じるかという不安を感じながら旅立った。入院していた時、看護師さんがまたきっと行けますよ、といってくださったが、今は夢のまた夢である。元気になりたい。
 最近、考えているテーマの一つは「対話」である。外交の場面で、対話と圧力というようなことをいわれることがあるが、本来対話というのはどういうことなのか、とか、話にならない、話が通じないというようなことはなぜ起こるのかというようなところからあれこれと考えている。
 政治家はレトリック(修辞)を駆使して説得しようとする。レトリックすらないような政治家もないわけではないが、レトリックの特徴は、真理ではなく「もっともらしさ」ということである。本当のことでなくても、それらしく思わせればいいのであって、その目的のために美辞麗句を使い、感情に訴える。ソクラテスが死刑になったことはよく知られているが、有罪が決定した時、普通は、感情に訴えて減刑を嘆願するのにそんなことは一切しなかった。レトリックとはおよそ無縁の哲学者だった。
 感動する話ではなく、真理を語りたい。

2006年8月24日木曜日
 昨日、おとついと少し秋の気配を感じたのだが、今日は暑かった。病気になる前は、外に出かけて、よく喫茶店でコーヒーを飲みながら仕事をすることが多かったが、コンピュータを持ち出せなくて(重い鞄を持てなかったので)ずっとあきらめていた。今日、久しぶりに部屋からコンピュータ(PowerBook)を持ち出した。気分が変わってよかった。
 加藤周一の『羊の歌』を読み進む。何度も読み返した本だが、誰かに貸した後そのままになっていて、そのうち絶版になった。また手に入れたいが、さしあたって地元の図書館の書庫にあることがわかったので、借り出し久しぶりに読んでいる。
 最近読んだ本を読むと、戦争中情報操作がされていて、事実を知らされていなかったことを多くの人が指摘しているが、1930年代の最初に中学生だった加藤は、当時「中学生の私に、日本の行く方が全くわからなかったのは、情報が不充分だったからではなく、情報を分析し総合する能力が私にはなかったからである」(p.110)といっている。この能力は中学生の加藤だけではなく、大人も多くの人が持ち合わせてなかったように思う。何も知らされてなかったですまないのではないか。「情報を分析し総合する能力」こそ、教育が教えることだと僕は考えているが、為政者にとっては不都合だと考える人もあるかもしれない。

2006年8月24日木曜日
 息子が広島に行くのは今回が初めてである。原爆資料館で三時間過ごしたというメールがきた。広島で一泊し、今日は長崎に向かう。
 この頃はよく本を読んでいるが、加藤周一が、今でも自分にいい聞かせている、とこんなことをいっているのを思い出す。「本を読んでいては、本を書く暇がないだろう」(『羊の歌』岩波新書、p.49)。本を書くのは能動的な所作なのでエネルギーがいる。疲れてしまうと、本を読むことしかできない。頭がさえている時は原稿書き、疲れたら翻訳、さらに疲れたら本を読んでいる。もっとも原稿を書く時にも本を読む必要があるのだが、この場合は調べものというべきで読書とはいえない。
 例年は、夏休みが終わって間もなく講義が再開するので、夏ももう終わるという感覚があったのに、講義をしていないのでそんな感覚がないままに8月が終わろうとしている。9月になったからといって生活はほとんど変わらない。

2006年8月23日水曜日
 夜遅くまで荷造りをし、息子は朝早く出かけていった。10キロにもなるリュックには、これは無理だ、と小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社)を置いていってくれた。帰ってくるまでに読み終えられたらいいのだが。
 今日は、加藤周一の『高原好日』(信濃毎日新聞社)を仕事の合間に読んでいた。加藤が長年夏を過ごしてきた信州浅間山麓の追分村で出会った人たちとの交友録である。浅間高原にいても戦争と無縁で過ごせるはずもない。東京には政府の宣伝、御用文士、学者のやかましい声が満ちあふれていた。
「しかし夏の高原には鳴き交わす郭公の声と共に友人たちの静かな理性の呟きがあった。もちろんそれは無力な呟きにすぎなかっただろう。しかし私はあらゆる狂信主義者の大声を好まない」(pp.6-7)

2006年8月22日火曜日
 長く家に帰っていた息子が明日から旅に出る。身体を弱らせているので心配。身体のことを考えて、計画は柔軟に変更するように、といっておいたが。一人旅だというので、着いていこうかといってみたが、目下、僕は食事の問題があって、泊まりがけの旅行はできないのだった。それにこの暑さ。時間だけはあるのだが。
 母が死んだ後、母が親しくしていた友人から僕の名前がよくない、といわれ困惑したことがあった。「名前を変えなかったら、不幸になるということですか」とたずねたら、そうだ、と。当然、名前を変えるはずはない。その人が僕の病気のことを知ったら、やっぱり私のいったとおりだといわれるのだろうか。僕は不幸になったとは思っていない。

2006年8月21日月曜日
 息子が帰っているので最近は食卓に並べられる料理が多い。僕はいつも空腹で夕食を心待ちにするのだが、実際にはいつもと変わらず少し食べたところで箸を置く。
 身体に害があるものは可能な限り、食べない、飲まないようにしている。コーヒーがどうなのかいまだに判断できないでいる。病院でもらった看護師さんたちが作ったリハビリのパンフレットにはコーヒーは動脈硬化を促進するのでよくない、と書いてあった。それ以来、飲めなくなった。しかし、諸説あるようである。今日、僕がたまたま見たのは、コーヒーは脂肪を燃やし、善玉コレステロールを増やす、とあった。これなら僕の病気にはコーヒーは有用であることになる。喫茶店協会が書いたものなので、当然こう書くだろうな、とは思った。徳永進のエッセイにある患者さんに「ラーメンはいいんですか」と問われ、「ええ、ラーメンはいいですよ」と答えた話があった。そうしたらその人はラーメンばかり食べたという。医師の言葉の意味は、ラーメンは食べても害にはならないという意味であろうに。コーヒーがたとえよくてもたくさん飲むことはもうないだろう。倒れる前、夜を徹して原稿を書いていた頃、一日に何杯もコーヒーを飲んでいた。何事も中庸が大切というつまらない結論にいきあたる。
 亡くなった人の夢をよく見る。昨夜は森進一先生。夢はいきなり始まった。「では、岸見君、そこを読んでください」と先生にいわれた。僕は手に外国語で書かれた本のコピーを持っていた。ギリシア語でもドイツ語でもなく読めない。でも、先生は粘り強く待っている、そんな夢。

2006年8月20日日曜日
 朝、起きるのが遅くなって歩きそびれてしまったので夕方まだ日は高かったが、何か用事があれば出かけられるだろうと思って、図書館の本を返しに行ったら休館日だった。この図書館は通常は月曜が休みなので、調べもしないで行ったのがいけなかった。近くではあるが、暑い中このまま帰るのも惜しい気がして少し歩いてみたが、まだまだ暑さが厳しくて早々に引き上げることにした。
 最近、たくさんの本を読み散らしていて
読書ノートをなかなか更新できないでいるのだが、今日、紹介した『工藤写真館の昭和』(工藤美代子、小学館)にこんな話があったので紹介したい。
 話し手は写真師工藤哲朗の息子の一人である敏郎が見初めた女性。中学生の時に口の中にゲンコツを突っ込んだ。なんとか口の中に入ったものの、出なくなってしまった。
「どうしても出ないのよ。それでもう窒息しそうになって、苦しくって苦しくって、あんな思いをしたのは初めてよ」
 読みながら、さぞかし苦しかったのだろうと思った。
「ようやく口の中からゲンコツを出した後で気づいたわ。ゲンコツをほどけば、簡単に出たんだって。でも、もうあんなこと絶対にしない」
 省みれば、これとよく似たことをしている、恥ずかしいから他言できないが。
 敏郎は、この話をする後に結婚することになる多恵子と一緒に笑いながら、こんな女の子と一生暮らせたら楽しいだろうな、と思った。 
 清岡卓行の「朝の悲しみ」という小説(『アカシヤの大連』講談社文芸文庫)の中に、後に結婚することになる女性が無心に明るく笑うと、「それは、彼にとっても、小さな幸福であった」という一文がある。ある日、終電車を小さな広場で降りた二人は人影のない深夜の道を手を繋いで歩いた。空高く澄みきった月が二人を照らしていた。
 夫は病気の妻を元気づけようと詩を書いて見せる。彼の詩をゆっくり読んだ彼女は、「いいわね」と一言だけ答えた。そのことも彼にとっては小さな幸福だっただろう。
 宮沢和史の「歌」。できたばかりの歌を君は聞き、いい歌ね、といってくれた。「僕はそれで幸せだった」。しかし君がいなくなり、僕は歌を書かなくなった。
「夢の中で君に会った。満月よりきれいだった。手を繋いでずっと歩いた。そして歌が一つ生まれた」

2006年8月19日土曜日
 今日はヴァイツゼッカーの講読会。難しいと思ったのは僕だけではなく、かなり難航したが、得るところは多かった。内容もさることながら、ドイツ語の読みについても木村敏先生はていねいに教えてくださる。暑い中の移動が応えたのか最初少し辛かったが、前回とは違って、息苦しくなることもなく今日が一番身体は楽だった。しかし長時間同じ姿勢ですわっているのは苦しい。もちろん、休憩もあるのだが。でも、病気の前も同じだったかもしれない。
 帰り、鴨川沿いを三十分ほど歩いた。長く雨が降ってないので水嵩は高くない。あまり暑いので川の中に入っている人も多かった。飛び石は渡れないとは思わないが、今回も断念した。
 昼前、出かける用意を始めたので息子が一体どこに行くのか、とたずねる。息子が帰ってからもう長くなるが、その間近所の散歩以外は出かけてないので驚いたようだ。息子も用事があって、僕より先に出かけた。僕が出ようとしたら息子から今日は土曜日だから電車混んでるから、と携帯にメールが届いた。すわれないことを心配してくれたようだ。息子のこんな気遣いがうれしい。

2006年8月18日金曜日
 今日は退院後から参加しているヴァイツゼッカーの講読会の準備をしていた。三回目になる。昨日の診察も三回目で、退院後三ヶ月経ったことになる(5月20日に退院した)。診察などの区切りがあるとその前、さらにその前、どんなふうであったか思い出せる。
 数日来、肩凝りがひどいがおとついが一番辛く、今日はかなり楽になった。ところがこの苦痛と入れ替わるように呼吸は楽にできるようになってきた。一つの痛み、不調に意識が向くと、それ以外の苦痛に意識が向くことが少なくなるのがいいのかもしれない。
「今日も何もできなかった」が僕の口癖らしい。実際には何もしていないで過ごすことなどないのに。あせっている。
 昼、外食。外では食べるものはかなり制限される。量も今の僕には多すぎる。残すことなど前は考えられなかったのに。焼魚定食というのがあって、塩を控えめにしてもらえるかたずねてみたら、塩鯖ということで断念した。「どこか身体の具合が悪いのですか。元気そうに見えるのに」と店の人にいわれた。
 また音楽を聴けるようになった。今日はマーラーの1番と8番(いずれも、インバル、フランクフルト放送交響楽団)。ドイツ語でいえばhimmlisch(この世ならぬ、天の)という言葉を思い出す。

2006年8月17日木曜日
 今日は退院後三度目の受診。経過は順調で、血液検査の結果は食事の制限と運動の成果を反映していてよかった。まだ十分ではなのでさらに頑張らねば。コレステロール値は標準値の範囲におさまったが、思うほど下がらなかった。前回、遺伝子的要因があるかもしれないが、もう少し薬に頼らないで何とかしようということになったが、食事の工夫をさらに続けたい。検査入院についてたずねてみた。10月か11月になる。次回は足ではなくて腕からカテーテルを入れることになった。時の経つのは早いと岡田医師はいわれたが、本当である。
 皮膚科も受診。アトピーの具合は改善しているのでワセリンに混ぜるアンテベート軟膏の比率がさらに減った。

2006年8月16日水曜日
 息子は今日も熱が下がらず、唯一開いていた内科の医院を受診した。もうすぐにでも帰るつもりでいたようだが、持ち帰ったたくさんの本にも手をつけられないまま、一日寝ている。子どもの病気は辛い。昨日、墓参りにこられなかった父は暑い中出かけたら脈拍数が倍くらいになって、不整脈まで出たらしい。私がこんなのだから、と私よりも重い(と父は思っている)僕に気をつけるように、と僕のことを心配してくれる。
 九鬼周造が1928年パリで「時間の観念と東洋における時間の反復」という講演をしている。その中で前年開通したばかりの地下鉄工事に言及し、こんなことをいっている。
「あなたがたの国には、大地震がほとんど百年ごとの周期で起こっているのに、なぜいつも新しく破壊される運命にある地下鉄を建設するのか」とたずねられ、こう答えた。
「私たちに関心があるのは事業そのものであって、その目的ではありません。私たちは地下鉄を建設するでしょうし、地震はそれを破壊するでしょう。そこで、私たちはまた新しく地下鉄を建設するでしょう。するとまたもう一回、新しい地震がそれを破壊するでしょう。よろしい、私たちはいつまでもくりかえし始めるでしょう。私たちが尊重するのは意志そのもの、それ自身の完全さをめざす意志なのです」
 人生が順風満帆であるはずもなく、挫折を経験しなかった人は少ないのではないか。挫折は生きることを断念する理由にはならない。進めるところまで進むしかない。
 主治医の岡田先生の言葉をよく思い出す。
「心筋梗塞は怖い病気です。愛する人の前で、その場で死亡宣告をしなければならないこともあります。たしかにあなたは助かりましたが、失ったものもたくさんあるのです」
 明日は、診察。

2006年8月15日火曜日
 父が墓参りにくることになっていたが、朝こられないという連絡があった。心臓が弱っているようである。夕方日が少し陰ってから、墓参りに行った。思い起こせば春のお彼岸の時は僕は体調を崩していて、父がきていたのに僕は行けなかった。その頃、僕は夜眠れない日が続いていた。行こうと思えば行けたのに、と後々悔やんだが、その頃はもう相当具合がよくなかったのかもしれない。今日は寺まで15分ほど歩いた。母が生きられなかった50歳という半年も生きることができた。
 息子が高い熱を出してずっと寝ている。
『われ巣鴨に出頭せず』(工藤美代子、日本経済出版社)を読む。政治家たちの頭には国民のことなど少しも頭にないように見える。降伏を勧める近衛の上層に天皇が「もう一度戦果を挙げた上でないと、話はなかなか難しいと思う」と拒んだ話はよく知られているが、20年の2月以降どれほど多くの人が殺されたことか。首相であり、陸相も兼ねていた東條英機が参謀総長まで兼務するに至って、その暴走はとどまることをしらない。戦況は悪化した。何とか方向転換をしなければならない。そう考えたところまでは近衛は正しい。しかし、近衛はこんなふうにいっているのである。
「どうも今日の情勢では国民は全く事態を知らぬから、今直に方向転換の内閣を作っても、なかなか国民がついて来ないかも知れない。そこで誠に申し訳ないが、一、二度爆撃を受けるなり、本土上陸をされて、初めて国民もその気運に向くのではないか」
 事態を知らぬではなく、知らせてなかったのではないか。「誠に申し訳ないが」はひどい。人の命を何とも思っていない。

2006年8月14日月曜日
 昨日は娘の友達が泊まりにきていた。もう何回も泊まりにきているので娘が一人増えたような気がしないでもない。息子はどうやらいつまでに帰られないといけないことはないようなのでしばらくいるようだ。5人の夕食は楽しい。病院での食事を思い出す。一人なので時計を見ながらゆっくり食べようと強い決心をしないと5分もかからなかった。
 視力が衰え、仕事を辛く感じることがある。コンピュータのディスプレイとアドラーの原文テキストは問題ないのだが、語義を調べようと辞書を見ると文字が細かすぎてよく見えない。老眼ということなのだろう。英語の辞書ならJammingというプログラムを使って、画面上で参照できるのだが、ドイツ語の辞書にはオンラインで使えるものがない(学習用の辞典ならあるが)。
 夢を見ていた。長らく放置していたロッカーを開けたら薬の袋がたくさん入っていた。これはもう今は飲んでないから処分しようと思っているのだが、夢の中でも実際には今飲んでいる薬であることに気づいている。息子の先生らしき人の声が背後でした。先生にクラスの生徒が話しかけている。「先生、一度岸見のとうさんに相談しあほうがいいのちがうか」先生がそれに答える。「あの人のことは私は好きではないからいい」。そこで僕はその先生の前に立って、いった。「どうして会ってもないのにそんなふうにいわれるのかわかりません」

2006年8月13日日曜日
今日は日頃親しくしている方8人が集まって退院祝いの食事会をしてくださった。一様に僕が痩せたことを指摘された。僕が驚いたのは、入院していた時に見舞いにこられた人から聞いた、僕がその時は笑わなかったこと、ちょっとした物音にもひどく過敏になっていた話だった。その頃にはもうかなり回復していたように自分では思っていたのだが、そうではなかったようだ。参加者の一人に看護師さんには散歩について食後の方がいいという助言してもらった。食後がいいことの理由はよくわかったが、朝涼しいうちに散歩しようと思えばかなり早い時間に朝食をとらないといけないことになる。早朝でなくても歩けるほど早く涼しくなればいいのだが。
 カウンセリングを再会できていなくて最近人とあまり話してなくて「世界」との距離を感じていたが、今日は時が経つのも忘れて話すことができて嬉しかった。

2006年8月12日土曜日
 前の家に本を運ぶ。段ボール箱5箱分持っていていったが、2箱分持ち帰る。最近、ずっと暑さを避けてこもっていたので、あまりの暑さに驚いた。
 家の前に広がる向日葵、今年は小雨の影響なのか花が小さい。暑かったので遠くから撮ったが、朝早くきて近くから写真を撮ってみたい。
 前の家は僕が生まれ育ったところであり、築60年くらいになる。あちらこちらが傷んでいるが、義理の祖父母が毎週訪ねてきて修理をしたり、掃除をしてくれている。屋根の向こうに見える銀杏はいつの間にかこんなに大きくなった。秋になるとぎんなんがたくさんなる。この家の近くのマンションに引っ越して8年ほどになるが、今も使える。
 気持ちを引き締めていないと時々ひどく虚しくなる。

2006年8月11日金曜日
 きちんと夜に寝て朝起きる生活が定着しつつあるようで嬉しい。夜遅くまで仕事をしないで、きっぱりと仕事を中断する勇気があればいいのだが。今日は翻訳。その間もいろいろ考えているので、翻訳のために用意しているノートにメモを書きとめることもしばしば。
 退院してからやりとげた翻訳(注釈と解説も)をプリントアウトしたものを息子に見せた。注意を止めてくれないと思ったら、原稿が分厚いのを見て驚いたようである。どの本を訳したのか、と興味を示してくれる。『アドラーを読む』の時は、初校のコピーを見せた記憶がある。ついこの間のことのはずなのに記憶が薄れている。不眠不休で外にも出ないで仕事をしているのを知っている息子はずっと心配してくれていた。
 先の予定が立てられないので大抵の仕事を断っているのだが、9月に講演の仕事を引き受けた。高校で講義をしたのだから問題は移動だけである。打ち合わせの電話をもらっていたのに、書斎には最近めったに足を踏み入れないので気がつかないでいたところ心配をかけ、携帯のほうに電話をいただいた。
 若き藤澤先生の決意。「ギリシア・ラテンの原典の本格的習熟を必須条件として哲学することは難業であろうけれど、しかし一〇〇の粘土象は一箇の大理石像に及ばないだろうと観じて、粘土細工的な気ままな思考を斥け、大理石の硬材を刻むように哲学することを選び取ろう」(『思想』第九一〇号、2000年4月)
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2006年8月10日木曜日
 日が暮れても暑かったが用事があって出かけた。昨日、今日と地元の本屋に行ったが、求める本はなかった。最初から京都市内に出かけるか、オンライン書店を利用すればよかった。スーパーで買い物をして帰る。重いものを持って歩くと、同じ距離でも負荷のかかり方が違う。夕食後すぐに出かけたのだが、入院中に何度かあったように気分が悪くなるということはなかった。
 散歩から帰り、朝食をとると、休まずすぐに翻訳の仕事。大学生の頃、技術翻訳をしていたことがあった。納期があって何日もかかりっきりにならないといけなかった。単発の仕事だったからできたのだと思うが、僕に仕事をまわしてくれた人は翻訳を生計を立てている人だったから、毎日、朝から晩までかかりっきりだった。僕にもそれくらいの粘りがあれば、もっと早く訳せるのだが力がない。
 時間が限られているので読む本も厳選していかないといけないが、仕事関係以外の本は手当たり次第という感じである。

2006年8月9日水曜日
朝から暑く、外に出てもいつものように涼しくは感じられなかった。
 息子は神戸に行っている。東京から持ち帰った本の中に小熊英二の『<民主>と<愛国>』(新曜社)があって、神戸には持っていかず置いてあったので少し読ませてもらった。本文だけで800頁以上ある大冊で、僕は今日250頁ほど読んだ。今の政治を論じる時、ここに書かれていることは踏まえていないといけないだろう。
 ある小さな宗教団体の話。ある日、信者たちを集めていった。来週の水曜日、この世界は終わる、と。感銘を受けた信者たちは持ち物を売り払い、仕事をやめ、期待をもってその日がくるのを待った。ところが水曜日はなにごともなく過ぎてしまった。木曜日、説明を求めて信者たちがやってきた。「あなたのおかげでひどい目にあいました。何もかも捨てたのです。会う人ごとに水曜日に世界が終わる、といいました。みんな私たちのことを笑いました。でも、へこたれることなく、過つことのない権威から聞いたのだ、といいました。でも、水曜日が過ぎ、世界はまだあるではありませんか」
 これを聞いて預言者はいった。「だが、私の水曜日はお前たちの水曜日ではないのだ」(Adler, What life could mean to you
 この話を、言葉は私的(private)な意味しか持っていなければ、他者には了解されないというような意味でとることもできるだろうが(実際、アドラーはこの話を引く前に、「私的な意味というのは実際には意味ではない」といっている。一人にしか通用しない意味は、無意味に等しい)、挿話の後で次のようにいっている。
「このようにして、預言者は私的な意味を頼って、批判から身を守った。私的な意味は決して試されることはないからである」
 もしも預言者が「水曜日」が私的な意味しかないとすれば、信者を前にして世界の週末を予言したりはしなかっただろう。この時点で、意味は両者の間で共有され、コモンなものだったはずである。予言が外れた時、保身のため、預言者は水曜日は私の水曜日だといって、信者からの批判、非難を突っぱね、開き直った。この人が誰も信じろとはいってない、こういうことは個人の自由だ、といったかは知らない。

2006年8月8日火曜日
 今日は5時半に起きる。もう長く朝歩いているが、この間ずっと雨が降ってない。台風の影響か空には黒い雲が出て風が強かった。結局雨は降らなかった。
 考えごとをして昨日は失敗したので、今日は気をつけたことが二つ。一つは昨日、昼まで朝の薬を飲むのを忘れていたので忘れないようにすること。忘れていたことに思い当たったとたん、動転した。その時点でとにかく飲むしかないわけだから冷静でいたい。
 食事はあいかわらず制限が多く、食事に楽しみを見出すことはあきらめている。食べるために生きているわけではないからこれでいいわけだが。鯖を茹でて食べた。スーパーでは一切れのパックというのがなくて、三食も鯖を食べることになった。土生姜をおろしてお湯に入れる。昨日は沸騰してから入れようと思ってそのまま忘れてしまったので(考えごとをしていた)、今日は忘れないように気をつけた。

2006年8月7日月曜日
今年は花火を見に行かなかった。毎年たくさんの人が前の僕の家には集まるのだが、挨拶をしたり、病気のことをたずねられたりすると疲れそうなので。もっともマンションからは見えないことはない。今夜は風があったので、煙がうまいぐあいにすぐに流れていくので、きれいに見えた。花火が終わって花火を見にきていてたくさんの人が帰ってしまうと寂しいので、花火はあまり好きではない。
 昨日からアップしている
読書ノートは、きちんとした書評を意図しているわけではなくて、備忘録くらいに理解してほしい。最近は、原稿を書くか翻訳をしている時以外はずっと本を読んでいる。

2006年8月6日日曜日
今夜は盆踊りがあるらしい。明日は花火が打ち上げられる。去年の今頃は何をしていたのだろう。前の家が川のすぐ近くにあるので花火の日にはたくさんの人が集まるのだが、僕は人にあまり会いたくないのでもう何年も行ってなかったのだが、顔を出し、その際、本をきている人にできたばかりの『アドラーの生涯』見せたのを覚えている。
 父から電話。「寝てたんじゃなかったか」と気遣ってくれる。起きていたが、前の晩ほとんど眠れなかった。僕の方は大丈夫、息が苦しいくらい、といったら、これは心配をかけてしまった。父の方は暑い中出かけたら突然動悸がひどくなって、不整脈が出たという。「この暑い中、絶対昼間外に出てはいけない」と釘を刺された。心配しすぎだが、父は僕と同じく心臓を患っているので、僕は心配でならない。
 息子は僕のコンピュータを使って勉強している。久しぶりに一緒に過ごしている。何について話しても何でも知っている。勉強しなければ、と強い刺激を受ける。

2006年8月5日土曜日
 息子が東京から青春19切符で10時間かけて帰ってきた。大学の様子を聞くのは楽しい。痩せたな、と僕の顔を見ていう。3ヶ月ぶり。
 今朝も早く目が覚めた。もうそろそろ早起き(というより眠れず朝まで起きていたこともあった)は続かないと思うのだが。前も書いたが、朝は僕と同じように歩いている人が挨拶してくださる。僕も知らない人に声をかけてみた。
『私は「蟻の兵隊』だった』(奥村和一、酒井誠、岩波ジュニア新書)を読む。奥村氏は中国で体験したことを家族にも話さなかった。しかし性暴力の被害を日本の兵士から受けた中国女性の話を聞き、考えを改めたという。「〔私は〕人を殺した人間だ」と何百遍唱えてもそれだけではだめだ。もっと戦争そのものを知り、逃げずにそれを語り継いでいかなければならない、と気づいたのです」(p.172)
 山田風太郎『戦中派不戦日記』(講談社文庫)読了。空襲の罹災者がいった言葉が印象的である。路傍にぼんやりと腰を下ろしていた女性がふと青空を仰いで呟いた。「ねえ……また、きっといいこともあるよ。…」(p.111)きっとまたいいことがあることを待っていてはいけないのだろう。

2006年8月4日金曜日
 日曜まで戦争展が開かれているのを知って立命館の国際平和ミュージアムに行ってきた。常設展示の方の写真、文書など多くの資料の中にあってひっそりと掲げてあった、姉妹を描いた小さな絵が心を打った。二人は原爆で亡くなった。身体に傷はなく晴れ着で死化粧をされた二人は眠っているように見えるが、横たわる二人の足元には荼毘のための火が迫る。この絵を描いた画家は、この時の光景を見た忘れることができず、29年後に描いたという。
 ミュージアムを出た後、堂本印象美術館へ行った。目下、企画展をしていて「木華開耶媛」を見ることができなくて残念に思った。この絵を最後に見たのは3月31日だった。ひどく寒い日だった。この頃の日記を読むと身体の不調の記述が多い。
 今日はあまりに暑くて疲れてしまった。夕食の後、すぐに寝てしまった。薬を飲むために夜中に起きた。

2006年8月4日金曜日
 やっとまとまった時間眠れて楽になった。疲れてくると思うように頭がまわらず、アドラーのドイツ語を読んでいても空回りするような感じになる。日本語で書かれたものを読む場合でも、同じ困難が生じているはずである。本でなくても、身の回りにいる人の発する言葉をどれだけ理解できているか。
 リチャード・パワーズが柴田元幸とのインタビューの中で、こんなことをいっている。読むという行為において起こるのは、誰か他人の物語と向かいあうということだと思う。自分のものではない、他人のものだけど、語り直すという営みを通して、それに参加していくわけです」(柴田元幸編・訳『ナイン・インタビューズ 柴田元幸と9人の作家たち』アルク、pp.143)
 その本が母語で書かれていても、「翻訳」が行われる。
「それまで全然知らなかった物語を、これなら知っていると思える物語に訳している。そして、それと同時に、外から入ってくるその物語を受け入れるために、自分の物語、自分という物語も翻訳しているのです。他人の物語を理解するために、自分の物語を書き換えるわけです」(pp.144-5)
 物語や逸話を受け取る、受け取らないも読み手、あるいは聞き手が決めることだが、受け取ると決めた以上、それを理解するための翻訳が行われ、自分の物語を書き換えることで人は変わっていく。
 しかし、実際には、自分の物語を書き換えないことの方が多いのではないか。たしかに翻訳は行われる。他者の語る、あるいは書く物語を理解するために、自分の物語へと翻訳を行うということはたしかである。
 僕が「林檎」という言葉を書いた時、その林檎は「私」の林檎であって一般的な林檎ではない。それはある日恋人が僕のために剥いてくれた林檎かもしれないし、病床にある家人の側で、この人はもう助からないかもしれないと思って涙しながら食べた林檎かもしれないのである。同様に誰かが「林檎」という言葉を使っているのを読んだり、聞いた時に、その林檎はその人の林檎であって一般的な林檎ではない。
 そこでその人を理解しようとするならば、自分の中に沸き起こる自分に固有の連想を遮断して、相手が語る林檎がどんな林檎なのか、虚心に耳を傾けなければならないし、パワーズがいうように、自分の物語を書き換えなければ、相手の語る林檎の意味を理解できないだろう。しかし、自分の物語を書き換えてまで相手の話を聞こうという決心を普通にはしないのではないだろうか。

2006年8月3日木曜日
早く寝たのに2時半に目が覚め、そのまま眠れなかった。おかげで(というべきか)今朝も散歩することができた。でも、力がはいらず、歩いている間にふっと意識が遠のくような感じがして、足下がふらついた。緊張が解けないのか数日よく眠れない。
 鳥が鳴いていた。何の鳥かわかればいいのに。花の名前も知らないことが多い。写真を撮って調べることもある。
 梅雨が明けて暑くなってきたのと抱えている仕事をやりとげるために、もう何日も昼間に外に出ていない。朝、家族を送り出したらもうずっと一人である。入院していた時も見舞いにきてもらった人を送る時に感じたのと同じ気持ちになる。リハビリが進み歩けるようになり調子がいい時は、エレベータのところまで見送った。エレベータの戸が閉まると、僕は<こちら>に留まり、見舞いにきた人や家族は<あちら>に帰って行くという感じ。退院したのに今も同じように感じる。

2006年8月2日水曜日
 昼前に原稿を完成。無事、出版社に送ることができた。ここに解説原稿をアップしたいくらいだが、そういうわけにもいかない。解説という枠組みの中で、子どもたちを救うために何ができるか、少し書いてみた。
 原稿を送った後すぐに寝ようと思ったが、だめだった。原稿を書くために本などをたくさん散らかしてしまったので片づけることにした。そうしないと次の仕事にかかれない。
 掃除をしていたら講義予定表が出てきた。本来だったら先月は集中講義もあったはず。気にかけないようにしているのだが、講義にも行かず、カウンセリングもせず、こんなことでこの先生活していけるのだろうか、と今も思う。
 主治医に、本は書きなさい、といわれたことは前に書いた。「後に残りますから」と先生はいわれる。これから校正が大変だが、長く抱えてきた原稿なので手元から離れ大きな達成感がある。

2006年8月2日水曜日
 解説原稿を書き上げ、もう一度見直そうとしたが、頭がまわっていないように思え、一気に仕上げることを断念してしまった。今日は必ず仕上げて出版社に送ろう。翻訳したのは、アドラーのIndividualpsychologie in der Shule: Vorlesungen fur Lehrer und Erzieher, Fischer Taschen Verlag, 1973 (Original: 1929)である。
 娘が学校のクラブでの練習中、気分が悪くなったという。熱中症か。ひどくのどが渇いたので途中で水を飲もうとしたら、監督の先生に叱られたという。身体を痛めつけるのが方針とか。それは先生にいわないといけない、というと、娘は「あかんかったら、いうてな」と援助を求めてくる。心配。
 山田風太郎の『戦中派不戦日記』を散歩の途中立ち寄った書店で手に入れる。連日の空襲にあい、山田は次第に勝利を信じられなくなる。「愛すべきただ一つの祖国抹殺せられんとするなり」と悲痛な叫びをあげるが、軍への疑いも芽生える。「現状は然り、米軍の力は然り、わが国力は然りと、何ゆえすべてを国民の前に正直に、赤裸々に吐露してその激憤を求めざる」(『戦中派不戦日記』昭和20年2月4日、p.54)
 この数日、早朝に散歩する。すれ違う人が挨拶してくださる。どぎまぎしてしまうのだが気持ちがいいものである。

2006年8月1日火曜日
 このいくさ正しきものと賢しらに語れる人の欺瞞暴かむ
 子どもが戦争の巻き添えになったり、事故で命を落とすニュースを聞くとたまらない気持ちになる。家庭の教育にしても、親が暴力を振るう時、子どもはそんな親から逃れることはできないだろう。アドラーは「子どもには罪がない」とまでいいきっている。子どもたちに何ができるのか。何をしなければならないのか。
 ずっと集中して原稿を書き続けた。出口が見えたようだ。
蓮の花に蜂が群がっていた。

2006年7月31日月曜日
 どうしたら子どもたちを救えるか。これが長年の僕のテーマの一つである。
 朝方まで原稿に取り組む。息が苦しいので横になって(できる範囲で)仕事をしていたが、限界がある。夜が明けてからようやく少し眠ったようだ。それでもまだ六時過ぎだった。暑くならないうちに今日も散歩した。一人の子どもが家の前でしゃがんでいた。まだ小学校に上がっていない小さい男の子である。何があったのかはわからないが、泣いている。あふれる涙を何度も手で拭っていた。家から追い出されたのだろうか。今も気になっている。何か親を怒らせるようなことをしたのかもしれないが、小さな子どもでもきちんと説明すれば、理解できるのに、と思う。
 食事を十分与えられず亡くなった三歳の子どもは、金槌で叩かれていた。親は「あいさつしなかったり、きちんと謝らなかったりした時に殴った。しつけの範畴だ」といっている。しつけという名目があれば何をしてもいいというわけではないだろう。子どもは親の「しつけ」を回避できない。
 虐待のニュースを知った人は憤るが、他方で、虐待までいかなくても「しつけ」のための暴力を認容する人がないわけではない。体罰はどんな理由があっても認めるわけにはいかない、というある高校のサッカーチームの監督が、そういいながら、これまで子どもたちを殴ってきたが、一度も本人にも親にも文句をいわれたことがなかった、と豪語する。それは体罰ではないのか。子どもを叩くことも、虐待も根は同じである。
 山田風太郎の『戦中派虫けら日記』読了。東京が空襲されるまではどうやら戦争は対岸の火事のように思われていたふしがある。サイパンの玉砕が伝えられた時、婦女子で捕虜になったものがあったことを知って山田は、一人残らず死んで欲しかった、と日記に記しているのには驚いた。次第に皇軍の形勢不利の報に接するに連れて、日本は本当に勝つのか、と疑問が芽生えてくるが、実際に死ぬほどの恐怖を体験しなければ、戦争はいささかも具体性をもっては体験されない。その限りにおいて人が死ぬことを何とも思わないでいられるようである。藤田嗣治の『サイパン島同胞臣節を全うす』を見たという記事がないかと思って読んだが書いてなかった。

2006年7月30日日曜日
 今日は息苦しくていけない。仕事をしたくても横になることを余儀なくされるのがつらい。鼻の中の血管が充血している。おそらく薬の副作用。
 昨日書いていて『なるほどの対話』(河合隼雄 吉本ばなな)を思い出した。日本人はディスカッションをしない。ドイツで講演をした時、河合隼雄は「あなた方は、ディスカッションとかいうことが好きらしいけれど、我々の国では、そんなことはしないんです。私の話が終わったらみんな静かに帰ったらいい」といった。講演後、質問があった。
「プロフェッサー、なぜ日本人はディスカッションをしないんですか」「それそれ。そういう失礼なことは日本じゃ誰もいわないんだ」といってやった、と。なぜ失礼なのは僕にはわからない。
 また、「なんとなく」というのが国際社会では理解されないという話。日本ではなんとなくの中身を訊くのは野暮ということになっている。「そういうことを英語で言って向こうのやつにわからせて面白がるようなところが、ぼくにはあるねえ」
 僕は、わからないことはたずねたい。たとえ、そのことで自分の無知が明らかになるとしてもである。
「山田風太郎の『戦中派虫けら日記』(ちくま文庫)。藤田嗣治の「アッツ玉砕」を見た時のことが書いてある。山田は昭和一八年九月一二日に「決戦美術展」を見に行く。
「ほかにもこれと同じ画題の絵があるが、みな緊迫感が足りないか、もしくはリキみすぐいて、この藤田作品の薄暗い悽壮感には及ばない。晴れた日なのに、天窓からさしこむ日の光も白じろと煙って、汗ばむむし暑さの中には人々は一脈の霊気を背におぼえ、みな帽子をとってこの絵を眺めている」(p.239)

2006年7月30日日曜日
 原稿を書き始めると集中を持続しないといけない。そのため夜、眠れなくなるのは辛い。朝、散歩。掃除をしている女性が、掃除の手を休めて「おはようございます」と挨拶される。
 アドラーがgleichwertigという言葉を使っている。子どもをgleichwertigな人間として扱うことを学ばなければならない。等価値の人間という意味である。「このことは他者に等価値の人間を見出す傾向のある人には容易だが、この傾向を持っていない人には子どもに対して等価値の人間と感じるのはむずかしいだろう」('Schwer erziehbare Kinder' in Adler, Alfred. Psychotherapie  und Erziehung Band I, S.134)
 たしかに子どもに対等に接し、尊敬するのはむずかしい。

2006年7月29日土曜日
 聖カタリナ女子高校から試験答案用紙が届いているのだが、急ぎの仕事があってまだ全部の答案に目を通せていない。学生がどれくらい講義内容を理解し、自分の考えを論理的に書けているかを見たいわけだが、僕の教え方が適切でなかったから当然結果はよくないわけだから、試験の採点は自分を採点することでもあって、つらいものになる。
 藤田嗣治のエッセイの中にこんなことが書いてある。「私は四つ時分から非凡の画才に秀でていた」(「私というもの」『腕一本|巴里の横顔』講談社文芸文庫)。藤田のこのような書き方に反感を持つ人もあったのかもしれない。今の世の中ならどうであろうか。自分の優れているところを人前で話したり、書いたりすることはあまりないかもしれない。
 ある学会誌を読んでいて西行の歌を思い出した。「何事のおはしますかはしらねども かたじけなさに涙こぼるる」
 最近は学会に参加することもまれになってきたが、専門が細分化してしまっていて、同じ哲学者の研究をしていても少し専門がずれると発表者が何を話しているかわわからないということがあった。僕の頭が悪いのかと思ったりもしたが、それだけではなかっただろう。
 ある論文について編集者が書いていた。非専門家の方には少し難しい内容かもしれない。しかし、何度も何度も読み返すことが推奨されていた。慌てず時間をかけてじっくり味わうべし。理解できないものは味わうことはできないだろう。僕が著者だったら、何度読んでもわからない難解な論文である、と批判されている、と思うだろう。
『哲学研究』に載る西田幾多郎の論文を校正した弟子の高坂正顕がこんなことを書いている。原稿と照らし合わせ綿密に校正したが、論文に出てくる「於いてある」という表現がしっくりこない。高坂は、反復して使われているから誤りではないだろうとは思うものの、校正をそのまま印刷所に返す気になれなくて、原稿と校正を持って西田の家に行った。
「『於いてある』という表現がどうもしっくりと私には呑み込めません。このままでいいのでしょうか」
 西田はしばらく原稿をあちらこちとめくっていたが、
「まあこれでいいだろう」
とだけいった。
 実は、高坂の校正した論文(「場所」)に先立つ「働くもの」にも既にこの表現は出ていたのである。近くにいて講義を聞き、直接の話も聞いていたはずの弟子「これでいいのでしょうか」とたずねたことは、西田はさぞかし残念に思ったであろうが、わからないけれど先生が書いたものだからかたじけないというのでは学問ではないのはたしかである。西田は「まあこれでいいだろう」と終わらせず、説明してもよかったとは思う。僕は、高坂が疑問をそのままにせずに西田にたずねたことを好意的に見たい。

2006年7月28日金曜日
昨日から娘が学習合宿で不在でもめごともなく静かに過ごしている。朝、5時半に目が覚める。当然、もう夜はすっかり明けていてそのまま眠れず、散歩。この時間なら涼しかった。長雨で今年はどうなるかと思っていたが、蓮がきれいな花を咲かしている。お盆の頃になると、朝くるとお供えがおいてあることがある。幽明のさかいがふいに揺らぐ。
 歌人の上田三四二は医師であるが、43歳で病を得た後、51歳で医師をやめている。明日は死ぬ身であると知れば無駄なことをしている暇はあるはずもない。もちろん、長年たずさわってきた医学が世間にとって無益だと思っていたわけではなかった。「しかし、それは私自身にとって生き甲斐とするに足るものではなかったこともまた事実であった」(『うつしみ』p.192)。ただわがままに生きたかった。「いつ死ぬとも知れず、人よりも早く死ぬときまったようなわが身にとって、そのために生じる多少の—どころか少なからぬ生活上の不如意もものの数ではない」。こんな決心を上田がしたのは50歳の時だった。
 検査入院のことや病気の様子が予測しがたいということがあって、迷惑をかけることになってはいけないので入院以来大抵の仕事を断ってきたら、僕の部屋の電話はみごとにならなくなった。まれに病気のことを知らずに前にカウンセリングしていた方が相談の電話をかけてこられることがあるが。再来年までの仕事の約束をしているがこれは入院前から決まっていた。昨日、病気になってから初めて「来年の」約束をした。「来年の今頃」という言葉が話の中に出てきた時、感慨深かった。

 急性心筋梗塞生還記


  2006年4月19日の早朝に心筋梗塞で入院して以来、病室で日記を書いていた。当然のことながら、絶対安静だった頃には記録がなく、ようやく手書きでノートに簡単なメモを書き始めたのが23日、コンピュータで日記を書き始めたのが、25日だった。その後は詳細な記録があるが、記録がない日のことも可能な限り思い出して書いてみたい。なお医学的な記述については不正確なところが多い、と思う。患者から医療スタッフがどう映るか、参考になるかもしれないが、あくまでも個人的な視点からの記述なので、同じ出来事でも人によってまったく違う見方をする人もあるだろう。
 診断書によれば、原傷病名は心筋梗塞。「平成18年4月19日、朝、突然に胸痛発現。心電図で前胸部誘導V1-5のST上昇あり。冠動脈造影で左前下行枝#6:100%閉塞あり」。総合所見として「重症冠動脈病変であり、冠血行再建を要す」。狭窄がなお#1, 6にあり、このうち#1は冠動脈所見によれば75%、#6は50%である。
 予後は幸いよく、5月15日に心臓カテーテル検査を受け、その際には処置はされず、5月20日に退院した(岸見一郎 2006年6月4日)。
 

 6月15日、退院後初の診察を受けました。予後は順調のようでありがたいです(2006年6月15日)。

 心筋梗塞生還記、及び、退院後の日々の目次は左のコラムにあります。

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