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法末集落・歴史と現在

法末(ほっすぇ) 山の暮しの文化と人々

●元気な高齢者たち

 2004年10月23日夕刻、中越大地震。長岡市小国町の法末(ほっすぇ)集落は、信濃川の西にあり、震源地の対岸側だが、こちらも大揺れ。
 全54戸のうち全壊16、大規模半壊9、半壊22、一部損壊6で、道路は切断、棚田は崩れた。一時は全戸避難したが、二年余かかって道路や棚田の復旧はほぼできて、住家も直して8割余が戻った。
 現在の居住者約90人(最盛期1960年577人)、43世帯(同101戸)。住民の約3分の2が65歳以上の典型的な長寿の山村だ。

 その高齢者たちは実に元気であり、重機の操縦、力仕事も木登りだって平気
でこなす。丘の上の神社への長い石段が地震で崩落したが、平均70才の仲間で重機を操り完全修復してしまった。
 山の暮らしには、技術力、体力、団結力そして経済力が備わっている。

●雪国文化を伝える

 山村の冬は人の背丈の倍以上の豪雪だが、住民はその気候と地形をうまく活用する。
 豪雪が解けこむ湧水が棚田を潤して美味いコシヒカリ米を作り、小千谷縮、小国和紙、唐辛子(かんずり)などは雪上の寒晒(かんざらし)でつくる。
 東隣の小千谷の縮織(ちぢみおり)は、昔は法末の女性の冬の仕事で、麻糸を撚より創意工夫した織物は結構な稼ぎだった。
 その仕事ぶりは今はそれぞれ工夫して、
ご自慢の煮物や漬物など郷土料理に表れる。法末自然の家「やまびこ」では、その料理が美味い。

 法末の人たちは芸能好きだ。伝統芸能の獅子舞「法末神楽」を折々の行事で舞う。民謡の「天神囃子」は祝い事などで、「野三階節」は盆踊りで唄うが、ユーモアと独特の哀調が心地よい。

 年中行事は小正月の「賽の神」から始まり、神社の祭礼や盆踊がある。今年の賽の神では、わたしたちが作った棚田の稲藁も燃やしてもらって、無病息災を一緒に祈った。

●これからの山の暮らしは
 集落の住民は、その子どもはみな既に街に住み、自分たちも
超高齢となればやむをえず街に移る。
 空き家や耕作放棄田畑が増えていくのは、限界集落のいやおうなしの現実である。

 いまや家も農地も山も、活用してくれるだれか良い人がいればぜひ任せたい、の声も聞こえてくる。それは経済的理由ではなく、村が消えてゆくことへのおそれの故なのだ。
 この豪雪の山の生活を、これからどう保ち復興するか。その一方では人口減少時代を迎えて、山の暮らしをハ
ッピーに仕舞うことができる撤収政策も、ともに必要な現実に直面している。
 法末に限らず、山村民が無理なく希望を抱くことができる将来の生活計画づくりと、その現実を見据えた地道な活動が、今こそ必要だと思う。
 
●法末に小学校があった頃
 かつてはこの法末に100人もの学童がいた法末小学校があった。今から1988年に閉校、94年の長い歴史を終えた。

 そのとき村人たちは協働して「法末小学校閉校記念誌」を編修。法末の歴史、子どもの姿、村の家など愛惜をこめて記してある。
 その中に、「皇国地誌越後国刈羽郡法末村」という古文書が引用してあり、1878年(明治11年)に、当時の新潟県令にあてて村から提出したものだ。
 明治のはじめ頃の村の様子がよくわかるので、要点のみを抜粋して引用し、現代文に直してみた。

越後国刈羽郡法(ホッ)末(セ)村
沿革:大昔は不詳。文久2年(1862)牧野氏の長岡藩領地となり、明治元年(1868)大政奉還で同二年柏崎県小千谷市民政局に属し、同六年新潟県に属す。
地勢と地味:耕地は総て谷間にある。陸運は不便。地質は一様でなく、赤土が多く小石混じりで黒土は少ない。土質の4割は普通だが6割は悪く、稲、漆、蔬菜類を植えるのみ。水利は不便で旱魃に苦しむこともある。
税地:田は40町2反15歩、畑は27町4反1畝10歩、宅地は3町6反6畝12歩、山は90町4反17歩。
貢粗:明治8年地租米は58石3合。土地評価額は1万2千163円41銭1厘、貢租はその2%で金304円8銭5厘。
戸数:明治9年1月1日調査、住宅89戸、神社2戸、寺院1宇、計92戸
人口:明治9年1月1日調査、平民365人、うち男154人、女220人
:明治9年1月1日調査、牡馬7頭、牝馬32頭、計39頭。
:観音堂は東向き東西4間1尺、南北5間、敷地は東西8間2合、南北12間。安永2年4月に同郡太郎丸の曹洞宗真福寺の十一世愚海和尚が開基、堂守は尼僧。
学校:公立第四中学区第拾七番小学校附属法末校を郷内中央の観音堂に仮校舎。生徒は男30人、女0、教員1人。
産業:男は農作業の間に製紙業あるいは工業に従事するものあり。女は農作業を補助し、縮織を仕事とする。明治8年の出荷量は白紙が211束で代価88円62銭、縮布は120反で代価240円。

 土地の生産力を低く書いているのは、地元から出すこの文書が租税評価の元になるので、わざとそうしたのかもしれない。
 明治のはじめの法末は89戸、365人も住んでいた。130年後の今は戸数は半分、人口は4分の1に減っている。
 今はやっていないが、小千谷縮や小国和紙づくりも、重要な地場産業だったようだ。馬が39頭も飼われている。今は馬もいないし、その後にいた牛もいない。

 法末小学校は、明治のはじめに既に観音堂を仮校舎にして開校、当時は男子だけの四年制で30人の学童がいた。つまり学齢児童は六年制に直すと男女90人くらいいたことになる。
 学童数が最も多かったのは戦争直後の1946年(昭和21)の105人、このときは戦争疎開の子もいただろう。
 毎年100人前後いた学童が1960年代から急減するのは、戦後高度成長で都会への人口流出と深い関係があるにちがいない。閉校した1988年(昭和63)はわずか4人だった。
 その法末小学校の建物は、今は法末自然の家「やまびこ」となって、集落民のセンターとしてまた来訪者の宿泊施設として、生きつづけている。
                                           (伊達美徳 JSURP「PLANNNERS」2007春号)
 


 法末集落は、長岡市南部と小千谷市西南部に接する地域にあり、長岡市中心部から南西へ約33km、小国地域中心部からは約8㎞の距離にあります。 法末集落は、長岡市南部と小千谷市西南部に接する地域にあり、長岡市中心部から南西へ約33km、小国地域中心部からは約8㎞の距離にあります。 法末集落は、長岡市南部と小千谷市西南部に接する地域にあり、長岡市中心部から南西へ約33km、小国地域中心部からは約8㎞の距離にあります。 法末集落は、長岡市南部と小千谷市西南部に接する地域にあり、長岡市中心部から南西へ約33km、小国地域中心部からは約8㎞の距離にあります。
国道404号線を南下して太郎丸集落で東に折れ、県道341号を小国沢川沿いに4kmほどさかのぼると山間部に、法末集落が見えてきます。

【400年の歴史】
 集落周辺には縄文期の遺跡もあるが、現在の集落に直接つながる記録については、「皇国地誌越後国刈羽郡法末村」に、16世紀末の上杉景勝の領地であったことが記述されています。
 以来、法末集落は、1869年明治維新に至るまで、高田城主である諸大名、長岡藩、あるいは幕府の直轄領となり、また、明治維新後は柏崎県、越後府等を経て1874年に新潟県に属することになりました。
 同誌の記述によれば、本村は県庁より南方25里30町にあり、地勢は山、渓谷で、愛宕山、竹葉山及び桜木山等の嶺から西北に流れる山地の中央に村落があり、その西北は少し低くなり、耕地は全てこの渓間にあって、これを育てるに渓水、或いは雨水を持って灌漑したということです。
 土地柄、陸の運搬は特に不便であり、薪炭は他に売れず、魚鳥も不足しており、地味は悪く、稲、漆、蔬菜を植える以外に他のものを播植しない、水利に不便であり、しばしば旱魃に苦しんだとあります。
 明治8年・9年の状況をみると、田畑の面積は現在とあまり変わらず、和紙、縮の現金収入が多かったことがわかります。
 土地利用(明治8年):田:40町2反 畑:27町4反 宅地:2町6反
 人口等 (明治9年):戸数:89戸、雑社:2戸 堂:1宇
            人数 平民89人、家族365人(男154人、女220 人)
 学校  (明治9年):公立第四中学区第17番小学校付属法末校
            生徒:男30人、女0人、教員1人
 民業  (明治9年):男は農間に製紙、或いは工を業とするものあり、
            女は農を補助し、縮を織って業とした。
 物産  (明治8年):白紙:211朿(88円62銭)、縮布:120反(240円)

【1950年頃が集落の最盛期】
 1889年市町村制が施行され9ヵ村誕生、1901年には上小国村(法末村・結城野村・森光村・増田村合併)が誕生し、徐々に近代化の歩みが始まります。
 小国を単位とした公共施設の整備と平行して法末地区でも徐々に道路等の公共施設、生活利便施設が整備されました。
 1945年には農地改革が行われ、1949年には法末部落幹線道路が起工され、1957年には上小国村と小国村が合併し小国町制がしかれます。
 法末集落は、人口500人程となり集落人口もピークに達しました。

【人口流出】 
 1950年頃から、日本経済の高度成長が始まり、旧小国町でも人口の減少が始まり1960年から75年まで5年で10%以上の人口減少が続き以後も5%台の人口減少が続きました。
 山間地域にある法末集落では旧小国町以上に人口減少が進み、970年以降、2000年まで5年ごとに人口が20%も減るという急激な人口減少となりました。
というのも、棚田による米作りが近代化農業の路線に乗り得ず、担い手を育成することができなかったためです。
 集落の構成員は高齢者が多くなり、その結果、1987年度には法末小学校が閉校になりました。

【交流事業にとり組む】
 小国町ではこれらの現象に対応するため、農村活性化策として、1970年末からレジャーランド開発、「芸術村」事業、姉妹都市交流事業等を行ってきました。
 しかし、これらの事業は一部を除いて成功せず、頓挫あるいは縮小しています。
 一方、1980年台後半からは、姉妹都市との交流事業を本格化させ始めました。
 1989年には武蔵野市との多様な内容を持つ交流が開始されました。
 こうした流れの中で、法末集落では、1988年3月に閉校した「旧法末小学校」の建物を改築して、1990年5月に集団教育活動施設「法末自然の家 やまびこ」が開設されました。
 これが、現在、法末地区の交流の拠点施設となっています。
 
【新潟県中越地震で被災】

 2004年10月に発生した新潟県中越地震は、集落の家屋、道路、農地等に多大な被害を与えました。
 度重なる余震によって、集落と周辺地域を結ぶ道路は寸断され、約3日間集落の方々は孤立し、最後は徒歩で集落脱出、仮設住宅への居住を余儀なくされました。
 この時、集落の人びとは戻って来られないことを覚悟したそうです。
 しかし、集落に避難勧告が出され、集落に戻ることができない状況の中でも、自力で集落に戻り、被害を受けた棚田の修復を行ったり家屋の手入れをする者もいて、避難勧告が解けた2005年7月22日以降、住民は次第に集落に戻り、震災前の54戸のうち43戸が帰村を果たしました。
 新潟県中越地震で大きな被災を受けた集落としては、最も帰村率の高い集落となっています。

【そして集落の創造的復興へ】 
 高齢化率が70%を超える集落ですが、集落と支援組織が連携して、『法末たっしゃら会』を立ち上げ、集落と新潟大学、中越震災復興プランニングエイドなどが協力して、集落の創造的な復興に取り組んでいます。
 このホームページでは、法末集落の日常の風景に加えて、創造的な復興への取り組み随時紹介していきます。
―平成18年度法末地区再生計画より抜粋―
 


法末の歴史あれこれ 

法末村(平凡社 新潟県の地名)

小国沢村の南東山間に孤立した村。東の道見峠越えで吉谷村(現小千谷市)を経て小千谷へ通じる。小国東組に属する。口碑では永正7年(1510)当地大橋マキ先祖大橋宗顕の開発という。近世初めは高田藩領、天和元年(16)81)から幕府領、
文久2年(1862)長岡藩領。正保国絵図に高350石余。天和3年の検地帳(法末区有文書)では、田七町九反余・畑屋敷七町八反余・山一八町九反余・青苧畑一反余。屋敷二七筆のうち欠落百姓五人がいる。耕地には地字小千谷道・とうけの下の地名がみられる。元禄五年(1692))の小国東組郷鏡帳(林久氏蔵)では家数三一、男一一九・女九九、馬一八。小国沢寄りの字沢中の標高約二六九メートルに俗称ふるじょうの地がある。小国沢側に対して構えられている山城跡。字沢出に法末神社がある。もと十二社と称する。明治二五年(1892)諏訪社を合祀し、大正六年(1917)に現社名に改称。地内に曹洞宗普門山観音寺がある。もと太郎丸の真福寺末。天明9年(1789)当地出身の愚海の開山という。


法末小学校沿革(小国郷土史 113頁)

・明治7年9月 森光・小栗山2ヶ村組合にて森光村に小学校設立、越えて9年に至って法末村に小学校設立、公立第17番付属法末校と称した。
・明治9年11月上小国村12ヶ村協議の上、原村に学校を新築して本校となし、太郎丸校を分校、法末・森光両校を付属校とした。
・明治14年10月小学校区画制定され、小7区の学区は「第8中学区(刈羽郡)第9小学校(上小国村12ヶ村)と改正された。したがって
第8中学区第9小学本校原村校 第9番小学付属法末校となった。
・明治15年小学校教則制定され、初等科3年、高等科2年となった。従って学校名も初等科原村校・同太郎丸校・同森光校・同法末校・楢沢校と改まった。
・明治19年小学校を尋常高等の2科となし、設置区域も次の如く改められた。第17学区 太郎丸・小国沢・上岩田・法末・楢沢・森光・小栗山
・明治20年には簡易科及び分場設置区域も定められて学校名称は次の如く改まった。尋常科は4年、簡易科は3年の修業年限であった。初等科法末校は簡易科太郎丸校分場
・明治22年自治制施行の結果刈羽郡小学校設置区域の改正行われ、次の通り変更された。
原村校 原・苔野島・三桶・山野田 太郎丸校 諏訪井・太郎丸・小国沢・上岩田・楢沢法末校 法末。これが即ち現行学区の基礎となった。
・明治23年10月小学校令公布せられ、学校の名称も次の如く改まった・
 法末校は法末尋常小学校
・大正11年4月森光校は増田校に、法末校は結城野校に合併し、学則を改正して、農業科の専任教員を置き、実習地を設けた。

大橋氏(小国郷土史 286頁)

現戸主大橋豊治氏、先祖は藤原朝臣大橋宗顕。天文19年(1550)年以上は古記録に存す上條郷黒瀧(高田村黒瀧)大橋某の次男にして、法末に来たりしは、永正7年(1510)今を去る423年前。その身分としては越後領主上杉房能の一族か或は其臣と思わる(大橋吉次氏調査)とも角法末開発の租であり、現戸主は、第16代の継承者である。真福寺檀徒。同姓55軒。紋は違鷹ノ羽。

大橋小七郎(小国郷土史 143頁)

小国郷で雷様といわれて恐れられた人で、正義の為には何者をも恐れず、村内の重なる道路は、反対者を押し切って大抵小七郎が独力でやり遂げたものという。別に財産も学問もなかったが、真に部落の福利を増進した人として敬慕されている。、


観音寺(小国郷土史 95頁)

位置 大字法末
沿革 普門山と号し、真福寺の末寺である。天明9年(1789)恭亮愚海師が一堂を建築して開山した。恭亮愚海師は、大字法末の出身で、下野国釈迦尊寺の住職であったが、釈迦堂焼失後法末に帰り、観音寺を開山した。其の後真福寺住職退隠後の隠寮に宛てたが、文化年間より尼僧の住する所となった。

法末神社

位置 大字法末字沢田 社格 無格社 祭神 大山祗命
祭祀の起源
勧請年月及び由緒は不詳。本社はもと十二社と称したが、大正6年12月法末神社と改称することの許可を得るものである。明治25年に次の二社を合祀す。
十二社 祭神 大山祗命 勧請年月 不詳
諏訪社 祭神 建御名方命 勧請年月 不詳
「刈羽郡神社明細帳」によれば、
由緒 創立年代不詳当村の産土神たり。従前当村字十二ノ宮官有地に鎮座の所、明治26年1月7日当村へ移転願聞届。合殿諏訪社は当村別地に鎮座の所本社移転の節合併す。大正5年4月5日付十二社を法末神社と改称許可。社殿本殿 間口一間一尺 
拝殿間口三間奥行二間三尺
氏子 94戸 境内 846番 300坪 民有地第一種当村共有地
「天和検地帳」によれば
十二社地 十五間 十間 祭礼 9月19日
諏訪明神地 十六間 十間 祭礼9月19日  
    岩田村 大和太夫仕り候 宮守 兵左衛門


法末城(刈羽柏崎の古城址 第1集小国編 1989年再販)

この城は今回の調査(48年5月20日)で筆者の発見によるものである。
位置は大字小国沢字沢中(さなか)と同有倉(あいくら)の沢の分水嶺にあたる標高二六九メートルの小高峰上にある。俗称「ふるじょう」を頼りに調査して判明したものである。
 法末城と命名した理由はI、法末寄りにあること。二、防禦地設がすべて小国沢側に対して施されている。の二点からである。
 頂上本丸は10メートル*15メートルのはぼ長方形を為し、樹木を取り払えばその眺望のよさは素晴らしい。西へ向って緩斜面をやゝ下ると、高さ5メートルの切崖となり、その基部は空堀で巾3メートル長さ10メートルで、この堀は北へ廻って道となり、堀を越えると小削平地でまた空堀になる。長さ24メートルで小山の裾を取り巻き、その山寄りに井戸跡がある。
 此処から尾根は狭くなるが、その基部をもう一本の空堀で断ち切ってある。以下起伏する尾根を小国沢へ向って下ると、要所々々に削平地五ケ所、空堀が四本刻まれている。
 勿論文献等何も存せず、口碑も伝わらないが、おそらく法玉に居住した有力な武士が、平場から圧力に対して構築したものであろう
前掲の安沢小兵文書によれば「(……法末村之御地頭ハ高野忠右工門様小国沢村之御地頭ハ新保喜右工門様……一二々)とあるから、ともするとこの高野忠右工門の築城によるものであろう。とするならば年代は、文明年間1469)から永正年間(1520)の頃と推定
できる。それは新保喜右工門が小国沢の城から小千谷の城に移り幾何もなく、永正7年(1510)に戦死しているところから逆算してのことである。
高橋 実=小国文化)
 
 
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