上田光正
わたしは毎週の自分の説教を、お休みの方だけでなく、教会外の方にも何人かお送りしています。先日、その中のある方からこんなご感想をいただきました。今月4日の復活節の礼拝説教の中で、わたしは「監察医 朝顔」と題するテレビドラマについて少しお話しました。その主題歌に、何度も「願う、願う」という、しきりに何者かに祈るような、それも、ただ祈るというよりも、むしろ本当に腹の底から絞り出すような独特の節回しで歌われる歌詞が出て来るドラマのことです。説教を読んでいたその方が、あのテレビドラマを思い出しその主人公の朝顔が夫と一緒に築いているとても明るくて温かい家庭のことを御自分も思い出した、と書いておられました。もちろんその温かさの背景に何があるかはテレビでは何も語られていません。ですから、その基盤にキリスト教信仰がある、などといった勝手な思い込みや我田引水は許されません。
しかしわたしは、やはり、そのお葉書を下さった方には、聖書が語る神の愛を信ずる信仰は、そのような人間の温かさや温かい交わりを生むのだ、と申し上げたい思いでいっぱいでした。また、わたしはガラテヤ書のテキストをそういう思いで読んでおります。
本日の御言葉は、「愛によって互いに仕えなさい」という先週の御言葉の続きです。聖書が説く神の愛は、わたしども人間の思いをはるかに超えた、絶大なものであることを、わたしどもは繰り返しこの手紙から学んで参りました。本日わたしどもに与えられた御言葉は、簡単に言いますと、その神の愛とわたしども人間の実際の生活とが、どのように繋がり、結びつくのか、という最も重要なポイントについて語っています。それは、「御霊の導きに従いなさい」、ということです。16節の御言葉をもう一度お読みします。
「わたしが言いたいのは、こういうことです。霊の導きに従って歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」
とあります。
これは要するに、神を信ずる者には神の御霊が与えられる、だからその御霊に従いなさい、ということです。ここでは「霊」と書いてありますが、聖書では、「聖霊」とか、単に「御霊」と呼ばれます。またそれは主イエス御自身の御霊、と考えても差し支えありません。主は復活して天に昇られただけでなく、わたしどもの目には見えませんが、この地上で生きるわたしどもと共に居てくださるからです。聖書の中にも、聖霊のことを「キリストの御霊」とも呼んでいる通りです。
キリスト教信仰は、御父である神と、御子イエス・キリスト、そして、御霊なる神が、完全に三位一体であられるので、神はただお一人であると信じます。その中でも、父なる神と御子イエス・キリストは、説教の中で繰り返し語られますから、まあ一応お分かりになるでありましょう。しかし「聖霊なる神」は一番分かりにくいと思います。こういう風にお考えになられたらいかがでしょうか。すなわち、聖書の福音は、この世界は何か偶然から無意味に生まれて来たのではなくて、ちゃんと創り主であり、全世界を責任を持って統治しておられる父なる神がおられる。これが「父なる神」です。第2に神は愛であられ、その証拠に、御独り子を遣わし十字架につかせられた。これが御子です。そして第3に、神はわたしども一人ひとりを愛し、その弱くて迷い易い心に信仰を植え付けられ、正しい道、永遠の命に至る道へと導いてくださるために、御霊をお遣わし下さる、ということなのです。ですから、聖霊が、ある意味では最終的に、直接わたしどもと神とを結びつけ、神の愛を分からせその中で生きられるようにして下さる神の力である、とお考えになって差し支えありません。
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さて、本日はこの御霊の導きについて、初めに、われわれ人間には、御霊をいただかなければ、決して自力で信仰を持つことも、正しい信仰の道を歩むこともできない、ということについて聖書からお聴きしたいと思います。17節をお読みします。
「肉の望むところは、霊に反し、霊の望むところは、肉に反するからです。肉と霊とが対立し合っているので、あなたがたは、自分のしたいと思うことが出来ないのです」
とあります。
ガラテヤ書5章の全体は、隣人愛の生活がテーマとなっています。つまり、どうしたら、キリスト者がキリスト者として、神の愛を固く信じてこの世を生き、隣人を愛し、神を賛美して生きるような生涯を全うすることが出来るか、ということです。その中で、当然、隣人を愛することが、大切な問題となってきます。なぜならキリストの十字架の愛を信ずるわたしどもの生活は、もう、自分のことはあまりくよくよと心配したりせず、すべてをイエスさまにお任せできます。もう、自分の安全や幸福を追求する必要は全く無くなったわけです。それでは、わたしどもはもう、すべてを神さまにお委ねし、自分は好き勝手に生きたらよいのでしょうか。そうではありませんね。それは自由のはきちがえというものです。わたしどもはむしろ、この世に命が与えられている限り、一人の自由で責任ある主体として、隣人を愛するつとめがあります。それが、神の御心だからです。
パウロはロマ書1章14節で、「わたしは、ギリシア人にも異邦人にも、知恵のある人にもない人にも、果たすべき責任があります」、と言っています。この場合の「果たすべき責任」とは、具体的には福音伝道のことですが、もう少し一般的な言い方をすれば、隣人を愛するつとめがある、となりましょう。ですから、パウロが先週学びました13節で、「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」と述べた通りです。わたしどもはそのようにして、神と共に働く者となり、神の御栄を表すことができるようになるのであります。
しかし、そういう自分が、それでは本当に、隣人を自分自身のように愛する生き方が出来るのでしょうか。本当に、友のために自分の命を捨てられるのでしょうか。そう問われますと、そこにやはり、なかなかそうはできないで苦しんでいる自分自身を見出します。たといそうしたいと心から願っていても、なかなか実行できません。それがわたしどもの課題です。
ところで聖書は、それはわたしどもがただの「肉」にしか過ぎないからだ、と説明します。この地上に生きている限り、わたしどもは肉にしか過ぎません。「あゝ我悩める人なるかな」(ロマ7・24)とうめくような思いで神に祈る、という現実が、一方においては確かにあるのです。そしてこの点で、初めに申しましたような、「わたしは願う、わたしは願う」、という、人間誰しもが持っている切なるうめきのような祈りと、わたしどもも決して無縁の世界で生きているのではない。いや、むしろ、そういうこの世の信仰を持たない人たちの悩みと祈りを、わたしどもも共有し、連帯して生きている、と言ってもよいでありましょう。
そこでパウロは、われわれ人間の中では、「肉と霊とが対立し合っている」、と言っています。著者パウロはいよいよ本腰を入れて、信仰者であるわたしどもも持っている、愛することの困難さの問題と、取り組もうとしています。
ではいったい、神の思いと対立している人間の「肉」とは何でしょうか。聖書で「肉」と申しますのは、単なる肉欲のことではありません。19節で、「肉の業は明らかです」と言って、その働きが列挙されていますがここには単なる肉欲だけでなく、もっと精神的な欲望も沢山入っています。聖書で肉という場合、「霊」が精神で「肉」が肉体である、ということではありません。他の宗教によくあるような、「霊肉の葛藤」といったようなことは、聖書ではひと言も語られていません。むしろ聖書は、精神と肉体の全部をひっくるめて、人間全体を「肉」と呼んでいます。要するに、「肉」とは「人間」のことです。そして聖書は、肉にしか過ぎない人間について、それはまことにはかない存在で、「朝(あした)には萌え出て、夕べには枯れる」野の草のような存在だ、と言っています。また、主イエスは、「野の花を見よ、空の鳥を見よ」という有名な「山上の説教」の中で(マタイ5章25節以下参照)、肉である人間は、いつも自分のことをくよくよと心配ばかりし、思いわずらってばかりいる存在だ、と仰っています。その意味では、人間は自己愛の塊のようなものです。明日は何を食べようか、何を飲もうか、と自分の命のことで思い煩い、また、何を着ようかと、自分の見栄えや美しさや、人からの評価をいつもくよくよと気にしている。その意味では、「肉」の欲するところは、わが身の安全と幸福、そして自分の栄光ですから、御霊の思いとは対立するのです。主イエスはこのお説教の中で、もしわたしどもが神の愛を信じなければ、わたしどもはただの肉であり、自分中心に、ただ自分の幸福と栄光のためにしか生きず、いずれは死んでしまうはかない存在だ、とおっしゃっているように思うのです。
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さて、ガラテヤ書を読んで来て、わたしどもはそのような自己中心の肉であるにもかかわらず、神はそのようなわたしどもを憐れみ、あらゆる肉の思い煩いから解放して神の子として下さった。その上、御国の世継ぎとなる望みを与えてくださった、ということをお聴きしてきました。これは大変なことと言わなければなりません。ところで、わたしどもが本当にそういう境遇を与えられ、神を愛し、隣人を愛する世界に入れられるためには、ただ単に、そういう世界観を持てばよいのでありましょうか。ただ単に、この世界には「神」と呼ばれるお方が居ると考え、愛が大切だ、という世界観や人生観を持てば、よいのでしょうか。そういう話しではないのですね。やはり本当に具体的に、その神とこの自分とが固い絆で結ばれている。だから、自分を愛するように隣人を愛することが出来るようになるというものがなくてはすべては単なる「絵に描いた餅」です。ですから、「御霊によって、歩みなさい!」と勧められているのです。そのカギを握るのが「御霊なる神様」です。
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しかし、そのように言われましても、その「御霊」というのはどこにおられるのでしょうか。御霊がどこにおられるかが分からなければ、御霊によって歩むにも歩みようがありません。そして、この問いに対して、聖書は意外な答えを与えてくれるのです。すなわち、この御霊は、神がわたしどもを「聖霊の宮」として下さったので、神を信じたいと願うわたしども一人ひとりの心の中に、親しく住んでいてくださる、というのです。コリント前書6章19節です(新共同訳聖書の306頁を開けてください)。「知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」、と書いてあります。「あなたがたは、そんなことも知らないのか」、と言わんばかりです。これは具体的には、洗礼を受けてキリスト者となったことを意味します。「洗礼」という言葉はここではひと言も語られていませんが、洗礼が背後にあることは申すまでもありません。聖書では、人は洗礼を受けることによって、聖霊の宮とされるからです。
確かに、わたしどもは自分の中に御霊が宿っているなどとは、聖書でそういわれるまで、ほとんど考えてもみませんでした。わたしどもは頭のてっぺんから足のつま先まで、ただの「肉」です。大変弱くて迷い易い、そしてもろい存在です。とても聖霊の宮だなどとは考えにくいのです。しかし、わたしどもは、聖霊を自分の持ち物のように、ポケットに入れて自由自在にできる、というわけではありません。むしろ反対に、聖霊が、わたしどもを御自分の所有として下さる、と言うのです。だから、「あなたがたはもはや自分自身のものではない」、と書いてあります。つまり、聖霊とはキリストの御霊ですから、わたしどもの《主》で、わたしどもは《僕》です。その主なるイエス・キリストが、わたしどもと共にいまし、わたしどもの手を取って、一足一足わたしどもを御国にまで導いてくださるのです。決してわたしどもを見捨てず、死に至るまで、信仰の道を歩ませてくださるのです。
聖霊についてのもう一つの大切な聖書の御言葉がありますので、是非聖書をお開きください。ロマ書8章26節です(285頁)。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」、とあります。わたしどもが自分の弱さや愚かさを嘆いたりうめいたりするよりも先に、神の御霊が、言葉にあらわせないほどの切なる呻きで、われわれのために神に祈って下さる、という意味です。人間は、せっかく神の愛を受けて罪から解放され、隣人を愛して生きるキリスト者らしい生活を始められると思ったのに、現実の患難や大きな障壁にぶつかるとたちまちくじけ、躓いてしまいます。自分の中にも、ねたみやそねみというマイナスの感情があります。大変弱くてもろい存在なのです。時には祈ることすら出来ず、どう祈ったらよいかも分からない、と書いてあります。まさに、「あゝ、我悩める人なるかな」(ロマ7・24)なのです。しかし主の御霊は、そのようなわたしどものためにも、祈って下さいます。自ら「言葉にあらわせない切なるうめきを持って」、執り成しの祈りをしてくださる、と言うのです。これが、キリストの御霊、聖霊の尊いお働きです。
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そうすると、どういうことが起こるのでありましょうか。聖霊の一番大切な役割は、わたしどものためにとりなしの祈りを父なる神に捧げながら、わたしどもに、あることを分からせてくださる、ということなのであります。
ですから、聖霊が与えられるということは、必ずしも、多くの方が想像いたしますような意味で、わたしどもが我を失って、何か宗教的な興奮状態や熱狂的な陶酔に浸ることではありません。いわゆる「トランス状態」になることではありません。そういうことは、もちろん、あってもよいことではあります。が、むしろ、御霊の大切なお働きは、ある大切なことを、とても静かに、懇ろに、そしてわたしどもによく分かるように、根気よく語って下さる、ということです。聖書では、主の御声は元々、静かで細い声です。あのエリヤに現れなさった時のように主は非常に激しい風の中にも、その後の地震の中にも、その後の火の中にも現れ給いません。火の後の「静かな細い声」の中で、主は初めてエリヤにお語りになった、と書いてあります(列王上19・12)。わたしどもの肉の思いの方が、ずっと大きな声でわめいたり叫んだりしているのです。しかし、御霊はその静かな細い御声をわたしどもが聞き取れるようにわたしどもの耳元で力強く説き明かして下さいまです。わたしどもが聖書を読み、説教を聴くときに、その度毎に、一つひとつの小さな神の御言葉がわたしどもの生活の悩みや苦しみと、しっかりと結びつき、御言葉が真理であることを証しし、そのようにして、わたしどもの命を直接神の命と結び付けてくださるのが、聖霊の尊いお働きなのであります。
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そうすると、どういうことが起こるのでありましょうか。聖霊の役割は、わたしどもに再び、キリストを見えるようにさせて下さる、ということなのであります。コリント前書13章の、「愛の賛歌」という有名な章句の最後のところで、パウロが言っていますね。今はわたしたちは、「鏡に映すようにおぼろげな姿で」、キリストを見ている、と。確かに、コリントの町の特産品である鏡は、なにせ昔の鏡ですから、銅のような金属をざっと磨いただけの鏡で、いくら目を凝らして見ようとしても、顔はおぼろげにしか映りません。その様にわたしどもは、イエス・キリストをどんなに見たい、見たいと願っても、本当におぼろげにしか見えません。しかし、終わりの日には、「顔と顔とを合わせて見るようになる」、と聖書は言うのであります(12節)。これが聖霊のお働きです。そうすると、わたしどもはもう一度立ち上がって、現実の困難さや自分の内外の壁にもめげずに、キリスト者として生きようとする力と勇気を与えられるのです。
聖霊は、あくまでも人間を、愛の行いの主体として立ちあがらせてくださいます。人間は何もしないで、ずっこけたらずっこけたまま、あとはただ神さま任せだ、ということではありません。人間は生きている限り、神様と一緒に働き、聖霊を祈り求めて働くのです。これが神を愛し、隣人を愛するということでありましょう。そうさせて下さるのです。
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先ほどは、ロマ書8章26節をお読みしましたが、その少し後の、28節を御覧ください(285頁)。こう書いてあります。
「神は、神を愛する者たち、すなわち、御計画に従って召された者たち(すなわち、わたしどもキリスト者のことです)と共に働いて、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」
とあります。
「万事が益となる」、とあります。すべてがうまくゆく、という意味です。わたしどもが神と共に働くと、神が万事を益として下さる。しかしそこには、神だけでなく、わたしどもも、御霊によってもう一度立ち上がらせて頂いて、一人の自由な主体として、神と一緒に働いている、というのです。そうすると、今まではどうしてもうまくゆかずに、ただ「わたしは願う、わたしは願う」、と呻くような思いで祈るより他にありませんでした。しかし、御霊が同じように、切なる呻きで一緒に祈って下さると知ってわたしどもも祈ると、神は万事を益となるようにして下さる。今までは好ましくないと思っていたことまでが全部、ことごとく良い方向に向かうようになる。そして、神はわたしどもにも、その大きな喜びの一端に、御自身と共に与るようにして下さるのです。
そのことが分かるようになればなるほど、わたしどもの人生は天上の喜びの一端にも与ります。わたしどもの人生は、良い地にまかれた良い種の譬えにありますように、次第に成長し、30倍、60倍、100倍もの豊の実を結ぶようになるでありましょう(マルコ4章参照)。そして、わたしどもはますます謙遜にさせられます。それを見て人々が神の御名を崇めるようになるのであります。
祈ります。