上田光正
本日ご一緒にお読みしました、詩編第84編の詩は、人生を巡礼の旅に譬えた詩です。と申しますよりも、作者自身が、自分の人生を神への巡礼の旅と考えている人のようです。しかも、後で申し上げますように、彼は一人旅ではないのです。わたしは四国で6年ほど伝道しておりましたが、四国には「お遍路さん」がいます。何度かわたしの教会にもお遍路さんが来てお茶を飲んで行かれましたが、ご承知のように、お遍路さんは「同行二人」という字を背中やタスキに書いて旅をします。あれは、自分は一人旅ではないんだ、どんなに寂しい四国の山の中でも、もう一人のお方が一緒に旅をしている、だからさびしくもこわくもないんだ、という信仰をあらわしています。そうであるならば、わたしども キリスト者の旅は一層のこと、死んでお甦りになられた主イエスがご一緒です。一人旅ではないのです。
本日、このテキストが選ばれましたのは、教会歴では、11月末が一年の最後で、12月からはカレンダーが変わり、主の御降誕(クリスマス)を待ち望む待降節(アドベント)に入るからです。それで、本日と次週の礼拝とで、人生の終わりとは何であるかを、ご一緒に御言葉に聴きながら過ごしたいと思った次第です。もう一つの理由は、現在聖書日課で詩編をご一緒に読んでおりますので、詩編の味わい深さをご一緒に体験したいと思ったからです。
この詩編の作者は、内容からすると、外国に住んでいたようです。あるいは、つらいバビロニヤ捕囚の民であったのかもしれませんし、今は帰る途中にあるという説もありますが、定かではありません。例えば11節で、「あなたの庭で過ごす一日は千日にまさる恵みです」とうたっています。神を礼拝して過ごす日曜日は他の千日にもまさる、と謳っています。以前は、エルサレムで毎日礼拝をささげていた人なのかもしれません。今はそれができませんが、しかし、遠く故郷を離れて初めて、当時は知らなかった礼拝の喜びや神殿への懐かしさがひとしお胸に迫って、この詩を作ったのではないか、と思われます。
巡礼という場合、わたしどもの場合は、天の御国を目指す旅です。地上では巡礼者であっても、その目的地は死や陰府の国ではなく、天の御国、光と命の満ちあふれる国です。そこでなつかしい主とまみえまつり、兄弟姉妹と共に主のみ名をほめたたえることが出来ることこそ、わたしどもがこの世を生きている生き甲斐であり、最終目的です。その途中でこのように神の家である教会に集められ、礼拝をささげ、聖餐にもあずかります。それは、終わりの日に天のエルサレムで喜ばしい祝宴にあずかることの前祝いでもあるわけです。その終わりの日を思う日が日曜日です。今朝は、そういうわたしどもの人生の真の目的について本日与えられた御言葉からご一緒に学びたい、と思うのです。
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最初の2節と3節に、この詩の主題がうたわれています。
「万軍の主よ、あなたのいますところは
どれほど愛されていることでしょう。
主の庭を慕って、わたしの魂は絶え入りそうです」
とあります。神の家を慕う熱烈な思いがそのまま歌となっています。
先ずわたしどもが注目させられますのは、「万軍の主よ」という呼びかけです。実はこの詩には「主よ」とか「万軍の主よ」とか「神よ」とか「わが王よ」という呼びかけの言葉が、全部で15回も出てきます。神を慕う作者の気持ちがいかばかりかをうかがわせます。その神の住み給う住まい、これは、エルサレムの神殿のことです。その麗しさを思い見て、詩人は、「わたしの魂は絶え入りそうです」とうたっています。「主の庭」というのは、イスラエルの男子が神に礼拝をささげる場所です。彼らは祭司だけが許された「聖所」には入れませんでしたから、礼拝は神殿の前庭でささげられました。その大庭を思い見て、詩人は深い叫びを発しているのです。生まれて初めて宮もうでをした時のこと を、非常にリアルに思い出しているようです。まるでそこに居るように、まぶたの底に焼き付いた神殿での礼拝を思い出しています。例えば、「わたしの魂は絶え入りそうです」という言葉は、極めて強い言葉です。「絶え入る」というのは余りの懐かしさ慕わしさに気を失ってしまう、という意味です。この言葉はもう一つ、乙女が恋心を抱いていたことが分かってしまい、耳元が真っ赤になって恥ずかしく思う、という時にも使います。とにかく彼は、まさに自分の生まれ故郷、懐かしくてたまらない心のふるさとに帰り、神のみふところに抱かれた心地です。そこにはもう、自分は何千年も昔から住んでいたように思い、懐かしさにたまらなくなるのです。そして詩人は、自分の心だけでなく、体までもが、 身も心も一つとなった究極の深いところで、生ける神に向かって喜びの「叫び」を上げます。わたしどもは、今朝、このように身も魂も一つとなって神を慕いその大庭を慕う気持、神殿を慕う気持ちを知って、それを自分のものとしたい、と思うのです。神殿を慕う気持ちは、教会を慕う気持ちでもあります。そして同時に、終わりの日に、御国に入れられることをあつく慕う気持ちです。そこには、詩人の神への深い愛があり、しかも、つつましく、謙遜な気持ちで神を慕うのです。
4節は、その神殿には、または、神の御許には、魂の平安がある、と謳っています。
「あなたの祭壇に、鳥は住みかを作り
つばめは巣をかけて、雛を置いています。
万軍の主、わたしの王、わたしの神よ」
当時、エルサレムの神殿には多くの小鳥たちが巣をかけ、雛を育てていたのでありましょう。そして小鳥たちは、時には神殿の奥深く、祭壇の近くまで飛んでゆくこともあったのでありましょう。神は小鳥にさえ、そのような幸福をお許しなさる、と詩人は妬ましい思いさえ込めてうたっています。特につばめは、よほど安全な場所にしか、自分の巣を掛けません。よく、海辺の断崖絶壁に巣を作るのはそのためのようです。ですから、つばめが巣を作る家は平安の家である、と言われます。つまりこの詩は、神を慕って生きる人の究極の平安、それは、単に心の平安だけでなく、完全な意味で、あらゆる被造物と共にある、神の国の平安である、と作者は言いたいのです。ここには作者自身の、神よ、あな たの家に住み、いつまでもあなたの祭壇の傍らにおらせてください、というとても深い祈りと願いが込められています。
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5節から、「いかに幸いなことでしょう」という御言葉が、全部で3回出てきて、この詩は次第に佳境に入ってゆくことに、ご注意ください。最初は第5節です。
「いかに幸いなことでしょう
あなたの家に住むことができるなら
まして、あなたを賛美することができるなら」
その次は6節です。
「いかに幸いなことでしょう
あなたによって勇気を出し
心に広い道を見ている人は」
そして3番目は、この詩の最後の、締めくくりとなっています。
「万軍の主よ、あなたに依り頼む人は
いかに幸いなことでしょう」、です。
わたしが本日、皆さまと御一緒に考えてみたいのは、特に2番目の、6節の御言葉です。ここでは、人生が神の御許に帰る巡礼の旅であるが、それは幸福であると謳われています。しかも、遠い異国にいても、神殿に帰ることをいつも心に思っている人は、既に幸いだ、と謳っているのです。それが、「いかに幸いなことでしょう、心に広い道を見ている人は」という御言葉です。幸いなのは、心に広い道を見ている人。右にも左にもそれずにこの広い道を歩もうと志す人。昼も夜も主を思い、主の御言葉を慕い求める人です。
「広い道」というのは、エルサレム神殿に至る道のことです。特に「広い道」と言うのは、イスラエルの子らにとって、エルサレム神殿に至る道がシオンの山の上にあるので、それは「ハイ・ウェイ」、「高い道」であり、最も「広い道」、だれもが歩きたがる道、という意味のようです。それを「心に見ている人は」というのは、ですから、巡礼者なのです。あるいは、遠いバビロニヤに連れて行かれ、もしかしたら一生帰れない人かもしれません。しかし、たとい今は遠い異国で捕らわれの身、捕囚の民であって到底帰ることはできなくても、いつもエルサレムの神殿への道のことを心に思っている人は、幸いだ、と言っているのです。
ですが、いったい、異国にいて巡礼の旅をしている人が、どうして幸いなのでしょうか。また、バビロンに連れ去られた捕囚の民は、70年も故郷には帰れなかったそうです。今でも、中東には故郷に帰れない大勢の難民が、何年もテント暮らしをしています。日本でも、福島で災害にあって、まだ故郷に帰れない人もいます。それは普通は、不幸としか思えません。そして、わたしども主を信じる者も、やはり、御国を目指す巡礼者なのです。この地上の命の祝福は、もちろん頂きます。働くことにも、人を愛することにも喜びを感じ、感謝もします。しかし、それらの中に、究極の生きる喜びがあるとは考えません。やはり、御国を目指す巡礼者なのです。終わりの日に、主イエス・キリストと顔と顔とを 合わせてまみえまつり、その十字架の御愛を本当に知り、永遠の命にあずかることが、人生最高の目的であり、人間に許された最大の幸福である、と考えています。ですから、その最後に帰る天の御国と、この地上の人生とは、ある意味では、バビロニヤとエルサレムほど遠く離れています。そういう人が、「心に広い道を見て」いるだけで、どうして「幸せだ」と、作者は言っているのでしょうか。
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今から約40年前に、テレビでも「母をたずねて3千里」という題の映画がアニメで放映されていました。それは、まぶたの母、自分が幼いころに持った記憶をたよりに、イタリヤのジェノヴァから南米のアルゼンチンまで、三千里の旅をして遂に自分の母親と再会することができた少年の感動の物語です。この少年が幸いであったかどうかを、考えればよいのです。
実は、なぜそのような人が幸いで、人生を喜びと感謝をもって歩めるかは、その前と後に書かれています。その前の、「あなたによって勇気を出し」と、その後の、7節の御言葉全体です。前の方の、「あなたによって勇気を出し」とは、神がその人の生きる勇気と力の源である、という意味です。ここでわたしどもは、どうしても、神が彼と共に歩んでいてくださる、という事実にまで、思い至らなければなりません。つまり、彼は一人でトボトボと歩んでいるのではないのです。先ほどは、四国のお遍路さんが「同行二人」という字を書いたタスキをしているというお話をしました。それと同じ、あるいはむしろ、それ以上のことが、この「あなたによって勇気を出し」という御言葉の背後にあります。 神が彼と共に歩んでおられ、彼の足が弱くなれば彼の肩を担ぎ、心がなえれば励まし、寂しい夜には共に語らってくださいます。わたしどもにとりましては、主イエス・キリストがまさにその、「神、我らと共にあり」なのです。
そのことが、7節で語られています。お読みします。
「嘆きの谷を通るときも、そこを泉とするでしょう。
雨も降り、祝福で覆ってくれるでしょう」
とあります。
「嘆きの谷」という御言葉は、文語訳では、「涙の谷」と訳されていました。異邦の地からエルサレムに向かう旅は、時に砂漠の中を歩き、難儀を極める旅だったようです。そして、言わずもがなのことですが、人生の旅路は山あり谷あり、時には深い悲しみや苦しみ、そして、深い孤独もあります。まさに「涙の谷」です。特にこの御言葉は、先ほど礼拝の初めに交読致しました、詩編23編4節の、「死の陰の谷」という御言葉と相通じます。
「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも
わざわいを恐れません。
あなたがわたしと共におられるからです」
という御言葉です。西洋文学では、人生が「嘆きの谷」であるとか、「涙の谷」であるとか、時に「死の陰の谷」である、という言い方がよくなされます。「死の陰の谷」というのは、愛する者の死による悲しみや、自分自身の死への恐れのある谷、という意味です。しかし、「わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共におられるからだ」と、詩編23篇の作者はうたいます。詩編84編の作者もまた、それに呼応するかのように、「あなたによって勇気を出し/心に広い道を見ている人は幸いです」と謳います。「たとい嘆きの谷を通るときも、そこを多くの泉あるところとするでしょう」、と。これは、神が共にいて、慰めと力を与えてくださるからです。神を慕う人の心は、いつもエルサレムへ の神殿へと真っすぐに通ずる「ハイ・ウェイ」を見ています。そして、神と共に歩む人です。その人は、神から絶えず生きる力と勇気を与えられます。乾ききった、荒涼たる砂漠や荒れ野を行くときも、そこを泉と憩いのある場所としてもらえます。神を慕う人は、神から直接力と祝福をいただきます。だから、幸いなのです。
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申すまでもないことですが、この世を一つの巡礼の旅として生きる人の最大の喜びは、最後には必ず、御国で主とお会いできる、ということです。8節でそのことが謳われています。
「彼らはいよいよ力を増して進み
ついに、シオンで神にまみえるでしょう」
老いの坂は、若い時には想像もつかなかったほど、のぼることが辛いものです。そして最後に、もし死と陰府の世界が待っているだけであるとするならば、気力は衰えて、毎日は、ただ生きているから生きている、というだけとなります。しかし、ここでは「いよいよ力を増して進み」とあります。この訳はむしろフランシスコ会訳のように、「高みから高みへ進み」と訳した方がよいと思います。エルサレムへ行く途中にも、いくつか高い山があります。そこからは、「わたしは山に向かって目を上げる。/わが助けは、どこから来るであろうか。/わが助けは、天と地を造られた主から来る」と詩編121編にうたわれていますように、はるか彼方に、神殿が建っているシオンの山が見えるのです。で すから、足はますます強められるのです。あるいは、これを「砦から砦へ」と訳すこともできます。その場合には、神様のお守りによって砦で守られているように、歩める、という意味になります。いずれにしても、これはわたしどもが日曜日ごとに、礼拝を守り、はるかかなたの御国に、今あたかもすでに到着したかのようになって、ますます足が強められる、という意味になります。礼拝で共に御言葉を聴き、共に祈り、兄弟姉妹と共に賛美を歌うときに、わたしどもの目には見えませんが、確かに、主がわたしどもと一緒におられ、いつか主の御国に入らせて頂ける、という確信が強められるのです。
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最後に詩人は、「ついに、シオンで神にまみえるでしょう」、と謳っています。とうとう御国への旅が、その終着点に到達しました。
それはわたしどもクリスチャンにとっては、それまでは夢の中でしか、あるいは、祈りの中でしか、お会いすることができなかった主イエス・キリストのみ顔を、直接自分の目でまみえまつる時が来た、ということです。そして、兄弟姉妹と共に神を賛美する喜びです。
11節にありますように、それは詩人にとって、一日は千日、いや、千年にもまさる喜びであり、それ以外のどんなに立派な邸宅に住むよりも、たとい門番であっても、主の家の御そば近くで立っていた方がよい、と言えるものです。いったい、神殿を「心のふるさと」と思う信仰者にとって、故郷とは何でありましょか。それは、神の御許べのことです。神さまがいらっしゃるところ、主イエスと共におらせていただける場所です。神があるからこそ、幸福があります。神の愛を知らされたからこそ、人間の幸福が何であるかが分かります。もしわたしどもが、人生でキリストの十字架の愛を知らなかったとしたら、果たして生きていてよかった、と思えるでしょうか。それは確かに、知らない間はそう思 えたかもしれません。しかし、知った今は、もしキリストの十字架の愛がなければ、人生を苦労して生きる意味はどこにもないのです。わたしのために死んでくださったキリストの愛を知ったからこそ、人生に「さいわい」というものがあることを知りました。人間には帰るべき故郷であり、平安があり、愛と永遠の喜びがあることを知りました。そして今、そのキリストの完全な愛を目の当たりに見るのです。そのキリストの御顔を見、キリストのまなざしをこの目でまみえ奉ります。その時、詩人ならずとも、わたしどもの魂は絶え入りそうに、気絶しそうになり、心は満たされて余りある喜びと賛美となります。その瞬間を思うだけでも、わたしどもの心は震えてしまいそうになるのです。
わたしどもにとって、人生は旅路なのです。巡礼の旅です。しかし、最後に目的地に到達できます。主イエス・キリストにお会いして、世界中の人々が求めている究極の幸いが、イエス・キリストの十字架の愛を知ることであることが分かります。それまでは、ご一緒に歩んでくださっていても、主を直接目で見ることはできませんでした。ただ、心に思い、祈りの中で出会い、一目でも主を見たいと切に願っても、見ることはできません。しかし主は、最後にお目にかかれます。その主を目の当たりに見ます。それだけでなく、主はいつもわたしどもと共におられ、遂に父なる神の御国に入れてくださるのです。
祈ります。