本日わたしどもの礼拝に与えられた御言葉は、先週の日曜日と同じところです。とても一度では全部を理解することはできないような豊かな内容ですので、2回に分けました。本日は特に後半、31節以下をご一緒にお読みしながら、主の御言葉をお聴きしたいと思います。
テーマは依然として、「思い煩うな」です。思い悩みや取り越し苦労を含めて、人生で悩み事は沢山あります。人間は他の生き物とは違って、考える動物ですから、色々なことで悩んだり苦しんだりします。将来のことを心配し、他人の思惑を気にし、すべてが終った後でも、「ああすれば良かった、こうすれば良かった」とくよくよ悩みます。これを聖書では、「思い煩い」と言います。
わたしがまだ神学生であったころ、東京神学大学の大学院1年生の夏、「夏期伝道」と称して、夏の1か月余、神学生は教会に泊まり込んで伝道実習をします。指導の牧師について、見習いをするわけです。実際に説教をしたり、聖書研究、家庭訪問までするのです。わたしは既に前の年に普通の教会に行って実習をしましたので、その年は滋賀県にあります、「近江サナトリウム」という結核の療養所に遣わされました。メンソレータムを製造販売している「近江兄弟社」というキリスト教主義の会社が、社会奉仕のつもりで建てたサナトリウム(結核療養所)です。かなり大きな療養所で、常時百人以上の患者さんがいて、ちゃんと礼拝堂もあります。
わたしの仕事は病室を回って、聖書を配ったり、頼まれれば聖書研究をしたり、日曜日には説教もしました。とにかく50年前の話しですから、結核は今の癌と同じか、多分それよりも恐れられていました。実際に命を落とす人も居ます。手術で片肺を切らなければならない時など、何かの理由で開いてみたら血管が古くて駄目だったとか、1~2割は死んでしまうこともあったようでして、牧師室の後ろにはちゃんと霊安室もありました。手術が近づくと、みんな心配になって、病室をまわって経験者に「おい、どうだった」と言って、話を聴いて回るのです。
それから、「術前祈祷」というものがありました。手術の前にお祈りをするのですが、義務や強制ではもちろんありません。しかし、「いたしましょうか」と言うと、まずどんな無神論者でも「よろしくお願いします」と恭しく言います。祈り終わるとホッとした表情になります。一時的であれ、すべてを神に委ねる気になるのでしょうか。それをするのもわたしの役割でした。
それに、サナトリウムというのは独特の雰囲気です。すべての患者さんにとって、それはまさに生きるか死ぬかの戦場でしたから、平凡な日常の中にも何か違う空気がありました。それに、たいていの人は前の日までぴんぴん働いていたのに、大の男が突然会社の健康診断で「胸に影があります。すぐ入院しなさい」と言われて、着の身着のままで送られてきます。ですから、どんな人でも最初の1~2週間は不眠症に罹ります。自分の病気のことよりも、家族は大丈夫か、いつ退院できるか、職場はクビにならないか、心配で心配で夜も眠れなくなるのです。まさに「思い煩い」です。ですから一言でいえば、この世の縮図のようなところです。われわれの毎日の生活の縮図がそこにあります。
そういう方々に新約聖書を配りますと、たいていの方はとにかく一度は開けてみるようです。そしてまず最初に一番感動するのが、このマタイ伝6章の「思い煩うな」という御言葉なのです。今でも覚えておりますが、ある病室の、病院で隣同士で仲良くなった若い奥さんと娘さんが聖書をむさぼるように読んで感動していました。「先生(わたしのことです)、このマタイ伝6章はとても良いですね。読んでいるととても心が休まり、安らぎを感じます」。ところが次の週にその部屋を訪れると、異口同音にこう仰るのです。「このマタイ伝は読むととても心が休まるのですが、時々、幾ら読んでもまるでそんな気になりません。先生、どうしてこんなにも違うのですか。どう読んだらよいのですか」と訊かれました。
そうだと思います。この箇所は、非常に素直に読みますと心が落ち着きます。そうだ、何も心配なぞしないでいいのだ。空の鳥のように、野の花のように、ただ一切を神さまにお任せすればよいのだ。明日のことは心配しないことにしよう」と考えれば、たちまち平安になります。ところが、また別の機会に読んでみると、まるでそんな気持ちになどなれないのです。これはどうしてなのでしょう、じゃご説明しましょう、というところから、信仰の話しが始まるのです。
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本日もそういう所から、主がお語りになることにご一緒に耳を傾けたいと思います。
30節の最後に、「信仰の薄い者たちよ。」という御言葉があります。主は最初の25節からこの30節までで、空の鳥、そして野の花のことをよく観察してみなさい、そしてそこから信仰とは何かを学びなさい、と仰いました。そしてこの30節の最後で、一通り全部お話しした後で、突然「信仰の薄い者たちよ」と仰ったのです。急に話題を変えたわけではありません。むしろ、今まで仰った、空の鳥や野の花の話しは譬えであって、これからいよいよ本題に入る形で、だから信仰が大事だ、と言われたのです。
では、その「信仰」とは、いったい何なのでしょうか。主は信仰について、二つの点からご説明しておられます。第1点は、あなたがたを愛しておられる父なる神が居られる。神は何が必要かをすべてご存じなのだから、その父なる神にすべての心配事を委ねなさい、ということです。それが31節と32節に書いてあります。第2点はやはりこれと同じぐらい重要なことで、そもそも食べ物や着物は何のためにあるのか。生きるためです。では人間は何のために生きているのか。そのことを考えて、まず神の国と神の義を求めなさい、そうすれば、他のものは、神が必要なものを必要なだけ与えてくださる、と仰いました。それが33節です。
わたしもこの順番でご説明したいと思います。
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第1点の、父なる神に委ねるということについて、31節以下をもう一度お読みします。
「だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。」。
その次ですね。「あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。」
「異邦人」というのは、先週もご説明しました通り、まだ神を信じていないため、神の御愛を知らない人たちです。日本人の場合でも、八百万の神々しか知りませんから、天にいますただ一人の創造者なる神、天地万物をお創りになり、この世界を今もご支配くださる神のことは何も知りません。そういう人は、自分の生活を支えるものは自分の力や才能で手に入れて、少しでも平安な生活を得たいと、喉から手が出るほどに欲しがって、結局は、思い煩いに陥ってしまいます。あるいは、美しく身を飾ろうと願って、しかし野の花のようには到底なれませんので、思い煩いの人生を送ってしまいます。それは、「あなたがたの天の父」のことを、まだ知らないからです。だから、心の拠り所と申しますか、心の支えがなく、くよくよと心配ばかりします。自分の主人は神ではなく、自分であると錯覚していますから、あのサナトリウムの患者さんたちのように、平安を求めても得られないのです。しかし、あなたがたは違う。あなたがたは天にいますあなたがたの父なる神があなたがたの「あるじ」であり、あなたがたのことを心配し、最後の責任まで取ってくださることを知っている。全知全能の神は、あなたがたの必要をことごとく御存じなのだから、すべてを委ねなさい、と主は仰っておられます。
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いったい、信仰を持っている者と持たない者とで、どこが違うのでしょうか。もちろん、信仰のある人だって、明日癌の手術を受けるということになれば、少しは悩みます。しかし、無制限に悩むことはしません。どこかでその悩みにストップがかかるのです。それがここで、「父はあなたがたに必要なものは、ことごとくご存じである」、という信仰です。
しかし、神はご存じであるということは、一番信じにくいことであるに違いありません。それは、神の存在を頭では知っている人の場合でも同じです。なぜなら、神は今まで、十分なことをして下さらなかった、という記憶がわたしどもにはあるからです。ですけれども、わたしどもには自分に何が必要で、何が不足しているかを、本当によく分かっているのでしょうか。本当は、今自分が喉から手が出るほど欲しいと思っていたことが、何年か経ったら、あれはあれで無くても十分だったのだ、と知ることだって、随分あるのです。今嫌な道だと思いながら嫌々歩いている道が、後になったら、あれが神がわたしのためにお備えくださった、自分にとって最善で最上の道であった、と知ることがあります。何も、親が考える人生や、今自分が考える人生が最上ではないのです。なぜなら、神こそはわたしどもの創り主であり、わたしどもを愛と慈しみを持ってこの世に送り出し、わたしどもの髪の毛の数をも全部ご存じの方です。わたしどもにとって何が最上であるかを、ただ独りご存じのお方なのです。全部が全部というわけではありませんが、わたしどもはただ自分の狭い了見で、自分は不幸だ、自分には恵みが足りない、と考えているだけのことが極めて多いのです。
主は「父なる神はご存じである」ということを、既に同じこのマタイ福音書6章の、「主の祈り」を教えられたところで仰っていました。前のページ(9頁)の、6章7節以下です。「また、あなたがたが祈る時は、異邦人(信仰をまだ持っていない人のことですね)のようにくどくどと述べてはならない。異邦人は、言葉数が多ければ、聞き入れられると思い込んでいる。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ」。祈る時は呪文のように同じ言葉を何度も唱えるな、もっと神を信頼して祈りなさい、ということです。我々はむしろ逆なのです。神は今わたしが何を必要としているかを、よく分かっていらっしゃらないようだ、実はこうなんですよ、とくどくど説明して、どうかちゃんとそうしてください、と祈ります。しかし我々は、自分のことを余りよく知らないような相手に、幾ら祈っても仕方がないのではないでしょうか。だから、そう思っているといつの間にか祈ることを止めてしまうのです。そうではなく、父なる神はすべてを御存じです。そして神は、わたしどもが自分から神に祈り求めることを、とても喜んで待っておられるので、「祈りなさい」と仰るのです。
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しかしそれなら、わたしどもはどうしたら、すべてを御存じの神に一切合財お任せし、自分は自分の果たすべき分をきちんと果たすことが出来るような生き方が出来るのでしょうか。信仰生活というのは、信仰が深まれば深まるほど、すべてを神に委ねることが出来るようになる生活です。そしてそれは、簡単なことではありません。自分のことがなかなか気になって手放せないからです。すっかり神さまに委ねれば一番気が楽になれるのに、それがよく分かっていても、なかなかできないのです。
しかし、自分のことを手放せないのには、ちゃんと理由があるのです。そこまで考えなければなりません。単に、わたしどもが神の愛のことを十分に分かっていないからだけではありません。確かに神は、わたしどもが聖餐式の時に毎回お聞きするように、「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛してくださった。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」という御言葉の通り、慈しみに満ちた神です。背くわたしどもをも愛し、罪から救うために、御独り子を遣わし、十字架による救いをお与えくださいました。しかし、いくら神は愛であり、わたしどものことを頭のてっぺんから足のつま先までご存じであると分かっていても、それだけでは、わたしどもは自分の心配事をすっかり神に委ね、自分は自分の為すべきことをするという生活は、なかなかできません。ちゃんと理由があるのです。わたしどもには神とは別の、心の支え、別の神さまがいるからです。
実は、本日わたしどもに与えられた御言葉の最初の、25節の最初には、「だから」という言葉があります。この25節の最初の「だから」は、その前の24節を受けています。24節はこういう御言葉です。
「だれも、二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
この御言葉にすぐ続いて、「だから、思い煩ってはいけない」と続いているわけです。「だから」と、何か理屈をこねているようにも見えますが、決してそうではありません。むしろ、信仰の最も大事な筋道を教えておられます。24節の聖句は、今から5百年前に、宗教改革者のルターが最初に聖書をドイツ語に訳した時の、いわゆる「ルター訳聖書」では、太い黒字で印刷されていたそうです。つまり、本日の御言葉を理解する上で非常に重要な聖句なわけです。
人間は、神がわたしどもを愛する魂の父であることを知り、いつも一緒にいて下さることを知って、初めて、その神に信頼する平安な生涯を送ることが出来ます。しかし、もし神ではなく、富や財産を頼りにし、それを心の拠り所にし、何とか幸福になろうとするならば、たちまち思い煩いに陥り、人との争いやいがみ合い憎み合いに巻き込まれ、決して平安は得られません。誰も神と富と、二股をかけ、二人の主人を同時に持つことはできないからです。
ここで言う「富」というのは、単に富や財産のことだけではありません。いわゆる「マンモンの神さま」を拝むことです。つまり、自分の才覚、自分の学歴や才能、要するに、神以外に自分が頼りとする一切のもののことです。これを聖書では「偶像」と呼びます。その代表格が、主イエスの時代から現代に至るまで、富なのです。もっと言えば、それは自分自身を頼りとし、自分のために生きる生き方のことです。そしてそうである限り、結局は、富の力の前に、こっそりと膝を屈めて拝むことになるので、永久に、思い煩いから逃れることが出来なくなる、と主は仰るのです。
そういう全体の関連の中で、もう一度最初から読んでみると、つながりがよく分かります。24節では、人間は二人の主人に同時に仕えることはできない。そうお話になさった後で、神を信頼して生きるとはどういう生活かをご説明したのが、25節以下の、先週お話をした箇所です。それは、空の鳥のように自由で、いそいそと働きながら思い煩いは一切せず、神に信頼し、神に愛され、神の御心に従う幸いな生活です。あるいは、野の花のように、誰か他の人と自分を比べ合い、足を引っ張り合い、ねたみ合い、誇り合い、虚栄心を張り合う生活ではなく、ありのままの自分を感謝し、神を見上げ、神を賛美することを喜びとする生活です。そして神は、栄華を極めた時のソロモンよりもはるかに美しく、その身も心も飾ってくださるのです。そして主は、あなたがたは神に信頼して生きるなら、神はそのような生き方をお与えくださる、と言われました。
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さて、それでは、信仰を持って生きる人生とは、いったいどのような生き方なのでしょうか。そのことをズバリ明確にお語りになったのが、33節の御言葉です。
「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。」
ここで主は、本当に神を信じ、神に委ねて生きる生き方の、最も重要なポイントをお話しくださいました。それが、「神の国と神の義」を第1に求める生き方です。なぜなら、何度も申すようですが、「信仰とはすべてを御存じの神に信頼し、神に委ね、神と共に生きることだ」と幾ら言われても、これは簡単なことではありません。この「委ねる」という行為が、とても難しいからです。ですが、「ゆだねる」という行為は難しいとしても、「求める」という行為なら、人間にはずっと簡単です。正しいものを熱心に求めれば、いつの間にか、思い煩いから解放されるからです。つまり、人生で何を目指して生きたら、本当に思い煩いから解放されるのか。それは、自分の主人は自分ではなく、神ですから、神の国と神の義とを求めるのです。「そうすれば、他のものはすべて加えて与えられる」、と主は教えられたのです。
ここで、「神の国」や「神の義」とは何かを丁寧にご説明すると、話しは大変長くなります。要するに、「神の国」とは、主イエスの福音の中心です。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」というのが、主イエスのメッセージです。それは、この世界が本当に神の御心にかなうような世界になる、と言い換えてもよいかもしれません。また、「神の義」は、ご承知のように、パウロの福音の中心です。ですから、これらは聖書が約束している救いのすべてだ、とも言えますし、また、これらは、「主の祈り」の最初の3つの祈りである、と言ってもよいと思います(主の祈りは週報の裏にありますね)。人間は、自分が主で、自分に仕えて生きているのではなくて、神が主なのですから、神の御名が崇められ、神の国が来、神の御心が成就することを熱心に願って生きれば、思い煩いからは完全に解放されるのです。
人間とは、何かを求め、何かを得たいと願って生きる存在です。皆様もお聞きになったことがあると思います。「人は生きるために食べるのであって、食べるために生きるのではない」(We eat to live, not live to eat.)という言葉です。それならば、人生の本当の目的は何なのでしょうか。その人生の目的が、単なる自分の幸福であるなら、思い煩いからは永久に解放されません。間違ったものを求めるから、永久に得られず、永久に思い悩むのです。いつも自分の主人は自分であり、自分を一番愛しているのも自分であり、「自分が大切、自分が大切」と思っていますから、結局は運命に翻弄され、「富」という神さまを拝んでしまいます。しかし、唯一のまことの神を知り、その神が、尊い御独り子の命を与えて惜しまないほどわたしどもを愛し、わたしどもと何時も共にいてくださることを知るならば、わたしどもは良い主人を持った人生、本当に真剣に生きる意味と目的を知った人生を生きることが出来ます。わたしどもの本当の主人は神です。わたしどものことを本当に気にかけて、愛してくださるのも神です。何が本当の幸福であるかをご存じであるのも神です。そして、最後の最後までわたしどもの責任を取ってくださるのも、神なのです。主は、二人の主人に同時に仕えることはできない」、と言われました。
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最後の34節は、具体的な指針を与えてくれる、まことに深い慰めに満ちた主の御言葉です。
「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」
神を信ずる人は、一日の終わりにこの言葉を聴いて床に就くことができます。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。これは主の、わたしどもに対する深い慰めの御言葉です。そして、この慰めに満ちた御言葉の背後には、日々わたしどもの重荷を担われる主イエス・キリストの十字架が立っております。と同時に、この御言葉には、何か主イエスのユーモアのようなものが感じられないでしょうか。「ユーモア」という言葉は、元々は、「ヒューマン」、「人間らしい」という言葉から来ています。主はわたしどもの人生の毎日が、「苦労」が多いことを、よくご存じなのです。しかし主は、そのわたしどもと共に生きて下さり、わたしどもの「主」となってくださいます。そして、今日一日の苦労は今日受け止めて、明日のことまでは決して思い煩わない生活へと導いてくださいます。それは人間らしい生活であり、他の人のことを思いやる生活であり、本当のユーモアを知った生活です。主がわたしどもに賜りました、感謝と喜びに満ちた人生なのです。
祈ります。