2014/12/30

奢な暮らしに終わりが来ようとしていた。 覚悟はしていたが、思っていたよりもずっと早い。 週末には家を引き払い、ずっと小さな部屋へと移り住まねばならないだろう。 僅かでも資産が手元に残るだろうか。確証はない。

 かつて共に賭け事や他愛のないゲームに興じていた友人たちは皆、私のもとを去っていった。家に寄り付こうともせず、近頃は夕飯の席に人を呼ぶのにさえ難儀する始末だ。

 そんな私の元に、今夜は一人の青年が訪ねてきている。知らぬ顔ではない。私の友人でも特に年の若い一人で、彼もまた富裕層に属してきた人間だ。そして、まもなくその財産を残らず失おうとしていた。

  私と青年とは食堂の長机を挟んで向かい合っている。机は20人以上が一度に座ることのできる特注品で、部屋の端から端まで続いている。 また部屋は世界各地から集められた美術品で飾り付けられていて、それが料理を待つ間客の目を飽きさせないようになっている。 各々の座席からそれぞれ別の美術品を眺められる趣向だ。その総額たるや時価で億や十億では利かない。言わば席の一つ一つが特等席なのだ。

  けれども今晩ここにいるのは二人だけだ。料理は食卓の手の届く範囲に、こじんまりと並んでいる。窓の外に目をやって出立の日の天候に思いを馳せることはあっても、今更見慣れた美術品など見る気も起きない。 こうなれば特等席も何もあるまい。両脇に果てしなく伸びる空席に、私は葉の落ち去った枯れ枝を見る思いだった。

 「ご両親は元気かい」

  私が声をかけると、青年は皿のステーキを切る手を止めてこちらを見た。 若くして人生の栄華と挫折とを味わった男の顔だ。 深い隈に縁どられた目が、シャンデリアの光で一瞬輝くのを私は見た。 また、口から頬にかけては早くも皺のできる兆候が見て取れる。 大地の裂け目に砂の流れ込むように、これからさらに深くなっていくことだろう。 疎らに下ろした前髪が、額に弱弱しく張り付いていた。 

「ええ、あの人達は相変わらずで」

  青年の声はか細いながらも独特の深みが持っている。 木の洞を反射して聞こえてくるような響きがあるのだ。 それから笑みを作って見せようとしたが、それは薄雪のようにすぐ溶けてなくなってしまった。 私は彼のことがつくづく心配になった。 

「ねえ、いいかい。 これは君らにとって大変な時期が迫っているから言うんだけれども、自分の両親のことをあまり悪く思うんじゃない」 

 資産を失った一家の行く末は私とそう変わりあるまい。 今と同じ暮らしを望むべくもなく、安価な賃貸へと移り住むことになるはずだ。 そしてそれは、彼と両親との結束なくしては到底乗り越えられるものではない。 

「けど」ナイフが音を立てて皿を掻く。私にはその瞬間、青年の手が少し震えたように見えた。「僕はあの人たちのせいで……」 

 青年の言葉をさえぎって、部屋の中にノックの音が響いた。 私の返事を待たずして無遠慮にドアが開き、女中の老婆が顔を出した。彼女はもとより耳が遠い。

 「仁さん、第5地区の方がご挨拶に」

 「そうか。何か持たせてやるといい」 

「……参りまして、それが何やらお困りのようなんです」

 「いい、いい。何でも向こうの言うものを差し上げろ」私は手のひらを上下に振って女中を促した。 

「かしこまりました。でしたら先方に天つゆを一瓶」 

 老婆はしずしずと扉を閉めて去った。彼女にはそろそろ暇を出さねばなるまい。 私は青年のほうに向きなおった。彼は決然とした表情で私を見ていた。 

「聞いてください。父はあなたのことを臆病者だと言うのです」 

「そうだとも」

  青年の顔が苦々しく歪んだ。 私は目の前のロブスターを解体しながら、努めて何でもない風を装ってつづけた。 

「私の周りから人のいなくなった理由はそれさ。今度の暴動に仲間内で参加しないのは私だけだからね」 

 ロブスターをばらし終えると、思い出したように肉厚のヒレカツを手に取って噛みしめた。年明けには手放さねばならない。何もかもを。それまでは自分の思うままを食い、思うままを話して暮らしたかった。

 「……いや、決行は今日だったかな。どうも歳を取ると物覚えが悪くなるよ。この通り、歯はまだ丈夫だけど」

  暴動という言葉を使いはしたものの、私はその実態を知っている。 それは国に対するテロルであり、武装した民衆によるクーデターであった。 参加者は皆富裕層で、その懐にはうなるほどの金がある。 軍資金には不自由はしないし、おそらくそれを出し惜しむこともないだろう。

 「成功すると思いますか?」

 一方で青年は切った肉に手を付けようとしない。無理もない。 彼の父もまた、今日の暴動に参加しているのだから。 

「万に一つもないだろうね。すぐにでも鎮圧されて――一人残らず財産を徴収されるだろう」 

 しばしの沈黙が辺りを覆った。 冬の木枯らしが館に吹き付けて、窓をがたがたと鳴らした。 部屋の中に響くのは私の食器の音だけだ。私は夢中で目の前の料理を摂取した。 

 この国に何が起こっているのか、私も多くは知らない。 ただ一つわかることには、この国では数年に一度国民の貧富が逆転する。 富裕層に属していた人間の資産が尽く徴収され、貧民層に配布されるのである。 一たび徴収される側に回れば、その間は自力で財を為しても政府に差し押さえられてしまう。次の逆転が訪れるまで、我々はただじっとひもじい暮らしに耐えねばならないのだ。 

 「怖くはないのですか」

  青年が沈黙を破って言う。その顔は俯いたままだ。 彼は日増しにその表情に暗い陰を浮かべるようになっていた。 無理もない。彼は生まれてすぐ12年間を被徴収側として過ごし、貧困の中で生きてきたのだから。ようやく陽の目を見はじめた彼にも未だその記憶はつきまとい、再度の逆転を前にしてますますその闇を濃くしている。 

 記憶よりもなお青年を苦しめているものがあった。彼の言葉を借りるなら、それは烙印であった。先天性の障害のように生涯消えることがなく、目にするたびに貧民区での暮らしが思い出される。そんな形を成す悪夢を彼は背負ってもいたのだった。

 「無論怖いとも。死ぬかもしれないのだからね」

  一方の私にしてみても、今回の逆転は特別なものだった。 上流階級から放逐され、生活水準は今とは比べ物にならないほど低くなるだろう。 まだ若く自分の体など省みる必要のなかった頃ならいざ知らず、老齢を迎えた身では長くは持つまい。 聞けば今この国に住む富裕層とそうでない層とでは、平均没年に20歳以上の開きがあるという。 

 食べる楽しみは失われる。金歯が徴収されるからだ。主要な収入となるであろう国民年金は、毎月2割が過剰収入として天引きされる計算だ。 さらには貧民区の人々の間に起こる、堕落した露悪趣味――深夜のディスカウントストアで彼らがどのように過ごすかなど、私は思い起こしただけで身震いしてしまう。

  苦境を強いる国家を転覆せんとする動きは、何も今日が始めてではない。 今まで何度も、こうして『都落ち』が間近に迫っているときもそうでないときにも、決まって富裕層が果敢に国に挑んでいった。 いずれも成果を上げられていないのは、行動に移すのがあくまで富裕層の一部にすぎないからだ。 大部分はこの制度に納得してしまっている。自分が一文無しまで堕ちることを、半ばあきらめにも似た気持ちで受け入れてしまっているのだ。 

 なぜなら、待っていればまた自分にも番は回ってくる。 いずれまた頂点に返り咲けるのなら、人はどれほど貧窮した暮らしでも耐えられるのである。 被徴収側が暴動に乗り出すことがないのも、きっと似た理由だ。 利権を独占する富豪たちも、いずれは自分らと同じ地の底を這うことになる。 かつて私も貧民区にいた頃には、本気でそんな考えを持っていたものだ。 貧窮は人の品性を貶める。ただ一つ確かなことには、私はそう思うことでどんな理不尽も許容することができた。 

 現政府が何者によって運営されているのかは定かでない。 浮き沈みする富豪をさらに上回る富豪たちだとも聞くし、人間性を排したAIによる運営だとも、 または民衆と同じように数年のスパンで貧民に明け渡されているとも聞く。 いずれにせよその体制は偏執的なまでに強固で、暴動はどれほどの規模であっても二晩と続かず、 被徴収者はいかなる財産もその目から隠し通すことはできなかった。 そうした締め付けは絶対的だが、一方で敷かれた制度は被支配階級の心理を完璧に把握していた。 結果私達はゆるやかにこの社会主義の変奏曲を受け入れることになったのである。

  再び部屋の中にノックの音が響いた。 中がどれだけ静かであっても気にかけない、決然とした音量であった。 私の返事を遮ってドアが開き、女中が顔を出した。

 「仁さん、先ほどの方がお礼をしに参りまして、それ」 

「……何か持たせてやるといい」 

「……で何やらもう一つ頼み事があるようでして」 私は再び手振りで女中を促した。

 「かしこまりました。でしたら先方に韓国海苔を」 

 老婆はしずしずと扉を閉めて去った。 彼女には暇を出さねばなるまい……彼女は今でこそ被徴収側の人間だが、 ゆくゆくは資産の分配を受ける側に回り、最新式の補聴器の埋め込み技術で聴力を取り戻すだろう。そしてさらにその後は被徴収側に舞い戻り、手術で補聴器を取り払われるのである。

  先ほどから訪ねて来ているのは貧民区の男である。用事といえば物乞いだが、私はそれを邪険に追い払うわけにはいかない。 いよいよ困窮が極まった際には、私もまた男のように富裕層の家を訪ね、 徴収を受けないだけの僅かな品を乞食して回る必要があるからだ。 私が訪ねて回る富豪たちといえば、すなわち今現在被徴収側に回っている人々である。 先のわが身のためにも、ここで男を追い返していらぬ不評を買うわけには行かない。 

「そうとも。私は生きるつもりだ」

  私は青年に向けて言った。貧民区の過酷さは痛いほどよくわかっている。 環境は劣悪な上、貧困の中で人々のモラルは低下しきっている。 前に被徴収側を経験したのは、私がまだ壮年の頃だ。 そこで散々体を痛めつける羽目になり、私に言わせれば、むしろ今のほうが調子が言いと思えるほどだ。 ならば、今度こそこの体は持たないだろうか。結局は男に施しをしたのも、これまで送ってきた日々の惰性に過ぎないのでは――?

 「だから君も……そうだ、まずはお母様とお父様のことを許してやりなさい」  

 私は不安をぐっと飲み込んだ。 目の前の青年に心配をかけたくなかったし、また勇気づけてもやりたかった。

 「けど、あの人たちは僕に烙印を押したんです」

 「貧すれば鈍する。人とはそういうものだ。劣悪な環境や下劣な趣味の横行する中でも、ご両親は最高の愛情を込めて君を名付けたに違いないのだ」  

 私は貧民区にいたころの自分を思い出しながら言った。 そしてそうした劣悪な精神状態によって、かつて彼に刻まれたもののことを思った。大したことのないように思えるが、彼にとっての重大さは計り知れない。 心の傷とは概してそういったものなのだ。しかし彼はそれと向き合わなければならない。

 「もっと自分の名前を誇りに思いなさい」 

「けど……そんな……天雅なんて名前……」 

「いったい何をそんな恥ずかしがることがあるのかね。それは多少珍しいかもしれないが……」

  三度部屋の中にノックの音が響いた。力任せに五回。明らかに女中のものとは違った。 私が剣呑な声で誰何すると、赤ら顔をした男が入ってきた。 薄汚れた丈の短い外套や、こけた頬は彼が貧民区の住民であることを示している。 目の焦点がどこかあっておらず、酒を飲んでいることが明白に見て取れた。 

「すいません。お宅の婆さんが全然呼び鈴に気づいてくれなくて。勝手にお邪魔してます」

  そのとき、男を見た私と青年とが同時に席を立った。男が警戒してドアの前を飛び退く。 私はドアの側に座っていた青年を手ぶりで静止して、自分は食卓を回り込んで男へ向かって歩き出した。男は大声を上げた。

 「時にあなた、聞きましたか。暴動が無事鎮圧されたようで」 

「そうですか。何か御用がおありで?」 

  隋朝の陶器やルネサンス時代の絵画など、幾多の美術品が私の視界の隅を通り過ぎていく。

 「あっはっは。あんた方の時代もおしまいですな」

 「ご用件は。他にないのですか」 

 窓の前を通った時、ひときわ強い風がガラスに吹き付けた。外では枯れた庭木が揺れている。一瞬窓の向こうに、険しい顔をした老人の姿が浮かび上がった。闇の中で顔を覆う皺がいつも以上に深く見えた。

「いやあ、大した用はありません。いずれ私のものになるかもしれない屋敷を見ておこうかと……」

  視界の端で青年が身動きしたとき、私は床から卓上へと跳んだ。 足の下でテーブルクロスがずれ、食器がかちゃかちゃと音を立てた。 そこから一足飛びにドアの前へ。私は青年が向かうより早く、最短距離で男の前の絨毯を踏んだ。 

「そういうことでしたらお引き取り願いましょう」 

「……いや失敬。丁度家が鰹節を切らしておりましてな。もし良ければいただきたい」

  目前の私を値踏みするような目で一しきり眺めた後、男はそう言って笑った。彼が言葉を発するたびに強烈な酒の匂いがした。 

「今要るのですかな? その、つまり、週末ではダメな理由が?

 「ええ。今まさにです」

  私は男の間近へ寄ると、言葉をかけるより早く、男の肩を掴んで部屋の外へと押し戻した。 男が言うことを聞くか確証が持てなかったからだ。 私の手を振り払おうとする男を、なおも外へ連れ出していく。 廊下を抜け下へ降りる階段へ。階段から玄関へ。

 「何をなさるのですか。鰹節は」

 「お引き取りを。あなたに差し上げるものはありません」

  ついに館の戸口の前についた私は、玄関口から男を放り出した。 外からの冷たい風が、空調の効いた家の中に吹き込んでくる。男は毒づいた。 

「老いぼれめ。都落ちした後どうなるか」

 「わかりますとも。あなたは自分が恥知らずだったと悔やむことになるでしょう」

  言い放った私は扉を閉めた。 鍵をかけると、男が扉を叩いてくるかと思ったが、外はしんと静まっていた。 私は急に体の震えを覚えて座り込んだ。外から吹き込んだ冷気のためではない。恐怖と、疲労のためだ。だがしかし、とにかく追い払った。今度からは女中に戸締りを気を付けるよう伝えねばなるまい。 

 私は歩き出した。 広いががらんどうの、明かりもついていない玄関ホールを、ゆっくりと食堂に向かって。 ここには質感のいい絨毯があり、家事をしてくれる女中たちがいる。 外がどれほど涼しくとも、家の中は快適だ。見慣れた装飾にはいくら金をかけたかわからない。

 仮にこの家があの男の手に渡ったとして、私はいつかまたここで暮らしたい――歩くにつれ、欲望というにはあまりに素朴な、そんな考えが頭をよぎった。 そのためには、生きねばならない。いかなる環境にあっても。 どうやら意志が固まり始めた。私は青年の名前を呼んだ。 

「テンガ君! テンガ君! 私は次の日の出を見るぞ! その次も……! またその次も」 

「その意気ですとも」 

 すれ違った耳の遠い女中が、私の声を聞いてにこやかに言った。 次第に足取りは軽くなり、私は次は何を食べようかと思いを巡らせ始めた。


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