言葉は、語る。音楽は、生まれる。

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鈴木清順監督、最後の出演映画になりました。
「あなたにゐてほしい」予告編、最後に登場されています。




『初国知所之天皇』〜城の崎にて〜の章より


『初国知所之天皇』〜高千穂峰〜の章より

 原ショットのこと
by  原 將人
 昔、ひとりでロードムービーを撮っていました。
 自撮り棒も自撮りのできる対面式のカメラもなかったので、広い範囲の映る8ミリカメラを自分の方に向け、その大きなレンズに反射する自分の顔を横目で見ながら撮っていました。

 そうやってくるくると回ったり、走ってみると、後ろの景色は揺れているのに自分の顔はしっかりとカメラを握りしめた手が顔との位置と距離をキープしているので、第3者には撮ることのできない、安定したセルフポートレイトになっていて、私の作品を見た人たちはその自撮りショットのことを原ショットと呼んでいました。

 カメラが小型ビデオになり性能も良くなった頃、「20世紀ノスタルジア」で、主役の広末涼子と圓島努くんに原ショットを撮らせ、それだけで構成したミュージカルシーンをふんだんに使いました。

 スマホが出てきてみんな自撮りを始めた頃、ようやく原ショットが流通したなと思ったら、みんなそのことをジドリと言っていたので、「地鶏?」って何だと思っていたら、何のことはない自撮りのことだった。

 しかし、自撮りと原ショットと大きな違いは、自撮りが常に自分たちが写ってるスマホ画面を見ながら、いいところでシャッターを押すのに対して、原ショットは視覚では映ってるかどうか時々確認するくらいで、その感覚を覚えたら手が撮るということです。もしくは手持ちの補助によりカメラくんが自分で撮るのです。いつか反重力装置のついたカメラくんが誕生したら、カメラくんは、いつも私たちの周りを回りながら撮ってくれるかもしれません。

 原ショットとは逆に、自分のひたいとかに小型カメラを取り付けて自分の視覚とほぼ同等なものを記録するのは興味あるし、それができたら素晴らしいとは思うのですが、それが帽子をかぶるように簡単にできたら、果たしてどんなもんかと思います。私たちの視覚は脳細胞に伝達され必要なものは記憶として保存されるのだから(それは映画)、その(映画の)素材をもう一度見ても、この時こうしておけばよかったと編集しても、そっちの、もう一つの映画、パラレルワールドへ行ければいいのですが、こうしておけば良かっただけで終わってしまうのは夢がなさすぎるような気がします。映画は人生を夢の方向にリードしてくれるものであってほしいと思います。

それにもう一つこういうことも言えます。
「ああ、まるで映画をみているようだ」
空が限りなく青く、白い雲が美しい旋律を奏でるようにゆるく漂い、斜めの光が人々を照らす街角に立ち止まった時、「ああ、まるで映画をみているようだ」とつぶやき、カメラを構えるが、頭の中でトリミングや歪曲してしまっているので、その通りには撮れないということばかりだ。その悔しさ。もしくはカメラを持っていない時の悔しさ。あるべきイマージュと実際のイマージュの落差。それが映画作りへの原動力になることも確かだ。

映画という人生を私がいかに編集してきたか、人生という映画を私がどのようにつないできたか、しばしご観覧ください。