大変な仕事を一生懸命に:長岡吾朗


  
東京都港区生まれ品川育ち。カナダ・オンタリオ州の大学を卒業後、郵船ロジスティクス(トロント支社)に入社。(現地ではカナダ国営多民族放送局で日系情報番組も制作)、その後米国放送事業会社MTV Networks (米国のメ ディアグループViacom) PRマネージャーを経て、外資系PR会社ゴリンハリス・インターナショナル(現ウェーバー・シャンドウィック・ワールドワイド)、外資系広告代理店オグルヴィ・アンド・メイザー・ジャパンのPR部署(オグルヴィPR)において広報PRコンサルタントとして従事。
これまで数多くのクライアント企業 【チリ共和国(日本への輸出促進)、ジェットスター航空(日本におけるLCCの促進)、モトローラ(日本における携帯市場の開拓)、カーライル・グループ(企業買収案件のPR)、米国コットン協会(米国コットンの利用促進に向けた啓蒙活動)、スプリント(米国通信業界が日本で活動するためのインフラ作り)、ヒルトン小田原/小田原市(スパウザ小田原のイメージを払拭し、民間主導で再出発するための世論啓蒙)、シャングリ・ラ リゾート アンド スパ、コンラッド東京、ヒルトンハワイ、フロリダ州政府柑橘局、三菱重工(海外広報)、DHLジャパン、大和証券SMBC、ネスレ日本など】の広報・PR活動を担ってきた。2007年には携帯電話「モトレーザー」の日本ローンチのため、PRマネージャーとしてモトローラジャパンへ出向。広報PRの活動は16年以上に及ぶ。

 

2009年、PR会社・株式会社室町屋を創業。外資系企業や行政、外国政府機関の日本市場展開、訪日外国開拓へ向けたコミュニケーション事業などをサポートしている。 また、被災犬を救うための東日本復興支援イベント「ONE LOVE WALK in TOKYO」では保護犬啓蒙活動と共に広報部長を担当した。株式会社サニーサイドアップにてプロデューサーも務める。立教大学修士課程卒。
 
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いつも心がけていること、一言でいうと


 

1)楽観的に、とりあえずやれることから始める。
2
)押しつけがましくなくむしろ控えめ。
3
)自分の話をするより人の話を聞く。
4
)全力で走らず、ゆっくり考えながら物事を進める。
5)
礼儀や感謝を忘れずに。全ては自己へ跳ね返る。

 
子供の頃(10代まで)の夢は何ですか、何になりたいと思っていましたか

地味な時代でした(苦笑)。とくに将来に関しての具体的な夢はなく剣道部と演劇部に属していましたが、いつも補欠や補佐役。ただ、縁の下の力持ちがいかに重要かが理解できました。

高校のときにアメリカの高校へ留学しました。その時、「ノブリス・オブリージュ」、人は助け合って生きているという社会を目のあたりにしました。それを機に、「何か社会に役に立ちたい」という漠然とした希望が芽生えました。

どこか住みたい所はありましたか


ずっと都会の下町育ちでしたので、広大で自然に囲まれな美しい街に住んでみたいと思っていました。街路樹がきれいで、芝生がたくさんあって、公園に犬も一緒に入れて。その後カナダに留学・一時移住したのは、そんな理由も少しありました。

どんな学生時代(主に20代初め)になりましたか


カナダの学生生活・田舎生活は、とにかく素朴で精神的に落ち着いたライフスタイルでした。多民族国家ならではの、さまざまな国籍の友人に囲まれ、シェアメイトと夕食を作りあい、週末にはお弁当を作ってピクニック、自転車で散歩。

 

当時は車を持っていなかったので、大きなリュックサックを持って遠くのモールまで買出し。試験期間が終われば長距離バス(グレイハウンド)に乗って莫大な大陸を旅。季節ごとの移ろいや空気の匂い、流れる星の雄大さ、刈ったばかりの芝生の香り、寒い冬の人々の温かさ、そんな感覚を普通に接してた学生時代でした。

 

もちろんネットも携帯もデジカメもSNSもまだ普及していなかった時代。広大な大地にポツンとある静寂な無人駅で、コーヒー片手に、思いにふけりながら電車を小一時間待つ、そんな感じの日常でした。

社会人になる時、どんな仕事・生活を送りたいと思っていましたか


日本人だから、というより、日本人・カナダ市民・そして地球市民として、日本ではできない経験をしたいと考えていました。そして仕事を通して、さまざまな人種や文化に接して揉まれたいと思っていました。 また世界にはない日本の素晴らしさを、大切にしていきたいと思っていました。

実際にはどんな生活を始めましたか(20代、30代)


最初に就職したのがカナダの日系流通企業でした。住まいはトロント。路面電車が通り、美しい街路樹と家並みが並ぶ、北米のリベラルな大都市です。勤務地が郊外だったため、通勤用に初めて車が必要となり格安ポンコツ車を購入、同時にカナダの永住権も取得しました。流通業なので最初は配達業務も経験しました。グループ会社で作られた飛行機の精密機械などを、大型車を運転してカナダの大手航空機製造会社の担当者まで配送する仕事。本社があるモントリオールまで車で出張に行ったり、その後営業・広報も担当したり、北米大陸の大いなる田舎の大地の中で、色々な経験をさせていただきました。


週末や夜には、カナダ他民族放送局で日系人向け情報番組の番組企画やレポーター業務をしました。人種差別や日系人社会についての課題を取り上げたり、今思うと結構ジャーナリスティックな仕事でした。


明日やれることは明日やろうという風潮が強い大陸カナダ。白夜の夏は、殆どのカナダ人は定時に帰宅してからガーデニングをしたり、庭のテラスで友人らと語りあったり、公私のバランスを大切にするカナディアン・スタイルに次第に引き込まれていきました。

 

そして長くて暗い冬には、高速を運転中に突然流れたスキヤキ・ソングに、日本ならではの情緒を思い出しホロッときたり。その時代の思いや感覚が、今に生きているような気がします。

 

日本に帰ってからは、全てがカナダの2倍以上の速度。しかも人疲れ(談)。でもとにかくガムシャラでした。海外とのやり取りは、時差の関係もあり大体夜遅くか早朝。時には強く主張しないとならない時もあれば、プレッシャーやストレスで雁字搦めだった時代も。でも、どこかに心に余裕を持つよう心がけていました。余裕がなければ人にも優しくなれず、自然の移ろいなども気付かなくなってしまい、時間が無駄に過ぎてしまうからです。

 

途中で方向転換したことはありますか、それはなぜですか、きっかけになったことはありますか


その頃はトロント市民としての生活にドップリで、日本社会とは縁遠い生活をしていました。なのでカナダでの経験を生かして、今度は日本で働きたい、できたら海外と日本をコミュニケーションで結びつけるような仕事をしてみたいと思うようになりました。カナダでは第一次・第二次産業が主で、それ以外の職種は限られていたのが現状でした。そこで思い切って日本への帰国を選択したのです。 流通業で広報を担当していたことから、PRコンサルティング業に方向転換しました。

 

次の方向転換は日本国内で、サラリーマン経験を経てからの起業への転換です。もちろんリスクもありましたが、自分として独立し、サラリーマンとは違う形で社会を自ら形成し、ゼロから成長させてみたかったのです。

 

方向転換するために何か準備していましたか、どう続けたのですか


キャリアチェンジも起業もそうですが、思い続けると、また見よう見まねで行動していると、そして努力をし続けていると、思いは実現していくということを肌で感じました。それには自分を信じて、自分で開拓する勇気が必要だと思います。そして最初は失敗だらけでも、それにめげずにまい進していくことが大切だと思います。疲れきって、もうダメだと思った先の先に、新しい道や出会いが開けているからです。

 

あと、PC上でもいいのですが、今後のスケジュールを表にまとめたり、思いや目標・未来の活動などを紙にまとめていくと、物事を整理することができると思います。

 

これからキャリアや生活の方向を変えたい人へのアドバイスは何ですか


昨今のような不透明な時代は、一つの会社内で温室培養される人よりも、「明日会社がなくなっても、自分の名前で勝負できる人」の方が強いと思います。

 

それには、楽しいことばかりではなく、地味で孤独、大変なことも一生懸命する姿勢が大切だと思います。なぜなら、一見華やかに見えてもその99%は縁の下の力持ちで支えられているのですから。

 

また基本的なことですが、挨拶をきちんとする、他人の気持ちを察する、明るい空気を創る、出会いをいただいたらきちんと御礼をする(私の場合はハガキを書きます)。そういう普段の意識や日々の積み重ねが新しいキャリアや生活を切り開いていくと考えています。

あと、行動力のある人って気持ちイイですね。

一人で考えて、他力本願をしたりせずに行動に移す。少しだけでも自分が変われば、少しだけ何かが変わります。「大変」は「大きく変わるから大変」なんですね。
大変なことを喜んで、率先してやってみると、自分がさらに成長していくと思います。そして結果はあとから必ず付いてくると信じています。