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松尾あつゆき著”原爆句抄”より
すべなし 地に置けば子にむらがる蠅
かぜ、子らに火をつけてたばこ1本
朝霧 きょうだいよりそうたなりの骨で
あわれ七か月の命、花びらのような骨かな
まくらもと子を骨にしてあわれちちがはる
炎天、妻に火をつけて水のむ
なにもかもなくした手に四まいの爆死證明
涙かくさなくてよい暗さにして泣く
萩さくははのもの着てつまに似てくる
虫なく子の足をさすりしんじつふたり
身を寄せにゆくふたりなら皿も二まい
つまよまたきたよおまえのすきなこでまりだよ
つぎつぎに亡き子の誕生日が、茂りくる
ご挨拶
今年も無事に長崎原爆忌平和祈念俳句大会を催すことがでできました。
これは、ひとえに、大会に参加していただいた皆さんのお蔭でありまして、大会実行委員会を代表して、衷心より御礼申し上げます。
今大会では、原爆俳句の代表的俳人の松尾あつゆき氏に関しまして、そのご令孫平田周氏に講演を頂くという稀有な機会に恵まれました。このことは、「俳句という形式を通じて、原爆の悲惨さを語り継ぎ、平和の尊さに思いを致す」という本大会の主旨に適うもので、本大会にとって大変意義深いことであったと考えています。
被爆者、戦争体験者の高齢化する中で、その体験の継承は喫緊の課題です。
来年以降も、皆様方のご参加と変わらぬご支援を賜りますようお願い申し上げます。
平成29年8月
大会会長 横山哲夫
大会記
実行委員 倉田 明彦
第六十四回長崎原爆忌平和祈念俳句大会(同実行委員会主催、長崎新聞社共催)は、平成29年8月5日(土)午後1時から、長崎原爆資料館(長崎市平野町)の平和学習室にて開催されました。
中村昭夫大会事務局長の司会で開会。まず原爆被害者の冥福を祈って黙祷しました。つづいて大会会長横山哲夫が開会の挨拶を行いました。会長は、まず大会の沿革について述べ、長崎県長与町の当時無名の若き俳人栁原天風子氏の発案で全国にさきがけて昭和29年に第一回大会が開催されたこと、さらに本大会が広島や東京など現在全国各地で催されている原爆忌俳句大会に先駆けて開催されたもので、最も長い歴史を持つ原爆忌俳句大会であることを紹介しました。さらに今回の記念講演の「祖父松尾あつゆきの俳句」(平田周氏)に関連して、この大会開催に最も大きな役割を果たしたのが松尾あつゆき氏の原爆俳句であり、その代表句が原爆資料館正面の道を隔てた広場の句碑に刻まれていること、さらに氏が昭和50年の本大会において「原爆と俳句」と題して講演を行ったことを紹介しました。原爆の悲惨さ、戦争の残酷さ、平和の尊さを俳句という形で語り継いでゆくという本大会主旨に照らして、松尾あつゆき氏のお孫さんに講演をいただくことの意義の大きさと感慨について述べました。
会長挨拶にひきつづいて、今大会の来賓である西山常好氏(「母港」主宰)、深野敦子氏(「杏長崎」主宰)、永田桃花氏(世界俳句クラブ「フリーダム」副主宰)、および今大会の記念講演をお願いした平田周氏が紹介されました。
演者の平田周氏は1958年のお生まれで松尾あつゆき氏(以下、敬称略)の長女みち子氏の長男。長与町在住で祖父松尾あつゆきの遺稿を保存、整理するとともに、祖父と母の平和への遺志を語り継ぐ語り部として「松尾あつゆき日記」(長崎新聞社)、「悲しき空は底抜けの青」(書肆侃々房)などの著作を発表しておられます。今回は「祖父松尾あつゆきが見た空」と題してご講演をいただきました。
松尾あつゆきは長崎県北松浦郡佐々町の出身。幼い頃に松尾家に養子だされたこともあり、自分の持つ家族というものに強いあこがれを抱いていたようです。長崎市立商業学校に教員として赴任後千代子と結婚、四人の子供の父となり幸せな家庭を得ています。若い頃から萩原井泉水に師事して戦前から句作をおこなっていて、同じ自由律俳人で放浪の俳人種田山頭火との交流も持ったこともあったようです。かれは若い頃から日記をつけていて、戦前の日記にこれらの日常が記載されています。彼は生涯で30冊以上の日記帳を残していますが、しかしいろいろな事情で、戦後長い間そのの所在が不明となっていました。しかし代表句の「なにもかもなくした手に四枚の爆死証明(初出は四まい)」の爆死証明そのものを見せてもらいたいという研究者の申し入れをきっかけに、孫の平田周さんが発見し、長崎新聞社のトップ記事でその内容が世に知れることとなりました。被爆前後の日記には、末子由紀子の生まれた希望にあふれた喜びの日のこと、原爆投下当日のこと、探し当てた時の家族の状態、その後の消息が細かく記されています(日記は、現在、原爆資料館に保存されています)。被爆当日も、俳人あつゆきは、自宅のがれきの中で、消息のしれない家族を探すために夜明けを待つ間、俳句を詠んでいます。翌日、蠅のたかってくる子供の死体を火葬。警察で家族四人の四枚の爆死証明書をもらって、8月15日、前日に死んだ妻を火葬しています。そして妻を焼く炎を前に終戦の詔を聞くことになったのでした。
孫の周さんにとって、「あつゆきは笑うことのない寡黙な先生で、なんの面白みもない人」であったが、日記を読み込んでいくうちに、「子は死んだのに自らは一つの傷もなく生きている負い目と悲しみの日常の中で、笑わないのではなく笑えなくなったのだ」と思い到ります。講演を締めくくるにあたって、平田氏は、「あつゆきにとって家族を焼いた夏の空の青はいつまでも悲しい。この悲しみは風化させてはならないが、しかし二度と悲しい空にしてはならない。」と述べて、あつゆきの被爆体験とその平和への思いを継承し語り継いでゆく決意を表明されました。
講演に引き続き、応募句の中で表彰を受けた句(表彰句は下記掲載)についてフォーラム形式での合評が行われました。一般の部の司会は実行委員の平坂桂太、倉田明彦、ジュニアの部は江良修と長崎新聞社の川崎雅典さんが担当しました。来賓のお三方およびフロアーの参加者にも発言を頂き活発な議論がなされました。一般の部の大会大賞は長崎県の小田恵子さんが「雑巾のねぢれて乾く原爆忌」で受賞、ジュニア部門は愛媛県立松山東高の武田歩君が「爆心地踏む白靴の重さかな」で受賞しました。
次いで、当日参加者による句会(大会出席者のみ当日一句投句)が行われ、実行委員の前川弘明が合評会の司会を担当し、来賓の先生方と実行委員の選により出田量子氏の「原爆忌回転椅子のよく回る」が大賞に選ばれました。
表彰式は各部門別に行われ、横山哲夫会長が受賞者に表彰盾、記念品を贈呈しました。午後4時30分、倉田明彦が閉会の辞を述べて、会は予定通りつつがなく終了いたしました。
今回、この俳句大会にご参加いただいた皆さんに心からお礼を申し上げます。そして、また来年も是非ご参加いただきますようよろしくお願い申し上げます。
大会表彰句は、以下のアイコンをダブル・クリックすると表示されます。