闘病で気づいた“普通”のありがたさ 元ミス・ユニバース日本代表、美馬寛子さん 産経新聞 2/27(水) 12:31配信

2019/02/27 22:16 に ギラン・バレー症候群患者の会 が投稿   [ 2019/02/27 22:16 に更新しました ]
https://www.sankei.com/life/news/190227/lif1902270020-n1.html

 2008年のミス・ユニバース日本代表であり、現在は同ナショナルディレクターとして活躍している美馬寛子さん。その道のりに、大きな影響を与えた出来事が、中学生の時に発症したギラン・バレー症候群の闘病経験だった。痛感したのは、「普通」であることのありがたさと、周りの人の支えだったという。(聞き手 加藤聖子)

 徳島の田舎で育った私は、活発でスポーツが大好きな女の子でした。

 異変を感じたのは、中1の冬。微熱があって体調が悪かったのですが、自宅で突然倒れたのです。自分では倒れた記憶がありません。父が見つけて起こしてくれましたが、その時、右手足の感覚がおかしいことに気がつきました。

 翌日、総合病院で磁気共鳴画像装置(MRI)やコンピューター断層撮影(CT)などいろいろな検査を行い、最後に髄液の検査をしたら、「ギラン・バレー症候群」だと判明しました。最初に母親だけ診察室に呼ばれたので、「あ、これはあまり良くないのかも」と予感しました。

 〈ギラン・バレー症候群は神経疾患の一つで、手足に力が入らなくなり、まひしたりするなどの症状が現れる。重度の場合、後遺症が出たり、死に至ることもある〉

 その日から入院です。病気が進行すると、自発呼吸ができなくなることもあるなどと聞くうちに、深刻さを徐々に理解しました。自分の症状よりも、「親に迷惑をかけてしまった」ということがショックでした。同じ病気の人が車椅子に乗っているのを母が見て、「代わってあげたい」と悲しそうな顔でつぶやいたことを覚えています。

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 入院中に一番つらかったのは、検査のために髄液を取る注射です。本当に痛いんです。右手が使えず、左手でスプーンで食事したり、歩行器を使ったりと、今まで当たり前にできていたこともできなくなり、普通であることのありがたさを痛感しました。

 不幸中の幸いだったのは、家族が毎日来てくれて、先生や友人など入院生活を支えてくれる人がたくさんいたことです。本当にありがたかったですね。

 退院後も1カ月ほど自宅で療養し、その後、ようやく学校に戻れました。でも、人と接触し、けがをしやすいスポーツはできず、体育や部活は見学です。

 体育のために学校に行っていたような私が、思うように体を動かせなくなったのはとてもつらいことでした。そんな時に出合ったのが陸上競技です。顧問の先生が「陸上なら個人プレーだし、リハビリも兼ねてできるのでは」と声をかけてくれたんです。走り高跳びに挑戦したのですが、そのことが、何もできないいらだちから私を解放してくれました。良い成績も出るようになり、全国大会にも7回出場。大学3年まで続けました。

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 ミス・ユニバース・ジャパンに挑戦しようと思ったのは大学3年生の時です。祖母、父が相次いで事故で他界し、再び「普通」は当たり前ではないと気づき、自分のやりたいことを考えていた時期でした。そんな時、同い年の森理世さんが世界大会で優勝し、私の求めていたのはこれだ!と思い、応募しました。ミス・ユニバースは「人と違うことが素晴らしい」と評価してくれる世界。自分に向いていたんだと思います。

 今はその経験を生かし、ナショナルディレクターの立場となって、候補生のトレーニングなどを行い、一般女性向けの美容スクールも開設しています。

 病気がなければ陸上競技はしていなかったでしょうし、陸上をしていなければ東京に出ることもなく、ミス・ユニバースに挑戦することもなかった。病気は不幸なことでしたが、それが今の私につながっています。今、病気に苦しんでいる人も、つらい先には多くの得るものもあると信じ、乗り越えていってほしいと思います。

 〈みま・ひろこ〉昭和61年、徳島県生まれ。平成20年にミス・ユニバース2008の日本代表となり、世界大会ではトップ15位、「ベスト・オブ・アジア」に選出された。昨年、日本人女性初となるミス・ユニバース・ジャパンのナショナルディレクターに任命され、日本の美しさを世界に広める活動を行っている。