細川巖の世界


細川 巖 Iwao Hosokawa 略歴



  年次 / 年齢 / 事項


●1919(大正8)年3月12日

 福岡市大字春吉に父勘八、母トミの長男として生まれる。

●1936(昭和11)年3月17日(17歳)

 福岡中学校(現在の県立福岡高等学校)卒業。

●1941(昭和16)年12月(22歳)

 広島高等師範学校理科第二部を卒業。

●1943(昭和18)年9月(24歳)

 広島にて真宗光明団主幹住岡夜晃師とであい、終生の師とする。

●1944(昭和19)年9月(25歳)

 広島文理科大学化学科卒業。広島師範学校助教授兼教諭。

●1945(昭和20)年10月(26歳)

 高浜まつきと結婚、真宗光明団本部の一室にて新居をかまえる。

●1947(昭和22)年11月(28歳)

 広島師範学校教授。

●1949(昭和24)年4月(30歳)

 福岡第一師範学校(現在の福岡教育大学)に奉職。

●1949(昭和24)年8月(30歳)

 福岡学芸大学久留米分校(現在の福岡教育大学)助教授。

●1950(昭和25)年5月1日(31歳)

 福岡学芸大学久留米分校の一室(旧兵舎)で学内の仏教研究会第一回が始まる。

        その時の言葉

        「念願は人格を決定す。継続は力なり。今日も苦しんで努力して生き抜くことが人生の本質だ」

        と言われた。

        これから毎週一回開かれた。

●1951(昭和26)年3月26日(32歳)

 仏教研究会の第一回の卒業生を送る。

●1953(昭和28)年8月(34歳)

 文部省内地研究員として、東京大学理学部木村健次郎教授によって、地球化学基礎研究をおさめる。

●1953(昭和28)年9月5日(34歳)

 福岡県久留米市西町福岡学芸大学久留米分校内(旧兵舎)細川宅で、土曜会が始まる。

●1955(昭和30)年7月22日(36歳)

 福岡学芸大学久留米分校職員宿泊所で、大森忍先生を迎えて五日間の講習会、真宗光明団久留米支部発会式をする。

 当時の参加者は、堤とし子氏を含めて10名ぐらいであった。

●1955(昭和30)年8月(36歳)

 原爆被爆当日の被爆市民への献身的な救援活動が認められ、広島市長より表彰を受ける。

●1955(昭和30)年9月(36歳)

 東京大学より学位取得(理学博士)。

●1958(昭和33)年3月(39歳)

 福岡学芸大学教授。

●1958(昭和33)年9月(39歳)

 九州大学理学部講師を併任。

●1960(昭和35)年4月(41歳)

 東京都日野市にて、毎月一回の「日野市教育を考える会」主催の歎異抄講座で、講義を始める。

 その講義内容は、細川巖講述『歎異抄講読』としてまとめられている。

●1960(昭和35)年8月25日(41歳)

 土曜会の会場を、福岡県久留米市の妙泉寺に移す。

●1965(昭和40)年(46歳)

 10年にわたる尽力が実って、福岡学芸大学の分校統合がほぼ実現する。

●1965(昭和40)年8月(46歳)

 地球科学研究のため、日章丸でペルシャ湾へ行く。

●1965(昭和40)年9月1日(46歳)

 高陵社書店より『仏教への道』~法に依れ・人に依らざれ~を出版する。

●1965(昭和40)年11月(46歳)

 福岡学芸大学学生部長を併任。

●1966(昭和41)年1月14日(47歳)

 福岡県宗像市陵厳寺の細川宅を会場に、土曜会が始まる。

●1966(昭和41)年4月(47歳)

 福岡学芸大学は、福岡教育大学と改称する。

●1966(昭和41)年7月27日(47歳)

 第一回九州少年錬成会を始める。

●1966(昭和41)年10月(47歳)

 宗教法人真宗光明団運営委員長就任、以後22年間、団の運営にあたる。

●1968(昭和43)年4月(49歳)

 広島市にて、毎月一回、広島大学仏教青年会主催の歎異抄講座で講義を始める。

●1968(昭和43)年10月(49歳)

 東京水産大学水産学部教授併任、海鷹丸でクウェートに研修に行く。

●1969(昭和44)年3月12日(50歳)

 福岡県宗像市三郎丸にて、巖松寮を建て、仏教青年の育成をめざす。

●1969(昭和44)年6月(50歳)

 巖松寮が完成し、学生の入寮が始まる。

●1969(昭和44)年8月(50歳)

 福岡県公害対策審議会委員(昭和48年より平成3年まで会長を勤める)。

 以後福岡県都市計画審議会委員等を歴任。

●1970(昭和45)年1月5日(51歳)

 山喜房佛書林より『龍樹の仏教』~『十住論』における人間形成~を出版する。

本書あとがきより

 大学に奉職後、学内に仏教研究会をつくり、毎週一回学生と仏典を読んだり、また諸先生においで願って年に何回か講習会をひらいたりしてきたが、その会ができてから既に二十年になる。この会の卒業生が、月一回あつまり一泊二日の会をもつようになったのが、もう十年以上も前であろうか。この卒業生の会での講話が本書の内容である。
(本書204ページあとがきより)


●1972(昭和47)年2月(53歳)

 有志とともに、福岡市に財団法人九州環境管理協会を設立、常任理事となる。

●1972(昭和47)年(53歳)

巖松会館の建設が始まる。

●1973(昭和48)年3月24日(54歳)

 巖松会館で第1回土曜会を始める。

●1973(昭和48)年4月14日(54歳)

 大森忍先生を迎えて、巖松会館落慶法要を行う。

●1973(昭和48)年4月(54歳)

 福岡市朝日カルチャーセンターの歎異抄講座(毎週一回)を始める。1995(平成7)年11月に及ぶ。

●1973(昭和48)年8月(54歳)

 真宗光明団島根県各支部連合講習会において、五日間にわたって講義。講題『還相廻向〜人生へのはたらきかけ〜』

●1974(昭和49)年1月(55歳)

 浄土真宗の教義を広める目的で、宗教法人「巌松会」設立。

●1975(昭和50)年4月(56歳)

 福岡教育大学退職。

●1975(昭和50)年4月(56歳)

 福岡県宗像市三郎丸に「ひかり幼育園」を設立し、以後、園長として浄土真宗の精神に基づく幼児教育を始める。

根本的なこと二つ

細川巖講述『正信偈讃仰(三)』196・197頁より


 私は、今は保育園をやっている。六十人が定員です。六クラスある。一番上が五歳児。次が四歳児。三歳児。二歳児。一歳児。そして0歳児というのが二人いる。0歳児のクラスはまもなく、もう一人増えて三人になる。この三人目は今は母親が休暇をもらって、自分の手元にいている。もう一人増える。今はまだおなかの中に入っとる。まもなく生まれて、十月頃から入ってくる。

 一番小さな赤ん坊のクラス、これはあんまり手がかからない。実際は相当手ははいりますけれども、まだ、ゴソゴソ這うぐらいで遠い所へは行かない。しかしその上のクラスからは、これは大変ですよ。

 僕は保育園を十八年やってきて、保育園で大事なこと、こういうところを押させておけば大体いいなあ、というところが少しずつ分かってきました。

 一つは食べること。偏食せず、特に野菜をしっかり食べて、甘いものを食べないようにする。これは普通の保育園ではやらないことです。給食はできるだけ簡単に済ませる。しかしそれではいけない。食べることに力を入れて、しっかり食べることの躾をしておくことが大事だ、と分かりました。野菜を多くすると、噛むでしょう。噛むから顎が発達する。すると歯の生える面積が広くなるから、永久歯が生える時に上下の歯の整合が非常に良い。そして、何でも食べるから、カルシウム、ビタミン、いろいろな必要なものを九州できる。それが一つ。

 もう一つ大事なことがある。小さい時から仏様に手を合わせて、念仏をし、勤行をする。「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし」という恩徳讃を歌うように習慣づけておく。

 この二つが、一番基礎である。これができると、子どもの保育の第一関所は合格である、ということをようやく知りました。

 それまでは、裸足で歩かせるが良いとか、運動させるがよいとか、薄着をさせるとか、自主性をつけるとか、その他躾をするとか、いろいろやっていました。それらはまあ、まあやらないよりはまし。だが、根本的なことは先の二つじゃ、というのがよくやく分かった。

 それで僕は忙しくなった。無農薬の野菜、無化学肥料の野菜を作って、毎日毎日、園児に緑・黄色の野菜を供給するために忙しくなった。

 だから、僕の園の給食室へ来たら、青い野菜や人参など山ほどあるのにびっくりする。端境期というのがありまして、なかなか一年中、青いものがそろうというのは大変ですね。それをうまく設計する。中心になるのはフダンソウです。

 また、野菜のほかに、ニワトリが三十羽いる。これを管理しなきゃあならない。これも子どもたちのために、女性ホルモンなどの入らないブレンド飼料を使って、本当の地卵を作るために養っている。これが卵をよく産むように、ニワトリ用の野菜まで作っている。ニワトリの野菜は、農薬のかかった野菜屑を使わない。農薬が卵の中に入りますからね。そこでニワトリ用の野菜を作っている。しかし大部分は野生の草です。


●1975(昭和50)年7月(56歳)

 福岡教育大学名誉教授。


●1981(昭和56)年6月(62歳)

 多年にわたる地域の環境保全への努力が認められ、環境庁より表彰を受ける。


●1989(平成元)年10月20日(70歳)

 東本願寺出版部より『蓮如上人御一代記聞書讃仰』を出版。

●1990(平成2)年5月(71歳)

 財団法人九州環境管理協会理事長に就任。


●1992(平成4)年5月10日(73歳)

 法藏館より『十住毘婆沙論~龍樹の仏教~』を出版する。

この頃の会座

 この当時、巖松会館における土曜会、月2回の歎異抄の会、福岡、小倉の週1回のカルチャーセンターの「親鸞の教え」教室、西光寺の正信偈、飯塚、久留米、広島大学仏教青年会、福山会館、京都の会、東京日野市等の歎異抄の会、福岡の正像末和讃の会、本部の第二例会、豊平道場の唯信鈔文意の講座、香椎の御一代聞書の会等、毎月二十四、五カ所の会座を開き仏法を広めた。

●1992(平成4)年11月(73歳)

 勲三等瑞宝章を受ける。

●1993(平成5)年2月(74歳)

 北九州市立医療センターにて、胆管癌のため肝右葉切除の大手術を受ける。

●1994(平成6)年11月(75歳)

 福岡県立遠賀病院にて、腸閉塞のため手術(11月6日入院、12月1日退院)を受ける。

●1995(平成7)年11月30日(76歳)

 朝日カルチャーセンター「親鸞の教え」講師を、福岡・小倉ともに辞任する。

●1996(平成8)年1月1日(76歳)

 大分県の東国東広域病院にて、胆管癌再発による肝不全のため死去(享年76歳)。


◆2001(平成13)年12月

 巌松院慧導細川巖師七回忌及び新巌松会館落慶法要を行う。


◆2011(平成23)年4月

 ひかり幼育園の新園舍が完成する。

◆2011(平成23)年秋

 著書『龍樹の仏教~十住毘婆沙論~』(1992年、法蔵館)が、ちくま学芸文庫より再版される。

 その巻末に付せられた柴田泰山師の解説文の結びのお言葉

「混沌たる現代に、本書が投じる一石の意味は本当に深いと思う」

◆2011(平成23)年12月

 巌松院慧導細川巖師十七回忌法要を行う。

言葉・ことば

「私の現在はよき人と繋がり、聖人と結ばれ、七高僧・釈尊に繋がって三千年の歴史に関係し、弥陀の本願と直結している。いや、直結とか関係というような言葉では言い得ない深い繋がりである。一体同心である。それ故、微々たるこの存在に生きる価値が与えられ、わが人生を頂いたことに感謝せずにはいられない。そこに知恩がある。」


『蓮如上人 御一代記聞書讃仰』(続篇三)58㌻


言葉・ことば

仏法を主(あるじ)とし、仏法に仕え、仏法を行じ、仏法に生涯を捧げ、仏法とともに生きる存在となる時、人は初めて人生に生きる基盤を与えられる。

『蓮如上人 御一代記聞書讃仰』(続篇三)18㌻

◆2013(平成25)年1月

『細川巖先生書簡集』(日野市教育を考える会)が刊行される。51名分、398通の書簡を掲載。


◆2015(平成27)年3月15日 特別土曜会にて、真宗光明団久留米支部創立60周年記念法要を行う。


◆2015(平成27)年12月19日

『細川巖先生の御生涯』(日野市教育を考える会)が刊行される。


●2016(平成28)年6月25日

 妻:細川まつき死去(享年91歳)。

●2016(平成28)年8月7日(日)

 巌松会館にて、細川まつき(巌松会代表役員)の「お別れ会」を行う。

◆2017(平成29)年2月25日

『御恩徳の歴史』(真宗光明団東京支部)が刊行される。

 本書あとがきより

 「『夜晃先生遺訓録』は著者である細川巖先生が、広島文理科大学を卒業され広島師範学校で教鞭をとっておられた五年 間に、夜晃先生から受けられた教の記録である。年齢で言えば二十五歳から三十歳までである。」

◆2018(平成30)年10月10日

『細川巖先生中短編集』第一巻が刊行される。

 本書編集後記より

 「第一巻には昭和二十四年(三十才)から昭和三十九年(四十五才)までの十五年間に『光明』誌に掲載された細川巖先

 生の文章を収録しました。」

◆2018(平成30)年11月11日

『細川巖先生中短編集』第二巻が刊行される。

 「第二巻には昭和四十年(四十六才)から昭和四十八年(五十四才)までの九年間に『光明』誌に掲載された文章を収録しました。」