最新掲載論文:朝岡幸彦・草郷亜実「少子化社会における学校給食センターの課題」、『住民と自治』通巻665号、pp.36〜pp.39、自治体問題研究社、2018年9月 2018年9月27日更新


集団給食協会のホームページに「食育のチカラ」の連載(隔月更新)を始めました。


Vol.7 美食がヒトを進化させた〜「食べる」という行為の意味④
Vol.6 味覚と咀嚼のために ~「食べる」という行為の意味③
Vol.5 口という器官の不思議な進化 ~「食べる」という行為の意味②
Vol.4 生きるために「食べる」~「食べる」という行為の意味①
Vol.3 <最後の晩餐>で何を食べたのか?
Vol.2 ドラえもんは「食べない」、カオナシは「食べる」(2017.11.1)
Vol.1 アンパンマンの食育(2017.9.1)
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最新掲載論文:朝岡幸彦・草郷亜実「少子化社会における学校給食センターの課題」、『住民と自治』通巻665号、pp.36〜pp.39、自治体問題研究社、2018年9月

最新掲載論文:里見喜生、小松淳一、朝岡幸彦「東日本大震災からの復興・再生をめざす温泉街の挑戦」(p.17〜22)、『住民と自治』2018年6月号、自治体問題研究所、2018年5月。

( https://www.jichiken.jp/article/0084/ )

最新掲載論文:大学と連携する自治体の地域戦略 -自治体-大学連携の現状―(朝岡 幸彦,澤田 真一)

http://www.jichiken.jp/article_41/

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25.少子化社会における学校給食センターの課題と可能性〜奄美市学校給食センターの事例から(朝岡幸彦・草郷亜実、住民と自治、2018年9月号、自治体問題研究所)

24.学校存続の意義と“ふるさと”の未来(朝岡幸彦・石山雄貴、月刊社会教育、2018年9月号、国土社)

23奄美市「学校給食に連動した地産地消・食材流通による地域活性化に関する調査研究」報告書の「あとがき」2018年3月

22 図書新聞・書評(2017年9月23日付)山名淳・矢野智司編著「災害と厄災の記憶を伝える − 教育学は何ができるのか」

21 食育・食農教育と地域づくりの可能性(農林出版社「週刊農林」2017年8月5日,25日,11月1日の草稿)

20 「主体的・対話的で深い学び」を実現する環境教育(日本環境教育学会『環境教育』2017年3月24日の草稿)

19 持続可能な開発のための教育(ESD)とエネルギー環境教育(科研費報告書、2015年3月)

18 教育委員会はどう変わるのか(『住民と自治』2015年2月号の草稿)

17 環境教育と開発教育 「はじめに」

16 社会教育事業の「デザイン」とは何か(『月刊社会教育』2014年5月号の草稿)

15 環境教育とESD 「あとがき」

14 環境教育とごみ問題

13 原発事故から学ぶこと→「いまだからこそ学ばなければなならいこと」に掲載。

12 書評・鈴木敏正著『持続可能な発展の教育学』

11 飯舘村2年間のあゆみ ダイジェスト版(2013,3.29)「いまだからこそ学ばなければならないこと」からダウンロードできます。

10 食育原論—ヒトはなぜ食べるのか、人はなぜ育つのか*講義録を「募集要項・講義録のページ」からダウンロードできるようにしました。

9 <3.11>と向き合う教育実践への模索〜

 教育は東日本大震災から何を学ぶのか

8.書評:傘木宏夫『仕事おこし ワークショップ』(自治体研究社)

7.「東日本大震災」「社会教育」

6.K先生の退官記念集の原稿「説法のようで説法でない」

5.2012年度の講義「持続可能な開発のための教育(ESD)」実況中継(「失われたものを取り戻す学び」のページを参照)

4.日本が今、求める環境教育<草稿>

3.「ふるさと」を取り戻す社会教育の役割

2.「祭り」は終わった!また来年会いましょう…。

1.環境教育の歴史的変遷

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原発事故で避難した児童・生徒への「いじめ」「子どものからだと心白書2017」
第1部13 避難者の思いを理解するための授業実践)

 2017(平成29)年2月18日付の朝日新聞夕刊に「考えて 避難した子の思い」との見出しで、日本環境教育学会が作成した『授業案 原発事故のはなし』(2014年、国土社)(図1)を活用して「いじめ」について考えようとの記事が載りました。この授業案づくりのきっかけは、2011(平成23)年5月に全村避難の準備を進める福島県飯舘村で、「避難した子どもたちが避難先でいじめられている」と地元の人たちから聞かされたからです。
 その後、2015(平成27)年12月に横浜市教育委員会が、保護者からの「いじめ」に関する調査申し入れを「重大事態」と認めて第3者委員会が認定することで、再び避難児童・生徒に対する「いじめ」が注目されるようになりました。福島大学の今井照教授と朝日新聞社による共同調査(2017年1〜2月)でも、避難先でいじめや差別受けたり、被害を見聞きしたりしたことがあると答えた人が62%いることがわかりました。このうち、実際に「自分や家族が被害に遭った」人が、18%でした(図2)。
 しかし、それ以前にも、各地で福島から避難した子どもが「いじめ」られているとの指摘があり、法務省は2011(平成23)年1年間に「人権侵害事件」として相談を受けたケースが2万2,168件(「いじめ」は3,306件)あり、東日本大震災に関するものが29件あったと公表しています。

環境教育学会の取り組み

 環境教育学会は、会長緊急声明「福島第一原発事故によって避難した子どもたちを受け入れている学校・地域のみなさんへ」(2011年5月20日)を発表して、「いじめ」の理不尽さと避難した子どもたちの苦しみや悲しみを「分かち合う」ことの大切さを訴えました。そして、2011(平成23)年度大会(青森大学)で特別分科会「原発事故と環境教育」を開催するとともに、授業案「原発事故のはなし」作成ワーキンググループを組織しました。
 このグループは、授業案集を作成・公表し、2014(平成26)年に『授業案 原発事故のはなし』を刊行しました。この授業案は7ヶ国語に翻訳されて、学会のウェブ(http://www.jsoee.jp/npp-and-ee/24-story-of-npp/88-story-npp-booklet)にアップされています。
 これまで学会が公表してきた授業案は、①小学生(高学年)の道徳、中学生の道徳、高校生のロングホームルーム、②小学生の総合的な学習の時間、小学生(高学年)の家庭科、中学生・高校生の理科、③シミュレーション教材「海辺村に原発がやってきた」、です。

授業案「太郎君の悩み」

 こうした授業案の中でも、小学生の道徳教材「太郎君の悩み」(図3)を使った授業の様子が、新聞等で報道されています。
 千葉市立平山小学校における石井信子教諭の3年生の授業(2011年9月)では、「太郎君をいじめてしまったヒロシ君」を登場させて、ヒロシ君の戸惑いや両親との会話を通して、子どもたち一人ひとりの問題として考えさせました。最後には、友達を助けたり助けられたりした経験をピンクのハートマークで表し、黒板から被災地の写真に移しながら、「皆のハートマークが心の中で大きく育てば、本当に苦しんでいる人を助けてあげられる。まずは自分の友達から。それが、だんだんこっち(被災地)になったらいいな」と締めくくりました。(毎日新聞、2011年9月29日付)
 また、埼玉県入間市立藤沢南小学校の小玉敏也教諭の6年生の授業(2011年10月)でも、授業案を教材「健一の悩み」に組み替えて、福島県に転向してきた健一が、同級生の由美に放射能を理由に避けられるという物語で進められました。同級生に「放射能がうつる」といわれたときの気持ちなどについて話し合い、「放射能はうつると思いますか?」という教師の質問に、ほとんどの子どもが「うつらない」と答えます。
 「わたしも…放射能はうつるかもしれないと思っていたので、もしかしたら転校生をさけてしまったかもしれません。差別しないためにも放射能について学ぶ授業をほかの学校でもしてほしい」「新聞でいじめがあることを知った時はかわいそうだなと思いました。埼玉は福島からの避難者をたくさん受けいれているので、放射能の授業は絶対やった方がいい」などの感想が、子どもたちから出されました。(朝日小学生新聞、2011年10月20日付)

授業案づくりから「原発事故後の福島を考える」研究(PJ-F)へ

 学会による授業案づくりは、助成金等を活用した無償配布や学会ウェブからのダウンロードという形で、2013年度まで続けられました。しかし、学会による授業案の作成や公表という形だけでは、授業案を使用した授業の実態把握や評価が難しいなどの課題が明らかとなりました。また、政権交代による政治状況の変化や学校教育現場で原発事故関連の教材が活用されにくい状況となったため、2016年度から授業案作成ワーキンググループが「原発事故後の福島を考える」プロジェクト研究(PJ-F)に再編成されることになりました。
 新たな研究プロジェクトPJ-Fは、東日本大震災後の福島における教育現場の状況や、環境教育の視点から見た教育のあり方について調査・研究することで、復興の一助となることを目的とした長期的な取り組みを目指したものです。少なくとも年2 回、今後 5 年間の現地調査を通じて、福島の皆さんとの対話を継続することで、学会として継続的に「福島に関わり続ける」ことを表明しています。また、こうした取り組みの中から、学生や 学校現場の先生に向けた福島スタディツアーが生まれることも期待しています。

福島調査団から生まれる新たな発見とつながり

 学会のPJ-Fによる福島調査団の派遣は2016年6月から始まり、2018年1月には第4次調査が予定されています。
 これまでの調査でインタビューさせていただいたところは、次の通りです。第1次調査(2016年6月10日〜12日):①南相馬市役所、②南相馬市小高区日鷲神社、③福島県立相馬農業高校(図4)、④南相馬市小高区塚原公会堂、⑤つながっぺ南相馬。第2次調査(2016年12月3日〜5日):①南相馬市教育委員会、②JAふくしま未来鹿島総合支店、③農家民宿・かざぐるま、④農家民宿・翠の里、⑤農家民宿・森のふるさと、⑥農家のNさん、⑦箱崎林業、⑧福島県立相馬農業高校、⑨飯舘村交流センターふれ愛館(公民館)。第3次調査(2017年6月23日〜25日):①いわき市湯本温泉・古滝屋、②福島大学環境放射能研究所、③福島大学災害ボランティアセンター、④アクアマリンふくしま、⑤NPO法人あぶくまエヌエスネット、⑥放射性牧草減容化焼却炉跡地(鮫川村)、⑦NPO法人ザ・ピープル。
 こうした福島県内の人たちとのつながりを生かして、学会の研究大会で相馬農業高校農業クラブの生徒さんたちによる活動報告(2016年度)から原発事故後の地域復興における高校生の役割を考え、エヌエスあぶくまネットの「ふくしまキッズ」の取り組み(2017年度)から子どもたちの状況と自然学校の役割について議論してきました。

苦しみや悲しみを「分かち合う」ことの大切さ

 環境教育を学び、研究し、実践する者として、これからも「原発事故後の福島を考え」続けなければならないと思います。とりわけ、「ふくしまキッズ」の実践が全国の環境教育関係者らの協力を得ながら転地教育として続けられてきたことを踏まえて、自然学校関係者とともに福島に暮らす子ども・若者に求められる環境教育のあり方を模索したいと考えています。
 太郎君への「いじめ」を、安易に他の差別や「いじめ」と同列に扱って学習することが良いとはいえません。原発事故で避難した子どもたちへの「いじめ」の背景には、「原発事故の経験から私たちが学ぶべきこと」が含まれており、簡単には結論のでない、ともに考え続けなければならないことが多くあるからです。
 「いじめ」や差別を一般化しすぎると、一人ひとりの悩みや苦しみ、悲しみを深く理解し、「分かち合う」ことはできません。太郎君の悩みをもたらした厄災の原因について、私たち自身がどのように「向き合う」のかが問われているからです。

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朝日新聞夕刊(2017.2.18東京本社版)で環境教育学会として取組んでいる私たちの活動が紹介されました。
-----------(以下、記事)----------
考えて、避難した子の思い 教授ら、授業案「活用を」 全国で相次ぐいじめ(2017年2月18日16時30分
東日本大震災で福島県から避難した子どもたちがいじめの標的になるのではないか。危惧した教員や研究者らが震災直後、小中高生向けに授業案を作った。だがあまり活用されないまま、横浜市や新潟県で避難した子どもへのいじめが次々に明らかになった。「被災地や避難者の事実を知ってほしい」と訴えている。
 麻布大生命・環境科学部の小玉敏也教授(56)が震災直後に作った小学生向け授業案「太郎君の悩み」は、子どもたちのこんなやりとりの例から始まる。
 「あの子さ、福島から来たでしょ。わかる?」
 「何のこと?」
 「ほら、あれ、放射能」
 「それってうつるかもよ、気をつけて!」
 太郎は震災で父親を亡くし、母親と2人で避難して、1学期から新しい学校に通い始めた。だが、放射能が感染することはないのに、陰口が聞こえてきて不登校になってしまった。
 「太郎君は突然学校に来なくなりました。みんな心当たりはありませんか? 一人一人ができることはないでしょうか?」。最後にこう問いかけた。
 避難者は、家族を亡くしたり経済的に困窮したりと様々な困難に直面する。放射能は感染せず、被曝(ひばく)量は基準以下であることなど客観的事実を伝え、避難した子の気持ちを想像させる狙いがある。
 小玉教授は震災後の2012年3月まで、埼玉県で小学校教諭として勤務。同県には福島から多くの家族が避難していた。
 転校生は新しい学校になじむのに時間がかかりがちだ。まだ教員たちの放射能の知識も十分ではなかった時期だった。「子どもたちは『いじめはよくない』と知っている。でも、被曝量が少ないことや伝染しないことも具体的に教えないとわからない」と考え、授業案を作り始めたという。
 「避難者がいない学校も含め、全国の先生たちに取り組んでほしい」との思いで授業案を公表したが、把握できた実践例は数えるほどだった。「いじめをやめようと道徳の授業で教えるだけでは不十分だ。今からでも、授業をせめて1時限でもやってほしい」と小玉教授。クラスに避難者の子がいる場合は、傷つけないように授業内容を工夫してほしいと話す。
 日本環境教育学会の朝岡幸彦・東京農工大教授(58)は震災直後、福島から避難した子がいじめに遭っていると聞いた。福島ナンバーの車が嫌がらせに遭う例も報じられていた。「このままでは避難者いじめが広がってしまう」。危機感を持った朝岡教授らは福島県飯舘村を訪ねて話を聞き、小中高生向けの授業案を作ることを決めた。小玉教授の授業案はその一環だった。
 その後も被災地で聞き取りを重ね、12年と13年に続編を作った。「福島県をめぐる課題は今後も続く。大人も広く知る必要がある。福島の人々への共感と敬意を持って考えるための材料にしてほしい」という。
 授業案集「原発事故のはなし」は、日本環境教育学会のウェブサイト(http://www.jsoee.jp/npp-and-ee/別ウインドウで開きます)で公開。また、国土社から単行本(税込み1944円)として販売されている。

 ■「現状への理解不足」
福島県から避難した子どもへのいじめは各地で明らかになっている。
 小学生の時に横浜市に自主避難した中学1年の男子は、転校直後からいじめを受け、不登校になった。名前に「菌」をつけて呼ばれたほか、「賠償金があるだろう」と言われ遊興費約150万円を負担していたという。
 新潟市では避難者の小学生が教諭に「菌」をつけて呼ばれ、学校を休んだ。東京都千代田区でも、中学生がいじめを受けていたという。原発被害者訴訟原告団全国連絡会は「いじめの根底には被害者が置かれた現状への理解不足がある」とする声明を発表している。
 いじめ対策をめぐっては今月、文部科学省の有識者会議で、国のいじめ対策基本方針に「東日本大震災で被災した児童生徒に対するいじめの未然防止・早期発見に取り組む」と盛り込む改定案が了承された。近く改定される見通しだ。
 いじめに直面した場合の相談先として文科省は「24時間子供SOSダイヤル」(0120・0・78310)を設けている。ウェブサイト「ストップいじめ!ナビ」(http://stopijime.jp/別ウインドウで開きます)では、いじめから抜け出す方法や相談先を紹介している。(太田泉生)

 ■小玉教授が作った授業案のポイント 
・主人公は津波で親と死別、緊急避難による困窮、方言や被曝への差別を経験 
・差別を受けた主人公の心情を子どもたちに想像させる
・差別的言動(いじめ)を改めるには科学的知識が重要 
・被曝線量は基準以下、放射能は感染しない 
・授業実施で差別が解消するとは限らない。他の生活・学習指導と連携を

<募集・講義録・研究報告のページ>
13 2016年度・年間ゼミ予定(20160527) 
12 私家版「修士論文への道」
11 ESD時代における社会教育の役割<校正原稿>(日本社会教育学会編『ESDとしての社会教育』東洋館出版社、2015年)
10  科研費・基盤研究B 2015年度~2018年度(内定持続可能な開発のための教育(ESD)における湿地教育の役割に関する研究研究課題番号:15H02865

代表者=朝岡 幸彦 


9 平成 27 年度 4 月入学 東京農工大学大学院 連合農学研究科 ( 後期 3 年のみの博士課程 ) 学生募集要項 〔一 般 選 抜〕

8 研究室の紹介記事(四谷大塚「Dream Navinet」)

http://www.yotsuyaotsuka.com/dreamnavinet/detail.php?id=716

7 環境教育研究過程論asaoka2009(降旗信一・高橋正弘編著『現代環境教育入門』筑波書房、2009年所収)

6 社会教育の戦後50年から何を学ぶのかasaoka1995(『月刊社会教育』1995.11 No.478掲載)

5 幼稚園・小学校における環境教育の展開とESDの動向(『初等教育資料』2014.3No.911座談会)

4『祭礼とコミュニティ研究』創刊号(201302/0213祭礼最終版)

3『ESD研究』通巻9号(201302/トンボなし0213ESD最終版)

2 食育原論ヒトはなぜ食べるのか、人はなぜ育つのか(平成25(2013)年度連合一般ゼミナール)(20130621)

1 平成25年10月入学・平成26年4月入学大学院農学府修士課程 学生募集要項(20130621)→第1次募集は終了しました。第2次募集は、以下の記事をご覧ください。

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平成 27 年度 4 月入学 東京農工大学大学院 連合農学研究科 ( 後期 3 年のみの博士課程 ) 学生募集要項 〔一 般 選 抜〕

<募集・講義録・研究報告のページ>からダウンロード

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日本環境教育学会「原発事故のはなし」授業案作成ワーキング・グループ編『授業案 原発事故のはなし』(国土社、¥1,800+税)を刊行しました。原発への賛否を超えて、私たちは「フクシマ」を忘れてはいけないと思います。福島第一原発設計者にも執筆していただきました。

「東日本大震災からもうすぐ3年となります。大津波に襲われた地域は防潮堤の建設など様々な問題を抱えながらも徐々に復興してきています。しかし、福島第一原発事故による放射能汚染地域は復興から程遠いのが現状です。しかも、事故を起こした発電所は未だ大量の放射能をまき散らしており、手を付けることすらできません。そして今なお、多くの人々が苦しんでいるばかりでなく、将来の世代へのツケとなっています。
本書は、原子力発電に伴う様々な問題を私たちのライフスタイルや環境・経済などを含む広い視点から議論し、私たち一人一人が安心で安全な社会を創っていく担い手になることをめざして作成しました。」(はじめに、日本環境教育学会会長/阿部治より)

目次
1章 原発事故から学ぶこと
2章 授業案「太郎君の悩み」(小学校・道徳)
3章 シュミレーション教材「海辺村の未来は?」
4章 大学生は、教材「海辺村の未来は?」で何を学んだか
5章 未来のみなさんへ
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生きることは学ぶこと〜主体形成の教育学 
「環境教育」といえば、学校で子どもたちに自然や環境問題について教えることだと思われがちですが、学校に行かなくても人はいつも環境について学んでいます。
それは、私たちがふだん目にして接する自然の多くが、人が何らかのかたちで創り出した環境だからです。「自然の向こう側には人や社会がある」が私のモットーです。過去から現在、そして未来につながる人の姿が自然の向こうに見えるのであり、地球の裏側で生活する人々ともつながるはずです。
東日本大震災によって多くの人がふるさとを破壊され、失いました。大きな自然災害(地震・津波・火山の噴火など)や原発事故を契機に、私たちは自然や環境問題との向き合い方を見直さなければならないと感じています。「つながり」「分かち合う」ことをキーワードに環境教育の新しい可能性を一緒に考えませんか。

研究室の紹介ポスターが完成しました。(かんちゃんこと、小池駿君が作成)

これまでの研究や方法論

農学部に籍を置いて専門教育を行う教育学者は極めて少ないはずです。たいていは教育学部や文学部等の教育学科に所属しています。しかし、私の専門が教育学者としては(これもまた)極めて珍しい「農民教育論」であることから、結果として農学部にいることに大きな違和感はなく、こうした条件を活かした研究・教育を行なっています。

1.牛の飼い方・作物の育て方を農民はどう学ぶのか(農業教育・農民教育、食育・食農教育)

 私の博士論文のテーマは、ずばり牛の飼い方を農民はどう学ぶのか(マイペース酪農)です。「マイペース」とは「自分(オレ)流」という意味なので、いつも農民は学び工夫しなければなりません。いくら優れたやり方でも、人の真似をしていてはよい経営はできません。その後も、院生たちがときどき研究してくれています。

2.自然の向こう側にいる人や社会との関わりを学ぶ(持続可能な開発のための教育=ESD、自然保護教育・自然体験学習、開発教育)

 環境問題として地球温暖化問題や生物多様性の問題が注目されています。「持続可能な開発(Sustainable Development)」という考え方は、自然の向こう側には必ず人がいて、過去から現在、未来へと至る社会のあり方が問題になることを前提にしたものです。環境教育も、地域やコミュニティ、社会や国家のあり方を問いかける教育として発展してきました。

3.いまだからこそ学ばなければならないこと(災害教育・放射線教育)

 いまでもときどき東北の被災地を訪ねています。被災地の復興は、「もとに戻す」だけでは成功しません。津波や原発事故から私たちが何を学び、どのように伝えていくのか。粘り強く、試行錯誤をいとわない、ともに考え、「分かち合う」教育が求められています。


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<よくある質問へのご返事1>

◯◯さんへ あさおか@農工大です。

日本のゴミ問題や環境保護意識が中国に比べて(やや)進んでいるとすれば、(残念ながら)それは環境教育の成果ではありません。

私の立場は、添付の論文(朝岡幸彦「グローバリゼーションのもとでの環境教育・持続可能な開発のための教育(ESD)」日本教育学会『教育学研究』第72巻第4号pp.530〜pp.543、2005年)、とくに「4.教育は社会を変革できるのか」(pp.118-119)にあるように、「教育では環境問題を解決できない」というものです。母国における環境問題を(ただちに)解決したいのであれば、環境政策や環境法を学ぶことが有効です。私が在職する東京農工大学の大学院共生持続社会学専攻( http://www.tuat.ac.jp/~kyosei/ )には、こうした研究室もありますのでそちらへの入学も検討してください。

教育の力で環境問題を解決したい(もしくは国民=民衆の意識を変えたい)という素朴な問題意識に、日本の教育学者の多くは躊躇するはずです。これは私たちが生きる戦後日本社会において戦後教育と呼ばれるものが、「二度と戦争には協力しない」という深い反省から出発しているからです。少しむずかしいかもしれませんが、大切なことですので、よくご理解ください。

私の研究室には中国の留学生を含む多くの大学院生がいます。研究室の雰囲気があなたに合うのかも大切なことです。

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<よくある質問へのご返事2>

○○さんへ あさおか@です。

△△さんのメールには「研究活動を開始したい」と書かれておりますが、学位を取りたいとはかかれておりません。学位がなくても、研究活動をされている方はおります。何か学位に関してご相談を受けているのでしょうか。

私はNPO・NGOのスタッフ・代表者の方が学位をとって研究活動をされることは大歓迎であり、できる限りご助力させていただきたいと思っておりますが、研究活動を「本気で」やる期間・経験を充分に持たないまま学位を取られることは賛成できません。論文博士の申請要件が(農工大の場合)レフェリー付き学会誌3本以上であることも、なかなか簡単だとは思えません。どの程度、本気で取り組まれるのでしょうか。

課程博士を少なからず指導していて気づくことは、意欲や能力があるように見えても、「プロの研究者」と「研究者みたいなもの」とのちがいは大きいということです。たとえ運良く(周囲の協力に支えられて)学位を取得できたとしても、「プロの研究者」としての試練を経,自覚がなければ「みたいなもの」で終ってしまいます。結果として研究者としての職につかなくても、学位とはそういうものではないでしょうか。

△△さんが本当に学位を必要としておられるのであれば、この点をご確認いただいた方がよいでしょう。まずは研究活動の実績を積み重ねられてはどうでしょう。もしくは「学ぶ」「研究する」という思考や経験の勘を取り戻すために、入学からはじめるという方法もあるように思います。

くれぐれも研究活動=学位取得と考えない方がよいと思います。

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東京農工大学大学院農学研究院

教授 朝岡 幸彦

〒183-8509 東京都府中市幸町3-5-8

TEL&FAX042-367-5597

E-mail/ asaoka☆cc.tuat.ac.jp(☆に@を入力)

*引用は刊行物からお願いします。

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25.少子化社会における学校給食センターの課題と可能性〜奄美市学校給食センターの事例から

朝岡幸彦・草郷亜実

1 学校統廃合のもとでの学校給食

 学校給食は「自治の鏡」である。これは、基礎自治体の教育政策や財政力によって、学校給食の質に大きな差が生まれることを意味している。

 ところが、いま給食の「場」である学校が、地域から消えようとしている。社会が高齢化して子どもの数が減れば、学校は維持できないと誰もが考える。だが、児童・生徒が一人でもいれば学校は残せるのである。小学校や中学校にかかる経費の多くは、基礎自治体である市町村ではなく、国と都道府県が負担する。地方交付税の積算根拠となる基準財政需要額には、学校数も含まれている。地域や市町村の立場から考えれば、学校を積極的に統廃合する理由はほとんどないのである。

 子どもたちの教育のために、どの程度の規模の学校が望ましいのか、スクールバスによる通学がよいのか、そして、学校給食を維持できるのか、などの条件を子どもと親、地域の人たちがじっくり議論して決めるべきである。文科省が定めた標準学級数(12〜18学級/1956年)にもかかわらず、小さな学校の方が子どもは教師から丁寧な指導を受けられ、通学時間が短いほど子どものストレスが少ないことは、誰でも認めざるを得ない。

 これまで、学校給食は直営・正規職員・自校方式が最善であるとされてきた。確かに、自校方式には、食材の確保から献立の作成、調理方法の工夫、栄養教諭・栄養士・調理員と子ども・教師や地域との関係づくり、さらに災害時の調理場所の確保など、メリットが大きいのである。

 しかし、いま小さな学校を地域に残そうとした時に、自校方式がネックとなっている。小さな学校だからといって食材を地元で調達しているとは限らず、必ずしも一人ひとりの子どもの体調や家庭の事情を考慮して献立が立てられているとは限らない。学校給食法の改正を受けて、アレルギー対応を含む給食に求められる基準が厳しくなったことも、小さな学校の自校方式を難しくする要因となっている。

 ここでは、鹿児島県奄美市の学校給食センターを事例に、少子高齢社会における学校給食の課題と可能性を考える。


2 学校給食センター化の背景と課題

 奄美市は、鹿児島から約380km南にある奄美大島に位置する奄美群島の拠点都市で、2006年3月に、旧名瀬市、旧住用村、旧笠利町が合併して誕生した。一年を通じて温暖で、降水量も多く、アマミノクロウサギをはじめとする固有の動植物や黒潮が流れる豊かな海を有する自然豊かな地域である。そうした環境が独自の伝統や食文化を生み出し、その特徴を生かした食育の取り組みも進んでいる(図表1)。

 奄美市の名瀬・住用地区では単独自校方式による給食の提供を行っていたが、2018年9月から給食センター方式へと移行する。センター方式への移行には、3つの背景があった。①一校あたりの児童・生徒数の減少が進んでいること(2015年0〜14歳人口=6,260人/5年間で743人減)、②地区内の多くの学校給食施設の老朽化が進んでいたこと(59%が建築後30年以上経過して基準を満たしていない)、③学校給食衛生基準の引き上げにより給食提供の仕方の改善が求められるようになったこと、である。

 これらを受けて 、2014年9月に「奄美市名瀬・住用地区学校給食施設整備検討委員会」が設置され、給食センター化への動きが本格的に進められることとなった。そこでは、単独自校方式で有利とされてきた食育の推進や、地場産品の活用を積極的に取り入れることの重要性が議論され、「単独自校方式の利点」を取り入れた学校給食センターが目指されることとなった。

 しかし、自校方式の利点を取り入れた学校給食センターの実現という枠組みには、課題も多い。まず、「食材の調達」である。奄美大島は台風等が来たたときに、島外からの食材の調達が難しくなる。そのため、給食センターで必要とされる1日4,000食分の給食の食材を安定的に確保していくことは容易ではない。さらに、鹿児島県では『かごしまの“食”交流推進計画(第3次)』に基づいて地場産(県内産、重量ベース)を70%以上とする目標(2019年)が掲げられ、奄美市の地場産割合が57%(2012年)であるものの、地場野菜(大島産)の割合は1〜2割程度に過ぎない。これは、島内農業の中核が商品作物の生産であり、零細農家で高齢化した農家が主に食材を生産しており、島内だけで食材の調達ができないという問題である。

さらに、給食関係者との交流や食育の推進などをどう継続していくのか、少子化が加速する中で学校給食の枠を超えた施設の活用を考えていくことも求められている。

奄美市は、これらの課題を解決するために「学校給食に連動した地産地消・食材流通による地域活性化に関する調査研究」委員会を発足させ、調査報告書を公表した(2018年3月、http://www.rilg.or.jp/htdocs/img/004/pdf/h29/h29_12.pdf)。


3 地産地消を見据えた食材供給の可能性

実際に学校給食センターの稼動にあたり、1日4000食分の食材供給を行うにはどうしたら良いのだろうか。給食における地場産農産物の利用は、名瀬・住用地区の学校全体で2割未満しか利用できていない現状があり、地場産品を2割以上取り入れている学校も300人未満の小規模な学校であることも分かっている。その調達先も、個別農家、発注先業者、学校農園など、非常に多様である。こうした現状を踏まえると、まとまった量や一定以上の品質の農産物を供給し、下処理も行える、給食センターの需要と供給を上手く調整する組織が必要であることがわかる。

こうした状況を受けて、奄美市は、地場産農産物の調達と供給の取りまとめを行う供給組織(地場産青果物供給機構・仮称)の設置を構想している。具体的には、①対象食材の調達・取りまとめ、②下処理、冷凍・保存による食材の安定供給、③農家等の指導・育成、の3つの機能を持った組織である。

注目すべき点は、地場農産物の利用促進とともに、地域の農業振興も視野に入れていることである。給食センターへの安定的な食材供給を目指し、生産者への営農指導や新規就農者の育成、将来的には遊休地の活用なども視野にいれている。また、公平な農産物の調達を行うために、供給対象となる生産者の登録制度をつくり、学校給食に納入を希望する農家は個人、団体を問わず登録することができる。こうした仕組みは、島内の中核農家のほとんどがサトウキビ(36.7%)やトロピカルフルーツ(たんかん、マンゴー、パッションフルーツなど/26.5%)などの商品作物の栽培に特化している(2014年度生産金額)のに対して、学校給食への食材供給をテコとした農業者の育成を目指すものである。

このように、給食センターの新設を契機に地場産物の供給組織が誕生すれば、給食における地場産農産物の利用拡大に加え、農業の活性化や地域の地産地消の促進が期待できる(図表2)。


4 食育と地域活性化拠点としての役割

 新たな学校給食センターの建設にあたり、食育や地域づくりの拠点としての役割も期待されている。少子化による給食提供数の減少(2018年度の小・中学校児童・生徒数は3,455人)も見据えた、多角的な施設の活用を検討する必要がある。

報告書は、「全国のモデルとなるような学校給食センター」の実現に向け、様々な新しい取り組みを提案している。食育として、島の伝統野菜や行事を活用した献立上の工夫に加え、実際に児童が給食関係者や地域の人と交流すること、児童が島野菜を栽培し、それを活用したレシピを考案して、試食するなどの実践である。とりわけ特徴的なのは、生産から消費までの過程で、児童・生徒が地元の農家を訪問し、収穫した野菜を一緒に調理し、献立試食会で給食関係者とともに食べるなど、学校の枠を越えた交流の場が設けられる点である。このような取り組みを、給食センターに配置された栄養教諭による指導で地区内の学校全体で取り組むことができれば、学校と地域のつながりとともに地域間の交流も生まれる。

また、施設の複合的な活用案では、道の駅や災害・地域福祉の拠点としての機能も持たせる構想が出されている。道の駅として、地場の農産物を扱う直売所や飲食店の設置を行い、さらに加工施設(下処理や商品開発)としての機能も強化する。給食に活用される地場産品を、地域にも広く提供し、地産地消の促進と地域の農業振興につなげる狙いだ。福祉拠点として、学校給食センターを活用した高齢者向け配食サービスや交流事業などが構想されている。配食サービスでは、給食の特質を生かした栄養バランスのとれた食事の提供に加え、地域の見守りとしての機能が発揮される。また、高齢者と児童・生徒との交流事業を展開することで、子どもたちが郷土料理や食文化を住民から学ぶ機会が生まれる。

学校給食センターは、一度に大量の食事をつくることが出来る調理機能があるにも関わらず、学校給食の提供に限ると年間の調理回数は180~190回ほどであり、潜在的な能力が十分に発揮されない。奄美市は、給食センターに地域間交流・道の駅・福祉拠点等の機能をもたせることで、共同調理場としての潜在能力を十分に引き出すだけでなく、地域への様々な波及効果を生み出していくものとなっている。


5 学校給食センターの将来像

 奄美市における学校給食センター方式への移行は、少子高齢化に直面する小規模自治体にとって、一つの課題解決の可能性を提示しているように思われる。その制度上の鍵を握るものが、「学校給食センターの他用途転用」の可能性である。

 これまで、文科省の補助金で整備した学校施設等を転用するには、①耐用年数の経過を待つ、②関係各府省庁の大臣の承認を得る、③補助金を全額返還する、の3つの選択肢しか存在しなかった。しかしながら、「補助金等に係る予算の執行に関する法律」及び同法施行令が改正された(2008年)ことにより、10年を経過したものについて補助目的を達成したものとみなすことができるようになった。さらに、市町村合併計画に基づく場合や地域再生法に基づく「地域再生計画認定」を受けることで、10年未満であっても転用が認められることになっている(図表3)。これを受けて、文科省は、国庫納付を必要としない場合についての記載を追記する通達(「公立学校施設整備費補助金等に係る財産処分の承認等について(通知)」27文科施第158号、2015年7月1日)を出している。こうした制度を活用することで、少子化によって過剰設備となりやすい学校給食施設を地域づくりの拠点として計画的に整備することができる。

 学校給食は直営・正規職員・自校方式が最善である、とする原則を否定する必要はない。しかし、小学校の51.5%、中学校の62.2%が「共同調理場方式」(学校給食センター方式)を採用している(2016年5月1日現在)という事実や、少子化に悩む小規模自治体が学校給食施設の更新に苦慮している状況を原則論だけで押し切ることはできない。地域に根ざした、子どもたちの教育活動にふさわしい学校給食センターのあり方を模索する議論や実践が進むことを期待したい。


24.学校存続の意義と“ふるさと”の未来

朝岡 幸彦・石山 雄貴

はじめに

 いま学校の存続をめぐって、地域は大きく揺れている。これまでにも地域の過疎化と子どもの減少を理由に、僻地校を統廃合する動きは見られた。しかしながら、いま私たちが向きあっている学校統廃合問題は、平成の大合併による周辺地域(旧町村部)の急速な人口減少と「増田レポート」に代表される消滅可能性都市という予測などを背景に、総務省が各自治体に策定を求めた公共施設等管理計画(二〇一四年)のなかで進められているものである。これに、学校教育法の改正(二〇一六年)による小中一貫の「義務教育学校」の設置や五八年ぶりに改定された文科省の学校統廃合の『手引き』によって、学校の統廃合は過疎地のみならず都市部でも進められようとしている。

 こうした動きに対して、「学校統廃合と小中一貫教育を考える全国集会」が毎年開催され(二〇一〇年以降)、そのネットワーク組織も設立された(二〇一六年)。各地における学校統廃合反対運動のなかから、計画を凍結させたり、撤回させるなどの成果も生まれている。これまでの学校統廃合反対運動が、主に教師や父母を中心とした学校関係者によって担われてきたのに対して、この運動が地域の存続の鍵を握る問題として多くの住民を巻き込んでいることに注目する必要がある。

 さらに、地方教育行政法の改正(二〇一四年)によって教育委員会への首長権限が強化される中で、中央教育審議会が社会教育行政の学校支援・家庭教育支援へのシフトを求めていることにも注意しなければならない。まさに、学校統廃合問題は社会教育行政を巻き込む、地域の存続問題としての様相を呈している。


地域から失われる<学び>の場

 自治体の原型を江戸時代の「ムラ」にあたる自然村と仮定すると、もともと全国には七万一四九七の基礎自治体(一八八三年)があった。これが小学校の設置をともなう明治の大合併(一八八八年)で、約五分の一にあたる一万五八五九市町村に統合されたのである。また、新制中学に対応する町村合併促進法(一九五三年)と新市町村建設促進法(一九五六年)による昭和の大合併で、三四七二市町村(一九六一年)に統合された。さらに、地方分権推進一括法(二〇〇〇年)による平成の大合併が進められたことで、半分以下の一七一八市町村(二〇一六年)にまで減少しているのである。この間の日本の人口は、国勢調査に基づく限り、五五九六万三千人(一九二〇年)から一億二六七〇万六千人(二〇一七年)に増加しているため、人口が二倍強になっているにもかかわらず基礎自治体の数は一万二三一五市町村(一九二二年)から八六パーセントも減少しているのである。単純ではないものの、この基礎自治体の都市化(大規模化)が小学校の数に影響を与えていることは確かであろう。

 事実、かつて学制(一八七二年)が定めた小学校の数は五万三七六〇校であった。戦後の新学制の実施時に小学校の数は、ほぼ半分の二万五二三七校(一九四八年)になっている。その後、一九六〇年頃までわずかに増加するが、高度経済成長とともに減り始め、この一五年間で約三五〇〇校減の、二万六〇一校(二〇一五年)になっている。地域の教育・学習の拠点であり、「地域の学校」として深く愛されてきた公立小学校は、地域の過疎化や自治体合併によって地域から遠く切り離されたものとなってきた。小学校と同じく、二〇〇〇年以降にその数を大きく減らしているのが公民館である。一九九九年の一万九〇六三館をピークに、公民館(類似施設を含む)は一万四八四一館(二〇一五年)へと二三パーセントも減少している。

 小学校と公民館は、まさに子どもから大人までの生涯にわたる住民の学習の場として位置付いてきたのであり、こうした教育施設が地域から失われることは地域の消滅に拍車をかけることになるのである。それは同時に、自治の基盤としての基礎単位がより広域化・大規模化することで、住民の主体性や参画を促しにくくするといえる。


学校支援にシフトする社会教育

 第3次安倍政権のもとで、地方自治体の教育委員会制度の仕組みを大きく変える地方教育行政の組織及び運営に関する法律の一部を改正する法律(地方教育行政法改正、二〇一五年)が施行された。①教育委員長と教育長を一本化した新「教育長」(任期三年)を設置すること。②教育長へのチェック機能を強化して会議の透明化を図ること。③すべての自治体に「総合教育会議」を設置すること。④教育に関する「大綱」を首長が策定すること。⑤国が教育委員会に指示できる規定を明確化すること。国が地方分権を進める中で、教育委員会制度も一定の分権化が図られてきた。教育長の任命制度の廃止や市町村立学校に関する都道府県の基準設定権の廃止(一九九九年改正)、教育委員の構成の多様化や教育委員会議の原則公開(二〇〇一年改正)、学校運営協議会の設置(二〇〇四年改正)などである。この改正は、教育行政における責任の明確化を理由に首長の役割を決定的に強化するものであり、教育委員会制度の性格を大きく変える可能性がある(表1)。

 こうした状況の中で、中央教育審議会(中教審)は社会教育行政の学校支援・家庭教育支援へのシフトを求める三つの答申を同時に発表した(二〇一五年)。とりわけ『学校と地域の連携・協働』答申は、「都道府県や市町村の教育委員会内において、コミュニティ・スクールや学校運営改善施策を担当する学校教育担当部局と、学校支援地域本部や放課後子供教室等の施策を担当する社会教育担当部局との連携・協働体制の構築が不可欠である」と、社会教育行政の学校支援機能への大きな期待を語っている。これらの答申を受けて策定された『「次世代の学校・地域」創生プラン』(馳プラン、二〇一六〜二〇二〇年) の特徴は、①地域と学校の連携・協働(コミュニティ・スクール、地域学校協働活動の推進)、②学校の組織運営改革(「チーム学校」に必要な指導体制の整備)、③教員制度の一体的改革(子どもと向き合う教員の資質能力の向上)を <3本の矢>として位置づけ、その全てにおいて「地域との連携」を具体的施策の基礎におくことにある。このプランを受けて、生涯学習政策局長から『社会教育主事講習等規程の一部を改正する省令の施行について(通知)』(二〇一八年三月)が出され、社会教育主事養成課程修了者及び社会教育主事講習の終了証書授与者は「社会教育士」と称することができるとされた。

 そして、二〇一八年八月には社会教育課及び生涯学習政策局の廃止を含む「機構改革のための概算要求事項」が公表され、地域学習推進課及び総合教育政策局へと再編されている。この機構改革の中で一つの目玉とされていた文化庁への博物館行政の移管にともなって、中教審公立社会教育施設の所管の在り方等に関するワーキンググループが開催され、公民館・図書館・博物館の市長部局への移管が議論されている。


地域からみた学校統廃合の矛盾

 学校の統廃合発生数の推移をみると、二〇〇四年に統廃合数が増えていることがわかる(図2)。その背景には、平成の大合併の影響がある。当時、国は「合併算定替」と「合併特例債」という、市町村合併を進めていくための財政メニューを準備した。「合併算定替」は、合併した自治体に本来配分する以上の額の地方交付税を配分するものである。「合併特例債」は、合併に伴う公共事業のための起債に対して元利償還金の最大七〇パーセントを地方交付税制度で国が補助するものである。これらのメニューによって、人口減少や高齢化によって財政難に苦しんでいた多くの自治体が合併した。この合併によって自治体が広域化し、より「効率的」「合理的」な自治体運営をするために、学校統廃合が進められてきたのである。

 学校統廃合の動きは、公共施設マネジメントを通した自治体運営の効率化・合理化を加速する動きのなかで、さらに進んでいくと考えられる。全国の都道府県・市町村が策定した「公共施設等総合管理計画」の半分以上は、機械的で一律に算出した将来に渡る更新費用の総額と人口減少などによって減額する税収入の見込みなどから出す「将来不足額」をもとに、施設の統廃合や規模の縮減を提案している。そこでは、学校が持つコミュニティの核としての役割や、公民館が培ってきた自治の拠点としての蓄積などが無視され、利用者数や稼働率、財政コストの面からしか評価がされていない。多くの自治体で最も床面積数が多い施設が学校施設であるため、機械的に公共施設の床面積を削減していくならば、学校の統廃合を視野に入れた公共施設再編が全国で行われる可能性が大きいのである。つまり、地域の存続のための財政効率化が、地域の存続に不可欠な学校を統廃合を促進するという矛盾が、地域のなかで発生しているのである。


学校統廃合をめぐる財政問題の真実

 学校をめぐる効率化・合理化や、『まち・ひと・しごと創生総合戦略』に「公立小・中学校の適正規模化、小規模校の活性化、休校した学校の再開支援」が位置づけられたこと、学校教育法施行規則や義務教育施設費負担法に基づく標準規模(学校規模:一二〜一八学級、通学距離:小学校四km, 中学校六km)に満たない学校が、二〇一三年において小学校で九六〇〇校(四六パーセント)、中学校で五〇〇〇校(五一パーセント)存在することをなど背景として、『公立小学校・中学校の適正規模・適正配置等に関する手引~少子化に対応した活力ある学校づくりに向けて~』が作成された。「学校統廃合の手引」としても捉えられる手引は、新しい学校の適正規模・適正配置のあり方を示している。五学級以下の小学校、二学級以下の中学校、つまり一学年一学級未満の小・中学校(複式学級のある学校)は、「一般に教育上の課題が極めて大きいため、学校統合等により適正規模に近づけることの適否を速やかに検討する必要がある」と記述された。また、通学距離に基づく従来からの基準の他に、片道おおむね一時間以内を目安にした通学時間設定や、学区の広域化に対応するスクールバスの導入を求めた。このように学校の適正規模を大きくし、学区を広げることを求めることで、公立小・中学校の数を削減する論理がより一層働くことになった。

 そもそも、公立小・中学校の設置や就学に関する事務は市区町村の責任とされており、国と都道府県は教職員給与を負担しているものの、直接関与することができない。そこで、学校を含めた公共施設再編を進めるために、市町村に多様なメニューが用意されている。例えば、公共事業再編計画と関連して、公共施設の除去費用に対する起債(除去債)を認める特例措置や、公共施設の集約化・複合化事業(二〇一五年~二〇一七年)への補助が設けられた。これらにより、少ない元手で事業への高い割合の交付税措置を受けて、事業を行うことができるようになった。

 他にも「手引」で言及されたスクールバスの導入に関して、「へき地児童生徒援助費等補助金交付要項」に基づいて、スクールバス・ボート等購入費の1/2が国庫補助され、スクールバス事業費に関しては交付税措置もなされている。これらの国からの手厚い地方財政保障によって、学校統廃合が推奨されているのである。また、教育総合会議の創設と教育大綱の策定により、自治体における教育内容や教育環境への首長部局の介入が可能になり、学校統廃合を進めやすい土台がつくられている。

 しかし、学校統廃合を基礎自治体である市町村の財政からみると、義務教育費の多くを占める教職員の人件費は国と都道府県の負担であるため、そのメリットは小さい。また、国からの補助があるもののスクールバス・ボート等購入費や学校統廃合にかかる費用の負担も決して小さいとはいえない。特に、基礎自治体の仕事が増える一方で地方交付税がさほど増えず、苦しい財政運営を強いられている小規模基礎自治体では、学校統廃合や新しい学校運営にかかる費用や、学校を中心としたコミュニティの再編に関わる負担は相対的に大きくなる。また、国から地方に交付される地方交付税の算定には、児童生徒数、学級数、学校数が用いられるため、学校統廃合によって地方交付税が減額してしまうデメリットが存在する。このように、統廃合による市町村財政のメリットが極めて小さく、市町村にとって重大なデメリットが存在することを考えると、学校統廃合の目的は、国が地方の教育行財政に切り込み、市町村に「選択と集中」に基づく効率化・合理化を突きつけていく手段として捉えられるのである。


公共施設再編における社会教育施設のあり方

 こうした「選択と集中」に基づく効率化・合理化の流れは、社会教育も例外ではない。公共施設マネジメントのなかで、公民館などの社会教育施設の統廃合や複合化が迫られている。それは、脆弱な社会教育財政のあり方から、学校以上に進められる状況にある。

そもそも、全国の社会教育費は、教育費全体の一〇パーセントに過ぎず、その規模は極めて小さい。また、「市町村主義」に基づく社会教育財政のあり方により、その財源の多くは市町村の一般財源が占めている。学校教育と同様に社会教育に関する費用が交付税の算定項目に盛り込まれているものの、その額は極めて小さく、市町村の自主財源を充てざるを得ない。さらに、法律によって公民館などの社会教育施設の設置基準や支出が義務化されている科目はほとんどなく、毎年首長によって策定される市町村予算によってその額が決定される。そのため、市町村の財政状況や首長の社会教育に関する方針次第で社会教育費の支出も変わってしまい、社会教育財政は不安定で脆弱性を持つ財政構造にある。その結果、学校以上に「選択と集中」に基づく効率化・合理化の動きに流されやすく、民間委託と民営化が進められてきた。

 さらに毎年、政府の「骨太の方針」で公共サービスの「産業化」が推奨されていることから、より一層、指定管理者制度の導入が進んでいくと予想される。指定管理者制度は、契約更新のたびに管理経費の縮減や人件費の削減が求められ、管理者が安心してよい仕事を行うことが困難な場合が多い。また、使用許可の方針などを教育委員会から指定管理者へ移譲することによって、その運営方針に基づく利用者の不当な差別的取扱いが発生することも考えられる。さらに「産業化」の奨励によって、公共施設の管理主体に企業の論理がより一層組み込まれ、これまで以上に受益者負担の流れが出てくる可能性もある。

 社会教育施設における指定管理者制度の導入は、住民の学習権保障の観点からなじまないことが繰り返し指摘されてきた。さらに、受益者負担に関して、「三多摩テーゼ」で公民館の無料の原則が宣言されたように、公民館が住民の自由で主体的な学習・文化活動の場であり、自由なたまり場として差別なく均等に解放されるためには、公民館は無料でなければならないと、「自由と均等の原則」に照らして無料であることの必然性が説かれてきた。公共サービスの「産業化」によって、社会教育施設を含む公共施設運営の効率化・合理化を進める動きは、基本的人権を支える学習権を具現化し保障してきた社会教育施設の在り方を歪め、住民の主体的な学びによる住民自治をますます後退させる可能性がある。

おわりに

 これまで学校はまちがいなく地域の拠点であった。地域で生まれた子どもたちは、学齢期に達すると地元の学校に通い、義務教育期間を地域で過ごした。かつては、子どもたち以外の青年や大人も学校に集い、教師をチューターとして学校を拠点に豊かな学習・文化活動を繰り広げていた。いつからか学校は子どもと親、限られた人たち以外に、地域の住民を寄せ付けない空間になってしまった。

 しかし、いまも学校は地域の拠点であり、地域の宝である。ひと度、災害が起これば学校は避難所となり、ふだんから学童保育やスポーツ活動の場となるところもある。とりわけ、少子高齢化に悩む地域にとって、学校が子育て世帯を定住させるための必須アイテムとなっている。学校のないところには、若い世代は定住しないのである。

 学校と公民館は地域再生の切り札であるにもかかわらず、財政問題を理由に安易に統廃合の対象となりやすい。しかし、基礎自治体である市町村にとって、学校統廃合の財政的メリットはほとんどないのである。学校と公民館をともに守ることで、地域(ふるさと)の未来が切り拓かれることを期待したい。 

23. あとがき ー いま、島の子どもたちの未来のためにできること

 奄美大島は美しい島です。この島に、これから先も暮らし続けるためには、何よりもここが子どもを産み育てるために良い環境でなければなりません。温暖で豊かな自然環境には申し分ありません。島の人たちは優しく、互いに支え合う文化を共有しています。しかし、それだけでは子どもを産み育てることはできません。まずは、子どもに関わる医療や教育・福祉が手厚く手当てされていることが大切です。

 「学校給食に連動した地産地消・食材流通による地域活性化に関する調査研究」も、島の子どもたちの現状に私たち大人がどのように向き合うのかが問われたものだと思います。

 小さな学校には、大きな魅力と可能性があります。自校方式という子どもの身近な場所で給食を調理・配食する方法も、子どもと栄養教諭・栄養士・調理員、地域とのつながりを深めるという意味で大切な意味を持ちます。しかしながら、島の子どもたちの数は明らかに減り始めています。校舎や給食施設の老朽化も顕著です。島の子どもたちに教育活動として「よい給食」を、このままのやり方で提供することがむずかしくなっています。学校給食センターをつくることは、島の子どもたちによい教育=よい給食を提供し続けるための一つの決断でした。

 奄美の豊かな自然は、多くの農水産物を生み出しています。その果実の一部を、島の未来を担う子どもたちの「よい給食」に生かしたいと多くの大人が思うはずです。地元で取れる野菜や魚、さまざまな農水産物を少しでも多く子どもたちの給食に役立てたい、そこから生まれる子どもたちと地域の人たちとのつながりを教育に役立てたいと、この委員会でも知恵を絞りました。そうすることで、学校給食センターは子どもたちのための教育施設であることにとどまらず、島の未来に向けた大切な地域づくりの拠点になることが期待されています。いずれ、給食の食材を提供するための農家や漁師が生まれてくるかもしれません。食材を加工する施設や技術は、島の特産品や新たな雇用を生み出すかもしれません。子どもに限らず、高齢者や訪問者への食事を提供する可能性もあります。

 私たちの身体は、一定期間の間に食べたもので置き換わっていると言われます。島の子どもたちの健やかな身体が、奄美の大地や海で取れたもので満たされることが、奄美の自然や文化を愛し続ける上で大切な教育だと思います。

 本委員会で活発なご議論をいただいた委員の皆さんに心より感謝申し上げます。また、それを支えた奄美市役所の皆さん、地方自治研究機構の皆さん、マンズ・アイの名取さんにお礼申し上げます。奄美の可能性に大きな期待をしております。

平成30年3月

委員長 朝岡 幸彦(東京農工大学)

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22.図書新聞・書評(2017年9月23日付)

山名淳・矢野智司編著

災害と厄災の記憶を伝える − 教育学は何ができるのか

勁草書房 4000円+税


 あの日から六年がたった。東日本大震災と福島第一原発事故に、おおくの日本人が向き合わざるをえなかった。その中には、教師や教育学者といった教育に関わる人たちもいる。「教育学は何ができるのか」というサブタイトルに、本書を執筆した教育哲学者たちの向き合い方が集約されている。共同研究の出発点が阪神・淡路大震災(1995年)に関わる記憶の伝承と教育の問題であり、「厄災の教育学」(矢野智司)の視野は災害にとどまらず戦争や環境汚染をも含むものであため、その研究の裾野は極めて広い。

 「教育は基本的に上昇志向の営みだ」と認めながら、そこに災害と厄災という「カタストロフィー(破局)」を引き入れるという困難さ、「表現への意志を人々から奪う」という表現の困難さが、二重三重に教育者がこの問題に向き合うことを難しくしている。それでも「災害をめぐる教育は、子どもたちに大きな不安や絶望を与えかねないリスクを負いつつも、そのギリギリのところで彼らの保護を試みて主題を希望へと、あるいは人生の意味へと接続する極めて高度な課題を引き受けている」という確信が、これまでの「災害の教育」と同じように本書の根底にはある。

 災害に向き合おうとする防災教育・減災教育の多くが、「そのとき」の地域社会を一部に組み込みながらも、学校という空間や教師と子ども・その家族の関係という「閉じた」教育空間で語られてきた。これに対して、「記憶空間の教育学(Gedenkstattenpadagogik)」(山名淳)という枠組みのもとで位置づけられる「記憶を伝える」という行為は、学校—ミュージアム−都市というより広い教育の場(想起アーキテクチャ)で語られる。それを象徴するものが、「厄災ミュージアム」の構想であろう。「それから」を生きることになった人間が、遺品となったモノと物語に耳を澄まし、「なぜいまこの私たちにこのような理不尽なことが起こるのか」「生き残ってしまった私たちはこれからどうすればよいのか」を問う場である。「厄災の教育」は、破局に抗する市民の形成という社会的次元と、受苦の思想やケアや他者への倫理といった臨床的人間学的次元の二重の教育課題をもつとされる。

 このように本書は、思想的アプローチを中心に厄災にかかわるさまざまな次元の領域を横断し連結することで、災害と教育をめぐる考察を深めようとしている。しかしながら、ここで語られているものは、教育哲学からの理論的・思想的な提起ばかりではない。「東日本大震災における教育の役割」(川端健人)や「災害ミュージアムという記憶文化装置」(坂本真由美)、「学校で災害を語り継ぐこと」(諏訪清二)のように、それぞれの災害に関する教育実践からの論考も重要な役割を果たしている。

 かつて評者は「<3・11>と向き合う教育実践」は、3つの問いと向き合わなければならないと述べたことがある(朝岡幸彦、2013年)。①なぜ東日本大震災によってあれほど多くの犠牲者と被害が生まれたのか。②私たちは東日本大震災によって失われたものとどのように向き合うべきなのか。③どのように東日本大震災とこれから起こりうる大規模災害を次の世代に伝えていくのか。表現の仕方やアプローチの手法は違っていても、まさに本書が提起する「災害と厄災の記憶を伝える」と重なり合うところが大きく、本書から受ける示唆も多かった。戦争体験も、公害被害も、さらに震災の被災体験も時間とともに当事者が去り、記憶は薄れ、そのリアリティも失われていく。犠牲者・被害者・被災者とともに「厄災」と呼ばれる出来事そのものが、「忘却の穴」のうちに消滅させられてしまう事態に直面する。だからこそ、「記憶を伝える」ことを教育学にどう位置づけるのかという提起は重要な意味をもち、本書の意義もそこにあるのであろう。

 とはいえ、東日本大震災の記憶は決して過去のものとはなっていない。とりわけ、福島第一原発事故はいまだに進行形のものであり、避難指示区域の解除に伴う学校の再開をめぐる住民の対立、横浜市をはじめ各地で明らかとなった原発事故で避難した子どもに対する「いじめ」など、避難者の新たな記憶が生み出されつつある。まさに、交換可能な商品に対して遺品が一人ひとりの生きざまを映し出すように、数字に置き換えることのできない被害者・避難者の「生」の個別性にもっと注目することが、教育学には求められているのであろう。また、防災教育や減災教育、災害教育とならんで、レジリエンス教育、復興教育などの新たな教育概念の提起もなされている。

 私も関わる日本環境教育学会も震災を契機に『授業案 原発事故のはなし』(1994年)を刊行して、避難した子どもに対する「いじめ」について問題を提起してきた。本書を編んだ教育哲学者たちが、さらに多くの教育実践者と交流し、より広範な領域の教育学者たちと議論することを期待したい。

朝岡幸彦(東京農工大学)

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21.食育・食農教育と地域づくりの可能性

(1)農業が育てる力

子どもには自然が足りない

 国立青少年教育振興機構の実態調査(2010年、図1−1)では、「キャンプをしたこと」「大きな木に登ったこと」「川や海で貝を取ったり魚を釣ったりしたこと」「チョウやトンボ、バッタなどの昆虫をつかまえたこと」「海や川で泳いだこと」などの自然体験をほとんどしたことがない子どもが、以前と比べて増加していることが問題になった。しかし、こうした自然体験は農村で暮らす子どもたちには身近な生活環境の中で行われるものであり、自然体験の不足はそのまま農業・農村と子どもたちとの接点が失われてきたことを意味する。

農村的自然がもつ教育力

 食育・食農教育は、勤労体験学習、農業教育、消費者教育、生活教育、学校給食などに関わる農業体験学習のうえに成り立っている。学校でも農業体験学習が積極的に位置づけられ、文部科学省と農林水産省が連携して作成した『子どもたちの農業体験学習の現状と課題』(農林水産省女性・就農課、2004年)は、「農業を職業としている人たちの本物の農業に取り組む厳しさと楽しさの両方に触れること、彼らの人生観に耳を傾けること」が子どもたちの人格形成に役立つとした。

 こうした食育・食農教育のもつ意味について考えるには、まず「農業がどのような教育的価値をもっているのか」を明らかにする必要がある。『農村的自然のもつ教育力』(農村生活総合研究センター、1989年)は、3年間にわたる「農村のもつ教育的機能の諸相に関する研究」の成果であり、児童の体力・運動能力、生活感・自然観、遊びを中心とした自然との関わりなどの基礎的なデータの収集と分析をもとに、「農村の自然が人間殊に心身の成長期にある児童に及ぼす影響」について検討したものである。

心理・知識・身体の均衡のとれた発達

 これらの結果を踏まえて「農村的自然のもつ教育的側面」を考察し、それは「児童の心理的・知的・身体的な三側面の均衡のとれた発達、換言すれば『心・知・体の統一的発達』」を保証するものであるとする。

身体面への影響として、「現代では農山村において都市より児童の体力が総てにまさっているという先入観はもちにくい」としながらも、「地域の豊かな自然を児童の身体的発達に活用しようという、家庭・学校・地域社会の配慮があれば、遊び・正課体操・地域行事などを通して農山村の方がはるかにその機会や空間、素材に恵まれている」と結論づける。

生活技術・知識の習得という側面では、「農村的自然と接触する形態の遊びを通して、彼らなりの知的刺激を自然から受けたり、あるいは年長児童や成人から自然に関するさまざまな基礎的知識や基礎的技術を伝承している」と述べる。

意識・パーソナリティへの影響では、農村部と都市部の児童へのアンケート調査をもとに、自然そのものについて都市部の児童が「絵はがき」的にとらえる傾向があるのに対して、農村部の児童は自然を利害関係と絡む生活空間とみなす傾向が強い、農村部の児童のほうが相対的に扶助的・自律的傾向が強い、と指摘している。

農業の教育力

 七戸長生らの共著『農業の教育力』(農山漁村文化協会、1990年)は、高度経済成長や列島改造以降の「高度工業化の波が全国に広がり、伝統的な農業の営みを理由もなしに軽蔑し、問答無用で押し崩してきた動き」に心を痛め、こうした動きに抗して<農業・農村の教育効果>に関心が寄せられてくるようになった状況に、農業経済学者が積極的に応えようとしたものである。そして、それは「一人ひとりの人間についていえば、農耕に関わることによって知らず知らずのうちに人間らしい感性やものの考え方を教え育て、調和のとれた行動パターンを身につけるように育て上げていく能力があるというように表現できる」という問題意識に裏付けられたものである。

 七戸は、「現代日本を代表するオピニオンリーダー」と目される人びと635名へのアンケート調査(1989年)の結果から、「(農業がもっている)人間を育て、教え、鍛錬してくれる役割」についてまとめた。第1に、農業の対象が生きものにほかならないため、それら生きものに固有な生長曲線のパターン(いわゆる「序・急・破」のテンポで生命現象が展開していること)を大きく人為的に変えることがほとんど不可能であることから、「文字どおり辛抱強く努力し、誠実に忍耐を重ねるという『待つ心』を前提として」おり、生命現象への畏敬の念とともに「人間そのものも、そのような大自然の中の一員として共に生きているのだ、という自然観が養われる」と考える。第2に、こうした生きものの生育、生長、成熟の過程に向き合う中で私たちの観察力が触発され、研ぎ澄まされていくのであり、こうした「農の営み」が求めている基本的な資質から「生き物を愛し、いたわるという自発的なインセンティブに根ざす(農業の)観察力の練磨」が生まれると指摘している。

*図1−2 田んぼで除草作業をする子どもたち(あばれんぼうキャンプより)

教育力を担う農民・農村

 永田恵十郎は「農業の教育力を担う農民像」とは、「鋭い自然観察力と必要な科学的知識を持っており、それらを自らの労働に基づく判断で主体的に総合化して農業生産—『農の営み』につなげていく優れた力量をもった〝百姓〟だった」と規定する。しかも、彼らは「人間や自然と積極的、主体的にかかわりあう人間としての活力を持っているという意味で、すぐれた教育力の担い手」でもあった。

 陣内義人は、農村が持つ「地域の教育力」に注目する。そのカギとなるものは、「地域としてのまとまりのなかでどのような社会的規範をつくり上げているか」ということであり、それを生みだす「子供たちの生活体験」の豊かさである。「農村では生産(労働)と生活が同一の地域圏のなかで行われてきたことにもよろう。またその生産と生活は自然とより密着して行われるものであるため、自然の変動とリズムによって律せられることが多い。農作業の運行、ひいてはそこでの生活そのものが自然のリズムにあわせた人間労働であるといってもよいほどである。生産と生活は家族を単位としてそれぞれ独立して行なわれるが、自然の変動やその管理は個々の農家の力量をはるかに上回る場合も多い。それぞれの技術の段階にあわせて、人間の知恵と工夫を結集しながら地域の協同システムを通じてそれをこなし、しのいできた」と述べる。

農業の教育的価値

 「農村的自然のもつ教育力」と「農業の教育力」とは、まったく対照的な方法と視点から分析されている。前者は農村的自然が児童に及ぼす教育的影響を都市と農村とのアンケート調査結果などの比較を主な方法として明らかにしようとしているのに対して、後者は基本的には農業経済学者たちの知識と経験に基づいたそれぞれの視点から農業の教育力を考察しようとしたものであった。

 これらの試みから明らかなことは、①都市と農村との生活環境の差が縮小する中で次第に農業・農村の教育的機能が弱まりつつあること、②とはいえ農村に存在する豊かな自然環境・協同性や自然と関わりながら進められる「農の営み」から子どもたちは多くの影響を受ける可能性をもっていること、③農業の教育力を担う農民像の変化や農業・農村の現実からも学ぶ必要があること、などである。

 いずれにせよ、農業の教育的価値について考えるうえで、現実の農業・農村のありようや子どもたちの食をめぐる現場の状況と切り離して議論することはできない。そこで、次に食育・食農教育のあり方について、学校給食や家庭の食事(おふくろの味)を通して考えたい。


(2)「おふくろの味」VSファストフード

食育としての「おふくろの味」

 家庭における食育を考えたとき、ある年齢以上の日本人にとって「おふくろの味」と呼ばれるものが独特の意味をもっている。そのような「おふくろの味」を理解することは、現代の食をめぐる問題や、家庭における家族の関わり方の問題を解決する一つの可能性をもっていると思われる。

 「おふくろの味」には、3つの座標軸を設定することができる。①「食」に媒介される人と人との<関係性>の軸、②「食」の素材や調理法、味覚などがもつ<土着性>の軸、③「食」が示す<非市場性>の軸、である。

「食」に媒介される人と人との<関係性>の軸

 <関係性>が低い状況とは、自分で食べているモノがどこから来たのかわからない、だれがどのようにつくっているのかわからない状況である。食における<関係性>とは、コミュニケーションといいかえることができる。「おふくろの味」には、母親(父親でも兄弟姉妹でも食堂のおじさん、おばさんでもよい)という明瞭な作り手が存在する。家庭やコミュニティにおける食は、具体的で身近な作り手との対話としての意味合いをもっており、そこに「安らぎ」や「安心感」などの精神的な充足感を感じることも多い。「おふくろの味」とは、身近な人(もしくは身近に感じる人)とのコミュニケーションという性質をもつものであるといえる。

「食」の素材や調理法、味覚などがもつ<土着性>の軸

 <土着性>は、「おふくろの味」がしばしば「ふるさとの味」と重なり合うことに起因する。私たちの食は、つい最近まで特別なハレの食事を除いて、自分が暮らす日常生活圏の周辺で素材が調達され、家や地域に伝わる方法で調理されてきた。生まれ育った風土によって、それぞれ異なる味覚が生まれ、それが「ふるさとの味」と呼ばれるものになる。これだけ食材が世界から供給され、調理法が画一化しているように見えても、味覚は概して保守的なものである。ファストフードやインスタント食品、スナック菓子ですら、国別の味覚だけでなく、地域ごとの味覚に配慮した製品をつくるのである。

「食」が示す<非市場性>の軸

 <非市場性>とは、お金に換算することができないということである。家族の食事をつくることは、労働の対価を求めるものではない。外食産業や中食産業の発展によって、内食である家族の食事の一部が外部化(社会化)・市場化されてきた。ジェンダー・バイアスによって家庭内で食事を用意することが母親の役割のように思われてきたが、「おやじの味」であっても構わない。若い夫婦やパートナーが共同生活する場合にも、しばしば交代で食事を用意する傾向がある。こうした食事を用意することは無報酬でなされるのであり、市場的な関係が持ち込まれないということである。

ファストフードが世界を席巻する

 「おふくろの味」の対極をなすものが、ファストフードであろう。2007年6月末までは、確かにマクドナルド・ハンバーガーは世界一の店舗数(3万1677店)を誇っていた。これを抜いたのが、セブン・イレブン(3万2711店)である。『ファストフードが世界を食いつくす』(2001年)で知られるエリック・シュローサーが、ハンバーガーの歴史と特徴を簡潔に紹介している(『おいしいハンバーガーのこわい話』、2007年)。

 ハンバーガーのルーツに諸説はあるものの、19世紀の終わりにミートボールをつぶしてパンに挟んだ新しいサンドウィッチを「ハンバーガー」と呼んだものが起源らしい。その後、1948年にカリフォルニア州パサディナに開店したマクドナルド兄弟の店が、世界に広がるマクドナルド・ハンバーガーの始まりである。この店には調理人とカウンターの受付係しかおらず、紙皿に紙コップ、ハンバーガーとチーズバーガーの2種類しかつくらない。車で移動することを前提に、「運転中に手で持って食べられる」商品を安価に提供する「スピーディーサービス・システム」を導入した。

レイ・クロックの経営手腕

 この店に注目したのが、ミルクシェイクの撹拌機を売りにきたセールスマンのレイ・クロックである。彼は共同経営者となって、新しいタイプのフランチャイズ方式を導入した。「その方式とは、地元の事業家が自分のカネでマクドナルドの店を新しくひらき、クロックが経営の仕方を一から十まで教える、そして店の利益は分け合う」というものだ。

 その成功の鍵は「画一性(ひとつひとつの特別な事情を考えず、すべて同じにそろえること)」だった。「レイ・クロックは、新しいマクドナルドの店をどれもまったく同じにすることを求めた。看板も同じなら、建物も、メニューも同じでなくてはならない。そしてなによりも、食べものがまったく同じ味であること」を求めた。こうしてレイ・クロックはライバルとの競争に打ち勝ち、マクドナルド・ハンバーガーの店をアメリカ全土に、そして世界中に広げたのである。このレイ・クロックの凄腕と人物像については、最近公開された映画『ファウンダー ハンバーガー帝国のヒミツ』(2017年7月公開)をご覧いただきたい。

近代ハンバーガー革命史AD1971〜1990

 日本にハンバーガーがどのように広まったのか、それをパロディとして見せてくれるのが『カノッサの屈辱』(1991年)である。「近代ハンバーガー革命史AD1971〜1990」の序文は「我が国のハンバーガーは、マクドナルド王朝の権力下のもと、産声を上げた。王朝の模倣から始め、やがて打倒マクドナルドの悲願を抱き、王朝独裁に立ち向かっていった、勇気あるハンバーガー諸党の戦いの歴史である」と始まる(図2-1)。マクドナルドの1号店が開店した1971年は「銀座1号店にてマクド=カルタ発布 従業員に完璧な接客態度を要求する」と解説される。1970〜80年代の日本の風俗を知る歴史好きにはたまらない書き方であり、日本のハンバーガー史をこれほど面白く、わかりやすく解説しているものはなかなかない。

 ここまでハンバーガーが人気を集めたヒミツは、その独特の「おいしさ」「手軽さ」とともに値段の「安さ」があるのではないだろうか。その後、1995年頃から低価格戦略をとったハンバーガー業界は、一時期、ハンバーガー1個を65〜80円で販売したこともある。なぜ、これほどまでにハンバーガーを安く売ることができるのかを解説した本が、『〔儲け〕のカラクリ』(2002年)である。利益率5%で100円のハンバーガーをいくら売っても儲からず、ドリンクやポテトとのセット販売で利益を上げているのである。

スーパーサイズ・ミー

 ハンバーガーを1ヶ月間食べ続けると、私たちの身体はどのようになってしまうのだろうか。それを監督自らが実験したのが、モーガン・スパーロック監督の映画『スーパーサイズ・ミー』(2004年)である。彼は4つのルールに基づいて30日間の実験を始める。①マクドナルドのメニューしか食べてはいけない(水も含む)。②勧められたら必ず「スーパーサイズ」にする。③すべてのメニューを制覇する。④朝・昼・晩の3食欠かさず食べる。

 その結果、実験前と30日後のスパーロック氏の身体は、身長188cm→同じ、体重84・3kg→95・3kg(11kg増)、体脂肪率11%→18%(7%増)、総コレステロール値168→233(65ポイント増)となる。実際には、毎日3食をマクドナルドで食べる人は(まず)いないだろうから、極端な実験であることは確かである。しかし、高カロリー・高タンパクのファストフードを食べ続けると身体がどのようになってしまうのかを知り、世界中に展開するファストフード業界の実態を学ぶにはよい教材だといえる。

 さて、「おふくろの味」とファストフードの間に生きる私たちは、どこに食育・食農教育の可能性を見出せばよいのだろうか。次回は学校給食に注目する。


(3)学校給食と地域づくり

食育基本法と食育推進基本計画

 食育基本法という法律がある(図3−1)。2005年に成立したこの法律は、内閣府に食育推進会議を置き、内閣総理大臣を会長に食育担当大臣他12省庁の閣僚を委員として、国家レベルで国民の食の問題に取り組もうとする異例のものであった。その後、内閣の重要政策に関する統合調整等に関する機能の強化のための国家行政組織法等の一部を改正する法律(2015年)によって、会議を農水省に、会長を農水大臣に変更して進められている。

 この法律の目的は「現在及び将来にわたる健康で文化的な国民生活と豊かで活力ある社会実現に寄与すること」(第1条)とされ、 7つの基本理念(第2条〜第8条)を設定している。その後に、「関係者の責務」(第9条〜第13条)、「法制上の措置及び年次報告書」(第14条〜第15条)、「食育推進基本計画等」(第16条〜第18条)、「基本的施策」(第19条〜第25条)、「食育推進会議等」(第26条〜第33条)と続く。このうち年次報告書に当たるものが「食育白書」と呼ばれるものであり、閣議を経て国会に報告されている。また、食育推進基本計画が2006年度から5年ごとに作成され、現在は第3次食育推進計画(2016年〜2020年)である。この計画は国の他に、都道府県食育推進計画(第17条)、市町村食育推進計画(第18条)の策定が求められている。


学校、保育所等における食育の推進

 7つの基本的施策の中に「学校、保育所等における食育の推進」という項目が設定されており、学校給食における取り組みも主にここに位置づく。学校給食に関連する制度の見直しが行われる中で、栄養教諭制度の導入(2005年)とともに、学校給食法の改正(2008年)によって給食の目的に「学校における食育の推進」が付け加えられた。2016年5月1日現在で、全国に5765人の栄養教諭が配置されており、「栄養教諭を中核としたこれからの学校の食育」がまさに食育推進の鍵であると認識されている。

 また、学校給食は増加しつつあり、2015年5月現在、小学校で2万146校(99・1%)、中学校で9184校(88・1%)、特別支援学校等も含む全体で3万769校が学校給食を行い、約950万人の子ども(完全給食を受けている児童・生徒の割合は90・5%)が給食を食べている。こうした流れの中で学校給食への「地場産物食材」の使用が模索されており、2015年度に26・9%(2005年から5%増加)となっている。ちなみに、国産食材の使用割合は77・7%である。

 食育白書(2016年度)は、「地場産物を学校給食に活用し、食に関する指導の教材として用いることにより、子供が、より身近に、実感を持って地域の自然、食文化、産業等について理解を深め、食料の生産、流通に当たる人々に対する感謝の気持ちを抱くことができます。また、流通に要するエネルギーや経費の節減、包装の簡素化等により、環境保護に貢献することもできます。 さらに、地域の生産者等の学校給食をはじめとする学校教育に対する理解が深まることにより、学校と地域との連携・協力関係の構築にも寄与しています。 このような効果を期待して、各地の学校給食で地場産物の活用が推進されています。」と述べている。


「おふくろの味」を子どもたちに伝える試み

 基本的施策のうち「地域における食生活の改善のための取組の推進」(第21条)と「食文化の継承のための活動への支援等」(第24条)に当たる事例が、新潟県聖籠町の食生活改善推進協議会の実践である。協議会のメンバーは、『聖籠の食文化をたずねて』(1998年)をもとに聖籠中学校で授業を行った。新潟市の郊外にあって地域の構造が急速に変化し、長く受け継がれてきた地縁や血縁のつながりが崩れつつある中で、保健師による「町のこどもたちの体の実態調査」の結果から住民の「食」に対する考え方の変化が明らかになる。5年間にわたる保護者との勉強会や懇談会、講習会を通じて、それが「子どもの食に無関心な母親」の問題ではなく、「食生活に関する世代間の伝承の不足」による問題であることに気づく。

 そこで、町に伝わる食を探るために、町の古老への聞き取り調査を行った。聞き取りは生産と消費を結びつけて考えること、生活により密着した形での食を聞き取ることに成功している。その成果として刊行されたのが、『聖籠の食文化をたずねて』である。この本は単なる伝統食のレシピ集ではなく、地域の自然条件や農業・漁業、伝統行事、住居などのすべてが「食」と密接に関わっていることが浮き彫りにされている。この本をテキストに、中学生たちは地域の食文化の歴史を「町のおばさん」という生きた教材から学んでいった。

 『新潟県公民館月報』2014年12月号で、手嶋勇平さん(元聖籠町教育長)も聖籠町食生活改善推進協議会の実践を伝えている。「聖籠町食生活改善推進協議会のオバさんたちも思い込みを。今の若い母親が子どもに与える食内容への危機感から、食の実態調査を実施し、その結果からの問題点を母親に指摘しても入らなかった。その背景を話し合い、地域の食文化をオバさんたち自身がつかんでいなかったことに気づく。そして、それをまとめるプロジェクトが立ち上がり、公民館主事として私も参加した。研究者の指導で、昭和10年代の地域性ある生活を語れる高齢者からの聞き取りが始まった。オバさんたちにとって文章化は容易でなかったが、高齢者の生き生き語る姿に励まされ、3年越しで『聖籠の食文化をたずねて』が刊行された。その発刊祝賀会で喜びのオバさんたちへ 会場から提案が上がった。『刊行の動機を聞けば、子どもの食への心配からとか。であれば、刊行は子どもにその内容を返す出発点ではないか』と。オバさんたちは喜びから緊張へシフトを。その後、その本をテキストに中学校に入り、生徒と交流学習を続けている。学校に総合的学習が導入される前のこと。批判からは一歩が始まらないことを実感したオバさんたちだった。」 


センター方式でも食育・地産地消を目指す奄美市の挑戦

 鹿児島県奄美市では旧名瀬市と旧住用村にある小学校・中学校18校の給食施設を廃止して2019年度から学校給食センター方式に改め、そこで食育・地産地消の取り組みを進めようとしている。奄美市内の両地区にある小学校・中学校はそれぞれ自校方式の給食施設をもっているものの、築24〜40年(築30年以上が59%)と改修時期を迎えつつあり、約50食以下(53食〜17食)の提供が9校を占めている。他方で、児童・生徒数の減少や学校給食法の改正による衛生管理基準の強化などへの対応を求められているため、センター方式への転換を決めた。1日4000食(1回2000食)をまかなう食材を地産地消で確保し、すべての学校で食育を進めるのが容易でないことは明らかである。市内の農家数は高齢化・減少傾向にあり、さとうきびやトロピカル・フルーツへの生産に大きく偏っている。

 一つの可能性を示しているのが、飛び地合併となっている旧笠利町の笠利学校給食センターの取り組みである。毎日600食を提供しているセンターは、地元の農家から食材の供給を受けながら地元食材の比率を高めて子どもたちに工夫した給食メニューを提供している(図3-2)。こうした取り組みを支えているのが、地元の生活研究グループの女性たちが設立した合同会社・味の里かさりの仲介であり、市内でも農地と農家が多くあるという条件等である。笠利給食センターをモデルとして、新給食センターも市内—大島内—奄美群島内—県内と同心円的に地元食材の割合を設定して少しずつ地元比率を高めるために地域農業の育成を図るとともに、高齢者への給食の提供も検討する必要がある。また、食材を調達する地元組織を育成することで、農家と栄養教諭や栄養士・調理員とが協力して食育を進めることも期待される。

 最後に、奄美市にも地元の食材を使い、障害をもつ人たちを雇用してレストラン等を経営する社会福祉法人・三環舎のような団体がある。学校給食の調理や加工に、こうした団体の参加を求めることも地域の持続可能性を考える上で重要な要素であろう。

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20.評論

「主体的・対話的で深い学び」を実現する環境教育-社会教育・生涯学習の視点から-

Environmental Education to Realize “Active Learning”

- From a Viewpoint of Lifelong Learning -

Ⅰ はじめに

いまから470年ほど前、エティエンヌ・ド・ラ・ボエシという青年が「人間においては、教育と習慣によって身につくあらゆる事柄が自然と化すのであって、生来のものといえば、もとのままの本性が命じるわずかなことしかないのだ」「したがって、自発的隷従の第一の原因は、習慣である」と述べた。この前節の「たしかに人間の自然は、自由であること、あるいは自由を望むことにある。しかし同時に、教育によって与えられる性癖を自然に身につけてしまうということもまた、人間の自然なのである」と合わせて理解すれば、ほんらい自由であるはずの人間が教育と習慣によって「自発的隷従」へと導かれてしまうことを警告しているのである。

新学習指導要領について、中央教育審議会の「学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申) 」(2016年12月21日/第197号)1)は、アクティブ・ラーニングの視点を「主体的・対話的で深い学び」と言い換えて、「主体的な学び」「対話的な学び」「深い学び」をそれぞれ解説している。それぞれの教科の視点から見る場合には、今回の指導要領の改訂が目指す「学習の内容と方法の両方を重視し、子供の学びの過程を質的に高めていく」ために、「単元や題材のまとまりの中で、子供たちが『何ができるようになるか』を明確にしながら、『何を学ぶか』という学習内容と、『どのように学ぶか』という学びの過程を組み立てていくこと」が重要になるとされる(答申197号)。いずれの視点も子どもたちの教育において重要なものであり、そこに大きな違和感を感じる人は少ないであろう。しかし、こうした視点が登場する文脈を戦後70年間の教育課程政策及び学習指導要領の改訂を進めてきた政策的意図や、OECDのPISA調査に代表される「資質・能力」(コンピテンシー)論に即して読み解くことで、そこに主体性を強調しつつも「自発的隷従」へと誘導する意図が見えるとの批判を無視することはできない。例えば、八木英二は現政権とOECDの「政策対話」(OECD/Education2030)をもとに、「主体的・協働的な学習」のめざすものが「産業競争力」の強化であり、「対話的」関係が「社会関係資本」(Social Capital)や「アイデンティティ資本」などに代表されるイデオロギー的な擬制概念の「資本投資」としての歪みを伴うものであると強く警告している。

ここでは、新学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」のもとで期待される環境教育のあり方の可能性と課題について、コミュニティ・スクール論を含む「学校と地域」の関係を中心に社会教育・生涯学習論の視点から検討したい。

Ⅱ 教育課程の編成主体は誰か 

新学習指導要領における「主体的・対話的で深い学び」は、誰が(who)、いつ(when)、どこで(where)、何を(what)、どのように(how)学ぶのか、という教育課程を構成する要素のうち、主体(子ども)・時間(授業)・場所(学校)を所与のものとしつつ内容と方法に新たな連携のあり方を提起しようとしている。むしろ、これまで以上に内容と方法を一体的に踏み込んで提起した「戦後教育課程政策の重大な転換」であるとの指摘もある。

しかしながら、なぜ(why)このような「学び」が必要とされるのか、その背景にある教育課程政策や学習指導要領の改訂の政策的意図が問われなければならない。つまり、一連の教育政策が全国学力テストに象徴される新たな学校管理制度や学力評価・処遇制度を生み出し、アクティブ・ラーニングが「育成すべき資質・能力」論やカリキュラム・マネジメントとセットになって学校現場に導入されることの意味を問う必要があるのである。さらに、学校教育法の改正(2015年)を受けた「義務教育学校」や小中一貫型小・中学校の設置が、文科省による学校統廃合の「手引き」の改定(2015年)や総務省の公共施設等総合管理計画(2014年)と結び付けられて、地域で学校の統廃合を加速していることも見過ごすことはできない。

教育課程とは「一般に、子ども・青年にのぞましい発達を保障するために、学校で行う教育的働きかけの計画である」との定義がある(日教組中央教育課程検討委員会)。これに続いて、「教育課程は、具体的には、個々の学校において、その教職員によって、生徒を対象に、一定の教育的諸条件のもとで編成される。したがって、教育課程を最終的に決定するものは、なによりも教職員の教育的力量であり、学校内外の子どもの生活であり、学校における諸条件である」と述べられている。ここには教育の編成主体が教師(教職員)であると明示されており、国家(政府)が定める教育課程の基本的な枠組みとしての学習指導要領に基づいて検定教科書を使用して教えるだけの教師像は存在しない。これは当初の学習指導要領(「学習指導要領 一般編(試案)」2))が「本来、教育課程とは、学校の指導のもとに、実際に児童・生徒がもつところの教育的な経験、または諸活動の前提を意味している」と規定し、「手びき書」としての性格を持っていたことに対応している。

さらに「従来の教育課程審議会は廃止され、自治体単位に、教育内容の調査・研究・助言機関(自治体教育内容審議会)を設け、さらに全国レヴェルでの意見の交流と調査の機関(全国教育内容審議会,1976年)を設けること。…現実の教育課程は、審議会の大綱を参考として、各学校の教師集団が、創造し決定する。各学校は、その教育目標を立て、各学年、各学級の教育活動は、全学校生活に有機的に連関付けられねばならない。したがって、教育課程の編成は、職員会議の決定事項である」(日教組教育制度検討委員会,1974年)との踏み込んだ提案もなされている。教育の内容と方法とは、国家が一元的に決定するものではなく、自治体単位・学校単位で創意工夫しながら作り上げるものであるという考え方である。

問題は、教育課程の編成主体が唯一国家だけであってよいのかということであろう。そこには、教師や父母、子ども自身が編成主体として位置付けられるべきであり、そのことを抜きに「主体的・対話的で深い学び」が実現できるのかということである。

Ⅲ「次世代の学校・地域」創生プランとの連携 

そこで、この答申(中教審第197号)が「『次世代の学校・地域』創生プラン」(馳プラン/2016〜2020年)3)との連携を前提に、その「進展と軌を一にしながら教育課程の改善を進めていく必要がある」と述べていることに注目したい。いわゆる「馳プラン」は2015年末に出された三つの答申を前提としている。それは、①「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策について」(中教審186号) 4)、②「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について」(中教審第185号) 5)、③「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について」(中教審第184号)6)である。

その目指す方向は、「学校と地域が相互にかかわり合い、学校を核として地域社会が活性化していくことが必要不可欠であるとの考えの下、上記三答申の内容を実現するため、学校・地域それぞれの視点に立ち、『次世代の学校・地域』両者一体となった体系的な取組を進めていく」ものであり、「学校にかかる観点からは、『社会に開かれた教育課程』の実現や学校の指導体制の質・量両面での充実、『地域とともにある学校』への転換という方向を、地域にかかる観点からは、次代の郷土をつくる人材の育成、学校を核としたまちづくり、地域で家庭を支援し子育てできる環境づくり、学び合いを通じた社会的包摂という方向を目指して取組を進める」とされている(馳プラン)。 

「馳プラン」の特徴は、①地域と学校の連携・協働(コミュニティ・スクール、地域学校協働活動の推進)、②学校の組織運営改革(「チーム学校」に必要な指導体制の整備)、③教員制度の一体的改革(子供と向き合う教員の資質能力の向上)を<3本の矢>として位置付けつつも、その全てにおいて「地域との連携」を具体的施策の基礎においていることである。

教育課程の編成主体論に即して考えれば、「社会に開かれた教育課程」を実現するためにはまず、学校の教育課程そのものが地域に開かれていることが求められる。国家(政府)、教師、父母、子どもに加えて、地域社会が編成主体として何らかの役割を果たすことが求められるのである。

別の言い方をすれば、「主体的・対話的で深い学び」が、授業時間内に学校内で教師と子どもによる教育活動だけで、完結するのかということである。地域社会や市民の協力などの要素を位置付けなければ、「学校教育における質の高い学びを実現し、学習内容を深く理解し、資質・能力を身に付け、生涯にわたって能動的(アクティブ)に学び続けるようにすること」ができないのである。それは、「学習指導要領等の理念を実現するために必要な方策」の中で、「社会との連携・協働を通じた学習指導要領等の実施」が位置付けられていることからもわかる。とりわけ、「家庭・地域との連携・協働」が、新学習指導要領における「主体的・対話的で深い学び」の意味を社会教育・生涯学習の視点から考える鍵となる。

Ⅳ 地域と学校の連携・協働(コミュニティ・スクール、地域学校協働活動の推進) 

その意味で、答申 (中教審186号)で語られている「地域と学校の連携・協働」のあり方に注目する必要がある。答申は、「都道府県や市町村の教育委員会内において、コミュニティ・スクール や学校運営改善施策を担当する学校教育担当部局と、学校支援地域本部や放課後子供教室等の施策を担当する社会教育担当部局との連携・協働体制の構築が不可欠である」と述べる。特に「首長部局等との連携・協働は、これからの教育改革の大きな柱となるものであり、学校と地域の連携・協働による取組は、地域のまちづくりや青少年健全育成、福祉、防災等の分野とも関連」しており、「取組を円滑かつ効果的に進めていくためにも、総合教育会議を積極的に活用しつつ、部局横断で子供の育ちを総合的・一体的に支援する体制を構築していくことが重要である」とする。そして、「学校と地域の双方に、連携・協働を推進する窓口となる人材を配置することで、相互の役割分担を進めながら、連携・協働体制を構築・強化していく必要がある」と述べる。

ここに「主体的・対話的で深い学び」のもとで期待される環境教育のあり方の一つの可能性を見出すことができる。環境教育は「従来から特別な教科等をもうけることは行わず、各教科、道徳、特別活動等の中で、また、それらの関連を図って、学校全体の教育活動を通して」取り組むことが再三確認されている(文科省、「環境教育指導資料(小学校編)」2007年7))。また、かつて宮原誠一は社会的生活における人間の「形成」の過程には、①社会的環境、②自然的環境、③個人の生得的性質、④教育、の四つの力が働いていると指摘した。その上で、「自然成長的な形成の過程をのぞましい方向にむかって目的意識的に制御しようとするいとなみ」を「教育」と定義している。つまり、人間の社会には「形成力」と呼ぶべき「人を育てる力」があるのであり、良い意味でも悪い意味でも子どもが大人になる過程で社会の形成力の大きな影響を受けていると言える。

環境教育が特定の教科として独立せずに、学校全体の教育活動を通して取り組まれるという位置づけを持つものであり、かつ学校における教育が社会の「形成力」の一部であることに注意したい。「馳プラン」が大きな期待を寄せる「地域と学校の連携・協働」は結果として教育課程の編成主体としての地域社会の可能性に注目せざるをえないものであり、コミュニティ・スクールや地域学校協働活動の推進という文脈の中で環境教育が大きな役割を果たす可能性を持つということである。その可能性を具体化するためには、自治体や市民にとどまらず、実践者自身の環境教育に関する見方を持続可能な開発のための教育(ESD)にまで広げることが求められている。


Ⅴ おわりに


「主体的・対話的で深い学び」が「自発的隷従」とならないためには、教育課程の編成主体を国家から教員・父母、子ども、さらには地域社会にまで広げることが不可欠であると述べた。そのためにも、いま一度、学校と地域との関係を見直す必要がある。新学習指導要領の前提となる「馳プラン」や2015年度末の中教審の三答申こそ、学校が直面している課題を解決するために、地域社会の協力が不可欠となりつつあることを明らかにしたものと言える。その意味では、環境教育も子どもー教師という「閉じた学校」の枠組みの中でのみ位置付けられるものではなく、地域社会に「開かれた学校」という構造の中で新たな役割を果たすべきであると言える。

1) 中央教育審議会,2016,「幼稚園、小学校、中学校、高等学校及び特別支援学校の学習指導要領等の改善及び必要な方策等について(答申)」(中教審第197号) . 

2) 文部省,1947,「学習指導要領 一般編(試案)」

3) 文部科学大臣決定,2016,「『次世代の学校・地域』創生プラン〜学校と地域の一体改革による地域創生〜」. 

4) 中央教育審議会,2015,「新しい時代の教育や地方創生の実現に向けた学校と地域の連携・協働の在り方と今後の推進方策について(答申)」(中教審186号) . 

5) 中央教育審議会,2015,「チームとしての学校の在り方と今後の改善方策について(答申)」(中教審第185号) . 

6) 中央教育審議会,2015,「これからの学校教育を担う教員の資質能力の向上について(答申)」(中教審第184号) . 

7) 国立教育政策研究所教育課程研究センター,2007年,「環境教育指導資料(小学校編)」 

引用文献

エティエンヌ・ド・ラ・ボエシ,2013,『自発的隷従論』,ちくま学芸文庫,253pp. 

八木英二,2017,「学習指導要領改訂のめざす『主体的・対話的で深い学び』とは」,『人間と教育』,93:44-51.

中央教育課程検討委員会,1976,「教育課程改革試案(答申)」(日本教職員組合) .

教育制度検討委員会,1974,「日本の教育改革を求めて(答申)」(日本教職員組合) .

宮原誠一,1949,「教育の本質」,『宮原誠一著作集 教育と社会』,国土社.

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ESD(持続可能な開発のための教育)とエネルギー環境教育

― これからのエネルギー環境教育のために

 

朝岡幸彦(東京農工大学)

 


1 ESD(持続可能な開発のための教育)へと向かう環境教育の意味


「環境教育(Environmental Education)」は1948年の国際自然保護連合(IUCN)の設立総会で提唱された概念である。これが広く使われる契機となったものが国連人間環境会議(ストックホルム会議/1972年)であり、ユネスコ環境教育専門家ワークショップ(ベオグラード会議/1975年)において環境教育の目的(認識、知識、態度、技能、評価能力、参加)や目標が確認されてきた(ベオグラード憲章)。


こうした環境教育の理解に大きな影響を与えたものが、「持続可能な開発(Sustainable Development)」(世界環境保全戦略=WCS1980年)という概念である。チェルノブイリ原発事故(1986年)は欧州を中心に新たな環境問題の登場を印象づけるとともに、持続可能な開発(ブルントラント委員会最終報告書)に向けた国際的な取り組みの緊急性を示すものとなった。環境と開発に関する国連会議(地球サミット/リオ・サミット/1992年)では地球環境問題に関する国際的な取り組み(気候変動枠組条約、生物多様性条約など)が合意されるとともに、環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議/1997年)のテサロニキ宣言を経て、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット/2002年)の「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development)」概念や国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD/2005年~2014年)へとつながった。


国連持続可能な開発会議(リオ+202012年)において、東日本大震災と福島第一原発事故(2011年)がどのような影響を与えたのかは定かではない。しかし、ESDに関する私たちの捉え方に大きな転換が求められていることは明らかである。こうして環境教育は、グローバリゼーションと東日本大震災という2つの要素に「向き合う」教育のあり方として、ESD(持続可能な開発のための教育)への移行が求められているのである。


2 <3・11>と向き合う教育実践研究の模索


2011311日の巨大地震によって引き起こされた地震・津波および福島第一原発事故の複合災害を、政府は「東日本大震災」と命名した。私たちがいま<3・11>と呼ぶものが、この災害が引き起こした多くの生命・財産の喪失とそれに向き合う私たちの姿勢を問うものであることは明らかであろう。


<3・11>と教育との関係を考えるうえで、少なくとも3つの問いに向き合わなければならない。(1)なぜ東日本大震災によってあれほど多くの犠牲者と被害が生まれたのか。(2)私たち東日本大震災によって失われたものとどのように向き合うべきなのか。(3)どのように東日本大震災とこれから起こりうる大規模災害を次の世代に伝えていくのか。こうした課題に応えようとする教育実践を「<3・11>と向き合う教育実践」ととらえたい。


多くの学会や教育関係団体が「向き合う」努力を進める中で、震災によって引き起こされた原発事故に大きな衝撃を受けた組織の一つが日本環境教育学会であった。しかしながら、環境教育の枠組みでは「向き合う」ことのむずかしい教育実践がある。その典型的な事例が、失われたものと向き合う雄勝小学校(徳水教諭)の実践であろう。被災した小学校での<3・11>以後の授業は、被災地でのローズガーデン・プロジェクトへと広がり、被災した当事者の視点に立つ内発的復興(もしくは「人間の復興」)を支えるESDへと発展している。


3 震災後のエネルギー環境教育の取り組み


 東日本大震災後、エネルギー環境教育学会はいくつかの取り組みを行ってきた。学会特別シンポジウム「震災復興とエネルギー環境教育」(201111月/いわき明星大学との共催)では清原洋一氏(文科省教科調査官)と神田玲子氏(放射線医学研究所)の基調講演を受けて、「パネル討論会」「実践報告」「ワークショップ」が行われ、「放射線に関する正しい情報が必要であるという点で合意が得られ、学会独自の有用な情報発信をするべく準備をすることが確認」された(学会Webより)。


また、学会誌『エネルギー環境教育研究』でも、特集「これからの教科、学校、職場等におけるエネルギー環境教育の工夫改善東日本大震災・福島原発事故を踏まえて」として11本のレポートを掲載した(Vol.6 No.1/2011.12)ほか、資料2本と特別報告「学会特別シンポジウムー震災復興とエネルギー環境教育」(前記)(Vol.6 No.2/2012.6)、特集「ポスト3.11持続可能なコミュニティ形成とエネルギー環境」として7本のレポート(Vol.7 No.1/2012.12)、特集「エネルギー環境教育特別シンポジウムー福島の現状や最新のエネルギー事情放射線教育とともに考える」として7本のレポート(Vol.8 No.1/2013.12)など継続的に問題提起をしてきた。


他方で、エネルギー環境教育情報センターを改組して発足した新・エネルギー環境教育情報センターは、「東日本大震災による原子力発電所事故を契機にわが国のエネルギー政策や温暖化対策のあり方について議論がひろがっており、喫緊の国家的、国民的課題となって」いるとして、『エネルギー環境教育ガイドライン』を改訂(2013年)した。本編において「福島第一原子力発電所の事故は、原子力発電の安全性に対する信頼を著しく低下させた。今後の原子力発電のあり方についても、改めて考えてゆかなければならない。」としている。


また、資源エネルギー庁の委託を受けて日本科学技術振興財団も『エネルギー環境総合戦略調査(エネルギー政策広報のあり方及び評価)報告書』(20152月)を策定し、「20113月の東日本大震災及び東京電力福島第一原子力発電所の事故による我が国のエネルギーのあり方をめぐる状況の変化の中で、これまでの取組について少なからぬ見直しを求められ、事業の中断、機会の喪失などの停滞も生じることとなった。


 東京電力福島第一原子力発電所事故の甚大な被害、節電の必要や料金の値上げなどは、国民のエネルギー問題への関心を増大させることとなったが、その一方で誤った言説の流布、風評による被害の発生などに象徴的にみられるように、エネルギー事情や課題についての基本的な知識の不足や情報の不十分さ、不正確さもまた明らかになったといえよう。」と述べている。


4 ESD時代の新たなエネルギー環境教育論の可能性


このように、とりわけ福島第一原発事故によって日本のエネルギー環境教育は、その視点や役割の見直しが求められた。エネルギー環境教育学会をはじめ、エネルギー教育・エネルギー環境教育の実践や研究に関わる団体の多くが、<3・11>以後の状況に対応してきた。


ここで注目しなければならないのは、東日本大震災と福島第一原発事故がグローバリゼーションという時代状況のもとで起きているということである。それまでの代表的な大規模原発事故といえるスリーマイル島原発事故(1979年)やチェルノブイリ原発事故(1986年)はともに、冷戦体制下に起きている。グローバリゼーションの時代をどこからと見るかによる違いはあるが、1990年代より前と後とでは世界のあり方が大きく異なっていることに注目すべきであろう。グローバリゼーションは地球全体を市場化することにひとつの本質があるのであり、「フクシマ」の事故の影響はグローバリゼーションの文脈の中でとらえられる必要がある。東日本大震災からの復興がグローバリゼーションのもとでの「創造的復興」と被災者や地方の視点に立つ「人間的復興(もしくは内発的復興)」の対立として語られるように、福島第一原発事故からの復興も同様な対立が見出されるのである。


グローバリゼーション(Globalization)の時代とは、経済だけでなく政治・社会・文化も含む現象であり、International(国際化)やWorldwide(世界化)とはちがい、国家や地域の多様性を超えて自由に動く情報や資本の流れであり、社会構造そのものをグローバル・スタンダード(ある意味でのアメリカ化)に変えるという発想をもっている。


既存の教育と持続可能な開発のための教育(ESD)の関係について、いまだに定説があるとは言い難い。しかしながら、これまでの教育の延長上にESDが位置づけられるうえで、ESDがグローバリゼーションに対応した教育の新たな姿であるとみることはできよう。


Think globally, act locally(地球全体のことを考え、足下から行動しよう)」というよく知られた提起について考えてみたい。「グローバルとローカルを対比させ、グローバルなるものは思考に、ローカルなるものは行動に役割を特化させることによって、多様性や独自性を持つローカルな思考など取るに足りないもの、あるいは初めから存在しないかのうように無視されてしまう」(前平泰志)。こうした批判は、共通化・画一化する世界や教育のあり方に対して、<ローカルな知>やunlearnの視点から見直す重要な提起となっている。


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教育委員会はどう変わるのか~新教育委員会制度の特徴と課題


朝岡 幸彦(東京農工大学)


二〇一五年四月一日に「地方教育行政の組織及び運営に関する法律(地方教育行政法)の一部を改正する法律」(平成二六年法律第七六号)が施行される。この法律の施行によって、自治体の教育委員会制度の仕組みは大きく変化する。文部科学省は改正の特徴を四つないし五つに整理している。①教育委員長と教育長を一本化した新「教育長」を設置すること。②教育長へのチェック機能を強化して会議の透明化を図ること。③すべての地方公共団体に「総合教育会議」を設置すること。④教育に関する「大綱」を首長が策定すること。これに、⑤国が教育委員会に指示できる規定(五〇条)を明確化すること、を加える場合もある。


出発点としての地方分権と民意の尊重


一九四八年の教育委員会法によって、教育の地方分権と教育行政への民意の反映(教育委員公選制)を目的として、すべての市町村に教育委員会が設置された(一九五二年)。その後、地方教育行政法への移行(一九五六年)にともなって、教育委員公選制の廃止、教育長の任命承認制度(国・県が承認)の導入、教育委員会による予算案・条例案の議会提案権が廃止されることで、国(文科省)・県教育委員会による管理・統制と環境醸成における首長への依存が強まったと考えられている。

国が地方分権を進める中で、教育委員会制度も一定の分権化が図られる。教育長の任命承認制度の廃止や市町村立学校に関する都道府県の基準設定権の廃止(一九九九年改正)、教育委員の構成の多様化や教育委員会議の原則公開(二〇〇一年改正)、学校運営協議会の設置(二〇〇四年改正)などである。今回の法改正は、教育行政における責任の明確化を主要な目的として首長の役割を決定的に強化するものであり、教育委員会制度そのものの性格を大きく変える可能性がある。


いっそう強まる首長の発言力


現行の教育委員会制度では、首長が議会の同意を前提に教育委員を任命し、教育委員の中から代表者である委員長(非常勤)と事務執行責任者である教育長(常勤/一般職)が互選される。ここに制度上の問題があるとして、新制度では首長に直接任命された新「教育長」(常勤/特別職)が教育委員会の代表者となることで、首長―教育長という責任体制が明確になるとされている。さらに、教育長の任期を首長より短い三年とすることで、首長が任期中に少なくとも一回は自らが教育長を任命できるように配慮されている。(図)

また、新制度ではすべての自治体に首長が招集する総合教育会議(首長と教育委員会で構成)を設置することが求められている。これは決定機関でも、諮問機関でもなく、対等な執行機関同士の協議及び調整の場と位置づけられており、教育委員会の権限に属する事務について首長の権限に属する事務との調整で判断がわかれた場合にはそれぞれの責任者(教育長と首長)が独自に決定してよいと解釈される。とはいえ、「当該地方公共団体の教育、学術及び文化の振興に関する総合的な施策の大綱」を首長が策定するために総合教育会議を招集し、大綱にもとづいて教育委員会の事務が執行される(尊重義務)ことから、予算や条例提案権、教育長と教育委員の任命権(議会の同意が必要)をもつ首長の発言力は極めて大きくならざるをえない。


運用の幅が生む混乱と現状維持志向


新制度によって強化される首長と教育長の権限をチェックする仕組みも確かに用意されている。首長にしては、総合教育会議が原則として公開されるものであり、教育委員会は執行機関として最終的な執行権限を留保されている、などの形で政治的中立性が確保されるとしている。教育委員会の責任者となる教育長に対するチェック機能はより細かく規定されており、①教育委員の一/三以上で会議が招集できる(小規模自治体の三名体制では一名の請求)こと、②教育長による事務の管理・執行状況の報告を義務づけること、③原則として議事録を公開すること、などである。

とはいえ、新制度への移行を円滑に行うために運用の幅を大きく設定していることも特徴といえる(文科省地方教育行政研究会編『QA 平成二六年改正 改正地方教育行政法』二〇一四年)。①現行教育長の任期満了を待って新「教育長」を任命する。②教育委員会としての職務権限(執行機関)を変更しない。③教育委員会の議事は出席者の過半数で決する(合議制の維持)。④議事録の作成が努力義務とされている。⑤総合教育会議の設置等に関する条例の制定が不要である。⑥大綱を教育振興基本計画で代えることができる。

こうした運用の幅が各自治体の独自性を担保する一方で、安易な現状維持志向を生むとともに、首長による教育行政への過度の介入を招く可能性もある。たとえば教科書採択や教職員人事等は総合教育会議の協議題(「調整」の対象)でないとされているものの、自由な意見交換として「協議」することは認められており、教育委員会が同意すれば「大綱」に記載することも可能と解釈されている。


期待される専門性と議会のチェック


民意を代表すると想定されている首長の発言力が強まるとともに、重い職責を果たす新「教育長」の資質・能力が大きな問題となる。教育長に対するチェック機能を期待されている議会(任命の同意と所信表明)と教育委員が教育に対する深い関心や熱意だけでなく、高度な専門的知見を有することも求められる。新制度への移行の成否は首長―教育長の教育施策に対して、「もうひとつの民意」を代表する議会と市民自身がどれだけチェック機能を発揮できるのかにかかっている。

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(佐藤真久・鈴木敏正・田中治彦編著『環境教育と開発教育』筑波書房、2014年刊行予定)

はじめに

 「環境教育と開発教育」は、車の両輪なのかもしれない。人の開発行為が環境問題を引き起こし、環境問題の広がりが開発に伴う格差を広げている。環境教育と開発教育がめざすものには差異があるものの、グローバリゼーションと呼ばれる時代状況のもとで対峙すべきものはほぼ共通している。持続可能な開発のための教育(ESD)は明らかにグローバリゼーションが進める「持続不可能な開発」に対する「もう一つの開発」(おそらく内発的発展に根をもつ開発)のあり方を提起しており、新たな教育領域の設定ではなく「いまもっとも求められている教育」のあり方(ベクトル)を示すものである。

 その意味では、人権教育、平和教育、ジェンダー教育など多様な教育領域がESDを構成する重要な要素であるものの、とりわけ環境教育と開発教育はその中心に位置づかざるをえないものであろう。この両者を軸とすることで、ESDの「わかりにくさ」を克服するひとつの枠組みを描き出すことができる。環境教育の概念は時代とともに次第に拡張されており、ついに地球全体にまで膨らんだところで、人と自然との関係は自然の向こう側にいる人や社会のあり方を強く意識せざるをえなくなったのであろう。「グローバリゼーション」と呼ばれる20世紀末以降の世界は、まさに人間の活動が引き起こす環境問題を人の生き方や社会のあり方の問題としてとらえ直す時代でもある。

 地球環境問題を介して地球の裏側に住む人びとの生活や社会のあり方を、自分の暮らしぶりや生き方と結びつけて考えることで、環境教育は開発教育と同じ土俵で議論せざるをえなくなる。本書は環境教育の研究者と開発教育の研究者が相互に協力することではじめて実現したものであり、その限りで求められながらなかなか実現できなかった本格的なESD論であるといえる。持続可能な開発のための教育の10年(DESD)の最終年に本書が間に合ったことを喜びたい。ここから新たなポストDESDを支える議論が始まることを心より期待したい。

最後に、本書をはじめとしたシリーズの刊行を快く引き受けていただいた筑波書房の鶴見治彦社長に心からお礼を申し上げたい。

2014年〇月

朝岡幸彦

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社会教育事業の「デザイン」とは何か

~評価を次年度以降の計画に活かす

朝岡 幸彦

「社会教育デザイン新聞」のこと

 「スフィア」という少し変わった名前の新聞が発行されている。発行元は社会教育デザイン新聞社、所在地は東京農工大学のある研究室である。ここに毎月、編集長と3名の主筆、東京都多摩地区の教育にゆかりのあるメンバーが集まって、A2版(新聞紙大)両面カラー印刷の「社会教育デザイン新聞」の編集会議を開いている。

 この新聞の目的は、①二〇二五年の公民館のあり方を模索すること、②グローバル化する地域での社会教育の役割を見直すこと、③「三多摩テーゼ」を生み出した多摩地域の社会教育の現在を見据えて未来を紡ぎだすこと、である。なぜ、二〇二五年なのかはともかく、二〇一〇年の東京都公民館大会でデビューした第六〇号(いきなり!)は「わたしたちは二〇二五年に廃刊します」と一五年後の廃刊を宣言した。カウントダウン方式のナンバーが第一号になったら「おしまい」というものである。そもそも「スフィア(sphere)」という名前自体が「球=たま=多摩」というダジャレであり、本気とも冗談ともつかない不思議な感性をもっている。

 とはいえ、ここで取り上げられた記事には、既存の公民館や公的社会教育の枠組みを越えて、これから求められる社会教育をデザインするいくつもの切り口が見られる。各号の特集のタイトルと一面トップ記事の見出しを見ただけでも、その課題と方法の広がりがわかる。

わたしたちは二〇二五年に廃刊します。(第六〇号)=近未来/社告 鼎談・二〇二五年の公・民・館

We loveコミュニタリアン!(第五九号)=平和/“平和のために何ができるか”を問いながら(国際平和村)

希望をカタチにする!感性を磨く!(第五八号)=東日本大震災・環境/「までいライフ」の今福島県飯舘村

ちがう、かかわる、かわる(第五七号)=文化/「かすかな光へ」という光太田尭 生命のきずなへの道程

川で あそぶ まなぶ くらす(第五六-五五号)=環境/論説 ノート「たまがわで あそぶ まなぶ くらす」

多摩の公民館 今昔(第五四号)=公民館(図1)/公民館の誕生 三多摩テーゼの「ふるさと」はいま…」

「ふるさと」はいずこにありや、ここに「ふるさと」がある(第五三号)=ふるさと/Home On The Range アート 東京多摩ニュータウン「ふるさと」の風景

人動く,働く,ワーカーズ(第五二号)=働く/「小さな共生社会」をつくる新しい働き方

わたしたちには、やりたいことがある。(第五一号)=農業高校/論説 農業高校発、未来へ! インタビュー わたしたちには、やりたいことがある<教員編>(都立農業高校校長+都立瑞穂農芸高校校長+元都立農芸高校校長+編集長)

 

「事業」と「講座」のちがい

 さて、社会教育事業には、①年間テーマの決定、②実施事業の決定、③予算の決定、④担当者の決定、⑤行程表の作成、⑥事業の実施、⑦フォローアップ、⑧事業の評価、という一連のプロセスがある。しかしながら、「事業」と「講座」が同一視されて、①学習テーマの設定、②プログラムの構成、③広報・宣伝、④講座準備と運営、⑤講座終了後の支援、⑥事業の評価、という講座づくりのプロセスに置き換えられる場合も少なくない。

 例えば、東京都小金井市の『教育委員会の権限に属する事務の管理及び執行の状況の点検及び評価報告書』(平成二四年度評価分)で教育施策「生涯学習の推進(生涯学習課)」に区分される一三の「事業」には、①社会教育委員の会議運営、②成人の日記念事業、③心身に障害のある児童・生徒の地域活動促進事業、④まなびあい出前講座、⑤市民講師登録事業、⑥社会教育関係団体登録事業、⑦市立小中学校PTA連合会補助事業、⑧市スカウト協議会運営補助事業、⑨全国大会等参加団体補助事業、⑩青少年のための科学の祭典、⑪中近東歴史文化講座⑫ボランティアセミナー⑬団塊の世代のための地域参加講座、があり、「講座」に当たるものは四事業にすぎない。ところが、「公民館の充実(公民館)」に区分される二八事業のうち、講座に当たるものが一七事業となる。これは教育委員会事務局と公民館(現場)のちがいであるとともに、「事業」と「講座」が現場ほど混同されやすいことを意味している。

 この報告書では、教育委員会の「基本方針」のもとに年度の「教育施策」があり、その具体化のために「事務事業」(いわゆる事業)が配置されている。これは(不徹底ながらも)社会教育法第五条(市町村の教育委員会の事務)に規定された一九の「事務」を「事業」と見なすという考え方に通じるものであり、これらの事務事業を具体化する方法の一つとして「講座」が位置づけられているのである。公民館の場合には、法第二二条(公民館の事業)に規定された、①定期講座を開設すること、②討論会、講習会、講演会、実習会、展示会等を開催すること、③図書、記録、模型、資料等を備え、その利用を図ること、④体育、レクリエーション等に関する集会を開催すること、⑤各種の団体、機関等の連絡を図ること、⑥その施設を住民の集会その他の公共的利用に供すること、がこれに当たる。確かに事務局に比べて公民館では講座の比重は高くならざるをえないものの、「事業」と「講座」とは異なるのである。

 

社会教育事業の計画とは

 複数の社会教育事業のプロセスを統合・組織化したものを「社会教育事業計画」と呼ぶ。『社会教育主事のための社会教育計画「理論編」』(国立教育政策研究所社会教育実践研究センター、二〇〇六年)によれば、社会教育事業計画とは「社会教育の施策・事業あるいは活動を実施するための計画」であるが、その主体・目的・内容・性格等が多岐に渡るため「社会教育における『関係諸計画の総称』と理解してよい」と定義している。また、事業計画の策定において重要なことは「関連諸計画の体系性、構造性をいかに保持していくかであり、その有機的なつながりを個々の局面で、どのように造り出していくかである」と述べる。その意味では社会事業計画の上位計画として施設・物的計画及び人的・財的計画を合わせた「(公的)社会教育計画」が位置付き、さらにその上に「地域教育総合計画」(教育振興基本計画)と「地域振興総合計画」(いわゆる総合計画)が位置づきながら関連諸計画との整合性を保っていると見ることができる。

 こうした社会教育事業計画の位置づけをもっとも明確に意識してつくられたのが、東京都調布市社会教育計画(二〇〇五年)であろう(図2)。ここでは事業計画は、施設計画、団体・サークル学習支援計画、職員・スタッフ配置計画、市民が地域教育の主体となるための計画とともに社会教育計画の一部を構成している。しかも、事業計画を構成する5つの柱が①「子どもを地域で育てる『地域教育力』に依拠した事業づくり」、②「社会的に参加の制約を受けやすい人々の社会的参加についての現状を理解し、共同で問題解決できる事業づくり」、③「市民自らが地域の課題を調査・発見しまちづくりにつなげる事業づくり」、④「市民の自主性にもとづき、民主的な手続きを踏んで、成果の公開を原則とする事業づくり」、⑤「市民の自治と職員の専門性を有機的に結合する創造的な事業づくり」であることからもわかるように、事業内容が自治体の総合計画全体(とその下にある関連諸計画)にあるほぼすべての施策の教育・学習的側面を網羅する内容となっている。

 つまり、社会教育事業の計画は、各自治体の総合計画、教育振興基本計画、社会教育計画(もしくは生涯学習計画)に書き込まれた施策を具体化するだけでなく、総合計画、関連基本計画、関連諸計画という教育行政の枠外にある諸計画の施策の教育・学習的側面を支えるものとして位置づけられなければならないものである。

 

社会教育事業の削減・廃止が職員の削減に

 社会教育事業の存否は、施設・職員の配置にも大きな影響を与える。生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律(生涯学習振興法・一九九〇年)以降の東京都の生涯学習・社会教育行政の動きは、四つの時期に区分される(梶野光信・二〇一三年)。

第Ⅰ期「生涯学習振興施策の展開期(一九九〇~九七年)」は、急速に「社会教育」が「生涯学習」に置き換えられた時期である。社会教育部を生涯学習部に改組し(一九九〇年)、都生涯学習審議会を発足させ(九二年)、東京都生涯学習推進計画を策定した(九七年)。これと並行して、番組提供や女性学習関連事業などの社会教育事業が廃止された。第Ⅱ期「財政健全化施策の振興と従来型生涯学習・社会教育施策の(一九九八~二〇〇〇年)」は、行財政改革によってこれまでの施策が解体された時期である。都行政改革大綱及び都財政健全化改革(一九九六年)を一つの根拠に、青年の家の廃止(二〇〇〇~二〇〇四年)、生涯学習センターの廃止(二〇〇一年)、青少年養生セミナーほかの社会教育事業の廃止(一九九九年)などが矢継ぎ早に行われた。

 第Ⅲ期「都社会教育施策の再構築期(二〇〇一~二〇〇九年度)は、生涯学習・社会教育部署の解体・廃止の危機に際して、都生涯学習審議会の答申・建議を活用して「学校教育と社会教育の連携」策を軸にした施策構築を大きな柱としていく時期である。生涯学習部は「地域教育支援部」に改組される(二〇〇八年)。第Ⅳ期「教育施策の総合的・一体的展開の模索期(二〇一〇年度以降)は、都立高校改革推進計画の策定に積極的に関与することで、学校教育と社会教育の垣根を超えた「教育施策の総合化・一体化」が目指される時期である。こうした動きの中で、三名の社会教育主事が「指導部高等学校教育指導課都立高校改革推進担当」に兼務発令された(二〇一二年)。

社会教育事業と社会教育施設の廃止・削減は、専門職としての社会教育主事の発令者の数を大幅に減らすことになる。二〇〇〇年度まで四七名発令されていた都社会教育主事は、都立研究所の廃止(二〇〇一年)を契機に、都立青年の家がつぎつぎに廃止される中で二〇〇五年度には一七名、二〇一三年度には一三名にまで削減されている。社会教育施設が単なる貸館ではなく社会教育事業によって支えられるものであり、事業の廃止が施設の削減と専門職員の削減を劇的にもたらすことを明らかにしている。

 

「評価」を次年度以降の計画に活かすために

社会教育事業の「評価」を次年度以降の計画に活かすために必要なことは、いわゆるPDCAサイクルにもとづく単純な事業評価にとどまらないものであることが明らかであろう。実際には、社会教育事業計画が国の政策動向や自治体の行財政改革の方針に大きく左右されるものであり、社会教育事業の枠組みを越えた関連諸計画との連携・整合性を強く意識せざるをえない。これは社会教育事業を組み立てる社会教育事業計画に直接影響を与える社会教育計画や生涯学習計画、教育振興基本計画に根拠を求めるだけでなく、自治体の総合計画や教育行政以外の関連諸計画から事業の課題が意識的に導き出されなければならないことを意味している。

学習が成り立つためには、「主体」と「内容」、「方法」が必要である。この「主体」「方法」「内容」の三つの項目によって構成される学習過程が常に意識されなければならない。自治体の行政計画には住民の要求を反映した様々な地域課題が政策課題として位置づけられており、住民に求められる学習の「内容」の多くが盛り込まれているとみることができる。しかしながら、学習の「主体」が住民であり、住民が求める学習の「方法」は多様である。「社会教育デザイン新聞」にみる内容と方法の多様さは、学習主体としての住民が多様な学習過程をもっていることを示すものである。社会教育事業の主体があくまで住民であることを忘れてはならない。

(あさおか・ゆきひこ/東京農工大学)

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日本の環境教育第2集 環境教育とESD 


あとがき


朝岡幸彦(企画委員長)


 国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD)の最終年を迎えたにもかかわらず、国内におけるESDの認知度は依然として「低い」といわざるをえない。ユネスコをはじめとした国際機関の取り組みの弱さや日本政府の政策の不十分さに求めることは「正しい」だろう。しかし、ESDという概念がもつ「わかりにくさ」も、実践が広がらない原因のひとつとは考えられないだろうか。

 そもそも環境教育という概念は、「地球」という枠組みと深く結びつきながら発展してきたと考えられる。学校の教科とは対照的に、環境教育は「地球」という私たちが生きている空間そのものを意識しなければならないため、統合的な枠組みの中で実践されることが多い。これは近代科学の基本ともいえる二元論や要素還元主義という手法がとりにくく、直感的に理解はできても論理的に説明したり、再現したりすることが(不可能ではないが)「むずかしい」ものとなる。

 さらに、環境教育とESDとは明らかに異なるものである。環境教育はESDを構成する一つの教育領域であり、人権教育や平和教育、ジェンダー教育などとならぶ要素の1つでしかない。ただし、環境教育のすべてがESDに包摂されているわけでもない。しいていえば、環境教育の現代的なあり方(いまもっとも求められている環境教育のあり方)がESDだと見てよいのではないだろうか。環境教育の概念は時代とともに次第に拡張されており、地球全体にまで膨らんだところで、人と自然との関係は自然の向こう側にいる人や社会のあり方を強く意識せざるをえなくなったのであろう。「グローバリゼーション」と呼ばれる20世紀末以降の世界は、まさに人間の活動が引き起こす環境問題を人の生き方や社会のあり方の問題としてとらえ直す時代でもある。

 環境問題に限らず、私たちがいま解決しなければならない構造的な問題に前向きに取り組もうとする教育実践は、すべてESDと考えることができるのだ。教育が未来世代の可能性を信頼する前向きな実践である以上、何をやってもESDであるという説明は、きわめて「わかりにくい」のである。しかし、本書に収録された論考や実践には、ほぼ共通したベクトルが存在する。それはひとりひとりの主体形成であり、自己決定であろう。ここにESDの未来を期待して結びとしたい。

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21回TAMAとことん討論会・講演

環境教育とごみ問題

東京農工大学 教授 朝岡幸彦

ある学生のお話

 私は大学で環境教育を教えています。教え子の中には大学院で研究して学位(修士号や博士号)をとり、技術者や教師、研究者になる人もいます。私のところで環境教育学の修士号(正しくは「修士(農学)」ですが)をとった学生Mさんのお話です。

Mさんはある女子大学の英語学科を卒業して、大学院修士課程に入学してきました。研究のテーマは「バリ島におけるごみ教育」でした。高校生の頃からインドネシアのバリ島に何度も行っているうちに、「ごみ」が気になりはじめて環境教育の力でごみ問題を解決したいと考えたようです。

 私は「バリ島のごみの何が気になったの」と聞きました。彼女は、たくさんのごみが処理しきれずに島の環境を汚染しているので、日本のようにごみを分別したり、再利用したり、減らしたりすることを教育したい、というようなことを語ったと思います。「何でバリ島の人は日本人のようにできないんだろうね」。いろいろな理由があるものの、かつてはごみの量も少なく、放置しておいても自然に分解されるものばかりだったけれども、生活やごみの変化に島の人たちの意識がついていかないこと、行政もうまく対応できていないことを話しました。「島の人の意識を変えれば、ごみ問題は解決するのかなあ」「日本のように分別したり、再利用したりすることが正しいと教えればいいのかなあ」と少しいじわるな質問をしました。…。

広がる<環境教育>の世界

 いま、世界は急速に「ひとつ」になりつつあります。地球環境問題と「グローバリゼーション」とよばれる時代を実感するために、世界を「100人の村」に置き換えてみましょう。

 世界には67億人の人がいますが もしもそれを100人の村に縮めると どうなるでしょう。 100人のうち、50人が女性です。 50人が男性です。 28人が子どもです。 72人が大人です。 そのうち7人がお年寄りです。 … また、こんなふうにも考えてみてください。 村に住む人びと100人のうち、14人は栄養が十分ではなく、1人は死にそうなほどです。 でも14人は太りすぎです。 すべての富のうち、1人が40%をもっていて 49人が59%を、50人がたったの1%を分けあっています。 すべてのエネルギーのうち 19人が54%を、81人が46%を分けあっています。 … もしもたくさんのわたし・たちが この村を愛することを知ったなら まだ間に合います。 人びとを引き裂いている非道な力から この村を救えます。 きっと (池田香代子ほか『世界がもし100人の村だったら 総集編』2008年 「環境教育(Environmental Education)」は1948年の国際自然保護連合(IUCN)[1]の設立総会で提唱されたました。この概念が広く使われる契機となったものが、国連人間環境会議(ストックホルム会議)の人間環境宣言[2]です。

環境教育は、個人、企業及び地域社会が環境を保護向上するような考え方を啓発し、責任ある行動をとるための基盤として必須のものである(人間環境宣言第19項)

 さらに、ユネスコ環境教育専門家ワークショップ(ベオグラード会議)において環境教育の目的(認識、知識、態度、技能、評価能力、参加)や環境教育の目標が確認されました。

環境とそれに関連する諸問題に気づき、関心を持つとともに、現在の問題解決と新しい問題の未然防止に向けて、個人及び集団で活動するための知識、技能、態度、意欲、実行力を身につけた人々を世界中で育成すること(ベオグラード憲章) 

 こうした環境教育の理解に、大きな影響を与えたものが「持続可能な開発(Sustainable Development)」(世界環境保全戦略)概念です。チェルノブイリ原発事故(1986年)を経て、「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たす開発」(ブルントラント委員会最終報告書)[3]と定義される国際的な取り組みの緊急性が明らかとなりました。環境と開発に関する国連会議(地球サミット)では地球環境問題に関する国際的な取り組み(気候変動枠組条約、生物多様性条約など)が合意されるとともに、環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議)[4]を経て、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット)[5]の「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development/ESD)」概念や国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD)へとつながっています。

 東日本大震災や福島第一原発事故(2011年)の後に、国連持続可能な開発会議(リオ+20)が開催されたいま、環境教育やESDの意義がますます重視されているのです。また、ポストDESDの取り組みとしてボン勧告(2012年)が「学習する社会(learning societies)」の推進に向けてESDをすべての教育と学習活動の中核に位置づけ、さまざまな場や機会において持続可能な開発にむけた生涯学習プロセスを充実させていくことを提示していることも重要です。

 <グローバリゼーション>の時代とは、国家や地域の多様性を超えて自由に動く情報や資本の流れであり、社会構造そのものをグローバル・スタンダードに変えるという発想をもっています。ESDには、こうしたグローバリゼーションを乗り越えようとする意味が盛り込まれているのです。 Think globally, Act locally(地球全体のことを考え、足下から行動しよう)というよく知られた提起について考えてみましょう。

グローバルとローカルを対比させ、グローバルなるものは思考に、ローカルなるものは行動に役割を特化させることによって、多様性や独自性を持つローカルな思考など取るに足りないもの、あるいは初めから存在しないかのうように無視されてしまう。(前平泰志)

 

 こうした批判は、共通化・画一化する世界や教育のあり方に対して、あえて逆にThink locally, Act globally(足下から考え、地球全体につなげて行動しよう)という<ローカリゼーション>の視点から見直そうという重要な提起をともなっています。

 環境教育に対するESDのいま一つの意味は、本質的に学習者の視点や立場からの絶えざる捉え返しを前提とするものであり、「学び捨てる」もしくは「学び返す」と翻訳されるunlearn(アンラーン)につながる可能性を秘めていると考えられます。つまり、ESDには体系化され、確立した社会(および教育)のあり方をつねに創造的・批判的にとらえなおすという学習の方法が組み込まれているのです。

<ごみ問題>から広がる教育の世界

 さて、Mさんは私のいじわるな質問にどのように答えたのでしょうか。Mさんの修士論文のタイトルは「農山村地域の祭礼文化における口伝の役割」、東京都檜原村湯久保地区の三匹獅子舞の口伝(口頭伝承や所作伝承など)の研究をしました。もちろん、別に「『持続可能な開発』に向けた環境教育・ESDに関する一考察バリ島チュリック村を事例にー」という論文も書いてします。

Mさんは「バリ島のごみ教育」の研究を諦めたのではありません。<ごみ問題>を通して、バリ島の人たちの生活や文化の意味に気づき、私たち日本人の文化や(古くからの)教育のあり方に関心をもったのです。いくら正しいことであっても、「正しい」と教えるだけでは人は変わりません。なぜ「ごみ」が問題となるのか、なぜその問題に気づかないのか、なぜ問題を解決しようとしないのか、こうした問いかけに対してていねいに答えを探す取り組みが必要なのではないでしょうか。もちろん、教える側も学ぶ側も一緒に考えながら…。

 開発教育の場では、「参加型開発」と呼ばれる手法が取り入れられています。いくら進んだ知識や技術を伝えようとしても、それがほんとうに「使える」ものなのかどうかは、実践する当事者が主体的に問題をとらえられるかどうかにかかっています。

 <ごみ問題>は確かに、私たちの暮らしの中で大きな環境問題の一つであり、だれもが考え、実践しなければならないものです(ごみを出さずに生きていける人はいないのですから…)。しかし、<ごみ問題>には身近な生活ごみから資源ごみや粗大ごみのリサイクル、産業廃棄物や原子力発電所の放射性廃棄物にいたるまで、極めて大きな広がりがあります。みんなで考え、試行錯誤しながら、答えを探していく過程が大切なのではないでしょうか。

 「ごみ教育」は身近な問題でありながら、私たちの文明や文化、社会のあり方を問う深さと広がりをもちます。だからこそ、「正しい」ことを正しいと伝えるだけでなく、その答えにいつも疑問をもち、考え続ける教育としたいものだと考えています。


[1]国際自然保護連合(IUPN)の名称が1956年に現在の国際自然及び天然資源保護連合(IUCN)に変更された経緯は、地球環境問題を理解するうえで「保護(preservation)」から「保全(conservation)」へという流れを象徴するものとして重要である。自然を保護する対象としてのみでなく、保全(利用と管理)すべきものとして理解されるようになってきた。

[2]ストックホルム会議が開催された1970年代は「環境革命」の時代とも呼ばれている。科学(生態学)的な保護・保全手法に留まらず、自然環境に大きな負荷をかけている社会や文明のあり方そのものを見直す必要があると意識されるようになった。

[3]ブルントラント委員会報告を一つの契機に、「環境的公正(environmental justice)」という概念が広く使われるようになった。これは私たちの行動や生活が同時代に生きるすべての人たちに大きな影響を与えているだけでなく、まだ生まれてきていない将来の世代にも大きな影響を与えること(世代間公正)を強く意識しようというものである。

[4]テサロニキ会議で採択されたテサロニキ宣言で「持続可能性という概念は、環境だけでなく、貧困、人口、健康、食糧の確保、民主主義、人権、平和をも包含するものであり、最終的には道徳的倫理的規範であり、そこには尊重すべき文化的多様性や伝統的知識が内在する」と定義され、「環境と持続可能性のための教育(Education for Sustainability)」という概念も使われるようになった。

[5]地球サミットの正式名称が「環境と開発に関する国連会議」であるのに対して、10年後に開かれたヨハネスブルグ・サミットの名称が「持続可能な開発に関する世界首脳会議」であることを重視する見方もある。環境問題を前面に開発の規制・抑制を求める先進工業国と、これから開発を進めようとする開発途上国の利害を「環境」概念に代えて「持続可能な開発」概念を使用することで調整したものであると考えられている

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12 書評 ESD研究の貴重な一石 ~ 鈴木敏正『持続可能な発展の教育』(東洋館出版社)

持続可能な開発のための教育(ESD)という概念について、教育関係者でも耳にしたことはあっても詳しくは知らない人が少なくない。ましてや来年が国連・持続可能な開発のための教育の一〇年の最終年度だといわれてもピンとこないであろう。

しかし、これからしばらくESDを冠した書籍や雑誌の特集がつぎつぎと発行されることはまちがいない。本書もこうしたESD論のひとつである。とはいえ、類書と本書とのちがいは、著者の立ち位置の独自性にある。農業経済学者として出発しながら教育学部に転身して社会教育学者として多くの後進を育て、日本社会教育学会(JSSACE)の会長を歴任すると同時に環境教育学会(JSEE)北海道支部長として二つの学会の連携を積極的に橋渡ししてきた。こうしたキャリアの著者でなければ書けないESD論が本書であるといえよう。社会教育学会と環境教育学会の連携は、それぞれ「社会教育としてのESD」プロジェクト研究(JSSACE)と「地域づくりとESD」プロジェクト研究(JSEE)という形で両学会の共同研究として進められてきた。

まず、本書のタイトルに注目したい。キー概念となるSustainable Developmentを「開発」と「発展」のいずれに翻訳すべきか、基本的にはESDを「持続可能な開発のための教育」と翻訳することが日本政府の公式見解となっているものの、文科省では独自に「持続発展教育」という訳語も併用している。とはいえ、著者の意図するものは、developmentが経済的な「開発」や社会・文化的な「発展」だけでなく、人間的な「発達」をも意味することを踏まえて、教育学的再検討をするためには「持続可能な発展のための教育」がふさわしいと考えているからである。

こうしたこだわりは、本書の構成にも色濃く反映している。本書は、第Ⅰ編「実践現場からの課題提起」、第Ⅱ編「生物多様性と持続可能性の間」、第Ⅲ編「持続可能な発展のための教育(ESD)の展望」の三部からなる。第Ⅰ編は環境活動・環境教育の現場の課題から出発し、「自然再生」「協働取組」に注目する。第Ⅱ編で「継続的経済成長」とは異なる「持続可能性」を「生物多様性」に繋げる視点から、環境教育的視点から見た地域教育実践前提の展開構造を示す。これらを踏まえて第Ⅲ編においてESDの中核的実践として「持続可能で包括的な地域づくり教育(ESIC)」を提起する。

著者はESDを教育学的視点から基礎づけることで、旧来の学校教育・社会教育・生涯学習などの枠組みを超え、より広い視野から全体的・総合的に学習と教育のあり方を捉えなおす「新しい教育学」を提起しようとしている。グローバリゼーションの時代が「ポスト・チェルノブイリの地球環境時代」であるとともに「格差と排除の時代」であることに注目しつつ、「ポスト・グローバリゼーション」が問われている時代状況のもとで「教育学はこの課題に、人間が人間自身に働きかける、いわば『人間の自己関係』としての教育実践の視点からアプローチする」ととらえるのである。その文脈の中で国連・21世紀教育国際委員会報告書(一九六六年、邦訳『学習:秘められた宝』)の「学習4本柱」に加えて「ともに世界をつくることを学ぶlearning to create our world」を提起しつつ「学習5本柱」として総合的発展が必要であるとする。

本書が著者の旺盛な執筆活動の集大成の一つであることから、その前提となる『持続可能で包容的な社会のために―3・11後社会の「地域をつくる学び」―』(北樹出版、二〇一二年)や『排除型社会と生涯学習』(北海道大学出版会、二〇一一年)、『持続可能な包摂型社会への生涯学習』(大月書店、二〇一一年)との併読をお勧めしたい。また、『環境教育と開発教育』(筑波書房、二〇一四年七月刊行予定)への展開も期待される。

朝岡幸彦(東京農工大学)

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10(平成25(2013)年度連合一般ゼミナール)

食育原論—ヒトはなぜ食べるのか、人はなぜ育つのか

講師名: ASAOKA, Yukihiko (Tokyo University of Agriculture and Technology)

1.             食育の力とは

 食育基本法が制定され、食育基本計画や食育白書が政府によって作られる中で、「食育」と名のついた実践が目につくようになった。この言葉が「食」を通して人を「育てる」ことを暗黙の前提にしながらも、「食べる」ことがなぜ「育てる」ことにつながるのか、どれだけ真剣に考えているのか疑わしいものも多い。

 この講義では、まず、「食べる」という行為の本質的な意味をとらえなおすところから始める。「食べる」ことがどれほど生物学的「ヒト」を社会的・文化的「人」らしくしてきたのか、市場化やグローバリゼーションのもとで「食べる」ことがいかに人を疎外しつつあるのかについて考える。そして、「食べる」ことが「(食べものを)つくる」ことにつながっているという当たり前の現実に目を向けることで、「食育」と「農育」という2つの概念をつなげて考えることの大切さが分かる。しかし、食べものとなる作物や家畜と同じように人を「育てる」ことはできない。人の成長・発達のために働きかけるという特別な意味は、「育てる」という言葉がもつ幅広いニュアンスとは別に「教育」という概念で説明されてきた。ここに、「食育」が生みだす力を「食育」「農育」「教育」という3つの概念でとらえる一つの根拠がある。

2.             「食べる」という行為の意味

 イエスと使徒たちは「最後の晩餐」で何を食べていたのだろうか。「最後の晩餐」といえばサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院(ミラノ)にある15世紀末にダ・ビンチによって描かれた壁画が有名である。だが、修復によって本来の姿を取り戻した絵のテーブルの上に、どのような食べ物が描かれているのかに注目する人は少ない。もちろん、定番の葡萄酒やパンはあるにちがいない。問題は、何がメインディッシュとして描かれているのかである。

 ダ・ビンチ以外にも時代を超えて「最後の晩餐」を描いた画家は多い。ダ・ビンチよりやや後のパッサーノが描いた「最後の晩餐」(1542年)の中央の大皿には「羊」の頭が描かれている。やはり、肉か。いやいや、話はそれほど単純ではない。ダ・ビンチよりはるか以前、もっとも古い「最後の晩餐」の一つと言われているラベンナのサンタポッリナーレ・ヌオーボ教会のモザイク画(6世紀)の中央には「魚」が描かれているのである。果たしてキリストは最後に「羊」を食べたのか、「魚」を食べたのか。この謎解きの鍵を握るのが、「中世にキリスト教によって食事に神聖な意味が与えられる」ようになったという事実であり、イエスと使徒たちの生い立ちである(宮下規久朗『食べる西洋美術史』2007年)。ことの真相はともかく、絵画に描かれる食べものには、その食べ方も含めて作者と時代の精神が表わされている。事実として何を食べていたかよりも、何を食べなければならないと考えていたか、を表現していると見た方がよいだろう。

 さて、そもそも私たちは「なぜ食べる」のだろうか。ヒト(生物)は食べなければ生きてゆけない(死んでしまう)。だれもが信じて疑わないこの「真理」に、少し厄介な事実が付け加わる。一つは、「生物(生命)とは何か」という問いかけである。福岡伸一さんは「生命とは動的平衡(dynamic equilibrium)にある流れである」と定義する(福岡伸一『生物と無生物のあいだ』2007年)。1930年代の後半にルドルフ・シェーンハイマーが行った重窒素をネズミの餌に加えた実験の結果によって、食べものが「身体のありとあらゆる部位に分散されていた」のである。つまり、私たち生物の身体はある一定の時間を経て(分子レベルで)食べたものと」すべて置き換わることが明らかになった。食べなければ「死ぬ」ということは、文字どおり身体を構成する物質が消滅する(千の風になってしまう)ことを意味する。ところが、サーチュイン遺伝子(Sirtuin)の活性化によって生物の寿命が延びることが明らかになったことで、「食べる」行為に黄色信号がともる。ヒトは栄養価のある食べものをたくさん食べることで体力をつけ、寿命を延ばしてきたと考えられているが、寿命延長効果を期待されるサーチュイン遺伝子は飢餓やカロリー制限によって活性化するのである。「たらふく食べてはならない」のである。なぜ現代人が糖尿病というある種の「ぜいたく病」に苦しまざるをえないのかは、人類(生物)が絶えず飢餓にさらされ続けてきたためにサーチュイン遺伝子のような「清貧」遺伝子を獲得してしまったためと説明することができる。確かにヒトは生きるために「食べる」が、「食べ過ぎ」とはいけないのであり、いつも少し腹を空かせていた方が長生きできるということになる。

 しかし、人(ひと)はパンのみにて生きるのではない。「アトムもカオナシも食べる」のである。アトムとは手塚治虫の名作「鉄腕アトム」の主人公である。小学校3〜4年生くらいのアトム少年は、家族とともに食事をしている。原作を知らない人にはふつうの光景だが、漫画やアニメに親しんだ世代には何とも不思議なものである。なにしろアトムはロボットなのだ。心臓の位置にある小型原子炉で動いて(生きて)いる。ネコ型ロボットの「ドラえもん」も野比家でのび太の家族と一緒に食事をし、大好物の(言わずとしれた)どら焼きを喜んで食べる。やはり心臓の位置に「原子ろ」があって、「何を食べても原子力エネルギーになる」と説明されている(藤子・F・不二雄『ドラえもん第11巻』1976年)。なぜロボットであるアトムやドラえもんは「食べる」のか。

 そのヒントを与えてくれるのが、映画『千と千尋の神隠し』に出てくる「カオナシ」である。カオナシはふだん何もしゃべらない(いや、しゃべれない)。おそらく自前の声帯を持たないからだ。しかしながら、そのカオナシが二度ほどしゃべるようになるシーンがある。最初は油屋の入口につながる渡橋の上でカエル男を飲み込んだとき、二度目はたらふく食べた後に千尋を追いかける途中で番頭の兄役を飲み込んだときに、それぞれカエル男と兄役の声で話すのである。どうすれば、そのように器用なことができるのか。カオナシ(Bicanalis imitatus)はカンブリア時代に爆発的な進化を遂げ、その後絶滅したと思われていた「二腔動物門Rhylum Ranavora」に属するため、「喉頭リンパ総管」を使って飲み込んだ生物の声帯をコピーできると考える研究者もいる(武村政春『ろくろ首の首はなぜ伸びるのか』2005年)。大切なのは、カオナシが(生物として)生きるために「食べる」ほかに、声帯をコピーするために「食べる」ことである。この第2の食べ方こそ、私たち人(ひと)とアトムやドラえもんに共通する食べ方なのではないか。つまり、人は社会の中で生きており、他者とコミュニケーションする方法としても「食べる」行為を位置づけているのである。

 ヒトがサルと分かれて人になるために、ヒトは何を食べてきたのかが重要なのだ。何をどのように「食べる」かによって頭蓋骨の形が変化するのである。ゴリラ(壮年期の雄)にはりっぱな頭冠がある。この隆起の両側にできるくぼみ(側頭窩)に大きな側頭筋が張り付いて下顎骨の筋突起まで伸びて下顎を強く引っ張り上げる。この側頭筋と咬筋が協力して、りっぱな下顎を使って大きな「噛む力」を生みだしている。アウストラロピテクス・ロブストス(ロブストス猿人)の棘状稜まで引き継がれる頭蓋骨頭頂部の突起は、食べものの変化とともに失われた。強力な「噛む力」を失った代わりに、大きな筋肉の圧迫から解き放たれたヒトの頭は大きな脳を手に入れたのだ。大きな脳は、まるで高性能エンジンのように大量のエネルギーを必要とする。基礎代謝量の総エネルギー消費に占める割合は、哺乳類一般の3~5%、霊長類の3~10%に対してヒト(成人)は20~25%に達する(W.R.レナード『美食が人類を進化させた』2003年)。つまり、大きな脳を維持するためにも、100g当たりの熱量で10~20kcalしかない葉っぱや50~100kcalの果実では間に合わず、200kcalの肉を食べざるをえなかったはずなのだ。これに180万年前のホモ・エレクトスの「火の使用」が調理技術の獲得につながって、私たちヒトは柔らかくで栄養価が高く、おいしい食事(美食)を手に入れることになった。

 動物性食物を食べること(肉食)が植物性食物のみを食べること(菜食・穀食または草食)に比べて有利な点は、エネルギー効率の問題だけではないらしい。三大栄養素のうち、炭水化物あるいは脂肪だけで生きていくことはできないが、タンパク質だけを食べて生きていくことはできる。ヒトが約1万年前に農耕を始めために「穀物を栽培してその種子を食べる営み」というある種の「草食化」が起こり、穀物由来のタンパク質とヒトを含む高等動物が必要とする必須アミノ酸の組成が大きく異なることで「過食」や動物系タンパク質を含む雑食でバランスをとらざるをえなくなったのだ(高橋廸雄『ヒトはおかしな肉食動物』2005年)。ただし、「貧民の肉」と呼ばれるジャガイモのタンパク質の組成がヒトの求めるものと極めて近いため、近代以降の著しい人口増加をもたらしたと言われている。

3.  グローバリゼーションのもとでの食と農

 食事の文化にはさまざまな宗教的・文化的なタブーがあるといわれる。タンザニアのある村には文化や部族の違いによって食物のタブーや調理法のタブー、食べ方のタブーなどさまざまな食事のタブーがあった(石毛直道『食事の文明論』1982年)。狩猟・採集民のハツァピ族では、クサムラカモシカなどの大動物の心臓、胸の一部、肩と首の部分、内臓の一部を「神の肉」として男にだけ食用が許され、女子どもにはタブーとされている。牧畜民のダトーガ族と半農半牧畜のイラク族は、魚を食べることがタブーである。また、ダトーガ族はウシの肉を食べるときに、仇敵のマサイ族が焼いて食べることを理由に、煮て食べなければならない。マサイ族でも、肉を煮て食べるのは女の料理法であるとして、男の料理である焼き肉は女から離れた屋外でつくられ、食べなければならない。スワヒリと呼ばれる農耕民のイスラム教徒は、畑を荒らすイボイノシシを殺しても、イスラム教が禁じるブタと見なして食べることをしない。ハツァピ族はヘビを食用にすることがあるが、スワヒリには嫌悪を感じさせる。

 グローバリゼーションのもとで食事のタブーが急速に失われつつある。グローバリゼーションの影響が最も現れやすいものは、ファストフードと飲料のようである(P.メンツェル、F.ダルージオ『地球の食卓』2006年)。ファストフードにはお馴染みのマックやKFCなどの世界的なチェーン店が登場するが、飲料ではコーラとコーヒーに注目すると面白い。世界24か国30家族のうち、食費が週4000円未満の5家族(エクアドル、マリ、チャド、ブータン)と週4000円以上1万円未満の7家族のうち3家族(エジプト、中国農村、モンゴル)以外のすべての家族がコーヒーを飲んでいる。コーヒー豆(西ヨーロッパ、アメリカ、生産国)とインスタントコーヒーを飲用する家族に分かれる傾向があり、インスタントコーヒーにはネスカフェのブランドが多い。また、コーラを飲む家族が食費の多さと比例しないように見えることも興味深い。週4000円未満のコーラを「飲めない」家族がいる一方で、週2万5000円以上のコーラを「飲まない」家族(アルコール以外の炭酸系飲料も飲まない)が存在するのである。

 世界には約3万数千店舗のマクドナルド・ハンバーガーの店がある。世界の人びとがハンバーガーを食べるようになる契機をつくったのが、マクドナルド兄弟(1948年)である(E・シュロッサー『ファストフードが世界を食いつくす』2001年)。彼らは紙皿と紙コップを使って「運転中に手で食べられる」ハンバーガーとチーズバーガーの2種類だけを売り、お客が店内の注文カウンターに並ぶセルフサービスの店を作った。工場の組み立てラインで働く工員のような調理人とカウンターで注文を受ける係がいれば事足りる。レイ・クロックはマクドナルドの名とスピーディーサービス・システムを使う権利を譲り受けて、フランチャイズシステムを導入した。その成功の鍵は「画一性(ひとつひとつの特別な事情を考えず、すべて同じにそろえること)」だった。見た目やメニューだけでなく、もちろん「食べものがまったく同じ味であること」が求められた。この成功によって、世界中でみんなが同じものを食べ始めたのである。

 ところで、ハンバーガーを食べ続けると、私たちの身体はどのようになってしまうのだろうか。映画『スーパーサイズ・ミー』(2004年)でM・スパーロック監督自らが4つのルールを課して30日間の実験に挑んだ。①マクドナルドのメニューしか食べてはいけない。②勧められたら必ず“スーパーサイズ”にする。③すべてのメニューを制覇する。④朝・昼・晩の3食欠かさず食べる。その結果、実験前と30日後のスパーロック監督の身体は、身長188cm→変わらず、体重84.3kg→95.3kg(11kg増加)、体脂肪率11%→18%(7%増加)、総コレステロール値168→233(65ポイント上昇)となった。この数字が何を意味するのかは、映画を見てほしい。ハンバーガーのバリューセットの飲み物をコーラからコーヒーに変えればカロリーを減らすことができる。牛肉の脂肪が気になるならば、フィオレフィッシュのような白身の魚を食べる。このコーヒーも白身魚も、グローバリゼーションの影響を大きく受けている食べものである。コーヒーの生産と流通が南北の格差をますます広げている(辻村英之『おいしいコーヒーの経済論』2009年)。ヨーロッパや日本に輸入されている白身魚(ナイルパーチ)がビクトリア湖の生態系に壊滅的な打撃を与えるだけでなく、タンザニアをはじめとする周辺諸国にエイズや武器輸入をともないながら貧富の拡大をもたらしている(F・ザウバー監督『ダーウィンの悪夢』2004年)。

4.             食育・農育から教育へ

 さまざまな食べものが国境を越えて入ってくる中で、牛乳は数少ない国産100%を維持していると言われる。だが、乳製品(バター、チーズ、ヨーグルトなど)やウシが食べる飼料用穀物の輸入が増えているため、輸入とは無関係ではない。そもそも「牛乳」と呼ばれるものは原材料に生乳を100%使い、無脂乳固形分8.0%以上、乳脂肪分3.0%以上のものを指しており、生乳割合が下がると「加工乳」「乳飲料」と表示される。この牛乳の原料となる生乳を生みだしているウシの多くが、「高性能なミルク生産工場」と呼ばれるホルスタインという乳牛である。年間乳量8000kgから2万kgという数字は、他のウシたちの3〜6倍にあたり頭抜けた生産能力を示している。

 ところで、そもそもウシはなぜ多くの乳を出すことができるのだろうか。ホルスタインの子ウシは約40kgで出産後、5日間ほど初乳を飲んで免疫性のタンパク質を受け取り、生後6集頃まで代用乳で育てられる。その後は人工乳と呼ばれる粉状またはペレット状の配合飼料を与えられ、次第にやわらかい乾草などを食べ出して約200kgの体重になった頃から育成牛として扱われる。生後14〜18ヵ月に体重350kg以上となって種付けされ、おおよそ280日の妊娠期間を経て27ヵ月頃に最初の分娩をする。乳量は分娩後次第に増加して2ヵ月ほどで最高に達し、1日30〜40kgになったあと次第に減少する。泌乳期間は分娩後約10ヵ月持続し、305日を1泌乳期間として乳量を計算する。乳牛の分娩間隔は約13ヵ月を目標とするため、分娩後2〜3ヵ月の間に交配し、泌乳の末期は妊娠後期に入って乳量が減少するため「乾乳」して母体の体力回復や胎児の育成を行う(伊藤宏『食べ物としての動物たち』2001年)。

 ウシの大きな体を支えているのは「反芻胃」である。口で咀嚼した食べものを反芻胃で部分消化したあと、再び口に戻して咀嚼することを繰り返しながら消化する食べ方である。反芻動物は本質的に草だけを食べていても成長し、草の繊維性物質を消化する能力をもっている。その鍵を握っているのがウシの四つの胃袋の一つルーメン(第一胃、瘤胃)であり、消化管の半分以上、胃全体の80%近くを占めて、容積は200L近く(バスタブ並み)もある。反芻胃は「発酵タンク」であり、反芻胃内での飼料成分の消化はすべて微生物によって行われる。ところが、エサとなる牧草が不足し、さらに搾乳量を多くするために穀物飼料を食べさせることになり、ルーメンの機能が低下して縮小する場合もある。

 日本の酪農は急速な規模拡大によって飼養頭数や1頭当り乳量では、すでに酪農先進国の水準に達している。酪農家1戸当りの飼養頭数が1962年の3.4頭から2009年には64.9頭にまで増加し、酪農家の数は20分の1に減少している。ウシに穀物飼料を多量に与えるため消化器系の病気や乳房炎が増加し、ウシの平均廃用牛次数が極端に短くなりつつある。その結果として酪農経営の生産費が粗収益を超過するなど、「生産すればするほど赤字が増える」という状況も生まれている。

 こうした規模拡大路線に抵抗してきた酪農のあり方が「マイペース酪農」である。マイペース酪農には5つの特徴がある。①政策などに振り回されずに自分の考えで農業を行う。②家族の条件や生き方にあった家族経営を行う。生活者としての視点を重視して、ゆとりのある生活を目指す。③余分なエネルギーを省いて簡素な農業を行う。規模拡大を追求せず、無駄な機械などを省いて経費を削減し、粗飼料(牧草)中心の酪農を目指す。④自然や風土にあった農業を行う。ウシの健康を第1に考えて乳量を適量(6000〜7000kg)に抑えて、ウシに無理をさせてはならない。⑤農場内で物質循環が行われ、外に流失しない農業を行う。

 ウシという生きものから私たちはさまざまな恩恵を受けている。しかし、私たちはウシがなぜこれほどまでに大きくなれるのか、なぜ多くの牛乳を生みだすのか、などの基本的な生態をほとんど知らないだけでなく、ウシを飼っている酪農家の経営や暮らしを想像することすらできないのではないか。家畜を飼い、作物を育てる農家の生産の場と「食べもの」として受取る消費者の距離を縮める試みが世界各地で行われている。

 南フランス・バルジャック村は子どもたちの未来を守るため「学校給食と高齢者の宅配給食をオーガニックにする」という試みに挑戦している。映画『未来の食卓』(2008年)を制作したジャン=ボール・ジョー監督は次のような想いを語る。「環境問題を考えたとき世界を変えていくには、子供たちと母親、そして未来の母親である女性の存在が大きいと思います。この作品を作るにあたって私は最後に希望を必ず残したかったのです。今すぐに行動すれば希望は失われないという希望です。ドストエフスキーはこういいました“美こそ世界を救う”と。この作品は自然の美しさへのオマージュです。そして自然の美しさを守る事こそが子供たちの未来を守る事だと私は信じているのです。」

 バルジャック村の挑戦は、地産地消や有機栽培の奨励に留まらない教育効果をもつ。子どもたちが学校や家庭で何をどのように食べているのかにもっと注意が払われてよい。何をおいしく感じるのか、それが生涯にわたる自分と家族の健康を保障するものであるために何が必要なのかを学ぶ必要があるからである。

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9 <3・11>と向き合う教育実践への模索〜

 教育は東日本大震災から何を学ぶのか

<草稿>

<3・11>とは何か

 二〇一一年三月一一日に三陸沖を震源として発生したマグニチュード九・〇の巨大地震によって引き起こされた地震・津波、および福島第一原発事故の複合大災害を、政府は「東日本大震災」と命名した。私たちが、いま<3・11>と呼ぶものが、この災害が引き起こした多くの生命・財産の喪失とそれに向き合う私たち日本人の姿勢を問うものであることは明らかであろう。

 <3・11>と教育との関係を考えるうえで、少なくとも三つの問いに向き合わなければならない。(1)なぜ東日本大震災によってあれほど多くの犠牲者と被害が生まれたのか。(2)私たちは東日本大震災によって失われたものとどのように向き合うべきなのか。(3)どのように東日本大震災とこれから起こりうる大規模災害を次の世代に伝えていくのか。こうした課題に応えようとする教育実践を「<3・11>と向き合う教育実践」ととらえたい。多くの学会や教育関連研究組織が「向き合う」努力を進める中で、震災によって引き起こされた原発事故に大きな衝撃を受けた組織の一つが日本環境教育学会であった。また、民主教育研究所は継続的に問題を取り上げ、「3・11後の教育と民研研究の課題」と題する総括フォーラム(二〇一三年三月)を開催した。


「放射能いじめ」への環境教育学会の対応

 東日本大震災とその後の福島第一原発事故による甚大な被害を前にして、環境教育に関わる研究者・教師・実践家を会員とする日本環境教育学会が何をなすべきかが真剣に模索されていた。こうした状況のもとで、福島県飯舘村から避難した子どもたちが避難先の学校で「いじめ」を受けている、との連絡があったのである。「いじめ」の根拠が放射能・放射線に関する誤解や偏見である以上、これを正す責任を学会として担うべきだとの判断がなされた。

 さっそく『福島第一原発事故によって避難した子どもたちを受け入れている学校・地域のみなさんへ〜日本環境教育学会からのお願い(会長緊急声明)〜』(二〇一一年五月二〇日)を公表し、「福島第一原発事故によって避難した子どもや一般の住民の方々によって、放射能汚染が広がる危険性がほとんど皆無であることは明らかです。ふるさとを追われ、親族や隣人、知人と離れ離れで避難生活を続ける子どもや住民の『悲しみ』をぜひとも『分かち合って』ください。原発事故や放射能汚染に由来する非科学的で不合理な差別や偏見によって、避難している子どもや住民が傷つけられることのないように切にお願いします」と訴えた。また、「学会として学校や地域で原発事故に関して学べる教材や条件をつくろうとしています」とも約束した。この会長緊急声明を受けて発足したのが、日本環境教育学会「原発事故のはなし」授業案作成ワーキンググループである。


「原発事故のはなし」授業案の作成

 学会として授業案を作成して公表することは初めてのことであった。授業案を作成するにあたってワーキンググループで合意したことは、つぎの三点である。(1)福島県や東北地方から避難してきている子どもたちの「痛み」や「苦しみ」を避難先の子どもたちが想像し、「いじめ」を許さない契機となること。(2)低レベルの放射能は「染らない」という明らかな事実を前提とすること。(3)年度途中でも学校で使いやすいように1時間の授業案とすること。いわば、原発事故に関する科学的な評価や教授法としての工夫が必要な放射線教育及びエネルギー環境教育(原発を含む)に関する授業案の作成を今後の検討課題として保留しながら、目の前にある「いじめ」の問題に関する授業案づくりを最優先することを決めたのである。その結果として作成されたのが、『原発事故のはなし』授業案(二〇一一年七月一七日版/道徳・ロングホームルーム編)である。この授業案に多くの限界や制約があることは明らかである。とはいえ、放射能汚染を理由とした「いじめ」の事実に向き合い、一刻も早く何らかの問題提起を学校教育現場にする必要性を重視したものである。

<写真1「原発事故のはなし」1〜3>

 『原発事故のはなし』授業案には、小学校(高学年)「道徳」指導案のほかに、中学校「道徳」指導案、高校「ロングホームルーム」指導案も収録されている。いまさらいうまでもなく、福島第一原発事故を契機とした環境教育に関わる授業案づくりが、この道徳・ロングホームルーム編で完結したことにはならない。放射線教育及びエネルギー環境教育(原発を含む)の領域にさらに踏み込んだ授業案づくりが、学会ワーキンググループを中心に引き続き進められている。「放射能いじめ」とも呼べる状況に対する緊急対応として作成された授業案ではあるが、この授業案の改訂を一つの拠り所として理科・社会科・家庭科・総合的な学習の時間など、さらに多くの教科と関連づけながら「3・11以降の教育」の一つのモデルとして体系化されなければならない。

 その後も『原発事故のはなし2』授業案(二〇一二年三月版/総合的な学習の時間・家庭科・社会科・理科編)と『原発事故のはなし3』授業案(二〇一三年三月版/ワークショップ編/地球環境基金助成)を公表し続けている。また、研究大会時に特別分科会「原発と環境教育」を開催し、こうした共同研究の成果をもとに学会年報「日本の環境教育」第1集『東日本大震災後の環境教育』(東洋館出版社/二〇一三年三月)を刊行した。


「東日本大震災後の環境教育」の模索

 『東日本大震災後の環境教育』には、十四章の論文と「原発事故のはなし」1及び2に掲載された指導案が収録されている。序章「東日本大震災後の環境教育の視点」(朝岡幸彦・石山雄貴)でグローバリゼーションを批判的に見直す「人間の復興」の視点が提起され、第1部「東日本大震災から何が見えるのか」で「設計者が語る福島第一原発事故」(渡辺敦雄)、「被災地における救援と復興支援」(降旗信一ほか)、「分断のはじまりー福島がフクシマに変わっていく過程で見えてきたこと」(佐藤聡)が語られる。

 第2部「巨大地震と津波被災から何を学ぶのか」と第3部「原発事故から何を学ぶのか」に収録された八本の投稿論文の中には<3・11>に向き合う教育実践として、具体的な提案を含むものがある。「『いのちを守る』ための防災教育・防災訓練のあり方」(木村玲欧・永田俊光)では、埼玉県教育委員会と気象庁熊谷地方気象台が協力して進めてきた防災教育・防災訓練の実践をもとに、「緊急地震速報による対応・避難訓練の単元構成と指導案」が提案されている。「ダンボールのリユースによる子どもたちの心の復興」(近藤祐一郎)では、地域住民二〇〇〇人の避難所となった仙台市立七郷小学校で東北工業大学が協力した支援物資を入れたダンボール箱を利用する復興絵馬づくりをもとに、「地震、津波、原発という三重苦からの絶望感のなかで、子どもたちには未来への希望を失わないで欲しいという思いから生まれた試行的教育」としての復興教育の実践が報告されている。

 原発事故に関連するものとして、「判断力・批判力を育む環境教育の必要性」(後藤忍)は原発事故の教訓として「偏重した教育や広報により国民の公正な判断力を低下させるような、いわば“減思力”を防ぐ」メディア・リテラシー教育プログラムを提案した。「『原発の是非』判断用教材の提案」(楠美順理)も、一〇の論点に即した判断用簡易表と利用法を提起している。

 また、実際の授業実践として、「ホットスポットで実施した放射線教育」(河村幸子)が柏市立酒井根小学校での実践を紹介しているほか、「原発事故のはなし」を応用した実践を「放射能汚染に対して公正・公平な態度を育てるー小学校高学年・道徳」(小玉敏也)と「友達と助け合う態度を育てるー小学校中学年・道徳」(石井信子)が報告している。


子どもたちへのメッセージ「原発事故から学ぶこと」

 環境教育学会『原発事故のはなし2』の冒頭には、授業案作成ワーキンググループとして「原発事故から学ぶこと」と題する子どもたちへのメッセージが掲載されている。

 まず、「みんなに知ってほしいこと」として、「原発事故で、福島県の多くの地域が放射能に汚染されてしまったこと」「事故で出された放射能は、世界各地にも広がっていること」「福島県を中心に、たくさんの子どもを含めた住民が避難しなくてはならなかったこと、そしてまだ帰れるめどがたっていないこと」「原発事故から、食べ物が放射能に汚染されていないか不安に見られ、特に東日本の農作物が売れなくなっていること」をあげた。

 さらに、「いっしょに考えてほしいこと」として、「原発事故の対応をどう引き継いでいくのがいいのか」「除染した放射性廃棄物をどこで補完していくのがいいのか」「エネルギーをどうしていくのがいいのか」と呼びかける。

 最後に、「学びの視点」として、「大きいエネルギーと小さいエネルギー」「誰かが恩恵を受け、誰かが負担を受け止める」「豊かさとは、幸せとは、希望とは」と提起している。


失われたものと向き合う雄勝小学校の実践

 環境教育の枠組みでは「向き合う」ことのむずかしい教育実践がある。石巻市立雄勝小学校における徳水博志先生の実践を継続的に調査・研究している民主教育研究所教育課程研究委員会の梅原利夫氏が、第二一回全国教育研究交流集会で次のように整理した。徳水先生は入院・加療しながら実践しており、被災者の一人として被災体験を無にしたくないという思いで実践を続けている。まさに「命をかけて実践している」(梅原)と理解できる。二〇一二年は特別学級と五〜六年生の総合的な学習の時間で実践を行った。被災時には三年生の最後であり、新たに五年生になった子どもたちを担当している。一クラス三五〜三六名のクラスが三分の一ほどに減っている。

 学校は一五キロ離れた中学校に間借りしているという状態で、教室を半分に段ボールで間仕切りをして使っている。一年半たって、子どもの中に震災のストレスが表面に出てきていた。1学期は、この子どもたちをどうやって学習に向かわせるか苦労した。早く復興させるためには学力に引き戻す実践が必要だと言われたり、3・11の記憶から遠のかせることが必要だと言われるが、徳水先生はそうは考えない。

 2学期に最初にやったのは、国語での震災体験作文の実践であった。国語の授業で、「当日だれといたのか」「どのような思いをしたのか」慎重な配慮をしながら子どもたちに書かせる。徳水先生にとって大きかったのは、宮城の精神科医・桑山医師に出会ったことである。閖上地域で震災体験に向き合わせる実践に感銘を受けて、定期的に桑山医師と話し合いながら実践を進めている。一〇月二〇日に学習発表会で朗読劇を発表した。つぶやきや作文は子どもたちが書いたものを徳水先生が再整理して台本化した。発表会で初めて親が子どもたちの思いを聞き取る。徳水先生の実践の特徴は、子どもの実践を必ず親にフィードバックしながら慎重に進めている。

 また、総合的な学習の時間の実践でホタテの養殖体験を行った。水産業の復興を6次産業ととらえて漁民自ら、生産・加工・販売を担っている。子どもたちにホタテの耳釣り漁法を体験させる。木版画でホタテ養殖と自画像に取り組んでいる。震災前のまちの様子をジオラマで再現することにも取り組んだ。忘れるのではなく、記憶にとどめる、向かい合うことの大切さを意識している。木版画で子どもたちの共同作品をつくり、物語・絵本として作成することに取り組んでいる。基礎的な力をつけると同時に、一年半たってようやく被災体験に向き合わせるようにしてきた。

 こうした徳水先生の実践に関する説明の後に、梅原氏は三つの視点から実践を評価している。(1)この実践では学習課題を教師(徳水先生)が編成し直していること。(2)子どもの動的な変化の過程をしっかり捉えて、個人と学級の成長につなげていること。(3)周囲からの懸念や批判に応えて、医師や学校と相談しながら慎重に進めていること。


徳水実践をどのように受け止めるのか

 「震災にあった子どもたちとどう向き合うか」という問いに、徳水先生の実践は多くの示唆を与えている。「雄勝小学校震災二年目二〇一二年度の実践」を授業で知った横浜国立大学の学生たちから「徳水先生の勇気を評価しながらも、だれでもいつでもできる実践ではないと感じた」「親を失った子どもがいない、医師の支援を得られるなどの条件があるからこそできた」という感想があったことも紹介されている(金馬報告)。徳水実践について梅原氏は次のように補足説明をした。「一様に子どもたちが恐怖体験をしているという事実がある。大川小学校の二の前になる可能性が十分にあった。最初は体育館に逃げようと決めたが、ワックスをかけたばかりなので、急遽、裏山に逃げた。三日間取り残された。『もしかしたら自分も死んでいたのではないか』という意識がある。こうした条件と同時に、徳水先生がいまこそ向き合うことによってトラウマを自分を見つめ直すことが、この子たちにとっていま必要だと考えたと思われる。」

 雄勝小学校の児童たちは他の津波被災地の学校と同様に、生命の危険に直面しながら「生き残った」という体験をしており、たまたま肉親を失わずに済んだという幸運にめぐまれたものの、学校や生まれ育った地域(一部の子どもは自宅も)、それまでの暮らしの基盤を失っているのである。その意味では、子どもたちにとって震災によって失ったものとどう向き合うのかが大きな課題であったことは明らかである。だからこそ、「他の先生と協力しながら授業をやるという発想」(梅原)をもち、桑山医師の助言や支援を受けながら慎重に実践したのだと思われる。したがって、もし「家族を失った子ども」がいても、条件が揃っていなくとも、徳水先生はこの実践をしたのではないかと思われるのである。


教師と研究者の責任について

 あの日、あの時から日本の教育は何を学ぶのか。復興・復旧とは次元の異なる放射能汚染という長い期間にわたる闘いが求められている状況に対して、次の世代とともに問題の解決を真摯に模索する姿勢が、教師や研究者に求められている。環境教育を実践・研究する者の多くが原発の「安全性」に疑問を持ち、自然再生エネルギーへの転換を「自明」としていたために、あえて取り上げてこなかったテーマであった可能性がある。しかし、日本を代表する環境教育の学会が、原発問題を正面から議論してこなかった責任は大きい。いまようやく学会として「沈黙の責任」を自覚して、将来世代とともに「3・11以降の教育」のあり方を模索しようとしている。

 他方で、空前の大規模自然災害に直面した教師たちにも「痛恨の思い」があるにちがいない。一部の学校で教師は自らの生命を犠牲にしてもなお、多くの子どもたちの生命を守ることができなかったという事実である。この事実の重みや痛みを被災せずにすんだ教師は、どこまで「分かち合う」ことができるのであろうか。いまこそ、<3・11>と向き合う教育実践の模索を通して、被災地の経験をすべての教師の問題として「分かち合い」たい。

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書評:傘木宏夫『仕事おこし ワークショップ』(自治体研究社) 

 本を読んでいて、むしょうに著者に会いたくなることがある。この本もそうした本の一つだろう。

 会ってどうするのか。ふつうは書かれていること、もしくは書かれていないことの意味をご本人に問うのであろうが、この本は著者がファシリテーションするワークショップに参加したいと思うのである。

 最近はいろいろなところでワークショップという方法が使われているが、手っ取り早くこれが何かを知りたければ第2部「仕事おこしのワークショップの手引き」からお読みいただきたい。第1章「ワークショップ」のわずか20ページほどで、考え方やルール、流れなどが手際よくまとめられている。ちなみに著者はワークショップを「何らかの作業が伴う意見交換や会議の方法」と定義する。このワークショップの舞台まわしを担当するのがファシリテーターであり、詳しくは続く第2章「ファシリテーター」をお読みいただきたい。とにかくやってみたいのなら第3章「仕事おこしワークショップのプログラム」を順番に読みながら真似ればよい。実によく気の利いたワークショップの入門書である。

 しかし、この本の眼目はワークショップの前に「仕事おこし」という限定がついているところである。これを限定と見るか可能性と見るかは議論の余地もあろうが、「市民が自発的に、地域や社会が抱える課題を解決するための行動を、自分たちの仕事としていく」ための「実行計画を、仲間たちの対話と作業をつうじて構築していく試み」と言い換えられると、俄然、その重要性が明らかになる。現在(いま)を生きる私たちにとって、もっとも切実な課題をもっとも魅力的な方法で解決しようとする「仕事おこしワークショップ」を解説する類書はない。この本の意義は、まさにこの点にある。

 このセンスの良さは、第1部「市民からの仕事おこし」で本領を発揮する。第1章の非営利事業の説明はわかりやすく、著者がどのような社会を目指すのかが滲み出ている。ふるさとの首長選挙に立候補して、残った寄付金を元手に「NPO地域づくり工房」を立ち上げて「仕事おこしワークショップ」を始めたというところが面白い。筆者が見事に首長に当選したかどうかはどうでもよい。これを契機に住民が「地域の課題に対する学び」を意識し、ミニ水力発電やら菜の花プロジェクトやらエコツーリズムやら「地域社会のために働くことで『小金がまわる』ようにすること」を考え始めたことである。

 日本中で「仕事おこしワークショップ」が行われるようになれば、私たちはもっと地域で幸せに生きられるにちがいない。

朝岡幸彦(東京農工大学)

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「社会教育」 adult and community education

社会教育は戦後日本社会という時代状況のもとで発展した独自な概念である。教育基本法(1947年制定/2006年改正)の制定を受けて、1949年に制定された社会教育法は30回以上の改正によって時代状況や政策動向を敏感に反映してきた法律である。こうした特徴をもつ中で、「学校教育法に基づき、学校の教育課程として行なわれる教育活動を除き、主として青少年及び成人に対して行われる組織的な教育活動(体育及びレクリエーションの活動を含む。)をいう」という「社会教育」の定義(第2条)に変更はない。

他方で、ユネスコ等の国際機関の影響を受けながらも、社会教育の現場から社会教育の理念や制度のあり方について多くの実践的な提起がなされてきた。その代表的なものとして、社会教育のあり方を具体化した「枚方テーゼ」、公民館主事の役割を述べた「下伊那テーゼ」、都市型公民館の役割と原則を明示した「三多摩テーゼ」などの文章がある。

社会教育法と制度の特徴

この社会教育法を中心として、図書館法(1950年)、博物館法(1951年)、スポーツ振興法(1961年)などの社会教育関連法制が整備されている。とりわけ、社会教育法には、総則の他に、社会教育専門職員制度(社会教育主事)、社会教育関係団体、社会教育委員、公民館、学校施設の利用、通信教育など、日本の社会教育制度を担保する重要な規定が多い。この社会教育制度には、特筆すべきいくつかの特徴がある。(1)社会教育に関する国及び地方公共団体の任務を明らかにした法律であること。多様な形で自由になされるべき国民の社会教育活動を行政が規制することなく、環境を醸成することを行政の主な役割とした法律のあり方は、戦後日本の教育法の典型をなすものである。こうした考え方は、とくに社会教育関係団体と教育委員会の関係、一般行政機関との関係に関する規定に明示されている。(2)専門職員と専門委員制度をもつこと。学校の教員免許と同様に、社会教育主事養成課程を大学等に置いて社会教育専門職の資格を付与し、社会教育主事を各教育委員会に置くことが定められている。また、社会教育諸計画を立案し、諮問に答え、研究調査を行う社会教育委員を委嘱して、教育委員会に助言する社会教育委員の会議を置くことができる。(3)公民館という日本独自の教育機関をもつこと。地域学習センター(CLC)の役割が国際的に注目される中で、「公民館」の歴史と特徴には特筆すべきものがある。とりわけ、もっぱら市町村を設置者とする「市町村中心主義」や非営利・政治的・宗教的な中立を明示した運営方針、専門職員(主事)の配置、公民館運営審議会の設置など、日本の地域教育機関として大きな役割を果たしてきた。

生涯学習と市場化政策

臨時行政調査会(臨教審)第2次答申(1986年)において「生涯学習体系への移行」が明示されたことを一つの契機として、学校教育を含む教育体系の再編を「生涯学習」概念によってとらえようとする動きが定着した。しかしながら、生涯学習の振興のための施策の推進体制等の整備に関する法律(生涯学習振興法/1990年制定)に象徴されるように、その後のいわゆる生涯学習政策が社会教育・地域教育の市場化政策としての側面をもつことにも注目しなければならない。

とりわけ、地方自治法の改正(2003年)によって導入された指定管理者制度のもとで、社会教育施設のほぼ4分の12008年)が民間事業者等に管理を委託されており、行政改革と民営化政策が公的社会教育のあり方を大きく変えようとしている。

「東日本大震災」 the great east japan earthquake

2011年3月11日14時46分に、牡鹿半島の東南東130km付近の三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。地震の規模は観測史上国内最大規模であり、震源域も岩手県沖から茨城県沖(長さ約450km、幅約200km)と広域にわたるものであった。この地震により宮城県北部で震度7を観測したほか、宮城県南部から関東北部にかけて震度6強、岩手県及び福島県内陸部と関東南部で震度6弱の大きな揺れが観測された。

この海溝型地震によって、震源の直上において海底が水平方向に約24m移動し、垂直方向に約3m隆起したことから、大規模な津波が発生した。記録されている最大潮位は9.3m(福島県相馬市)に及び、上高は観測史上最大の40.5mに達した。

気象庁は、この地震を「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名したが、政府は東日本全域にわたる大規模な地震・津波・原発事故の複合大災害であることから「東日本大震災」と呼ぶこととした(2011年4月1日閣議了解)。

この地震及び津波による死者・行方不明者は12都道府県で1万8880人(2012年5月30日時点/2012年度防災白書)、全壊家屋が10都県で約13万棟、半壊家屋が13都道府県で約26万棟に及んだ。また、約2万4000haに及ぶ農地が流出・冠水して、がれき・ヘドロ等の堆積や塩水の侵入による被害を受けた。液状化による住宅被害も、9都県で約2万7000件が発生した。

さらに、岩手・宮城・福島の3県だけで1880万tに達する災害廃棄物(がれき)をめぐって政府は特別措置法を制定して国が処理できる制度をつくったものの、被災県外への持ち出しと処理に対する根強い反対があり、最終的に処理・処分された量は全体の15.5%に留まっていた(2012年5月21日時点)。

福島第一原子力発電所の事故

東日本大震災の発生により、東京電力福島第一原子力発電所で運転中の1号機から3号機までのすべてが自動停止したものの、続く津波の襲来によるタービンの浸水や外部送電施設の倒壊等で15時42分には全電源喪失の状態に至った。同日16時36分に1・2号機が非常用炉心冷却装置による注水不能の状態に、13日早朝には3号機も原子炉冷却機能喪失、1号機から4号機までの使用済燃料プールの冷却も困難となった。

その結果、12日午後に1号機、14日午前に3号機、15日朝に2号機と4号機で水素爆発と思われる爆発が発生した。この事故は発電所内施設の損傷に留まらず、大量の放射性物質が外部へと放出される事態へと進展した。原子力安全・保安院は最終的に、この事故を国際原子力・放射線事象評価尺度(INES)においてレベル7(広範囲な影響を伴う事故)であると国際原子力機関(IAEA)に通報している。同時に、福島第二原子力発電所においても、原子炉冷却材漏えい、原子炉除熱機能喪失、圧力抑制機能喪失などの事故(レベル3)が発生していた。

内閣総理大臣は、3月11日に東電及び保安院等からの通報をもとに原子力緊急事態宣言を発し、「平成23年(2011年)福島第一原子力発電所事故に係る原子力災害対策本部(後に福島第二原発を含む)」及び現地対策本部を設置し(原子力災害対策特別措置法の施行後初めて)、自衛隊の部隊等の派遣を要請した。その後、避難区域の設定や農産物等の出荷制限などの指示が出された。

4月22日に福島第一原発から半径20km圏内を「警戒区域」(約7万8000人居住)に指定し、緊急対応に従事する者以外の立ち入りを原則として禁止した。また、事故発生から年間積算線量が20mSvに達するおそれのある地域を「計画的避難区域」(約1万人居住)に指定し、概ね1ヶ月を目途に区域外に避難することを求めた。同時に原発から半径20kmから30km圏内の区域を「緊急避難準備区域」(約5万8500人居住)とした。その結果、福島第二原発から8km圏内の避難者を合わせて、福島県の避難者は約9万9000人(2011年5月30日現在)に達した。

福島第一原発事故による放射性物質の放出・拡散は避難区域以外の地域にも放射能汚染問題を引き起こし、福島県の一部地域はもとより、東北地方南部から関東地方にかけた東日本の広い範囲で高い放射線量が検出されている。

被災者・避難者への支援

地震・津波及び原発事故による避難者の総数は、被害の大きかった岩手県・宮城県・福島県の3県を中心に約47万人(2012年3月14日時点)に上った。その後、各県内の仮設住宅や公営住宅・民間住宅等の借上住宅で生活している人が約34万人、県外に避難している人も福島県から約6万2000人、宮城県から8400人、岩手県から約1600人いる。

震災直後から被災者・避難者への救援・復旧・支援に、多くの市民がボランティアとして駆けつけた。岩手・宮城・福島3県の災害ボランティアセンターを経由した人だけでも延べ100万人以上が参加しており、NPO・NGO等のルートで参加した人を含めるとさらに多くの市民がボランティア活動に加わったと思われる。

当初は、主として災害救援活動に従事するNPO・NGO等のボランティアが、被災者の救援や被災地の情報の把握に大きな役割を果たした。その後、次第にそれ以外のNPO・NGO等や一般市民のボランティア活動も広がり、避難所での炊き出しや泥の除去、片付けから仮設住宅等への引っ越し支援や買物の代行、生活環境の改善支援や見守り活動、交流の場づくりなどのコミュニティ支援へと多様化している。

東日本大震災後の環境教育

おそらく東日本大震災(2011年3月)とその後の福島第一原発事故は、日本の環境教育のあり方に大きな転換をもたらすに違いない。しかし、3.11以後の日本が直面している状況は特殊で一過性のものではなく、グローバリゼーションへと向かう世界が生みだす構造改革の大きな「軋み」として理解すべきものである。つまり、大災害が歴史を転換したのではなく、グローバリゼーションの歯車を前に進める役割を果たすのであり、この危機への向き合い方が転換をもたらす可能性をもつと理解すべきだと思われる。「復旧」「復興」「再稼働」などの「元に戻す」行為では、この危機は乗り越えられないものであり、ことここに至った原因と方法そのものを積極的に見直すことが求められている。もちろん、原発事故をめぐって、なぜこうした事故を引き起こしてしまったのか、これからどのようにすべきなのかという(広義の)「放射線教育」「エネルギー環境教育」は、これらの前提として必要であろう(日本環境教育学会は『原発事故のはなし』授業案作成した)。

(AA=2600字/2300字)

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説法のようで説法でない

 失礼ながらK先生のお話は「説法」のようである。まだご講義されているところを拝見したことはないが、何かにつけご相談に伺ったときのご返事がまるで説法のように思えるのだ。これは、先生のご実家が能登のお寺であるという先入観から、そのように思えるのかもしれない。説法は「ありがたい」お話である。しかし、いまひとつ「わかる」ような「わからない」ような、そのキワドさがありがた味を感じさせるものである。これは、K先生のお話が「わからない」と言っているのではない。私の相談にのってくださるときには、いろいろなことを配慮しながら慎重な言い回しをなさることが多い。

 能楽(農学ではない)に「張良」という演目がある。これは中国に古くから伝わる「張良の故事」から着想を得たものと言われている。さまざまなヴァージョンがあるが、後の大漢帝国の宰相となる張良が若い頃に高石公という老人から太公望の兵法の奥義を伝授されたというものである。筋は単純だが、結局、張良が会得した兵法の奥義が何かは誰にもわからない。

 この「わからない」ところが魅力で、むかしからさまざまな人がさまざまな答えを考えてきたらしい。正解がない、もしくは正解が無数にある問いかけが、学びの主体性を引き出す優れた問いであると考えられる。まさに、K先生のお話は相手の状況を深謀遠慮したうえでの「わかりにくさ」であり、相手に深く考えさせる問いである、だから「ありがたい」のであろう。これからも説法のようで説法でないお話を聞かせていただきたい。

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日本が今、求める環境教育<草稿>

(水山光春編『よくわかる環境教育』、ミネルヴァ書房、20137月)

 

1 「すべての人」のための環境教育

日本の環境教育には二つの「源流」と呼ばれるものがある。公害教育と自然保護教育である。ともに、私たち日本人が「豊かさ」を求めて開発と経済成長を優先させた結果として、公害や自然の破壊を引き起こしたことに関わる環境教育である。

とはいえ、21世紀に入って「国連・持続可能な開発のための教育(ESD)の10年」(20052014年)が提起される中で、開発門大を中心的な課題として位置づける日本の環境教育の重要性が再評価されつつある。例えば、水俣病をはじめとした公害問題には被害者である患者を地域から孤立化させ、住民が共同・協力する関係を分断する傾向があった。その後、被害者の救済から地域の再生と地域社会の再建という「地域づくり教育」へと発展した。これこそ持続可能な開発のための教育(ESD)が目指す「ビジョンをもった対話と参画を重んじる」教育を先取りするものであったと言える。

また、地球温暖化問題や生物多様性の問題が国際的に緊急な課題として位置づけられる中で、子どもや学校を中心とした環境教育だけでは不十分であることが明らかになってきた。地域社会、企業、政府が積極的に連携した環境教育が模索されており、生涯学習としての環境教育、「すべての人」のための環境教育が求められている。

 

2 自然や生活の体験を基礎とした教育

2010年版『子ども・若者白書』では、「キャンプをしたこと」や「海や川で泳いだこと」などの自然体験をほとんどしたことがない子ども・若者が以前と比べて増加していることが問題にされている。

もともと日本の環境教育政策には、子どもの体験活動を重視する傾向があった。学習指導要領の見直しによって体験学習の受け皿となっていた総合的な学習の時間は減らされたが、<生きる力>に結びつく学力には子どもたちの「豊かな」体験が欠かせない。ここで注目しなければならないのは、体験の範囲が狭い意味での自然と人との関わり<自然体験>を越えて、人と人、人と社会との関わり<生活体験>にも広がる可能性をもつものであるということである。

 

3 「つながり」を取り戻す教育へ

かつて日本人は、「キツネに騙される」と思い込んでいた。内山節は、1965年を境に日本人がキツネに騙されなくなったと述べている(2007年)。私たちは高度経済成長を経て経済的な「豊かさ」を手に入れたことで、自然とともにあるという「豊かな感性」を失ってしまったと見ることができる。これを「キツネに騙される力」と呼びたい。

内田樹は、人生最初の社会的体験が「消費主体」としての役割であることによって、子どもたちは教育の場においても等価交換を求め、学ぶことによって得られる利益を明示するように教師たちに要求する、と指摘している(2007年)。何らかの形で<教える><教わる>という関係がなければ教育過程は成り立たず、これを<売り手>と<買い手>の関係(市場的関係)に置き換えることは難しい。<教える><教わる>という関係を、近代化された<教師>と<生徒>の関係ではなく、<師匠>と<弟子>の関係に置き換えると、人と人との「つながり」が見えてくる。

こうして「つながり」を意識できる感性は、<教える><教わる>という関係を通して、人と人とのつながり、人と自然とのつながりを意識できるようになる。「キツネに騙される力」とは、自然の向こう側にいる過去や未来の人、遠く離れた人や社会に想いを馳せる力である。その意味では、自然を通して多様な人や社会から<教わる>自覚が必要であり、環境問題をひとつの切り口とした「持続可能な開発のための教育(ESD)」の主体となることが、すべての人に求められているのである。

また、東日本大震災によって多くの人びとがふるさとを破壊され、つながりを失っている。大きな自然災害(地震・津波・火山の噴火など)や原発事故を契機に、私たちは<つながり>という視点から自然や環境問題との向き合い方を見直すことが求められている。

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月刊社会教育(国土社) 10月号

〔特集〕自治体再生と社会教育

「ふるさと」を取り戻す社会教育の役割<草稿>

              朝岡 幸彦

 消える「ふるさと」

 かつての日本人には「ふるさと」があった。だれにも生まれ育った地域はあるが、これを「ふるさと」と呼ぶことができるのだろうか。いまから五〇年ほど前には多くの日本人は、お正月やお盆に帰省する「ふるさと」をもっていた。そこには祖先のお墓があり、親類縁者がおり、幼馴染みがいた。海や山、川、沼や湖、田園の風景とともに、こうした人との深いつながりのあるムラがあったのである。

 日本の農山漁村(ムラ)は、明治以降に大きく変わったばかりでなく、いまもその数を減らし続けている。とくに高度経済成長期を含む二〇年間(一九五〇年〜七〇年)には差し引き約二一七万人の人が町村から市部に移動した。

 「ムラ」と呼ばれる単位は、江戸時代から引き継がれた自然村である。一八八三年(明治一六年)には、全国に七万一四九七の町や村があった。これが、「教育、徴税、土木、救済、戸籍の事務処理」の効率化をはかるため(標準規模=三〇〇〜五〇〇戸)の明治の大合併(一八八八年)で、約五分の一にあたる一万五八五九市町村に統合されたのである。

 さらに、第二次大戦後に「新制中学校の設置管理、市町村消防や自治体警察の創設の事務、福祉、保健衛生関係の新しい事務」が市町村の事務とされた(地方自治法の施行=一九四七年)ことから、町村合併促進法(一九五三年)および新市町村建設促進法(一九五六年)によって、市町村(標準規模=八〇〇〇人以上)は三四七二市町村(一九六一年)に統合された(「昭和の大合併」)。その後も、地方分権推進一括法(二〇〇〇年)による「平成の大合併」が進められたことで、現在は一七二七市町村(二〇一一年四月)となっている。

 もはや行政上の自治の単位は「ムラ」よりもはるかに大きくなっており、それぞれの自治体のなかで地域の単位としてのムラをどのように位置づけるべきかが問われている。

 自治体の数が少なくなるということは、人びとが小さなムラからより大きなマチで暮らすようになったことを意味する(表1)。一九二〇年(大正九年)には約半数(四八・四パーセント)の市町村が五〇〇〇人未満のムラであった。一九七〇年(昭和四五年)にはわずかに一・四パーセント、二〇一〇年には〇・五パーセントにまで減っている。それとは対照的に、五〇万人以上の大都市に暮らす人びとが、現在はほぼ三分の一(三一・六パーセント)に達しているのである。

 失われる「つながり」と学びの場

 ムラからマチへの人の移動は、ムラの過疎化・高齢化を伴いながら地域の学校を確実に減らしてきた。かつて明治政府による学制(一八七二年)が定めた小学校(小学区)の数は五万三七六〇校であった。戦後の新学制の実施時に小学校の数は、ほぼ半分の二万五二三七校(一九四八年)になっている。その後、一九六〇年頃までわずかに増加するが、高度経済成長の始まりとともに減少し、一〇年後にはほぼ一割減っている。その後、二〇〇〇年頃まで微増減を繰り返しながら、この一〇年間でまたもや一割減少して二万二〇〇〇校となっているのである。地域の教育・学習の拠点であり、「地域の学校」として深く愛されてきた小学校は、ムラの減少とともに地域から遠く切り離されたものとなってきた。

 小学校と同じく、二〇〇〇年以降にほぼ一割減っているのが公民館である(表2)。一九九九年に一万九〇六三館あった公民館は、二〇〇八年に一万六五六六館(一三・一パーセント減)に減少し、いまも減り続けている。公民館と図書館は対照的である。公民館は一九五五年時点で小学校を上回る三万五三四三館が設置され、「昭和の大合併」によって五〇年代にほぼ半減したものの、六八年以降、九九年まで多少の増減を繰り返しながらもわずかずつ増加していた。「平成の大合併」は、再び公民館の数を減らす大きな要因になっている。他方で図書館は、一九五五年以降、現在(二〇〇八年)まで一貫して数を増やしているのである。

 ここから、公民館と図書館との社会教育施設としての性格のちがいだけでなく、小学校と公民館が減り続けることで、地域のなかで住民が直接に「つながる」学習の場が失われつつあるという事実に注目する必要がある。

 地域が市場に置き換わるとき

 地方自治法の改正(二〇〇三年)によって導入された、公の施設の管理・運営を営利企業を含む多様な法人に包括的に代行させることができる指定管理者制度は、社会教育施設の事実上の民営化に大きく道を拓くものであった(表3)。

 ほぼ社会教育施設の四分の一(二三・四パーセント)が指定管理者制度を導入しており、文化会館(五〇・二パーセント)や青少年施設、社会体育施設に比べて、公民館(八・二パーセント)や図書館(六・五パーセント)への導入割合は低い。しかしながら、図書館と公民館とでは営利企業が受託する割合に大きな開きがある。指定管理者制度を導入した施設のうち、営利企業(会社)が占める割合が公民館はもっとも低い(四・六パーセント)のに対して、図書館は半分以上(五二・七パーセント)を営利企業が受託している。

 大手の出版物取次会社が受け皿となり得る図書館と、多くが校区レベルのコミュニティに拠点を置く公民館とでは単純な比較はできない。とはいえ、公共部門に民間が参入する上での利益という意味で、図書購入という直接的なビジネスに結びつく図書館が、社会教育法第二三条で営利活動を厳しく規制されている公民館よりはるかに魅力的であることは確かであろう。社会教育施設のなかでも、市場化「されやすい」分野と「しにくい」分野とがあることは明らかである。

問題は、市場化しにくいという条件が必ずしも公民館を守らないということである。たとえば、利便性の高い場所に立地する公民館が看板を「生涯学習センター」や「文化会館」などに掛け替えるとともに、指定管理者の導入割合が二六倍に跳ね上がるのである。そうした利便性の少ない公民館は逆に、有料化による受益者負担の徹底や予算の大幅な削減、廃止の対象になることも覚悟せざるをえない。公民館の指定管理者の四分の三が「その他」であることの吟味が必要であろう。

指定管理者制度の法律上の目的とは別に、その本質が公共部門への市場原理の導入であることは疑う余地がない。社会教育施設が本来の目的である「地域の教育施設」としての役割を後退させて、「儲かる教育施設」になることが果たして市民の利益になることなのか、いま一度考える必要がある。

 よみがえる地域主義

 戦後社会教育の理念の根幹をなす概念の一つとして、地域主義の伝統を位置づけることができる。社会教育法は、憲法及び教育基本法の理念を前提として、教育の民主化・自主性・地方分権化という諸原則に基づいて制定されたものである。そのなかで地域主義の考え方をもっともよく著したものが、一九五二年に文部省が作成した『社会教育の手引き』の以下の文章であろう。

「ただ社会教育行政において特筆すべきことは、社会教育の行政の基礎単位を市町村に置いたことである。これは社会教育行政が、その対策とする住民にもっとも効果的な機能を発揮していくためにはなるべく小範囲の地域を基礎にして展開されるべきであって住民の意向に従って諸計画が立案され、実施されてはじめて社会教育の意義を有するからである。」

社会教育行政における「市町村中心主義」と呼ばれるこうした考え方は、社会教育法第二一条で「公民館は、市町村が設置する」と規定されることでより具体化されたのである。市町村中心主義という形で住民の自治と深く結びついていた「社会教育」概念が、その後の文部省の政策変更によって中心を市町村から都道府県へと次第に拡大し、ついには生涯学習振興法(一九九〇年)に象徴される「生涯学習」概念がもっぱら都道府県を施策の対象と位置づけることに、戦後社会教育行政における地域主義の変質をみる。こうした変質を社会教育行政における地域主義から市場主義への移行と特徴づけることができる。「平成の大合併」を経て道州制導入へとますます広域化する自治の枠組みのなかで、もはや地域主義としての社会教育の役割が終わったかのように思われている。

しかしながら、広域化した自治体には「地域(ムラ)」が不可欠である。新潟県上越市は一三市町村が合併(二〇〇五年)してできた自治体であり、そのうち九町村が「過疎地域」の指定を受けていた。こうした過疎地域には「限界集落」が含まれており、人口が最盛期の四分の一以下に減った集落が三分の二に達していた。こうした状況を背景に、合併した旧町村に一三区を、その後、合併前の旧上越市内にも一五区を置くことで、二八の地域自治区を設置している。各自治区には地域協議会(委員は準公選)が置かれ、市長や教育委員会からの諮問に答えるほか、新市建設計画の変更や施設の設置・廃止・管理のあり方、総合計画(区域内)に係る重要事項の変更については、市長が事前に意見を聞かなければならないとされている。

こうした地域自治区には、地方自治法(第二〇二条の四)による恒久的なもの(一九市町)と、合併特例法にもとづく期限を区切ったもの(二七市町村)とがある。長野県飯田市のように区自治振興センター(区事務所)に公民館が併設され、住民による学習と自治を直接結びつける可能性のあるところもある。

 「ふるさと」を取り戻す学び

 自治体再生の鍵は住民の主体的な参画にある。自治体における計画づくりに、住民の参画を求める自治体が増えている。そのなかで住民参画の内実をつくりあげることに成功した事例として、健康日本21所沢市計画、松本市地域福祉計画、飯舘村第五次総合振興計画、さらに社会教育・生涯学習計画づくりとして田辺市生涯学習推進計画や調布市社会教育計画がよく知られている。

 地域の基本単位としてのムラは、農山漁村にのみあるものではない。人びとがつながり、助け合いながら自己決定していく自治の単位がムラであり、その意味では都市部にこそムラが必要であるといえよう。上越市の限界集落の八割にムラのお祭りが残っている。祭りのつながりがムラの絆の強さであり、祭りの消滅はムラの消滅を意味する。もっと地域で暮らす人びとのつながりが楽しみとなる工夫があってよい。

 公民館をはじめとする社会教育施設では学び・活動することを通じて、住民はつながり合っている。人びとは学ぶことに楽しさを感じ、人とつながることに生きがいを感じているのではないだろうか。いま「ふるさと」を取り戻す学びが都市・農村を問わずに模索され、広がることを期待したい。

(あさおか・ゆきひこ=東京農工大学)

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学科ウェブページ用の原稿(20120826)
「祭り」は終わった!また来年会いましょう…。
地域生態システム実習I—N「祭りを支えるコミュニティ」
地域社会システム調査実習(第1報)+α

 なぜ、祭りなのか?
どんな限界集落でも「祭り」があれば生き残る。これは30年以上、国内の農山村をフィールドワークしてきた私(朝岡)の偽らざる心境である。平成の大合併で「過疎地域」を抱え込んだ自治体は多い。新潟県上越市も、そうした自治体の1つである。このまちの『高齢化が進んでいる集落における集落機能の実態等に関する現地調査結果報告書』(平成19年5月、上越市/53集落が対象)から、「集落に伝わる祭りや伝統芸能などの状況」として「集落の祭り(春祭り、秋祭りなど)」が79.2%で「さいの神」も47.2%の集落で残っていることがわかる。
進学や仕事の関係で転居せざるをえなくなった元村民も、祭りがあればお祝いに駆けつけ、いまもムラに住まう村民と旧交を温めることができる。祭りが新旧住民をつなぎ、かつての住民の拠り所になっているのは、過疎の村だけではない。本学キャンパスのある東京都府中市の旧市街地の中心には大国魂神社(111年創建)があり、これを守る氏子会は京王府中駅近辺の旧4ケ町によって支えられている。本町中組も、そうした町内会の1つであり、例大祭(5月3〜6日)には御霊宮の神輿を担ぐ。バブル期後の駅周辺再開発で高層ビルやマンションが林立し、住民が手薄となった町内会の祭役を、農工大の学生たちがお手伝いするようになって6年目を迎えた。
昨年の東日本大震災の影響で例大祭が(事実上)中止となったため、それまで「地域社会システム学実習」(2年生)として取り組んできたお祭りの手伝いを、今年から「地域生態システム調査実習I—N(祭りを支えるコミュニティ)」(1年生)として実施した。ゴールデンウィークの3日間を町内会のお手伝いに当てる「奇特な」1年生は少なかったが、2・3年生の助っ人が大いに力を発揮してくれた。「くらやみ祭」と呼ばれるこの祭りのクライマックスは、5日夜の「オイデ(神輿渡御)」と翌早朝の「オカエリ(神輿還御)」である。町内半纏と烏帽子で正装した学生たちは、1トンもの神輿を代わる代わる担いでくれた。神輿の「重さ」とともに、町内の人々の絆の「重さ」を感じてくれたにちがいない。
私の研究室は(たぶん陰で)「お祭り研究室」と呼ばれているのではないだろうか。(島嶼部を除くと)東京都内唯一の村が西多摩郡檜原村である。村の中心部からさらに車で40〜50分ほど奥に入ると小沢地区湯久保集落がある。絵に描いたような限界集落に見える湯久保の獅子舞(一人立三匹獅子舞)は、毎年、8月の最後の土曜日に行われる。いくつかの学位論文や卒業論文の調査に入らせていただいたことがご縁で、この集落の獅子舞の演目「宮参り」を毎年、私の研究室の男子学生たちが舞っている。女人禁制の伝統があるため、女子学生たちは獅子の周りで伴奏する「ささら」のお勤めを担う。獅子舞の練習はたいへんだが、(実は)浴衣で着飾り、重い花笠をかぶって立ちっぱなしの女子学生たちの方がはるかにしんどいにちがいない。
街場でも、農山村でも、祭りは人を幾重にもつないでいる。過去から現在、そして未来へ。かつて住んでいた人、いまも住み続ける人、縁あって関わる人も。時空を超えた祭りという「つながり」が、地域も人も元気にしているのではないでろうか。「神輿を担いだことのある学生」「獅子舞が舞える学生」「ササラが擦れる学生」などなど、もちろんこうした「つながり」に触れた学生たちも元気になってくれたにちがいない。
さて、今年から長野県飯田市で実習をはじめた「地域社会システム調査実習」(2年生)も祭りとは無縁でいられなかった。「街づくり班」は市街地の橋南まつりに出展して好評(信州毎日20120724)を得、上村地区(旧上村)に入った「村づくり班」は廃校となった旧上村中学校の活用計画の宿題を出されるとともに、重要無形文化財「霜月まつり」(12月)や地区運動会(10月)のお手伝いを期待されている。
いやはや何とも、地域でフィールドワークをするというのは、たいへんなことだ。「祭り」が終わった途端に、次の「祭り」のことを考えねばならない。こうした煩わしさを楽しさに変える術を、教員も学生も身につけたい。
くらやみ祭りについて
http://www.ookunitamajinja.or.jp/matsuri/kurayami.html
檜原村の獅子舞について
http://www.vill.hinohara.tokyo.jp/kyoiku/01_geinou.html#14
飯田市遠山郷の霜月祭りについて
http://www.city.iida.lg.jp/iidasypher/www/info/detail.jsp?id=3664
環境教育学研究室(朝岡)
https://sites.google.com/site/fuchudo/home
森林経営学研究室(土屋)
http://www.tuat.ac.jp/~region/contents/48.html
環境公法研究室(榎本)
http://enomoto.biz
くらやみ祭りの北島大祭実行委員長(中央)を囲んで(2009年)
湯久保の獅子舞(2012年8月25日)
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第30回開発教育全国研究集会実践&研究フォーラム(20120805)

課題別分科会「開発教育の過去・現在・未来

DEAR30周年を迎えて」

環境教育の歴史的変遷

朝岡幸彦(東京農工大学)

1. 東日本大震災後の環境教育

 おそらく東日本大震災(2011年)と福島第一原発事故は、日本の環境教育のあり方に大きな転換をもたらすに違いありません。しかし、「3.11以後の日本が直面している状況は特殊で一過性のものではなく、グローバリゼーションへと向かう世界が生みだす構造改革の大きな『軋み』として理解すべきもの」(朝岡「3.11以後のESD」/佐藤・阿部編著『ESD入門』筑波書房、2012年)です。つまり、「復旧」「復興」「再稼働」などの「元に戻す」行為では、この危機は乗り越えられないものであり、ことここに至った原因と方法そのものを積極的に見直すことが求められているのです。

 いま、環境教育の歴史や概念・方法等を見直さなければならないようです。1つは、環境教育が(暗黙の)前提としてきた「やさしい自然(折り合える自然)」という捉え方に「厳しい自然(抗いがたい自然)」という視点を付け加えることです。地震や津波、台風、火山の噴火などによる巨大な自然災害は、自然の生態系とともに、私たち人の生命や生活を危機に陥れます。また、放射能によって汚染された世界は、人間が作り出した最悪の災害であるといえます。2つ目は、環境教育を「統制的理念」(カント)の視点、「ローカルな知」やunlearnの概念によって見直すことです。自然や環境について学べば、人はおのずと問題を解決する主体と成りうるものであると考えてきたように思います。しかしながら、「学ぶ」ことによって失う世界があること、「無限に遠いものであろうと人がそれに近づこうと努める」(柄谷行人)ことが必要であることを視野に入れた教育観が求められています。

2. 「環境教育」は変化する

「環境教育(Environmental Education)」という概念が広く使われる契機となったものが、「環境教育は、個人、企業及び地域社会が環境を保護向上するような考え方を啓発し、責任ある行動をとるための基盤として必須のものである」(人間環境宣言第19項)と宣言した国連人間環境会議(ストックホルム会議/1972年)です。さらに、ユネスコ環境教育専門家ワークショップ(ベオグラード会議/1975年)において環境教育の目的(認識、知識、態度、技能、評価能力、参加)や環境教育の目標を「環境とそれに関連する諸問題に気づき、関心を持つとともに、現在の問題解決と新しい問題の未然防止に向けて、個人及び集団で活動するための知識、技能、態度、意欲、実行力を身につけた人々を世界中で育成すること」(ベオグラード憲章)が確認されます。

こうした環境教育の理解に、大きな影響を与えたものが「持続可能な開発(Sustainable Development)」(世界環境保全戦略/1980年)です。チェルノブイリ原発事故(1986年)を経て、「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たす開発」(ブルントラント委員会最終報告書)と定義される国際的な取り組みの緊急性が明らかとなりました。環境と開発に関する国連会議(地球サミット/1992年)では地球環境問題に関する国際的な取り組み(気候変動枠組条約、生物多様性条約など)が合意されるとともに、環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議/1997年)経て、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット/2002年)の「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development)」概念や国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD/2005年~2014年)へとつながります。

東日本大震災や福島第一原発事故(2011年)の後に、国連持続可能な開発会議(リオ+202012年)が開催されました。いま環境教育やESDに大きな転換が求められていることは明らかです。

3. Think locally, act globally(足下から考え、地球全体につなげて行動しよう)

グローバリゼーションの時代とは、国家や地域の多様性を超えて自由に動く情報や資本の流れであり、社会構造そのものをグローバル・スタンダード(ある意味でのアメリカ化)に変えるという発想をもっています。持続可能な開発のための教育(ESD)には、こうしたグローバリゼーションを乗り越えようとする意味が盛り込まれています。

Think globally, act locally(地球全体のことを考え、足下から行動しよう)」というよく知られた提起について考えてみましょう。「グローバルとローカルを対比させ、グローバルなるものは思考に、ローカルなるものは行動に役割を特化させることによって、多様性や独自性を持つローカルな思考など取るに足りないもの、あるいは初めから存在しないかのうように無視されてしまう」(前平泰志)。こうした批判は、共通化・画一化する世界や教育のあり方に対して、<ローカルな知>やunlearnの視点から見直す重要な提起となっています。

7.環境教育とは何か(草稿)
6.ESDと共生社会の教育(草稿)
5.ESD時代における社会教育の役割(草稿)
4.東日本大震災後のESD(草稿)
3.環境教育学の課題(草稿)
2.東日本大震災後の環境教育の視点
1.<ローカルな知>とunlearn概念に関する考察
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朝岡幸彦編『入門 新しい環境教育の実践』(阿部治・朝岡幸彦監修 持続可能な社会のための環境教育シリーズ 第6巻、2016年8月刊行)

第1章 環境教育とは何か~歴史・目的・概念・評価

第1節 環境教育と持続可能な開発のための教育(ESD) 【歴史】

「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 (ゴーギャン1897-98)

日本でいつ頃から「環境教育」という言葉が使われだしたのか。この問いに答えるためには、「環境教育」という概念の変化を見なければならない。それは、私たちが「環境教育」という言葉を耳にする前に、「公害教育」や「自然保護教育」「野外教育」などの用語を使ってきたからである。とりわけ公害教育は、1970年の公害国会と前後して主に都市部の学校教育の場で実践されており、社会教育でも沼津・三島・清水町石油化学コンビナート建設阻止運動や北九州市戸畑区三六婦人学級が工場煤塵の規制を求めた学習などいくつかの有名な実践がある。日本の環境教育の出発点は公害教育であり、それは「不幸な出発」であったとする見解(沼田眞など)をめぐって論争も行われている。

さらに、「環境教育」概念そのものが「持続可能な開発(Sustainable Development)」概念の影響を受けて大きく変化してきた。「持続可能な開発」という概念が国際的に注目される契機となったのは、1992年にリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議(地球サミット)である。この会議は地球環境と経済開発を調和させる「持続可能な開発」を具体化するために「環境と開発に関するリオデジャネイロ宣言」(リオ宣言) とその行動計画である「アジェンダ21」を採択し、その後の各国の環境政策や環境NGOの活動に大きな影響を与えた。リオ宣言の第10原則において環境問題に関する「国民の啓発と参加」を促進・奨励することが規定され、アジェンダ21ではさらに第36章「教育、意識啓発及び訓練の推進」で「環境開発教育」の必要性が強調されている。

「環境教育(Environmental Education)」は、1948年の国際自然保護連合(IUCN)の設立総会で提唱された概念である。その後、アメリカ環境教育法(1970年)の強い影響を受けながら1972年の国連人間環境会議(ストックホルム会議)で再び提起された「環境教育」は、75年の国際環境教育ワークショップ(ベオグラード会議)、77年の環境教育政府間会議(トビリシ会議)などを経て、97年の環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議)での「持続可能性に向けた教育(Education for Sustainability=EfS)」概念へと大きく変化してきている。こうした概念の変化が意味するものは、「持続可能性(Sustainability)という概念は環境だけでなく、貧困、人道、健康、食糧の確保、民主主義、人権、平和をも包含するもの」であり、「最終的には、持続可能性は道徳的・倫理的規範であり、そこには尊重すべき文化的多様性や伝統的知識が内在している」(テサロニキ宣言10)という広義の「環境教育」概念への拡張か図られてきたということである(表1−1)。

2002年に関かれた国連環境開発サミット(ヨハネスブルク・サミット) で提起された「持続可能な開発のための教育」(Education for Sustainable Development)という考え方が、環境問題に対する私たちの見方を少しずつ変えている。国連総会で採択された「国連持続可能な開発のための教育の10年」(DESD / 2005〜2014年)を受けて、日本政府は「我が国における『国連持続可能な開発のための教育の10年』実施計画」(関係省庁連絡会議、2006年)を策定した。また、NGO「持続可能な開発のための教育の10年」推進会議(ESD-J)が活動し、環境教育や開発教育、平和教育、人権教育など幅広い分野から多くの団体・個人が参加してきた。こうした流れの中で地球サミットから20年目にあたる2012年に国連持続可能な開発会議(リオ+20)が開催され、その成果文書として『我々が望む未来(The Future We Want)』が公表された。DESDの後継プログラムとして採択されたものが「持続可能な開発のための教育(ESD)に関するグローバル・アクション・プログラム(GAP)」(2014年)である(表1−2)。

そもそもヨハネスブルク・サミットの正式名称(WSSD)やリオ+20に「開発(Development)」という言葉はあっても、「環境(Environment)」という言葉が含まれてはいない。ここには日本を含む先進工業国と発展途上国との環境問題に対するとらえ方のちがいがあるばかりでなく、国際的には「持続可能な開発と貧困克服」の問題が緊急に取り組まれるべき全人類的な課題として認識されているという流れがある。こうした考え方を早くから提起してきた指標の一つとして、国連開発計画(UNDP)の「人間開発指標」がある。大切なことは、私たちがいま環境問題を考えるためには、開発や貧困、平和、人権などで社会的な公正を実現する視点を持たなければならないということである。

また、「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development / ESD)」は、教育の新たな領域をあらわすものではなく、既存の多様な教育実践からのアプローチが可能なものであると捉えられている(図1−3)。ESDはビジョン(未来指向性)をもった対話と参画を重んじる新しい教育のアプローチであり、組織・社会としての学びや状況的学習を重視するものであるとされている。また、その内容は地域の自然や社会・文化・歴史などの違いによって多様であり、地域の自己決定を重視すべきものであるともされる。

こうしたESDの特徴は、「グローバリゼーション」と呼ばれる時代状況と深く結びつきながら生まれたものである。その起源を15世紀の大航海時代に求めることもできるが、この概念が一般的に使われだしたのは1990年代以降である。多様な意味やニュアンスをもって語られるこの概念は、①1970年代以降の情報革命(とりわけ1990年代のインターネット化)による情報化、②1970年代前半の変動相場制への移行を根源とする経済の金融化、③1980年代後半以降の情報・金融・軍事を中心としたアメリカが主導するグローバル・スタンダードの実現、などによって生まれたと考えられる。その結果として、ソ連・東欧の社会主義国家体制の崩壊を契機に経済のグローバル化や市場主義イデオロギーが急速に広がったと見られている。グローバリゼーションはインターナショナル(国際化)やワールドワイド(世界化)とは異なり、国や地域・文化の多様性を超えて自由に動く情報や資本、モノやヒトの流れに焦点を合わせた捉え方である。さらに、それを支える思想としてのグローバリズムは市場的活動が共通化できるように、一国の社会構造そのものをグローバル・スタンダードに変えるべきだ(いわゆる構造改革)という発想をもっている。


第2節 環境教育は環境問題を解決できるのか 【目的】

1 おとなの「学び」としての環境教育の可能性

日本における環境教育実践の多くが学校教育に偏しているように思われる。環境教育の目的をどのように設定するかにかかわらず、環境教育が何らかの形で環境問題の改善・解決につながることを期待されていることを考えれば、環境教育研究がもっぱら学校教育の領域で議論されていることに「限界」を感じざるを得ない。

現代社会における諸問題の解決に教育がどのような役割をはたすべきなのかという視点に立つとき、「子ども」の教育学としての「発達(Development)の教育学」が人類・社会の問題の解決を次代に託す娩曲な方法であるのに対して、「おとな」の教育学として提唱される「主体形成(empowerment)の教育学」(鈴木敏正)は、課題の発見・解決を「当事者」である成人(市民)自身に求めるより直接的な方法であるといえる。日本では社会教育学(成人教育論)として蓄積されてきた「おとな」の教育学研究の到達点が、環境問題の解決・改善へと向かおうとする環境教育学にどこまで資することができるのか。さらに、そもそも教育は人類・社会が直面する諸問題の解決を目的とすべきなのかが考えられなければならない。


2 「大衆運動の教育的側面」としての教育の意味

 「枚方(ひらかた)テーゼ」と呼ばれる大阪府枚方市教育委員会の『社会教育をすべての市民に』(1963年)には、「社会教育とは何か」に応えて「社会教育は大衆運動の教育的側面である」との規定がある。社会教育と大衆運動との積極的なかかわりをこれほど明確に表現した文書はない(小川利夫・藤岡貞彦)。

 「枚方テーゼ」が発表された1960年代は、自治体の公民館職員集団が自らの実践を基礎に新しい公民館像・職員像を追求し、意欲的な実践が次々に生まれた時代である。共同学習運動の停滞をのりこえて青年の「生産学習」と「政治学習」を統一しようとした系統学習(生産大学・農民大学)、生活記録による婦人学級、集落を基盤に自治意識を育てる公民館(自治公民館、ろばた懇談会)、公害学習、社会同和教育の実践などである。これらの実践には共通して、地域課題・生活課題に向き合う実践の中心に公民館主事の活躍があった。

 地域課題が政治的な課題とも深く結びつくため、それに正面から取り組む社会教育職員に対する不当配転問題が頻発した。また、こうした実践と闘いを背景として、社会教育と公民館に関するいくつかの新たなテーゼがつくられた。①はじめて「社会教育とは何かを、具体的かつ大胆に規定した点で画期的な文書」と評価された「枚方テーゼ」(1963年)。②地域の中での公民館主事と公民館活動の積極性を、教育専門職と自治体労働者という視点に立って長野県飯田・下伊那地方の公民館主事集団がまとめた「下伊那テーゼ」(1965年)。③そして、都市型公民館の原形を示し、東京・三多摩各地の実践を三多摩社会教育懇談会が理論化した「公民館三階建論」(1965年)、のちの「三多摩テーゼ」(1974年)である。1960年代の高度経済成長を背景に深刻化する地域問題に取り組む多くの住民運動が生れ、これと向き合うように社会教育・公民館での学習実践がテーゼ化されてきたのである。

ひるがえって1990年代後半に登場した新しいタイプの環境運動にも、住民自身の学習が不可欠であった。日本で最初の住民投票を成功させた新潟県巻町の原発住民投票に至るまでの経過を振り返ると、住民投票をすすめる運動が多くの試練を経てきたことがわかる。こうした困難な運動を支えたのが、「巻原発住民投票は、原発の賛否だけでなく、町民の意思を示す住民自治の運動にまで発展している」、「住民投票では、単なる経済成長と浪費に頼った日本経済のあり方に対して、巻町の町民が最初に答えを出すことになる」という、地方自治や民主主義のあり方にかかわる「巻原発住民投票の意義」を多くの住民が自覚していたことである。しかしながら、住民投票やそれにつらなる住民の新しい環境運動において、公民館をはじめとした公的社会教育施設や職員との接点は極めて少ない。そこに「枚方テーゼ」で提起された「大衆運動の教育的側面」としての社会教育の役割が実践的に深められなかったという事実とともに、社会教育法第23条(公民館の運営方針)における政治的中立性の保持を楯に「不当配転」の圧力を受けてきた専門職員の苦悩の歴史を如実に示すものであるといえる。

こうして「枚方テーゼ」において「社会教育は大衆運動の教育的側面である」と提起されてから50年余を経て、いま改めて「大衆運動と教育」の関係について研究をすすめることが求められている。しかし、ここで社会変革における教育の役割について、より深い考察が必要となる。


3 教育は社会を変えられるのか

 1974年9月にパウロ・フレイレとイバン・イリイチは、世界教会協議会(World Council of Churches)に招かれて「意識化と非学校化への招待~対話は続く」と題するセミナーに参加した。フレイレは1970年に『自由への文化行動(Cultural Action for Freedom)』と『非抑圧者の教育学(Pedagogy of the Oppressed)』を刊行して世界に名を知られるようになり、イリイチも71年に『脱学校化社会(Deschooling Society)』を出版して大きな反響を呼んでいた。しかし、ふたりが提起した「意識化」や「脱学校化」という概念は「広まるにつれて歪められ、もともとの意味とは違った形で把握され、利用される」ようになった。こうした歪みを正すために、ふたりは出会わなければならなかったのである。

イリイチは社会変革に果たす教育の役割を、「もし教育が何かを変える、とすれば、それが変えたものを維持する場合にのみ、変える力をもつ」と断言する。社会の中で教育がもつことを許される変革の機能は、社会(あるいは権力)が求める変革に役立つ範囲内のことであり、社会が変わろうとするときにその変化を助長する限りでのものである。さらにイリイチは、教育が本質的に「『他人の中に学習が生産すべく』計画されている」ところにきわだった特質があるのであり、教育がなしうる「変容」は「変えたものの中でも正しい変容を維持する」ことであり、教育が「特定の学習価値の他律的な生産」として機能する限り、計画し変容する主体は社会にあると考える。フレイレもイリイチと同様に、教育を「現実を変革する挺子」と見なすことを批判する。このふたりの対話から考えなければならないことは、教育が社会(もしくは権力)によって生み出されたものであり、その本質的な機能は社会(もしくは権力)の維持にあるということである。フレイレが循環作用と呼んだ社会と教育の相互変容の過程では、一義的に社会が教育のありようを規定しているのであり、社会変革の挺子として教育が機能するのは「社会によって変えることを許されたものを維持する」という第二段階においてである。環境問題を改善・解決することを期待して環境教育実践を位置づけるときにも、これと同じ問題に直面せざるをえない。

「環境教育は環境問題を解決できるのか?」と問うたとき、環境教育学の主流となっている子どもを対象とした学校教育実践研究からは、本質的に環境問題を解決する環境教育の枠組みは出てこないであろう。そこにはそもそも教育学が社会変革を目的とすべきものなのかという原理的な問題を残しながらも、環境教育学が環境問題の解決に何ら役に立たないものと考える教育者や研究者はひとりもいないと思われるからである。環境教育への期待が強ければ強いほど、環境教育は環境問題を解決できるのか(教育は社会を変革できるのか)という問いはより切実なものとならざるをえない。

不定型教育(non-formal education)を基本とし、成人を主たる対象とする社会教育学には、社会問題と深く切り結ぶ教育実践の研究から社会変革に対する教育の役割を考えるいくつかの素材が蓄積されていた。「大衆運動と社会教育」に関する研究もそのひとつであり、「枚方テーゼ」で提起された「社会教育は大衆運動の教育的側面である」との規定をめぐる議論は、公的社会教育と呼ばれる自治体社会教育が住民運動(市民運動)とどのような関係を築くのかという形で、社会変革に対する教育の役割をするどく問うものであった。教育は社会が許容する範囲でしか社会を変ええないものであるとすれば、教育は社会を変革しようとする市民の運動にどう向き合うことができるのか。「政治的介入を拒否した積極中立の立場での市民の自主的学習組織を無条件に援助し、条件整備する」(サポート・バット・ノー・コントロール)という原則に、ひとつの答えを見いだすことができる。

また、環境教育が環境問題を解決することに何らかの形で有効であるとすれば、それは環境問題を解決しようとする市民運動や社会の動きにかかわる学習を「無条件に援助し、条件整備する」以外にはないのではないだろうか。「政治的介入を拒否した積極中立の立場」が環境教育の場においていかに大切であったか、公害教育や自然保護教育の実践の歴史が如実に物語っている。こうした社会(もしくは権力)との緊張関係を抜きにして、環境教育が環境問題の解決に資することができないことを社会教育の歴史は教えている。


第3節 環境教育の教育的価値とは何か 【概念】

1 教育的価値と環境教育

教育は社会変革の手段ではなく、「社会によって変えることを許されたものを維持する」という意味において機能すると説いたI・イリイチとP・フレイレを援用すれば、環境教育も環境問題を解決する手段(もしくは持続可能な社会を実現するための手段)ではなく、社会が環境問題を解決しようと動きだすとき(もしくは持続可能な社会へと変容しようとするとき)に、それらの動きを維持・発展させるものとして機能すると考えることができる。これを「人類は教育を通して、その社会の価値体系や慣習を次の世代に伝達し、社会の秩序を維持するとともに、教育による新しい世代の可能性の開花によって社会を発展さ

せてきた」という二つの機能をもっている(堀尾輝久、1989年)と言い換えることもできる。つまり、教育は新しい世代の可能性を開花させることによって古い社会を変容させてきたということであり、そのために教育実践は、権力的統制や外部からのどのような支配からも自立し、教育固有の論理(法則性)にもとづいて教育的価値の実現を志向するものでなければならないとされる。ここに、イリイチやフレイレが指摘する社会(あるいは権力)が求める変革に役立つ範囲内にありながらも、教育が社会変革に寄与することを可能とする「教育の自律性の原理」をみることができる。まさに、教育は社会変革の「手段」ではなく、社会を変革しようとする市民の「権利」である。

その意味で、近代における科学と人権の思想、とりわけ「子どもの自然の発見」と「子どもの権利」の思想に支えられて、教育的価値の観点が成立したことは興味深い。そして、近代教育学が内包する「自然につく教育」の思想と「社会による教育」の思想の二律背反の現実とその統一への志向から、環境教育学が無縁であることはない。環境教育がどのような教育的価値をもち、それによってどのような人間を生みだそうとしているのかが問われている。


2 「環境教育」の五つの潮流とESD

一般的には、日本の環境教育実践の流れに、「公害教育」をルーツとする社会的公正を重視する流れと「自然保護教育」をルーツとする自然環境の保全を重視する流れがあり、地球サミットと前後してグローバルな視点から環境教育を位置づけようとする動きが顕著となってきたといわれている。そのうえで日本の環境教育に大きな影響を与えてきた20世紀の環境教育学研究の流れを、①公害教育系、②自然保護・野外教育系、③学校教育系、④持続可能性に向けた教育(EfS)系、⑤地球環境戦略研究機関(iGES)系、の五つのグループに区分し、その代表的な主張をみることで日本における「環境教育」概念の特徴を整理することができる。

①公害教育系

公害教育系は、日本教職員組合教育研究集会「公害と教育」分科会(1971年)で蓄積されていた学校教育現場での教師たちの実践交流の成果を踏まえて、「公害と環境」教育研究会(のちに「地域と環境科学」研究会)を中心とした研究者と教師が担い手となっている。その主張の特徴は、公害問題を出発点として住民運動と結びついた学習・教育を志向し、「権利としての教育」を基盤に教師の役割や可能性を重視しているところにある。「公害と環境」教育研究会(環教研)の代表的な研究者のひとりである福島達夫は、「人権」に根ざす教育として公害教育を理解し、環境教育にも「人間の生き方を問うひろい人間文化に支えられた人権(ヒューマン・ライト) の教育」と「すべての生き物がつながりあい、支えあってきていることを学ぶ教育」とのふたつの性格があると定義している。さらに、社会教育学者である藤岡貞彦(1995年)は、「先行する成人世代が、環境問題に直面してそれを直視し、成長世代とともに『自然』と『地域』についての学習を作り直すしごとであり、その教育目標は〝環境権認識の確立″にある」と規定することで、福島が 「人権」と捉えた概念を「環境権」に特定し、環境教育が成人(市民)による「環境権認識」 の過程でもあることを明らかにした。水俣病の授業を自ら実践し「公害教育を環境教育の原点とする」と考える田中裕一(1993年)も、環境教育が「基本的人権を基軸に、公害から学んで環境問題へのアプローチをすること」であると定義する。このように公害教育に発する環境教育の概念は、環境問題を引き起こした人間社会のあり方を科学的に認識するとともに、「人権」「環境権」という視点から環境と人間との関係がとらえ直されているところに大きな特徴がある。

②自然保護・野外教育系

自然保護・野外教育系は、いわゆる「自然保護教育」の流れともいえるが、屋外でのレクリエーション活動を含む「野外教育」と呼ばれる実践とも深く結びついて発展してきた。日本自然保護協会の設立(1951年)を契機に自然観察会や指導員養成講座が行なわれたほか、ここからナチュラリスト協会(73年)、日本ネイチャーゲーム協会(現・日本シェアリングネイチャー協会)などの環境教育NPOが生まれ、清里環境教育フォーラム(87年)、日本環境教育フォーラム(92年) のように環境省と深いつながりのある自然保護教育が模索されてきた。また、「自然が先生全国集会」(96年)を契機に現在の文科省生涯学習政策局とのつながりが強化されており、自然体験活動推進協議会の設立(2000年) のように社会教育法「改正」(2001年)による自然体験活動の事業化や環境の保全のための意欲の増進及び環境教育の推進に関する法律(環境教育推進法 / 2003年制定、2011年改正)の受け皿となることが期待された。自然保護教育の流れを代表する研究者として、「琵琶湖の番人」と呼ばれ琵琶湖環境訴訟でも証言した鈴木紀雄(2001年)が環境教育を「現実の家庭生活・学校生活・社会生活の中で体験を通して環境の問題を学んでいき、実践を通して問題を解決していくカを涵養すること」と規定していること、沼田眞のもとで長年スタッフとして活動してきた林浩二が(1999年)「『私』にとって抜き差しならない環境問題と切り結ばれた教育実践」と述べていることに注目したい。ここでも、「自然生態系」そのものに限定するのではなく「ヒト」や「人間社会系」との関係性(鈴木)、『私』との「抜き差しならない」関係(林)が環境教育に不可欠のものとして位置づけられているのである。

③学校教育系

学校教育系は、文部科学省(初等中等教育局)を中心に、旧文部省官僚出身者やそれと関係の深い研究者・教員が、「環境教育指導資料」(1991年)の作成(2007年に小学校編、2014年に幼稚園・小学校編を改定)をひとつの転機として学習指導要領にもとづく「総合的な学習の時間」や学校と地域の連携による環境教育実践の提起を行っている。こうした動きは、「環境教育指導資料」の改訂や学校教育への自然体験活動の導入などによって、ESDや幼少連携など新しい展開の可能性を持っている。文部科学省初等中等教育局視学官の経歴をもつ奥井智久(1998年)は環境教育を「人類が子々孫々に至るまで生存し続けるための教育」「環境や環境問題に自ら関心をもち、人間活動と環境のかかわりについて総合的に理解し、環境の保全に向け、主体的に責任ある行動がとれる」教育であると規定し、東京都立教育研究所指導主事や都内の小学校校長を歴任した塚野征(1996年)は環境教育を「まわりの環境に対する豊かな感受性や見識を育てる」と特徴づけている。他方で、東京学芸大学や日本女子大学で教科教育との関連で環境教育学研究をすすめてきた佐島群巳(1993年)は、「子ども自ら環境へ積極的に対応し、社会参加と貢献の活動の学習を推し進めるような『環境形成者』の育成」を環境教育の主眼とする。また、理科教育を専門とする北海道教育大学の田中實(1997年)は、「環境教育の基本的な問題とは、人間・社会の活動度の飛躍的な発展によって、生態系における各種生物の地位が乱されたり、非循環物質の生成により発生した諸問題を、時間の流れ(歴史的視点)のなかで認識し、その問題の解決のために人間のあり方を迫っていくことといえる」と規定した。

④持続可能性に向けた教育(EfS)系

持続可能性に向けた教育(EfS)系は、地球サミット以降に多用されてきた「持続可能な開発」概念の内在的な批判として「持続可能性」という概念が提起され、テサロニキ会議(1997年)が「持続可能性に向けた教育」を提唱したことにはじまる。それは、産業社会の「支配的なパラダイム」を「新しい環境パラダイム」へと転換することを教育上の価値として積極的に位置づけようとするのである。「新しい環境パラダイム」への転換に果たす環境教育の役割を強調する原子栄一郎(1998年)は、「環境教育は『ただの教育』ではなく、『environmentalな教育』」であり、「industrial educationと呼ぶことができる『ただの教育』に対して、環境を原理とする教育がenvironmentalな教育、環境教育である」と定義する。

⑤地球環境戦略研究機関(iGES)系

地球環境戦略研究機関(iGES)系は、環境庁企画調整局(現環境省総合環境政策局・地球環境局)が所管する政府が出捐して設立された団体であり、アジア太平洋地域における環境保全戦略の一環として環境教育を環境メディア・リテラシーなどの視点から研究してきた。ヨハネスブルク・サミットで「国連・持続可能な開発のための教育の10年」(DESD) への動きがはじまったことで、持続可能性に向けた教育(EfS)系の理論を組み込みつつ、実践的にも人脈的にもこの流れがどのように発展したのかが問題となる。その意味で、「持続可能な開発のための教育の10年」推進会議(ESD-J)の代表を務める阿部治(1993年)が、環境教育は「人々の視野を広げる活動」であり、「基本的には公共意識を高めていくことだと考えている」こと、「多様なコミュニケーションを用いて、他者とのつながりや関係を意識化し、よりよいものにつくり変えていく営み」であると規定していることは興味深い。

ここまでみてきたように、「環境教育」概念をめぐる議論は基本的には「持続可能性(Sustainability)」概念が提起されることで、「環境だけでなく、貧困、人道、健康、食糧の確保、民主主義、人権、平和をも包含するもの」として広義の「環境教育」概念への拡張が図られてきた。そうした視点からみたとき20世紀の日本の環境教育研究を構成する五つの潮流が規定する「環境教育」概念は、その流れを支持する基盤の性格の違いによって微妙なニュアンスの違いをもっているといわざるをえない。問題は、これらの潮流のなかでそれぞれ提起されている「環境教育」概念がどこに収斂していくのかということである。その鍵を握るのが、「持続可能な開発のための教育」(ESD)と環境教育との関係をどのようにとらえるのか、ということであろう。その意味で、DESDの終了を受けて文科省と環境省の共管で開設されたESD活動支援センター(2016年)の役割が期待される。

しかし他方で、東日本大震災と福島第一原発事故(2011年)によって、環境教育やESDに関する私たちの捉え方に大きな転換が求められている。環境教育には、グローバリゼーションと東日本大震災・原発事故という2つの要素に<向き合う>教育のあり方としても、ESDへの発展が求められている。私たちがいま<3・11>と呼ぶものが、この災害が引き起こした多くの生命・財産の喪失とそれに向き合う私たちの姿勢を問うものであることは明らかであろう。<3・11>と教育との関係を考えるうえで、少なくとも3つの問いに向き合わなければならない。①なぜ東日本大震災によってあれほど多くの犠牲者と被害が生まれたのか。②私たちは東日本大震災によって失われたものとどのように向き合うべきなのか。③どのように東日本大震災とこれから起こりうる大規模災害を次の世代に伝えていくのか。こうした課題に応えようとする教育実践を「<3・11>と向き合う教育実践」ととらえたい。多くの学会や教育関係団体が「向き合う」努力を進める中で、震災によって引き起こされた原発事故に大きな衝撃を受けた組織の一つが日本環境教育学会であった。この学会は、東日本大震災の教訓を捉え返す試みの中で、『東日本大震災後の環境教育』(学会年報第1集、2013年、東洋館出版社)及び『授業案 原発事故のはなし』(国土社)を刊行し、2016年度以降には「原発事故後の福島を考える」プロジェクト研究を発足させて継続的な調査活動を開始している。


3 環境教育と二つの「人間原理」

環境教育における教育的価値の探求は、近代教育学が前提とする、人間が「自然的存在」であるとともに「歴史的・社会的存在」であり、「自然に働きかけ、これを変える行為の主体」である、という人間観から出発せざるをえない。それは、「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」 (ゴーギャン)という問いが、環境教育概念の基礎にすえられなければならないことを意味する。

アストロバイオロジー (astro-biology)の視点から松井孝典(2003年)は、約1万年前に人間が農耕牧畜をはじめることで「人間圏をつくって生きる生き方」(=文明)をはじめたことが地球システムの構成要素を大きく変える契機となったと指摘している。それは同時に、「宇宙から見て我々の存在が見える」という事実からの出発であり、「天体としての地球が我々の認識の中に入ってきた」「地球が一つのシステムとして見える」ということを意味する。まさに「学問的な意味まで含めて宇宙から見て『見える』ということの意味を考えてみる必要がある」ということを前提に、「宇宙人としての生き方」がわれわれ人類に問われており、「人間圏をつくって生きる我々とは何か」を問う「地球学的人間論」が求められているといえる。

こうした問いかけを含む宇宙を理解する視点を「人間原理」(anthropic principle)は呼ばれている。人間原理とは、(この)宇宙の自然法則や物理定数が人類のような知的生命体を生み出すために必要な条件を満たしているという状況を説明するものである。それはまた、「人類が生まれるための12の偶然」(眞淳平)と呼べるものでもある。①宇宙を決定する「自然定数」が現在の値になったこと。②太陽の大きさが大きすぎなかったこと。③太陽からの距離が適切なものだったこと。④木星、土星という二つの巨大惑星があったこと。⑤月という衛星が地球のそばをまわっていたこと。⑥地球が適度な大きさであったこと。⑦二酸化炭素を必要に応じて減らす仕組みがあったこと。⑧地磁気が存在していたこと。⑨オゾン層が誕生したこと。⑩地球に豊富な液体の水が存在したこと。11生物の大絶滅が起きたこと。12定住と農業を始める時期に温暖で安定した気候となったこと。

他方で、堀尾輝久(1981年)がいうように、教育は一人の子どもの能力の可能性を全面かつ十分に開花させるための意図的営みであり、教材を媒介として子どもの発達に照応した学習を指導し、発達を促す営みである。そしてそのことを通して社会の持続と発展をはかる社会的営みである。ひとりひとりの人間が一定の社会と文化のなかで成長・発達しつつも、類としての人間が自然や社会に働きかける(労働する)ことで自らを変容させてきた、という事実を「発達の相」としてとらえることも重要である。その発達の視点は、「発生(genese)とともに、構造(structure)への着眼、構造化と再構造化(restructuration)の過程への着眼」を含んでおり、その全過程を通して「人格もまたつくられていく(construction)」と考えられる。つまり、教育学が人間の人格とその発達の過程を明らかにする学問である限り、人間という「もう一つの人間原理」を併せてもたざるをえない。

ここに環境教育に固有の教育的価値を構成する二つの「人間原理」をみることができる。「環境教育は環境科学の基本的な概念や法則をすべての子どもにやさしく教える環境科学教育である」との立場から、これに近い枠組みで「環境教育」概念を提起しているのが高村康雄(1996年)の「環境科学教育の体系」であろう。


第4節 環境教育はどこに向かうのか 【評価】

「環境教育」は、自然環境の有限性に注目し、自然破壊を防ぎ、自然との調和に基づく、人類の恒久的存在を探求する教育、及びそのための行動の主体を形成する教育であると一般的に理解されている。狭義の環境教育が自然保護教育や公害教育などを指すのに対して、いま提起されている持続可能な開発のための教育(ESD)は開発教育・平和教育・人権教育・ジェンダー教育・福祉教育などを含む「総合科学」の体裁をもつものである。この〝総合科学″ としての持続可能な開発のための教育(ESD)の創造という枠組みのなかに、これからの環境教育学がめざすべきひとつの道が指し示されているといえる。もともと総合科学を構成する個別科学には、それに固有の研究対象と研究方法、評価体系とが存在する。とりわけ、各科学に固有の評価体系に関して、応用科学における「有用性」、基礎科学における「真理性」、社会科学における「妥当性」などとおおまかな方向付けがなされているものの、環境教育学がどのような評価体系をもつのかが問われる。

それは、環境教育学が「狭義の個別科学」の枠組みを越えて「総合科学」として発展することを求められているとともに、総合科学として研究成果を価値づけ、研究を方向づける独自の評価体系を確立することが求められていることを意味する。こうした環境教育学における新しい評価体系を確立するうえで、狭義の環境教育学が主に依拠してきた「有用性」だけでなく、基礎科学の「真理性」、社会科学の「妥当性」を視野に入れた、より総合的・体系的な評価体系の構築が求められている。いま、環境教育の機能及び役割として限られた地球環境を持続的・共生的に活用するという側面が注目されているなかで、「有用性」「真理性」「妥当性」などの多様な尺度をもとにした環境教育及び環境教育学研究の評価体系の確立が課題となっている。

さらに、私たちが約1万2000年前に西アジアの地中海東岸部において人類が最初の「農耕」を開始したことによって、地球史上はじめて「人間圏」と呼ばれる特異な生態系を生み出したことの意味をどのように理解するのか、という問題にいま直面しているといわざるをえない。ここに、今日の地球環境問題の起源があるとともに、私たち人類が「ヒト」として環境に働きかけ、それによって進化(進歩)を遂げてきたという事実があるからである。このような視点に立つとき、「総合科学としての環境教育学」はまさにいまもっとも緊急性と重要性をもつ科学であるといえる。

また、私たちに「豊かさ」や社会的な格差をもたらす科学や技術、「人間らしさ」(Humanity)にも思いをはせなければならない。子どもたちが「幸せ」になるためには、まずその親やおとなたち自身が「幸せ」にならなければならない。「幸せ」という主観性をともなう概念であっても、その対極にある戦争や差別、貧困、災害、破壊された環境など「不幸」をもたらす客観的な条件を一つずつ取り除くことでみんなの「幸せ」が実現できるはずである。しかし、現実には子どもたちを取り巻く「不幸」の条件が無数にあり、環境問題で重視される世代間公正という視点にたつとき子どもたちに対する「負の遺産」があまりにも多いといわざるをえない。ユニセフ(国連児童基金)は「世界全体で1億2300万人の学童期の子どもが学校に通えない状態にある」「毎年200万人の子どもが汚染された飲料水や下水など衛生設備の未整備による病気で死亡している」と指摘し、さらに津波によって史上最大規模の犠牲者を出したスマトラ沖大地震でも震災孤児たちが人身売買や児童労働の対象となっていると警告した。教育や生活環境の不備が「貧困の連鎖」を生むように、科学・技術や「人間らしさ」への真摯な問いかけを忘れた「豊かさ」もまた、子どもたちへの大きな「負の遺産」となる。ここで私たちは改めて、環境教育の意味や目的を問い直さなければならない。

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上巻『共生社会Ⅰ―共生社会とは何か』第1部:共生社会理念のリアリティ(仮)

5 ESDと共生社会の教育

(1)共生社会を支える教育

教育(education)を学習(learn)と言い換えることがしばしばある。しかしながら、厳密には教育と学習とは別のものととらえる必要がある。教育学という学問が成り立つ前提として、学習者に対する意図的・系統的な働きかけを「教育」と呼ぶという理解があり、教育者はそうした専門性をもつと思われている。そして、近代国民国家に支えられた「公教育」という枠組みの中で成り立つ教育には、国家そのもののあり方に根ざす本質的な問題の解決を教育が<直接>担うことはむずかしい。ところが、個人から出発する学習には国家という枠組みからの<相対的な>自由があるため、問題の解決に資することができると考えられる。

たとえば、「公害教育」と呼ばれる実践が、被害者や教師の自主的な学習としての本質(抵抗の原理)をもつために、国家権力のあり方に対抗しうると考える。これが公教育の枠組みに取り込まれて、制度化されたとたんに社会を変革する能力が弱まるとみることができる。この矛盾を克服する一つの方策が、「教育の自由」という思想であろう。学習者(及び教育者)の自由を保障することで、問題の解決や社会変革の可能性を担保しようとするものである。

学校教育ではあまり語られることはないものの、社会教育には「上からの教育(支配)」と「下からの教育(自治)」という互いにぶつかり合う教育のあり方を、「自由(もしくは権利)」という概念によって統合しようとする考え方がある。教育に対する学習の意味は、本質的に学習者の視点や立場からの絶えざる捉え返しを前提とするものであり、「学び捨てる」もしくは「学び返す」と翻訳される<unlearn>と表現される新たな教育・学習の可能性を秘めていると考えられる。つまり、学習には体系化され、確立した社会(および教育)のあり方をつねに批判的にとらえなおすという方法が組み込まれているのである。

既存の教育と「持続可能な開発のための教育(ESD)」の関係について、いまだに定説があるとは言い難い。しかしながら、これまでの教育の延長上にESDが位置づけられるうえで、ESDがグローバリゼーションに対応した教育の新たな姿であるとみることはできよう。「Think globally, Act locally(地球全体のことを考え、足下から行動しよう)」というよく知られた提起について考えてみたい。「グローバルとローカルを対比させ、グローバルなるものは思考に、ローカルなるものは行動に役割を特化させることによって、多様性や独自性を持つローカルな思考など取るに足りないもの、あるいは初めから存在しないかのうように無視されてしまう」(前平泰志)[]。こうした批判は、共通化・画一化する世界や教育のあり方に対して、ESDの視点から見直す重要な提起となっている。

ここから、共生社会を支える教育の一つの役割が見えてくる。共生社会には「持続可能性(Sustainability)」とともに、それを担保する「多様性(Diversity)」が求められており、少なくともグローバリゼーションが引き起こす共通化・画一化に異議申し立てする役割がESDには期待されているのである。ここではまず、ESD運動の歴史的な経緯を振り返るとともに、教育学(とくに社会教育学や環境教育学)がESDに関わる教育実践をどのような枠組みで評価してきたのかを確認する。そこから、グローバリゼーションによって(あるいは近代化・現代化によって)失われるものとは何かを問い直し、その回復の実践として「場の教育」や「口伝」に注目する。

(2)ESDへと向かう教育

「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development / ESD)」とは、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット/2002年)で提唱された比較的に新しい概念である。しかしながら、この概念は教育の新たな領域をあらわすものではなく、既存の多様な教育実践からのアプローチが可能なものであると捉えられている(図1)。ESDはビジョン(未来指向性)をもった対話と参画を重んじる新しい教育のアプローチであり、組織・社会としての学びや状況的学習を重視するものであるとされている。また、その内容は地域の自然や社会・文化・歴史などの違いによって多様であり、地域の自己決定を重視すべきものであるともされる。

こうしたESDの特徴は、「グローバリゼーション」と呼ばれる時代状況と深く結びつきながら生まれたものである。その起源を15世紀の大航海時代に求めることもできるが、この概念が一般的に使われだしたのは1990年代以降である。多様な意味やニュアンスをもって語られるこの概念は、①1970年代以降の情報革命(とりわけ1990年代のインターネット化)による情報化、②1970年代前半の変動相場制への移行を根源とする経済の金融化、③1980年代後半以降の情報・金融・軍事を中心としたアメリカが主導するグローバル・スタンダードの実現、などによって生まれたと考えられる。その結果として、ソ連・東欧の社会主義国家体制の崩壊を契機に経済のグローバル化や市場主義イデオロギーが急速に広がったと見られている。グローバリゼーションはインターナショナル(国際化)やワールドワイド(世界化)とは異なり、国や地域・文化の多様性を超えて自由に動く情報や資本、モノやヒトの流れに焦点を合わせた捉え方である。さらに、それを支える思想としてのグローバリズムは市場的活動が共通化できるように、一国の社会構造そのものをグローバル・スタンダードに変えるべきだ(いわゆる構造改革)という発想をもっている。

教育学におけるグローバリゼーション研究が多様な形で進みつつある。その一つの例として日本社会教育学会でも、識字教育、多文化教育、ジェンダー教育などの領域でグローバリゼーションに関わる教育研究が取り組まれてきた。

『国際識字10年と日本の識字問題』(学会年報第35集、1990年)[]は、「教育への権利(Right of Education)」の思想と現代的人権の立場にたって、社会教育ないし生涯教育・生涯学習のあり方を問い直した。国際識字年(1990年)のグローバルな視野からの提起を、「外(第三世界)の問題」に終わらせるのではなく、「日本の“内なる”識字問題」を深く反省し、現代的人権の視点から日本の社会教育・生涯学習のあり方を捉え返すという問題意識にもとづいて編集されたものであった。元木健は「識字」(リテラシー)概念の整理を行い、「世界には、文字を持たない民族もある。また、識字が必ずしも必要と考えられない文化も存在している」ことを踏まえて、ユネスコが「識字を計画する側がより謙虚である必要」を指摘していることを紹介しながら、日本政府が1964年の段階で「識字問題は解決ずみである」と回答していることを批判した。

その後も、この分野での研究が活発に行われたことを受けて、『多文化・民族共生社会と生涯学習』(学会年報第39集、1995年)[]が日本における「民族共生社会」と「多文化社会」という二つの軸を通して、社会教育実践と社会教育研究の課題を明らかにしようとした。ここで元木健は、「多文化・民族共生社会」という概念が「マイノリティ」の視点であり、「多文化社会」という概念が「異文化理解」という第三者的にやや距離を置いた感のある言葉に対し、より積極的に自らの社会における課題としてとらえる文化的多元主義の立場を意味するものであるとした。さらに、それが一つの社会の中に多くの文化の共存を認め合うことにとどまらず、異なる民族がともに生活し、互いに文化を尊重し、ともに民主的社会を構築する努力を行うという意味での「民族共生社会」という概念を合わせて用いた。すなわち、それは「同化と排除」から「民族共生」へという理念を実現し、お互いの「違い」を深く認識しつつ「統合」された社会を理念とするものであり、その基底に「人権」と「マイノリティ」の視座を置くものであるとした。こうしたマイノリティ研究の延長上に、アイヌ・先住民族の教育研究の成果に焦点を合わせた『アイヌ民族・先住民族教育の現在』(学会年報第58集、2014年)[]が刊行された。

他方で、『ジェンダーと社会教育』(学会年報第45集、2001年)[]に結実したジェンダー教育の領域でも、「グローバル化する地域と女性の主体形成」が大きなテーマとして議論されてきた。

こうした研究の蓄積の上に取り組まれたプロジェクト研究「グローバリゼーションのもとでの社会教育・生涯学習の未来」(20032004年)を通じてさらに多くの論点が提起され、『グローバリゼーションと社会教育・生涯学習』(学会年報第49集、2005年)[]にまとめられた。基本的なテーマの一つは、「グローバリゼーション」と呼ばれる現象をどうとらえるのか、という問題であった。水島憲一は、A・ネグリとM・ハートが「生政治(biopower)」概念からグローバリゼーションを政治経済文化が複雑に絡み合った圏域が現働化している「<帝国>(Empire)」と解釈していることに注目した。<帝国>とは脱中心化・脱領土化を推進する支配装置であり、たえず拡大し続ける開かれた境界の内側にグローバルな領域全体を漸進的に組み込んでいく主権形態である。他方で<帝国>論をヨーロッパ中心主義的な限界があると批判する上村忠男は、GC・スピヴァックの理解をもとにグローバリゼーションはマルクスの言う「一般的価値形態」のグローバルな規模における全一的支配を目指しつつも、その一歩手前の「総体的または拡大された価値形態」を含むものであると指摘した。この両者の違いは、グローバリゼーションを克服する主体や方法の違いにもつながる。ネグリやハートは<帝国>に抗する集団的主体性をスピノザに由来する「マルチチュード(群衆=多性)」という概念で説明する。これに対して、スピヴァックは国際分業体制のもとで安価な労働力の提供者として搾取されている「サヴァルタン」女性たちに注目し、歴史的に沈黙させられてきた主体に対して自らが学ぶことで得た特権を「忘れ去ってみる(unlearn)」ことの必要性を主張した。

こうした問題意識を発展させたプロジェクト研究「グローバル時代における<ローカルな知>の可能性」の研究成果をまとめたものが、『<ローカルな知>の可能性』(学会年報第52集、2008年)である。社会教育・生涯学習が否応なくグローバリゼーションに巻き込まれる中で、地域を足場とした時間的・空間的に限定された<ローカルな知>が社会教育・生涯学習のあり方を根本的に問い直す契機となると考えた。

また、その後に取り組まれたプロジェクト研究「社会教育としてのESD」(2011年〜2013年)とフォローアップ研究会(2014年)では、①ESDの知識論、②ESDのカリキュラム論、③「社会教育」から「社会的教育」へ、④ESDと社会関係資本(Social Capital)、などの論点が提起された(荻野亮吾、都甲友理絵)。その成果が、『社会教育としてのESD』(学会年報第59集、2015年)[]にまとめられている。

そこで、次にESDにもっとも早く注目し、大きな影響を受けながら展開してきた環境教育をもとに、グローバリゼーションとESDの関係をさぐる(表1)。

「環境教育(Environmental Education)」は1948年の国際自然保護連合(IUCN)の設立総会で提唱された概念である。これが広く使われる契機となったものが国連人間環境会議(ストックホルム会議/1972年)であり、ユネスコ環境教育専門家ワークショップ(ベオグラード会議/1975年)において環境教育の目的(認識、知識、態度、技能、評価能力、参加)や目標が確認されてきた(ベオグラード憲章)。

こうした環境教育の理解に大きな影響を与えたものが、「持続可能な開発(Sustainable Development)」(世界環境保全戦略=WCS1980年)という概念である。チェルノブイリ原発事故(1986年)は欧州を中心に新たな環境問題の登場を印象づけるとともに、持続可能な開発(ブルントラント委員会最終報告書)に向けた国際的な取り組みの緊急性を示すものとなった。環境と開発に関する国連会議(地球サミット/リオ・サミット/1992年)では地球環境問題に関する国際的な取り組み(気候変動枠組条約、生物多様性条約など)が合意されるとともに、環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議/1997年)のテサロニキ宣言を経て、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット/2002年)の「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development)」概念や国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD2005年~2014年)へとつながった。

しかし、東日本大震災と福島第一原発事故(2011年)がESDに関する私たちの捉え方に大きな転換が求めていることは明らかである。環境教育は、グローバリゼーションと東日本大震災という2つの要素に<向き合う>教育のあり方として、ESDへの移行が求められているのである。私たちがいま<3・11>と呼ぶものが、この災害が引き起こした多くの生命・財産の喪失とそれに向き合う私たちの姿勢を問うものであることは明らかであろう。<3・11>と教育との関係を考えるうえで、少なくとも3つの問いに向き合わなければならない。①なぜ東日本大震災によってあれほど多くの犠牲者と被害が生まれたのか。②私たちは東日本大震災によって失われたものとどのように向き合うべきなのか。③どのように東日本大震災とこれから起こりうる大規模災害を次の世代に伝えていくのか。こうした課題に応えようとする教育実践を「<3・11>と向き合う教育実践」ととらえたい[]。多くの学会や教育関係団体が「向き合う」努力を進める中で、震災によって引き起こされた原発事故に大きな衝撃を受けた組織の一つが日本環境教育学会であった。この学会は、東日本大震災の教訓を捉え返す試みの中で、『東日本大震災後の環境教育』(学会年報第1集、2013年、東洋館出版社)及び『授業案 原発事故のはなし』(国土社)を刊行している。

(3)失われた能力を取り戻す学び

「学ぶ(learn)」ことはよいことであると誰もが考える。「学ぶ」ことは、近代以降、すべての人びとに平等に保障されなければならない権利であるとともに、個人の幸福の実現を担保するものとして無条件に勧められてきたように思われる。しかし、「学ぶ」ことが前提抜きに肯定される状況に対して、異議申し立てしたのがスピヴァックであった。近代以降の社会の中で民衆が「学ぶ」ということは、他者と競争しながら勝ち抜くだけでなく、抑圧−非抑圧の関係や支配−非支配の関係を肯定し、(拡大)再生産することにつながることを自覚しなければならないのであろう。だからといって「学ぶ」ことを拒否する(学ばない)ということにはならず、「忘れ去ってみる(unlearn)」」という表現に見られるように「learn」→「unlearn」の意識化が重要だということになる。学ばなければ「忘れ去る」ことはできない。だが、「学ぶ」こと自体にも意味があるのである。それは「それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ること」であり、特定の学習が知識や能力の獲得だけでなく、それと矛盾し否定される知識や能力を失うことにも注目しなければならないのだ。

「学ぶ」ことによって失われるものに注目すると、何をどのように学ぶのかによりいっそう注意を向けなければならない。いまから50年ほど前まで、私たち日本人にはさまざまな能力があった。いまだにこうした能力を保ち続けている民族や社会もあるが、グローバリゼーションのもとで世界が急速に市場化・共通化する中で、いずれ失われてしまうのではないかと思われる。ここに「学ぶ」ことによって失われるものに注目する一つの例として、「キツネに騙される」能力に注目して考察したい。

かつて日本人は「キツネに騙される」と思い込んでいた。内山節は1965年を境に日本人はキツネに騙されなくなったと述べている(内山、2007)。確かに日本人にとってキツネは「ある程度そのしぐさなどに感情移入することが可能で、同時に人間とはかなりちがった能力を有している」不思議な動物の最たるものであったといえる。キツネには特別な能力があり、これを神として祀った稲荷神社も多くある。他方で「キツネ憑き」と呼ばれる、人が何らかの理由でキツネに取り憑かれる(憑依)とも感じてきた。こうしたキツネがもつ能力、より正確にはキツネがもつと日本人が感じる能力を「キツネに騙される力」と呼びたい。しかし、これは決して非科学的で不合理なものであるとは限らない。

①迷信としてのキツネ憑き(井上円了、1904年)[]

いまから100年ほど前、哲学者・井上円了(現・東洋大学創立者)は「妖怪学博士」という別名をもち、科学的・批判的な思考によって多くの迷信が根拠のないものであると民衆に説いていた。1904年に刊行された『迷信解』も、当時の文部省が教科書として編纂した『国定小学校修身書』における迷信に関する記述を補完する目的をもって書かれている。尋常小学校第4年級用第15課に「迷信を避けよ」、高等小学校第2年級用第6課に「迷信」が設けられており、前者では「狐狸などの人をたぶらかし、または人につくということのなきこと」を含む8項目について論じられていた。

しかし、児童によりわかりやすく説明するために、井上はさらに「狐狸のこと 付 人孤(にんこ)、犬神(いぬがみ)のこと」などの11項目に整理し直して論じている。ここでは「キツネに騙される力」に関係する項目が、キツネが人を騙す(もしくは災いをなす)と思われている現象と、キツネ憑き(憑依)とに分けられていることに注目したい。

井上の特徴は、人びとが信じる迷信や神秘的な現象を「妖怪」と見なして、科学的・合理的に分類・説明しようとしていることにある。

妖怪の種類に四とおりあることを述べねばならぬ。その第一は、人為的妖怪すなわち偽怪(ぎかい)にして、人の偽造したるものをいい、第二は、偶然的妖怪すなわち誤怪(ごかい)にして、偶然誤りて、妖怪にあらざるものを妖怪と認めたるものをいうのである。この二者は古今の妖怪談中最も多く加わりおるに相違なきも、その実、妖怪にあらざるものなれば、これを合して虚怪(きょかい)と名づく。つぎに第三は、自然的妖怪すなわち仮怪(かかい)にして、妖怪はすなわち妖怪なるも、天地自然の道理によりて起こりたるものなれば、物理学あるいは心理学の道理に照らして説明しうるものである。すでに説明しおわれば、妖怪にあらざることが分かる。ゆえに、これを仮怪と名づく。これに物理的妖怪、心理的妖怪の二種がある。狐火(きつねび)のごときは物理的妖怪にして、幽霊のごときは心理的妖怪というべきものである。第四の妖怪は、天地自然の道理をもって説明し得べからざるものにして、真の不思議と称すべきものなれば、これを超理的妖怪すなわち真怪(しんかい)と名づく。…この仮怪と真怪とは真実の妖怪とすることができるから、これを合して実怪(じっかい)と名づくる次第である。 

つまり、人びとがもっとも信じやすい人為的にしかけられた現象(偽怪)や偶然起こる現象(誤怪)を「虚怪」であると断じているものの、科学的に説明しうる現象(仮怪)と当時の科学では説明しえない現象(真怪)を「実怪」と認めて、根拠のあるもの(科学の対象となるもの)と考えているのである。「キツネに騙される」という現象にも人が騙す行為(偽怪)や人による見間違い(誤怪)が含まれているものの、狐火のような物理的現象やキツネ憑きのような心理的現象(憑依)を科学的な現象として認めることになる。

キツネが人を騙す、もしくは人に憑くと信じられる現象を科学的に分析しようと考える人びとは多いとはいえず、学校教育において「迷信」として片付けられたと思われる。教育界で否定されつつも、日本の民衆はより素朴な形でキツネに関わる不思議な現象に強く惹かれ、キツネを信仰の対象とし続けてきたのであろう。こうした民衆の意識はその後も長く維持され、高度経済成長期に至って急速に失われたといわれている。

②日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか(内山節、2007年)[10]

 在野の哲学者として独自の世界をもつ内山節は、豊富なフィールドワークの経験からある不思議な事実を証言する。そもそも「キツネに騙される」とはどういうことなのだろうか。内山は日本人の精神世界の「古層」にある霊的な世界に注目する。村々に暮らし続けてきた民衆の精神世界、霊的な世界にはキツネと人間との深い関わりが存在すると見ている。内山は人がキツネに騙された(騙される)という話を4つのパターンに分け、人々がいまよりももっと多くの生命を山の世界に感じて、そこに神を見ていたと指摘する。

それにしても、なぜ1965年なのだろうか。かつてキツネに騙されてきた人々、またはキツネに騙されたという話を語り継いできた人々は、1965年以降に騙されなくなった理由(わけ)をどう考えているのであろうか。内山は当事者である村の人々に問うている。内山は、1965年を境に日本人がキツネに騙されなくなった理由を六点に整理しているのである。日本人は、高度経済成長期に①「非経済的なものに包まれて自分たちは生命を維持しているという感覚」を失ってしまった、②科学的に説明のつかないことを「迷信」「まやかし」として否定するようになってしまった、③電話とテレビの普及によって自然からの情報を読むという行為が衰退しはじめた、④高校・大学への進学率が上昇して「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化していった、⑤個人の生と死を自然やそれと結ばれた神仏の世界、村の共同体が包んでいた伝統的な「ジネン」の感覚を失った、⑥日本各地で伐採と植林が行われて「齢を重ねて霊力を身につけた老獪なキツネ」が暮らせなくなった。

日本人は高度経済成長を経て「経済的な豊かさ」を手に入れたことで、自然とともにあるという「豊かな感性」を失ってしまったとみることができる。まさに「人間たちがキツネにだまされていた時代には、人々はいまよりももっと多くの生命を山の世界に感じていた」(内山)のである。

③「きつねつき」という現象(高橋紳吾、1993年)[11]

かつて井上円了が、「キツネが人を騙す現象」と「キツネ憑き(憑依)」を分けていたように、人が自然に感じていた一体感や生命とは別の次元で「きつねつき」を考える必要がある。精神科医の高橋紳吾は、いまでも「事実としてキツネツキが存在する」と断言する。それは憑依(何者かにとり憑かれた状態)がなんらかの原因のもとに出現する「症状」であり、一般に擬人化されやすい動物が憑依しやすいからである。人とキツネとの生活世界における実際の接触が減ったとはいえ、精神的・文化的な意味において日本人とキツネとの接点が大きい以上、「身近な」野生動物としてのキツネは日本人に憑依しやすいといえる。しかも、憑依には罪の意識から「祟り」というネガティブな感情を生みだしやすく、ツキモノを落とす者(霊能者や祈祷師)の存在がツキモノ現象を伝承・伝播させるという人や社会のあり方に大きく依拠した現象である。また、「何が憑くのか」という問題にも興味深いものがある。

日本人は生命のないもの(器物等)にも長い時間が経てば「妖怪(バケモノ)」になる可能性を認めながら、人に憑依できるものは生き物に限られ、原始的であり過ぎても人に近過ぎてもいけないと考えられているのである。その意味でキツネは、もっとも憑依しやすい主体(取り憑く側)としてうってつけの条件をもっていたのであろう。

キツネに限らず動物が人に憑依する「動物憑依」という現象(症状)は、東アジアに特異なもののようである。たとえば、オオカミ男は憑依ではなく、霊魂が動物に宿るというアニミズムの一種であり、「眠っている人間から離れた魂が人を殺すオオカミに変身(もしくは受肉)する」ものと考えられている。「人狼症」という変身妄想の一種も、野獣になってしまうという恐怖であって野獣が人に取り憑くことではない。ところが、「異類婚姻譚」と呼ばれる人と動物とが結ばれる民話が語り継がれてきた東アジア文化圏に動物憑依が共通に見られるとも指摘されている。このように憑依は、すぐれて文化的・社会的な条件に規定されたものと見ることができる。日本では憑依するものの幅がきわめて広く、神から祖先霊を経て動物にいたるまで「人に益をおよぼすものから害をおよぼすものまで」さまざまであるものの、つねに社会に公認されない負の体系、一種の社会悪という側面も持ち続けてきた。 

④キツネモチの意味(吉田禎吾、1999年)[12]

この「キツネにだまされる」という感性は、日本の農村における共同体の役割を考えるうえで、大切なもう一つの事実も明らかにしている。「きつね憑き」(憑依)と呼ばれる症状(symptom)やキツネを祀る稲荷神社も、そうした感性の一つである。ところが、日本では「人に憑く可能性を生まれながらにして持っている筋」(キツネモチの家)があると理解され、「病気、わざわい、不幸の説明に役立ち、村の規範や秩序を維持させてきた」という事実もあるのである。ある意味では、ムラの貧困者や成り上がり者に対して「憑きもの持ち」の家とレッテルをはって差別することで、祟る=祟られるという関係をもたらさない心理的抑制によってムラの秩序が維持されたのである。こうした人とキツネとの関係を媒介とした「狐憑きと憑きもの筋の関係」は、共同体が生み出していた「つながり」がもつ「協力・支援」と「支配・統制」が分かちがたく結びついているという共同体の自治の二面性をも明らかにしているのである。

日本人は、高度経済成長によって共同体を解体することでムラの民主化を完成させた反面、山や海、川や湖・沼・潟などの自然との一体感や独自の生命感を失ったとみることができる。これを「キツネに騙される力」と呼び、失われた<ローカルな知>の一つの形と考えたい。この力は決して非科学的で不合理なものであるとは限らない。いまでも生活のすべてを経済的(市場的)な関係に委ねているわけではなく、科学的方法の特性である二元論や要素還元主義だけでは解明しきれない領域は多くある。また、自然との関わりを回復したいと思い、ジネン(自然)の中で「生かされている」と考える人も少なくない。つまり、「キツネに騙される力」を全く失ったのではなく、その能力に意義を見出して、その感覚を研ぎすまそうと努力していないのである。かつてはふつうに理解できた自然とのつながりやその向こうにいる人びととのつながりも、キツネに騙される「豊かな感性」を失ったことによって、意識的に教え、伝えなければならないものになった。

(4)「場の教育」「口伝」としてのESD

かつて私たちが普通に持っていた「自然とのつながり」や「共同体の他者とのつながり」を意識する能力を、教育の枠組みの中で回復しようとする試みがある。

岩崎正弥と高野孝子は、これを「場の教育」(もしくはPlace-Based Education / PBE)という概念で提起する。[13]高橋は「場の教育」を「地域における、土地に根ざした学び」と定義し、「とりわけ農山漁村という、長い間人びとの活動が蓄積してきた場は、高い教育力を持つだろう。この力が十分に活用されるとき、学びは生き生きとしたものになり、学ぶ人一人ひとりを変革するだろう」と断言する。また、「土の教育」「郷土教育」「デンマーク型教育」、江渡狄嶺、三澤勝衛などの「土地に根ざす学び」の系譜を「ここを掘り下げる教育」として再評価する。その意味で「場の教育とは、地域(地元)を捨てさせてきた教育理念に代わり、地域の再生を担う主体的・再帰的な学びと活動の方法を指す。住民が地域を知り、地域を育てる方法だといいかえてもよい」と述べている。そして、その典型的な実践事例が、高野らが新潟県南魚沼市で取り組む「TAPPO南魚沼やまとくらしの学校」である。

他方で、グローバリゼーションのもとで数字や概念に置き換えられてしまう一人ひとりの<生>の個別性に向き合うために、ESDに求められる学習論として暗黙知と口伝的な世界に注目することができる。[14]「学ぶ」ことを形式知で捉える限り、スピヴァックのunlearnの意味を理解することはむずかしい。形式知と暗黙知を往還する口伝的世界の広がりを意識することは、近代化を支えてきた教育(教授的世界)の限界を乗り越えようとするものである。ここでは『荘子』の知のとらえ方に注目する。「荘子が人間のことばを信用しないのは、単にことばが体験的な事実を表現するのにふじゅうぶんだという理由だけからではない。…それは道が―絶対的で無限な真理が、人間のことばではいい表せないということである。人間のことばは、一つのものを二つに分け、相対差別を設けるという特性をもっている。…人間のことばは『分別』や『弁別』によって、全体的で不可分な真理を破壊してしまうのである」。[15]これは、老子や荘子が多くの弟子を抱えず、積極的に世に出ようとしなかったことに通ずる。それは「教えることにありがちな過ち」(大江健三郎)をおかさないためであり、言語化された知の限界をよく理解していたからであろう。

かつて地域社会では「学び返し」「教え返す」ことが当たり前であり、それだけunlearnするチャンスも多かったにちがいない。いまも社会には口伝的世界が埋め込まれており、社会には「学び返し」「教え返す」学習過程が存在する。学校に象徴される教授的世界にとらわれず、近代化によって「失われた」教育のあり方に注目することも必要である。ESDが「グローバリゼーションの時代」に<向き合う>教育の新たなパラダイムであり、共生社会を支えるものであるとするならば、「場の教育」や「口伝的な学習」への敬意こそが求められているにちがいない。


[] 前平泰志「<ローカルな知>の可能性」、日本社会教育学会編『<ローカルな知>の可能性』(学会年報第52集)2008年、p.9-24、東洋館出版社。

[]日本社会教育学会編『国際識字10年と日本の識字問題』(学会年報第35集)1990年、東洋館出版社。

[]日本社会教育学会編『多文化・民族共生社会と生涯学習』(学会年報第39集)1995年、東洋館出版社。

[]日本社会教育学会編『アイヌ民族・先住民族教育の現在』(学会年報第58集)2014年、東洋館出版社。

[]日本社会教育学会編『ジェンダーと社会教育』(学会年報第45集)2001年、東洋館出版社。

[]日本社会教育学会編『グローバリゼーションと社会教育・生涯学習』(学会年報第49集)2005年、東洋館出版社。

[]日本社会教育学会編『社会教育としてのESD』(学会年報第59集)2015年、東洋館出版社。

[] 朝岡幸彦「<3.11>と向き合う教育実践への模索」、民主教育研究所『季刊 人間と教育』第78号、pp.106-11320136月、旬報社。

[]井上円了『迷信解』1904

[10]内山節『日本人はなぜキツネに騙されなくなったのか』講談社現代新書、2007

[11]高橋紳吾『きつねつきの科学』講談社ブルーバックス、1993年。

[12]吉田禎吾『日本の憑きもの』中公新書、1999年。

[13] 岩崎正弥・高野孝子『場の教育』2010年、農文協。

[14] 朝岡幸彦「ESD時代における社会教育の役割」、日本社会教育学会編『社会教育としてのESD』(学会年報第59集)2015年、pp.22-32、東洋館出版社。

[15] 森三樹三郎「荘子」『世界の名著 老子 荘子』中央公論社、1968年。

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ESD(持続可能な開発のための教育)時代における社会教育の役割

日本社会教育学会編『社会教育としてのESD』2015年9月予定、東洋館出版社所収)

はじめに

 「ESD(持続可能な開発のための教育)時代」とは、単に時代状況を指す概念ではない。20世紀末以降の「現在(いま)」の時代状況に対して、教育の「新たなパラダイムとしてのESDEducation for Sustainable Development)が模索されている時代」と理解すべきである。時代状況を表す概念としては、むしろ「グローバリゼーション(globalization)の時代」と呼ぶべきであり、グローバリゼーションに<向き合う>教育のあり方がESDであろう。

 社会教育学会は1990年代から識字教育、ジェンダー教育、多文化教育などの領域でグローバリゼーションにかかわる研究の成果を学会年報に公表してきた。[i]プロジェクト研究「グローバリゼーションのもとでの社会教育・生涯学習の未来」(2003年~2004年)は、グローバリゼーションとそれに対するESDの意味について幾つかの踏み込んだ論点を提起した。[ii]とりわけ「グローバリゼーション」という時代状況の理解とオルタナティウ゛なグローバリゼーション運動の主体を生みだす可能性について、A・ネグリとM・ハートが提起する「<帝国>」概念と「マルチチュード(群衆=多性)」、GC・スピウ゛ァックの「ポスト・コロニアリズム」と「サバルタン」をもとに議論し、ESD研究へと向かう社会教育研究の基本的なあり方を確認した。そこから、「忘れ去ってみる<unlearn>」(上村忠男)や「<ローカルな知>」(前平泰志)などの学習概念が提起されたことは重要である。[iii]

 また、その後に取り組まれたプロジェクト研究「社会教育としてのESD」(20112013年)とフォローアップ研究会(2014年)では、ESDの知識論、ESDのカリキュラム論、「社会教育」から「社会的教育」へ、ESDと社会関係資本(Social Capital)、などの論点が提起された(荻野亮吾、都甲友理絵)。[iv]その成果が、「社会教育の視点からESDを問い直す」(笹川孝一ほか、2015年)にまとめられ、[v]今後の研究の方向性として、「人」の持続可能性を問うべきこと、教育「学」として知識創造のあり方や能力論の問い直しが求められること、その方法として社会教育学研究の蓄積を活用すべきこと、地域の様々な社会的アクターが関わる社会的教育という機能論的理解が必要になること、が提起された。

  ここでは、ESDの本質を「グローバリゼーションに<向き合う>教育」と仮定し、その<向き合い>方として「知識創造のあり方や能力論」()を問い直す「口伝的世界」に注目する。口伝的世界がもつ師匠弟子の関係には「『人』の持続可能性」()を促す濃密な人間関係が存在し、「社会教育=社会的教育」という視点()に内在する多様な学びを再評価することが、ESD時代の社会教育に求められる役割だと考えるからである。

 そこで、まず手始めにESDにもっとも早く注目し、大きな影響を受けながら展開してきた環境教育をもとに、グローバリゼーションとESDの関係をさぐる。


1 グローバリゼーションに<向き合う>教育再構築される環境教育

「環境教育」は1948年の国際自然保護連合(IUCN)の設立総会で提唱された概念である。「自然」に対する人や社会のあるべき関わり方が変化することで、[vi]「自然保護」の時代(1945年以前)、「環境主義」の時代(19451961年)、「環境革命」の時代(19621970年)、「持続可能な開発」の時代(19701986年)、「環境問題の地球化」の時代(1986年以降)、と次第に概念が拡張されてきたことがわかる(J・マコーミック『地球環境運動全史』1988年)。[vii]

その後、「環境教育」という言葉が広く使われる契機となったものが国連人間環境会議(ストックホルム会議/1972年)である。「環境教育は、個人、企業及び地域社会が環境を保護向上するような考え方を啓発し、責任ある行動をとるための基盤として必須のものである」(第19項)とする「人間環境宣言」を採択した。さらに、ユネスコ環境教育専門家ワークショップ(ベオグラード会議/1975年)で、環境教育の目的や目標を確認する(ベオグラード憲章)。

こうした環境教育の理解に大きな影響を与えたものが、「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たす開発」(ブルントラント委員会最終報告書)と定義される「持続可能な開発(Sustainable Development)」(世界環境保全戦略/1980年)という概念である。チェルノブイリ原発事故(1986年)は欧州を中心に新たな環境問題の登場を印象づけるとともに、持続可能な開発に向けた国際的な取り組みの緊急性を示すものとなった。

環境と開発に関する国連会議(地球サミット/リオ・サミット/1992年)で地球環境問題に関する国際的な取り組み(気候変動枠組条約、生物多様性条約など)が合意される。さらに、環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議/1997年)では、「持続可能性という概念は、環境だけではなく、貧困、人口、健康、食糧の確保、民主主義、人権、平和をも包含するものであり、最終的には道徳的倫理的規範であり、そこには尊重すべき文化的多様性や伝統的知識が内在している」とするテサロニキ宣言が採択された。その後、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット/2002年)の「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development)」概念や国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD/2005年~2014年)へとつながった。(図1)

ただし、ESDは環境教育ではない。[viii]ESD(文科省は「持続発展教育」とも翻訳する)には、環境教育、国際理解学習、エネルギー学習、防災学習、生物多様性(教育)、気候変動(教育)、世界遺産や地域の文化財等に関する学習、その他の学習が含まれる。その意味では、ESDは「環境的視点、経済的視点、社会・文化的視点から、より質の高い生活を次世代も含む全ての人々にもたらすことのできる開発や発展を目指した教育」(環境教育指導資料)である。

しかしながら、環境教育を「近代化」を支えてきた教育に対置して、「根本的な異議申し立てを表明したもの」であるとの言説もある。[ix]原子は「19世紀初頭から維持し、拡大再生産し続けてきた『支配的な社会パラダイム』を『新しい環境パラダイム』(Milbrath1989)に『変革するという革命的な目的を持っている』(Stevenson1987)。対抗ヘゲモニー。それが、環境教育の本質である」と考え、「批判的かつ創造的な環境教育」の必要性を提起する。

もともと、ESDはビジョン(未来思考性)をもった対話と参画を重んじる新しい教育のアプローチであり、組織・社会変革を目指すことから組織・社会としての学びや状況的学習を重視するものであり、教育の新しいジャンルではなく既存の教育からのアプローチが可能なものであると定義される(ESD-J)。ESDは地域の自然や社会・文化・歴史などの違いによって多様であり、地域の自己決定を重視すべきものとされる。その意味で、東日本大震災と福島第一原発事故(2011年)は、ESDに関する私たちの捉え方をさらに深化させる契機となった。


2 <生>の個別性と<向き合う>【3・11】後の教育

2011311日の巨大地震によって引き起こされた地震・津波および福島第一原発事故の複合災害を、政府は「東日本大震災」と命名した。私たちがいま【3・11】と呼ぶものは、この災害が引き起こした多くの生命・財産の喪失とそれに<向き合う>私たちの姿勢を問うものである。

【3・11】と教育との関係を考えるうえで、少なくとも3つの問いに向き合わなければならない。なぜあれほど多くの犠牲者と被害が生まれたのか。私たちは失われたものとどのように向き合うべきなのか。どのように次の世代に伝えていくのか。

【3・11】後の被災地が直面している状況はグローバリゼーションへと向かう世界が生み出す大きな軋みとして理解すべきものである。この大災害はグローバリゼーションの歯車を前に進めるものであり、危機への<向き合い>方が重要な意味をもっている。「復旧」「復興」「再稼働」などの<元に戻す>行為では、この危機を乗り越えることはできず、【3・11】以前の社会や地域の問題を拡大することになる。そうした「復興」のあり方を争点としたものが「創造的復興」と「人間の復興(もしくは内発的復興)」のちがいを問うものであり、被災地における仮設商店街を通した地域づくり学習の実践は【3・11】後のESDのあり方を典型的に問うている。[x]

こうした視点は、被災者の当事者性に注目した「抵抗の原理」からESDのあり方を模索する視点へとつながる。もともとESDには、グローバリゼーションへと向かう世界のあり方に対する市民・民衆・地域の「抵抗の原理」が内在する。[xi]鬼頭秀一は1980年代以降の「公害問題」から「環境問題」へのシフトによって、公害被害者自身の<生>の問題が捨て置かれた事実を指摘し、被害者の<生>の個別性から被害の全体像をとらえる「抵抗の原理」の視点が重要であると強調する。つまり、ESDが「公害問題」に含意される被害者の「抵抗の原理」の視点を放棄して「環境問題」で語られる数字の世界に依拠する限り、グローバリゼーションが生みだす「社会的排除」の解決を期待することはできない。公害教育には、教育実践そのものが排除の対象とされた歴史がある。[xii]

【3・11】の被災者や避難者も<生>の個別性から切り離された数字として扱われることで、被災者の視点にたつ「復興」が日本経済のための「創造的復興」に置き換えられてしまうことの問題性を、【3・11】後のESDがどう乗り越えるのかが問われている。


3 言語化された教育を超えて暗黙知から口伝的世界へ

<生>の個別性と<向き合う>ことを求められているESDは、新たな学習のあり方を模索しなければならない。マイケル・ポランニーは「私たちは言葉にできるより多くのことを知ることができる」として「暗黙知(tacit knowledge)」という概念を提起した。[xiii]古くは老子や荘子の「道」も、言葉で定義すること、語ることの限界を説くものであった。[xiv]不定型教育には、「形式知(explicit knowledge)」と「暗黙知」とを往還する幅広い知が内在している。形式知に限定された学びによって無視され、失われる学びの世界を「口伝的世界」と呼ぶ。(図2)


近代化を支えてきた教育が「教授的世界」での形式知の伝達(定型教育)を中心とするのに対して、不定型教育には言語化しえない暗黙知を伝える可能性がある。野中郁次郎らは「新たな知識は、暗黙知と形式知の相互作用によって創出されます」と述べて「知識創造の一般原理」(SECIモデル)を提起する。[xv]身体・五感を駆使し、直接経験を通じた暗黙知の獲得・共有・創出の過程としての「共同化(Socialization)」。対話・思索による概念・図像の創造(暗黙知の形式知化)の過程としての「表出化(Externalization)」。形式知の組み合わせによる情報活用と知識の体系化の過程としての「連結化(Combination)」。形式知を行動・実践を通じて具体化し、新たな暗黙知を理解・学習する過程としての「内面化(Internalization)」。定型教育ではもっぱらS→ECの過程が重視されたのに対して、不定型教育にはIの過程が位置づくことに注目したい。

ここでは、スピヴァックのunlearn、阿部勤也の「教養」、ジュルシュ・パスカルの「アランの教育」を事例に、ESDが志向する学習のあり方を口伝的世界につながる学びとして考察する。

(1)サバルタンとどう向き合うか[xvi]

「学ぶ」ことが前提抜きに肯定される状況に対して、異議申し立てをするのがスピヴァックである。「特権的位置のおかげで私たちは、性や人種、社会的地位などに関するさまざまな偏見や差別をも無意識のうちに学んできてしまっているのではないだろうか。しかしそれらが学んだものである限り、なぜ自分がそのような偏見を育んできたかの歴史や状況をふたたび学びなおすことで、捨て去ることもできるはずである。スピヴァックはそうした再学習のプロセスを通して、私たちが他者に関する知識を深め、他者と語りあう創造的な回路を作り出すよう励ましている。」(本橋哲也)

グローバリゼーションに代表される、この世界のあり方そのものを「サバルタン」(被抑圧者)の視点から批判的にとらえ返すためには、「学ぶ」ことの特権性とそれがもたらす偏見を自己批判することから出発せざるをえないと考えている。しかし、私たちに求められているのはかれらを代表することではなく、私たち自身を表象する方法を学ぶことである。

近代以降の社会の中で民衆が「学ぶ」ということは、他者と競争しながら勝ち抜くだけでなく、抑圧被抑圧の関係や支配被支配の関係を肯定し、(拡大)再生産することにつながることを自覚しなければならないのであろう。だからといって「学ぶ」ことを拒否するということにはならず、「忘れ去ってみる(unlearn)」」という表現に見られるように「learnunlearn」の意識化が重要だということになる。学ばなければ「忘れ去る」ことはできない。「学ぶ」こと自体にも意味があるのである。それは「それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ること」であり、特定の学習が知識や能力の獲得だけでなく、それと矛盾し否定される知識や能力を失うことにも注目しなければならないのだ。その意味でunlearnは、SECと言語化によって上り詰めた知を再び暗黙知へと引き戻す過程(I)に注目しようとするものであり、実践を通して学習者の<生>の個別性への回帰を求めるものと考えられる。

(2)吉茂における教養[xvii]

「学ぶ」ことによって失われるものに注目すると、何をどのように学ぶのかによりいっそう注意を向けなければならない。近代以前の近世社会で百姓として生きるうえで、読み書き算盤がどの程度必要なのかという問いに、「教養」(もしくは「世間」)という概念で阿部謹也は答える。

二ノ宮金次郎に代表される、いわゆる「篤農家」のイメージは薪を背負って歩きながら寸暇を惜しんで「学ぶ」姿勢であろう。しかしながら、田村仁左衛門吉茂はこれとはまったく別の方法で「学ぶ」のである。それは無筆無算であっても「農業だけは寝てもさめても怠ることなく努め」ることであり、農事(労働)を通じて現場で農業に必要な知識や能力、百姓としての生き方を「学ぶ」ことに徹したものである。両者の「学ぶ」ことへの向き合い方、学び方の違いをどのように考えるのか。

なぜ、吉茂が読み書き算盤に象徴される一般的な「学び」を拒否しようとしたのか。それは、こうした学びが近世社会の百姓が生きる「世間」にふさわしくないからであり、身分制社会の中で百姓として生きる者(被抑圧者)の「学び」であるからである。だが、吉茂は「学ぶ」ことそのものを拒否しているわけでない。あくまでも百姓として必要なことは農事(労働)を通して学ぶことを実践しているのである。その意味で「農書」すら、自らの農業に役立たないと思えば「学ばない」のである。

問題は、百姓としての「教養」を書物からではなく、主に農事を通して身につけたということである。労働や生活に必要な知識・能力を書物から得ることはできるかもしれないが、自らの労働や生活から「学ぶ」ことがない限り、生きた「教養」を手に入れることができないのであろう。こうした労働や生活からの「学び」を私たちは失いつつある。まさに、「学ぶ」ことによって「失ったもの」のひとつが、吉茂の「教養」である。

吉茂の「固有性」に固着した暗黙知は、他者との「共感性」を生み出す知の<共同化S>や形式知に至る<表出化E>すら拒否しているように見える。だが、吉茂は自らの知を言語化し、知の<内面化I>を意識していたからこそ、篤農家として後世に語り継がれるのである。

(3)教育者アラン[xviii]

吉茂とは逆に「役立つこと」を学ぶのではなく、すぐには「役立たない」ことを学ぶべきであるという主張をアランは展開した。

アランが考える教育の評価基準は「その考え方や技術が精神形成に適しているかどうか」ということであり、子どもたちを「判断するという役割、すなわち、人間らしい役割」にまで高められるかどうかが問題なのである。「あらゆる人間が、精神の鍛錬を必要としている」のであり、「自分が精神」であり、「悟性の体操」を繰り返すことで「考えることから離れ」ないようにしなければならないのだ。

アランは実生活で「役立つこと」を学ぶことが学校の役割ではないと考える。子どもたちが「精神的な存在」になるためには、練習問題や試験という「自己規律に至る機会」も重要である。アランの教育学は実践的・実用的な知識や能力を身につけさせようとする教育のあり方に対する痛烈な批判であり、人生・社会の主体者として生きるためには「自分は考えているのだ、自分は自由なのだということを知っており、またそういう自分を望んでいる人間の、誇り」を促す教育に尽きるのである。

アランの知は形式知のもっとも抽象化・言語化された段階から出発する。それはアランが教育の本質を<内面化I>にあり、「学ぶことを学ぶ」ことこそが教育に求められていると考えているからであろう。


おわりに

「学ぶ」ことを形式知で限り、スピヴァックのunlearn、吉茂の「教養」、「アランの教育」の意味を理解することはむずかしい。形式知と暗黙知を往還する口伝的世界の広がりを意識することは、近代化を支えてきた教育(教授的世界)の限界を乗り越えようとするものである。

ところで、大江健三郎も「unlearn」という言葉を「unteach」と組み合わせて、「学び返す」「教え返す」と翻訳する。大江は、「他の人間に教えることにありがちな過ちをおかすこと」「教えた相手から過ちを指摘されて、苦しく自己修正すること」「教えた相手から逆に励まされるということ」の経験が、人を「成熟」させると考えている。[xix]

 笹川が「学習」という言葉を『論語』や朱子学の世界から引用したことになぞらえて、ここでは禅宗の「不立文字の思想」の背景にある『荘子』の知のとらえ方に注目する。[xx]「荘子が人間のことばを信用しないのは、単にことばが体験的な事実を表現するのにふじゅうぶんだという理由だけからではない。それは道が絶対的で無限な真理が、人間のことばではいい表せないということである。人間のことばは、一つのものを二つに分け、相対差別を設けるという特性をもっている。人間のことばは『分別』や『弁別』によって、全体的で不可分な真理を破壊してしまうのである」(p.48)これは、老子や荘子が多くの弟子を抱えず、積極的に世に出ようとしなかったことに通ずる。それは大江が指摘するように「教えることにありがちな過ち」をおかさないためであり、言語化された知の限界をよく理解していたからであろう。

かつて地域社会では「学び返し」「教え返す」ことが当たり前であり、それだけ「まなびほぐす」チャンスも多かったにちがいない。それは教育が社会的機能として十分に自立しておらず、学校という社会装置が知を独占していなかったからであろうか。いまも社会には口伝的世界が埋め込まれており、社会教育の現場には「学び返し」「教え返す」学習過程が存在する。学校に象徴される教授的世界にとらわれず、近代化によって「失われた」教育のあり方に注目することも必要である。ESDが「グローバリゼーションの時代」に<向き合う>教育の新たなパラダイムであるとするならば、学習者の<生>の個別性に寄り添い、「学び返し」「教え返す」学習こそが求められているにちがいない。



[i] 学会年報として『国際識字10年と日本の識字問題』(第35集、東洋館出版社、1991年)、『多文化・民族共生社会と生涯学習』(第39集、東洋館出版社、1995年)、『グローバリゼーションと社会教育・生涯学習』(第49集、東洋館出版社、2005年)、『アイヌ民族・先住民族教育の現在』(第58集、東洋館出版社、2014年)などをあげることができる。

[ii] 朝岡幸彦「グローバリゼーションのもとでの社会教育・生涯学習」『グローバリゼーションと社会教育・生涯学習』(第49集、東洋館出版社、2005年)、p.919

[iii] その後の成果として『<ローカルな知>の可能性』(第52集、東洋館出版社、2008年)がまとめられている。

[iv] 荻野亮吾・都甲友理絵「ESDと社会教育を巡る論点の整理」(2014年度日本社会教育学会6月集会ラウンドテーブル)。

[v] 笹川孝一・牧野篤・荻野亮吾・中川友里絵・金宝藍「社会教育学の視点からESDを問い直す」『環境教育』(VOL24-3,日本環境教育学会、20153月)p.417

[vi] 国際自然保護連合(IUPN)は、1956年に国際自然及び天然資源保全連合(IUCN)に名称を変更した。

[vii] 朝岡幸彦「グローバリゼーションのもとでの環境教育・持続可能な開発のための教育(ESD)」『教育学研究』(第72巻第4号、日本教育学会、2005年)、p.530542

[viii] 『環境教育指導資料[幼稚園・小学校編]』(国立教育政策研究所教育課程研究センター、2014年)

[ix] 原子栄一郎「持続可能性のための教育論」、藤岡貞彦編『<環境と開発>の教育学』(同時代社、1998年)、p.86109

[x] 朝岡幸彦・石山雄貴「東日本大震災後の環境教育の視点」、日本環境教育学会編『東日本大震災後の環境教育』(日本の環境教育 第1集、東洋館出版社、2013年)、p.114

[xi] 櫃本真美代・朝岡幸彦「東日本大震災後のESD」、日本環境教育学会編『環境教育とESD』(日本の環境教育 第2集、東洋館出版社、2014年)、p.2128

[xii] 朝岡幸彦「公害教育と地域づくり・まちづくり学習」『環境教育』(VOL19-1,日本環境教育学会、20091月)p.8192

[xiii] マイケル・ポランニー『暗黙知の次元』(ちくま学芸文庫、2003年)

[xiv] 「道とはなかなか理解するのが難しいものですが、そもそも道を定義すること自体、老子は拒否しています。あらゆる言語表現に対しても二人はともに否定的で、老子は『知る者は言わず、言う者は知らず』とまで言い切り(第56章)、荘子も『言は弁ずれば而ち及ばず』(斉物論篇)といい、話さないことこそ『不弁の弁』として推奨しています。」(玄侑宗久『荘子』p.1819NHKテレビテキスト、2015年)

[xv] 野中郁次郎、紺野登『知識創造の方法論』(東洋経済新報社、2003年)

[xvi] 本橋哲也『ポストコロニアイリズム』(岩波新書、2005年)

[xvii] 阿部謹也『「教養」とは何か』(講談社現代新書、1997年)

[xviii] ジョルジュ・パスカル『教育者アラン』(吉夏社、2000年)

[xix]大江健三郎『定義集』/【「学び返す」と「教え返す」】人はいかに学びほぐすか(2007123日付け朝日新聞)

[xx] 森三樹三郎「荘子」『世界の名著 老子 荘子』(中央公論社、1968年)。


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東日本大震災後のESD「抵抗の原理」の視点から

櫃本真美代・朝岡幸彦

1 グローバリゼーションに向き合う視点

 「持続可能な開発のための教育(ESD)」概念とDESDが提起された背景には、グローバリゼーションへと向かう世界のあり方に対する市民・民衆の「抵抗の原理」が見られる。他方で、東日本大震災(3.11)と福島第一原発事故によってもたらされた被災地の「復興」のあり方においても、グローバリゼーションに呼応する「創造的復興」への被災者・避難民の「抵抗の原理」が問われている。国連・持続可能な開発のための教育の10年(UN-DESD/20052014年)の最終年を迎えるに当たって、改めて個人や地域はグローバリゼーションにどのように向き合うのか、ポストDESDとしてESDはどのように構想される必要があるのかを「抵抗の原理」という視点から検証したい。

1980年代以後、「公害問題」は解決したかのように扱われ、「環境問題」にとって変わられた。鬼頭秀一は、地球環境問題の出現により被害者・加害者の明確な識別ができなくなったとされるが、被害者・加害者の特定は単なる表層的な問題に過ぎず、問題は政策論的な環境問題の視点が社会を席巻したことだと述べる。公害被害者自身の「生」の問題が捨て置かれたのだ。その意味で、東日本大震災や原発事故で故郷を追われた住民の生きざまも、創造的復興という視点にとって変わられてはいないだろうか。このような被害者の「生」の個別性から被害の全体像をとらえることを鬼頭は「抵抗の原理」の視点とよび、汚染物質の範囲や濃度、被害者の数といった「数字で表現できる部分的なもの」ととらえる上からの「政策論的な視点」と対比した(鬼頭秀一、2007年)。

 「抵抗の原理」である公害被害者の「生」の問題に対して、東日本大震災や原発事故の被災者・避難民の「生」の問題が、グローバリゼーションに対する「抵抗の原理」として理解される必要がある。ESDは東日本大震災を経て、「抵抗の原理」に基づいた新たな教育としての可能性をもつと考えられるのではないか。

2 水俣病患者と原発避難民

水俣病は60年余を経たいまなお、患者認定の問題をめぐって裁判が行われている。なぜ、水俣病患者と原発避難民は構造的に類似せざるをえないのであろうか。

水俣の問題は、高度経済成長期の日本各地の公害問題をあぶり出すことなく、水俣という「地方」の問題とされた。1956年5月1日が水俣病の公式発見とされているが、国が水俣病を公式に認めたのは1968年9月、実に12年もの時間が経過している(水俣市立水俣病資料館、2008)。その間に何ら有効な手段がとられることはなく、日本の高度経済成長を支え、日本人の生活水準が上がる一方で、同じ日本人である水俣病患者の命が削られていった。

他方で、原発避難民は都市への電力供給のために建設された原子力発電所の事故に苦しめられている。その原因となった原発の誘致は過疎化・高齢化が進む「地方」における雇用創出と補助金による財源の確保を求めた代償と評価され、その根本にある都市と地方の格差構造が問われない傾向がある。原発誘致から放射能汚染の問題に至る構造的な問題は、福島(フクシマ)という「地方」の問題として理解されようとしている。さらに、多くの水俣病患者を抱える漁民が孤立した戦いを強いられたように、住み慣れた故郷を追われた原発避難民も次第に孤立し、忘れ去られる危険性がある。

鬼頭秀一(2007)は、水俣の公害問題の構造を次のように論じる。

1980年代以後、「公害問題」が「環境問題」にとって変わられたことにより、公害の被害者自身の「生」の問題が捨て置かれた。かつて水俣で疫学的調査をした原田正純は、水俣病患者のライフヒストリーをもとに公害の実態をあぶり出している。鬼頭は、このような被害者の「生」の個別性から被害の全体像をとらえる「抵抗の原理」の視点を、上からの「政策論的な視点」と対比している。往々にして、政策論的視点は「抵抗の原理」を抑圧してしまう。だからこそ、被害者の「生」の個別性にこだわり、そこに「抵抗の原理」としての価値を見いださなければならないのである。

3 被害者の「生」の個別性

(1)戻りたくても戻れない故郷

2020年の東京オリンピックの開催が決まる2週間ほど前、都心でオリンピック招致のCMが流れ、きらびやかな雰囲気が漂っている中で、福島県会津若松市にある避難民が暮らす仮設住宅団地に住む住民のひとりは、「私たちは捨てられた」と語った。

東日本大震災から2年余が経過しても、なお「行き先が決まらない」と不安そうに語り始める。「家はあるのに戻れない」「大半の人が戻りたいと思っている」しかし、一時帰宅するたびに「戻れない」「住めない」という人がほとんどだ。屋根も落ち、窓も割れ、泥棒に入られた家もある。余震もまだ続く。草は繁茂し、ネズミやハクビシンの被害にあい、変わり果てた我が家を見て「もう住む家ではない」と思い知らされるのだ。

この仮設住宅団地はもっとも早く作られ、それだけ老朽化も進んでいる。そもそも仮設住宅は、「仮の住宅」であって長く住むために設置されたものではない。500人近くいた避難民もいまや半分に減ったという。仮設住宅にすべての町民が住んでいるわけではなく、借上げ住宅に住む人とはバラバラになってしまい、交流もなく篭ってしまう人、寂しさの中で亡くなっていく人、地域の支え合う関係が壊れ、DV、自殺未遂、離婚が絶えない。これが捨てられた避難民の現状である(2013年8月26〜28日聞き取り調査記録)。 

(2)「生きる」ということ

人が生きるために何が必要なのか。生きるための最低条件として衣食住だけでは、人は生きることができない。1976年に国際労働機関(ILO)が「衣食住だけでなく教育や医療、雇用などを含めて人間の基本的欲求が満たされること」としてbasic human needs(BHN)という概念を提唱した。この概念を原発事故の影響下にある住民に当てはめてみる。

南相馬市の市街地(原町)は福島原発から22.3kmの所に位置しており、津波の被害も少なく、目立った被害のない地域である。しかし、商工会議所での聞き取りによると、福島第一原発が「爆破した音」が聞こえ、「キノコ雲を見た」という住民もいるという。原爆の被害を類推させる経験をし、その影響下にある地域に住まざるを得ないこと自体が「人間らしく生きること」を剥奪されているといえる(2013年8月26〜28日聞き取り調査記録)。

ある職員の父親は2013年3月に亡くなった。肺炎で市内の病院に入院していたが、「病院食が詰まって」亡くなったそうだ。病院食は細かく刻まれており、万が一のときにはナースコールが使えるため、このような事態は起こりにくい。別のフロアにあったナースセンターには3人しか看護師がおらず、「目が行き届かなかったのではないか」「震災がなければ死ななかったのでは」と悔しそうに語る。その後も多くの医師や医療関係者が市外に転出し、小児科をはじめとして極端な医療過疎が生じている。

さらに、買い物のできる店舗も限られている。郊外の大型店に隣接する仮設住宅団地の住民の利用があるものの、購買層の中心となる高齢者に合わせて日中しか営業しておらず、週末を除いて勤労世帯の買い物には使えない。また、単身赴任者はコンビニに行くのが定番となっている。郊外の大型店とコンビニ以外の店舗は以前のような客足を望めず、東京電力からの賠償金を頼りに細々と営業を続けている。「安全宣言」が出されても少なからぬ世帯が市外・県外に子どもと家族を残して単身赴任を続けているといわれており、地域は被災前とはかけはなれた姿となっている。市内にとどまろうとしている中高年には雇用の機会が少なく、除染・復興関連事業の労働者によって市内のアパートやホテルも満室の状態が続いている。「本当にこの地域に住んでいいのか」「今でも避難したいと思っている」と住民の本音が出る。このように直接震災被害を受けていない地域においても、BHNが満たされていないのは明らかである。

(3)人間性が否定される<シャカイ>

人が生きるためにはBHNのような物質的要求がまず必要であるとはいえ、「人間らしく生きる」ためにはそれだけでは不十分である。

水俣において、奇病・伝染病と恐れられた水俣病に襲われた住民は、病気に苦しんだだけでなく人間関係もズタズタに切り裂かれていた。たとえ物質的に豊かになったとしても、抑圧された社会の中で「人間らしく生きていく」ことがどれほど難しいか、水俣病患者である故・杉本栄子さんの当時の様子からも伺える(立教大学ESD研究センター、2010年)。

「村八分なんて楽なものよ。無視されるだけだから。私たちは、人間扱いではないんだ。鬼畜の扱いを受けた。火付けるぞと言われた。まちを歩いても物は売ってくれない。石は投げられる。」

「村を歩いていたら、最初に水俣病になった母親のトシさんを隣人が崖から突き落として、這い上がってきたら突き落として…。地獄でしたね。信じられません。突き落とされた下のほうで糞尿をぶっかけるとか、家のガラスを全部割られるとか…。」「…妻のトシさんが最初の水俣病の患者になって、病院に連れていきました。でも、伝染病と疑われていたので、村の人たちは家に隠していました。魚が売れなくなるからです。村を歩くなと言われ、道を歩けなくて、鎌で裏山に道を作りながら行っていました。」「…裁判を続けていったら、親戚まで使って(被告の)チッソは切り崩しにきました。結局、村でたった一件(原文ママ)の裁判する家族になってしまい、凄まじいいじめが始まっていきました」

これは水俣という「地方」の出来事ではあるが、このような状況を助長させた日本社会の問題でもある。澤佳成(2010)は、「医学者が『原因はメチル水銀ではない』と批判したり、政治家が被害者に対して『ニセ患者』と騒ぎ立て」たり、「疎外された状況を肯定する世論や常識、科学、教育、マスコミ、政治といった…権威は、社会的矛盾が社会の流れに澱みを作りそうになったとき、当事者にはひどい仕打ちをし、世間には真実を歪曲して知らせることによって、何事もなかったかのように地ならしをする役割を果たしてきた」とし、社会的矛盾への抑圧があるとする。さらに、「責任には他者を尊重する姿勢が必要である」としたエーリッヒ・フロムを参考に、日本の公害・食害・薬害事件の被告側(チッソ・県・国)のように、「行政活動・経済活動といった日本の社会的活動の一部では、基本的に他者への配慮を欠いており、市民を、消費者を、患者を、人間として尊重するという意識が低かったのではないか」としている。このような矛盾を抱え、抑圧した社会は、円滑な社会のために無意識化されており、「他者の疎外の肯定のうえにしか成立しないシステムに生かされている」社会であるとして、<シャカイ>と呼ぶ。他者を疎外するということは、他者に疎外されるということでもある。疎外された<シャカイ>とは、「社会的排除」が行われている<シャカイ>である。

「社会的排除」は、戦後復興と福祉諸制度から排除されている人びとが1970年代のフランスで指摘され、1980年代の若年者失業問題を抱えたヨーロッパ諸国で注目された(岩田正美、2008年)。岩田は「社会的排除」が貧困をはじめ社会から不当に閉め出されている人びと、社会参加の欠如、ネットワークや連帯感といった「関係」あるいは「資本」が不足していることを指し、「社会の中の個人を問う(人は社会を必要とする)と同時に、その社会そのものを問う(社会は人を必要とする)」概念であると説明する。

人は社会を必要とする。個性をもった「ひとりの人間」として社会が水俣病患者や原発避難民に関心を持たない限り、「高度経済成長」や「復興」の陰に無意識化され、人を尊重しない、必要としない、人間性が否定された<シャカイ>で生きるしかない。そのような<シャカイ>に未来はあるのだろうか。

4 ESDは「社会的排除」とどう向き合うのか

鈴木敏正(2002)は、「社会的排除がいかに現在のわれわれをとりまく構造やシステムによって規定されているとしても、それは人々の日常的意識をくぐって現実のもの」となっており、「無意識的なものとして存在」しているからこそ「排除の意識」を教育実践によって克服することが課題であるとする。その主体は「社会的に排除された人々自身である」とし、パウロ・フレイレが識字教育実践を通して被抑圧者の意識化を図った実践を重ねる。

フレイレは、人は生の営みの中で打開せねばならない障壁や障害、すなわち「閉塞・状況」に直面した際、打開のために行動を起こす者は、「閉塞・状況」を批判的に知覚しており、状況を理解したからこそ行動するとする(里見実、2001年)。「自分を閉じ込めている状況から自分を分離し、それを距離化(異化)し、対象化する」ことで、「いまここにある現実を引き離して見つめ、状況を根底的に、その深部において理解するときに、はじめて、それはある問題として見えてくる」とし、「未然の可能性」が現実化・具体化していく過程を示した。これを鈴木は、「社会的に排除された人々自身」が主体となる自己教育活動を通して意識変革されなければならないとする。

しかし、社会的に排除された人々が自分の置かれている状況を意識化し、声をあげて社会に立ち向かうことは、排除された人々に責任を押し付け、彼らが立ち上がらない限り社会の変革は望めないということにはならないだろうか。フレイレや鈴木は、「被抑圧者」「排除される人々」と同様に、「抑圧者」「排除する人々」の意識変革も両者の関係において不可欠であるとしている。今の社会状況を変革することを望んでいない「抑圧者」「排除する人々」にこそ、社会の矛盾を意識化させる教育実践が必要なのではないか。日本社会に届かない水俣病患者、原発避難民の「生」の声を考えずにはいられない。

他方で、朝岡幸彦(2005)はフレイレとイリイチとの対話(イリイチ、フレイレ、1980年)を引用しながら、教育を「現実を変革する梃子」と見なすことを批判してきた。ふたりの対話からわかることは、教育は社会(もしくは権力)によって装置化されたものであり、その本質的な機能は社会(もしくは権力)の維持にあるということである。フレイレが循環作用と呼んだ社会と教育の相互変容の過程では、一義的に社会が教育のあり様を規定しているのであり、社会変革の梃子として教育が機能するのは「社会によって変えることを許されたものを維持する」という第2段階においてである。ここに「社会的排除」を問題とし、排除する者と排除される者の双方の「意識化」を促す教育実践が、社会の矛盾の解決に直結するものではないという教育の「むずかしさ」が存在する。「教育は社会を変えられない」のである。

持続可能な社会を教育によって実現しようと試みるESDの実践において「誰が、なぜ、そのような問題を起こしたのか」という事実を知る、意識化することは重要である。「被抑圧者」「排除される人々」である被害者だけでなく、「抑圧者」「排除する人々」である当事者に行うことが必要である。これは教育者(教師)が事実を伝える責任を自覚してこそ成し遂げられるように思われる。しかし、社会的排除の「事実」を伝えるだけでは、排除を生みだす社会のあり方を変革することはできない。教育が社会を直接変革するものでないとすれば、社会の持続可能性を目指すESDで教育者(教師)もしくは学習のコーディネーターはどのように働きかけることができるのであろうか。

5 公害教育から受け継ぐもの

すでに、環境教育が公害教育から受け継ぐべきものとして、3つの視点(科学性、教師の役割、地域づくり)が提起されている(朝岡幸彦、2009年)。①「科学はだれのものなのか」という問いかけ(公害教育における科学性)は、沼津・三島・清水町石油化学コンビナート建設反対運動(1963〜64年)や北九州市戸畑区三六婦人学級の実践(1963〜65年)に代表される公害教育において、住民が学習を通じて被害の影響を科学的に分析し、広範な住民の合意を形成することで公害の発生や拡大を阻止したという事実に由来する。②「公害教育は『偏向教育』か」という問いかけ(公害教育における教師の役割)は、教師による公害教育の実践がしばしば「偏向教育」とのレッテルを貼られ、批判や攻撃の対象とされた事実をどう考えるかというものである。③「公害教育は終わったのか」という問いかけ(公害教育のその後)は、「公害問題」が「環境問題」に置き換えられたことによって公害教育は終焉したように見えるものの、実際には公害教育は地域づくり教育との融合を深めてESDの基盤となっているのではないかという見方につながる。

ESDがグローバリゼーションを前提とした社会に対するひとつの対案であるという意味で、ヘレナ・ノーバーグ=ホッジが『懐かしい未来』(2011年版)で提唱する「ローカリゼーション」を促す教育であると見ることができる。しかし、ESDが「公害問題」としてではなく地球環境問題を背景にした「環境問題」の流れの中で位置づけられる限り、ESDに「社会的排除」を引き起こす社会のあり方を変革する可能性を期待することはできない。ESDが環境教育の文脈を越えて人権教育やジェンダー教育などの領域により深く踏み込むことが求められているのである。公害教育は社会的排除を合理化する社会のあり方に対する当事者(公害被害者)と共感者(教師等)の実践として、教育実践そのものが排除の対象とされた歴史をもつ。「不都合な真実」の中に隠された社会的排除の事実に対して、オキュパイド運動や脱原発運動のような形で人びとが声をあげはじめていること、「声をあげる文化」が根づきはじめていることに注目する必要がある(民主教育研究所、2013年)。これを鬼頭のいう「抵抗の原理」と重ね合わせることは容易であり、ESDが公害教育から受け継がなければならない重要な役割である。<図>

フレイレとイリイチは対話を通して、「もし教育が何かを変える、とすれば、それが変えたものを維持する場合にのみ、変える力をもつ」ことで一致した(イリイチ、フレイレ、1980年)。これは教育が社会の中で変革することを許されるのは社会が求める変革に役立つ範囲内のことであり、社会が変わろうとするときにその変化を助長する限りのものであるという理解である。変容する主体は社会の側にあり、教師には教育を通じて「変えたものの中でも正しい変容を維持する」ことが求められているのである。その意味で環境問題とともに社会的排除を内包する社会と厳しく向き合うことなしには教育をなしえないのであり、将来の(もしくは次の世代による)変革の可能性を担保し助長する役割がESDにも求められている。 

<引用・参考文献>

立教大学ESD研究センター『地元学から学ぶ 講演会記録集』、2010年。

岩田正美『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』、有斐閣、2008年。

鬼頭秀一「水俣と抵抗の原理としての環境倫理学」、最首悟・丹博紀編『水俣五〇年 ひろがる「水俣」の思い』、作品社、2007年。

水俣市立水俣病資料館編『水俣病その歴史と教訓2007』、水俣市企画課、2008年。

里見実『パウロ・フレイレ 希望の教育学』、太郎次郎社、2001年。

鈴木敏正『社会的排除と「協同の教育」』、お茶の水書房、2002年。

澤佳成『人間学・環境学からの解剖 人間はひとりで生きてゆけるのか』、梓出版社、2010年。

朝岡幸彦「グローバリゼーションのもとでの環境教育・持続可能な開発のための教育(ESD)」、日本教育学会『教育学研究』第72巻第4号、2005年。

I・イリイチ、P・フレイレ『対話〜教育を超えて』、野草社、1980年。

朝岡幸彦「公害教育と地域づくり・まちづくり学習」、日本環境教育学会『環境教育』第19巻1号、2009年。

ヘレナ・ノーバーグ=ホッジ『懐かしい未来』、懐かしい未来の本、2011年。

特集「『超えをあげる文化』をとりもどす」、民主教育研究所『季刊 人間と教育』77、旬報社、2013年。

キーワード:東日本大震災、グローバリゼーション、ポストDSED、公害教育、「抵抗の原理」

日本環境教育学会編『環境教育とESD』(2014年3月予定、東洋館出版社所収)


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(多摩住民自治研究所「多摩の大地」2013年度年報、収録予定)
環境教育学の課題〜ESDと新たな学習論の模索〜
朝岡幸彦

1 環境教育とESD
「環境教育(Environmental Education)」は1948年の国際自然保護連合(IUCN)の設立総会で提唱されたものである。この概念が広く使われる契機となったものが、「環境教育は、個人、企業及び地域社会が環境を保護向上するような考え方を啓発し、責任ある行動をとるための基盤として必須のものである。」(人間環境宣言第19項)と宣言した国連人間環境会議(ストックホルム会議/1972年)である。さらに、ユネスコ環境教育専門家ワークショップ(ベオグラード会議/1975年)において環境教育の6つの目的(認識、知識、態度、技能、評価能力、参加)や環境教育の目標を「環境とそれに関連する諸問題に気づき、関心を持つとともに、現在の問題解決と新しい問題の未然防止に向けて、個人及び集団で活動するための知識、技能、態度、意欲、実行力を身につけた人々を世界中で育成すること」(ベオグラード憲章)が確認されてきた。
こうした環境教育の理解に、その後、大きな影響を与えたものが「持続可能な開発(Sustainable Development)」(世界環境保全戦略=WCS/1980年)という概念である。チェルノブイリ原発事故(1986年)は欧州を中心に新たな環境問題の登場を印象づけるとともに、「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たす開発」(ブルントラント委員会最終報告書)と定義される持続可能な開発に向けた国際的な取り組みの緊急性を示すものとなった。環境と開発に関する国連会議(地球サミット/リオ・サミット/1992年)では地球環境問題に関する国際的な取り組み(気候変動枠組条約、生物多様性条約など)が合意されるとともに、環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議/1997年)の「持続可能性という概念は、環境だけでなく、貧困、人口、健康、食料の確保、民主主義、人権、平和をも包含するものであり、最終的には道徳的倫理的規範であり、そこには尊重すべき文化的多様性や伝統的知識が内在している」(テサロニキ宣言)を経て、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット/2002年)の「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development)」概念や国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD/2005年〜2014年)へとつながった。

環境教育の歴史

年次

会議等

1948

1972

1975

1980

1985

1992

1997

2003

2005

2010

2011

2012

国際自然保護連合設立総会:「環境教育」の提唱

ストックホルム会議:人間環境宣言で「環境教育」の重要性を強調

ベオグラード会議:環境教育の目的と目標

世界環境保全戦略:「持続可能な開発」の提唱

チェルノブイリ原発事故

地球サミット:気候変動枠組条約、生物多様性条約など

テサロニキ会議:「持続可能性」概念の定義

ヨハネスブルク・サミット:「持続可能な開発のための教育(ESD)」の提唱

国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD)の開始(~2014年)

生物多様性条約第10回締約国会議(COP10)開催(愛知・名古屋)

東日本大震災と福島第一原発事故

リオ+20会議:グリーンエコノミーの提唱


2013年7月に開催された国連持続可能な開発会議(リオ+20/2012年)において、東日本大震災や福島第一原発事故(2011年)がどのような影響を与えたのかは明らかではない。しかし、環境教育やESDに関する私たちの捉え方に大きな転換が求められていることは明らかである。

2 東日本大震災後の環境教育
 おそらく東日本大震災(2011年3月)とその後の福島第一原発事故は、日本の環境教育のあり方に大きな転換をもたらすに違いない。しかし、「3.11以後の日本が直面している状況は特殊で一過性のものではなく、グローバリゼーションへと向かう世界が生みだす構造改革の大きな『軋み』として理解すべきもの」(朝岡「3.11以後のESD」/佐藤・阿部編著『ESD入門』筑波書房、2012年)である。つまり、大災害が歴史を転換したのではなく、グローバリゼーションの歯車を前に進める役割を果たすのであり、この危機への向き合い方が転換をもたらす可能性をもつと理解すべきだと思われる。「復旧」「復興」「再稼働」などの「元に戻す」行為では、この危機は乗り越えられないものであり、ことここに至った原因と方法そのものを積極的に見直すことが求められている。もちろん、原発事故をめぐって、なぜこうした事故を引き起こしてしまったのか、これからどのようにすべきなのかという(広義の)「放射線教育」は、これらの前提として必要です(日本環境教育学会は『原発事故のはなし』授業案作成WGを発足させている)。
 環境教育に関連して少なくとも2つの次元で、その歴史や概念・方法等を見直さなければならない。1つは、(とりわけ日本の)環境教育が(暗黙の)前提としてきた「やさしい自然(折り合える自然)」という捉え方に「厳しい自然(抗いがたい自然)」という視点を付け加えることである。地震や津波、台風、火山の噴火などによる巨大な自然災害は、自然の生態系とともに、私たち人の生命や生活を危機に陥れる。また、放射能によって汚染された世界は、人間自身が作り出した最悪の災害であるといえる。2つ目は、環境教育を「統制的理念」(カント)の視点、「ローカルな知」やunlearnの概念によって見直すことである。自然や環境について学べば、人はおのずと問題を解決する主体と成りうるものであると考えてきたように思われる。しかしながら、「学ぶ」ことによって失う世界があること、「無限に遠いものであろうと人がそれに近づこうと努める」(柄谷行人)ことが必要であることを視野に入れた、新たな教育観が求められている。

3 「学ぶ」ことの意味(ノート1)
 「学ぶ(learn)」ことはよいことであると誰もが考える。例えば、福沢諭吉『学問のすすめ』(1872(明治5)年2月初編発行)は、以下のように説く。

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。(中略)身分重くして貴ければおのずからその家も富んで、下々の者より見れば及ぶべからざるようなれども、その本を尋ぬればただその人に学問の力あるとなきとによりてその相違もできたるのみにて、天より定めたる約束にあらず。諺にいわく、「天は富貴を人に与えずして、これをその人の働きに与うるものなり」と。されば前にも言えるとおり、人は生まれながらにして貴賤・貧富の別なし。ただ学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となるなり。

 だれもがよく見聞する「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」に続く文言は、実際の社会には「その有様雲と泥との相違ある」のであり、その原因は「学ぶと学ばざるとによりてできるものなり」と断言する。つまり、「学ぶ者」は賢人として成功を納めて冨み、「学ばざる者」は愚人として貧しく生きることはやむを得ないのだ、と読める。だから、福沢は「学問をすすめる」のである。
 とはいえ、福沢がすすめる学問は「実なき学問」ではなく、「人間普遍日用に近き実学」である。

 学問とは、ただむずかしき字を知り、解し難き古文を読み、和歌を楽しみ、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学もおのずから人の心を悦ばしめずいぶん調法なるものなれども、古来、世間の儒者・和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来、漢学者に世帯持ちの上手なる者も少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人もまれなり。これがため心ある町人・百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。
 されば今、かかる実なき学問はまず次にし、もっぱら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。譬えば、いろは四十七文字を習い、手紙の文言、帳合いの仕方、算盤の稽古、天秤の取扱い等を心得、なおまた進んで学ぶべき箇条ははなはだ多し。地理学とは日本国中はもちろん世界万国の風土道案内なり。究理学とは天地万物の性質を見て、その働きを知る学問なり。歴史とは年代記のくわしきものにて万国古今の有様を詮索する書物なり。経済学とは一身一家の世帯より天下の世帯を説きたるものなり。修身学とは身の行ないを修め、人に交わり、この世を渡るべき天然の道理を述べたるものなり。
 これらの学問をするに、いずれも西洋の翻訳書を取り調べ、たいていのことは日本の仮名にて用を便じ、あるいは年少にして文才ある者へは横文字をも読ませ、一科一学も実事を押え、その事につきその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者は貴賤上下の区別なく、みなことごとくたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に、士農工商おのおのその分を尽くし、銘々の家業を営み、身も独立し、家も独立し、天下国家も独立すべきなり。

 明治日本が必要とした「学び」は、いわば立身出世のための学びであり、学問であった。こうした学問の延長上に、富国強兵につながる近代国家・日本の姿が位置づくことは想像に難くない。

 他方で、現代社会において「学ぶ」ことが人としての不可欠の権利であるとも考えられている。「ユネスコ学習権宣言」(第4回ユネスコ国際成人教育会議(パリ)の宣言(1985年))はその典型であろう。

学習権を承認するか否かは、人類にとって、これまでにもまして重要な課題となっている。
学習権とは、
読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読み取り、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。
成人教育パリ会議は、この権利の重要性を再確認する。

 この学習権を構成する6つの権利にどのような意味が含意されているのか、多くの教育学者や実践家が議論している。しかし、ここでは「なぜ学ぶのか」という問いに答えるために、この文章に続く以下の文言に注目したい。

学習権は未来のためにとっておかれる文化的ぜいたく品ではない。それは、生存の欲求が満たされたあとに行使されるようなものではない。学習権は、人間の生存にとって不可欠な手段である。もし、世界の人々が、食糧の生産やその他の基本的人間の欲求が満たされることを望むならば、世界の人々は学習権をもたなければならない。
もし、女性も男性も、より健康な生活を営もうとするなら、彼らは学習権をもたなければならない。もし、わたしたちが戦争を避けようとするなら、平和に生きることを学び、お互いに理解し合うことを学ばねばならない。

 まさに「“学習”こそはキーワード」なのである。「このように学習権を理解することは、今日の人類にとって決定的に重要な諸問題を解決するために、わたしたちがなしうる最善の貢献の一つ」であるのだが、学習権は「たんなる経済発展の手段」ではなく、「基本的権利の一つとしてとらえられなければならない」のだ。それは「人々を、なりゆきまかせの客体から、自らの歴史をつくる主体にかえていくもの」だからである。
 こうした学習権の理解は、「国連ミレニアム開発目標(MDGs)」(2000年)によって、大きなリアリティを獲得する。国連ミレニアム・サミットに参加した189の国連加盟国代表が、21世紀の国際社会の目標として「国連ミレニアム宣言」を採択した。この宣言と1990年代に開催された主要な国際会議やサミットでの開発目標をまとめたものが「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals: MDGs)」である。MDGsは国際社会の支援を必要とする課題に対し2015年までに達成するという期限付きの8つの目標、21のターゲット、60の指標を掲げている。その中に「2 2015年までに、すべての子どもたちが、男女の区別なく、初等教育の全課程を修了できるようにする。」がある。

初等教育の年数と、小学校がどの程度、生徒を卒業させることができるかにもよるが、期限どおりにこの目標を達成するためには、正規の小学校入学年齢の子どもたちが全員、2009 年頃までに学校に通っていなければならない。しかし、データが入手できるサハラ以南アフリカ諸国の半数では、2008 年の時点で初等教育就学年齢の子ども4 人に1 人以上が学校に通えていない。
この目標を達成するためには、各国が需要に見合う十分な教員と教室を確保する必要もある。サハラ以南アフリカだけを見ても、2015 年までに現在の2 倍にあたる教員が必要となる。(中略)

42 カ国の家計データによると、農村部の子どもは都市部の子どもに比べ、学校に通えない可能性が2 倍に上る。
また、同じデータからは、農村・都市間の格差が男子より女子で若干高いこともわかる。最貧層20%の世帯の女子は、最も教育を受けることが難しく、学校に通えない可能性が最富裕世帯の女子の3.5 倍、最富裕世帯の男子の4 倍にそれぞれ及んでいる。最富裕世帯の男子は、その他どの集団と比べても、学校に通えない可能性が低い(10%)。
子どもが学校に通わないことには、費用を含めてさまざまな理由がある。教育に対する社会的、文化的障壁も広く見られる。多くの国々では、女子を教育する価値が、男子を教育する価値よりも低いと広く考えられている。さらに、全世界で障害を持つ子どもたちにとって、教育の機会は健常者よりもはるかに限られている。

障害と教育からの疎外との結びつきは、開発水準に関係なく、各国で見られる。障害を持っていることによって、子どもが一度も学校に行けない確率は、マラウイとタンザニア連合共和国で2 倍、ブルキナファソでは2.5 倍に高まる。普遍的初等教育という目標の達成により近い国々の中にも、教育を受けられない子どもの大半を障害者が占めている国がある。7 歳から15 歳の子どもの就学率が2002 年の時点で90%を越えているブルガリアやルーマニアでも、障害を持つ子どもの就学率は58%にとどまっている。
 
 こうして「学ぶ」ことは近代以降、すべての人びとに平等に保障されなければならない権利であるとともに、個人の幸福の実現を担保するものとして無条件に勧められてきたように思われる。
 
4 なぜ「学び捨て」なければならないのか(ノート2)
(1)サバルタンとどう向き合うか(本橋哲也『ポストコロニアイリズム』岩波新書、2005年)
 「学ぶ」ことが前提抜きに肯定される状況に対して、異議申し立てするのがスピヴァックである。本橋哲也は、スピヴァックの脱構築的姿勢の四つの「スローガン」(ドナ・ランドリーとジェラルド・マクリーン)を紹介している。「①あらゆることに関して自分が学び知ってきたことが自らの特権のおかげであり、またその知識自体が特権であると認めること。そのことと同時に、それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ることで、その知の特権を自分で解体し、いわば「学び捨てる(unlearn)」こと。」「②倫理とは単に知識の問題ではなく、なによりも関係性へのよびかけであること。」「③脱構築はなんらかの具体的な政治プログラムの基礎となることはできない。しかし脱構築は、『労働者』『女性』といった普遍性をよそおう大文字言語が、じっさいには現実の対象者を持たないことを示してくれる。」「④人がそこに安住することをのぞまざるを得ないような既成の構造を、執拗に批判し続けること。それこそが脱構築の基本的姿勢である。」

①あらゆることに関して自分が学び知ってきたことが自らの特権のおかげであり、またその知識自体が特権であると認めること。そのことと同時に、それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ることで、その知の特権を自分で解体し、いわば「学び捨てる(unlearn)」こと。
いわゆる「先進国」で生きている私たちは、国際的な労働市場においても市民としての権利においても、あるいは教育の機会においても、恵まれていることが多いはずだ。それはたしかに「特権」なのだが、そのような特権的位置のおかげで私たちは、性や人種、社会的地位などに関するさまざまな偏見や差別をも無意識のうちに学んできてしまっているのではないだろうか。しかしそれらが学んだものである限り、なぜ自分がそのような偏見を育んできたかの歴史や状況をふたたび学びなおすくことで、捨て去ることもできるはずである。スピヴァックはそうした再学習のプロセスを通して、私たちが他者に関する知識を深め、他者と語りあう創造的な回路を作り出すよう励ましている。
 
 脱構築という手法による表現が難解にしているが、この引用から「学び捨てる(unlearn)」ことが、いまなぜ必要なのか、おおよそ理解できるだろう。グローバリゼーションに代表される、この世界のあり方そのものを「サヴァルタン」(被抑圧者)の視点から批判的にとらえ返すためには、「学ぶ」ことの特権性とそれがもたらす偏見を自己批判することから出発せざるをえないと考えているのである。それを解説しているのが、以下の文章である。

 知識人はどのようにサバルタンと向き合えばよいのか?ここでスピヴァックは彼女自身が関与する西ベンガルの貧農や労働者に対する初等教育プログラムについて言及する。それは彼女にとって他者を知り、自らをも知ってもらうことで、他者と向き合い、他者の現実の生活の場においてお互いを語りあう回路を作り出す最初の一歩だからである。それはしかし、他者になり代わって語るということとは違う。むしろ自分たちがどのように他者に言葉をかけうるのかを、他者から学ぶことなのだー「最低限度の生活を維持できる程度の自作農民、未組織の農業労働者、部族民、該当や田舎にたむろしているゼロ労働者たち(zero workers)の群れ…と向き合うということは、かれらを代表(vertreten)することではなく、わたくしたち自身を表象(darstellen)する方法を学ぶことである」。

ここからスピヴァックは、ポストコロニアル知識人の責務として、サバルタン女性に向き合うための、先述した「学び去る(unlearn)」姿勢について述べる。
サバルタンの女性という歴史的に沈黙させられてきた主体に(耳を傾けたり、代わって語るというよりは)語りかけるすべを学び知ろうと努めるなかで、ポストコロニアルの知識人はみずから学び知った女性であることの特権をわざと「忘れ去ってみる(unlearn)」。このようにみずから学び知った特権をわざと忘れ去ってみるということはポストコロニアルの言説をそれが供給しうる最良の道具を用いて批判するすべを学び知るということをこそ意味しているのであって、ただたんに植民地化された者たちのいまは失われてしまった姿像を帝国主義的な歴史的叙述に代置するという意味ではない。

…つまりポストコロニアル知識人の務めは、被植民者に植民化される以前の原像を高みから提供することにあるのではなく、現在でも差別されている彼女たちの状態に寄りそいながら、そうした現状における自分自身の位置をも含めて改革を目指すことにある。…サバルタンとは単に耳を傾けるべき対象でも、ましてや語らせる客体でもなく、サバルタンでない人間が新しい主体を築くための対話のパートナーなのである。

 近代以降の社会の中で民衆が「学ぶ」ということは、他者と競争しながら勝ち抜くだけでなく、抑圧と非抑圧の関係や支配ー非支配の関係を肯定し、(拡大)再生産することにつながることを自覚しなければならないのであろう。だからといって「学ぶ」ことを拒否する(学ばない)ということにはならず、「忘れ去ってみる(unlearn)」」という表現に見られるように「learn」→「unlearn」の意識化が重要だということになる。学ばなければ「忘れ去る」ことはできない。だが、「学ぶ」こと自体にも意味があるのである。それは「それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ること」であり、特定の学習が知識や能力の獲得だけでなく、それと矛盾し否定される知識や能力を失うことにも注目しなければならないのだ。

(2)吉茂における教養(阿部謹也『「教養」とは何か』講談社現代新書、1997年)
 「学ぶ」ことによって失われるものに注目すると、何をどのように学ぶのかによりいっそう注意を向けなければならない。近代以前の近世社会で百姓(農民)として生きるうえで、はたして読み書き算盤がどの程度必要なのかという問いに「教養」という概念で阿部謹也は答える。

寛政二年(1790年)下野国河内郡下蒲生村に生まれた田村仁左衛門吉茂は生まれつき手習いが嫌いで、親のいうことを聞かず、文字は必要に迫られて農事日記を付ける程度にとどまっていたという。算術も学ぶようにいわれていたが、それも気乗りがせず、無筆無算で幼年時を過ごしたのである。しかし農業だけは寝てもさめても怠ることなく努めていたという。五十一才のときに家督を譲り、子孫に伝えるべきことどもを書き記すことになった。それが『吉茂遺訓』と呼ばれて伝えられている。子供の育て方や隠居の仕方までさまざまな教えが書かれている。特に手習いについては単に技術としての手習いを否定し、人の道を知ることが大切なのだとしている。全く文字が読めなくては不自由だろうと思って子や孫に手習いを学ばせたりすると、掛け軸の文句を少し覚えたくらいで気位が高くなり、家族はもちろん、他人まで見下し、人の道を踏みはずしてしまう人間になることがあるという。
何事も自然に委ねて、時節を気長に待つことが大切であるという。どんなに急いでも、適切な時がこなければ稲も麦も実らない。心静かに時節の到来を待つべきだという。これも農業の中で身につけた処世術であろう。

 二ノ宮金次郎に代表される、いわゆる「篤農家」のイメージは薪を背負って歩きながら寸暇を惜しんで「学ぶ」姿勢であろう。しかしながら、田村仁左衛門吉茂はこれとはまったく方法で「学ぶ」のである。それは無筆無算であっても「農業だけは寝てもさめても怠ることなく努め」ることであり、農事(労働)を通じて現場で農業に必要な知識や能力、農民としての生き方を「学ぶ」ことを徹底したものであるといえる。もっとも、「篤農」を「精農」と区別して「農業の中に人生を見出し、農業に生甲斐と生きる喜びを悟得し、利己を超越し利他の堺に入り、農業の科学、経済の二面にとどまらず、道徳・宗教・芸術・哲学の面にまで達し、民族農業的理解のある人々」(吉澤秀雄、1956年)という意味では、二ノ宮も田村も「篤農」と言えるのであろう。ただ、両者の「学ぶ」ことへの向き合い方、学び方の違いをどのように考えるのかということなのである。

ところで、『吉茂遺訓』には「世間」という言葉が七ヵ所で使われている。その用法は今日の私たちの使い方と基本的に異なっているわけではない。「世間を見れば、大金持であった人がしまいに長持一つさへなくなって破産することも多い」といったような用例がほとんどすべてである。その中で「義理を欠いては、何事も成しとげることはできない。義理を欠く者には、たとい実施であろうとも家名を譲ってはいけない」とあり、「世間」の義理を守ることが強調されている。
身を持ち崩す原因として大酒を飲むことや色狂い、諸事があげられているが、これらは「世間」の誰もが知っている大道楽であり、そのほかに数え切れないほどの小道楽があり、それが原因で貧乏になってしまう場合が多いという。小道楽とは生半可な学を鼻にかける者、生半可な数学者、訴訟を好む者、理屈屋、芸事を好む者、庭いじりと植木好き、釣りや狩猟を好む者、名馬に凝る者、家の改築が好きな者、道具に凝る者、朝寝坊、夜更かしの好きな者、見栄っ張りなどである。

 なぜ、吉茂が読み書き算盤に象徴される一般的な「学び」を積極的に拒否しようとたのか。それは、こうした学びが近世社会の百姓(農民)が生きる「世間」にふさわしくないからであり、身分制社会の中で生涯、百姓として生きることを強制された者(被抑圧者)の「学び」であるようにも見える。

衣食住の三つは、自分の身分や財産にふさわしい規模より控えめにするのがよい、と書かれている。ここから見えてくるのは農業にすべての力を出し尽くし、質素な暮らしに甘んじていた一人の農民の姿である。小道楽として否定されていることがらを見ると私たちは吉茂が趣味もなく、厳しい規律を自分に課し、子供たちの教育方針の中で述べられているように厳格な父親であったように思える。それはおおよそ間違ってはいないであろう。しかし私達はこの時代の農業が現代のそれとはちがっていたことを忘れてはならない。

 だが、吉茂が「学ぶ」ことそのものを拒否しているわけでないことに注目する必要がある。あくまでも百姓(農民)として必要なことを農事(労働)を通して徹底的に学ぶことを実践しているのである。その意味では「農書」ですら、自らの農業に役立たないと思えば「学ばない」のである。

吉茂の著書『農業自得』を見ると「自らの愚かさを承知で後世のために著わすこの農書は、私が父の経験と知識を受け継いで、若いときから農業を愛し、ひとすじに努力を重ね、ついにすべての穀物、草木にいたるまで天地、陰陽、五行にもとづく自然の原理によって生育することを悟った過程をまとめたものである」と書かれている。吉茂は農業にすべてを投入し、悔いることがなかったと思われる。
吉茂の生涯で注目すべきことは若いときに寺子屋に行くよう勧められながらもそれを断り、算術の勉強も断って農業ひとすじに働いた点である。生半可な学問は鼻を高くさせるだけで、百害あって一利なしとされている。吉茂が文字を使いこなせるようになったのは五十歳以後であったと思われる。それまでは吉茂は父親から教えられたことと自らの経験に基いて農業を営み、書物から学んだのはかなり後のことであることが解る。
『農業自得』には吉茂が天保四年(1833年)の凶作に際して「農喩」という農書を読んだところ、『農業全書』の農業理論を修得すれば大凶作の年でも飢えに苦しむことはないと書いてあるのを知って『農業全書』等を読んだとある。しかし播種量に関しては「薄蒔き」と書いてあるだけで分量が明記されていないので自分で数十年かけて修得した方法など、これまでの農書に書かれていないことを記すことにしたとあり、ほとんど自らの経験の中で学んだことを示しているのである。

 問題は、百姓としての「教養」を書物からではなく、主に農事(労働)を通して身につけたということである。労働や生活に必要な知識・能力を書物から得ることはできるかもしれないが、自らの労働や生活を通して「学ぶ」ことがない限り、生き方としての「教養」を手に入れることができないのであろう。

『農業自得』には単に技術だけでなく、作物の豊凶の予測や天候、水利、田畑の陰陽、耕作帳の記帳法など農業をめぐる様々なことがらが記されている。『農業自得』と『吉茂遺訓』の両者から吉茂が農業に従事しながらおこから陰陽学をはじめとしてさまざまな学問を自ら身につけていった過程が解るのである。『吉茂遺訓』には子供の教育のありかたから隠居の仕方に至る人の生き方の基本が説かれている。それらを吉茂は農業の中から自ら学び取っていったのである。
もちろん平田篤胤との交流もあったし、五十歳以後には多少の農書にも目を通している。しかし彼の生涯を通じて教養のすべては農業の中にあったといってよいであろう。そしてそれは彼が一人で獲得したものではなかった。多くの農民たちとのつき合いの中でそれらの人々との共同の労働の中で身につけていったものであった。その意見で彼の教養は個人の教養ではなく、共同作業の中で身につけていったものということができるだろう。

 こうした労働や生活を通しての「学び」を私たちは失っているのかもしれない。まさに、「学ぶ」ことによって「失ったもの」のひとつが吉茂の「学び」である。

(3)教育者アラン(ジョルジュ・パスカル『教育者アラン』吉夏社、2000年)
 何をどのように学ぶべきなのか、という問いはフランスの教育学の中にもユニークな形で受け継がれている。吉茂とは逆に「役立つこと」を学ぶのではなく、すぐには「役立たない」ことを学ぶべきであるという主張をアランは展開した。

「生徒たちは、すでに考えられたことを学ぶためではなく、自分で考え、自分で行動することを学ぶために、学校へ行かなければならない」と、カントはいった。この言葉は、アランの教育学の本質的なところを、かなり性格にいい表わしている。というのは、教育のさまざまな考え方、あるいは技術のなかで、アランが、何を非難し何を是認するかを考えるとき、彼の判断は常に,その考え方や技術が精神形成に適しているかどうかという点にあるからだ。彼が職業訓練に教育的な価値を認めないのは、何かの仕事にどれほど習熟していても、何か事が起こると腑抜けのていたらくということがありうるからだ。彼が適性検査とか適性の追求とかに反対なのは、彼が、判断は適性の問題ではなく勉強の問題だ、と考えるからだ。彼がエリートの形成に反対なのは、単に一人のエリートだけでなく、あらゆる人間が、精神の鍛錬を必要としているからだ。彼が近代古典課程をしないのも、子供に自分が精神であることを発見させるには、それが不十分に思えるからだ。彼が科学教育を非難するのは、この科学教育のねらいが悟性の体操にあるのではなく、知識の獲得にある点だ。彼が一方的講義を厳しく非難するのは、こういう講義だと、考えることから離れていってしまうからだ。また彼が、具体的方法とか魅力的方法とかの何を責めるのかといえば、これらが、判断するという役割、すなわち、人間らしい役割にまで、子供を高められない点である。

 アランが考える教育の評価基準は「その考え方や技術が精神形成に適しているかどうか」ということであり、子どもたちを「判断するという役割、すなわち、人間らしい役割」にまで高められるかどうかが問題なのである。「あらゆる人間が、精神の鍛錬を必要としている」のであり、「自分が精神」であり、「悟性の体操」を繰り返すことで「考えることから離れ」ないようにしなければならないのだ。

彼は、学校が実人生から離れるべきだという。そうすることによってのみ、観念の形成ができるようになるからだ。彼が古典の研究を指示するのも、これが精神を解放するからであり、また人間が、判断することを学ぶために自分の尊敬する師を必要とするからである。彼は、学校におけるあらゆる練習問題と試験を、子供にとっての自己規律に至る機会であると考える。自己規律がなければ本当の思考はない。彼が、精神的な存在になるのは簡単だなどと思っていないからであり、そう思っていないのは逆に、透徹した判断力は努力なしには得られないということを知っているからだ。そして彼が、能動的な学校の推進者と意見が一致するのは、子供の関心を考えてのことではなく、彼が、人間の値打ちは、結局、自分自身のチカラによるほかないと考えるからであり、また精神は、ほんの一瞬でも自ら目覚めることを止めるとき、眠りの商人によって簡単に眠らされてしまう、と考えるからである。

 アランは実生活で「役立つこと」を学ぶことが学校の役割ではないと考える。子どもたちが「精神的な存在」になるためには、練習問題や試験という「自己規律に至る機会」も重要である。

たしかに、この教育学に異議を唱え、また特に、この教育学が批判の端ばしにおいて、ときおりやり過ぎて、表現がおもしろおかしく誇張されているのを指摘することもできる)。だがこの教育学は、日常的に定着しているから一般的にはいいと思われている多くの価値を改めて問い直し、われわれに新しい目で自らの思い出と自らの経験を誠実に吟味する気を起こさせ、われわれを導き、教育問題を心理的であるばかりでなく政治的であり、また道徳的でもあるその真の文脈のなかに位置づけることによって、われわれに再考をうながし、結局、われわれを、人間の希望のシンボル、すなわち子供に対する健全な尊厳へと向けさせてくれることを認めなければならない。それにしてもこの教育学を、とりわけわれわれに反省を強いる価値のある警句集でもあるかのように見なすのは不当であろう。以上にわたって私が示したかったことは、つぎのとおりである。つまり、体系的な概説の代りにアランが提供してくれたのは、少なくとも本物の教育学である。豊かで、堅固で、首尾一貫している。またなるほど彼の哲学とは分かち難い。しかし哲学と同様、再考の力(ヴェルチェ)が印されている。その力とは、デカルトのいわゆる高邁の心(ジェネロジテ)である。すなわち、自分は考えているのだ、自分は自由なのだということを知っており、またそういう自分を望んでいる人間の、誇りである。

 アランの教育学は実践的・実用的な知識や能力を身につけさせようとする教育のあり方に対する痛烈な批判であり、人生・社会の主体者として生きるためには「自分は考えているのだ、自分は自由なのだということを知っており、またそういう自分を望んでいる人間の、誇り」を促す教育に尽きるのである。

5 「学び解す」「学び返す」ために(ノート3)
大江健三郎『定義集』/【「学び返す」と「教え返す」】人はいかに学びほぐすか(2007年1月23日付け朝日新聞)
 「学ぶ」ことが人として生きるうえで不可欠のものであるとしても、「学ぶ」ことで「失うもの」があることを意識しなければならないことがわかった。そのためには「何をどのように学ぶのか」という問いかけが必須のものであり、実生活からの「学び」と実生活からは学ぶことのできない「学び」があることも了解できる。
 ところで、大江健三郎らも「unlearn」に注目している。

ここで私が「学び返す」「教え返す」と、こなれていない訳し方をしたもとの言葉は、unlearnとunteachです。私はあまり昔じゃなく読んだ本とそれに使った辞書で、これらの対の英単語を覚えたのです。しかし、どこでだったか思い出せなくなっているのが、私の自覚する「老い」の指標。
ところが昨年末本紙に載った、ホスピスケアを待つ診療所の徳永進医師と、鶴見俊輔さんの対話を、両氏中間の年齢の者として、切実かつ心をうたれて読むうち、鶴見さんがunlearnをまなびほぐすと見事に訳していられるのに出会いました。

さてやはり昨年末、私は、これまでなかったことですが、自分がこの十年バラバラに発表してきた三冊の小説をひとつの箱におさめて、長編三部作『おかしな二人組(スウードカップル)』と名付けた特装版を作りました。
(中略)年頭に、私はできあがった本を読んで行くうち、新しい記憶ほどモロイという、別の「老い」の指標を認めました。unlearnを(unteachと並べるかたちで)自分の作中人物にしゃべらせていたからです。そして私は、ずっと影響を受けてきた文化人類学の研究方法への、新しい批判者ジェイムズ・クリフォードの本で、この言葉に出会ったことも思い出しました。
三部作の終わりの巻で、主人公に向けて、アメリカ西海岸で長い間働いた大学を退職して日本に帰り、別の仕事をしようとしている老人が、おれは半生に渡って教育をやるうち、いつの間にか、アカデミズムでの自分のクローン人間だけ要請していたんだ、と転職のきっかけを話します。
そこで、やり直し始めた、それは学んできたものを忘れる、unlearnすることからだ。するとそれにこたえて、おれに学んだことが正しくなかったと教えてくれる、unteachしてくれる若い連中が出てきた…

 ここでは、unlearnを鶴見俊輔が「まなびほぐす」と訳していること、さらにはunlearnがunteachと対になる概念であることを指摘している。

unlearnの、鶴見さんによる定義は、次のようです。《大学でまなぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる。》
そして、まなびほぐしたものの積極的な働きの例が示されています。しかし、まずどのようにして、人はまなびほぐすか、unlearnするか?私が対の言葉として覚えているunteachという単語を辞書で見ると、そのための手がかりがつかめます。《(人)に既得の知識(習慣)を忘れさせる、(正しいとされていることを)正しくないと教える、…の欺瞞性を示してやる。》(リーダーズ英和辞典)
私は、教育の現場で働くという経験を(ほんのわずかな期間しか)していません。そこで、他の人間に教えることでありがちな過ちをおかすことこそ少なかったけれど、教えた相手から過ちを指摘されて、苦しく自己修正することはなかった。それをやるように、教えている相手から逆に励まされるということもなかった…
実際、教師を続けてきた大学の同級生の誰かれと放していて、この経験の欠如が自分にもたらしている、本当に成熟していないところを寂しく自覚する、そういうことはしばしばあったものなのです。

鶴見さんは、教師という職業ではなく、ホスピスケアの《臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者》像を見とどけ、加えてあらゆる生活の場での《アンラーンの必要性はもっとかんがえられてよい》、とその文章を結んでいられました。
私が永年やってきたのは「教育する場」「臨床の場」という、実際に人を相手にするのではないが、考えてみると、小説の言葉で似たことをする仕事です。そこで、unlearnとunteachを二つながら書斎で試みることをするようになり、その手法を探ってきた、とも気がつくのです。

 はたして、私たちはlearnを越えてunlearnを、teachを越えてunteachを新たな学習概念として位置づけることがどこまでできるのであろうか。その可能性を、再び環境教育とESDの枠組みの中に求めたい。
 
6 新たな学習論の模索
教育(education)を学習(learn)と言い換えることがしばしばある。しかしながら、厳密には教育と学習とは別のものととらえる必要がある。教育学という学問が成り立つ前提として、学習者に対する意図的・系統的な働きかけを「教育」と呼ぶという理解があり、教育者はそうした専門性をもつと思われている。
その意味では、環境教育と環境学習とは別物であり、環境学習は学習者の自主性・主体性に基づいた学習過程である。たとえば、「環境教育は環境問題を解決できるのか」という問いを立てた場合に、近代国家に支えられた公教育という枠組みの中で成り立つ教育には、国家そのもののあり方に根ざす環境問題の解決を(直接)教育が担うことはできない。ところが、個人から出発する環境学習には国家という枠組みからの(相対的な)自由があるため、環境問題の解決に資することができると考えられる。
公害教育と呼ばれる実践が、実は被害者や教師の学習から始まる環境学習としての本質をもつために、国家権力のあり方に対抗しうると考えるのである。これが公教育の枠組みに取り込まれて、公害教育として制度化されたとたんに社会を変革する能力を失うとみることができる。この矛盾を克服する一つの方策が、「教育の自由」という思想である。次の世代(学習者)の自由を保障することで、問題の解決や社会変革の可能性を担保しようとするものである。
学校教育ではあまり語られることはないものの、社会教育には「上からの教育(支配)」と「下からの教育(自治)」という互いにぶつかり合う教育のあり方を、「自由(もしくは権利)」という概念によって統合しようとする思考がある。環境教育に対する環境学習の意味は、本質的に学習者の視点や立場からの絶えざる捉え返しを前提とするものであり、「学び捨てる」もしくは「学び返す」と翻訳されるunlearnにつながる可能性を秘めていると考えられる。つまり、環境学習には体系化され、確立した社会(および教育)のあり方をつねに批判的にとらえなおすという科学本来の方法が組み込まれているのである。
グローバリゼーション(Globalization)の時代とは、経済だけでなく政治・社会・文化も含む現象であり、International(国際化)やWorldwide(世界化)とはちがい、国家や地域の多様性を超えて自由に動く情報や資本の流れであり、社会構造そのものをグローバル・スタンダード(ある意味でのアメリカ化)に変えるという発想をもっている。
環境教育と持続可能な開発のための教育(ESD)の関係について、いまだに定説があるとは言い難い。しかしながら、環境教育の延長上にESDが位置づけられるうえで、ESDがグローバリゼーションに対応した環境教育の新たな姿であるとみることはできよう。
「Think globally, act locally(地球全体のことを考え、足下から行動しよう)」というよく知られた提起について考えてみたい。「グローバルとローカルを対比させ、グローバルなるものは思考に、ローカルなるものは行動に役割を特化させることによって、多様性や独自性を持つローカルな思考など取るに足りないもの、あるいは初めから存在しないかのうように無視されてしまう」(前平泰志)。こうした批判は、共通化・画一化する世界や教育のあり方に対して、<ローカルな知>やunlearnの視点から見直す重要な提起となっている。

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東日本大震災後の環境教育の視点<草稿>

朝岡幸彦・石山雄貴

1 東日本大震災とは何か

2011年3月11日14時46分に、牡鹿半島の東南東130km付近の三陸沖を震源とするマグニチュード9.0の地震が発生した。観測史上国内最大規模であり、震源域も岩手県沖から茨城県沖(長さ約450km、幅約200km)と広域にわたるものであった。宮城県北部で震度7を観測したほか、岩手県・宮城県・福島県と関東で震度6の大きな揺れが観測された。地震によって大規模な津波が発生し、記録されている最大潮位は9.3m(福島県相馬市)、上高は観測史上最大の40.5mに達した。

 この地震は「平成23年(2011年)東北地方太平洋沖地震」と命名されたが、東日本全域にわたる大規模な地震・津波・原発事故の複合大災害であることから、政府は「東日本大震災」と呼ぶこととした。

 この地震及び津波による死者・行方不明者は12都道府県で1万8880人(2012年5月30日)、全壊家屋が約13万棟、半壊家屋が約26万棟に及んだ。また、約2万4000haの農地が流出・冠水して、がれき・ヘドロの堆積や塩水の侵入による被害を受けた。液状化による住宅被害も約2万7000件が発生した。(図0-1/阪神・淡路大震災と東日本大震災の比較/平成23年度防災白書より)

 東京電力福島第一原子力発電所は津波によるタービンの浸水や外部送電施設の倒壊等で15時42分には全電源喪失の状態に至った。その結果、12日から15日にかけて1〜4号機で水素爆発と思われる爆発が発生し、大量の放射性物質が外部へと放出された。原子力安全・保安院は、この事故をレベル7(広範囲な影響を伴う事故)であると国際原子力機関(IAEA)に通報している。

4月22日に福島第一原発から半径20km圏内を「警戒区域」(約7万8000人)、年間積算線量が20mSvに達するおそれのある地域を「計画的避難区域」(約1万人)、原発から半径20kmから30km圏内を「緊急避難準備区域」(約5万8500人)とした。その結果、福島第二原発8km圏内の避難者と合わせて、避難者は約9万9000人(2011年5月30日)に達した。放射性物質の放出・拡散は避難区域以外の地域にも放射能汚染問題を引き起こし、福島県の一部地域はもとより、東北地方南部から関東地方にかけた東日本の広い範囲で高い放射線量が検出されている。(図0-2/文科省及び米国DOEによる航空機モニタリングの結果)

 地震・津波及び原発事故による避難者の総数は、被害の大きかった岩手県・宮城県・福島県の3県を中心に約47万人(2012年3月14日)に上った。その後、各県内の仮設住宅や公営住宅・民間住宅等の借上住宅で生活している人が約34万人、県外に避難している人も福島県から約6万2000人、宮城県から8400人、岩手県から約1600人いる。

2 環境教育は3.11から何を学ぶのか

 「環境教育(Environmental Education)」は1948年の国際自然保護連合(IUCN)の設立総会で提唱されたものである。この概念が広く使われる契機となったものが、「環境教育は、個人、企業及び地域社会が環境を保護向上するような考え方を啓発し、責任ある行動をとるための基盤として必須のものである。」(人間環境宣言第19項)と宣言した国連人間環境会議(ストックホルム会議/1972年)である。さらに、ユネスコ環境教育専門家ワークショップ(ベオグラード会議/1975年)において環境教育の目的(認識、知識、態度、技能、評価能力、参加)や環境教育の目標が「環境とそれに関連する諸問題に気づき、関心を持つとともに、現在の問題解決と新しい問題の未然防止に向けて、個人及び集団で活動するための知識、技能、態度、意欲、実行力を身につけた人々を世界中で育成すること」(ベオグラード憲章)であると確認された。

 こうした環境教育の理解に、その後、大きな影響を与えたものが「持続可能な開発(Sustainable Development)」(世界環境保全戦略=WCS/1980年)という概念である。チェルノブイリ原発事故(1986年)は欧州を中心に新たな環境問題の登場を印象づけるとともに、「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、今日の世代のニーズを満たす開発」(ブルントラント委員会最終報告書)と定義される持続可能な開発に向けた国際的な取り組みの緊急性を示すものとなった。環境と開発に関する国連会議(地球サミット/リオ・サミット/1992年)では地球環境問題に関する国際的な取り組み(気候変動枠組条約、生物多様性条約など)が合意されるとともに、環境と社会に関する国際会議(テサロニキ会議/1997年)の「持続可能性という概念は、環境だけでなく、貧困、人口、健康、食料の確保、民主主義、人権、平和をも包含するものであり、最終的には道徳的倫理的規範であり、そこには尊重すべき文化的多様性や伝統的知識が内在している」(テサロニキ宣言)を経て、持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット/2002年)の「持続可能な開発のための教育(Education for Sustainable Development/ESD)」概念や国連・持続可能な開発のための教育の10年(DESD/2005年~2014年)へとつながった。

 国連持続可能な開発会議(リオ+20/2012年)において、東日本大震災や福島第一原発事故(2011年)がどのような影響を与えたのかは明らかではない。しかし、環境教育やESDに関する私たちの捉え方に大きな転換が求められていることは明らかである。

 おそらく東日本大震災と福島第一原発事故は、日本の環境教育のあり方に大きな転換をもたらすに違いない。しかし、3.11以後の日本が直面している状況は特殊で一過性のものではなく、グローバリゼーションへと向かう世界が生みだす構造改革の大きな「軋み」として理解すべきものである。つまり、大災害が歴史を転換したのではなく、グローバリゼーションの歯車を前に進める役割を果たすのであり、この危機への向き合い方が転換をもたらす可能性をもつと理解すべきである。「復旧」「復興」「再稼働」などの「元に戻す」行為では、この危機は乗り越えられず、ことここに至った原因と方法そのものを積極的に見直すことが求められている。もちろん、原発事故をめぐって、なぜこうした事故を引き起こしてしまったのか、これからどのようにすべきなのかという(広義の)「放射線教育」「エネルギー教育」は、これらの前提として必要である(日本環境教育学会は『原発事故のはなし』授業案作成WGを発足させている)。

 環境教育のあり方として少なくとも2つの次元で、その歴史や概念・方法等を見直さなければならない。1つは、(とりわけ日本の)環境教育が(暗黙の)前提としてきた「やさしい自然(折り合える自然)」という捉え方に「厳しい自然(抗いがたい自然)」という視点を付け加えることである。地震や津波、台風、火山の噴火などによる巨大な自然災害は、自然の生態系とともに、私たち人の生命や生活を危機に陥れる。また、放射能によって汚染された世界は、人間自身が作り出した最悪の災害であるといえる。2つ目は、環境教育を「統制的理念」(カント)の視点、「ローカルな知」やunlearnの概念によって見直すことである。自然や環境について学べば、人はおのずと問題を解決する主体と成りうるものであると考えられてきたように思われる。しかしながら、「学ぶ」ことによって失う世界があること、「無限に遠いものであろうと人がそれに近づこうと努める」(柄谷行人)ことが必要であることを視野に入れた、新たな教育観が求められている。

3 震災被災地における「復興」の意味

 日本政府は阪神・淡路大震災の経験をもとに、東日本大震災からの復興を「創造的復興」と位置づけようとしている。しかしながら、膨大な公共事業をともなう復興によって被災者や被災地域がそれまで抱えてきた課題の解決が見落とされる危険性があり、被災者の視点に立った「人間の復興」という理念が注目されつつある。

 自然災害に関する自治体、国の政策において問題点があるのは、防災面だけではない。「災害は、社会の病巣を映し出すレントゲン写真」といわれ、被災前の地域社会の潜在的な課題が、災害によって顕在化し、その課題の解決が復興の課題ともなる。つまり、災害からの復興において単に災害前の状況に戻すのではなく、災害によって顕在化した地域課題を乗り越える地域づくりが必要になるのである。このような自治体復興政策の遅れや地域性、さらには復興と同時に必要になる地域づくりに対応してゆくためには、行政だけではなく住民同士の合意形成を経た復興計画が不可欠であり、ここに住民による学びが必要になる。

(図0-3/被災直後の宮城県気仙沼市南町)

 大津波に襲われた東北地方太平洋沿岸部は、新全国総合開発計画における高速交通網の整備から取り残されてきた地域であり、多くの地域において過疎・高齢化が進んでいた。さらに市町村合併が進められてきた地域であり、合併により自治体の周辺部となった旧町村部では、復興の遅れが指摘されている。東日本大震災から2年が経過した現在においても多くの被災者が仮設住宅で暮らしを続けており、震災からの復興がなかなか進まない状況がみられる。2011年7月に定められた「東日本大震災からの復興の基本方針」は「創造的復興」を基本理念とし、東日本大震災を日本経済のさらなる「経済成長」や「構造改革」の好機とみる考え方を強く押し出している。また、東日本大震災からの「復興構想七原則」では、「被災地」は個々の災害現場そのものではなく、もっぱら日本経済の担い手である大都市に本社機能があるグローバル企業にとっての「サプライチェーン」の調達エリアとしての「東北」として捉えられ、サプライチェーン優先の復興が志向されている。岡田知弘は、これらの「創造的復興」に基づく施策により、震災前からの基幹産業であった漁業・水産加工業などの再建が遅れ、求人と求職のミスマッチングを生み出し、その結果として求職者が大量に他の地域へ移転すると指摘している。

 そもそも、「創造的復興」とは、新自由主義的政策の一環として阪神・淡路大震災からの復興において使われた復興理念である。阪神淡路大震災時、この「創造的復興」のもとで行われた復興再開発事業は、「成長・開発型復興」の典型であり、平時にはなしえなかった市街地再開発、空港・港湾の整備、基盤道路の拡充などが実施され、投資資金の8割が域外の大企業に大きな利益もたらす結果となった。その一方で、被災者と被災地の生活再建が遅れ、地域経済を低迷させた。住宅などの土地利用に関しては「まだら復興」と呼ばれ、建物の全壊率が10%を超えて再開発や区画整理事業が行われた地区の人口は軒並み、震災前の8割にとどまった。また、「震災空地」と呼ばれる元の宅地に家や店舗を再建する経済的な力のない被災者や、細い街路に面した狭小宅地、相続問題などの困難な事情により10年たっても空き地のまま放置されている更地が15,600区画に及んだ。「創造的復興」の名のもとで、大規模・画一的な災害復興公営住宅の建設が進み、都心部で高層集合住宅の建設が目覚ましく行われることで、住宅供給過剰が起き、空き家が増加していった。この様な再開発に伴う町並みの変化により、コミュニティ機能が失われ、被災者の孤独死に繋がったといわれている。それは東日本大震災からの復興でも起こりうる可能性がある。

 そのような新自由主義的政策やグローバリゼーションの流れのなかにある「創造的復興」という復興理念の反省から、「人間の復興」という復興の在り方に注目が集まっている。山中茂樹は、東日本大震災復興構想会議における復興構想七原則の原則5「日本経済の再生なくして被災地域の真の復興はない」という提言に代表される新自由主義的復興論では「被災者の復興はない」と主張し、それに対抗する市民的復興論を構築するために「人間の復興」の今日的意義を示している。「人間の復興」とは、関東大震災時に被災地を調査した福田徳三により主張された復興理念であり、その第一を「人的要件の保障」としている。福田は「人間の復興とは、大災によつて破壞せられた生存の機會の復興を意味する。今日の人間は生存する爲めに、生活し營業し勞働せねばならぬ。即ち生存機會の復興は、生活、營業及勞働機會の復興を意味する。道路や建物は、この營生の機會を維持し擁護する道具立てに過ぎない。それらを復興しても、本體たり實質たる營生の機會が復興せられなければ何もならないのである」と述べ、営生の機会の復興によって、何よりもまず避難所や仮設住宅の様なバラックに押し込まれ、「強制的惰民」となっていた被災者たちの「収入の源泉を確保すべき生存機会」の擁護を行うことを重視している。また、何を復興するべきなのかというと、「災禍(旧字)によって浄化された、純樸な相互に助け合ひ、いたはり合ふ、平等の裸蟲から成る新首都の復興是である」とし、帝都復興の儀を掲げ、「理想的帝都建設の為の絶好の機会なり」として首都の大改造を目指していた当時の内務大臣に対して「特権に蟠踞所謂實業界、所謂政界を徹底的に掃除し去るにあらざれば、此の意味に於ける眞の復興は到底期することは出来ないのである」と述べている。つまり、「人間の復興」は被災者自身の生存のためにあり、それは被災地において規制緩和、特区制度を活用することで、被災地外に本社機能をおく大企業を中心とした経済界や政界の利益が先導するような、東日本大震災後に行われつつある「創造的復興」ではなく、被災地において被災地の持続性に関わるような地域産業と雇用、生業の再建を住民主体で行ってゆく復興の在り方であることが分かる。また「人間の復興」に関して、宮入興一は、それを復興の第一として、もうひとつこれを支えるべき人々の「絆の復興」とりわけ「地域コミュニティと住民自治の復興」が不可欠である、と述べている。さらに、「人間の復興」という復興理念を考えた場合、さらに「復興日本は首都を復興す可し、舊東京を復興す可からず」とし「我々に取つて最大の禁忌物は舊状の恢復之れである。災前(旧字)の状態とは同時に又災前の特權と私益の状態とを意味する」と述べ、福田は「改善」という言葉をたびたび用いて復興とは震災前の地域に戻すのではない、と述べている。

 東日本大震災の被災地となった地域は、過疎・高齢化が進み様々な地域課題を被災前から抱えていた。中越地震、中越沖地震の経験から「災害をうけた農山村において10年過疎・高齢化が進む」といわれており、中心市街地の空洞化といった地域が被災前から抱えていた諸課題は震災を契機により一層深刻化し、表面化していくことが考えられる。抱えていた地域課題は、「人間の復興」に不可欠な要件である「生活、営業および労働機会」やそれを支えるべき「地域コミュニティと住民自治」に影響を与えていたため、単に被災前の状況に戻すだけでは「人間の復興」とはならないのである。したがって、「人間の復興」という復興理念を考えた場合、復旧と同時に、以前から抱えていた地域課題をどのようにして克服してゆくか、という問題をも含んだ地域づくりを伴う復興によって地域を改善していく必要がある。つまり、「人間の復興」は被災者が主体となって、被災前の地域課題の解決を視野に見据え被災地で生活を続けることを可能にしてゆく地域づくりであると理解できる。

(図0-4/仮設店舗として再建した気仙沼市南町紫市場)

 「人間の復興」は、被災者たちがその地域で生活をし続けることを可能にしてゆくための地域づくりである。そもそも地域づくりは一部の人の利害関係だけで進めるのではなく、その当事者である地域住民全体の合意形成に基づいて進められる必要があり、主体形成のための学習が不可欠である。「人間の復興」に向けた学びを環境教育及び持続可能な開発のための教育(ESD)の視点から進めていく必要がある。阿部治は、国際的動向、国内の動向に賛成したうえで、ESDを「人々が持続可能な社会の構築に主体的に参加することを促すエンパワメントであり、そのための力(つなぐ力、参加する力、共に生きる力、持続可能な社会のビジョンを描く力、など)を育む教育や学び」と定義している。また、朝岡幸彦は、「1990年代以降に使われ始めた『環境と持続可能性のための教育』や『持続可能な開発のための教育』概念も、基本的にはグローバリゼーションが持つ市場主義的な特質に対抗し、オルタナティブな地球社会とそれを支える教育の在り方を模索するものである」と述べている。つまり、ESDとは、「社会」「環境」「経済」を統合的に捉え、グローバリゼーションに対抗する地域づくりに向けた学びである、と考えられる。

 「人間の復興」は、創造的復興の中で無視されてゆく被災者たちの生活やコミュニティ再建を第一に考えた復興理念であり、明らかに自然災害を契機にさらなるグローバリゼーションを推進してゆく「創造的復興」に対抗する復興理念である。さらに、地域において、甚大な被害を及ぼした自然とどのように付き合ってゆくか、復興において持続可能な社会を創造していくか、という課題は、被災地における地域づくりにおいて必ず乗り越えなくてはならない課題である。したがって、「人間の復興」の過程における学びにおいて地域での生活の基盤である「社会」「環境」「経済」を統合的に捉えたESDの視点は欠かせない視点であると考えられる。

 これまで、自然災害からの復興における学習に関する研究がなされてきた。塚島幸太は、新潟県中越地震からの復興において、被災した地域を専門的に支援し、地域住民主体の地域再生を支え、住民と行政の橋渡しとなって一体的な復興を後押ししている地域復興支援員の活動に注目し、災害復興において地域住民の地域づくりと学習を支援する人材の果たす役割を明らかにしている。また、降旗信一らは2008年6月に発生した「岩手・宮城内陸地震」における栗原市耕英地区の住民たちの取り組みと特定非営利活動法人くりこま高原・地球の暮らしと自然教育研究所による実践に注目し、NPOが自然災害とどう向き合い、地域住民たちと共に地域再生にどのように取り組んでいるのかを報告している。ここで述べられていることは地域住民の地域再生に向けての学習の支援の在り方であり、自然災害に関して社会教育・生涯学習の立場からみた学習過程についての解明を試みている。荻原彰は高等学校における「郷土」科目の中での自然災害を通して地域の自然を学ぶ授業実践の試みを報告しており、藤岡達也は自然災害への防災、減災への取り組みにおいて自然災害を過去や他地域の問題としてではなく、現在や自分自身の問題として捉える事が出来るようになるためには、ESDの視点が不可欠である、と述べ、萩原らの報告を踏まえたうえで、従来の理科教育の中での取り組みには限界があるとし、学校と地域社会の連携を含めた「総合的な学習の時間」の活用を提案している。ここでは、学校教育の立場からみた自然災害に関する学習について取り扱っている。

 しかし、地域づくりとしての環境教育・ESDの立場からみた自然災害に関する学習過程に注目した研究はまだなく、今後、こういった視点で研究をしてゆく必要がある。そもそも、ESDは環境、経済、社会を含む総合的なアプローチであり、持続可能な社会の創造に主体的にかかわる人材の育成という広範かつ多様な特徴を持つ。この意味で、環境教育・ESDが持続可能な地域づくりに果たしていく役割は、将来にわたって極めて大きいといえ

4 グローバリゼーションと環境教育・ESD

 グローバリゼーション(Globalization)の時代とは、経済だけでなく政治・社会・文化も含む現象であり、International(国際化)やWorldwide(世界化)とはちがい、国家や地域の多様性を超えて自由に動く情報や資本の流れであり、社会構造そのものをグローバル・スタンダード(ある意味でのアメリカ化)に変えるという発想をもっている。環境教育と持続可能な開発のための教育(ESD)の関係について、いまだに定説があるとは言い難い。しかしながら、環境教育の延長上にESDが位置づけられるうえで、ESDがグローバリゼーションに対応した環境教育の新たな姿であるとみることはできよう。

 「Think globally, act locally(地球全体のことを考え、足下から行動しよう)」というよく知られた提起について考えてみたい。「グローバルとローカルを対比させ、グローバルなるものは思考に、ローカルなるものは行動に役割を特化させることによって、多様性や独自性を持つローカルな思考など取るに足りないもの、あるいは初めから存在しないかのうように無視されてしまう」(前平泰志)。こうした批判は、共通化・画一化する世界や教育のあり方を<ローカルな知>やunlearnの視点から見直す重要な提起となっている。

 教育(education)を学習(learn)と言い換えることがしばしばある。しかしながら、厳密には教育と学習とは別のものととらえる必要がある。教育学という学問が成り立つ前提として、学習者に対する意図的・系統的な働きかけを「教育」と呼ぶという理解があり、教育者はそうした専門性をもつと思われている。その意味では、持続可能な開発のための教育(ESD)は環境学習により近いもの、学習者の自主性・主体性に基づいた学習過程として位置づけることができる。

 たとえば、「環境教育は環境問題を解決できるのか」という問いを立てた場合に、近代国家に支えられた教育という枠組みの中で成り立つ公教育には、国家そのもののあり方に根ざす環境問題の解決を(直接)教育が担うことはできない。ところが、個人や地域・コミュニティから出発するESDや環境学習には国家という枠組みからの(相対的な)自由があるため、環境問題の解決に資することができると考えられる。公害教育と呼ばれる実践が、被害者や教師の学習から始まる環境学習としての本質をもつために、国家権力のあり方に対抗しうると考えるのである。これが公教育の枠組みに取り込まれて、公害教育として制度化されたとたんに社会を変革する能力を失うとみることができる。この矛盾を克服する一つの方策が、「教育の自由」という思想である。次の世代(学習者)の自由を保障することで、問題の解決や社会変革の可能性を担保しようとするものである。

 学校教育ではあまり語られることはないものの、社会教育には「上からの教育(支配)」と「下からの教育(自治)」という互いにぶつかり合う教育のあり方を、「自由(もしくは権利)」という概念によって統合しようとする思考がある。環境教育に対する持続可能な開発のための教育(ESD)のいま一つの意味は、本質的に学習者の視点や立場からの絶えざる捉え返しを前提とするものであり、「学び捨てる」もしくは「学び返す」と翻訳されるunlearnにつながる可能性を秘めていると考えられる。つまり、ESDには体系化され、確立した社会(および教育)のあり方をつねに批判的にとらえなおすという学習の方法が組み込まれているのである。

 いま、東日本大震災と福島第一原発事故を経て日本の環境教育のあり方が大きく見直されようとしている。被災地における復興は「創造的復興」か「人間の復興」かが重要な論点であるように、被災前に蓄積されてきた開発や社会の課題にどのように向き合うのかが問われている。私たちは、3.11を契機に自然や社会の歴史・文化のあり方をつねに当事者として批判的に繰り返し問い続ける環境教育を模索したい。

<参考文献>

内閣府、平成23年度版 防災白書、2012年。

東京電力福島原子力発電所事故調査委員会(国会事故調)、国会事故調 報告書、2012年。

日本環境教育学会編、環境教育、教育出版、2012年。

佐藤真久・阿部治編、持続可能な開発のための教育 ESD入門、筑波書房、2012年。

中村八郎・森勢郁生・岡西靖、防災コミュニティ、自治体問題研究社、2010年。

福田徳三著、山中茂樹・井上琢智編、復興経済の原理若干問題(復刻)、関西大学出版会、2012年。

宮入興一、東日本大震災の特徴と復旧・復興の諸課題、環境と公害(2011年7月号)、岩波書店、2011年。

生方秀紀・神田房行・大森享編著、ESDをつくる、ミネルヴァ書房、2010年。

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北海道大学大学院教育学研究院紀要第116号2012年8月(草稿)

<ローカルな知>とunlearn概念に関する考察

ー 鈴木敏正「地域創造教育」論を手がかりとして ー 

朝岡幸彦*・酒井佑輔**

東京農工大学* 東京農工大学大学院(鹿児島大学)** 

A Study on the <Local Knowledge> and the Concept of Unlearn

: Based on Analysis of the Theory " Education for Sustainable Community

Development" by Toshimasa SUZUKI


Yukihiko ASAOKA* , Yusuke SAKAI**

Tokyo University of Agriculture and Technology*

Graduate School of Agriculture, Tokyo University of Agriculture and Technology / Kagoshima University**

1 はじめに

「地域創造教育」という概念は、「主体形成の教育学」(鈴木敏正『主体形成の教育学』2000年、御茶の水書房)とともに、鈴木教育学代表する概念である。『地域創造教育』とは『地域をつくる学び』を援助し組織化する実践である(鈴木敏正『「地域をつくる学び」への道』北樹出版、2000)」と述べており、この概念が『エンパワーメントの教育学』(1999年、北樹出版)における「地域づくり教育(community development education)」が再概念化されたものであることは確かであろう。その後、「地域づくり教育」は「社会的排除克服のための社会的実践の重要な一環として空間的排除克服に取り組む」ための教育である「地域再生教育」と「地域創造教育」からなるものとされている(鈴木敏正編著『排除型社会と生涯学習』2011年、北海道大学出版会)。鈴木教育学の中で「地域創造教育」は「地域を変えることと自分を変えること、そして教育の在り方を変えることを統一する実践」であり、その実践は「『現代の理性』を創造して21世紀を切り拓くと同時に、現局面において地域と教育を再生させ、それらのグローカルなネットワークを展開していくための基本的な方向を示して」おり、まさに「希望」なのである(鈴木敏正『新版 教育学をひらく』2009年、青木書店)。

環境教育に関連して「地域創造教育」という概念が本格的に使われたのは、鈴木敏正・伊東俊和編著『環境保全から地域創造へ』(2001年、北樹出版)が最初であろう。地域社会教育実践における環境教育の在り方を考えるために、「理論的には『自然教育』→生活環境教育→『環境創造教育』→『地域環境教育』として展開し、実践的にはそれらの相互豊穣的関係をつくることが課題となる」として「地域環境教育をめぐる関連構造」が提示される。しかし、こうした学習活動だけでは環境問題の理解は深まっても環境問題を解決するための実践とはならないため、「そこで必要となるのが『環境創造教育』、すなわち『地域創造教育』の一環として位置づけられた環境教育である」。また、「地域創造教育」の基本的な実践領域として、(1)自己教育活動をネットワーク化し、それを基盤に地域課題を学ぶ「公論の場」の形成、(2)地域と地域課題を総合的・構造的に理解しようとする地域調査学習・地域研究、(3)社会的に必要であると考える活動にボランタリーに取り組む地域行動、(4)協同活動としての地域づくり実践、(5)新たな地域づくりのための「地域社会発展計画づくり」、(6)地域社会教育実践の立場からの地域創造を目指す「地域生涯学習計画づくり」を考えている。こうして環境教育は「地域創造教育の全体にかかわるものとなる。それは地域創造教育にとってもっとも基礎的な領域である。そして、内容的には、自己意識化の実践である(1)と、(3)から(5)までの『現代の理性』形成を媒介する位置にあるという意味で、地域創造教育に限らず、学習全体の構造化を進める上できわめて重要な位置にある実践である。」と理解される。

 本稿では、鈴木敏正の「地域創造教育」論を一つの手がかりとして、環境教育及び持続可能な開発のための教育(ESD)を支える新たな学習概念としての「ローカルな知」及び「unlearn」概念の可能性について考察する。

2 環境教育学と社会教育学における学習概念の模索

 日本環境教育学会の創立20周年を記念して編集された学会誌『環境教育』掲載の「特集 環境教育学の構築をもとめて」では、「自然保護教育」「公害教育」「幼児教育・保育」「食と農」「海外」「学校教育」「持続可能な開発のための教育(ESD)」「ライフスタイル」の8項目が設定されており、日本の環境教育研究が少なくとも8つの領域に対応する個別の学習論をもつ可能性がある。しかしながら、日本の環境教育研究の学習論を考えるうえで、自然保護教育と公害教育という2つの「源流」がもつ意味は大きい(朝岡幸彦、2005年)。

 小川潔は「自然保護教育」を「目的教育ではあるが、扱う範囲の特徴は、単なる対症療法や自然の管理技術にとどまらず、自然科学、社会科学、哲学倫理、文化などを含む総合領域である」と特徴づける(小川潔、2009年)。そして、自然保護教育の基軸を、「(1)自然認識:自然や系の動態、仕組みなどに対する基本的理解と視点を持っている。(2)感性:自然あるいは空間(人工環境)への感性を持っていて、環境に共感できる。他者(人や他の生物)意識を持てる。(3)社会意識:環境問題を解決できる社会づくりへの意識と使命感、行動力がある。(4)教育力:自然という場や仲間との学習の中で人は学び成長する。」の4点に整理した。また、筆者(朝岡)も自然保護教育の科学性を担保するものとしての「観察」に注目し、「目的意識的な観察」と「そこに物の本質を見出そうとする行為との連動」が重要であり、観察する主体が同時に「自然を変容させる主体」であることを自覚することで「行為する主体」となることの重要性を指摘した(朝岡幸彦、2008年)。これは、「自然保護運動に内在する教育力」(朝岡)に注目するものであると同時に、「公害教育も自然保護教育も、環境問題解決をめざす目的教育という側面を色濃く持ち、環境に関する一般的知識や考え方についての教育・普及にとどまらず、公害の解決や防止、自然の破壊防止や保護を実践する人づくりを含んでいる点に特徴がある。」(小川)という指摘とつながるものである。

 ここに日本における環境教育の2つの「源流」と呼ばれる自然保護教育と公害教育の学習論を取り上げることの一つの根拠がある。すなわち、環境教育が「環境問題解決をめざす目的教育」という基本的な性格をもつがゆえに、自然環境の保護・保全や公害発生の防止に取り組む実践や運動と切り離して学習論を組み立てることができないということである。公害教育における蓄積から実践や運動に内在する学習論を、 (1)公害教育における科学性(科学はだれのものか)、(2)公害教育における教師の役割(公害教育は偏向教育か)、(3)公害教育から地域づくり教育へ(新しい住民運動に生きづく学習)、の3つの視点で整理することができる(朝岡幸彦、2009年)。これは、環境教育が学校教育と社会教育の両方に実践的な基盤をもたざるをえないことを意味している。また、自然保護教育と公害教育に典型的な開発行為に起因する環境問題に向き合うことで、環境教育と開発教育とは学習論として同一の基盤をもつことも理解できる。それは、「環境教育」概念の拡張という流れの中で、「持続可能な開発のための教育(ESD)」の成立が位置づけられることとも重なり合うものである(朝岡幸彦、2005年)。その意味では、持続可能な開発のための教育(ESD)の登場が、環境教育・開発教育の学習論に社会教育学研究のもとで蓄積されてきた学習論とのつながりを意識する重要な契機となっている。

 他方で、グローバリゼーション研究を中心とした社会教育学研究の蓄積が、主に日本社会教育学会年報『グローバリゼーションのもとでの社会教育・生涯学習』(日本社会教育学会、2005年)に集約されている。日本社会教育学会におけるグローバリゼーション研究はプロジェクト研究「グローバリゼーションのもとでの社会教育・生涯学習の未来」(20032004年度)に始まるものの、プロジェクト研究以前から識字教育、ジェンダー教育、多文化教育などの領域で研究成果の積み上げが行われてきた。環境教育に直接かかわるものとして、「地球的課題と生涯学習」(2000年)や「地球サミット十年と環境学習」(2001年)が取り組まれた。しかしながら、社会教育学会における識字教育等の研究蓄積の多さに比べて環境教育研究の少なさが目立ったほか、「地球的課題」という視点からどのような課題の展開を成しうるのかという戦略的位置づけが不十分であったために継続されることはなかった。こうした状況の中で、ヨハネスブルク・サミット(2002年)での「開発と貧困」に関する議論に焦点をあわせて「ヨハネスブルク・サミットと成人教育の課題」(2003年六月集会)が設定され、プロジェクト研究として出発したことの意義は大きい。

 社会教育学会におけるグローバリゼーション研究を通して、グローバリゼーションと呼ばれるものが単なる経済現象にとどまらない政治・文化・社会構造の全体に影響を与える時代状況であり、地球国家地域個人の関係を根本的に問い直さざるをえないことが明らかとなった。その意味で社会教育学を含む教育学そのものの役割をするどく問うものであり、グローバリゼーションが生みだす開発と貧困、格差と疎外などを克服する主体をどのように理解し、それをどのように教育実践につなげることができるのかについて多くの提起がなされた。こうしたプロジェクト研究の成果を踏まえて、さらにグローバリゼーション研究を深めるために2つの課題が提起されている。第1は、持続可能な開発のための教育(ESD)が提起する公正なグローバリゼーション(グローバリゼーションの民主的な組み換え)の可能性である。開発にともなう貧困は、先進工業国の「豊かさ」が発展途上国の貧困を拡大するという意味での絶対的貧困(poverty)だけでなく、先進工業国の内部にも社会的な格差を広げて貧困層を再生産する貧困(deprivation)という意味でも理解されなければならない。さらに、「力の剥奪(deprivation of power)」(J・フリードマン、1995年)や「自己疎外(self-alienation)」としての貧困(鈴木敏正、2000年)が深まっていることも意識されなければならない。第2は、ヨハン・ガルトゥングが提起する「紛争から和解へ」至る「対話」の教育の可能性を模索することである(ヨハン・ガルトゥング、2003年)。社会教育学会で蓄積されてきた学習主体・学習過程に関する研究成果を、より積極的に「対話」という行為や課題解決に結びつけた実践的な提起が求められた。これは、スピヴァックのいう「unlearn」や「ローカルな知」を新たな学習概念として位置づけ、教育実践にかかわる概念を再構成することを意味している。

 こうしたグローバリゼーション研究の成果を受けて、プロジェクト研究「グローバル時代における<ローカルな知>の可能性」(20052007年度)が取り組まれた。その成果をまとめた日本社会教育学会年報『<ローカルな知>の可能性』の序において、前平泰志はグローバリゼーション研究から<ローカルな知>研究へと向かう背景を、「時・空間を縮減していくグローバリゼーションの進展は、空間や時間の意味を問い直す契機となり、地域やローカルという空間の概念の再定義や固有性の再発見へと人々を向かわせることになった」と説明している(前平泰志、2008年度)。前平は、<ローカルな知>を「学校教育で伝達される知識や技術のように外部からもたらされる知識と異なり、ローカルな知は、時間的、空間的に限定された文脈のなかでのみ意味を持つ、『そのときその場の特定の事情の知識』(Hayek,F.A.)であり、人々の生きる状況に依存してのみ意味を持ちうる知であり、文化資本や人的資本という機能主義的な概念では説明できない、何ものにも還元できない知として存在している」と定義する。したがって、<土着の知>を国際的なデータベース化しようとする動きや、その背景としての<グローカルな知>の正体を批判する。そして、<ローカルな知>が生みだす生涯学習の新しい可能性を「場のダイナミズム」と「身体感覚」に求めるのである。前平は論文「はじめに」の中で、以下のような象徴的なとらえ方を述べている。「学ぶことは、本来、『どこでもないどこか』で学ぶのではなく、また『どこでもいいどこか』で学ぶというものでもない。とりわけ、おとなの学習者の学ぶプロセスは、学ぶコンテクスト=空間(ローカル)と密接に結びついている。そこでは、生まれ、育ち、暮らし、学ぶ空間としての地域(ローカル)が重要になってくるのは言うまでもない。(略)学ぶことは、私の身体を抜きにして語ることは不可能である。そこには、学んでいるのは、『だれでもないだれか』ではなく、また『だれでもいいだれか』でもない、他ならぬ『わたし』だというわたしの個有性(セルフ・アイデンティティ)の存在抜きにはローカルな知は語れないのである。そのような自覚が意識化されたとき、『わたくし』は、これまでの『普遍的な』知をアンラーンする(これまで学んできたことを捨てる)ことになるだろう。」

 日本の社会教育に「ローカルな知」の伝統がないわけではなく、1950年代の「共同学習」運動や<生活記録>学習の方法に<ローカルな知>に基づいた社会教育実践が確かに存在した。しかし、高度経済成長期に農村社会から都市社会に変貌する中で、共同学習論は力を失っていくのである。「農村においては、生産学習と政治学習の結合が主張され、社会科学の系統学習による法則の理解、都市にあっては公害問題を学ぶための自然科学学習の重要性の認識がもたらされることとなった。公害について地域住民と専門家共同の調査学習が始まるのもこの頃である。」(前平) 高度経済成長期に、なぜ<ローカルな知>に基づいた教育実践が失われたのかを、環境教育の視点からも考えることができる。

3 農法論におけるunlearn概念の可能性

 かつて日本人は、「キツネに騙される」と思い込んでいた。内山節は、1965年を境に日本人がキツネに騙されなくなったと述べて、その理由を六点に整理している(内山節、2007年)。高度経済成長期に、(1)「非経済的なものに包まれて自分たちは生命を維持しているという感覚」を失ってしまった、(2)科学的に説明のつかないことを「迷信」「まやかし」として否定するようになってしまった、(3)電話とテレビの普及によって自然からの情報を読むという行為が衰退しはじめた、(4)高校・大学への進学率が上昇して「正解」も「誤り」もなく成立していた「知」が弱体化していった、(5)個人の生と死を自然やそれと結ばれた神仏の世界、村の共同体が包んでいた伝統的な「ジネン」の感覚を失った、(6)日本各地で伐採と植林が行われて「齢を重ねて霊力を身につけた老獪なキツネ」が暮らせなくなった、からだ。日本人は高度経済成長を経て「経済的な豊かさ」を手に入れたことで、自然とともにあるという「豊かな感性」を失ってしまったとみることができる。まさに「人間たちがキツネにだまされていた時代には、人々はいまよりももっと多くの生命を山の世界に感じていた」(内山)のである。

 これを「キツネに騙される力」と呼び、失われた<ローカルな知>の一つの形と考えたい。この力は決して非科学的で不合理なものであるとは限らない。いまでも生活のすべてを経済的(市場的)な関係に委ねているわけではなく、科学的方法の特性である二元論や要素還元主義だけでは解明しきれない領域は多くある。また、自然との関わりを回復したいと思い、ジネン(自然)の中で「生かされている」と考える人も少なくない。つまり、「キツネにだまされる力」を全く失ったのではなく、その能力に意義を見出して、その感覚を研ぎすまそうと努力していないのである。

 かつてはふつうに理解できた自然とのつながりやその向こうにいる人びととのつながりも、キツネに騙される「豊かな感性」を失ったことによって、意識的に教え、伝えなければならないものになった。

 農業には、大きく人為的に変えることがほとんど不可能な生きものの生長を辛抱強く努力し、誠実に忍耐を重ねるという「待つ心」や、「生き物を愛し、いたわる」という自発的なインセンティブに根ざす(農業の)観察力の錬磨が必要である(七戸長生、1990年)。また、熊谷農業高校作物教室のように、教師による一方的な教え込みを転換し、「稲そのものを教師にする」ことで生徒の学習意欲を引き出した実践もある(熊谷農業高校、1986年)。農業に求められている能力とキツネにだまされる力には共通するものがある。それは、自然と向き合い、自然の中で「生かされている」という感覚を持ちながら、自然の情報を読み取って粘り強く働きかけていく姿勢であろう。人と自然との結びつきを意識する感性は、同時に人と人、人と社会との結びつきにも敏感であることを求める。自然そのものが人の手によって長年にわたって作り上げられ、維持されてきた二次的自然である場合が多いからである。農地や作物、家畜を「自然」ととらえることはもとより、里山さらには深い奥山や河川、海原ですら私たち人が関与しない自然は少ない。そこには、数十年、数百年、千年以上にもわたって自然に働きかけ、自然と折り合いをつけてきた人の歴史の蓄積があり、その蓄積のうえに今日の自然があることを意識せざるをえないのである。

 自然と人との「つながり」を意識できる「豊かな」感性としての「キツネに騙される力」を、二度と取り戻すことができないのだろうか。その鍵は、人による自然への働きかけとしての農業、それを支える農民の生き方や農業技術そのものの中にあると思われる。人は農林漁業という自然にかかわる生業を通して、確かに自然との「つながり」を意識してきたのであり、その技術は自然の多様性や人びとの生活・文化のあり方に沿って創意工夫せざるをえないものであった。そもそも文化(Culture)の語源が、ラテン語で「耕す」の意味を持つ"Colere"が有力とされるように、「農耕・農業」は人類固有の営みである。人類はこの営みを基盤に食糧を自給し、生活文化を形成してきた。生活文化においては、労働と生活が密接に結びつき、それ自体が農業に関する経験的な「知」や「技能」を創出していた。つまり、農業技術や「農法」の発展には、「知」や「技能」を獲得するための学習があり、それらは農法の発展の上で必要不可欠であったに違いない。したがって、ここでは日本における「農法」に関する議論の特徴を明らかにした上で、それを学習論として考察する。

 人類発展の基盤となる「農法」については、風土や歴史的視点から多くの議論がなされてきた。井上毅や磯辺俊彦は、「風土」と「歴史的条件」、「労働主体」によって「農法」が形成されると整理した。両者による「農法」論の特徴は、「労働主体」による歴史的・生産力段階と風土・地域個別性の統合のあり方を問題にし、それらを静態的な農法論としてではなく、「移行の論理」、つまり「農法変革論」としてとらえたことであろう(井上毅、1997年)(磯辺俊彦、2000年)。しかし、先に見たように農業技術・農法の発展は農民の主体形成(学習)のあり方と大きく関係するものである。農法が発展する過程において、土地及び農業生産手段の体系が農民的に編成・蓄積されるあり方を「農民的技術」と規定した。そして、その前提には、一人一人の農民が獲得した「技能」の交流・一般化がある。この交流・一般化について考えるうえで、阿部謹也が論じた田村仁左衛門吉茂の「教養」は非常に興味深い(阿部謹也、1997年)。吉茂は『農業自得』を書き残した幕末・明治初期の「篤農家」であった。ただし、阿部による吉茂の「教養」とは、多くの農民たちとの付き合いの中で、それらの人びととの共同の労働の中で身につけていったものであったとした。つまり、彼の「教養」は個人の経験のみから得た教養ではなく、農業等を通した「共同作業」による教養であったのである。

 「老農農法の継承問題」を基に、学習に新たな見地を提供したのは西村卓である(西村卓、1997年)。西村は明治農法の確立において、伝統的な自然・植物・労働観などがろ過・淘汰されたことはないとした。つまり、突如として新たな技術システムの確立があったわけではなく、伝統的農業観に基づいた農法が「継承」された論理を、坂田式稲作改良法の事例をもとに明らかにしたのである。そして、西村は近代的「科学性」に依拠するだけでなく、農民や老農たちの伝統に基づく「合理性」や「知恵」について評価する必要性を述べている。

 より具体的な学習への知見を提供しているのは、守田志郎による「農法」の考察である(守田志郎、1972,1976年)。守田にとっての農法の基礎条件は、農民生活の中で育まれるものであり、「農家の人たちが『土』とのあいだにつくり上げて来た」ものである。守田の論述で特筆すべきは、農法が意識・確認し書き記すものではないとしたことだ。その理由は、農法の記されている農書がそもそも執筆者によって指導書の意識で書かれていることから、農法の真実を読み解くのは容易ではないからだ。つまり、守田にとって農法とは、作物と土とそこに働きかける人間の関係や「場」や「空間」を通して成立するものであり、工業的論理の「技術」のように普遍的で、どこでも通用するものではないとしている。こうした「作物に働きかける」という視点を考察する際には、津野幸人の示唆も重要である(津野幸人、1980年)。津野は、作物の個性と能力を見極め最大限に引き出すための、経験及び観察の経験主義に基づく絶えざる学習(生涯教育)の必要性を述べた。また、「自分の知識は自分自身の居所に適する知識にすぎないから各地について最も適した方法を各人の実験によって見出すべし」という吉茂の発言に着目し、農業技術がいかに個別的なものかを論じている。徳永光俊も、地域性や季節性が問題となる農耕には、それにあう個別的な「熟練」「技能」が必要とされるのであって、その場限りの先祖伝来の「知恵」とでもいうべきものが重要な役目を果たすとした(徳永光俊、2000年)。また徳永は、他方で東北地方を中心に民間の天気予測家たちを訪ねて、「農法」にある日本の昔話や民話の世界に描かれているような「自然と話し、読み、感じる」世界を明らかにする。そこで、彼らの農法の根本には「《いのち》に働きかけ観察し育てる」素直な感性があると述べている。

 これまで概観した「農法」を学習論として総括すると、以下の特徴が挙げられる。まず、農作物や土を観察し、読み、解き、働きかけ経験するという農民による学習である。この学習は、家族や先祖から代々継承される「知恵」や、地域や季節などの「風土」「場」に基づくため、個別性・変動性・非普遍的な特色を持つ学習であるといえる。また、近代「科学」や他の外的刺激・事象があったとしても、それを学びほぐすことで自らにあった個別性のある「農法」につくりかえる学習でもあると言えよう。さらに、労働力としての農民の共同作業や相互の交流・学習である。それは動態的に展開し、各地域の「風土」や「歴史」「労働主体」に基づいた個別性・非普遍的な「農法」に還元されていくのである。

 学習として「農法」を考察する際に、農法には「伝統」「風土」などの否定の上に成立する近代科学の在りようを、相対化しとらえる学習があると言える。この学習には、経験的な認識が持つ限界を率直に認め、ときに近代科学への絶対的な信頼の上に成り立つ農法に対して強烈な批判となってあらわれてくるものでもあり、それは「unlearn」の可能性として考察できるであろう。

 ただし、農法を学習論として評価するにあたり、注意しなくてはならない点もある。たとえば、飯沼二郎による「庶民」(農民)と「伝統」に対する理解である(飯沼二郎、1970年)。それは、庶民が自らの伝統性にあまりにも密着しているため、その伝統性の限界を理解することが非常に難しいという点だ。また、庶民は他の風土に育った伝統に対しては恐るべき無理解さと、鈍感さとを示すという点でもある。つまり、庶民性やその伝統性に固執し絶対化することへの危惧である。飯沼は人格が自立することで、異なった風土に生い育った文化に対し、いたずらに模倣的・排他的にならないことが可能になると述べている。つまり、近代科学や風土、伝統を捉えなおして乗り越え、人格を自立・形成するための学習こそが求められているのである。その意味からも「unlearn」概念に注目することは、環境教育における新しい学習論の展開を構想することに繋がるのである。 

4 unlearn概念の意味と可能性

(1)グローバリゼーションとunlearn概念

 社会教育や生涯学習の領域では、グローバリゼーションのもとで急速に一体化・画一化しつつある世界の中で、私たちが「学ぶ」ことの意味が問い直されはじめている。読み書きを人としての基本的な権利と考え、すべての人が教育を通して充実した人生を送ろうとする努力は尊重されなければならない。ところが、その格差を埋めようとする「学び」がグローバリゼーションをよりいっそう進め、社会や文化、人の生き方の多様性や「もう一つの学び」の可能性を奪っているのではないか、という疑念がある。

 スピヴァックの「unlearn」という概念を「学び捨てる」と翻訳した本橋哲也は、「あらゆることに関して自分が学び知ってきたことは自らの特権のおかげであり、またその知識自体が特権であることを認めること。そのことと同時に、それが自らの損失でもあると認識し、特権によって自分が失ったものも多くあることを知ることで、その知の特権を自分で解体する」必要があると説明している(松橋哲也、2005年)。大江健三郎も「unlearn」という言葉を「unteach」と組み合わせて、「学び返す」「教え返す」と翻訳する(大江健三郎、2007年)。大江は、「他の人間に教えることにありがちな過ちをおかすこと」「教えた相手から過ちを指摘されて、苦しく自己修正すること」「教えた相手から逆に励まされるということ」の経験が、人を「成熟」させると考えているようだ。さらに大江は、鶴見俊輔が「unlearn」を「まなびほぐす」と翻訳し、「大学で学ぶ知識はむろん必要だ。しかし覚えただけでは役に立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる」と説明することも紹介している。

 かつて地域社会では「学び返し」「教え返す」ことが当たり前であり、それだけ「まなびほぐす」チャンスも多かったにちがいない。それは教育が社会的機能として十分に自立しておらず、学校という社会装置が知を独占していなかったからであろう。いまこそ地域がもつ「学びほぐす」力が再評価されなければならない。

(2)欧米におけるunlearn概念の特徴

欧米で用いられるunlearn概念を活用した実践や研究を、主に3つに分類することができる。

 まず第1は、人種主義・白人優越主義に対するunlearnである。アメリカに在住する白人が白人優越主義を理解するためにunlearnを必要だとしたのは、Carole Barlasらである(Barlas, C、 2000)1)彼女らは白人だけで構成されるグループをつくった。そして、参加者自らが課題設定や議論方法などを検討し進める参加型協同探究手法(Cooperative Inquiry)を用いて、参加者の白人優越主義に関する日々の意識変化を追った。参加者の意識と態度がグループワークを通していかに変化したのかを研究したのである。この研究では、こうした学習過程をunlearnとしている。Chara Riegelは、仏教哲学における自然観、人生観を学ぶこととその実践が、アメリカにおける人種主義をunlearnする一つの方法であるとした(Riegel, C2008年)。2)またChristian Stokkeは、ヨーロッパ中心主義や白人優越主義をアフリカ回帰運動の要素を持つラスタファリ運動の視点からunlearnする必要性があるとしている(Stokke, C2005年)。3)

 第2は、アメリカのセクシャリティーに関するunlearnである。Tamara Priestleyは、異性愛者が同性愛者を認め受容するに至るまでの過程を明らかにした(Priestley, T2009)4)本研究でTamaraは異性愛者の意識には異性愛者主義(ヘテロセクシュアリズム)が内在しており、それについて学ぶ過程をunlearnとしている。

 第3は、教員を養成するための「教師教育」においてである。Marilyn Cochran-Smithは、教師教育における教職課程等をあくまでも人種主義のコンテクストとして理解し、それをunlearnする必要性があると述べた(Cochran-Smith, M2000,2003年)。5)6) Marilyn Cochran-Smithは、unlearnが人種、人種主義、社会正義等に関して生徒自らが持つ仮説・固定概念を自ら探究しようとする過程であるとしている。その方法論として、教師と生徒が共に実践から社会的・政治的視点を持ち批判的に学び探究していく独自の概念である"Inquiry as stance"を提唱していることも興味深い。Jerusha Connerは、教師教育におけるサービスラーニングを、「都市部で生活する低所得者層の生徒」という固定概念・偏見をunlearnする1つの方法だとしている(Conner, J2010年)。7)その過程には、生徒やその地域に「ついて」学ぶというだけでなく、彼ら「から」学ぶことが重要であるとした。

 アメリカンインディアン(Native American。原文にAmerican Indianと記載されていたのでそのまま翻訳。)が自らの言語を学ぶ際、初めに覚えた英語がいかにその学びを妨げるのかを研究したのはVeronica Carpenterである(Carpenter, V1997年)。8)この研究では、主に音声学・音韻論に基づき、英語とその言語の違いを教師が教える必要があると論じた。Veronicaは、このような学習過程をunlearnと述べており、教師は学習者にunlearnする方法を教える必要があるとしている。

 以上のunlearnに関する欧米の研究動向を考察すると、unlearnにはスピヴァックによる西欧中心主義批判等の「脱構築」概念の影響が見られる。したがって、どの研究のunlearn概念においても、自らがおかれた状況や知のあり方を特権としてとらえ、それを解体する必要があるとしている。また、教師教育で多く引用されている事実を踏まえると、学校教育においても積極的にunlearnを評価し取り入れようとする流れがあると言える。

(3)失われた関係を取り戻す学び

 鈴木敏正は「ローカルな知」を科学的知と相互規定関係をもつものの、それとは区別される「社会的実践知」であると指摘している(鈴木敏正、2011年)。実践知であるがゆえに「実際の生活実践とともにある『生きた知』」であり、「動態的・有機的な知」であるとともに、「地域を維持し、つくり変えていくような『地域をつくる学び』の中にあり、その実践を通して明確化する」ものであるとされている。「グローバリゼーションの時代、地球的規模で地域格差が拡大し、日本国内でもお道府県・市町村のレベルでもそれが目立ってくるようになると、あらためて『ローカルな知』の重要性が認識され、それらを守り発展させるような『地域をつくる学び』、それを推進する『地域創造教育』が実践的課題となってきているのである。」しかし鈴木の枠組みの特徴は、その上さらに「グローバルなレベルにおける普遍的な知と個別人格的に特殊な、あるいは地域レベルいおける特殊な知を媒介する知」として「グローカルな知」を設定することにある。ここでは「ローカルな知」は「個別人格的に特殊な、あるいは地域レベルにおける特殊的な知」とされ、前平が<ローカルな知>に内在させた知が繰り返し生みだされるダイナミズムをあえて外部化し、普遍的な知と個別的な知との相互関係を媒介する「学習の構造化」に注目しているのである。

 ここには前平が<ローカルな知>を通して注目する「場のダイナミズム」と「身体感覚」を、科学知と実践知とのより積極的な統合ともいえる「グローカルな知」で説明しきれるのかという問題が残されているように思われる。本稿には、この「ローカルな知」と「unlearn」概念を組み合わせることで学習のダイナミズムを表現できるのではないかというアイディアがあった。その試みがどこまで成功しているのかはともかく、これに連なるいま1つの概念、「口伝」の可能性を再評価することで本稿のまとめとしたい。

 内田樹は『下流志向』の中で、「今の子どもたちは、もしかすると、その過半が生まれてはじめての社会的体験が買い物だった」のではないか、と指摘している(内田樹、2007年)。人生最初の社会的体験が「消費主体」としての役割であることによって、子どもたちは教育の場においても等価交換を求め、学ぶことによって得られる利益を明示するように教師たちに要求するのである。これは、かつての子どもたちが労働主体としての社会的体験から出発していたこととは大きく異なる。「教育から受益する人間は、自分がどのような利益を得ているのかを、教育がある程度進行するまで、場合によっては教育過程が終了するまで、言うことができない」という「教育の逆説」(内田)が学校を成り立たせていることに、いまの子どもたちは気づかないのである。

 学校を含む教育の現場には、教える側としての教師と教わる側としての生徒が存在する。<教える><教わる>の関係が固定的な学校に比べて、公民館などの成人教育の場では相互に<教え合う>関係があるため相互教育という形をとることもある。とはいえ、何らかの形で<教える><教わる>という関係がなければ教育過程は成り立たず、内田が指摘するように、これを<売り手>と<買い手>の関係(市場的関係)に置き換えることはむずかしい。<教える><教わる>という関係を、近代化された<教師>と<生徒>の関係ではなく、<師匠>と<弟子>の関係に置き換えると、人と人との「つながり」が見えてくる。

 こうした関係を、仮に「口伝(くでん)」的関係と呼びたい。いまの教育現場には、この口伝的関係が失われており、それを意識する体験が子どもたちにはない。おそらく、教育の原型は「口伝」であったと思われる。「口頭伝承」「所作伝承」「心意伝承」などの形をとる口伝は、文書などの記録とはなりにくいものです。日本の歴史上、もっとも古い口伝の一つと考えられる「古今伝授」は相伝の系図によって確認され、「面受(めんじゅ)」も禅宗の作法によって今日に伝えられている(加藤周一、1999年)。とはいえ、農業・林業・漁業のような生業の世界や落語・講談・歌舞伎などの芸能の世界、獅子舞・お囃子などの祭礼の世界、柔道・剣道・空手などの格闘技の世界では、いまだに「口伝」が重要な教授法として生きている。口伝には近代教授法とは異なるいくつもの特徴が見られるが、その独特の関係性を考えるうえで師弟関係がもっとも重要であろう。内田は「師であることの条件」を唯一つ「師をもっている」ことであると定義している。技量のレベルで弟子が師を超えることがしばしばあっても、師を「師」として意識し続ける限り弟子は成長し続けるものであり、それは無限に続く長い鎖の一つの環としての自覚と強烈な使命感であると考えているのである。

 こうして「つながり」を意識できる感性は、<教える><教わる>という関係を通して、人と人とのつながり、人と自然とのつながりを意識できるようになる。「キツネに騙される力」とは、自然の向こう側にいる過去や未来の人、遠く離れた人や社会に想いを馳せる力である。その意味では、自然を通して多様な人や社会から<教わる>自覚が求められるのであり、環境問題をひとつの切り口とした「持続可能な開発のための教育(ESD)」の主体となるために子どもたちが求められていることとも一致している。現代の子どもやおとなにとって、持続可能な社会をめざす学習(ESD)体験こそ、こうした失われた関係を取り戻す学びとして期待したい。

 

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2) Riegel, C., 2008, BUDDHIST PHILOSOPHY AND PRACTICES AS APPLIED TO UNLEARNING RACISM, Smith College School for Social Work Northampton, Massachusetts 01063.

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4) Priestley, T., 2009, LEARNING TO UNLEARN: A CASE STUDY OF THE INITIAL REJECTION AND SUBSEQUENT ACCEPTANCE OF HOMOSEXUALITY BY HETEROSEXUALS, Teachers College, Columbia University (http://www.adulterc.org/Proceedings/2009/proceedings/priestley.pdf  accessed on March 17, 2011(PDF)).

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