1971是の字寺海龍院

・名称  是の字寺海龍院
・場所  岡崎市
・時期  1971年



・写真

1971年竣工時

 山門 2007年7月(佐藤美弥氏撮影)

 本堂アプローチ 1980年頃(伊達美徳撮影)



 本堂 2007年7月(佐藤美弥氏撮影)

 本堂内 1971年竣工時

 本堂内部 2007年7月(佐藤美弥氏撮影)


・是の字寺 内観スケッチ 山口文象画



解説

是の字寺龍海院について    伊達美徳

 この設計は、東京RIAが大手町の日本ビル10階にあったオフィスで作業をしていた。わたしはそばで見ていただけであった。
 担当の滝沢さんは、RIAに途中入社した人であった。フランスの設計事務所で働いた経験があり、外国とRIAでの仕事のやり方のギャップに悩み、かつ面白がっていたようだ。この設計が終わった頃にRIAをやめた。
 是の字寺の設計は、山口文象が力をいれて、ひとりでやっていた感じである。滝沢さんは、山口の直接に指示で、何度も図面を書き直し、模型をいくつも作り直していた。吹き付ける塗料で、設計室がシンナー臭かった。
 この建物について、わたしは細かいことを知らなかったが、後の2007年9月に一橋大学の佐藤美弥さんが是の字寺を訪ねて、住職の池田芳俊氏(1925年生)にインタビューして、その報告をいただいた。
 それをアレンジして、建設の経緯や2007年当時の状況を記しておく。

 太平洋戦争の空襲で伽藍が焼失してしまった。その復興の工事を、近くに本社のある地元の建設会社の小原建設に依頼した
 小原建設と契約する前に、小原守社長が山口文象を設計者として紹介して、つれてきた。住職はそのときはじめて山口文象にあった。
 書院にて、住職、山口、小原社長、小原の平井建設部長の4人で、顔合わせとアウトラインの提示、意志のすりあわせを行った。
 山口が以前に岡崎に来たときに、この寺の山門にかかる「是字寺」の扁額をみて「すごい寺だ」と感心したと話した。

(伊達注:小原建設は、わたしがRIA名古屋支店にいた当時に設計した名古屋紳士服縫製団地の工事をしている。RIAは岡崎での再開発にも関係していて、山口文象はRIA社長として岡崎にきたことがあった。是の字寺の後に、岡崎女子高校の校舎を山口文象が設計したが、これは小原建設の紹介であった。)


 初回打合せ時の当初の提案では、「現在建っている姿以上にピラミッドのような」直線的な屋根が地面にまで接するような意匠であった。
 住職としては、あまりにも地面にはりついたエジプトのようなかんじだったので、ちょっと抵抗があった。
 現在のような浮御堂のような姿になってよかった。当初は周囲に水を入れる予定であったが、管理面、資金面の事情によって竣工当初から砂利が入っている。
 また、禅宗僧が托鉢のさいに用いる網代笠をイメージして、屋根にいささかふくらみをもたすことを提案して受け入れてもらった。

(伊達注:山口文象の晩年の作品には、このような大屋根でまとめるデザインが多くなる傾向がある)


 住職としては、鉄筋コンクリート構造の提案については、提案をそのまま受け入れたが、木造でという感もないではなかった。しかし、設計が進行している状況では、言いにくく、山口文象の力作であるということを信じて任せた。先生の作品が世に残るならということで腹をくくった。
 工事中は「鉄骨の組み方をみて空中に橋を架けているような感じがした」。
 竣工後は、支障なく使っている。住職としては、いささか他の寺とは違うんだなという感を持っている。
 これでよかったのかな、という気持ちもないではない。大本山永平寺、大本山総持寺も鉄筋コンクリートでやっているが木造を鉄筋コンクリートで表現したもので、龍海院とは異なる。
 須弥壇は既成のもの。内陣左右の階段から下階の座禅室に下りられる。しかし裏山の水が出て使用できない。これは失敗だった。
 内陣外陣のあいだはアコーディオンカーテンで仕切ることができ、非宗教的な行事に使用することができる。
 外陣は音響の評価が高く、尺八やジャズなどの演奏会に使用されている。
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