1952年~ RIA初期の住宅

・建物名称  ローコストハウス  大久保邸   小町邸  
        (現存しない)
・建設場所 東京        東京     東京
・竣工時期 1952年
           
1952年    1954年


1952年 ローコストハウス
(1952年の新制作派展覧会に、この実物を金24万円也の商札をつけて出展)


誰のためのLOW COST  池辺 陽

 建築綜合研究所の提案したLow Cost Houseは最近発表される住宅が、殆どぜいたくな装飾的な日本趣味やモタニズムに走っているのに比べて,現代建築家の最も基礎的な立場を再認識させた点で大きな意味を持っている.
 メンバーの中心山口文象氏は,W.Gropiusの「建築家は社会を構成する衆のために奉仕しなければならない-」という語を、その基礎とされているがBauhausに学んだ氏のこの面の提案として大きく期待される所であった.
 しかしその提案及び説明を読んだ時、私は素直に云って非常に失望した.この提案には技術的に見て進歩性少なく,又そのLow Costの追い方には多分にCommercialな危険性が見られるのである.
 この建物を魅力的に見せているのは山口氏のすぐれた感覚だけであると云ってよいだろう.
 この建物の技術的な問題,強度や耐久力等については、見られた人のすべてが感じていることでありここで論評するのは避けたい.ただこの建物から感覚的なことを除くと、戦争直後の住宅営団のデザインと大差ないような気がするとだけ云っておきたい.
 問題はこの提案の主旨であるLow Costが、一体何を基礎として定められたか、と云うことである.この作品がある特定の人を対象として2万円という額が最初にあり,それを目標としてのデザインなら別に問題ではない.しかしここではそれがより一般化されて表わされている。そうするとこの2万円という数字は、一般的な意味での住水準を意味してい
ると解釈される.
 住水準は云うまでもなく生活水準の一部を構成している.日本の生活水準の低さはよく云われる通りであり,その場合、住が圧迫されることはエンゲルの云う通りであり,又現実の日本の住宅がその証明であるのは山口氏も云って居られる.
 そして建築家はその水準を上げるための努力をしなければならないと同時に、その経済的な水準をいかに技術的によく生かすかと云うことが必要である.
 山口氏がこの住宅が現在の日本人の住生活として適当であると云う発言は、一方に山口氏の別の作品に見られる快適さと比べる時,耐乏生活や池田蔵相の「貧乏人は麦を食え」と云うのと如何に似通っているか.もしも主構造がこれで十分であったとしたら私なら設備をもっと充実し,少なくとも現在の金融公庫水準(これは大工の水準で又日本の一つの
指標であることは間違いない)を下げたくない.大衆にとっては24万円になっても20万円になっても違いはない.それだけ投じ得る人の大部分は公庫でも建てられるだろうから.前衛建築家のLow Costの考え方はもっと違う所にある箸だ,と私はGropiusの仕事を眺めながら思うのである。この提案は大衆の圧力に押されて住宅を建てなければならない官庁や大会社や、息子夫婦に家を建ててやる金持ちにだけ役立つことだろう.
     (「新建築」1952年11月より)


 大久保邸
 

 1954年 小町邸(「新建築」1955年2月号より引用)
 
 



 

1956年 奈良・近鉄学園前モデル住宅
 (「楽しい生活と住宅博覧会」1956年 朝日新聞社より引用)



 

住宅とRIA  近藤正一

◆げいじゅつの時代
 芸術の時代は-ローコストハウスから始まる.
 52年,新制作展に,この実物が金24万円也の商札をぶら下げて登場したとき,多くの建築家たちは「あまりに極端なローコストは,住宅の質をますます低下させるものだ」と反対を表明した.
 この批評は社会に向っては当を得ているけれども,RIAに対しては当てはまったとは思えない.
 当時の世相から,どうしても社会主義的な色彩のもとで芸術作品をプレゼンデーションしなければならなかったのは,RIAの主宰者山口文象の場合だけとは限らない.ちょうど,同齢の前川国男も,コストの差こそあれ,プレモス住宅という量産化の庶民住宅を発表したのもその当時である.
 したがってこのローコストハウスの流れをくむ,大久保邸,小町邸のような,決してローコストでない住宅で,同じ手法による,すぐれた芸術作品を発表することも可能であったわけだ.
 ローコストハウス,大久保邸、小町邸,それに牧邸を加えたこの当時の住宅は,いずれもアメリカのモダンプランの影響を受け,その表現は真壁構造,構造材露出の手法を徹底している.まさに一作一作が写真になる芸術であった.
 この頃は,建築界全体が貧乏の時代であったので,建築家の日は専ら,小住宅にそそがれていた.
 清家清,池辺陽を初め,若い世代の増沢洵,安田与佐,永松亘,臼倉健之のすぐれた芸術作品は,当時の小住宅設計の華やかさを物語っている.学生が応募する懸賞の住宅も,新しさに満ち満ちた作品であった.
 そのいずれもが,アメリカのモダンプランの影響を受けながら,その手法を日本的なものとしてとらえていた.今やステイールハウスしかやらない広瀬鎌二ですら,西京風の家などの手の細かな木造の住宅を発表しているほどだ.
 つまりこの時代の作家たちは,まったく同じ環境で,まったく同じ考えのもとで出発し始めたのである.こういった意味で,RIAも当時のういういしい住宅作家の第一線に並んでスタートを切った.
 時代の移り変りと共に,それぞれの建築家は,変ぼうを始める.RIAは,もっとも純度の高い,もっともモダンプランの牧邸を最期に,きたない時代に移ることになった.

◆きたない時代
 牧邸は,単純で,合理的な生活と,モダンスタイルを望んでいた,進歩的な,独身の声楽家のために作られた.当時、芸術的なRIAとしてはこの人こそ.最高の建主であった.
 コアーシステム,オープンプランのこの住宅が建ってまもなく一大椿事が持ち上った.これから一生独身である彼が結婚し,そうするそばから子供が生れた.彼の極めて割り切った生活観は一瞬のうちに消え去ったことはいうまでもない.
 この純度の高いすまいの増改築を,今さら芸術家に頼むわけにもいかない彼は,自らの手で,住みよいようにつぎたし,改造し,この家の原型は設計者ですら分らぬものに変ってしまった.
 これは勿論,建主側の大きな誤算ではあるけれども,この一件は,RIAにもかなり荷の重い問題を感じさせた.住宅設計を芸術派と生活派に分けるとすれば,これ以後生活派に属する仕事が多くなるのは,この一件だけを理由にすることはできないが,その象徴としては充分な椿事であった.
 この頃になると,婦人画報の「モダンリビング」を筆頭に,いろいろな雑誌に住宅が記事として取り扱われるようになり,これを見た人々が,フリーに,事務所に設計依頼に訪れるようになった.
 これらの人々は概して,若い,お金の少い,モダンを夢みてはいるが,実際は,がっちりした生活派のサラリーマンであった.乾式工法,リビングキチン,造り付け家具,それに前から踏襲された真壁構造によったこれらの小住宅は,いずれも安く,狭くつくられていたため,そのプランの新しさとは対象的にきたない光景を呈している.
 すなわち構造を裸かにすればするほど,オープンプランにすればするほど、その材料のみすぼらしさと,生活の逃げのなさのために,かえって,そのきたなさは増したのである.
 これらの小住宅を相ついで設計したのも,もちろん仕事のルートが少く,たとえわずかな設計料でも,それで食べていくことが必要であったのだが,このきたない時代であ
っても,わずかながらの自己表現の活路を見出そうとした作家のいじらしさに,その後のRIAの性格を決める大きな要因を見ることが出来る.

◆まもりの時代
 RIAの世帯が4,5人の小人数の時代は,住宅の場合、交渉-プランニング-ドラフト-監理が個人担当で行なわれることも多かったが,世帯が大きくなるにつれて,当然チームとしての方向性が必要になった.メンバーそれぞれが案を持ち寄るコンペ形式のディスカッションが考え出されたのはこの頃であった.
 このコンペ形式は,現在までつづいているのだが,その中でチームの指導原理をもっとも打ち出したのがゾーニングによるプランである.生活のしくみをゾーンに分けながらプランする方法は,そのすまいの性格を,チームのメンバーにもっとも明かにすることができる.
 しかも,当時流行の動線による解析とちがって,その組み合せは相当変化にとんでいるので,一見大まかに見えるこの方法が,意外に細かなニュアンスまでもり込むことができる.
 計画原論的なものと細かなニュアンスを別々の角度から評価すれば,その優劣は,おのづからはっきり表われ,当選案を決めるために,うるさ型のメンバーを説得するには最も適した方法にもなる.
 それ以前のクリッドによる長方形のかたいプランから,かなり凸凹のある自由なプランに移行できたのは,このゾーンのおかげであるが,ますます,RIAの住宅が平均点以上というあまり個性表現のない方向に向うことになった.
 つまり芸術的な住宅から遠のくのである.エレベーションを気にしない,芸術でない住宅の時代 この時代がRIAの住宅のもっとも油ののった時代であろう.そうしてこれからも住宅をつづけてやろうという,意地が生れてきた時代であったようだ.
 守る側と攻める側という言葉で分ければ、きたない時代までは,たとえ,きたなくても攻める側で設計してきた.この時代になると,はっきりと守る態度が現われてくる.
 ふりかえって見ると,このころの他の建築家も守る側に変ばうしたものが多い.相変らず尖鋭的な池辺陽等を除いて,増沢洵のH氏邸や,清家清の関西の家などに代表される守ろうとする動きが始まっているのを見ると,このころで住宅の一つの時期が終ったと云えよう.

◆複雑の時代
 冷蔵鼠 洗濯機、STEREO、T.V、PIANOが家庭に持ち込まれる時代に入る.到底充分な土地や満足な住宅を望めそうにない希望のない人々にとって,マスコミに煽られたこれらの品物は,安直なレジャーを味わせてくれる.
 小さなアパートの一室も,かなり大きな屋敷でも,所かまわずこの流行は入り込んでいるため,これらの消費ムードに住宅の形態が大きく左右されはじめている.RIAの住宅の転機が,牧邸前後を第一期とすれば,今日が第二期に当る.第一期では,住宅作家としての方向づけを芸術から引き下ろした地点で物を考えようとしたのであるが,第二期では,完全なモダンプランの形式にのみこだわらず考えようとしている.
 エジプト並の給料で,アメリカ並みのレジャーの気分を味うといった矛盾にみちた日本人独得の二重性は,かつてのモダンプランではどうしよもない問題が起ってくる.狭い部屋に並べられたSTEREO,TV,PIANO,暖房のないリビングルーム.200余軒の設計を通じて,図面と生活の谷間はいたる所に表われている.
 TVのリビング,STEREOのリビングの二つのリビングを作るとか,たたみの間を正室としても使えるものにしようとか,目下チームの話題は複雑だ.ある人は完全な後退であり,消極的と,眉をひそめるにちがいない.
 しかし,RIAはこれをあくまでも守る側として,とらえよぅとしている.というのは,この時期にはほとんどの建築家は住宅を棄て,かろうじて芸術家篠原一男と鉄の達人広瀬鎌二らが,孤塁に踏みとどまっているに過ぎず,発表される住宅もほとんど型どおりのモダンプランか,戦前の和洋折衷の形に敗北し去っている現状では,少くともRIAは守る側にまだ留っている唯一つのチームに思える.
 二つのリビングは,ややもすると,完全な応接間の復活になり,たたみの問題は,ややもすると家長のためのすまいに戻る危険は充分にあるけれども,このもっとも矛盾にみちた,一言で決しかねる期間を,置きざりにしてはいられない,第二の暗中模索時代に,RIAは好きこのんで突入している.

◆それからは…
 これからどうなるか?という質問は必ず最期に聞かれる.そうして現代人の模範答案は「あまりよくわからないね」ということになるだろう.
 しかし,個人住宅に関する限り,よくわかる.「まだまだこの調子が続くだろう」 デパートで組立住宅が宣伝されても,プレコン住宅が提案されても,少くなった大工さんや左官屋さんに頼む住宅は,10年,20年と続くだろう.
 土地が極めて高く,少い現状では,少くともやっと土地を得た人にとっては,今までの住宅に対しての数えきれない不満を一どきに解消するためには,どうしても自分らしい住宅を作らねばならないだろう.永い間の無味乾燥なアバー生活から個性の表現が抹殺された傷跡は大きい.
 これを癒す時は退職金の降りる時である.年老いて,自分の表現が許されるとき,この人たちは,決して,組立住宅を選ばない.画一化されたということであのアパートのいまわしい亡霊を思い出すかもしれないからだ.
 したがって個人住宅にRIAがこれからも取り組む以上,RIAを訪れる建主にもことかかない.しかも消費的なムードは,日本の鹿討不思議な経済機構からして,決してなくなりはしないだろうから,RIAが頭を抱えこむ問題は益々多くなってくる.
 一方,共同住宅や,建売り住宅などの都市再開発や住宅企業に今後積極的にRIAが力を入れてゆく面がある.これには,住宅を群として把らえる方法も大切であるけれども,個々の集りが集団を形成すると云う.いわば,ごたごた側からのアプローチも貴重だ.
 住宅200余軒をやり終えても一向に明快な結論の得られない,ごたごたさ加減が多いことを感じつづけたRIAとしては,充分にやりがいのあるアプローチでもある.劃一的で,あまりにも狭すぎる共同住宅の中で大きな欲求不満がこれからますます起ることが予測されるとき,篠原一男が,RIAを評していみじくもいった「親切すぎる住宅設計家」の立場を,より強く主張せねばなるまい.
 あまりにもこれらの都市的な計画をパターンに凝った芸術作品として把えようとする限り,かつて住宅が建築家から見放されたのと同じように,流行の嵐が過ぎ去ったとき,厄介な代物として見棄てられてしまう危険をはっきりと感じるからだ.(「建築」1962 6月号より)