1940年 山口文象自邸

・建物名称  山口文象自邸
・建設場所 東京・大田区久が原
・竣工時期 1940年
・資料    新訂建築学大系38木造設計例(彰国社 1969 RIA著=解説:植田一豊)

・写真、図面等

●1960年代の正面
●2006年の正面
 

●2006年の庭(クロスクラブ山口勝敏コンサートの日)


●1960年代のサロン



 
●1960年代の平面(時代によってかなり変遷している。現在は3つの個室はない。サロンではたびたび音楽会が催されれている)


●1950年代の平面

 
 
 

●1940年代の平面(南の付属棟には山口文象建築事務所の書生たちがすんでいた)
 


 
●1960年代の立面(1960年代)




 
●山口文象の和風について
    佐々木宏 (『建築家山口文象 人と作品』RIA編 1982 相模書房より引用)
 
 山口の木造和風建築を見ると,いかに旧来の雛形や昨今の木造建築の教科書がつまらないかが思い知らされる.新しい美しさを生み出すための技法の展開の示唆がどこにも書かれていない.これでは,やれ伝統だ,やれ在来工法だといいながら陳腐な停滞したものしか生まれてこないだろう.山口は,和風木造建築のこのような限界と危険について,かなり早くから気づいていた節がある.
 山口が自邸を建てたのは1940年である.彼が自邸のために選んだデザインは,民家風の骨太の木構造の瓦屋根である.これが,はたして彼の自邸を建てるための真意から出たものかどうかは不明である.もしも,戦時中の窮乏時代でなかったならば,あるいは,逆行的な伝統主義がほびこっていなかったならば,彼は,山田邸や小林邸のようなデザインで自邸を建てたかったのではなかろうか.
 意外に知られていないが,堀口捨己の有名な若狭邸は,1階が鉄筋コンクリート造で2階は木造である.当節の用語でいえば混交構造である.これは堀口の意図したデザインではなく,当時の資材統制によって,建築工事中に鉄筋が入手できなくなってしまったからである.
 山口はおそらくこのことを知っていて,あのような哀れでみじめな住宅は,とうていつくりたくないと考えたであろう.といって木造建築そのものの中で,どのようにデザインしようかというときに,彼としては繊細な数寄屋風のものはお手のものだったにもかかわらず、造型のはかなさに内心は反発していた.木割にも通暁していた山口は,その形式化された限界をも知っていた.
 彼が結果的に選んだのは民家風の骨太のデザインであった.それが良かったのかどうかは,難しい問題である.しかし,数次に及ぶ改変にも耐えて今日に至っていることを考えると,彼は自宅のデザインにおいて,生き物としての建築の実相を把握することに成功したのかも知れない.
 山口が,茶室から民家まで,伝統的な和風建築の研究を実作の上で研究し続けたことほ,彼の戦後の小住宅のデザインの上で興味深い成果となって結実する.木造建築のさまざまな技法や細部を完全に習得したものでなければ創出できない新しいデザインの展開は,戦前の研究に負うところが大きいのである.

 
●鼎談 戦前から戦後へ (「建築文化」 1955.9)
 
  山口文象
  三輪正弘
  植田一豊
 
三輪 先生の戦前の代表作として,住宅では北鎌倉のY邸(1936),小林邸(1931〉を考えているんです。

山口 1930年代の住宅は,インターナショナルスタイルという言葉でいわれるように,まず造型的な新しさが問題にされていたわけだ。ぼくのY邸にしても、ウェイトがそちらの方に行きすぎているとは思うが,平面の問題は,十分考えたつもりだし,当時時でも,新しいやり方を試みていると思う。プランニングの考え方は,その当時のものはわりあい、イージーなものが多かつた。小林邸は,コンパクトな平面を同じように徹底的につつこんだつもりで,間仕切の移動,空間のヴァリエーションなどに重点をおいて考ている。
 
植田 戦前・戦後の先生を中心にした住宅作品に,連続したものをむりに考える必要もないんですが,合理的なものへの努力という点では,一貫しているように思いますが‥‥。

山口 ぼくは住宅のプランニングを考える際,やはりアレキサンター・クラインの最小限住居,それから,ストゥットガルトの住宅群,ドイツのジードルングの数々,まあ,そういったたものに実際触れてきたことが大きな力になつてると思う。当時の華やかな,造型運動にも,もちろん加わっていたが,新しい住宅の基本的な問題はいつも忘れたことはなかつたから.

三輪 このお宅(山口邸)は戦後のスタイルに大きな影響力をもつていると思いますが… 
 
植田 どうして今まで発表されなかつたのか,それから,始めておうかがいしたとき,非常に意外な気がしましたが‥‥‥

山口 その辺は、、ちょっと、、、頭のいたいところなんだがね。1940年というと,日泰文化会館などが出たころだよ.三笠書房の唯物論論叢から出版を予定していたぼくの『建築論』がおさえられてしまうというような具合だ。そんなときだから,これから建築家としてどうして生きていこうか、という深刻な問題だったんだね。農村文化への再認識というような運動の影響もあって、農村の建築遺産の中から,何か新しいものが掴めるんじゃないか,という漠然とした期待からこの家ができ上つたんだが,どうも,自分でも納得がゆかない。たしかにこれがわれわれの撰ぶべき方向だという確信がもてなかつた,それがこの家を未発表にしてしまつた原因だな。

三輪 戦争に入る前後のニッポンの知性の撰んだ生き方,それは,そのまま,今日でもわれわれの問題につながるわけですが,大変なことですね。

植田 戦後の初期のうちのライフスタイルに,いちじるしい伝統的様式を感じる人もいるようですが,ぼくらとしては,そうした結果を考え直してみたいと思います。これについではどうでしよう。

山口 無意識のうちに過去の建築物へのデッサンがでてきた,そんなふうに考えているんだがね。意識的に伝統様式を再構成する,そんな方法もあるだろうが,合理的な,今までの考え方をおし進める態度の中に,ふとそんなものが浸みでてくることだつてあると思うんだがね
.(以下略)
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