1936梅月堂

・建物名称  梅月堂(現・Y.T.梅月館)
・建設場所 山形市七日町

・竣工時期 1936年   (2008年度docomomo japan 近代建築145に選定)
 

写真、図面、資料等
 
●図面
 
 
●写真
 
 
●1936年開店当時の絵葉書
 
 
●山形梅月堂開店当時のメニュー
 
 
 

・記 事

●東京神楽坂紅谷と山形七日町梅月堂

伊達美徳

 山形の中心街である七日町の四つ角に、梅月堂(ばいげつどう)という和洋菓子と喫茶の店があった。
 この梅月堂の建物は山口文象の設計であるが、今や彼のモダニズムデザイン作品で現存するのは、このほかに黒部第2発電所のみである。
 そして東京の神楽坂に紅谷(べにや)という、やはり和洋菓子と喫茶の店があった。
 このふたつが密接な関係にあったことが、ある在野の研究者によって分かった。
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山形市の七日町交差点にある梅月堂は、この10年くらいのうちに廃業したらしく、今は、一階にテナントが営業していて2階以上は空き家となっている。
 山形の七日町通りは、戦前から繁盛した商店街であり、いまでも瓦屋根、土蔵造りの立派な店舗も多くあるし、レンガタイルを張ったような洋風のしゃれた建物もたくさんあって、なかなかに建築的にも楽しい風景である。
 そのなかで異彩を放つのがこの梅月堂であり、この建物は1936年に完成したが、建築家山口文象の設計によるもので、いわゆる豆腐に目鼻とも言うべき、1930年代当時は国際建築様式と言われた流行の超モダンデザインである。
 いくら山形七日町が東北では仙台に対抗する大繁華街とはいえ、その時代の最先端過ぎるこの建物をよくもまあ建てたものである。当時の街並み風景から 見れば、かなり違和感があったはずだし、あるいは東京で流行の建築として評判になったかもしれない。逆にそれだけに商業的に話題となって繁盛につながったかも知れない。
 当時の山口文象といえば、新進の流行作家とも言うべき建築家で、1932年にドイツ留学から帰り、1934年に日本歯科医専の設計で衝撃的なデビューをし、1936年には黒部第2発電所やダムを発表して、その頃から戦争が激化する43年ころまでが彼の人生で建築家として絶頂期であった。
 その山口文象がどうして山形に縁があったのだろうか。
 ここで神楽坂の紅谷の話につながるのだが、その頃の紅谷は神楽坂で商売に成功した一流の菓子店で喫茶店も経営していたが、その経営者が山形梅月堂経営者の五男坊だったのだ。
 この紅谷と梅月堂とのつながりをわたしに教えてくださったのは、菓子屋の研究者(ほかにも研究されているのかもしれないが)で、紅谷の歴史を調査される谷口典子さんである。
 谷口さんは在野の研究者で、紅谷研究で梅月堂との関係を調べるうちに、わたしの山口文象サイトに載せた「山形に梅月堂を見に」(本ページ下に採録)をご覧になって連絡をいただき、それでわたしもはじめて知ったのであった。
 その谷口さんが精力的に調査された諸事情と、教えていただいた資料(「わが青春時代 山形市七日町商店街 商いへの出発点」山澤 進著1998みちのく書房発行)とを元に、わたしなりに整理するとこうである。
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 神楽坂紅谷は1897年に創業し、1945年の戦災で店が焼失するまで営業していた。その経営者は小川茂七といい、実質的には茂七一代限りであった。
 茂七は1873年に山形市で生まれ、父は佐久間茂左衛門といいう。
 1889年(明治22年)に、茂七の兄の佐久間茂登七が、和菓子製造販売業の梅月堂を山形市小姓町で創業した。そのころの小姓町は遊郭街であったから、その需要を見込んだ菓子屋だったのだろうか。
 山形市観光協会のWEBサイトには、「明治17年から同30年頃までは市内の貸座敷業者が集結し、小姓町遊郭となり、明治、大正、昭和と、60年にわたって歓楽街として繁盛した」とある。とすれば梅月堂創業はその初期にあたる。
『昭和初期の小姓町商売屋図』と表題のある地図(作成経緯は不明、谷口さんが現在の小姓町にある菓子屋からもらったもの)があるが、これには 妓楼の並ぶ中に「梅月堂菓子工場」と描かれている。工場とあるのは当時は店売りではなくて、卸や配達専門であったのだろうか。 それとも製造販売をしていたのだろうか。

 茂七は菓子づくりをここで修行したであろうが、1893年、20歳の時に東京・飯倉の風月堂に入った。ここで菓子づくりの修行をしていたのであろう。
 紅谷と取引があった風月堂主人の斡旋であろうか、1897年、24歳のときに紅谷本店2代目の西岡幾次郎の妹つる(20歳)と結婚して、姓が変わって小川茂七となった。
 小川姓はつるの母方の姓であろうかと思われるが、茂七は紅谷の婿養子となったのである。
 そして茂七は、紅谷がこの年に開店した分店の神楽坂紅谷の店主になった。紅谷としては婿取りした妹に店を持たせてやったのだが、茂七は婿養子とはいえ、たった4年の修業の身だから、腕を見込まれての抜擢であ ったのだろう。
 戦前の神楽坂は、銀座に匹敵する商業と文化の町であり、とくに関東大震災による被害が少なかったために大きく発展したのであった。 文化人たちが住んだことでも知られる。
 神楽坂紅谷も順調に発展して、文化人諸氏が出入りする有名店となった。
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 1908年(明治41)、茂七は山形市七日町481番地の現・梅月堂の 建物がある位置である土地を購入し、その5年後に兄の茂登七の名義に変更している (土地登記簿台帳による)。
 上記の山澤氏の著書にある大正初期の写真(31ページ)には、その位置に白い2階建て建物があって陶器店とある。この建物は、それ以前の建物が1911年の山形市北大火で焼け 、道路も広がって建て直したものであろうが、この地を手に入れてからしばらくは貸していたのだろう。
 茂七は、東京なら銀座4丁目交差点(当時は尾張町交差点といったが)に匹敵する、山形市内随一の繁華街中心の七日町交差点角地を買い求め、故郷の実家である梅月堂をここに進出させる下地を作ったのであ った。
 1925年(昭和元)、山形の佐久間家の養子・秀治が、この地に3階建てタイル張りの洋館を新築して、和洋菓子販売と喫茶室の梅月堂七日町店の営業を始めた。秀治は後に山形商業界のリーダーとなる。
 小姓町店では茂登七が、菓子製造販売を続ける。

 そうして1936年、再び道路拡幅に七日町の土地建物がかかることになり、梅月堂はそれまでの建物を壊して梅月堂ビルを建てたのであった。その設計が山口文象 であり、現在もある梅月館である。
 建物は3階建てで、1階和洋菓子・パン・山形市名産食品販売、2階喫茶・アメリカ式軽食、3階ホール、屋上は展望台である。
 真っ白なビルの交差点に向いたファサードは、キャンチレバーではねだした2階から上は全面ガラス張りという、当時としては大胆なデザインである。

 屋上展望台というのも、当時のモダン建築の流行でもあったようだし、パーゴラ状の庇がモダンさを強調している。
 奥行きのない変形敷地の小さな建物であるのに、それ以上に大きく見せている。
 その当時の梅月堂が出した1936年10月14日山形新聞の1ページ全部を占める新聞広告を見ると、「明十五日開店/新築落成/東北に誇る唯一の近代式新興建築の粋」とある。
 当時、ヨーロッパ流行のモダンデザインをとりいれる新興建築とか新興建築家という言葉があり、山口文象がまさにそれだった。
 開店日には、当時の人気映画スターの高杉早苗や霧立のぼるなどを東京から招いて、開店イベントを盛り上げたことが新聞にある。
 この設計者の山口文象といい、映画人気スターといい、これは茂七の仕掛けに違いないだろうと、谷口さんは推測なさるのだが、わたしもそう思う。
 山口と茂七との接点は分からないが、山口の文化人好きからして、神楽坂になにか縁があったろうと推測することもできる。 多分、神楽坂にも出入りしていただろう小説家の林芙美子の家(現・林芙美子記念館、1941年完成)を、そう遠くない下落合に山口文象が設計している。
 茂七は梅月堂で表に顔を出したかどうかはともかく、土地の手当てもしたこの地に流行モダン建築を建てて、故郷に錦を飾ったことであろう。
 東京での流行情報や製菓技術など、梅月堂と神楽坂紅屋とは密接であったろう。山形梅月堂は、山形の一流レストランとして繁盛する。

 「七日町大通と旅籠町大通りに面した四辻角に、変形三階建て鉄筋コンクリートの梅月堂がありました。昭和のはじめに建てられた白亜のモダンな建築で、改築以前は一階が菓子売り場の奥に喫茶室がありました。改築後は 二階がレストラン、三階がパーティーなどに用いられるホールとなっていました。
 道路側を大きなガラス張りにした近代的建築で、終戦後まもなく占領軍に接収され、将校クラスの集会所になっていました。昭和二十二年に解除になりましたが、同じく接収を受けたミツマス百貨店は、ス ーベニールショップ(帰国兵たちのお土産店)となり、その翌年に返還されています。
 三十年代、四十年代初めにかけては、梅月堂の二階のレストランで食事をするのが山形市民の一つの憧れでしたした。山形青年会議所の年末クリスマスと年一~二回家族パーティーがここの3階ホールで催されました。」
(「わが青春時代 山形市七日町商店街 商いへの出発点」山澤進55ページ)
 
  そして神楽坂紅谷も順調で、梅月堂の竣工した年に、茂七は息子に家督を譲り、町内会や菓子業界で活躍するが、そのころから日本は戦争時代に入って行き、景気は悪くなる。
 戦争は激化し、東京は3月10日と5月25日の大空襲で神楽坂一帯は丸焼けとなって、茂七の 育てた神楽坂紅谷も灰燼となった。
 そして茂七は、戦争疎開した故郷の山形で1945年3月18日に他界した。享年72歳であった。
 以後、神楽坂紅谷は再開することはなかった。 一方の山形梅月堂は、戦後も山形市随一の菓子店、レストランとして栄えたのであった。
 上記の山澤進氏の著書によれば、経営者の佐久間秀治は、近代的な感覚の持ち主で芸能趣味も豊富であったそうで、山形市専門店会の会長として活躍し、丸久デパートや山形グランホテルの設立にもかかわっている。
 ここまでは谷口典子さんの調査を私の流儀でなぞったのだが、とにかく谷口さん本人による著述の登場を待っているところである。
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 わたしの古い手帳を調べたら、1976年12月と77年2月に山形梅月堂2階のレストランで、七日町地区の再開発計画策定の打ち合わせをしている。その計画の策定委員会の委員長が伊藤滋東大助教授で、わたしは コンサルタントのひとりとして出席した。委員会を3階ホールで開いたかどうか記憶がないが、多分そうだったろう。
 その再開発計画の成果は、七日町通りの建物を建て直すときは1階を引っ込めて歩道を広くとるように都市計画を決めたこと、ずっと後年になって再開発ビルとして完成した七日町aZである。
 そしてその28年後の2004年11月、伊藤滋さんは東大名誉教授となり(NPO)日本都市計画家協会会長に、わたしはその協会の常務理事・事務局長となっていて、協会主催のまちづくりイベントを山形市で開いたので、再訪したのであった。
 山口文象設計の梅月堂の建物は梅月館という名となって健在だったが、梅月堂という店はなくなっていた。1、2階はコーヒー屋と居酒屋が入り、3階は空き家である。
 聞けば、梅月堂は1997年に倒産したのだそうである。どのような事情かは知らない。山形の中心街も没落してきているのだろうか。
 さて、この建物はこれからどうなるのだろうか。
 東京駅前の中央郵便局と同じで、見たところシロウト眼にはどうってこともない建物であるから、派手な東京駅赤レンガ駅舎みたいに、一般からの保存の動きはおきにくいだろう。
 最近、山形の建築家や大学の研究者が、この建物の再評価をしようとする動きがあることを知人から聞き、地元のテレビ局がその模様を放送したものも見たが、うれしいことである。
 参照→http://gallery.mac.com/studiokagawa#100030
 もっとも、そのTV放送のなかで建築史研究者が、この作品の評価で山口文象とコルビジュエをひきあいに出していたが、ちょっと違和感がある。ここはやっぱり山口文象の師グロピウスにしてほしかったなあ。(080824、080917補綴)
 


●街並みとしてのモダニズム建築
伊達美徳

1.山口文象ピーク時の梅月堂
 1936年は建築家・山口文象にとっては、ピークの年だった。
 この年に、青雲荘アパート兼診療所、番町集合住宅、小林邸、山形梅月堂、日本電力黒部第2発電所 と関連施設、箱根湯本山崎ダム及び発電所などの、いわゆるモダニズムデザインの作品が続けざまに完成している。
 黒部の一連の仕事は彼の代表作であるし、番町や小林邸はモダン住宅としてのプランも意匠もまさに典型的なものである。
 だが、この年を境にして、以後は個人住宅と軍需工場の工員宿舎の仕事ばかりで、これといった創造的な作品はない。これは時代が戦争への転げていくときだったから、山口文象に限らず、建築家の仕事もそうならざるを得
なかったのだ。
 そのピークの年の仕事に、山形市のお菓子屋さんの店舗である梅月堂が完成している。山口文象は商業建築はほとんどやっていないし、やっても今はないが、唯一のものとしてこれが存在する。
 また、山口文象は地方ではほとんど仕事をしていないが、山形というのも珍しい。そしてこれが真っ白な壁とガラスによるまさにモダニズムそのもの、悪く言えば豆腐に目鼻の建築デザインである。
 それが東北の山形の町の最も繁華街である七日町四つ角、東京で言えば銀座4丁目交差点の三愛のような位置に建っているのだ。
 山形のような田舎町、というのもおかしいが、なぜ山形なのか。
 1920年代から30年代までの店舗建築の写真を載せている「失われた帝都東京」という本があり、それを見ても小規模店舗のモダンデザインといっても、よく言えば表現主義らしきものから折衷主義 そして今和次郎が言うようなバラック装飾など、やはり装飾をまとっているのが当たり前、もちろん圧倒的多数は和風建築であった。
 菓子屋の店舗としてあれほどに飾り気のない白い、最先端流行のラディカルなモダニズムデザインの建物を街の真ん中につくるのは、東京でさえも珍しく、そんなことをするのは森永キャンデーストアーと不二家くらいなものだった。
 だからこそ、それを梅月堂主人の佐久間茂登七の心意気でつくった、いやそうではなくて、梅月堂の5男坊に生まれて東京神楽坂の紅谷の主人となった小川茂七が、故郷に錦を飾るためにやりたかったのかもしれない。

2.看板モダニズムデザイン
 そのラディカルさのきわみは、これを鉄筋コンクリート造としたことに現れている。当時の街並みを作る商店建築は店蔵が主流であり、その中に木造建築のいわゆる看板建築という表側だけ洋風のお面をかけたものであったろう。現に隣の3階建て に見える建物は戦前の写真にも写っているが、典型的な看板建築である。

 梅月堂ほどの規模ならば木造で看板建築も可能であるのに、そして現にこの梅月堂の裏には木造3階建て建物を同時に山口文象が設計して建っていたのであるから、その当時としても珍しい鉄筋コンクリートでつくったのは何故か。
 思うに、この角地の狭い変形敷地に建てて、商業建築として見ごたえのあるデザインの看板建築を造ることができる大工はいなかったのかもしれない。そこで建築家を起用することになり、山口文象に白羽の矢が立つ。彼としては当然のようにコンクリートによるモダニズムデザインだが、表から見えない後ろ半分は木造で我慢したという ところか、。
 とすると、これはコンクリートでできた看板建築である。あの扁平な変形敷地に立つ建物となれば、その平面は山口文象でなくても誰がやってもあのプランになるしかない。

 だからあれはコンクリートでモダニズム建築をかたどった看板なのである。裏に木造建築あったことからしても、それは確実なことだ。
 その後に変転したようだが、インテリア、家具、展示ケースまで山口文象が設計したことが、山口文象らしいところと言えばいえる。なお、設計図の原図を見ると、山口文象が直接に図面を引いた様子はない。多分、日本歯科医専から山口文象の右腕でモダニズムデザインが得意だった河裾逸美であったろう。
 このような小規模ながら本格的なモダニズムの商業建築で今もあるものといえば、梅月堂と同じ頃に建った横浜の伊勢佐木町にあるA=レーモンド設計の不二家ビルである。まさにモダニズムそのものである。
 そういえば、このどちらも1945年にアメリカからやってきた占領軍に接収されて、米兵用のレストランとなった。モダニズム建築がアメリカ人好みだったからだろうか、それとも単にその街の一流レストランだったからか。
 二つのデザインを比べると、どうもレーモンドのほうに軍配を上げたくなる。

3.街並みとしての梅月堂
 山口文象の設計した梅月堂が建った1936年の山形といえば、山形七日町通りを都市計画事業によって拡幅したので、そのために旧店舗の建物を壊してこれに建替えたのであった。
 山形市史によれば、1928年に山形市は都市計画法(1919年制定)適用都市となり、1930年に都市計画決定し、1933年に梅月堂のある道路幅を4間から6間に広げることを決定して事業にかかり 、1937年に完成した。
 この道路拡張のとき、拡幅にかかる店舗等の建替えについて、山形市は設計など指導や斡旋した結果、見違えるばかりに街並み整備ができた、という。

 そのひとつに梅月堂もあったのだが、では、他に梅月堂のようなモダンデザインがあったかといえば、正確にはなんともいえないが、あったとは思えない。
 今の梅月堂の隣で七日町通りに並ぶ建物は、梅月堂の昔の写真に写っているから当時の街並みの一部と言ってよい。 洋風看板建築の類であるが、この程度の建物は多かったろうと推測できるのは、旅籠町辺りに今も多く見られるからである。今も七日町通りに今も存在する昔の建物は 、どれも店蔵づくりであり、この土蔵造りが街並みの主流であったろう。
 とすれば、梅月堂ができたとき、これはあきらかに街並み破壊であった。それは当時の市民にとっては、東京という都会からの最先端の流行としてとらえたのか、それとも、何か奇妙なわけの分からないものだったか 。
 このような街並み破壊は特に山形だけの珍しいことではなく、例えば京都三条あたりの20世紀初め頃のレンガ造洋館は、低い瓦葺きの町屋の中に異様な風景であったはずだ。しかしそれは、進歩の象徴として若い日本のありかただったし、山形の梅月館もそのひとつであって、市民が疑義をはさむよりは先端流行デザインにあきれていたであろう。
 なにしろ梅月堂が地元新聞に出した開店広告に「東北に誇る唯一の近代式新興建築の粋」と謳っているのだが、このコピーライターは誰だったのだろうか。ここに仙台を凌駕した新しさを誇る意気込みが見え、それはそのまま東京コンプレックスになる。
 今、七日町交差点の向かいから梅月堂を眺めると、七日町通り側に並んで2つの低い建物は、昭和の初めの風情を持っているから、梅月堂とは意匠的にギャップがあって昔を類推できる。
 一方、七日町通りと直行する国道49号側に梅月堂に並ぶ街並みは、典型的な今日的都市的街並みであり、こちらは梅月堂と何のギャップもない。ないどころか、梅月堂はほんの昨日完成したごとくの、よい意味でも悪い意味でも街並みに溶け込んでいる。
 つまり梅月堂は、昭和モダニズム時代から現代への橋渡しを、この四つ角を曲ることで見事に表現して見せているのである。モダニズム建築のもたらした今日的な意義の深さを改めて感じるのである。
 それは商業建築として街並みの中にあればこそ分かることであった。その点では変転激しくて当然の街場の商業建築で、良くぞここまで保っていたものだと思う。

4.梅月館は山形文化のシンボルとなりえるか
 さて、いまや山形第1級の洋菓子・レストランとして梅月堂はなくなり、建物の持ち主は不動産事業者に移り、1階にドトールコーヒーがテナント営業しているだけで、上の2層は空き家である。
 山形の建築家たちは、この梅月堂の建物を保全したいと考えている。建築家にとっては、ある時代を風靡した建築家・山口文象の設計であること、いまや1930年代のモダニズム建築であること、この二つが保全の意義と考える。
 だが、これではマニアックなレベル過ぎて、建築家や建築に対する意識の低い日本では、市民一般に理解はされにくいだろうと、わたしは思う。つまり、東京駅赤レンガ駅舎保全のように市民が動く保全運動になるものとは、この建物からはとても期待しにくい。
 それは、東京駅は誰にも面白い様式建築だから市民運動になりえた、その東京駅のまん前にある中央郵便局は素人分かりしないモダニズム建築だから市民運動にはなりえていない、ということが参考となる。
 だが、東京駅が市民運動になりえたのは、それもそうだったろうがそれよりも真の理由は、実はそこを東京だけでなく日本人の非常に多くが使ったし、しかも特別の経験があるという、人々の心象に深く刻まれた場所であったことによるものと、わたしは考えている。そこが中央郵便局と大違いである。
 梅月堂はどうか。
 今や山口文象を日本の建築家たちさえもほとんど知らない時代だし、山形市内にある擬洋風や洋風建築に比べると実に愛想のない、昨日建ったばかりと思うような表情のビルだし、山口文象の作品の中では位置が高いとはいえないし、ハードウェアとしては一般的には分が悪そうだ。
 だが、地元の人に聞けば子どもの頃はなにか特別のときに親に連れて行ってもらった場所であり、大人になってからは何かお祝い事にパーティーをやった場であり、親しい人と特別の食事をした場であり、入院中にあの美味しい御菓子を見舞いにもらった記憶のあるところである等の、山形の人にとってそれぞれに心に刻む特別の思いがあるようだ。それは東京駅並みかもしれない。その市民たちの情念の塊が、梅月堂の建物保全へと導く可能性を持つだろうと思うのだ。
 つまり山形の都市文化、生活文化のシンボルの一つとして梅月堂を位置づけることができるのだろうか、その掘り起こし作業をすること、そこに保全への重要な立脚点があると思うのだ。(090113初稿、090115訂補、090116訂補 )

●山形梅月堂シンポジウム2009 

山形モダン建築の再発見

 建築家・山口文象が1936年に設計した山形市七日町にある梅月堂、いまや彼のモダニズムデザインはこの梅月堂と黒部第2発電所だけが現存。

 地方都市の中で生き続けるモダンデザイン,いわば「マレビト」としての建築の魅力を,山口作品を通して体験する展覧会,シンポジウムを,現地の梅月堂の建物内で開催。

 梅月堂のできたころの山形、梅月堂がその後に山形で果たした役割、梅月堂と神楽坂との思いがけない縁、梅月堂を設計した頃の日本の建築界と山口文象などの話題を提供、当時の建築設計図や写真も公開展示。

(日本建築学会東北支部山形支所事業2008) 

●旧梅月堂展覧会・オープンハウス

・日時 2009年1月12日(月・祝)~17日(日)11:00~17:00

●旧梅月堂シンポジウム

・日時 2009年1月11日(日)14:00~16:00 

・講演:伊達美徳

・座談会:伊達美徳,相羽康郎 他

・進行:香川浩 

・会場:YT梅月館(山形市七日町1-4-26)

・定員:30名(申込先着順)

・問い合わせ:東北芸術工科大学建築・環境デザイン学科相羽研究室

tel. 023-627-2057e-mail yaaiba@env.tuad.ac.jp