1934北鎌倉の茶席:宝庵(旧関口邸茶席)

建物名称   宝庵(ほうあん) (旧関口邸茶席)
建設場所 鎌倉市山ノ内1415
竣工時期 1934年
公刊資料 
関口氏邸の茶席(『住宅』20巻4号 1935年4月号)
・「吉野窓由来:関口泰」(関口泰著『山湖随筆』1940年 那珂書店)
・「山下さん:山口文象、 北鎌倉浄智寺の茶席:山下元靖」
『工匠談』山下元靖著 相模書房、1969年刊)



図面写真


山口建築事務所制作の設計図


1935年撮影         「関口氏邸の茶席」(『住宅』20巻4号1935年4月号)より引用


1973年撮影

1975年頃 岡本茂男撮影       (このころの所有者は榛澤敏郎氏)


2017年12月11日 伊達美徳撮影      2017年に所有者が浄智寺となる)







正面は茶室、右は会席

茶室の茅葺屋根の老朽化が著しい。右は山口文象の愛弟子だった小町和義氏

会席

会席の破風に「常安軒」の偏額が架かる


・記 事

「建築家山口文象人と作品」1982より>
旧関口邸茶席・会席       伊達美徳

 昭和51年の冬、山口文象は実に40年ぶりに、北鎌倉にこの茶席を訪れた。戦後に朽ち果てようとしていたこの建物を買い取り復元再生させた建築家榛澤敏郎氏の案内に、懐かしいという言葉を何回も繰り返していた。
 その30歳の若さでの二つの数奇屋ぶりに、随伴するもの皆が驚くのに対し、大工の家に生まれたこと、大阪時代に奈良京都通いの話をして、和風建築への造詣の深さを披露したのだった。この本の執筆者たちがその随伴者であり、あらためて日本の建築家の和風と洋風について考えさせられたことであった。
 吉野太夫一畳台目の写しの茶室はともかくとして、この数寄屋造りの会席は、いわば「数奇屋コレクション」とでもいうディテールの集積が見られ、20歳の頃の茶室行脚の実績を一度の発散していたようだ。
 それにしても理解あるオーナーを得るという僥倖にめぐり合ったとはいえ、洋風の住宅は一軒も残っていないことを考えあわせると、和風建築の寿命は長いことはどうだろう。 
 

「建築家山口文象人と作品」1982より>
●和風のデザイン  
佐々木 宏 
 
 山口が帰国後にインターナショナル・スタイルの建築デザインを追求していたほぼ同じ時期に,一方で伝統的な和風建築を設計していたことは重要である.鎌倉の関口氏茶席,酒井邸,二見邸,林邸,そして戦前最後の自邸などである.山口は帰国後も日本の伝統的な和風建築に対して否定的な立場をとっていなかったことは明らかである。
 それが吉田五十八や堀口捨己のように欧米からの帰国後に,意識的に母国の伝統を再発見した結果なのか,あるいは若くて無名な建築家が当時の日本の社会で自立してゆくためには,さまぎまな依頼に応じなけれはならないというプロフェッショナルな立場をとっていたからなのかは判然としない。
 しかし,山口の場合は,後者ではなかったかという気がしてならない。山口は,吉田や堀口のように,和風デザインによる建築を自己表現の主流とは考えていなかったからである.しかし,それにもかかわらず,山口は和風建築の設計においても実にすぐれた才能をもっていた。これは,彼の若き日の修業時代に培ったものであった.
 父が大工であり,彼自身小学校を卒業後に大工としての訓練も受け,さらに関西にいた時期に,伝統的な古建築や茶室などについて研究していたので,彼は木造建築のディテールに通暁することができたのである.また建築家としての自己習練の過程で,職人的な意識を越えた観察眼を獲得している。ヨーロッパヘ行って西欧の建築の古典から近代建築の動向をも目撃することによって,建築の本質的な命題について考察する方法を身につけている。
 一般に日本の伝統的な建築の再評価の糸口を与えたのはブルーノ・タウトであるといわれている.たしかにブルーノ・タウトの訪日による日本の伝統的建築の評価は歴史的に重要な意味をもっている。それ以後,和風デザインを試みる建築家は後めたさが消えたといってよいだろう。それは今日にまで及んでいる.国際的に見るならは,きわめて特殊な現象である.
 ブルーノ・タウトの日本滞在中の日記に山口文象の個展を見た記述がある(1934年6月15日).その中でタウトは次のように書いている。

  建築家山口蚊象氏の作品展覧会を観る(同氏はドイツでグロピウス
  の許にいたことがある).作品のうちでは茶室がいちばんすぐれてい
  る.…山口氏はここでまさに純粋の日本人に復ったと言ってよい.
  その他のものは機能を強調しているにも拘らずいかにも硬い.まる
  でコルセットをはめている印象だ.とにかくコルビュジェ模倣は到底
  永続きするものではない.(篠田英雄訳)

 展覧会は資生堂ギャラリーで開かれ,展示作品の主なものは,歯科医専,八雲記念館,八雲図書館,アパート案,菊地アトリエ,協同組合学校,関口茶席,アトリエ,モデルルームなどである.生前,山口にこのことを訊ねたところ,日本歯科医専を中心にして当時の仕事を並べたのだということで,詳しくは列挙しなかった.ともあれ,洋行帰りの山口としては最初の個展だったようである.
 建築家が個展を開くというのは,はたして当時として一般に慣習化されていたとは思われない.山口の自己顕示が強烈に発揮された個展だったにちがいない.したがって来日中のタウトをも招待したのだろう.タウトは山口に面と向って,どのような批評をしたかは知らない.しかし,タウトは日記の中では,山口の狙っていた評価とは異なって茶室の方を高く評価している.おそらくこの茶室というのは,北鎌倉に現存する旧関口氏のための茶室であろう.
 ちなみにタウトの日記の中では他に山口に関する記述は,どういうわけか岳父の前田青邨との関係のものが多いのも興味深い.タウトが来日中に,山口は青邨の令嬢と婚約し,やがて結婚し,彼はタウトを青邨邸へ案内して引き合せ,帰国に際してタウトは青邨から色紙を贈られたようである.タウトの日記を読む限りでは,グロピウスに学び,高名な画家の令嬢と結婚したということで,山口を特別視していたようにも感じられる.また,石本の妨害についても山口より聞かされて非難めいた記述が残されている.
 タウトは山口の和風建築のデザインの力量を見ぬいていたし,山口自身も内心では,和風建築は自家薬寵中のものであって,吉田五十入や堀口捨己よりも巧みだと考えていた形跡はある.しかし,彼はあくまで,それは新しい建築の本道でほないと考えていた.名手となろうとすれば,なれるだけの能力をもっていた.しかし,ヨーロッパの近代精神の一端に触れて,過去との断絶を使命感としていた山口にとっては,和風デザインはあくまでも,身すぎ世すぎの便法であり,とくに数寄屋凰建築は彼のイデオロギー的立場と対立するものであると感じていた.




<『工匠談』(山下元靖(旧名留蔵)著 相模書房、1969年刊より(5~6ページ)>
山下さん      山口文象

 山下さんとはもう四十年の永いおつきあいになりましょう。北鎌倉の数棟の茶席
は私の若い時代のなつかしい作品です。私の父が宮大工で後ちに茶席風の住宅などを作っていましたので、一生県命に近代建築の運動と実際の仕事をしていた当時とは云え、私の血肉の中に伝統的な日本建築への郷愁があったのかも知れません。関口先生から設計を依頼され情熱を傾けて仕事に当りました。三十に未だ手のとどかない青二才の頃です。山下さんも未だ青二才。しかし二人は意気が合い、毎日浄智寺の現場で夏は真黒になり、冬は鼻みずをすすり、けんかをしながら楽しんで仕事に没頭したものでした。
 山下さんの様な大工さんはもうほんとうに数少なくなりました。仕口に応じて自分で道具を創り、問題点が生じるとこれに対応する技術を発明する。この人の永年の今日もそうでしょうが毎日、毎時が、創作の連統であり、努力の生活です。ほんとうの意味のアルチザンと云うのでしょう。一人の大工が如何にして完成されたか、そして人間としての真の職人はどの様な苦難の末に出来上がるものなのか、この山下さんの本が教えてくれるでしょう。後に続く人達の多くにこの本から沢山の栄養を汲みとってもらいたいと思います。
                          山口 文象


『工匠談』山下元靖(旧名留蔵)著 相模書房、1969年刊より(91~101ページ)>
北鎌倉の関口邸の茶室         山下元靖

 昭和八年から昭和十年にかけて約二カ年間、北鎌倉の浄知寺という寺の奥にある、関口邸の工事を頼まれて、毎日横浜から通うようになりました。その工事は本館のほかに、茶室と数寄屋造りの会席、それに同じ邸内の親戚の住宅二棟、つごう四棟の新築と、その他に本館の増改築があったわけです。
 設計は山口文象建築事務所でやられました。山口氏と私とは、昭和五年以来交流のある間柄でありましたが、同氏は私とちがい、もう当時では一流の設計者になっていました。

 この工事の内容としては、茶室が方形で茅葺、住宅は茅葺、そして和瓦一文字の奴葺と杉割板の杮葺の数寄屋造りの会席、さらに和瓦葺きの別棟の住宅というわけで、地続きの敷地の中に、いろいろの建築が建つことになっていました。
 幸いにしてこれらの建物は、戦災にもあうこともなく、現在でも建っています。しかしなんといっても、もう三十五年も以前の建物ですから、今日では部分的には多少の破損個所もあることと思います。この工事はかなり長い年月を費して落成させたものだけに、その間には数々の思い出が残っております。

 当時北鎌言訳で降り、浄知寺谷戸へだらだら登りの道を行くと、その道路の入口に昔からの浅い井戸がありました。甘露井戸といって、甘味をおびた冷たい水がわいていたので、それを私どもは毎日の往き帰りには必ず飲んだものでした。
 この時代の北鎌倉駅は比較的乗降客が少なかったので、私どもは二ヵ年以上も乗降していたため、駅員ともすっかり顔なじみになってしまいました。そして通いはじめてから六ヵ月も過ぎると、もう定期券などはろくに見せないで、朝夕のあいさつをするだけで乗降できるくらいになりました。

 さて話はまた技術のことになりますが、じつは草葺き屋根の小屋組施工についての話で、その頃、草葺き屋根の葺ける専門の屋根職人は、北鎌倉の辺には六十歳になる老人が一人しか残っていませんでした。ところがありかたいことには、その人は名人級に属するような職人で、その人の手をかりることにしました。
 その人が私の草葺き屋根の小屋組の仕口を見て、都会の町棟梁がよくこんな仕事ができたものだ、驚ろいたよ、と感心して、ほめてくれました。幸い私は小僧時代を伊豆で修業したので、その頃親方について茅葺き屋根の家を二棟ほど手がけたことがありました。
 そんな二十年も前の経験が、いねばその時にはじめて役立ったわけです。そしてやはり仕事というものはいつどんなものにぶつかるかもしれないので、一つ一つを心に刻み込むように勉強しておくことだと、つくづく考えさせられたことでした。

 茶室の屋根は方形で葺き仕舞いの棟には、直径二尺の摺り鉢を使うことにし、わざわざ三州へ注文してのせましたが、それをみて施主もたいへん喜んでくれました。この茶室の特徴はといえば、屋根棰に香節の自然木を使い、それを扇棰に組んだこと、そしてその丸い棰の鼻の切り方を、一本ごとに扇棰の切り方により法どおりに切ったことなどです。

 窓は古野窓にし、直径を京間の六尺の大丸窓にしました。それは貴人口にも使用
する関係で、丸窓の下部を半紙幅の半幅、つまり下から約四寸の高さのところを図のように水平に切り、掃き出しも兼用できるようにしました。
 それからやはり特徴の一つとしては、土庇の柱の根元の沓石があります。これは数百年以前の寺院の向拝の沓石を使用した感じを出すようにという建主の注文に従ったものです。私もいささか変人の部類に属すると自任していますので、建主の注文をきいたとき、それも面白い考えじゃありませんか。よろしいやってみましょう、と引き受けてしまいました。

 しかしさて数百年も風雨にたたかれていたものとすれば、当然その原形は変わっているだろう、だとすればその古びた感じをどのようにしたら出すことができるかが問題になります。そこでまず加工しやすい石をというので、地元の鎌倉石を選び、その仕事の方は近所の石屋に依頼することにしました。
 沓石の直径は一尺二寸、高さその他は一応寺の沓石としての法どおりの寸法割りにして加工させました。これで石はできましたが、そのあとが大変です。とにかく数百年を経過した古びを出さなければならないので、それには一方ならぬ苦心をしました。いろいろと工夫研究を重ねた結果、それでもどうやら形だけは理想どうりの古びた感じが出せたと思いましたが、それを見て建主も大変よろこんでくれたので安心しました。

 ところが残念なことには、やはり何といっても石その物が新しいわけですから、どこかまだ寂びが出ていない。それがどうも気がかりで仕方がありませんでした。そこで私はまた一工夫したわけです。それをお話しますと、その沓石を現場の山ぎわの草むらの中にいれておいて、毎日、朝昼晩の三回ずつ下水の溜め水をかけてやりました。
 そうして約一ヵ月間もつづけ、いよいよ明日は茶宗の棟上げとなったとき、その前日、草むらから出してみますと、石にはすっかり青苔が一面についていました。苦心の結果がみのったわけで、これこそ山下君の丹精の賜だと建主からほめられたときには、私も少しばかり鼻を高くしたものでした。

 つぎに本館の増改築工事について、少しばかり述べてみたいと思います。本館の南側にはかなり大きな池がありました。その池のほとりに、廊下伝いで行ける建坪三坪の離れ家を増築することになったのです。
 それは昔の高殿のようなもので、用途は主人が毎朝ここで謡曲の練習をするためのものでした。構造としては、四本の丸柱を使用し、そのうちの二本は池の中に据えた玉石の上に建てることにし、できるだけ風雅な感じを出すことに努めました。この建物は本館からの渡り廊下の出入り口のある方を除き、三方を手摺でかこみ、四方吹き抜けにしました。床は桧の縁甲板を二分あきに張りました。そして軒桁下に、内法の高さ一尺の欄間を取り付け、その下の三方には竹の簾を掛け釣りにして、雨を防ぐ仕組みにしました。

 この高殿の特徴は天井の張り方にあります。それは木摺り下地に漆喰塗り仕上げで、鳥帽子たたきにし、四隅から中心にむけてムクリをつけました。このムクリ天井が、偶然にも日光の鳴き竜と同じような効果をあげ、天井の直下で手をたたくと、ぴんぴんと鳴り響くようになりました。
 それは床が堅かったり、水面のようなものであって、天井にムクリがあると、音が複雑な反射をするからだと、その後に読んだ書物から教えられたことですが、これには成る程と思い当たる節があったのです。
 昔から日光の鳴き竜は、頭の真下で于をたたかなければ、音にならないといわれていますが、その後、日光見物に行った時、若い者には竜の頭の直下で音を聞かせ、私は尾の直下で手をたたき、その原理を納得させたことがあります。そして関口邸の場合は、この日光の鳴き竜の原理を応用したというわけでなく、偶然とはいえ、全く私ひとりの考案の結果であったのです。

 ところがこの長いエ事も各職方の努力の結果、無事に落成したので、祝賀の園遊会が催されました。その日の来賓はいずれも一流の名士ばかりで、邸内には甘酒やしるこ、それにおでんやすしなどのいろいろの模擬店が設けられ、なかなか盛大なものでした。
 そして私たち各職方も手伝いに招かれましたが、私どもは餅つきを頼まれたので、私が得意のコネドリをして、大工連中で景気よくついたものです。私の長い大工生活のうちで、こんな盛大な落成祝賀会は初めてのことでありました。

 ところで落成式で思い出したので、例のうなぎ屋の大黒屋の落成式の模様を書きそえておきましょう。
 この落成式は関口邸の場合とちがい、場所が花柳界であり、しかも有名な店のことでしたから、来賓にも特色がありました。いまでも記憶に残っているのは、当時有名な政客であった頭山満先生と俳優の市川猿之助(現在の猿之助の祖父)さんです。ところが建て主や来賓の提案で、新築には棟梁が第一の功労者であるから、席順は棟梁を床柱の前に座らせなければということになりました。
 当時の頭山先生にはいつでも二人の付人が付き添っていて、なにか威圧を感じさせるものがありましたが、そう言う名士の方の上席に座らされたわけですから、すっかり私は恐縮してしまいました。なにしろ江戸以来の一流のうなぎ屋である上に、場所柄もあって、接待には深川の芸者連中が大勢手伝いに来ていました。そして居付きの女中も八人くらいいたかと思いますが、そういう女たちはいずれもお揃いの衣装で、それこそ華やかな落成祝賀会だったことを記憶しています。

(以下、「数寄屋大工と煙草入れの話」が続くが省略)


『住宅建築 1977年8月号』より 16~33ページ)
北鎌倉の茶室 旧関口邸茶室一畳台目及び数寄屋造り会席
               山口文象

山口先生に数寄屋の作品がおありになったこと、こんどはじめて知り、大変興
味深く拝見させていただきましたが、どんないきさつから、この作品が生まれたのか、その辺の事情などから伺わせて下さいませんか。

 それは、わたしが美術史やドイツ語などをおそわった矢代幸雄先生が関係しているんです。 先生の交友グループには錚々たる人物がおりまして、美術史の児島喜久雄先生とか、朝日新聞のヨーロッパ特派員として鳴らした黒田礼二先生とか、そしてこの茶室のクライアントとしてわたしのまえに現われることになる関口泰先生とかね。矢代先生の紹介でわたしもそのグループの人びととの付き合いがひろがっていきました。関口先生は朝日新聞の論説委員として活躍されていましたが、大変な碩学で茶もたしなみ、奥さまもその道のオーソリティでした。
 ご自分の住まいを建てるということで、鎌倉のあそこの土地、見てくれというわけでわたし行きました。そして建てることになったんですが、茶席もつくりたいというわけですね。「文ちゃんどうだい、茶席もできるかいな」、「いやあ、やってますよ、まっ白い建物ばかしじゃなくて日本建築もやってます、茶席できます」「そう、じゃひとつ頼もうかなあ」というわけ、それで作ることになったんです。
関口先生の茶は流派には関係がなく、セレモニイをもっていたわけでもない、本当の意味の茶をたしなんでいるんだということでしたから、わたしもまた非常に自由に考えてよかったんです。ところで、土地にまだ余裕があるから茶席をもうひとつ、ふたつぐらいあってもいいというわけね。いま京都にあるものでコピーして移植していいものはないかなあ、という話がもちあがりました。ここでわたしが21、2の頃やったことが役に立ちました。
 逓信省の仕事で大阪に行ってた頃、奈良と新薬師から大阪に通っていたのですが、伊東忠太先生のお話もあって日本建築史を書こうと思っていましたから、奈良や京都の寺など実測したり、写真とったり、図書館に通ったりしていましたが、茶席の調べにも凝りだして平面の実測とあのジャバラの写真機かついで写真をとりまくりましたね。役所へは半分行くか行かないかでね。どう時間を繰り合せたんですかね。その写真がね、400枚くらいあるんです。それを整理してヨーロッパに行ったときベルリン大学の図書館の部屋を借りて展覧会をひらいたんです。グロピウスが見てびっくりしたらしい。恐らくグロピウスが日本建築を見たのは、その時がはじめてだったんじゃないかなと思います。
 そんなわけで京都の茶席をぐるぐる見てまわった頃に、撮影した茶室があった、それが八坂神社のそばにある高台寺の吉野太夫の茶席、遺芳庵なんです。
 これがすばらしいデザインなんです。屋根のヴォリュームの大きさ、それら全体のプロポーションが実にすばらしい、その話を関口先生にしたら「じゃあ見に行こう」というわけで見に行きました。そこで決まったわけです。しかしわたしのスケッチはプランだけでしたから、移植となれば構造からディテールまで詳細正確に実測しなければならない。やりました。それが北鎌倉のあの丸窓の一畳台目の茶席なんです。

そうしますと、あの丸窓の茶席はその遺芳庵のほぼ忠実なものですね。

 ほぼじゃあないんです。全然同じものです。ディテールまで完全なコピーなんです。ただし左右逆になっています。それは敷地の条件に合わせて、逆にしなければなりませんでした。鏡に映った左前のコピーというわけですよ。

もうひとつの数寄屋造りの会席とこの丸窓の茶席の仕事の時期はどれくらいずれがあったんですか。

 同じ時期の仕事なんです。丸窓の位置がなかなか決まらなくて会席の方もずっと後れまして……大体同じ頃できあがったと思ってます。
丸窓のほうの屋根に瓶がのっかっていますが、いまのやつはわたしがのせたのとはちがうんです。もっと大きかった。あれはいまあの茶席の足元にころがっている摺り鉢なんです。プロポーションからいって、いまのは小さい。
 しかし考えてみると、当時はずいぶんと細かい仕事をしましたね。瓦の寸法なんかも全部普通の寸法とちがう。あの数寄屋建築の瓦ですよ。あれは全部特別に焼いたものなんです。大きさとか全体のプロポーションからいって、普通の瓦ではない。プロポーションから瓦一枚一枚の寸法を出しました。
 こんなバカなこと、当時のわたしの建築思想からは考えられないのですがね。わたしはこういう特殊な仕事は建築家の仕事じゃない、建築家は一般の人々の住む建築をつくるべきだと考えていましたからね。どういうわけだったんだろうね。

大きな丸窓の方は完全なコピーということでしたが、数寄屋造りの方はどうですか。これは先生が前々から温めていたアイデアを表現したと言ってよい創作なんでしょうか。

 谷口吉郎や吉田五十八の茶席なんか、わたしは茶席だと思っていませんね。あれは学問的に、非常に厳しい割り出し方からきていて、それが基礎になって先生の茶席になっている。
 わたしのはそれとはちがう。わたしの親父が大工で、茶席も手がけていましたから、親父の後をついて歩いたりして、ごく自然に感覚的というか触覚的というか、身体で覚えたところがあったと思いますね。とくにプロポーションね。ぼくのは、だから感覚から入って行った茶席だと言えるでしょうね。
 数寄屋造りの方はね、これは創作でね、あまりマネはないはずですね。

しみじみと眺めまわすと、天井に杉皮の角網代組あり、杉の変木材の亀甲勾配網代組あり、大変に材料の選択にご苦労されたのではとおもわれるところがあるのですが……。

 いや、別に苦労などしてないのですね。 すでに言ったようにまったく感覚的にできた茶室なんですね。

四畳の茶席の床の間のスミが丸く塗りまわしてあって、じかに地板になってますが、框つけずに。なにか特別の意図、ねらいがあったんでしょうか。床柱も地板から立ち上がっている。

 そう、あれはねえ、床柱のほかにタテの線がほしくなかったということとね、美しさの問題ですね。 地板の方も、框のいいのかなかったから、そして地板のいいのがあったから、ということね。
 床柱が地板から立ち上がる、これもいわゆる教科書と違うところで、パースを描いて、空間を想像してみて、線が多すぎるとできるだけ線を消してゆく。これは茶席に限らず、現代建築でも、造型的に見て、できるだけ、装ったものをなくす、いらないものをとってゆく、それがデザインだと考えていますからね。 近頃の若い建築家がやっていること、どうもいらないものが多すぎると思いませんか。造型というものは、いらないものを全部とってゆくことだ、茶席の精神も、ねらいもそうだと思いますね。

床柱はどういう木ですか。 ちょっと赤茶けた質のものですが……。

 あれは赤松です。本所の高橋(タカバシ)の近所のある銘木屋でみつけた柱で、赤松の皮付きなんですが、普通のとちょっと違うのですね。普通は、皮が浮いててブカブカしている。それは気にいらなかった。 あの色で、あのテクスチュアで、もう少しピチッとした固い感じのものをさがしたんです。
 あの場所にはあれでなければ、部屋の雰囲気とプロポーションからどうしてもね。
でも、むくと皮が出てきます。ですから、大工には、細工するとき皮がでないように気をつけさしたんです。後でこすってもいけない。あれはいい柱です、珍らしいです。

この北鎌倉の作品のほかにも、数寄屋の作品はあるのですか。

 高井戸にあったんですよ。何年か前にこわしたらしいですがね。その一部が残っています。さきほども話したように矢代幸雄先生の交友グループのなかに、荏原製作所の会長もつとめられた酒井億尋さんもおられまして、そんな関係から非常に親しいお付き合いがありまして、ちょうど北鎌倉と同じ時期だったと思いますよ。茶席などもあった120坪もある大きな日本建築の住宅をこわして、お嬢さん2人の家族と自分たちが住む家を3軒ばかり新しくつくりかえた。わたしがはじめ長女の家をやったのですが、身体を悪くしたものだから、あとの二軒は三輪正弘君のデザインで建ちました。その酒井邸に、わたしがやった茶席の一部と門が残っています。
 この仕事をした大工は、私の兄貴でして、じつにすばらしい技術をもっていました。 兄貴の削った板はツヤがちがうんですよ。それに、どんなむずかしい石の上でも柱をピタッと立てる、はやくて、うまいんだなあ。今、高井戸に残っているものは全部兄貴の工作です。ぜひ見て下さい。
 兄貴は、わたしの5つ年上でしたから、生きていれば80才になるのですが、わたしは小学校の頃からこの兄貴にいろいろと鍛えられました。 字も上手、絵も上手、音楽も好きで本人は建築家になろうとしていたのですが、親父のあと継いで大工にさせられたんです。神田にあった中央工学校の夜学に通っていて、建築家に強い憧れをもっていました。
 この兄貴の影響は非常に大きかった。当時わたしは別に建築家になろうとは思っていませんでしたが、建築についての、あるいは芸術についての感激的な話を聞いていたし、また親父も大工だったわけだし、いつの間にか建築、建築ということになったんでしょうね。兄貴にはよく帝劇などの音楽会につれてゆかれました。

お兄さんの工作になった作品ぜひ近いうちに拝見させていただきたいと思います。40年もの風雪に耐えて北鎌倉に生き続けてきた知られざる山口先生の作品に触れて、日本の風土と建築について、また現代建築の進むべき遂について、いろいろな想いが浮かんできます。

 いや、わたしも40年ぶりに昔の作品に再会して感慨深いものがあります。これも取壊し寸前に、鎌倉に住む建築家の榛沢敏郎さんが買い取り、修理保存してくれた賜で、大変感激しております。天井板は洗って張り直し、壁も元通り京壁で仕上げるなど、榛沢さんは非常に忠実に修理されており、新築当時そのままの姿になっていました。こんなに丁寧な保存を受けることは、いまどき珍らしいことで、希有の幸せというものです。 (文責:編集部)  
編集部付記:この北鎌倉の旧関口邸茶室については、この工作に携わった故山下元靖(旧名留蔵)氏の著書『工匠談』(相模書房、昭和44年刊)のなかにも触れられており、工事は昭和8年から昭和10年にかけての約2年間であったことが記してある。
 
引用者(伊達美徳):このあとに19~33ページにわたって岡本茂男撮影の写真掲載あり


   <『山湖随筆』関口泰著1940年 那珂書店より 135~141P>
吉野窓由来         関口 泰

            
 北鎌倉浄智寺谷へ居を構へてからもう七年になる。浄智寺の奥は私の家一軒で、
夜などは私の家のあかりと、私の家へ来るまでの道の街燈の外は、一望四顧、燈火が見えなかったのだが、今では小さい茶室や離れまで数へれば九棟、二、三年前に再建した浄智本堂の屋根まで入れれば、此の谷に数年の間に十の屋根が見られるやうになってしまったのである。

 ここに居をきめたのは、ほんの偶然なことだが、寺の前の甘露水が池にたまって、細い溝をこんこんと流れるその清冽な水と、見上げる坂路を杉・檜の森が、山門の額の「宝所在近」の句で活かされて見えたことは事実だ。空いてる地所は五千坪といふが、二間幅の道を掘り拡げて貰った上がまだ新しく道の両側に積まれてゐる外は、雑草が丈高く生いて一寸は足を踏み込めない位で、去年まで畑を作ってゐた所とは到底思へない。

 時は二月の終りで、さすがに春は何となく空にも上にも来てゐて、枯葉色の萱山を近景にして、向ふ谷に見える明月院や円覺寺の山波は紫色に煙ってゐる。頼朝が鎌倉を選んだのは要害よりも、荒々しい関東平野において鎌倉辺だけが、山の姿が京都に似てゐるからであったらうといふ説も肯けるやうに、檜と杉と松で黒く見える向ふ谷の山の姿は、京の東山あたりを思はせるものがある。今では庭樹も大きくなり、隣りの屋根に邪魔され、それに北の方には窓が広く開いてはゐないから、家の中からその眺めは十分にとれないが、それでも雨に煙る夕方や、雪のやんだ朝など、此の谷の景色の一番の眺めだと思はせるのである。全く谷を上って振り返ったとき、両方から迫る西山の向ふに、浄智寺の森を中景にて此の黒木の山なみを見たことが、此の谷と私とを結びつけた偶然の絲なのである。

 因縁といへばもう一つ、北鎌倉の駅へ帰るとき、ふと円覚寺の前降魔僑の上に掲げてある黒塗りの黒板に白い文字で書いてあったのが、法句経の文句であった。「山でも谷でも、森の中でも、水の涯でも、善き人の住むところはみな楽し」といふ意味であった。その後も気がついて見る度にいいろの御経の文句が掲げてあるが、その時の心にかうも響いた御経はなかった。そしてあそこにしようときめたのだったが、今考へて見ると、阿羅漢の住んでゐたであらうよき谷を選んだのか、自分が阿羅漢であの谷を楽土にすると解釈すべきなのかはわからない。
 草を刈って一応整地して見ると、磨かれた珠は光りを加へた。谷の極まる嶺の上には五百年の齢を思はせる金宝松が天に枝を拡げて立ち、蔓の垂れた巌壁はどうしても何人かの高僧が面壁したであらう何百年の歴史を語ってゐる。たしかに人が見た巌だと感じさせるやうに、人の気が巌の中にしみてゐるのである。

 夏に家が建ち上っての秋である。道を隔てて刈り残した薄原には、赤穂を吹いた尾花がなびき、上の段へ上る所に檜の小さな森がある辺が、一つの絵をなしてゐる。どうしてもあの辺に塔がほしい所だ。室生寺の五重塔をもって来ようと空想した程、室生寺の塔は小さく愛すべきものだ。実際に小さい以上に玩具人形のやうに美しくもカ可愛い存在だ。弘法大師一夜造りの伝説がある位にささやかだが、多武峯の十三重塔や薬師々の五重塔に負けない芸術的建築だ。
 弘法大師が一夜で造ったなら、一生かかったなら出来ないこともあるまいなどと大それた野望を懐いて、その後一年か二年室生寺の塔に凝ってゐたが、とてもこの方は及びもっかないことによって、自ら解決或は解消してしまった。

 次で湧き上った空想が吉野窓の建築だ。これは前から吉野窓を知ってゐてあれをここへ建てようと思ったのではなくて、義弟の旭谷左右に案内されて京都の茶席を見物してまはってゐる時に、高台寺の中の佐野画伯の家にある「遺芳」の席を見て、これはいいと思った。無論茶道の方からではなくて、私の庭における絵画的効果からの話であるが、二坪か三坪の小さい家に比較してトテッもなく大きい三角形の屋根と、伽藍石を踏まへた大きな丸窓は、それだけで絵だ。それに何よりも、一畳大目の茶室と二畳の水屋は、建築費からいっても、宝生寺の五重塔の如く空想に終らずに実現の可能性をもつし、長く茶室につかはれずに暴風雨に壊されたまま蜘蛛の巣だらけの物置のやうに、庭の隅に抛り放しになってゐる此の可憐なる茶席は、柱や床板の一つひとつに高価な正札のつけてあるやうな富豪の茶室とは事変り、私に消極的自信をつけてくれるに十分なものがあったからだ。

 それで洋画家たる旭谷と、ドイツのバウハウスにゐた新建築家の山口蚊象君とに相談して早速建築をはじめたのである。鹿子木門下の洋画家ではあるが、京都に育って裏千家の茶の素養もあり、六、七十の茶席を廻って研究して斯道の大家にならんとしつつある旭谷と、分離派の新建築家ではあるが、早く茶室建築に目をつけて、ベルリンで修業してゐる間に私と茶室建築の約束をした山口君であるから、変に型にはまった茶の宗匠や、高い金をとりつけた茶室建築家と相談するよりは、余程話がつきやすいわけである。

 吉野窓といひ遺芳席といふのは、徳川初期、今から三百年前の名妓傾城吉野太夫に因むのである。吉野太夫には、高安月郊の戯曲「桜時雨」といふよりは、片岡仁左衛門の舞台で馴染があるだけで、仁左衛門の扮する灰屋紹山は子の紹益が吉野太夫を落籍した時より十年前に死んでゐるから、「北窓瑣談」や「近世崎人伝」に伝はる[桜時雨]の話は事実でないとの事だが、それはどうでも、吉野が茶道に歌道に素養のある立派な婦人であり、紹益も博学多才なることはその随筆「にぎはひ草」をよめばわかるが、そして共に光悦の感化に与ってゐる事は吉野の筆蹟にも現れてゐる。

 吉野窓の号は即ちこの吉野太夫が、佐野紹益の室となってから、風流な家庭生活を送ったと伝へられる茶室なのであって、今やはり高台寺にある鬼瓦の席は紹益の茶室で、付書院の障子をあけると、斜に吉野窓が見えるやうな配置に作られてゐたものだ。この窓と窓とを向ひあひに二人が顔を見合せてゐたものでもなからうが、吉野窓は明眸の佳人を偲ぶにふさはしい、よい意味で女性的な美しい建築だといふことはいへる。遺芳席といふ額は今でも前に此の茶席が移されてゐた建仁寺の岡林院に遺ってゐる由であるが、寛永二十年吉野三十八歳にして夭折した時
  都をば花なき里となしにけり吉野を死出の山にうっして
と嘆いた紹益が、吉野を忍んで「遺芳席」の名を与へたとの伝である。

 吉野が三十八で死んでゐるのも、名妓吉野を永久に若く美しくしてゐる。吉野が如何に名声を馳せてゐたかは、寛永四年丁卯秋八月、明の呉興李湘山といふ者が、夢に吉野と会って愛慕眷恋、『日木曽聞芳野名。夢中髣髴猶驚。清容未見恨無極。空向海東数鳳行。』といふ怪しげな詩をよせ、翌年支那から吉野の像を請うて来たので、遊客相議し画工に命じてこれを写さしむること七幅、これを商人と計りて綾羅と代へしむといふまゆつばの話があるが、これよりも「色道大鏡」に出てゐる逸話の方が面白い。
 ある時太夫十八人が集り、華美を競ふ上職どもが今日を晴れと綾羅綿繍を着飾ってゐたが、此の日吉野は客があって暁まで起きてゐたので、まだ寝てゐるといふのを、迎へを出すと、早何れの人も来給ひつるかと起き出で、寝間にて手水を乞ひ、寝乱れ髪のまま座に出でた。肌着は白綾で上に無地の黒き衣を二枚重ね、紫のくくし帯を廻し廻して室に入って来て上座に着いた体に、一座の太夫どもは其の美貌風格に魅せられて挨拶するものさへあらざりしとかや、といふのである。

 又「続近世崎人伝」巻之三「傾城吉野」の中にかういふ一節がある。
『ここにいとまづしき独ずみの鍛冶あり。東寺の御影供の折に見そめてより、起臥おもかげ身にそひ露もわすれず、月日を重ねてつみたる銀そこばくに成りたるを懐にし、島原の出口に往て「いかがせむ」とたたずみてありける時、是が仕ふ女の童二人出来たるを誰とは知らねど打招きて、此の名妓にたいめすべきやうをとひはかりしかぼ、大きにわらひてやがて走り帰り「よにをかしきことこそあれ、いとも浅ましくやつれたる男が吾太夫の君にまみえにしと申すは」とて手をたたき笑ふを聞きとがめて、人をやりてその由をつばらに問はしめ、とし月あまたおもひをこがせしやうを聞きて、其の日をまらうどにしかじかと語りて、しばしの暇を乞ひ、酒さかななどこうじてもてなしぬ。……かくて明の日桂川に身を投げし者ありしが一通の遺言あり「とし頃のおもひをはるけて今は世におもふことなければかく身を捨つるなり」と書けり。何事とも知られざりしが此の鍛冶男なりけるとかや。稀有のことといふべし』
今の三面記事に翻訳してしまったのではいと興無きことになるが、二十二歳の年少富豪灰屋三郎兵衛と前の関白近衛応山公が張合って敗れ、『年来誤り候て執着候事之今更截断難叶事出現候て妄念乱儀、一両日山居候而仏法之道理も申談候は如何云々』といふ書簡を八幡の松花堂昭乗に送ってゐる落籍事件は、此の鍛冶職登楼の翌日、鍛冶職人水の前日の出来事といふことになってゐる歴史的事件なのである。

 私が今筆を執ってゐる書斎からも頭を少し前に出すと左に吉野窓が見えてゐる。萱の屋根の色も古び、鎌倉の骨董屋で購って来た二百年前のすり鉢の朱色もよく映って来た。まだすっかり暮れ切らない薄暮、まだ萱屋根の形がほのかに見える頃に燈を入れると、一間四方の壁に直径五尺二寸の丸窓が白い障子の桟を薄墨に見ぜて、大きな雪洞のやうに浮くのは何ともいへず美しい。
 丸窓を八寸開いて、吉野太夫のやうな白い顔がのぞけばといふ妄念も起るが、この谷には一寸そんな白い顔は存在しないので、安心して本を読み、つまらない原稿も書いてゐられるのである。古野窓の前には梅の老木がある、後にははちくの竹藪があって、崖の紅葉は年々に美しくなってゆく。そのズッと上には金宝松があるのだが、それは軒が邪魔になってここからは見えない。どれ、筆を擱いて、縁へ出て金宝松でも仰ぎ見ようか。

(このページ作成の引用者(伊達美徳)による注)
この随想は、他の随筆と合わせて『山湖随筆』に所収(135~141P)してあるが、初出は記載されていない。関口泰が浄智寺谷戸に住むようになったのは1930年からであると、その著書『金宝山浄智禅寺』(1940年)の後書きに書いている。したがって、この文章はその7年後だから、1937年に書かれたことになる。
 山口蚊象がここに茶室を設計することになったきっかけは、関口と山口がベルリンで出会ってその約束をしたとある。山口がドイツに居た時期は、1931年の春から32年の6月半ばまでである。関口が朝日新聞のベルリン特派員として滞在したのは1932年の4月から11月までであるから、山口と時期が重なる。また、山口の滞欧時の手帳に、「関口泰(鎌倉)」の記入がある。山口の言(『住宅建築』)では、矢代幸雄を介して日本ですでに関口と知己だったようである。
関口は、山口が「バウハウスにゐた」と書いているが、山口はバウハウスの創立者のW・グロピウスの下で働いたが、バウハウスには入っていない。