1924分離派建築会

 
・名   称    分離派建築会第4回、第5回展覧会出品作品
・場   所
・制作発表時期 1924年,1926年

●分離派建築会第4回展覧会出品 丘上の記念塔 



 
 


制作する心  岡村蚊象(「分離派建築会作品集第三」1924)
 
 私の生命の底にはあらゆる障害を突さ退けてまつしぐらに驀進しょうとする奔流の如き情熱が狂い駆け回り
 血は沸き返り胸は高鳴る.
 さうして私の筋肉は真実に生きんとする痛苦の刺激によつ異様なる緊張を増す。
 自己の内生を真実に生長させて行かんとする痛苦!!
 これこそは求道者の歩まなければならない一筋道である。
 その前途にはあらゆる迫害と誘惑とが手を広げて待つているであろう。
 激流・絶壁さうして険しい峠も数知れずあるに違いない。
 無知蒙昧な暴虐者は求道者の弱い心に突さきつて身動き出来ない程惨めに鞭打つであらう。
 こうして求道者の心にはいつも安逸は与えられない・・・・只貴い真実への希讃があるのだ。
 我々の歩むこの一筋道は不安と恐怖とを以つてしては到底進むことは出来ない。
 我々は勇ましく進もう。
 岸壁に突き当たって跳ね返される痛苦を歯を食いしばって忍耐する勇気が必要だ。
 この勇気だけが弱い私の道伴れなのだ。
 さうだ私はこの真実に生きんがための痛苦と、それに耐ゆる勇気とを持つて純真な建築制作のために全生涯を捧げよう。
 求道の血に撚ゆる使徒が無上歓喜の心を抱いて神に己れの全生涯を捧げるそれのようにだ。

 私は言葉無く信念なく精進なき人によつて偉大な芸術が完成されようとは思はない。
      X
 数千年来積り積もった因習と陋弊を叩き潰ぶせ。
 アカンサスもローマのオーダーも
 ゴティク・レネサンス
 あらゆる伝統を惜気もなく投げ捨てろ、
 素裸になって今まで禍された不純の垢を洗ひ落せ、
 さうしてあの純粋な詩の如き世界・原始の昔に還元しよう。
 そこから改めて創作の天地へ踊り出ようではないか。
      X
 ボイラーとエコノマイザーの連続
 ピストンと歯車の尽きざる回転
 胸を張り足を突っ張りまっしぐらに驀進しようとするあの機関車の動的な「マッス」の美しさ、
 造船工場の鉄骨
 製鉄工場の鋸屋根
 製織機とモーターの唸り
 海の上を静かに走る鉄製の山の如きあの建築
 灰色に長く長くはてしもなく続く製鉄工場の壁、
 さうしてむらむらと吐き出される黒い「マッス」の煙と、その煙の束によって雲にまで連ならうとするあの膨大な煙突の群集を、
 私はもろ手を挙げて賛嘆する、
 力と活動の示現である新しき機械の形を私は心から賛嘆しよう。
 町はずれに黙ってにゅっといきり建っている力の建築
 ガスタンク
 ウオータータンク
 あの雄大な姿を見上げたときにこそ私の若い魂は狂歎の叫びをあげるのだ。
 全宇宙に存在する凡ての力・物体の絶えざる運行
 自働車・馬力・電車・装甲自働車!
 そしてあらゆるヴォリュウムの重なり!
 立体の組立て・・・オーケストラ
 建築!
 建築!!
    X
 私が今日こうして建築の本道を歩む喜びを得たのは、一重に分離派建築会先輩諸氏の親切なるご指導の贈物であると確く信じてゐます。
 私はここに私を今日にまで育んで下された分離派建築会に深甚なる感謝の意を表し、而して新入会員として主義のため、たゆみなく倒れるまで死にまでを期して戦ふことを誓ひます。   (一九二四、八、二)


●山口文象と分離派
   河東義之
(『建築家山口文象人と作品』「岡村文象と創宇社の時代」1982より)
 
 岡村蚊象が正式に分離派建築会の会員になったのは,大正12年6月第3回展の頃からといわれる(「座談会,分離派・東京中央電信局・山田守」(『建築記録・東京中央電信局』,昭和44年)中の山口文象の談話).すでに濱岡(蔵田)周忠(1895~1966大正2年工手学校卒.三橋建築事務所,曾禰・中條建築事務所,関根建築事務所に勤務.のち武蔵工業専門学校(現・武蔵工大)教授)が第2回展から,大内秀一郎(1892~1937大正10年東大卒.東京高工建築学科講師を経て教授.のち戸田組などに勤務)が第3回展から加わっており,岡村が新会員として出品したのは第4回展(大正13年11月)からであった.
 それにしても,彼はまだ20歳を越えたはかりの一製図工にすぎなかった.その彼が,東京帝大出身のエリート集団であった分離派建築会の仲間に加えられたということは,山田守の強力な支持があったとしても,その才能と実力に相当高い評価が与えられたことを示している.
 岡村自身にとっても,それは初めて一人の建築家として認められたという点で,画期的な出来事であったにちがいない.『分離派建築会作品集Ⅲ』
(大正13年11月発行)
に第4回展の作品とともに掲載された『制作する心』には,新会員として建築家として,悲愴なまでの決意が表明されている.
  「私はこの真実に生きんがための痛苦と,それに耐ゆる勇気とを
  持って純真な建築制作のために全生涯を捧げよう.」
 しかし,当時すでに創宇社が結成されており,彼はその総帥として2回の展覧会を経験していた.ここでも彼は,『創宇社とその第1回展』の時と同様に,「建築は芸術である」ことをことさら強調しようとはしない.彼には,建築家としてのあり方と自分の進む方向こそが問題であった.
  「私が今日こうして建築の本道を歩む喜びを得たのは,一重に分離
  派建築会先輩諸氏の親切な御指導の贈物であると確く信じます.」
 岡村にとって,少なくとも当初は,創宇社と分離派建築会は同じ目的と意味,つまり「建築の本道を歩む喜び」を持っていたと考えられる.それは,他の分離派建築の会員たちとは明らかに異質のものであった.したがって,彼が創宇社第1,第2回展で発表した作品と,この分離派建築会第4回展の作品とは,同一傾向のきわめて表現派的色彩の強いものであった.
 

日本の表現主義展に山口文象文象の作品2009

伊達 美徳

 日本表現主義をテーマにした大規模な展覧会が、全国美術館を巡回している。
 わたしは既に栃木県美術館で見てきたが、この12月から千葉県松戸市の市立博物館で開催する。
 ここに建築家山口文象の作品も登場している。それの作品とは、1924年の創宇社第2回展点にパースを、同年の分離派第4回展には模型を出品した「丘上記念塔」である。
 パース原版も模型も失われている(いつも展覧会打ち上げパーティーで川に放り込んだとか)から、パースは本からのコピーで、模型は復元して展示している。
 このコンテで描いたパースは、実にすばらしい絵だと当時の建築家志望若者連中がこれを見て憧れ、山口文象がリーダーの創宇社建築会に入会者が増えたという。
 メンデルゾーンのアインシュタイン塔を連想させるデザインは、確かに日本の表現主義の建築における萌芽の時代を思わせる。

 創宇社展ポスターはメンバーが順繰りに描いたそうだが、第1回及び第3回のポスターは山口作で、これは竹村文庫に保存されている実物が展示されている。
 もうひとつの山口文象作品は、前衛劇「ドイツ男ヒンケマン」舞台装置である。これは写真展示であるが、1925年に創
宇社第3回展に出品している。その頃に山口文象たちは、「劇場の三科」なる演劇団体を結成して、前衛劇を演じたのでそのひとつである。
 同時期の建築家の作品は、山田守の「聖橋」がでているが、これも展示されてはいないが山口文象が設計のために描いたコンテパーすが存在しているのだ。
 岩元禄による「京都西陣電話局舎」もでているが、これも山口文象によれば岩元を手伝ったという。
 そのほかには石本喜久治、堀口捨巳、滝沢真弓など分離派の作品展示が多いなかで、金澤庸治とか川喜多煉七郎のような少しアウトサイダーの作品があるのが興味深い。時代相から言えば山口文象も基本はアウトサイダーであるが、あるときからインサイダーになったという才能の持ち主である。
 それにしても、建築、絵画、彫刻、工芸、写真、演劇、映画などの多ジャンルを、表現主義という断面を横断してみるのは、実に面白くて興味が尽きない。おお、これもそうなのかと思いつつも、あまりに多すぎてとても消化しきれないのは、こちらの能力の限度をこえているのだから仕方ない。
 とにかく面白いから、12月8日から松戸での展示を見ることをお勧めする。

●躍動する魂のきらめき-日本の表現主義展 
 明治維新以来、およそ40年をかけて、日本はようやく一通りの近代化を果たす
ことができました。ヨーロッパという明確な目標があった時代には、ひたすら選考するモデルを追いかければよかったのですが、自らを一人前として自覚するようになったら、今度は何を目標とするか自ら考え出さなければなりません。こうして明治末すなわち1900年代から、何に向うべきか、またその問いをどう表したらよいのか、日本の表現者は自ら問わなければなりませんでした。(松戸展案内より一部引用)
・開催期間 2009年12月8日(火)~2010年1月24日(日)
  ※休館日-月曜日(ただし1月11日(月)は開館し、翌12日(火)休館)
         12月28日(月)~1月4日(月)
・開館時間 午前9時30分~午後5時(入館は午後4時30分まで)
・開催場所 松戸市立博物館 
  ※所在地:〒 270-2252 松戸市千駄堀 671
    (Tel)047-384-8181  (Fax) 047-384-8194





 
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