新実・谷川の<白いうた青いうた>が生まれるまで

Post date: Jan 19, 2010 7:52:55 AM

現在私たちが取り組んでいる男声合唱曲集<あしたうまれる>は、作曲家新実徳英と詩人谷川雁の手になる「十代のための二部合唱曲集<白 いうた 青いうた>」(その後「三世代のための・・・」と改題)全53曲のなかの8曲を、ご存知の通り新実が男声合唱用に編曲したものです。

この楽譜を手にして一曲、二曲とを歌っていくうちに、この一風変わった詩を書く谷川雁という詩人は、どんな人物なのかという疑問がわいてきました。最初 は谷川俊太郎の息子さんかなと思ったのですが、調べてみると俊太郎とは縁もゆかりもない、驚くべき経歴の持ち主とわかりました(文末の経歴参照)。新実も 一旦は工学を志して東大を卒業しながら、作曲への思いを断ち切れず芸大に入り直したという、異色の経歴の持ち主ですが、谷川の異色さを前にしては色が褪せ ます。

そうこうしているうちに、これとは別の件で調べたいことがあって、数年前に読んだ藍川由美の「これでいいのか、にっぽんのうた」を拾い読みしていると、 「第二章日本語の発音」最初の項目の「谷川雁の填詞(てんし)」という文字が目に飛び込んできました。おおっと思って読んで行くと、全く忘れ去っていたこ の填詞ということばが、記憶によみがえってきました。そこには曲が先にあって、それに詞をつける填詞という手法によって、新実と谷川が<白いうた 青いうた>を作っていったいきさつが10頁あまりにわたって書かれていたのです。そのなかには藍川がこの曲のCDを出しているらしいと察せられる記 述もあり、ネットで検索してその全曲版CDを入手することも出来ました。

以下、藍川の「これでいいのか、にっぽんのうた」と彼女のCDのライナーノートその他に基づいて、<白いうた 青いうた>誕生の経緯を略述します。

生まれも育ちも違う、親子ほども年齢差のあるこの二人が初めて出会ったのは、1984年の暮のことでした。当時信州の黒姫山に引っ込み、自然の中で子供 たちと宮沢賢治を読んで、その童話を子供たちが身体を使って再構築する「人体交響劇」という全く新しいスタイルのパフォーマンスを追求する実験的サークル 「ものがたり文化の会」を主宰していた谷川から、物語りテープに音楽を入れる仕事を依頼され、その打ち合わせに新実が前夜やったばかりのギックリ腰の痛み をこらえて出かけていったのだそうです。新実はこのときの谷川の宮沢賢治の物語にまつわる話に圧倒され、惹きつけられていきました。最初の仕事がうまくい くと、互いの酒好き、魚好きもあって二人の行ったり来たりのつきあいはその後も続きました。

そんなある日、1989年の春頃だったらしいですが、東京四谷の寿司屋で一緒に飲んでいたとき、「最近、曲先行で歌を作っているんだけど、これがなかなかうまくいかないのですョ」と新実がふと漏らしたところ、「朝飯前とはいかないけど、ま、僕に任せてみませんか」

と谷川が応じたのだそうです。

あの雁さんが歌詞を? これには新実も驚くとともに、全共闘世代に支持されたカリスマ的思想家、社会運動家でもあった、このかつての前衛詩人の作品は 知っていただけに、はたして誰もが口ずさめる歌詞がつけられるのだろうかと不安を覚えました。谷川は谷川で新実の心の動きを察知して、むらむらと敵愾心を 燃やし、持ち前の大言壮語癖もあって「まあ、まかせてごらん」と言ったのだと後日語っています。

新実は、「では是非・・・」とは答えたものの、すぐに曲を送るのにはためらいがあったようです。それからおよそ半年後、やってみなければ何事も始まらな い、物は試しと一曲送ってみると、三日後にファックスで送られてきたのが<十四歳>でした。よくあるような歌詞っぽい詞とは全く違った、「は なびらのにがさをだれがしってるの・・・・」と始まる、その新鮮なことばの響きのすばらしさに新実は驚嘆しました。こうして「白いうた 青いうた」の記念すべき第一曲は誕生しました。

以後、新実がヨーロッパの旋律、日本、アジアの旋法をもとにして曲を作り、これにピアノ伴奏をつけて自身がハミングやヴォーカリーズで歌ったテープに譜 面を添えて谷川に宅急便で送ると、谷川はこれを聴きながら、二夜三日呻吟してできた詞をファックスで返送し、受け取った新実は詞と曲の微調整を行い、なる たけ素敵で歌いやすい対旋律を見つけ出し、合唱曲に仕立て上げては、中高校教師向けの月刊誌「教育音楽」の付録楽譜として出版するという一連の作業が繰り 返されました。100曲を目標としていたのですが、1994年夏谷川の体調悪化によって53曲で中断し、1995年2月谷川の死によってこのプロジェクト は終わりを告げました。絶筆となったのは<われもこう>でした。

ところで、このように曲先行で歌を作るというのは、中国唐代に李白を始めとする大詩人たちが盛んに試みた前述の填詞という手法で、我が国では流行歌・演 歌の業界で、アテブリと称して古くから行われていました。また我が国の唱歌の多くは外国の曲に日本語の歌詞をあてはめた填詞から始まっていますから決して 新奇な試みではありません。その後文部省唱歌や日本歌曲などのアカデミックな歌で、日本語の詩に作曲する方法が主流となり、流行歌・演歌以外の世界では填 詞は顧みられなくなったという歴史があります。

新実がこのアテブリで歌を作ろうと思い立ったのは、詞の一語一語のイントネーションにとらわれない、スックと立った旋律を書きたいという願いからであ り、一方の谷川はことばの前衛だけでなく後衛にも身を投じてみたいという興味から、新実の投げてくる曲にあたかも条件反射のごとく反応して詞を書いた、と それぞれ後に述懐しています。

新実はまた、<曲先行詞後付けという荒技にもかかわわらず、音と詞の幸福な結びつきがここにある。これはこの詩人が音の表情・性格、その全体をどれほど 見事に感知したかの証でもある。詩と歌うための詞の違いをはっきりと認識できた数少ない詩人で、53の詞をながめているとそのキャパシティの大きさに今さ らながら驚く>と谷川の仕事を高く評価しています。

谷川は、楽譜は読めないし、れっきとした音痴だと謙遜していますが、曲で明るくひらいた音が出ているところでは「あ」「お」というひらいた音を使い、曲 が少し低音になってくると「い」「う」「え」にしなければならないといったふうに、日本語の発音、発声の特性をはっきり認識して、旋律に合ったことばを入 念に選び出して、含意に富んだ素晴らしい詞をわずか三、四日で作り上げていったのです。その才能はまさに恐るべきものです。

長くなりますので、今回はこれで終わりにします。そのうち、続編として藍川の全曲版CDなどについて書きたいと思っております。

付記

新実徳英(にいみとくひで)

1947年名古屋市生まれ。愛知県立旭丘高校卒。70年東京大学工学部機械工学科卒。75年東京芸術大学音楽学部作曲科卒。78年同大学院研究科修了。 間宮芳生、三好晃、野田暉行に師事。桐朋学院大学音楽学部、同短期大学非常勤講師。77年第8回ジュネーブ国際バレエ音楽作曲コンクールにて史上二人目の グランプリ、ならびにジュネーブ市賞を受賞。83年同コンクール審査員。84年文化庁芸術祭優秀賞受賞。2000年第18回中島健蔵音楽賞受賞。作曲ジャ ンルは歌劇、管弦楽、室内楽、声楽など幅広いが、国内では<幼年連祷><やさしい魚><祈りの虹>等の合唱曲の作曲 家として知られる。

谷川雁(たにがわがん) 本名:谷川巌(たにがわいわお)

1923年熊本県水俣市に6人兄弟の次男として生まれる。兄は民俗学者谷川健一。1945年東京大学文学部社会学科卒。終戦前、8ヶ月の軍隊生活を送り その間3度営倉に入れられる。戦後西日本新聞社に勤務。「九州詩人」「母音」に詩を発表。1947年日本共産党に入党、大西巨人、井上光晴らと活動し、新 聞社を解雇される。1954年から60年にかけて第一詩集「大地の商人」第二詩集「天山」「定本谷川雁詩集」を刊行し、定本詩集のあとがきで以後詩作しな いことを宣言。1958年福岡県中間市に移住。評論集「原点が存在する」「工作者宣言」などを発表。60年安保闘争を機に共産党を離党し、吉本隆明らと 「六月行動委員会」を組織して全学連主流派の行動を支援する一方、地元の大正炭鉱を巡る労働争議では「大正行動隊」を組織して活動した。「多数決を否定す る」「連帯を求めて孤立を恐れず」といった組織原理、行動原理はその後の全共闘運動にも大きな影響を与えた。63年評論集「影の越境をめぐって」を刊行。 大正鉱業退職者同盟を組織して退職金闘争を展開。65年、闘争の収束と共に執筆を含めた一切の活動を停止して上京、語学教育を展開する「ラボ教育セン ター」を設立。78年長野県黒姫山へ移住。81年から「十代の会」や「ものがたり文化の会」を主宰し、宮沢賢治を中心にした児童文化活動に取り組む。この 活動の一環として、物語テープに音楽を入れる仕事を新実徳英に依頼。90年新実徳英と共作で合唱曲「白いうた青いうた」の制作を開始。全100曲を目指し たが雁の死により53曲で終わる。1995年2月2日、肺ガンにより死去。享年72 (T-2 岩見雅夫)

参考文献

藍川由美 「これでいいのか、にっぽんのうた」 平成10年 文春新書

谷川雁 「填詞(アテブリ)に可能性有り」

新実徳英「<白いうた青いうた>小史」

この2件は、藍川由美「白いうた青いうた」ソプラノ独唱による全曲版解説書所載 カメラータ・トウキョウ

谷川雁+新実徳英「ことばがうたうとき」三世代のための二部合唱曲集<白いうた青いうた>巻末対談、音楽の友社