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このサイトは、豊橋技術科学大学講師である中村大介が、安保関連法案に反対する個人声明を掲載するためにつくったものです。
当サイトはリンクフリーです。声明文の転記、転載も自由です。
いずれも、許諾を取る必要はありません。

[10月4日追記]先月19日、同法案は成立した。しかし本声明は一つの記録として、ここに残しておくものとする。


〈以下声明文〉

 安倍晋三内閣、及び自民党、公明党の与党は、2015年月16日にいわゆる「安保関連法案」を衆議院本会議にて強行採決しました。「国際平和支援法案」と「平和安全法制整備法案」からなるこの法案は、憲法研究者の方々も指摘している通り、まず少なくとも次の決定的な一点からして許されるものではありません。

 それは、この法案が「存立危機事態」といった抽象的な言葉を用いて、日本国憲法第9条第1項に違反する「武力の行使」を引き起こしうるものであり、それゆえ端的に言って「違憲」であることです。

 私はこの見解に、多くの論者によって長年指摘されてきた、次のような歴史認識を付け加えようと思います。

 この声明を出す8月15日は一般に「終戦」の日と言われます。しかし第二次世界大戦は、日本が「敗北する」ことで「終わった」のです。とすれば、この日は、正しくは「敗戦」の日と呼ばれるべきです。なぜそう呼ばれてこなかったのでしょうか。この点を考えるにあたって、忘れてはならないことがあります。それは、敗戦から70年もの間、日本国政府、とりわけて保守派や自民党の政治家は太平洋戦争で日本が侵略した諸国への失言と暴言を繰り返し、またその裏面では、一度も原爆投下に対する公式な謝罪をアメリカに要求することができなかった、ということです。これら二つのことは、この党が「戦争に負けた」という重々しい事実を無意識に否認しようとしてきたことを示しています。そして「終戦」という曖昧な呼称はこの否認を端的に象徴するものではないでしょうか。そもそも戦争に負けていないのだから、アジア諸国に謝罪など本当は不要なのだ、原爆を落とした国に過ちを認めてもらう必要などなく、同盟 その内実は自発的な隷従ですが を組んで良いのだ、というわけです。

 この否認が、日本が第二次世界大戦まで幸か不幸か敗戦を経験しなかった、ということに由来するのかどうかは分かりません。しかし今回の安保関連法案が、その否認に追従し、強化するものであることは間違いありません(否認した事柄については、そもそも否認などなかったのだと思い込み、目を背けたくなるものです)。それゆえ、この法案の真の危険は、法律上日本を戦争に巻き込む可能性がある、という点に加えて、敗戦のさらなる否認によって対外関係の歪みを拡大し、新しい戦争へと政府が自らを追い込んでいく点にあります。

 したがって、このような無意識の否認こそ、直視し、批判しなければなりません。戦後日本の無責任体制は、福島第一原子力発電所事故によって露呈しました。安保関連法案に反対すること、それはこうした体制と一体化した、この国の敗戦忘却と対米従属の構造を捉え直すことと等価です。

 小説、映画、音楽など、それなくしては自分の人生がありえないほどに、私は多くの滋養をアメリカ文化から得てきました。原爆を落とした戦勝国に従属し、自国の平和を(9条によってだけでなく)その核の傘の下で守ってもらってきた、という日本がアメリカともつ欺瞞的な関係は、だからこそ一層許容しがたいものとなります。これは確かに個人的なことですが、同時に多くの人にとっても真実であるはずです。

 以上のことから、日本が敗戦国としての困難な認識に改めて直面するために、安保関連法案に反対し、その廃案を強く求めます。

 

2015年8月15日

中村大介


〈声明文ここまで〉

[註]以下、内容面での補足をしておく。
(1−1)原爆投下はそれ自体、勿論正当化不可能な蛮行であるが、ここで問題にしているのは、その蛮行自体ではない。戦争において、国家は度し難い振る舞いに及ぶことがある。原爆投下はその極北とでも言うべきものであろう。問題なのは、そのような行為に公式な非難の声をあげることさえできなかったにもかかわらず、他方で日本は「唯一の被爆国」として核兵器の不拡散や国際平和に貢献してきた、と臆面もなく述べる、その論理的な欺瞞のことである。
(1−2)なぜ欺瞞なのか。「唯一の被爆国」であるならば、その「唯一」の国ができることとは、原爆を投下した国にきちんとした謝罪を求め、その責任を追及することであるはずである−これだけは他の国が決してできないことなのだから。したがって、謝罪の要求も責任の追及もしてこなかった日本の罪は重いし、そのような政府を選んできた(選ばされてきた)われわれは率直に怒りを、恥辱を感じるべきではなかろうか。
(1−3)そして、その日本の罪の最たるもの、それは私見によれば、原爆投下を正当化するアメリカの論理ー「日本本土決戦になったときに亡くなる日米双方の犠牲者を救うため、戦争を早期終結に導く必要がある」ーを生き残らせてしまっていることである。この論理は無論、原爆投下の真の理由ではない。しかし口実としてさえ、この論理が生き延びていること、それは、「投下後の犠牲者よりも核兵器による犠牲者のほうが少なければ、その使用は正当化される」という計量比較の論理が、〈次の核兵器使用の際の、表向きの理由として機能しうる〉ことを意味している。とするならば、この国のどこが唯一の被爆国として振る舞ってきた、というのだろうか。そして私は端的に言って、「三発目」のことをーどこの国や組織がどこに落とすかは分からないがー恐れている。

(2−1)「無意識の否認」についても補足しておこう。「敗戦の否認」が過去についてのものだとすれば、いわば「未来」についても、私たちが見て見ぬふりをしていることがある。それは、〈このまま消費を謳歌する産業文明が続けば、人類は遠からぬ未来に深刻な危機に直面するかもしれない〉という事態のことである。主として気候変動の予測から、この点は少なからぬ数の科学者によって指摘されている。にもかかわらず、この事態は真剣に受け止められてはいない。
(2−2)これは何も、「贅沢は敵だ」とか、「お金を稼いで使うのは悪いことだ」といったことでは決してない。そうではなく、問題は、贅沢な暮らしを目指すことが往々にして豊かさをもたらさない、という点にある。
(2−3)たとえば、私たちは車を乗り回す生活が、そうでない生活より豊かであると考えがちである。この点について、古いデータだが、イヴァン・イリッチの示した反例を挙げよう。自動車を購入するためには、その購入賃金に相当する労働時間を必要とし、かつ、自動車に乗ることは渋滞による停滞を引き起こすことにもつながる。そこで、1970年代の平均的アメリカ人の自動車による走行距離を、彼が自動車の購入と維持のために使った労働時間と渋滞による停滞時間とで割ってみる。すると時速は5マイル(約8キロ)に過ぎなくなるのである。これは勿論、自転車で同じ計算をした速さより遅い。
(2−4)この計算方法の妥当性は吟味されるべきだし、現代の速度を同種の仕方で計算しなおしてみることも必要であろう。さらに付言しておけば、家族が多くいる場合自動車を使うことはプラスをもたらすだろうし、スポーツカーが好きな人であれば、それに乗ること自体が大きな喜びをもたらしうる。しかし、自動車を使って生活を豊かにするためには、通常そう考えられているよりもおそらくは厳しい条件が必要なのである。
(2−5)この一例を敷衍して大胆に言ってしまえば、私たちは豊かな生活を本当は送っていないのにもかかわらずそう思い込み、そしてその思い込みを続けることでひたひたと滅亡への道を歩んでいる、ということになる。しかも、多くの人が長時間労働を強いられ、また、優れた研究者が多額の奨学金の返済とアルバイトに苦労している現状をみれば、短期的な成果を要求し続ける現代の産業社会が根本的におかしいことは、皆が実は分かっているはずのことなのだ。
(2−6)未来の破局についての否認という以上の点を踏まえると、安倍晋三が好んで使う「繁栄は平和の礎(苗床)である」という表現は、戦後日本を一般に形容する「平和と繁栄」よりも、本人の意図せざるかたちで、この国の二つの「否認」のあり方をよく表していることになる。対米従属による平和という欺瞞的な現実を見ないようにする〈ために〉、私たち日本人は、自滅につながりかねない大量消費という空虚な繁栄を礼賛するのだ。そしておそらくは逆も成り立つ。資本主義による消費社会を維持し続けるためにこそ、私たちはアメリカの核の傘に守られた平和に無頓着であり続けているのだ。この国において、おそらく、敗戦の否認と未来の破局の否認は絡み合っている。
(2−7)そして現在、消費社会はアメリカ主導の新自由主義によってさらに加速している。その動きに合わせて日本が推進しようとしている「グローバリズム」とは、したがって、二重の否認を隠蔽し続けるための格好の口実を与えてくれるもの以外ではない。(以上11月記)
 
[声明文修正箇所]
・「そもそも否認などなかったのだ、と思い込み目を背けたくなる」→「そもそも否認などなかったのだと思い込み、目を背けたくなる」(8月18日修正)