十二縁起

十二縁起とは苦が生じ繰り返されるプロセスを12の因果関係で表したものです。

無明→行→識→名色→六処→触→受→愛→取→有→生→老死→(無明に繋がる)


初めに言っておきますが、十二縁起の生は生まれることではなく、老死は老いて死ぬことではありません。
複数の言語や長い歴史を経ることで、元の意味が推測しにくくなっていると考えて下さい。

十二縁起には大きく分けて二つの流れがあります。

◆十二縁起の二つの流れ
◆流れ1: 五感(+意=六処)から始まるもの
苦の元になる対象が明確で今現在五感や思考で感じられる場合
⇒六処から苦の連鎖が始まっている。

例)
 嫌なことを言われた。怪我をして痛い。退屈な会議。
 あの服が欲しい。空腹だ。など。


◆流れ2: 始まりが不明確なもの
苦の元になる対象が不明確で衝動的な場合
⇒無明から苦の連鎖が始まっている。

例)
 何だか不安だ。死にたくなる。理由がはっきりしないがイライラする。
 無性にうまいものが食べたくなる、間食したくなる。
 ダメだと考えていることをしたくなる。など。


まずは説明のしやすい流れ1から説明します。

◆流れ1: 六処〜無明
六処から有までは基本説明のページで説明しましたが例を交えておさらいします。

六処:6つの感覚器官に
 例) 聴覚で

触:情報信号が触れて認識が生じ
 例) 「お前頭悪いな」という言葉を認識して

受:業(反応パターン)に応じて感受作用(苦、楽、普通)が生じ
 例)     苦しく感じ、

愛:感受作用を受けて煩悩(衝動的反応)が生じる。
 例) 怒りが湧いた。

取:煩悩が強かったり繰り返されると、どんな出来事(触)に対して
  どんな煩悩が生じるかがパターン化(執着)していき
 例) 何度も思い出している内に

有:反応パターンが強固になるとやめようと思ってもやめられなくなる。
  (強固な反応パターン=業)
 例) イライラしがちになり、思い出したくなくてもふと頭に浮かんでくるようになってしまった。

これ以降は一つ一つ説明していきます。


◆生 = エネルギーの滞り
と言うと怪しく聞こえますが、言い換えると全身の各部位の筋肉のこわばりや
血液やリンパの流れが滞ったりすること。

わかりやすい例で言うと、顔の頬や口元、目元の歪みです。
そういった方を見かけたこともあると思います。
実は大抵の人が目立つ目立たないはあるでしょうが歪みを持っています。
(鏡でよく観察してみると気づくかも知れません)

なぜエネルギーの滞りが生ずるかですが、恐らく、
煩悩により身体の一部が緊張する現象が繰り返されることで、
脳からその部位を緊張させる命令が出続けてしまうといったことだと思います。


ゴム製の物を折り曲げても元に戻るが、長時間折り曲げておくと
戻らなくなることと同様の現象です。

生:エネルギーの滞りが生じる。
 例) 最近、不機嫌な顔つきになった気がする。


◆老死 = 煩悩の分解
最初は「自分が否定されてあいつに怒りが湧いた」という煩悩だったものが、
時が経つに連れて情報が分解されていき(睡眠がその主な役割を担っているかも知れません)、
「自分」「否定」「あいつ」「怒り」「湧く」とばらばらになって
無意識の領域を駆け巡り、思考のノイズになります。

この無意識の領域のことを無明と呼びます。


なお、この思考のノイズが多く激しくなると、
集中力、記憶力、判断力、思考力の低下という悪影響を及ぼします。
五戒に不妄語といって嘘をつかないという戒めがあるのですが、
その理由の一つは、嘘をつくと相反する二つの情報が干渉し合うことで
思考のノイズが増え、頭が悪くなるからです。

老死:煩悩が分解され無明に溜まる。
 例) 怒りっぽくなったり、落ち込みやすくなったり、などなど。
  理由は流れ2で。


◆流れ2: 無明〜無明
◆無明 = 無意識の領域
一瞬だけ頭をかすめるような微細な情報であったり
今までの思考の流れと無関係の情報であったりするため、
通常は意識できないのですが、人の思考には大量のノイズが流れています。

ノイズは互いに干渉したり、合わさったり、分裂したりしながら
強くなったり弱くなったりします。


◆行 = 無明から煩悩(衝動)が生じる
無明を流れるノイズの内の一部が活性化する。

例えば「自分」「仕事」「怒の煩悩」が合わさった煩悩のノイズが
活性化するとして以降の説明を行います。

◆識 = 煩悩を意の感覚器官で認識する
認識するとありますが、余りにも一瞬のため通常は表面意識に上らず、
無意識下で行われます。

◆名色 = 五蘊の連鎖反応。煩悩に関連する刺激を六処のどれで得るかが決定される
詳細は基本説明のページの諸法無我を参照。

名色:
 例) 「自分」「仕事」「怒の煩悩」というキーワードに該当する記憶が洗い出される。
六処:
 例) 視覚と決定される。
  (五感で当てはまるものが無ければ意が採用される(思考や記憶から引っ張りだされる))
触:  
 例) 仕事で失敗をした時に買ったある本が目に留まる。
受:
 例) 仕事での失敗を思い出して苦が生じる
愛:
 例) 落ち込むという新たな怒の煩悩が生じる
・・・以降は流れ1と同様なので省略します。

流れ1、2からわかるように、ある煩悩を出すと十二縁起を回って
無明に溜め込まれ、新たな煩悩の発生原因となります。
そしてそれは、怒り⇒落ち込み、嫉妬⇒不安などのように
前の煩悩とは別の煩悩になることがあります。


◆十二縁起の病巣はどこか?
以下の4箇所です。

愛=煩悩:苦を生じさせる衝動
有=業:煩悩を生じさせる反応パターン
生=苦の結果としてのエネルギーの滞り
無明=苦の源


◆デメリット
◆煩悩:
・心身にダメージ(*)を与える
・衝動的に行動することで失敗しやすい

*アドレナリンなどの生化学物質が出ているのでしょうが
 医学には詳しくないのでどの煩悩の時に何が出るのかはわかりません。

◆悪業:
・自動的に煩悩が生じる
・やめたいと思ってもやめられない

◆生:
・エネルギーの無駄遣い(脳の機能、カロリーなど)
・不要な緊張状態によるストレス
・血液等の循環不良による健康障害

◆無明:
・脳のメモリ、CPUの無駄遣い
 ⇒集中力、記憶力、判断力、思考力の低下
・煩悩の源


◆苦の克服法
◆どうやって苦を克服するか1(根本的解決方法)
苦を克服するためには七覚支というものを使います。

◆七覚支=覚りを得るために支えとなる七つの力
念、定、捨、精進、喜、軽安(きょうあん)、択法(ちゃくほう)の七つ。
これらを元に苦の克服のプロセスを説明します。

下記3つは苦を滅するための基礎能力です。
念:観察力。気づきの力。
定:集中力
捨:平常心。衝動的反応を起こさない(捨て置く)。執着しない。
  基本説明のページの諸法無我にあった「生じたものを受け流す」ことに相当。

この3つの能力は相互補完的関係があるため、バランス良く育てる必要があります。

◆煩悩を滅する
主に捨の力を利用。
煩悩(衝動的反応)を受け流すことで滅していく。

煩悩による苦しみが無くなった心身の安楽な感じを軽安と呼びます。
軽安が煩悩を滅するモチベーション維持の助けになります。


◆悪業を滅する
主に念の力を利用。
業(反応パターン)により苦しみが増大しているという事実を
如実にありのままに観察し実感することで悪業を滅する。

苦しいという事実をありのままに認識できると脳が改善しようとして業が組み替わる(=精進)。
業が組替わるというのは悪業が滅したり、善業へ変わることです。
煩悩の減る方向へのパターン化のことを善業と呼びます。
精進は苦の減る方向へ自動的に引き戻す力となります。


◆生を滅する
主に定の力を利用。
ある特定の箇所へ念を集中しきってぶらさないことで
生へ余分なエネルギーをさけない状態になり、エネルギーの滞りが解消する。

筋肉のこわばりが解け血液などの循環が良くなる際に感じる
ぽかぽかした感じやドクドクと血液が流れる気持ち良い感覚を喜(悦)と呼ぶ。
喜悦が生を滅するモチベーション維持の助けになります。


・無明を滅する
煩悩、悪業、生を滅することで十二縁起の連鎖が止まると、
無明からは出る一方で溜まることが無くなるため、無明が滅していく。

無明が滅するとそれまで見えなかった心身の微細な動きが
見えるようになり、一切皆苦、諸行無常、諸法無我の法則が体感として感じられる(択法)。
この3つの法則を体得するとより一層煩悩を減らすことに繋がる。
(詳しくは基本説明のページの法則の説明を参照)


以上を踏まえて七覚支の構成を示します。

念、定、捨は主に座禅瞑想の修行により鍛えることが可能です。
修行と聞くと怪しく聞こえますが、大雑把に説明すると
呼吸などの感覚を観察して観察力を鍛え、
その際意識がぶれてもすぐに戻すことで集中力を鍛え、
その際煩悩が出てもすぐに手放すことで平常心を鍛えるというものですので
神や仏や奇跡の出る幕はありません。

(参考:十二縁起(簡略版)データフロー図)


◆どうやって苦を克服するか2(対症療法的解決方法)
座禅瞑想で苦が克服できるといってもお手軽簡単にとはいきませんし、
そこまで本格的にやりたくない、根治はできなくても苦が減らせれば
それでいいという人もいるでしょう。

そんな方(釈迦の時代の在家信者もそう)も手軽にできるのが
八正道の正語、正業、正思惟、正命です。

これは自分を戒める。自分にルールを課すというもので、
煩悩を早めに鎮められる、反応パターンを弱められる、
パターン化しにくくなるという効果があります。

具体的には五戒や十善戒を守れる範囲で守ったり、
悟った人間の説法を聞いて言葉や行動を変えることです。

五戒や十善戒の説明は行いませんが、ここまでの動画を理解された方であれば
それぞれの戒にどんな意味があるかわかって頂けると思います。
(人のためとか回り回って自分のためとかまどろっこしい理由ではありません。念のため)


◆終わりに
私の説明が下手でなければ伝わったと思いますが、
釈迦の時代の仏教は論理的で矛盾が無く、無駄もありません。

論理的なのは釈迦の頭が良かったからでしょうが、
無駄が無いのは釈迦に自分を良く見せたいという慢の煩悩が無かったからでしょう。

非常に強い集中力と観察力を手に入れたことで釈迦は
恐らくこのサイトで述べた以外にも法則を発見していたのだと思います。
例えば、大乗仏教の根幹である空についても詳細に説明できたでしょう。
しかしそれをしなかったのは空が苦の克服の役に立つどころか、
タイミングを間違えると逆効果にもなりかねないためです。


それでは釈迦が死ぬ前に行った最後の説法の内容を紹介して
この動画を締めたいと思います。

◆自燈明、法燈明(意訳)
「私がいなくなっても真理の法則は生きている。
道を照らすものとして法を頼りにしなさい。
そして自らの感覚を頼りにしなさい。
その他のものを頼りにしてはいけない」

釈迦は自身を教主として崇めることを禁止していました。
釈迦の像(仏像)を作ることも禁止していました。
頼りにすべきは釈迦の発見した法則そのものだということです。

また、釈迦の教えは論理的で矛盾が無いですが
論理的で矛盾が無いからといって真実だとは限りません。

宗教の中にも矛盾が無い教義を持つものはあるのだと思います。
ただそれらには検証不可能な前提があります。
〜神、〜仏が存在するという前提です。

釈迦の教えにも前提があります。
それは釈迦が悟った法則が、頭で考えて作った架空の理論ではなく
実際に身体や心がどう反応しているのかを体感として捉えることで
発見した法則だという前提です。

ただし宗教と違うのはそれが検証可能だということです。
座禅瞑想の修行により自らの体と心で。

それが釈迦が自燈明で伝えたかったことなのだと思います。


おしまい。


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