名作文学に読む素敵な女性たち47~52 モンゴメリ「赤毛のアン」より

連載・47 名作文学に読む素敵な女性たち。

「赤毛のアン」の世界。

モンゴメリの名作「赤毛のアン」。

世界中でアンの名前を知らない女の子はいないと思う。

著者は19世紀カナダの女流作家、ルーシー・モード・モンゴメリ。

大西洋に望んだ小さな島で、豊かな自然のなか、少女が泣いたり笑ったりしながら生活していく物語である。

物語の主人公は、アン・シャーリー。

孤児である。

 

以前から、私は女流作家の描く物語には孤児が多い、と感じてきた。

アンも孤児であり、生まれ育った環境をばねにして、大きくたくましく成長していく過程に、物語のだいご味があるように思う。

孤児院にいたアンは、ある日、マシューとマリラという年かさのいった兄妹にひきとられる。

 

ここに描かれる少女アンの性格や姿形は、これまで私が連載で取り上げてきた少女たちとは、趣を異にする点がある。

それは、トルストイ「戦争と平和」のナターシャ、

「アンナ・カレーニナ」のキチイ、

また「若草物語」の四姉妹のように、「愛されて育った天真爛漫な少女」ではないのである。

 

ユゴーの「レ・ミゼラブル」では、養い親にいじめられて育った少女コゼットが描かれるが、コゼットは途中から養父ジャン・バルジャンに引き取られている。

 

私は、「赤毛のアン」に描かれる主人公の少女アンは、「レ・ミゼラブル」のコゼットに近いのではないかと思う。

それは、つらい出生や幼少期を送り、すさんでやせた少女が、

再生を果たしていく物語である。

 

「レ・ミゼラブル」のコゼットと比べると、物語の主眼がそこにあるためか、

あるいは著者が女性であるためか、その心の屈折や、心の傷の克服の過程が、

より細かく、より痛々しく描かれているように思う。

 

現代の世の中では、やはり幼少期に心に傷を負った子どもたちへの、

心のケアが語られている。

そういった面でとても参考になる物語である。

孤児の少女アンが、どのように心の痛みを行動に表しているか。

そして周囲の人たちがどのように彼女を包み込み、痛みを癒し、

そして、彼女の心を再生させていくか。

 

孤児として生まれ育ったアンの、奇妙で痛々しい行動を見つめつつ、

彼女を包容した養父母と友情、自然の美しさに驚嘆する、再生の物語である。

 

 

 

連載・48 名作文学に読む素敵な女性たち。

男の子?女の子?アン最初のトラウマ。

19世紀アメリカの女流作家モンゴメリが描く「赤毛のアン」。

カナダのプリンス・エドワード島の美しい自然と生活が、こまやかに描かれる。

そして、主人公アンの、心の痛みとその再生が描かれていく。

 

11歳のアンが、孤児院から、プリンス・エドワード島のマシュー兄妹のところにひきとられてくるには、誤解を含んだ複雑ないきさつがある。

年老いてきたマシューが自営で行っている林檎園の仕事がきつくなってきたので、

手伝いの少年を、孤児院に頼んだのだ。

それを、人を介して頼んだために、「男の子を望む」というところが、

まちがって女の子が来てしまった。

 

当時の孤児院施設の在り方や、養子縁組の仕方というのは、このような状態だったのだろう。

現在では、たくさんの制度が設けられ、さまざまな理由があって実の親が育てることのできない子どもたちが、養父母のところに引き取られるまでには、

段階があり、法律がある。

 

19世紀の当時は、「働き手となる男の子がほしい」という言い方で、子どもをひとり旅立たせるような状況だったのだろう。

駅まで迎えに行った兄のマシューが、女の子を連れて帰ってきたのを見て、

妹のマリラは「話がちがうじゃないの」と怒り出す。

それは、アンの目の前で行われた話だった。

 

幼い少女が、この話し合いを前にして、どんなに心が傷ついたか、

本当に計り知れない。

自分が「男の子じゃないから」「女の子だから」という理由で、

彼ら引き取り手の大人たちが口論しているのである。

彼らの話し合いに、この11歳の少女の人生がかかっているのである。

 

女性ならば誰でも、「男の子に生まれなかった自分」に劣等感を持つものだと思う。

あるいは、「男の子じゃないから」という理由でできないスポーツがあったり、

入れない場所があったり、成れない職業があったりする。

 

中でも一番つらいのは、親から「男の子だったらよかったのに」と思われる瞬間である。

生まれてきた自分自身を恥じ入り、消えてしまいたくなる。

それくらい、親にとって「男か女か」というのは、ちがうものらしい。

 

男の子は、幼いころから体つきも丈夫で力仕事も手伝える。

成人すれば職業に就くことができて、その収入も、女性と比べると多い。(現在の一般論として)

また、女の子は成人すると、結婚して他家に嫁いでしまう。

子どものころから教育や生活など、どんなふうに娘に「投資」しても、

結局は他家の人間となってしまう。

最近では、娘しか持てなかった老夫婦が、介護が必要になったときにも、

孤独な晩年を過ごさなければならない状態も多い。

もちろん、娘たちからの仕送りも、期待できない。

 

生まれた子ども、預かった子どもが「男の子か女の子か」で、

両親の人生も大きく変わってくる。

それで、大人としては、自分自身の人生や生活の設計も夢もあるので、

「男の子がほしい」「女の子がほしい」ということを自然に考えるのだろう。

 

現代の世の中ではそういった差は少なくなってきているように思うが、

19世紀の当時では、「男の子のほうがいい」ということを、口に出してはっきり言うような社会だったのだろう。

そして、孤児にとっても、「男か女か」で、引き取り手の家族状況も働く環境も、大きく変わってしまうのだった。

圧倒的に女の子が不利だったのだと思う。

 

とりあえずこの日の夜は、マシューたちの家で一泊することになったアン。

この家に置いてもらえるように、気に入ってもらえるように、

食後の皿洗いなどを率先してしているところが、かなしい。

 

けれども、アン自身の個性と魅力で、この家に引き取ってもらえることになる。

幼い子どもにこんな気持ちをさせてはいけない。

 

「男の子に生まれたか」「女の子に生まれたか」

永遠の問いかけを与えられる冒頭シーンである。




連載・49 名作文学に読む素敵な女性たち。

赤毛のアン、教室でキレる!

19世紀アメリカの女流作家モンゴメリの名作「赤毛のアン」。

孤児院で育ったアンが、暖かい心を持った兄妹マシューとマリラに引き取られて、

大自然のなかで心の傷を再生していく物語である。

 

マシューたちに引き取られたアンは、学校にも行かせてもらえる。

この当時は義務教育がなかったようだ。

環境に恵まれ、働いて家の家計を助けるような状態にない子どもたちだけが、

学校に通わせてもらえたようだ。

また、「大草原の小さな家」にも詳しく書かれていたが、

学校で使う教科書もノートも自前で調達するしかなく、

それらの道具を持てないままでただ教室に座っている生徒もいたらしい。

もちろん、学校に通うときの服装も、自前のものである。

 

孤児のアンが学校に通わせてもらえることになったのは、その当時では本当にラッキーなことだった。

物語の中で、アンは大喜びするのである。

「学校に通える!勉強ができる!」

このあたりのありがたみが、向学心にそのまま直結していたのだろう。

 

だがアンは、その学校で、大失敗をしてしまう。

ギルバートといういたずら好きの少年が、いきなりアンをからかうのである。

授業中にアンの三つ編みの髪をひっぱって、「にんじん、にんじん」と小さな声でからかう。

 

「赤毛のアン」の表題である「赤毛」のことは、のちにもう一度女性の容姿に関する劣等感として詳しく考えるとして、この「からかい」に対するアンの反応を考えてみよう。

アンはからかわれたとき、少年ギルバートに対して怒りの叫び声をあげ、

持っていた石の板で、彼の頭を叩くのである。

石板というのは、ノートや鉛筆がなかった当時の筆記具で、

平らにならした石の板をロウ石でひっかいて、綴り方の練習などをしたようだ。

もちろん、石でできている。

アンはたまたま手にしていた石の板を、少年の頭の上に振り下ろしたのである。

 

これは、危ない。

石で人の頭を叩けば、下手をすると命に係わる。

それを、衝動的に行ってしまったのである。

こういう行動をまさに「キレる」と呼ぶのだろう。

 

彼女がなぜ切れたのか、考えてみたい。

ひとつは、孤児という恵まれない環境で幼い時期を生きてきて、

「石で人の頭を叩いてはいけない」という教育を教えられてきていなかったのだろう。

また、きょうだいが少なくて、対等に遊ぶ経験ができず、手加減ができなかったのだろう。

そして、親という「泣きついていける場所」がなく、

自分で自分の身を守るしかなかったのだと思う。

 

現に、ギルバートがほかの少女の髪の毛を椅子にピンで留める、といういたずらをしたときは、その少女は「きゃー」と叫んで泣き出しただけであった。

「泣く」という行為は感情表現であり、助けと慰めを呼ぶ合図である。

このとき担当の教師は、ギルバートをたしなめている。

彼女のプライドはここで救われた。

助けてくれて、公平に裁いてくれる人がいたのである。

 

アンの場合は、こういった子ども同士のいたずらやケンカに関して、

「誰かが私を守ってくれる」

「呼んだらなぐさめてくれる人がいる」という確信や安心感が、なかったのである。

 

現代の世の中でも、学校で子ども同士のいさかいが起きると、

切れて、あってはならない、限度を超えた暴力を振るう子どもがいる。

こういった子どもは、周囲の大人が注意してみていて、

その子が家庭のなかで、本当に親が「味方」になってくれているかどうか、

確認してあげることが必要だろう。

 

親子の再生も、傷ついた心の再生も、可能だと私は思う。

「泣いて、呼びなさい。いつでも助けてあげるから」

このメッセージを、子どもたちに伝えてあげたい。

 

 

 連載・50 名作文学に読む素敵な女性たち。

アン、髪を緑色に染める。

モンゴメリの名作「赤毛のアン」。

孤児院から引き取られた少女アンが、カナダの自然と情緒豊かな暮らしのなかで、

蘇生し成長していく物語である。

この物語の原題は「Anne of Green Gables」である。

「緑色の屋根の家に暮らす少女アン」といったところだろうか。

「赤毛の」は邦題として、日本に紹介されるときに付けられたもののようだ。

 

アンは、自分の髪の毛が赤毛であることにとてもコンプレックスを持っている。

日本では、世界を見渡してもめずらしいほどに、全国民が、黒い髪、黒い瞳を持っていて、こういった状況を考えると、「髪の色のコンプレックス」はとても理解しずらいことのような気がする。

私は外国の事情にそれほど詳しくないし、髪の色や瞳の色に関することは、差別として扱われている事象のようなので、「どの色がどう」とは、誰も公には口にしないようである。

ただ、いくつか観た映画のなかで、あるヒロインが金髪のカツラをつけていて、

仲良しになった恋人に「本当は赤毛なの」と恥ずかしそうに告白する場面があった。

ほかの映画では、恋人と別れた女性が、自己奮起するために、赤毛を金髪に染めるシーンもあった。

 

そう考えると、髪の色になんらかのイメージがあり、赤毛より金髪のほうが、

「かわいい」とか「きれいだ」とかいう風潮が、欧米にはあるように思う。

そういった状況の中での「赤毛」なのだから、

アンにとって「赤毛」はどういう意味だったのか、よく考える必要があるように思う。

単純に「赤くてかわいい」とはいえない「何か」があると思ってまちがいないだろう。

そして、邦訳する際の「赤毛のアン」は、かわいらしい意味をつけたかったのかもしれないが、著者の意図するところとはちがっていたのかもしれない、と思う。

 

自分自身の赤毛にコンプレックスを抱いていたアンは、

ある日ひとりで留守番をしているときに、訪問販売に出会う。

訪問販売の外国人の男性が持ってきたのは、トランクいっぱいの珍しいもので、

その中の小瓶が「真っ黒に染まって決して色落ちしない」という染粉だった。

アンは、マリラからこういった物売りを家に入れてはいけない、と念押しされていたにも関わらず、

「家には入れない。ドアを閉めて、庭で取引をする」という方法で、

買い物をしてしまうのである。

 

この染粉が困ったもので、アンの赤い髪は、おそろしい緑色に染まってしまう。

これを見つけたマリラは彼女と一緒に何度も髪を洗うが、どうしても落ちなかった。

最終的には、長く伸ばしていた髪を、切ってしまう。

 

私は、女性の容姿に関するコンプレックスには、さまざまな理由があるように思う。

ひとつは、「自分に自信がない」という意味である。

自分という存在に自信がないので、容姿にも自信がない。

容姿のあちこちを鏡で映してみては、ここが悪い、ここを直すべきだ、と考える。

容姿に関しては、内面よりも改善をしやすい。

性格を変えたり、頭を良くしたりするよりも、ダイエットのほうがまだ楽である。

がんばればなんとかなることだ。

 

方法によっては、新しい流行の服を着て、容姿容貌の点を改善することもできる。

髪を巻いたり、髪飾りをつけたり、お化粧をしたり、

…そう考えると、女性の容姿に関する変身願望は、男性よりもとても強いものかもしれない。

 

それは、自己変革の願望であり、今のままではいけない、という向上心でもあり、

もっと美しくなりたいという女性的な持って生まれた本能かもしれない。

しかし、持って生まれた、と言えば、アンは女の子に生まれたことも悲しむようなところがあり、それはつらいことだと思う。

 

育ての親マリラに「もうこんなことはやめるのよ」と諭され、

親友のダイアナに「リボンをつけたらかわいくなるわ」と励まされて、

アンは赤毛というコンプレックスを克服する。

それは、「持って生まれた自分」という存在の肯定であり、包容だったと思う。

そしてそれは、親と友達という、周囲の温かい心によって、行われた蘇生だったのだと思う。

 

 

 

 連載・51 名作文学に読む素敵な女性たち。

ダイアナ、女の子と親友。

モンゴメリの名作「赤毛のアン」。

孤児として生まれ育ってきた少女アンが、カナダの兄妹に引き取られ、

大自然と農村の社会のなかで、健やかに成長していく物語である。

 

アンの親友となる少女ダイアナは、この物語に欠かせない、もうひとりの主人公である。

親がなく、あちらこちらの家をさまよったアンにとっては、安定した生活を決定づけるものが、学校に通うことと、友達を得ることだった。

友達を得る、というのは、ある一定の期間にわたって付き合い続けることであり、

品物を手に入れるという意味合いとは異なる。

 

健康に成長し、よい人間関係を築くために、友達は必要であるし、

友達がいる、ということが、本人の「人付き合いの在り方」を周囲に証明するものになる。

 

また、作家がひとりの女性にスポットを当ててその女性の人生や生活を描くときに、

女友達の存在は欠かせない。

今でも日本の中学校、高等学校を見てわかるとおり、

女の子は、時には手をつないで、時にはどこへでも、女の子同士ふたりで行動したりする。

時には同じハンカチを持ったり、同じリボンを身に付けたり、

土曜日も日曜日も一緒にでかけたりする。

女の子にとって、「親友」の存在は、もうひとりの自分のように大切なものだ。

そして、もうひとりの自分がいないと生きていけない気持ちがするものだ。

 

心理学の分野では、小さい女の子がお人形さんやぬいぐるみを常に持ち歩いたり、なでたり寝かしつけたりするのは、「もうひとりの自分」を可愛がっていることだと解釈されるそうである。

私自身の経験としても、親友と髪の梳かしあいをしたり、最も似合う服を選んであげたり、文具の貸し借りをしたりした。

ああいった経験がなにをもたらすのか、私にもよくわからないが、

お互いにお互いを必要としていたことだけはわかる。

そして、彼女と会えなくなるなら、わが身を引き裂かれるようにつらい気持ちがするのもわかる。

 

男性から見ると、女性同士がとても仲が良いのは、見ていて「うるわしい」感じがするそうだ。

いがみあっている姿は、はたで見ていても、どうにも気分がよくないものらしい。

そういえば、アイドルタレントでも、美しい女性がひとりで歌うよりも、

女の子たちが集まって仲良く、振り付けも衣装も「おそろい」であることが、

とても可愛らしく見える。

 

ひな祭りのお人形も、官女は3人である。

 

アンと親友ダイアナのエピソードはたくさんあるが、

中でも、絵にしたいくらい美しいのは、少女ふたりで林檎園で遊ぶシーンである。

豊かな農村の、豊かな秋の実り、大きな林檎の木に、たくさんの赤い実がなっている。

それを、ふたりでおしゃべりしながら、心ゆくまでゆっくりかみしめるのである。

 

「赤毛のアン」の一番心惹かれるところは、こうした少女たちの美しい風景が、

存分に描かれているところだと思う。

どのシーンをとっても、少女たちがいる。

少女たちの友情が、叙情豊かに展開される、アンとダイアナの物語である。

 

 

 

 連載・52 名作文学に読む素敵な女性たち。

アン、進路決定、人生の旅立ち。

19世紀の女流作家・モンゴメリの名作「赤毛のアン」。

カナダの豊かな自然と農村を描き、女性たちからも人気の物語である。

孤児として生まれたアンが、年配の兄妹マシューとマリラに引き取られ、

数々のエピソードを生み出しながら、暖かい人間関係を育んでいく。

実の親に育てられず、愛情不足でしつけも行き届かないままやってきたアンであったが、

養父母と、友人と、家や自然のなかで、心癒され、素直に成長していく。

そして、彼女なりの個性も開花していく。

 

アンは、暮らした村のあちこちに自分なりの名前をつけたり、

あるいは、マリラに教えられて「しょうが入りのクッキー」を作ったり、

情緒的にも成長していったように思う。

 

もちろん学校での成績も上がっていった。

物語の最後には、アンが学校でとても成績優秀だった結果、

上の学校に進学できることになる、という結末が描かれる。

進学して、教師になるのだ。

 

以前この連載で「ジェーン・エア」を読み解いて行ったときに、

19世紀当時、女性が自立するためには、孤児であろうと親がいようと、

職業として教師しかなかった、手近だったことをさまざまな理由から考えた。

生まれや育った環境に関係なく、よく勉強すれば実力で進学できる、

そして自立できる、ということは、女性の定理なのかもしれない。

 

それは、人類の長い歴史を見て、女性が自立できる時代の、

前兆だったのかもしれない。

 

遠い昔には、女性は姿かたちや家柄や家事能力や心づかいといったもので、

よい家にお嫁さんに行けることが、人生の道だった。

ちょうど日本では明治維新、欧米でも19世紀には、女性が、職業を持って自活し自立する時代だったのかもしれない。

 

アンも、大人になり、誰かに守られるだけではなく、誰かを守り育てる職業を持てる存在にと成長する。

それが、教師という仕事に代表されるひとつの重要な「証」なのだろう。

 

大人になった証拠、そして、貧しい身なりの痛々しい言動をする少女が蘇生した証拠が、「教師」という職業なのだと思う。

いささか定番でもあるが、女性が大人になり、成長し、幸せになった証拠として、

これ以上ふさわしいラストシーンは、ないかもしれない。

 

生活に必死だった女の子が、将来の希望を胸に、進学を決意する、

現代の少女たちに通じる、バイブルとしての「赤毛のアン」の完成である。

 

  


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