西洋古代哲学案内

西洋古代哲学案内

注:以下の「古代哲学案内」は、京都大学出版会の『西洋古典ミニガイドブック 西洋古典叢書がわかる』に収録されたものです(一部表記を改めました)。

古代ギリシア・ローマと一口に言っても、その歴史は思いのほか長いものだ。哲学についてみても、その始まり(前6世紀初頭)から古代世界の終焉(後6世紀初頭)まで、およそ1100年間にわたっている。そのうちでも、ソクラテス、プラトン、アリストテレスが相次いでアテナイで活動した時代、つまり前5世紀半ばから前4世紀後半にかけての百数十年間が最も重要な時期で、彼らの存在は、一般にも広く知られていよう。

それに先行する百数十年は、「初期」ギリシア哲学(あるいは「ソクラテス以前の」哲学)と呼ばれるように、アテナイ哲学のさきがけをなすとともに、それ自体として独特の魅力をもった哲学的活動がおこなわれた。他方、アリストテレスの死(前322)をもって、ギリシア哲学の最も創造性豊かな時代は終わる。これと同時期に、政治的にもヘレニズム体制への転換が起こり、ギリシア世界全体が大きく変貌した(ギリシアとオリエントを席巻したアレクサンドロス大王が没したのは、アリストテレスの死の前年であった)。哲学思想の上では折衷と混沌とドグマの時代へと移っていく。ヘレニズム期は、本来のギリシア思想が地中海周辺各地の伝統と接触融合しながら、変容していく過程でもある。時間的には最も大きな部分を占めているこの間を二つに分けて、主としてアレクサンドロス大王が征服したアジア・エジプト方面にギリシア的なものが進展していった時期(前四世紀末-前一世紀末)を固有の意味でのヘレニズム時代、あるいは、この時期アテナイとともに文化的中心となった都市の名をとってアレクサンドリア時代と呼び、それに対してローマが強大な国家となって、前1世紀末にヘレニズム世界を統一支配してのちの数世紀をグレコ・ローマン時代という風に呼び分けることもおこなわれる。

このように、古代哲学史は、本来のギリシア思想の創造性が花開いた古典期と、それが地中海世界全域に広がってさまざまな変容を遂げたヘレニズム期のそれぞれが、さらに二分されて、その全体はほぼ四つの時期に区分されるであろう。以下、その順序に従いながら、大きな思想の流れと主な著作をたどっていくことにしたい。

古典期(1)初期ギリシア哲学

哲学は、小アジアのミレトスの人タレス(前6世紀前半)に始まる。さらに言えば、彼が予告したと伝えられる日食の起こった前585年をもって、哲学の始まりの目安とするのが通例である。世界を新たな目で捉えようとする姿勢がきわめて鮮明に示されたものとして、哲学の誕生を告げるのにふさわしい出来事だからであろう。彼は「万物は水から成る」と考えたと言われている。もっとも、タレスは何らの著作も残さなかったから、すべては言い伝えにすぎないが、この宇宙世界のすべての事象は、その内にある自律的な原理に支えられて一つのシステムをなしている、というまったく新しい考えに立って世界を眺めることを彼は始めたのである。そうした仕方で世界を「知る」ことは、いわば一つの人間的可能性の「発見」であった。タレスの「発見」は周辺に多くの共鳴者を見いだすことになり、アナクシマンドロスやアナクシメネスらが、やはりミレトスにおいて、彼の活動を継承発展させた。彼らはともに、「世界はどのようにして成り立ち、現にどのようであるか」について、系統立った仕方で記述した著作をしている。そして、彼らの著作を踏襲するかたちで、その後ほぼ200年にわたって、多数の人たちが「宇宙論」を骨格とする哲学的思索を展開し、それを著作にまとめあげていった。

クセノパネス(前570頃-470頃)、ヘラクレイトス(前500頃)などが、ミレトス派につづく。ピユタゴラス(前570頃-510頃か、ただし彼は著作はしなかった)もミレトス派の影響下にあるが、彼は深遠な宗教精神の持ち主でもあって、両者を結合しつつ、哲学と人生との関係にきわめて重大な意味をもたらした。南イタリアのエレアで活動したパルメニデス(前480頃)は「論理」の重要性を強調して、その後の哲学にとりわけ大きな影響を与えた。ゼノン(前450頃)、メリッソス(前440頃)は彼の弟子である。エンペドクレス(450頃)やアナクサゴラス(前460頃)は、そのエレア派の強力な「論理」に鍛えられつつ、それに対抗しながら、より整合的な宇宙原理を考察した。この時代のきわめて濃密な議論展開の中から成立した大きな成果の一つが、レウキッポス(前450頃)とデモクリトス(前420頃)によって提唱された「原子論(アトミズム)」である。この時代に活動した哲学者はほかにも多数いる。しかし、きわめて残念なことに、彼らの著作そのものは、その後の歴史的経過の中で完全に失われてしまった。初期の哲学を知るための素材としては、おおむねヘレニズム時代の著作家たちが、自分の著作の中でごく断片的に引用している箇所がわずかに今日まで伝わっているにすぎない。それらを膨大な古典文献の中からたんねんに拾い集め、さらに初期ギリシア哲学者たちを知るための関係資料を合わせて編纂したものが、ヘルマン・ディールスとヴァルター・クランツの手になる『ソクラテス以前哲学者断片集』である。この分野については、本書(それ自体はむろん現代の著作だが)によってようやく窺い知ることができる。本叢書には、これに準拠した『初期ギリシア哲学者断片集』が収められる予定である。

固有の意味での哲学史には属さないが、前5-4世紀にかけての医学思想の動向にも注目しなければならない。特にコスのヒッポクラテス(前5世紀半ば)によって医術の自立性と医の倫理が確立されたことは、よく知られていよう。古来『ヒッポクラテス全集』として伝えられてきた70篇ほどの医学論考は、ヒッポクラテス派のみならず同時代の諸医学派の著作を集成したものである。

古典期(2)アテナイの全盛時代

当時の文化全般がそうであったように、初期ギリシア哲学の主な舞台は、小アジアのイオニア地方や南イタリアなど、ギリシア本土を離れた地域であった。アテナイが全ギリシアに名を馳せるのは、二度のペルシア戦争(前490、480)という大きな試練を、きわどいところで乗り切ってからのことである。戦後、まず軍事・経済面において国力が急速に高まると、全ギリシアから多数の哲学者や知識人たちがアテナイに集まるようになり、前五世紀半ば過ぎから、ようやくギリシア文化の中心地としての地位を獲得する。

いまや「全ギリシアの知恵の殿堂」と呼ばれるようになったアテナイで、新しい教育活動を始めたのが、ソフィストたちである。彼らは、もっぱら政治の場で有用な弁論術を教えることに力を人れたが、いわば人材養成のための高等教育の理念を確立し、それを実践した意義は大きい。プロタゴラス(前490頃-420頃)はその創始者にして第一人者の地位を占め、弁論術の大家ゴルギアス(前500/480頃、390/75頃)、博識万能を誇るヒッピアス(前5世紀後半)、細かな語義の峻別で名をなしたプロディコス(前5世紀末-前四世紀初め)などが、とりわけ著名である。彼らはいずれもアテナイと関係の深い国々の出身者であったが、その影響を受けて過激な開明思想を唱えたアテナイの知識人、たとえばクリティアス(前460頃-403)やアンティポン(前5世紀後半)なども、しばしばソフイストと呼ばれている。彼らの多くが、自らの教育理念やその方法ないしマニュアルを著作として公刊したが、初期哲学者たちの場合と同じように、ほぼすべて失われ、今日では後代の著作家による引用を通じてわずかに知られるにすぎない。それらの著作断片もH・ディールスとW・クランツの編纂した『ソクラテス以前哲学者断片集』に収められている。

前五世紀後半のソフィスト的な風潮に抗して、ほんとうの意味でのすぐれた生き方と、それを実現するための人間形成はいかにあるべきかを深く問いなおしたのが、ソクラテス(前470-399)であった。彼は、人々との対話を通じて、その答えを生涯求めつづけ、その探究活動を「愛知(ピロソピアー)」すなわち「哲学」と呼んだ。彼自身は何一つ著作をしなかったが、彼に魅せられ彼の周囲に集まった人たちによって、ソクラテスを主人公とする作品が書きはじめられた。中でも、プラトン(前427-347)の「対話篇」はとりわけすぐれたものであるが、クセノポン(前427頃-354頃)の『ソクラテスの思い出』をはじめとする幾篇かの「ソクラテス言行録」も、それと並んで重要である。ただし両者の伝えるソクラテス像には大きな閥きがあり、実際に彼がいかなる人物であったのかについては、いまなお議論がつづいている。また、キュニコス派のアンティステネス(前445頃-336頃)、快楽主義を唱えたキュレネ派のアリスティッポス(年代不詳、プラトンよりやや年長か)などは、「小ソクラテス派」と呼ばれるように、それぞれに彼の思想の一面を継承して独自の哲学を展開したが、彼らについては、ディオゲネス・ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』に述べられている以上のことは、ほとんど何も伝わっていない。

「ソクラテス的対話篇」の執筆を通じて、彼の精神をも最もよく継承し発展させていったのは、まぎれもなくプラトンであった。彼によって哲学は、一個の「学」として大成される。その著作は、古くから九つの「四部作集」に整理されて(それら36篇には若干の「偽作」の混入が疑われるものの)、古代の哲学者のうちでは最も完全なかたちで伝えられている。今日では、主として文体上の変化および内容上の発展に従って、プラトンの全作品の執筆時期を初期・中期・後期に三分することもできるようになった。初期著作は、「ソクラテス的対話篇」とも言われるように、生前のソクラテスの言行を鮮やかに伝えながら、その哲学的意義を浮かび上がらせたものである。『ソクラテスの弁明』『クリトン』『カルミデス」『リュシス」『ヒッピアス(大・小)』『プロタゴラス』など、比較的小篇が多いが、作品数の上ではおよそ20篇がこの時期のものである。『ゴルギアス』における哲学と弁論術の対決、『メノン』における想起説の導入を経て、中期著作の『饗宴』『パイドン』『国家』(全10巻)『パイドロス』では、プラトン哲学の中心をなすイデア論や魂不死説などが、比類のない哲学的憧憬の念をこめて情熱的に語られる。『パルメニデス』以降の後期著作においても、イデア論への確信は保持されるが、議論はむしろ理論的な基礎固めに向かい、したがって内容的にも高度な専門性と級密な論理の展開が基調となる。『テアイテトス』『ソピステス」『ポリティコス(政治家)』の三部作、プラトン独自の宇宙論を論じた『ティマイオス』、アトランティス伝説が語られる『クリティアス』、快楽論を吟味しながら生の根拠を問いなおす『ピレボス』、そして最後の著作で、未完の草稿に終わったとも伝えられる『法律』(全12巻)および『エピノミス(法律後篇)』などが、ほぼこの順序で書かれたものと考えられている。このほか13通の「書簡」も残されており、中には「第7書簡」のように重要な内容を含むものもある。

北ギリシアの町スタゲイラに生まれたアリストテレス(前284-322)は、17歳のときプラトンの学園アカデメイアに入学し、師の没するまで、20年以上にわたって、そこに留まる。ついで小アジアやマケドニアを遍歴したのち、ふたたびアテナイに戻り、新たな学園をリュケイオンに開く。彼の学派は、のちにペリパトス派と呼ばれるようになる。両者の哲学は鋭い対立をはらんでいたとはいえ、プラトン哲学はアリストテレス哲学の骨格にまで深く浸透しており、さまざまな局面にその影響を見てとることができる。アリストテレスは、すでにアカデメイア在学中から著作を始めているが、それらプラトンの影響が色濃い「初期著作」はすべて失われ、やはりわずかな断片のみしか残されていない(今日では周到な『断片集』が編纂されている)。また、ディオゲネス・ラエルティオスなどによって伝えられている「著作目録」は膨大なものである。今日まで伝えられている「アリストテレス著作集」は、主として彼がリュケイオンの学園でおこなった講義の草稿や筆記ノートと見られるものである。したがって、のちの「編纂者」による加筆訂正の可能性を含めて、文章上の不整合や未整理なところも少なくないが、かえって彼の思考のあとが鮮明にとどめられていて、ある意味で、それが独特の魅力ともなっている。「万学の祖」アリストテレスの著作はきわめて広範囲にわたり、それらの全体は一つの「体系」を目指していたことが、十分にうかがわれる。伝統的な著作配列は、論理学書(『カテゴリアイ(範疇論)』『命題論』『分析論前書・後書』など)に始まり、次に最も大きな部分を占める自然学的諸学に関する著作がつづく。『自然学』はその原理論にあたるもので、以下は天体の原理を論ずる『天について』、「月下の世界」の原理を論ずる『生成消滅論』、大気圏現象を扱う『気象論』というように、対象領域に従って順序立てられている。『魂について』はいわば生物学原論で、それに『動物誌』『動物部分論』『動物進行論』など、アリストテレスが最も得意とする生物学的諸著作がつづく。植物学などについては、まとまった著作はないが、『小品集』や『間題集』には、きわめて広範な問題が取り扱われている。それらにつづくのが『形而上学』である。この書は後代になってからまとめられたもので、きわめて複雑な構成をなしているが、自然的事象のすべてにわたる根本原理を、神にまで及ぶ視野の中で基礎づけた著作として、最も重要な位置を占めている。以上の「理論的諸学」に対して、そのあとには「実践的諸学」と「制作的諸学」が配される。前者としては、まず『ニコマコス倫理学』『大道徳学』『エウデモス倫理学』の「三大倫理学書」があり(ただし『大道徳学』は偽書)、家政(経済)を論じた『経済学』と、国家支配のあり方についての『政治学』が、それにつづく一連の議論をなすものと位置づけられる。さらに、「制作」にかかわるものとして『弁論術』と『詩学』が「著作集」の最後に配されている。このほかに『アテナイ人の国制』がある。これは十九世紀末にエジプトの古代遺跡からパピュロスのかたちで発見されたもので、歴史資料としても貴重視されている。

プラトンやアリストテレスが開設した学園は、彼らの死後も古代末期までほぼ途絶えることなく存続するが、ヘレニズム期には全般に振るわず、アカデメイア派では二代目学頭スペウシッポス(前407頃-339頃)以降の人たちの著作は、わずかな断片のほかには、伝存していない。この事情は、前3、2世紀の「新アカデメイア派」と呼ばれる懐疑主義者たち、アルケシラオス(前315頃-240頃)やカルネアデス(前214頃-129頃)などについても、同様である。ペリパトス派は、アリストテレスの後継者テオプラストス(前370頃-285頃)のもとで勢力を広げた。彼は師の遺稿の整備に努めるとともに、みずからも多数の著作をおこなった。今日まとまったかたちで伝えられているものとして、軽妙な性格描写が斬新な『人さまざま(性格論)』のほか、『植物誌』『植物の諸原理について』がある。アリストテレスの著作と同名の『形而上学』は、師の学説への批判を含みながら、素描風なものにとどまっている。『感覚について』は、初期ギリシア哲学者からプラトンに至るまでの感覚論を概説整理したもので、重要な証言に満ちている。これは元来、アリストテレスの意向に従って編纂した『自然学説誌』の一部であったと見られる。全体は16ないし18巻の大著であったその『学説誌』は、ヘレニズム時代を通じていくつかの「要約本」が作られ、ギリシア哲学史の基本資料の役割を担うことになる。ただし、それも今日に伝わるのは、わずかな断片のみである。

ヘレニズム期(1)アレクサンドリア時代

アレクサンドロス大王によって、ギリシア全土とメソボタミア一帯に及ぶ西アジアおよびエジプトが統合されたあと、彼の武将たちの間で、激しい領土分割の係争がつづく。その中で最も大きな国家をなしたのが、エジプトを中心とするプトレマイオス王朝であった。その首都アレクサンドリアは、歴代王朝の庇護のもとで、アテナイをしのぐほどの文化的繁栄を誇った。

しかしこの時期においても、哲学については、依然アテナイが中心地であった。プラトン、アリストテレスの没後に名声を博したのは、キティオンのゼノン(前335-263)が創建したストア派と、エピクロスが私庭に開いた学園であったし特に前者はこの後長く大きな勢力を形づくり、のちにローマ人の間でも盛行した。ゼノンのあとにも、クレアンテス(前331-232)、クリュシッポス(前280-207)などを輩出した。彼ら、初期ストア派の人たちの膨大な著作も断片しか残されていないが、十九世紀にフォン・アルニムによって『初期ストア派哲学者断片集』としてまとめられている。また「中期ストア派」を代表するポセイドニオス(前135-51)は、アリストテレスと並ぶ万能の大著作家であったが、作品はすべて逸失し、ただキケロやストラボンなどの引用。言及を通じて知られるだけである。L・エーデルスタインとI・G・キッドによって、網羅的な『ポセイドニオス断片集』が編纂されている。

デモクリトスのアトミズム(原子論)を継承発展させながら、ストア派に拮抗する道徳哲学を唱導したエピクロス(前341-271)の場合も、300巻にのぼる主要な著作はすべて失われたが、それらを要約した「書簡」三通が、幸いにもディオゲネス=ラエルティオス『ギリシア哲学者列伝』の中に収められている。さらに、箴言的な「主要教説」なるものも、かなりまとまったかたちで伝わっており、哲学的骨格はほぼ窺い知ることができる。また、あとで触れるように、彼の思想を祖述したグレコ=ローマン時代のエピクロス派文書がいくつか伝存している。

他方、プトレマイオス王朝下のアレクサンドリアでは、哲学から分化した諸科学が盛行した。自然科学関係の著作としては、エウクレイデス(ユークリッド、前三世紀前半)の『原論』が最も著名である。本書は、ギリシア幾何学の集大成ともいうべきもので、彼に先行する時代のアカデメイアやピュタゴラス派の数学の水準の高さをよく示している。彼にはほかにも多数の著作があったが、すべて失われた。やや遅れてシチリア島で活動したアルキメデス(前287-212頃)は、すぐれた機械技師であるとともに、微積分に近い考え方をも含む高度な数学的著作が多数あり、今日に伝わる論考も多い。また地動説で有名なサモスのアリスタルコスもほぼ同時期(前301頃-230頃)の人で、『太陽と月の大きさについて』が伝存している。この時代のアレクサンドリアでは医学も盛行したが、著作として伝わるものは何もない。

ヘレニズム期(2)グレコ=ローマン時代

前二世紀頃からギリシア世界に進出していたローマ勢力は、前30年に女王クレオパトラの支配するプトレマイオス王朝を滅ぼすと、東地中海一帯からオリエントにかけての全域を完全に併呑した。またこの頃からローマはギリシアの学芸の吸収に努めるようになる。哲学・思想の分野でそれに最も貢献したのは、キケロ(前106-43)である、彼はギリシアに遊学して、アカデメイアやストアの学園に学んだ。『アカデミカ』『トゥスクルム荘対談集』『究極の善悪について』『神々の本性について』などは、当時のギリシア哲学の状況をよく伝えるとともに、資料的にも貴重な引用的証言を多数残している。

キケロと同時代のピロデモス(前110頃-50/45頃)は東方の出身だが、ローマおよびヘルクラネウムで活動したエピクロス主義者で、『弁論術』や『敬虔について』をはじめ、哲学。神学から美学・論理学などきわめて広範多岐にわたる著作がある。作品としての魅力はやや乏しいが、今後本格的に研究されるべき重要な思想家の一人である、同時代のエピクロス主義者にルクレティウス(前94頃-55頃)がいる。謎と神秘につつまれた生涯のあとに残された唯一の著作『事物の本性について』は、エピクロス派のアトミズム的宇宙像を、長大な叙事詩体で書き綴ったもので、古代哲学全体を通じて最も深い魅力に満ちた作品の一つに数え上げることができる。

次の世紀に活動した(大)プリニウス(後23-79)も、ギリシア文化の影響の申し子であろう。彼はローマの政治家・軍人であったが、自然研究への熱意から、有名なヴユスヴィオス火山の噴火の調査に赴いて没した、膨大な『博物誌』は実地調査と文献博捜にもとづく成果で、以後このスタイル自体が時代に即応した哲学思想の表明の形式として定着し、本書に依りながら同様の著作がくりかえし試みられていく。

この時代、ギリシアに生い立ってローマで活動したギリシア人も多い。プルタルコス(後46頃-120以降)はアテナイで学んだのち、主として故郷のカイロネイアで過ごしたが、一時期はローマに赴いている。彼の著作は比較的多数伝えられている。最も知られるのは、ギリシアとローマの歴史上の人物約50人(現存するのは22組)を比較的に論じた『英雄伝(対比列伝)』であろう。ほかに、歴史・風俗から哲学・倫理思想までの幅広い論考を集めた『モラリア』がある。いずれも大冊にわたる。やや時代が下るが、これまでにも触れた『ギリシア哲学者列伝』で名高いディオゲネス=ラエルティオス(後3世紀初め)も、ローマ貴族の家庭にギリシア学芸の教師として仕えていたことが、その著作から分かっている。本書は、いわばさまざまな伝承を(虚実ない交ぜのまま)寄せ集めたもので、読んでおもしろいと同時に、すべてのギリシア哲学者たちを網羅したほとんど唯一の伝記として、大きな価値をもっている。

ローマ人に最も歓迎されたのはストア哲学の実践的な倫理思想であった。後1世紀から2世紀の帝政ローマに3人の哲人が相次いで登場する。セネカ(前4頃-後65)は政治家としても活躍し、特に皇帝ネロと確執で知られる(最後には、陰謀加担の嫌疑を受けて自殺)。平明に書かれた多数の哲学論考は、分野別に『白然研究』『道徳論集』『道徳書簡集』にまとめられている。エピクテトス(後55頃-135頃)は、解放奴隷の身で主としてローマで哲学を講じた。弟子のアリアノスが記述した『談話集』および『要録(エンキリディオン)』があり、自己の尊重と内面的自由を説いて広く影響を与えた。皇帝マルクス・アウレリウス(121-180)もその一人で、学を好み、豊かなギリシア的教養を身につけていた。在位中はほとんど戦陣にありながら哲学的な手記を書きつづけ、それを『自省録』にまとめあげた。

帝政初期から最盛期にかけてのローマで最も盛行した学術の一つに、アレクサンドリアから移入された医学がある。古代医学の大成者ガレノス(130頃-200以降)は、小アジアのベルガモンに生まれたが、マルクス・アウレリウス治下のローマで活動し、皇帝とも親密な間柄にあった。彼の膨大な著作の多くは、当時のさまざまな医学派との激しい論争の中から生まれたものである(『自然の機能について』もその一つ)。著作は、今日に伝わるものだけでも、19世紀に編纂された標準版で一万頁分にものぼり、伝存量は他のいかなる古代著作家をも凌駕している。中世・近世に継承されたギリシア医学の実質を占めていたのは、ヒッポクラテス以上にガレノスであったと言っていい。彼の死と相前後して同じローマで活動を始めたセクストス・エンペイリコス(3世紀前半)も、名前のとおり経験派の医師であった。しかし彼はむしろ懐疑主義の哲学者として重きをなしている。『ピュロン主義哲学の概要』および『学者たちへの論駁』(『論理学者たちへの論駁』『自然学者たちへの論駁』『倫理学者たちへの論駁』を含む)は、この分野においてかけがえのないもので、後代への影響の大きさも(別の意味で)ガレノスに勝るとも劣らないものがある。なお、当時アレクサンドリア学芸の最盛期は過ぎ去っていたが、プトレマイオス・クラウディオス(2世紀)の天文学は、この時代の所産である。彼の『数理天文学体系(アルマゲスト)』などは、ガレノス医学と同様に、ギリシア科学の集大成と見なされ、長く影響を及ぼしつづけた。ちなみに、ローマ杜会では占星術的な関心も旺盛であったから、通俗的な天文学書も盛行した。時代を遡るが、叙事詩体で著わされたマニリウス(後1世紀)の『天文誌(アストロノミカ)』もそうしたものの一つである。

プラトンおよびアリストテレスの哲学は長らく他学派の陰に追いやられがちであったが、紀元前後に新たな全集が編纂された頃から、ふたたび注目を浴びるようになる。プラトンについては、先に述べたプルタルコスの『プラトン哲学に関する諸問題』をはじめとする一連の論考(『モラリア』所収)や、アルキヌス(アルビノス、2世紀)の『プラトン哲学序説』などが相次いで書かれるようになる。アリストテレスの学園もアプロディシアスのアレクサンドロス(200頃)によって再興される。彼の著わした注解書(『「形而上学」注解』など)は、難解なアリストテレス理解を大きく促進し、またこれ以降の研究の模範となった。

古代において最もラディカルなプラトン復興を推進したのは、むろんプロティノス(204/5-269/70)に始まる新プラトン主義である。この運動を担った哲学者たちの多くは、オリエント的な風土の中で生い立ち、新ピュタゴラス主義の名で呼ばれる濃厚なシンクレティズムの色彩を身にまとった人たちであった。プロティノスはおそらくエジプト人であり、彼がアレクサンドリアの思想的混沌を遍歴したのち、プラトニズムに覚醒した経過は、弟子のポルピュリオス(234四頃-304頃)によるすぐれた伝記からも、容易に跡づけることができる、師の遺稿54篇を六つの『エンネアデス(九部作集)』に編纂したのも彼である。伝記においては、逐一の論考について正確な執筆年代順をも明記している。こうした意味で、古代の哲学者の中で最も恵まれた伝承事情にあるのは、まぎれもなくプロティノスであろう。彼の哲学の骨格をなす、「一なるもの」を頂点とする存在の階層的統一構造化は、深いプラトン理解を踏まえてその本質を捉えたものであるとともに、アレクサンドリアのピロン(紀元前後)や新ピュタゴラス派のヌメニオス(2世紀)などを範として、オリエントの神秘宗教とギリシア哲学の融合を図ったものでもあった。弟子のポルピュリオスは該博な思想家で、著作は多方面にわたる。古代の伝記の中では随一とされる『プロティノス伝』、ピュタゴラス派への傾斜を示す『ピュタゴラスの生涯』や『肉食の禁忌について』、ホメロスの詩句を論じた『ニンフたちの洞窟』、妻にあてた『マルケラへの書簡』などが残されている。また『「カテゴリアイ」序説(イサゴーゲー)』『「カテゴリアイ」注解』は、あとで述べるボエティウスを通じて中世哲学にまで大きな影響を与えた。プロティノスやポルピュリオスは主としてローマで活動したが、北辺民族との軋櫟やキリスト教の伸長によって、この地はすでにギリシア文化と相いれなくなりつつあった。彼の死後その弟子たちは、拠点をギリシア本土や各自の出身地(主として小アジア各地)に移す。ポルピユリオスに学び、シリアで学園を開いたイアンブリコス(250頃-325頃)によって、新プラトン主義のオリエント的基調は、さらに明確化される。今日残ってい。る著作には、『ピュタゴラスの生涯』『哲学への勧め(プロトレプティコス)』などのピュタゴラス派関連書、当時の宗教に関する資料として貴重な『密儀について』などがある。ただし、それらはなお彼の本姿を伝えるには足るまい。アテナイのアカデメイアで活動したプロクロス(412-484)は、新プラトン派最大の体系思想家で、大著『プラトン神学』、またエウクレイデスの幾何学を範として書かれた『神学綱要』は、完成された学派理論書としてスコラ哲学を先取りしているとも見られる。ほかにプラトンの『「ティマイオス」注解』『「パルメニデス」注解」などがあり、これらは精細だが比較的平明に論述されている。

ちなみに、プロクロスにやや先立って『「ティマイオス」注解』をラテン語で著わしたカルキディウス(4世紀後半)については、同書のほかには何も知られていないが、明らかに新プラトン派の影響(特にポルピュリオス)を受けている。また『哲学の慰め』で名高いボエティウス(480頃-524)にも、その影響は顕著である。この「最後のヘレニスト」は、プラトンとアリストテレスのラテン語全訳を志し、実際に完成されたのは後者の論理学関係書の訳と『「カテゴリアイ」注解』『「命題論」注解』およびポルピュリオスの『「カテゴリアイ」序説(イサゴーゲー)』の訳と注解のみであったが、中世ヨーロッパにおけるアリストテレス理解は、これらの著作が主要経路となった。

しかし、当時のオリェント的要素と、プラトンおよびアリストテレスとの融和を図ろうとした新プラトン主義には、さまざまな趨勢がある。アレクサンドリアを拠点としたイシドロス(5世紀後半)やダマスキオス(6世紀前半、最後のアカデメイア学頭で、『第一の原理について』『イシドロスの生涯』などの著作がある)は、プロクロスに全面対立した汎神論的統一理論を提唱している。新プラトン派の活動は、ほとんどその当初から、アジア各地に分散的に展開されていたが、529年に皇帝ユスティニアヌスが異教(非キリスト教)的学芸活動の禁止令を発すると、ギリシア文化の主要拠点はさらに東方に移されていく。その最後に位置するのが、シンプリキオス(6世紀前半)による精緻を極めたアリストテレス注解書である。伝存するものに『「カテゴリアイ」注解」『「白然学」注解』『「天体論」注解』『「魂について」注解』などがある。これらは、アリストテレスへの最良の手引きであるとともに、初期ギリシア哲学者たちの著作やテオプラストス『自然学説誌』の資料的引用を多数含むことでも、重要視される。

また、アテナイよりも長く存続したアレクサンドリアの学園では、ピロポノス(490頃-570頃)が、ほぼ同時代に同様のアリストテレス注解書を著わした。『「カテゴリアイ」注解』『「分析論」注解』『「気象論」注解』『「生成消滅論」注解」『「魂について」注解』などが伝存する。彼の立場はキリスト教に傾斜しており、多くの点で意識的にシンプリキオスに対抗した解釈を提示している。やはりその頃アレクサンドリアで活動したオリュンピオドロス(6世紀)は新プラトン主義を堅持しながら、主としてプラトンへの注解書を著わした。『「アルキビアデス」注解』『「ゴルギアス」注解』『「パイドン」注解』などがある(『「ピレボス」注解』は、今日ではダマスキオスのものとされる)。

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以上の概観は、スコープをもっぱら固有の意味での「古代ギリシア・ローマ」に限ることとした。ほかにも、特にヘレニズム時代にはユダヤ・キリスト教との接触・交流に伴って、その分野に重要な著作が多い。たとえばアレクサンドリアのピロン(前30頃-後45頃)、護教家のテルトゥリアヌス(160頃-220以降)、教父のヒッポリュトス(170頃-236頃)、エウセビオス(264頃-315)などは、本来、古代哲学史との関連においても欠かせぬ存在である。

内山勝利