多言語状況の比較研究

第9回研究会記録


 


【日時】

2010年11月20日(土)13:30-18:30 および 11月21日(日)10:00-15:00

【場所】

AA研マルチメディア会議室(304号室)

【報告1】

藤井毅(AA研共同研究員、東京外国語大学)「インド史の中の言語と文学」概要報告レジュメ

【コメント】

足立享祐(研究協力者、東京外国語大学)

【報告2】

安田敏朗(AA研共同研究員、一橋大学)「多言語状況はいかにとらえられてきたか――近代日本の言語政策史の視点から」概要報告本体

【コメント】

石田俊二(研究協力者、三元社)

【報告3】

山下仁(AA研共同研究員、大阪大学)「日本の多言語状況に関するいくつかの研究課題」概要報告レジュメ

【コメント】

塚原信行(AA研共同研究員、京都大学)

【討議】

全員:報告書作成に向けて

【研究会概要】

 今回が共同研究「多言語状況の比較研究」の最終回となる。三つの報告に共通して浮かび上がってきたのは、「多言語状況」というものをどのような観点からとらえるか、という視点の置き方の問題であったように思う。言語の支配と階層化を問題化しない多言語状況理解は、実は支配のイデオロギーに貫かれたものにほかならないのかもしれない。

 藤井氏の報告では、南アジア地域の多言語、多文字状況を、単に所与の状況としてとらえるのではなく、植民地支配による介入と、独立後のインド、あるいはパキスタンの政治が、その多言語、多文字状況のあり方そのものを規定してきた歴史のなかでとらえ直す必要があることが示された。パキスタンでは書記言語としてのウルドゥー語の圧倒的な存在によってある意味で多言語状況が不可視化され、インドでは言語問題が地域化されるようになることによって、ヒンディー語の拡大と支配が不可視化されている、と言えるだろうか。

 安田氏は、近代日本の言語政策にそれぞれ何らかの形で関与することになった日本の言語学者、国語学者たちが、日本および植民地の多言語状況をどのように認識し、それにどのように向き合っていたかを論じ、それが基本的に帝国日本における国語・日本語支配のための多言語状況解釈であったことを示した上で、現代日本における日本語教育が、「多文化共生」を掲げながら、そうした歴史を忘却したまま同じ図式に陥っているように見えるということが示唆された。

 山下氏の報告では、現代日本の多言語状況についてのフィールド研究の成果が紹介され、その経験に基づいて、研究者のポジショニングの問題を含め、日本における多言語社会研究において今後検討されるべき研究課題が提案された。とくにポジショニングの問題については、塚原氏からのコメントを受けて活発な議論が行われた。

 二日目の報告書作成に向けての討議では、プロジェクトの趣旨を再度確認した上で、参加者それぞれの執筆計画を検討し、来年度の早い時期に原稿を完成させるというスケジュールについて合意した。

(砂野幸稔)
 

【各報告概要】

<報告1>

インド史の中の言語と文学
 インドをはじめとする南アジア地域は、多言語社会であるとともに、多文字社会である。さらに、それらは、同じ水平面上で機能しているのではなく、階層化して機能してきたことを特徴とする。さらにこの事実に歴史性を附与するためには、前近代においては、識字能力が社会的に共有されておらず、文字能力を占有する一握りの職能集団により、文字が秘技化されて独占されてきたこと、植民地支配下、非文字言語の文字化が開始されるなかで、公教育の推進とともに、この独占は排されたものの、文字種の単一化が推進されたために、階層化が固定化されたことを理解しなければならない。
 本報告では、こうした観点に立脚し、現代インドの言語状況を国勢調査報告書のデータに基づき概観した後に、インド史のなかで、言語と文字がどのように問題化し、現状、如何なる問題に直面しているのかを具体例を挙げつつ論じた。
 主たる話題となったのは、①ミッショナリー・アルファベット ②インド・ローマ字論 ③非文字言語の文字化企図の例として、コクボロクKokborok語 ④ヒンディー語、ウルドゥー語とその他の地域言語が果たす機能上の差、などである。
 強調されたのは、同じ多言語・多文字状況を抱えていながらも、インドでは、地域語とその記述文字の存在が全面に出てくるのに対し、パーキスターンにおいては、ウルドゥー語とその記述文字の圧倒的存在の前で、地域語の存在が隠蔽されてしまう事態である。これは、多言語・多文字状況は、自然状況として単純に把握されるではなく、如何なる建国の理念のもと、どのような政治体制で語られるのかによって、全く異なる形で顕現するということに他ならない。
 そのうえで、最終的に論じたのは、独立インドにおいて、「言語政策」は、どのレベルデで在したのかということであり、それらの政策が具体的に言語状況のいかなる部分に介入したのかということである。結論を述べると、80-90年代における言語問題を全インドレベルで顕在化させないための方策が洗練され、言語問題の地方化・局地化が進み、今日に至っているということであった。

(藤井毅)

<報告2>

多言語状況はいかにとらえられてきたか―近代日本の言語政策史の視点から
 本報告では、近代日本における多言語状況の把握の仕方について、主として言語学者や国語学者の言説から整理してみた。そもそも、多言語状況とはどこにでも存在するものであって、それをだれが、いつ、どういった状況のなかで解釈するか、によってその評価のあり方もさまざまに変わってくるものである。近代国家は基本的には多言語状況を無視した形でできれば単一の言語普及をおこなうのが常であるから、言語学者たちの把握の仕方が直接的に言語政策に反映されることはないにしても、なんらかの緊張関係をはらむ可能性もある。
 まず、金田一京助や金沢庄三郎は、帝国のなかの多言語状況を、「誇るべきもの」あるいは「世界言語の博物館、生きた図書館」という形でとらえていた。諸言語間の力関係はそこには反映されず、あたかも陳列物とするかのような、静態的な平面的な把握であった。
 また、上田万年、新村出、保科孝一、安藤正次といった、欧州での言語問題が民族問題を媒介として政治化している現状を見聞したり資料調査をしたことのある研究者たちになると、多言語状況がある条件のもとで政治化することに何らかの対応をしなければならない、と考える場合も出てきた。多言語状況の層的な把握、ここでは「バイリンガリズム」の受容のあり方を軸に考察してみたが、保科や安藤は、言語問題の政治化が帝国日本でも生じうる可能性に鈍感ではなかったといってよい。政治化を防ぐためにたとえば保科は「国家語」という概念を導入し、安藤は「二語併用」を過渡的な状況としてとらえ、欧米諸帝国の言語政策と帝国日本の言語政策の差異を強調することになっていった。しかしながら、こうした帝国の経験は継承されることなく、うやむやのうちに忘却されていった。
 近年、「多文化共生」の文脈のなかでは、日本語教育のみに焦点があてられ、現前する多言語状況をどう解釈していくのか、といった議論は少ないように思われる。しかしながら、ありうべき多言語社会の姿を提示するためには、過去の多言語状況の把握のあり方をふりかえることは不可欠であると考える。

(安田敏朗)

<報告3>

日本の多言語状況に関するいくつかの研究課題
 日本の多言語状況など問題にならないという言説の前提を、きわめて簡潔な表現で表すならば、「日本には、日本語のできる、日本人が住んでいる」、ということになる。しかし、実際には、日本には、1)日本語に不自由している外国人がおり、2)日本語に不自由している日本人がおり、3)日本語以外の言語、言語変種を用いている人がいる。
 つまり、「日本には、日本語のできる人も、日本語に不自由している人も、日本語以外の言語や日本語のさまざまな言語変種を用いる人も住んでいる」ということになる。しかも、日本語ができない人の割合は、将来的にはどんどん増えていくことが予想されている。それゆえ、多言語状況における人々のコミュニケーションのあり方を考察する意義はないとはいえない。本発表では、2002年から2006年までの大阪大学21世紀COEプログラム「インターフェイスの人文学」での研究を参考にしつつ、いくつかの研究課題を明らかにした。それらは、以下のようにまとめることができる。A) 日本で多言語状況が十分に研究の対象になってこなかったのはどうしてか。B) 「一国家・一民族・一言語」というイデオロギーを脱却するために、どのようなモデルを構築することができるか。C) 「学校」「家庭」「職場」などのドメイン別のコミュニケーションの実態。D) 日本語教育:一般的にはホスト社会の公用語の言語教育。E) 母語教育:移民・少数民族の母語、民族語の教育。F) ホスト社会の多言語化に対する取り組み。G)国家としての取り組み、法の整備、所轄部局の設置など。H) 地方自治体の取り組み。I) 多言語景観とその受容。J) ホスト住民の外国人に対する意識。K) ホスト社会のリテラシーの問題。L) 現場における研究者の立場、態度の問題。M) 研究者の言語意識の問題。N) メディアで外国人についてどのような報道がなされているか。O) ニューメディアで外国人についてどのような報道がなされているか。P) 障害者とのコミュニケーション。Q) 漢字圏におけるあらたなコミュニケーションの可能性などなど。
 むろん、これ以外にも多くの課題を提示することができるであろう。本発表では、特に研究者のジレンマ、「調査ができない」、「聞きたいけれども、なかなか聞くことができない」といった倫理的な問題などにも触れ、参加者からの意見やコメントを得た。

(山下仁)

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