多言語状況の比較研究

第8回研究会記録


 

【日時】

2010年9月25日(土)13:30-18:30

【場所】

AA研マルチメディア会議室(304号室)

【報告1】

フフバートル(AA研共同研究員、昭和女子大学)「新疆におけるモンゴル人の文字改革問題―<一民族一文字>の原理とモンゴル人の<民族>、<言語>、文字の関係」概要報告本体

【コメント】

李守(AA研共同研究員、昭和女子大学)

【報告2】

名和克郎(AA研共同研究員、東京大学)「ネパールにおける "多言語状況" の諸側面」概要報告本体

【コメント】

柘植洋一 (AA研共同研究員、金沢大学)

【報告3】

渡邊日日(AA研共同研究員、東京大学)「ロシア・ブリヤーチアに於ける多言語状況-ブリヤート標準文章語の位置づけをめぐる近年の変化について」概要報告スライド

【コメント】

渋谷謙次郎(AA研共同研究員、神戸大学)

【研究会概要】

 三つの報告に通底するのは、文字を通じた「言語」の立ち上げ(標準化)が「民族」の立ち上げ(統合あるいは分離)など政治的な動員として行われることの持つ意味についての問いかけである。「多言語主義」あるいは「多言語状況」という時の「言語」とは何なのか、ということが、それぞれ異なった状況について異なった視点から問題とされた。

 フフバートル氏の報告では、中国の新彊ウイグル自治区のオイラト系モンゴル人が、内モンゴル自治区のモンゴル人とは大きく異なる言語変種を話し、それに基づくトド文字という独自の文字を用いる伝統を持っていたにもかかわらず、中国の「一民族一文字」という原理や理念によって内モンゴル自治区で行われているホダム文字(伝統的なモンゴル文字)による教育が導入されたことによって、それまでの言語伝統を脅かされていることが紹介された。李氏によるコメントでは、中国の民族識別工作によって生み出された「民族」という概念が、エスニック・グループとしての意味と行政区画としての意味の混在したものであり、朝鮮族自治区においても多様な言語的現実との間でさまざまな問題が生じていることが紹介された。

 名和氏による報告では、19世紀のネパール王国成立以降、長く政策的介入が行われないままであったネパールの多言語状況が、1962年以降行われたネパール語による国民統合に向けた政策にもかかわらず、19世紀以来のネパール語のリンガフランカとしての普及は見られるものの、大きく変わらぬまま存続していること、そして、1990年の「民主化」以降、ネパール語による国民統合への反発から「多民族・多言語」が語られるようになるが、エリートによるワード・ポリティックスとしての側面が目立つことが紹介され、書き言葉として固定されておらず、環境の変化の中で変化していく「言語」について、「多言語」を語り、個々の「言語」の書記化、正書法の固定化を語ることの意味についての疑問が示された。柘植氏によるコメントとそれに続く討議では、植民地化されなかった王国としての歴史、多言語状況と支配者の言語のあり方など、エチオピアとネパールの共通性が指摘される一方で、文字と宗教が皇帝の権威付けに用いられたエチオピアとそうではなかったネパールの相違など文字と宗教をめぐる違い、より大きなインド地域のなかでとらえる必要のあるネパールとエチオピアの違いなどが指摘された。

 渡邊氏の報告では、ソビエト連邦解体以降のロシア・ブリヤーチアで、ブリヤート語がロシア語と並ぶ「国家語」の地位を得た後も、ロシア語第一言語話者が増加し、ブリヤート語が後退する方向性と、公的領域はロシア語、伝統文化領域はブリヤート語という旧ソ連時代以来の二言語の棲み分けの状況は大きく変わらない一方で、自民族の言語を学ぶべきものとして習得、維持すべきであるという主張や、インターネットの普及などによるブリヤート語による読み書き環境の拡大など、旧ソ連時代は見られなかった状況の変化も起こっていることが報告された。渋谷氏のコメントでは、旧ソ連は、共通語としてのロシア語の普及、各民族語を通じた識字率の普及という面から考えると、言語政策がかなり成功した事例と言えるのではないか、ということが指摘され、さらにブリヤート語の復権と民族エリートの関係、モンゴル国のモンゴル語との関係などについての質疑が行われた。

(砂野幸稔)
 

【各報告概要】

<報告1>

新疆におけるモンゴル人の文字改革問題 <一民族一文字>の原理とモンゴル人の<民族><言語>、文字の関係
 中国の新疆ウイグル自治区のモンゴル人分布地では、1982年から内モンゴル自治区で使われているホダム文字(伝統的なモンゴル文字)による教育が正式に導入され、17世紀以来、西部のオイラド・モンゴル人の間で使用されてきたトド文字を学校教育で教えなくなった。トド文字はオイラド方言の表記に適した文字であったのに対し、ホダム文字は現代モンゴル語のいかなる方言からもかけ離れた「超方言」文字で、話しことばの表記自体に適さない古い文字である。新疆ウイグル自治区には首府ウルムチ市より南、西北、北にそれぞれ約500キロメートル離れた二つの自治州、一つの自治県を中心に約15万人のモンゴル人が分布している。国境を隔ててモンゴル国西部には同じオイラド・モンゴル人が住み、現在のロシア連邦のカルムイク共和国もオイラド・モンゴル人を主体する国である。それらの国では20世紀前半にトド文字が使用されなくなっている。
 一方、1982年当時総人口2000万人未満だった内モンゴル自治区では、モンゴル人が2割にも達せず、モンゴル語とモンゴル文字が社会的にほとんど機能していなかったため、モンゴル文字の出版物は一部分の分野に限定されていた。それに、新疆ウイグル自治区から数千キロ隔てられた内モンゴルの諸方言とオイラド方言とでは相互理解が不可能に近かった。それにもかかわらず、新疆のオイラド・モンゴル人は「一民族一文字」の原理に従い、「モンゴル族」として内モンゴルの文字と書きことばを学ばなければならなかった。ホダム文字を学ぶこと自体は1950年代から始まり、最終的に小学校3年からホダム文字を学びはじめるという教育システムが確立され、トド文字とホダム文字、内モンゴルの書きことばとオイラド方言とのバランスの取れた教育が進められてきた。しかし、1980年代以来、トド文字の教育が廃止されたため、事実上、「民族教育」の基本である母語とその表記システムである文字との間に大きなずれが生じ、オイラド・モンゴル人生徒の「母語」教育に混乱が起こるようになった。そのため、新疆ウイグル自治区におけるモンゴル語の文字改革の問題は、オイラド・モンゴル人の母語継承とも深くかかわる問題となってきたが、この文字改革が政策設定側の一部のモンゴル人の提唱により政府の言語政策として導入されたため、国内同一民族の言語的統合という政治や教育上の積極的な一面が強調されてきたものの、文字改革より生じた消極的な面及びその実態はほとんど公表されていなかった。
 本研究では、その理論的根拠や政治的理念と現実問題との違いに焦点をあてながら、導入のプロセスを追い、この文字改革に対する異見を示す多くの一次資料を分析することにより、それがモンゴル人の「民族」、「言語」、文字の関係をどのように反映しているか考察した。

(フフバートル)

<報告2>

ネパールにおける "多言語状況" の諸側面
 インドの植民地化を進めるイギリスの圧力のもとで、さまざまに異なった言語共同体が存在する領域を囲い込む形で19世紀にほぼ現在の領土を確定させたネパール王国では、ネパール語がある程度リンガフランカとして広がる一方で、ネパール語を国内に普及させようとする政策はなく、それぞれの言語共同体が自らの言語をさまざまな影響関係の中に置かれながらも維持する状況が続いてきた。20世紀半ばの王政復古以降、政府はネパール語を一つの核として、国民統合と(実質的にネパール語を母語とするヒンドゥー高カーストの人々をモデルとした)ネパール国民の創成を目指すようになった。30年を経てネパール語はほぼネパール全土で通用するようになった半面、均質的なネパール国民の創成は実現されなかった。1990年の民主化に至る運動の中で、ネパール語による一面的な国民統合への反発からネパールの「多民族」「多言語」性の主張がネパール語を母語としない人々により展開され、1990年憲法ではネパール語を「国家語」として規定する一方で、ネパールのすべての言語を「国家的言語」とする規定が設けられた。しかしそうした「多言語的」方向性は、行政レヴェルでは多分に名目的なものにとどまった。言語を巡る運動は、その後も「先住民」や「危機言語」といった概念を取り込みつつ展開し、2007年暫定憲法ではネパール語が公用語、ネパールの全ての住民の母語が「国家語」(或いは「国語」)とされた。だが、ネパールにおける「マイノリティ」の運動が、カースト、民族、地域といった要素により一枚岩的になり難い状況もあいまって、エリートが国際的に認知される概念を用いて行うワード・ポリティックスが、どのような状況を導くのかは定かでない。
 また、言語に関して言えば、ネパール語をはじめとして、どの言語にも多様な言語変種が存在するだけでなく、書かれる言語については、正書法がそれなりに確立している場合にもそれなりに重層的な重なり合いが存在し、正書法が確立されていない場合にも人々がそれぞれのやり方で当該の言語を、デーヴァナーガリー文字等を用いて実際に書いている場合が多い。報告の後半では、正書法が確立していないビャンシー語について、こうした文字使用の一端と、そこで生じている問題を概観した。固定化され、正書法を与えられた個別「言語」 の併存として構想される「多言語」という考え方には、何かいびつなところがある

(砂野による要約に名和が加筆)

<報告3>

ロシア・ブリヤーチアに於ける多言語状況―ブリヤート標準文章語の位置付けをめぐる近年の変化について―
 ソヴィエト連邦が解体する前後,各構成共和国では自民族語を保護し,その社会的・文化的地位を向上させようとする動きが強まった。当該民族であるならば当該言語を知らなければならないという,民族的自覚を促す観念は,1990年代,実際にロシア語がリンガ・フランカとして用いられ,ロシア語が第一言語となっている少なくない住民がいるという状況の中で,民族言語イデオロギーにもなっていた。また,自民族語の位置付けは,ロシア連邦ブリヤート共和国では1992年6月に通称「言語法」の中で整備され,ブリヤート語はロシア語と並んで国家語の地位を得ることができ,その学校教育も普及されることとなった。だが,法的整備にも拘わらず,ブリヤート語の使用領域は拡大せず,住民のブリヤート語運用能力も高まってはいない。
 2000年代,ブリヤート共和国では,言語法が2度に渡って改訂された。その背景には,言語法の理念と社会での現実とが乖離しており,理念を現実に合わせたという,ブリヤート語にとってみれば「後退」の方向性がある。だが,改訂の過程と平行して見られる,「ブリヤート語委員会」の発足や様々な共和国レベルのプログラムの実行に注意すれば,違った側面が指摘できる。
 一つは,それまで曖昧に把握されてきた「母語」概念が再考され初めているという点である。ある民族であるからその言語が「母語」である筈だ,という発想ではなく,自分達の言語であるがその民族語を意識的学習によって習得しよう,という発想が,指摘としては決して新しいものではないが,近年広く主張されうようになった。
 二つめは,「標準文章語」の機能についての再認識がある。ソ連時代,及び1990年代の特徴として,民族語は聞き,話す言語,ロシア語は読んで書く言語という形の,ソヴィエト型二言語状況があった。地位の差異のみならず,書記をめぐる差異をも温存,場合によっては促進してきたソヴィエト型二言語状況が,近年,真摯な検討の対象となっている。特にインターネットの普及に伴い,民族語で書く・読むという行為は,以前に比べれば,広く見られる現象になっている。だが,公共的な話題に関してはロシア語,伝統文化的話題に関してはブリヤート語という,書き言葉での分化は,ソ連時代の特徴的な文化政策の結果であり,それがまだ持続しているという点では,ソヴィエト型二言語状況は変化していないとも言える。
 本報告は,以上の点を明らかにしたが,民族誌的手法を用いて政策決定過程とその実行を解明しようとする研究プログラムの一環でもある。

(渡邊日日)

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