多言語状況の比較研究

第6回研究会記録


 

【日時】

2010年2月14日(日)13:30-18:30

【場所】

AA研マルチメディア会議室(304号室)

【報告1】

大原始子(AA研共同研究員、桃山学院大学)「移民による小国家シンガポール-管理された多言語社会」概要報告本体

【コメント】

砂野幸稔(AA研共同研究員、熊本県立大学)

【報告2】

塚原信行(AA研共同研究員、愛知県立大学)「言語政策と人間開発-パラグアイにおけるグアラニ語教育を事例として-」概要報告スライド文献リスト等

【コメント】

青砥清一(研究協力者、神田外国語大学)

【報告3】

原聖(AA研共同研究員、女子美術大学)「少数言語運動とは何か」概要報告本体

【コメント】

渡邊日日(AA研共同研究員、東京大学)

【研究会概要】

 奄美大島ほどの面積に500万近くの人口がひしめく都市国家であり、一人あたりGDPが5万ドルを超えるシンガポールと、日本を超える面積に600万強の人口が暮らし、一人あたりGDPは5000ドルに満たないパラグアイという、およそ共通点を見いだすことが困難な二つの国家に共通しているのは、国家が象徴的に掲げた言語政策が実質的に機能していないということと、政策意図とは別に共通語としてクレオール化した言語が育っているということであろう。

 シンガポールでは人口の7割を中華系が占めるが、マレー語を国語とし、英語、北京語、マレー語、タミル語が公用語とされているが、標準英語が公的場面での支配言語であり、シングリッシュと呼ばれるクレオール化したシンガポール英語が日常生活の共通語となっている。さらに公用語とは一致しない中国、インドの諸言語が母語として存在しているという。パラグアイは、スペイン語とグアラニ語を公用語とする二言語体制を標榜しているが、実際にはグアラニ語については、教育においても書記言語としての使用についても実質的にははなはだしく立ち後れた状況にあるようである。コメンテータの青砥氏によれば、とくに都市部ではジョパラと呼ばれるクレオール化したグアラニ語が常用されているという。

 原氏の報告は、1980年代のフランス・ブルターニュで、1970年代の地域主義運動、少数民族運動のうねりを引き継ぐ形で勢いを増しつつあった少数言語復興運動のただ中に身を置くことで研究を始めた自身の来歴を語る形で、その後1990年代に多言語主義がヨーロッパにおいて公的に認知された方向性となり、さらに2000年以降、国連などの国際機関もそうした方向性を追認するようになることで、ヨーロッパ外にも広がった少数言語復興の動きについて振りかえるものだった。さらに、今後の研究の可能性として、言語社会史という方向性、そして少数言語復興運動に資するものとしての少数言語研究、という方向性が示された。渡邊氏からのコメントでは、研究と実践という二つの側面をつなぐものとしての社会学的介入という視点、民族主義と地域主義の違い、リテラシーを論じる際の読むと書くの間の落差の問題等が指摘された。


(砂野幸稔)
 

【各報告概要】

<報告1>

移民による小国家シンガポール-管理された多言語社会
 シンガポール固有の言語・変種の有り様とダイナミズムは、言語の地位、機能の側面からの社会言語学的な切り口で、浮かび上がる社会であると考える。シンガポールは政府に管理された英語社会として知られるが、居住民族の母語ではなかった英語への収束と拡散は、シンガポールゆえの時間と物理的要因、そして人々による選択と受容の成果であるといえる。「移民国家」「多言語」「少人口」という要素が、アジアの他の多言語国家に比べて、「国家」と「個人」の言語の選択にある種の制限を、一方で言語のシフト(言語の移行)に柔軟性を与えてきた点は、社会を理解する上で重要である。中国、マレー、インドのさまざまな地域からの移民による国家は同時に言語的多様性を抱え、独立時にスイスを模して、居住民族を象徴する形で、マンダリン、マレー語、タミル語、英語の四言語を「公用語」に、マレー語を「国語」に定めた。しかし、民族グループ内、民族グループ間の共通言語として必ずしも機能しておらず、政府が各民族の社会上の「母語」と位置づけた「公用語」は、運用能力の不足と民族アイデンティティを表示し得るものではなかったため母語化には至らなかった。親の母語、公用語、英語のいずれの識字力も十分でないシンガポール若年層の急増に直面して、政府は民族アイデンティティの育成より、いずれの民族からも等距離の言語であった英語による社会統合と国際化を優先し、教育を中心とするあらゆる政策が英語を重視する方向に大きく傾いた。一方、国民も、母語とアイデンティティの所在が曖昧であった時に、シンガポール英語という特性のある英語を、シンガポール人としてのアイデンティティを表出、形成させることができる新母語として受容していったといえる。結果的に、一公用語であった英語の地位は他の公用語より高くなり、英語は地域特性を備えながら外国語から国家共通語へと変化していった。シンガポールの多言語使用の様相は、個人レベルと社会レベルの多言語使用を分けて考えなければならないだろう。個々の言語使用における言語の組み合わせは職業、教育レベル、民族、宗教により多様であるが、単なる個人の言語レパートリーによる多言語使用社会ではないからである。国家共通語の機能をもつ「シンガポール英語」は、公的場面で使われる標準変種の「標準シンガポール英語」と、個人的場面で使われる非標準変種の「口語シンガポール英語」の二つの変種からなる。社会的に使い分けされるダイグロシックな状況を形成しており、社会のレパートリーとしてこれら二変種を持つ。梶茂樹(2008)の用語を借りると、個人のレパートリーが使われる様相を「水平的多言語使用」、社会のレパートリーが使い分けられる様相を「垂直的多言語使用」としてシンガポールの言語状況をモデル化できるだろう。このモデルは言語的、社会的変容を示す。ここ数年、パキスタン、フィリピンからの流入があるが、あくまでも短期労働者の扱いであり政府は居住促進をしない。今後、社会階層間の縮小はあっても拡がりは予想されない。華人の頭脳流出とインド系技術者の増加が見られるので、各民族内共通語の変化と国内の変種間の接触に焦点が移っていくだろう。島国の小国家では一方向に傾きやすいので、興味のあるところである。

(大原始子)

<報告2>

言語政策と人間開発-パラグアイにおけるグアラニ語教育を事例として
 パラグアイ共和国では、1992年憲法(現行憲法)第140条により、スペイン語とグアラニ語が公用語と定められた。また同第77条は、初等教育開始時の学習言語として、両公用語のうち、児童生徒の母語が用いられるべきことを定めている。以上の展開措置として、1994年には「バイリンガル教育計画」が開始されている。この計画に基づき、初等教育には教育に使用する言語に応じた3つの様式、すなわちグアラニ語様式・バイリンガル様式・スペイン語様式が導入された。グアラニ語様式はグアラニ語を主体に徐々にスペイン語を導入するもの、バイリンガル様式は最初から両言語を同等に用いるもの、スペイン語様式はスペイン語を主体に徐々にグアラニ語を導入するものである。計画開始当初は、試行錯誤を重ねながらグアラニ語様式による教育が試みられたが、2009年現在では、グアラニ語様式は実質的には消滅している。グアラニ語様式が消滅した理由はいくつか挙げられるが、大きな理由は教育省の不作為だとする見解がある。どの様式を選択するかは、保護者や教員らが話し合い、各学校ごとに決定される。教育省によれば、これは教育コミュニティの自主性を尊重した措置とのことである。報告者は2009年8月に首都アスンシオンにおいてグアラニ語教育に関する聞き取り調査および授業観察を行った。対象はスペイン語様式の小学校2校と中学校1校(中学校では聞き取り調査のみ)であり、授業観察を行った小学校2クラス(6年生と4年生)では、半数以上の児童がグアラニ語を家庭言語の一つとして用いていた。以上の調査からは、グアラニ語教材の不足や不均質な教員養成などが確認された。教育省が教育コミュニティの自主性尊重をうたう一方で、明らかに遅れた状況にあるグアラニ語様式のための教材作成や教員養成について積極的な措置をとってこなかったことが、各教育コミュニティの「自主的な」選択としてのグアラニ語様式の非選択へとつながったと、暫定的ではあるが、判断せざるえない。 2002年の国勢調査によれば、パラグアイ人口の30%弱はグアラニ語モノリンガルであり、多くは都市部以外に居住している。インフラが比較的整備されている都市部の学校ですら上記のような言語教育状況が観察されるとすれば、都市部以外のグアラニ語モノリンガルが多い地域でのそれはより困難なものと強く推定される。 パラグアイにおける初等教育未終了者の高い割合(15%程度と推定)と考え合わせれば、これは言語教育と人間開発の深い関係を示していると言える。しかし、1970年代はじめに見られた、言語計画・言語政策と開発との関係を見極めようとする視点は、現在の社会言語学において主流のテーマとは言えない。また、国際開発や国際協力の分野においても、識字教育を越えて、言語教育そのものを人間開発との関係で把握しようとする姿勢は、いくつかの例外を除けば、まだ十分とは言い難く思われる。 1970年代と比較すれば、多言語状況をめぐる評価が明らかに肯定的なものへと変化した現在、言語政策と人間開発の関係をあらためて検討することが必要と言えるのではないだろうか。 

(塚原信行)

<報告3>

少数言語運動とは何か-個人的体験から
 原氏がフランス・ブルターニュに留学した1980年代は、1970年代の地域主義運動、少数民族運動のうねりを引き継ぐ形で少数言語復興運動が勢いを増しつつあった時代だった。1990年代になると、1992年に欧州少数言語憲章が欧州評議会で採択されるなど、ヨーロッパにおいて少数言語が復権、制度化が始まった。日本でも1990年代後半には多言語主義が社会的に認知されるようになった。 2000年代に入ると、2001年のユネスコにおける「文化多様性に関する世界宣言」の採択など、文化多様性、多言語主義が国際的に認知されるようになり、原氏自身も日本において多言語社会研究会を主宰するほか、言語多様性、多言語主義に関するシンポジウム、あるいは科研プロジェクトを組織した。多言語社会研究会は、沖縄の「うちなあぐち」振興を支援する形で年一度の沖縄研究会を行ってきたが、2003年の「先住民の10年」キャンペーンや2007年の「国際先住民年」、そして国連において2008年が「国際言語年」と宣言されるなどの国際的な動きに呼応する形で、日本においても「うちなあぐち」、アイヌ語の言語復興運動にはずみがついている。 その間、原氏は、ヨーロッパにおける少数言語復興の動きや台湾における先住民言語の復興の動きについても接触を持ち続け、言語復興運動の同時性を強く感じてきた。 今後の研究の可能性としては、言語社会史という方向性、そして少数言語復興運動に資するものとしての少数言語研究、という方向性が考えられるだろう。

(砂野による要約)