多言語状況の比較研究

第5回研究会記録


 

【日時】

2009年11月21日(土)13:00-18:30

【場所】

AA研マルチメディア会議室(304号室)

【報告1】

前田達朗(AA研共同研究員、大阪産業大学非常勤)「どこまでがニホンでどこまでがニホン語か?-奄美大島の人びとの『シマグチ』から考える」概要・報告本体

【コメント】

原聖(AA研共同研究員・女子美術大学)

【報告2】

寺尾智史(AA研共同研究員、神戸大学)「少数言語と教育―他律性が強いイベリアの弱小少数言語を起点に―」概要報告本体

【コメント】

荒井幸康(研究協力者、北海道大学スラブ研究センター)

【報告3】

米田信子(AA研共同研究員、大阪大学世界言語研究センター)「ヨーロッパ発「多言語主義」とアフリカの多言語状況」概要報告本体

【コメント】

佐野直子(AA研共同研究員、名古屋市立大学)

【研究会概要】

 ヨーロッパ的多言語主義は、これまで周辺化されてきた少数言語あるいは「方言」にも「言語」としての社会的認知を与えるとともに、「書記化された言語」として「立ち上げる(アウスバウ)」ということを含意しているが、実は、周辺の周辺に位置し、「立ち上げる」ことが社会的意味を持ち得ないような「言語/方言」があり、そうした「言語/方言」にとっては、ヨーロッパ的多言語主義は言語を序列化するものでもあり得ることが、日本、ヨーロッパ、アフリカという、大きく異なった条件のもとにある国、地域についての三つの報告とそれぞれへのコメントから浮かび上がってきたように思う。

 前田達朗氏の報告では、古くは首里王朝の、17世紀以降は薩摩の支配下で常に辺境に位置してきた奄美のことばが、比較的明確な言語意識と社会的認知を伴うようになった沖縄の「言語」と異なり、その辺境としての位置故に、「言語」として「立ち上げる」ことさえ困難な位置に置かれていることが報告された。県境の存在故に琉球語とは切り離され、鹿児島のことばとの関係ですでに辺境の「方言」として位置づけられる上に、主な出稼ぎ先である阪神地方のことば、そして学校で教えられる日本語との関係で、二重、三重の周辺化を被っている奄美のことばの位置は、奄美の置かれた周辺の周辺としての位置と切り離しがたく結びついているという。原聖氏のコメントでも、沖縄の状況との明らかなコントラストが確認された。

 寺尾智史氏の報告では、ポルトガルのミランダ語とスペインのアラゴン語の事例を通して、やはり周辺化された位置にある「言語/方言」のかかえる困難が紹介され、そうした困難を乗り越える方向性として「ことばのユニバーサル・デザイン」という考え方が提起された。ミランダ語はポルトガルの「言語的多様性」とその「寛容さ」を飾るための手段として立ち上げられ、称揚されたが、「言語」として自らを保全するための十分な資源を持たず、他方のアラゴン語は、自治州の象徴としての位置はあるもののスペイン語の「方言」として吸収される傾向にあるという。寺尾氏は、そうした「言語/方言」が「母語」として生き続けるためには、大言語による寡占に替わるなんらかの共通の補助コミュニケーション手段が考えられなければならないのではないか、と提起している。荒井幸康氏のコメントでは、モンゴル語から切り取られたブリヤート語やルーマニア語からのモルダビア語の切り取りの事例等、旧ソ連における「言語」の「立ち上げ」の事例や、支配言語であるロシア語との関係で周辺化される言語の置かれた位置について、寺尾報告との対比がなされた。

 米田信子氏の報告では、ヨーロッパの多言語主義の動きに連動してアフリカで行われるようになっている母語教育の動きについて、ヨーロッパとはまったく異なる状況にヨーロッパ的前提が持ち込まれることによって、むしろ特定言語の特権化が起こっているのではないか、という指摘がなされた。ヨーロッパの多言語主義は、理念としては自らの望む言語を選択する権利を保障するはずだが、それはすでに公共性を担保する言語が存在することを前提としており、その前提が成り立たないアフリカにおいては、そうした選択の余地はそもそもない。まず選択を可能にする環境が整えられなければならないのではないか、という。佐野直子氏のコメントでは、オクシタン語の事例を通して、ヨーロッパにおいても言語によって置かれた状況が異なり、ヨーロッパにおいて語られる選択の自由は、実は言語の序列化を暗黙の前提にしているのではないか、という指摘がなされた。
(砂野幸稔)
 

【各報告概要】(報告者自身による)

<報告1>

どこまでがニホンでどこからがニホン語か-奄美大島の人びとの『シマグチ』から考える
 沖縄のことばは「琉球方言」であるか、「琉球語」であるかという議論が決着はつかないまでも少なくともおこっている。どちらの表現も見ることができ、ウチナーグチという呼称も流通している。しかし沖縄本島と同じ北琉球「方言」に属するとされる奄美群島のことばについては、この議論から除外されている。それはもちろん言語の系統や類似性の問題ではなく、間に県境があるためで、その両側では「ことば」のあり方が違うのである。奄美の歴史は被征服の歴史である。1609年に薩摩の支配下に入るまでは首里王朝の統治下におかれる。薩摩の植民地化が今の奄美のありようを決定づけたともいえる。サトウキビの単作政策は奄美の人びとの食べ物を奪い、自由な往来を禁じ、一文字姓を与えるなど過酷な身分制度を強いるなど、徹底的な搾取を300年以上続けたのである。その結果最大で人口の4割いたとされる債務奴隷「ヤンチュ」がうまれ、明治維新後も鹿児島が奄美から吸い上げる構造はなんらかわらなかった。昭和の初期まで続いたこの制度的な植民地状況は、大量の出稼ぎを生む。労働力は環流し、その多くが目指したのは、当時最大の工業生産地であった阪神間であった。そしてそこで奄美の人びとは自分たちの言葉が「違う」ものであることを経験するのである。出稼ぎ依存型の社会・経済はこうして作られたのであるが、奄美の人びとが常に訴えてきたのはこういった「飢えの記憶」から逃れるための「日本人であること」であった。その訴えは今もなお続き、その訴えの中の大きな一つの柱が「沖縄とは違う」というものである。こういった歴史的・社会的背景の中で、いわば「奄美性」の象徴とも言える「シマグチ」は沖縄と同様、あるいはそれ以上の激しさをもって奄美人自身の手で、あるいは奄美を蔑むことに疑問を持たない鹿児島人の力で排斥され、打ちのめされた。本土での差別の経験も語り継がれ、「シマグチ」を使わないことこそが生きる道につながると考えられたとしても仕方がないところである。戦後新しくできた「方言」も沖縄とは事情が違う。「ウチナーヤマトゥグチ」が、乱れた方言、汚い標準語として低い評価を受けていたところから、若い世代の母語となり、沖縄の現行の文化のダイナミズムとアイデンティティを支えるものとなっているのと対照的に、いまだ名前もつけられず低い評価しか得られていない。これもまた「奄美はニホンである」という言説に裏付けられた人びとの言語意識の表現型のひとつであろう。形を変えてしまった地域コミュニティは限界ともいえる。そこに息づいていたシマグチはもはや滅びるしかないのであろうか。シマグチの消滅への危機感は遅まきながら人びとに復興の道筋を模索させているが、学校で禁じられ「悪いもの、使っては行けないもの」であることをたたき込まれた親世代にとっては、子どもたちが学校や地域でシマグチを教わることを歓迎だけしているわけではない。そういった継承運動の中でも、「シマ」のちから関係と文化的背景が子どもたちのシマグチの能力と大きく関係しており、「ことば」を維持・回復するためには「ことば」をどうするか(だけ)を考えたところで意味がないことを示している。奄美でおこっていることは周縁であるが故に鮮やかなのであるが、同様のことが「ニホン」の内側では形や程度をかえて今もおこっていることに社会言語学は自覚的であるべきであろう。これまで「遠いところ」の「距離がある方言」ということで型を付けてきたのである。 ひとたび「方言」とされてしまった「ことば」と「言語」である可能性のあるもののたどる道筋の違いが、同じ系統に分類されるふたつの「ことば」のいまに見て取れるのである。

(前田達朗)

<報告2>

少数言語と教育―他律性が強いイベリアの弱小少数言語を起点に―
 イベリア半島では、カタルーニャ語、バスク語をはじめとした、ナショナリズムと連動した地域言語の復興運動が見られる一方、国家言語(スペイン語、ポルトガル語)とこれらの地域言語との狭間に埋れた言語多様性の残滓は、単に見捨てられるか、マジョリティを飾る周縁現象として利用または消費されてきた。本報告では、こうした他律性の強い「弱小少数言語」の事例としてミランダ語(ポルトガル北東部内陸)とアラゴン語(スペイン北東部・ピレネー山脈南麓)の屈折した保全運動史を取り上げ、ここを起点として規模や使用状況において矮小または脆弱な少数言語の継承とそれをつかさどる教育について再考をこころみた。ミランダ語の場合、19世紀末、著名な民俗学者によって「発見」され、ポルトガルという国家の歴史的文脈に沿ってその価値を意味づけされたことによって、それまで嘲笑の対象であった田舎訛りがポルトガルの言語多様性を象徴する存在として利用されていく。一方のアラゴン語は、スペイン(カスティーリャ)語と対置可能な遡源を持ちながらも、スペイン語の言語多様性を内部から飾る言語現象、すなわち<方言>として消費され、言語としての独自性は骨抜きにされてきた。以上の事例で明らかなように、脆弱な少数言語の場合、いずれが確固たる存在として立てられ、いずれが泡沫現象として消化されるかは、他者であり大言語を使いこなすマジョリティの都合によって決定付けられている。独立した存在として認められ、延命の可能性を与えられた小言語であっても、<標準的>もしくは<文化的、歴史的正統>と見なされたもののみが規範として採用され、アルファベットをはじめとした「音体系に準じた文字」を用いて正書法が押し付けられる。それ以外の<変異>、すなわち、集落ごとのミクロなレベルで変容する言語多様性については捨象され、学校など集団教育を用いた継承方法の中では消える運命にある。また、継承にこだわっても国家言語や国際語の立場にある英語のような経済的効果は全く期待できず、富へのアクセスをはじめとした個人の幸福を制限しかねない。こうしたジレンマから抜け出し、他者によって周辺化された母語を自らのものとして再身体化するにはどうすればよいだろうか。その可能性を探る議論に着手するにあたって、こころみに (1)エスペラント、(2) 国際手話、(3) 漢字、以上3つの意思伝達手段を挙げてみた。自分自身の母語が不自由な他者に対して、これらを補助のコミュニケーション手段として使いこなす仕組みづくりができれば、情報アクセス権をはじめとする基本的人権と言語権の共存は可能かもしれない。ただし、その習得や教育にあたって、(1)は音に準じた文字で書かれることから母語の音素・音声に影響しかねないこと、(2)はろう者の言語権を侵害するおそれがあること、(3)はよほど簡略化を進めても読字障碍者にとってアルファベット以上に習得が困難であることなど立ちはだかる難問は多い。しかし、言語多様性が保たれるには、言語継承と並んで「自分のことばの外側」をどう意識し、デザインしてゆくかにかかっている。大言語によるコミュニケーションの寡占が加速度的かつ不可逆的に進む中、その模索を急がねばならないだろう。

(寺尾智史)

<報告3>

ヨーロッパ発「多言語主義」とアフリカの多言語状況-言語を「選択する」ということ-
 「多言語主義」は現在社会において確立された肯定的価値を持つものとして捉えられているように思われる。確かに言語的多様性が尊重されることは望ましいことである。しかしながら,19世紀から言語運動が行われてきたヨーロッパで発展した「多言語主義」が,ヨーロッパ以外の地域においても,はたしてそのまま「肯定的価値」になるのだろうか。とりわけ,多言語主義の実践とも言える「母語教育」や「言語権」は,ヨーロッパとは異なる言語背景の中でも同じ価値を持ち,同様に適用されうるのだろうか。ヨーロッパにおける現在の「多言語主義」の背景には,自分たちの言語を使うことを求めて戦ってきた歴史がある。従って,言語権の基本は「言語を選択できる権利」となるわけだが,そこには選択の対象となる「言語」が存在するという前提がある。そしてそれらの「言語」とは,「書記言語」であり,「公共性を担保する言語」(砂野 2009)である。しかしながらアフリカにはこの前提がない。選択肢としての「言語」,すなわち「公共性を担保する書記言語」が存在することを前提とした「多言語主義」がアフリカに持ち込まれ,人々に「言語を選択できる権利」が与えられたわけである。しかしながら,選択肢となる言語が存在しないアフリカにおいて「選択」できるのは,「使いたい言語」ではなく,「使うしかない言語」である。ヨーロッパとは全く異なる言語背景を持つアフリカにヨーロッパ的「多言語主義」が持ち込まれたことによって,言語の多様性が見直されるようになったというよりもむしろ,本来ならば「多言語主義」とは相対するはずの「特定言語の特権化」や「言語格差」が以前にもまして明確になったように思われる。多言語主義の実践として母語教育が推奨されればされるほど,書記言語とそうでない言語との言語格差が広がるのは皮肉なことである。アフリカの「多言語状況 (multilingualism)」は,ヨーロッパのそれとは全く異なる。その中でヨーロッパ的「多言語主義(multilingualism)」がどのような形で実践され,言語権がどのように適用されていくべきかということは極めて重要な課題であり,十分に議論されるべきところであろう。

(米田信子)