多言語状況の比較研究

第4回研究会記録


 

【日時】

2009年7月11日(土)13:00-18:30

【場所】

AA研マルチメディア会議室(304号室)

【報告1】

森山幹弘(AA研共同研究員・南山大学)「多言語社会インドネシア:国語政策と「地方語」の位相−スンダ語を事例として」概要報告本体

【報告2】

原真由子(AA研共同研究員・大阪大学世界言語研究センター)「バリ語−インドネシア語のコード混在と敬語使用の相互作用」概要報告本体

【報告1・2へのコメント】

内海淳子(研究協力者・明星大学)

【報告3】

木村護郎(AA研共同研究員・上智大学)「日本における「言語権」の受容と展開」概要報告本体

【コメント】

渋谷謙次郎(AA研共同研究員・神戸大学)

【研究会概要】

 インドネシアに関する森山氏と原氏の二件の報告と、実質的にはもう一件の報告と言っていい内容をもったそれら二件に対する内海氏のコメントは、インドネシアの多言語状況の重層的か地域偏差の大きい複雑な構図を立体的に浮かび上がらせてくれた。
 インドネシアでは、脱植民地化の過程で国家の言語として整備されたインドネシア語が、スハルト体制下では国家の公的な場面を支配し、地方語は基本的には公的な場からは排除されてきたが、森山氏は、両者の関係が、強権的なスハルト体制の終演後、変容しつつあることを、氏が研究するスンダ語の復権と振興の動きを紹介しつつ指摘した。ただ、それはインドネシア語の優位とその拡大を脅かすような動きではないこと、また、スンダ語は、長い書記伝統を持ち、3000万を超える話者を持つ大言語であり、そうした動きがインドネシアの他のすべての地方語に共通するものではないことも、同時に指摘している。
 原氏の報告は、インドネシア語とジャワ語の二言語使用状況について、二言語の混在が、それぞれの言語の背負う社会的背景とそれらが重なり合う現在の社会状況を、ある意味で象徴的に示す言語使用のあり方を生み出していることを、観察調査に基づいて示した。平民、貴族という伝統的な社会階層の差異に基づく敬語体系の存在するジャワ語と、それとは異なった近代社会における職業生活の言語であるインドネシア語が、ジャワ社会の身分関係と近代的身分関係の矛盾がもたらす緊張を緩和するために使いわけられているのであろう。
 内海氏のコメントは、インドネシア東部辺境に位置する北スラウェシ州のバンティク語などの例をあげ、話者がほとんど自らの第一言語についての自意識を持たず、自らを取り巻く社会経済関係が生み出す必要に応じて優勢言語に乗り換えていく少数言語の状況を紹介し、スンダ語やジャワ語のような大言語とはまったく異なる言語状況も存在することを指摘した。
 木村氏の報告は、日本における「言語権」概念の受容とその概念を用いた現実への介入の歴史を総括し、それがこれまで日本における単一言語主義的言語編成への批判概念として用いられ、多数者に排除される少数者の権利回復のための実践概念としてもいくつかの場で用いられてきたことを紹介した。その上で、ヨーロッパ等では、当初の素朴な言語権概念が実践のなかでさまざまな矛盾と出会い、それらを意識したものとしてある程度鍛え直されてきているのに対して、日本では、まだこの概念がもたらし得る諸矛盾については十分意識されるようになってはいないのではないかという指摘がなされた。
 渋谷氏のコメントは、言語権という概念が日本においてなかなか定着せず、まだ議論のスタート地点にあるひとつの大きな理由は、やはりそれが日本ではまだ不可視の存在にとどまっている少数者の問題としてしか意識されていないからであろう、少しずつ、認識の場を広げていく努力を続けるしかない、というものだった。

(砂野幸稔)

【各報告概要】(報告者自身による)

<報告1>

多言語社会インドネシア:国語政策と「地方語」の位相−スンダ語を事例として
 インドネシアは1945年に独立を宣言し、民族主義のシンボルであったインドネシア語を国語として成立した国民国家である。その国土には500を超える言語が存在し、そのうち14の言語は話者人口が100万人を越える。日常生活では、多くの人々が、最初に習得する民族集団の言語と小学校で学ぶ国語のバイリンガルである。独立以前のオランダ植民地時代には、宗主国言語のオランダ語が行政言語として使用され、長期にわたってコミュニケーション言語であったムラユ語が植民者と被植民者の間で広大な領域において補完的に使用されるとともに、その下には民族言語が現地の人々によって話されていた。そこでは一種の言語ヒエラルキーが形成され、民族言語と文化が育成されていた。一方、民族主義者たちによって1920年代ごろから、ムラユ語が来るべき独立国家の国語としてインドネシア語と名づけられ、彼らの間のコミュニケーションの言語としての発展を見ていた。インドネシア語を独立後の国語として支持した日本軍政期を経て、1945年の独立から初代スカルノ大統領時代には政治的な国民統合の手段として、次いでスハルト大統領時代には開発と経済発展を目指し国家の安定を最優先する抑圧的な政治体制の下、国語インドネシアのいっそうの普及とともに民族語(インドネシアでは「地方語」と呼ぶ)の脱政治化が図られた。それによって植民地時代の言語ヒエラルキーは一掃され、パブリック・スペースにおいては国民語であり公用語・共通語として地位を不動としたインドネシア語が使われ、地方語はもっぱらプライベート・スペースでのみ使用されるという明瞭なデマケーションが見られるようになった。歴史的に長い書記言語の伝統をもっていた地方語の多くは、書かれ読まれることが限られるようになり、話し言葉としてのみ使用されるようになっていった。一方、民衆の識字率はローマ字表記のインドネシア語教育の徹底とともに上昇し、多くの国民はこのような二言語使用状況におよそ50年間置かれた。その言語状況が変化の兆しを見せるのが、1998年のスハルト政権の崩壊とそれに続く民主化の進展の時期であった。地方分権化が進むと共に、地方政府の自治権が強くなり、それは文化や言語使用についても立法の形をとって現れた。例えば、西ジャワ州では州条例によってスンダ語、その文学、文字の保護・育成が政治課題とされた。それにともない、教育においてもスンダ語が必修科目として幼稚園から高校までのすべての学校で教えられるようになった。社会においても、自治権の拡大とともに地方(西ジャワでは大多数のスンダ人)独自のアイデンティティの模索が始まり、テレビやラジオでのスンダ語放送の拡大、雑誌の刊行、文学作品の出版などという形で目に見えるようになった。それらの動きは分権化と地方自治の進展だけがその引き金となったわけではなく、抑圧的なスハルト体制の自由の拡大とも結びついていた。しかしながら、この西ジャワにおける地方語スンダ語の尊重とその使用拡大の動きは、広大で多様なインドネシアのすべての地域で同様に見られるものでなないことに注意する必要がある。むしろスンダ語使用地域のように明瞭な変化が見られる地域が例外といえるのかもしれない。その点については、コメンテーターの内海淳子氏によって報告された北スラウェシの事例が良い例であった。中央集権体制から地方分権への動きが進むことが、インドネシアの地方の自治権を強めていくことについては政治的な文脈で肯定的に議論できるかもしれないが、そのことが地方語の使用の拡大に直接的に結びついていくものであるかは慎重に見守っていく必要があろう。およそ半世紀にわたって強力に推進されてきたインドネシア語を国民統合および経済発展の旗印かつ拠り所としてきた言語政策によって創り上げられてきたインドネシアの言語使用状況が、突然に変わるとは考えにくい。教育制度、経済的な利害との関係の中で地方語が重要な役割を果たすようにならなければ、既存のインドネシア語の圧倒的な有利な流れを変えることにはならないのではないか。
(森山幹弘)

<報告2>

バリ語−インドネシア語のコード混在と敬語使用の相互作用
 インドネシア・バリでは、インドネシアの他の地域と同様に、国語と地方語の2言語使用がなされている。すなわち、バリ社会においては国語であるインドネシア語と地方語であるバリ語の2言語使用が認められる。バリの人々の大多数は自然と身に付けた母語バリ語を日常生活で主に用いながら、学校教育を通して学ぶインドネシア語をバリ語と同様の流暢さをもって話すようになる。そのような意味で、バリは、第1言語=バリ語、第2言語=インドネシア語である話者タイプが大多数を占める社会と言える。バリ言語社会では、バリ語とインドネシア語の言語使用領域による使い分けが大まかには認められるものの、領域を越えて言語単位(会話、ターン、文、節、句、語など)の内部で2言語の要素が混在する現象が頻繁に観察される。
 本発表は、そのようなバリ人の会話に日常的に頻繁に観察されるバリ語—インドネシア語コード混在(BIコード混在)の現象に、語彙構造の観点からアプローチしたものである。つまり、バリ語には存在するがインドネシア語には存在しない敬語語彙体系に注目しながら、会話事例に基づいてBIコード混在の現象を考察した。
 BIコード混在のメカニズムとして発展的に次のように解釈した。
(1)話者の間には、二重の身分関係がある。つまり、伝統的な社会階層であるカーストの側面では差があり、反対に新しい社会階層(職業)の側面では平民層が貴族層にくらべて上位あるいは同等である。
(2)現在、平民層が敬語類を用い、貴族層が普通語類を用いる従来の「規範型」から次の新しい規範への敬語使用の変化がみられる。すなわち、平民層と貴族層が互いに敬語類を用いる「尊敬方向への拡張型」あるいは互いに普通語類を用いる「親密方向への拡張型」への移行である。その際、拡張型が尊敬方向でも親密方向でも規範型と異なる敬語語彙クラスを選択する話者がインドネシア語を選択する。
(3)インドネシア語選択の理由は、敬語語彙クラスを交替した話者が、規範の拡張が行き過ぎていると感じ、拡張を規範の方向にやや引き戻すためである。その手段として、敬語的に中立であるインドネシア語を選択した。

(原真由子)

<報告3>

日本における「言語権」の受容と展開
 人権論として一見普遍的な装いをもつ言語権は、ヨーロッパのようにある程度言語が分類・命名され、かつ少数言語にも書記化の伝統がみられるような地域においてとりわけ発展してきた。言語権の内容や適用可能性は国や地域によって異なると考えるのが妥当だろう。本報告では、「言語権」が明示的に言及されるばあいに焦点を絞って、言語権という考え方が日本で誰によってどのように受け入れられ、どのような文脈に適用されてどのような影響を及ぼしてきたかを考察したうえで、日本の文脈において言語権という観点のもつ意義や限界、また今後の課題を検討した。日本において現在につながる学術的な言語権論は、1970年代以降、当初は欧米における言語権論の紹介として導入された。日本を視野に入れた議論が進むのは主に1990年代以降である。とりわけ2000年前後から、言語権を扱う論文が急増している。直接の当事者および関係者による具体的な日本の言語事情への適用は、アイヌ語や琉球語などの、旧来の少数言語に関して散発的にみられるが、「言語権」がより議論されてきたのはむしろ新渡来者についてである。背景には、移住者の基本的な人権を保障するうえで言語がかなめとなるという認識があると考えられる。一方、はじめて言語権を直接の根拠にした法的な取り組み(「ろう児の人権救済申し立て」2003年)がみられたのは日本手話に関してであることは日本における言語権受容の特徴といえよう。これらの言語的な少数者の言語権と一見、別次元にみえるのが、「英語支配」を非英語母語話者の権利侵害ととらえる言語権論である。しかし日本における英語の特権的地位が少数言語の抑圧と表裏一体であるという指摘もなされている。日本の文脈において、言語権論は、日本が言語的に均質であるという幻想への異論、また日本語と英語の組み合わせによる「二重の単一言語主義」(三浦信孝)への異議申し立ての表出として位置づけられる。日本における言語権の意義としては、言語問題の所在を明らかにするとともにその諸側面を関連づけて考察する枠組みを提供することがあげられる。しかし言語権を実際に適用することにはさまざまな問題が指摘されている。そのなかでも根本的なものはこれまでの言語権論に少なからず内包されてきた「本質主義」の問題である。分類・命名された特定の言語に特定の地位を与えるという意味での典型的な言語権は、どの言語変種に地位を与えるのかという政治的な問題に直面せざるをえない。また多数派の同意がなければ成立しないなど、権利論がもつ限界も指摘されている。これらの問題点をみすえることが、今後の言語権論の前提だろう。

(木村護郎)