多言語状況の比較研究

第1回研究会記録


 

【日時】

2008年7月5日(土)13:30-18:30

【場所】

AA研大会議室(303号室)

【報告1】

砂野幸稔(主査・AA研共同研究員・熊本県立大学)「プロジェクトの趣旨説明および問題提起」概要報告本体

【報告2】

佐野直子(AA研共同研究員・名古屋市立大学)「ヨーロッパにおける『多言語主義』と少数言語」概要報告本体

【コメント】

木村護郎クリストフ(AA研共同研究員・上智大学)

【報告3】

渋谷謙次郎(AA研共同研究員・神戸大学大学院)「言語権とは何か:法学者の問題提起」概要報告本体

【コメント】

塚原信行(AA研共同研究員・愛知県立大学非常勤)

【討論】

全員「プロジェクトの進め方について」

【研究会概要】

 本研究プロジェクトの発足にあたって主査の砂野よりプロジェクトの趣旨説明を行い、主にヨーロッパにおいて論じられている「多言語主義」および「言語権」という考え方について、それがアジア、アフリカ等の多言語社会においてどのような意味を持ち得るのかという問いを最初の問題意識として提起した。佐野直子氏からは、ヨーロッパにおいて論じられている「多言語主義」について、その歴史と実態が論じられ、渋谷謙次郎氏からは、「言語権」という新しい人権概念についてどう考えるかが提起された。佐野直子氏の発表へのコメントとして、木村護郎クリストフ氏から、ヨーロッパの「多言語主義」もさまざまな問題や曖昧さを抱えており、アフリカ等において指摘される「曖昧な多言語主義」あるいは「ミニ言語ナショナリズム」などという言葉はヨーロッパにおいても同様に見られるものであり、アジア、アフリカの状況との対比をさらに進めて行く必要があるとの指摘があった。また、渋谷謙次郎氏の発表へのコメントとして、塚原信行氏から、言語権については、集団的権利なのか個人の権利なのかという問題と、普遍的な権利なのか文脈的(歴史的)な権利なのかという問題があり、個別の状況について論じる際にはそれらを整理して見ていく必要があるという指摘があった。

(砂野幸稔)

【各報告概要】(報告者自身による)

<報告1>

「多言語主義(multilingualism)」と「多言語状況(multilingualism)」
 1980年代から90年代にかけて、ナショナリズム、国民国家が批判の対象として議論されるようになるのと並行して、多文化主義、多言語主義(multilingualism)が論じられるようになった。しかし多くの場合、そうした議論が前提としていたのは、基本的にはそれぞれの国家の中で公共性を担保する言語がすでに存在する状況であり、公共性を担保するべき言語が満足に機能しない中で、多言語間の重層的な関係が存在しているアジア、アフリカ、とりわけアフリカ諸国の多言語状況(multilingualism)は十分視野の中に入っていなかった。多言語主義(multilingualism)をめぐる政策的議論の前提となる多言語状況(multilingualism)についての理解は一面的、ないしは浅い水準にとどまっていたのである。本研究プロジェクトは、多言語主義をめぐる議論を生み出したヨーロッパ等の状況と、アジア、アフリカのさまざまな多言語社会の状況を比較検討することで、多言語状況(multilingualism)についての総合的な理解を目指すとともに、言語的多様性と公共空間の形成がどのようにして両立し得るのか、その歴史的社会的諸条件をさぐろうとするものである。 ヨーロッパで現れた言語権をめぐる議論や、少数言語憲章が引き起こした諸問題、各国の言語法とそれによって作り出されている状況、旧ソ連の民族言語政策と旧ソ連解体後の状況の推移等々は、一方でアジア、アフリカの言語問題を考える際のひとつの手がかりともなるであろうし、逆にインドの多言語政策やアフリカの重層的な多言語状況と公用語のヨーロッパ語の関係は、ヨーロッパの状況の特殊性を逆照射することになるだろう。 言語問題をめぐる個別の研究者による取り組みは、使用言語の問題や歴史的社会的背景についての基本理解のための最低限の知識の必要から、基本的に一国ないしは一地域を対象としたものになりがちである。文献を通じてある程度他地域の状況についての知識を得ることも可能であるとはいえ、異なった視点を獲得することを常に可能にしてくれるわけではない。共同研究という形をとることによって、個々の研究者が自らが研究対象としている国や地域からあらわれてくる問題を、別地域の研究者の視点に導かれてまったく異なった角度から再照射することによって、より多角的な視点から再検討し、さらには総合的な視点を獲得することを目指したい。まず第一回の研究会では、ヨーロッパの「多言語主義」と「言語権」という考え方について検討してみたい。

(砂野幸稔) 

<報告2>

ヨーロッパにおける『多言語主義』と少数言語
 ヨーロッパにおいては、自分たちの住む世界にさまざまなことばがあることが、非常に古くから認識されてきた。しかし、その多様な言語の配置(エコロジー)や交換(エコノミー)は、歴史の中で大きく変化している。フランスの社会言語学者バッジオーニによれば、この「エコ言語的」状況の大きな変化(エコ言語革命)が起きたのは、まずは活版印刷術のヨーロッパにおける普及とそれに伴う数々の「俗語」の書記化がおこった15-16 世紀であり、ついで「国民国家」という政治単位の誕生とその普及に伴う「国語」が次々に誕生した18-19 世紀であった。 特にヨーロッパ近代に起こった「第二次エコ言語革命」において、ヨーロッパは、書記化・規格化した諸言語を地理的に排他的に配置し、単一言語話者(=国民)に単一言語使用にもとづく一義的な政治的権利を与えるような国民国家社会を構築するという、特殊な「多言語」社会を形成してきた。そしてそれゆえに、ヨーロッパにおいても珍しくなかった同一領域内における多言語使用、個々の話者の多言語使用という「多言語状況」は徹底して抑圧された。 しかし第二次世界大戦後、ヨーロッパに「少数言語」というあらたなカテゴリーが誕生した。それは、分裂した書記法、「国語」と共存する不明瞭な言語領域、話者の二言語能力を前提とした言語使用、政治的権利から分離され階層化された「言語権」の付与という、従来の言語観から逸脱した言語のあり方を特徴としている。このような新しい「エコ言語的」状況の変化に対して、1990年代以降、ヨーロッパでは「言語的多様性の尊重」を根幹とし、「諸国語の平等」「市民の多言語能力育成」「少数言語の保護」を柱とした「多言語主義」政策を進めている。 しかし、この「ヨーロッパ多言語主義」政策は、言語の規格化・領域性・平等性といった従来の言語観そのものの変容をせまる現在のヨーロッパの「多言語状況」に歯止めをかけようとするのが目的であるようにも感じられる。そしてヨーロッパの「多言語主義」は、自らの政策によって引き起こされている「国語」と「少数言語」に厳密に分割された市場の中で起きている諸言語の徹底した階層化という状況に、十分に有効な手だてを打ち出せていないのではないだろうか。

(佐野直子) 

<報告3>

言語権とは何か:法学者の問題提起
 言語権の性質を考えるにあたって、環境倫理的視点から示唆を得ることは可能であろうか。環境倫理的視点からの急進的理論の中には、「自然の権利」や「動物の権利」のように、乱開発などから生態系を守るために、環境関連の訴訟において、利害関係住民のみならず動植物に原告適格を認めよといった議論もある。同様な意味で任意の言語に権利の主体性を想定することは困難であり、言語は、動植物などの生態系とは異なる財である。しかし他方で人間が良好な環境を求めるのと同様な意味でに、良好な言語的環境を想定することは可能であり、生態系を破壊する何らかの経済的、政治的な力があるのと同様、少数言語などを衰退させるような何らかの権力作用を想定することもできる。また地域の環境を守ろうとする営みと、少数言語を守ろうとする営みに関しても、利害関係を有する共同体や集団の役割が大きいという共通点もある。 このように考えてくると、言語権は、集団・共同体の権利として観念されることもあろう。しかし、ここでの主眼は、言語権の主体が、もっぱら集団や共同体であることを強調することではない。というのも、国際人権法や諸国憲法は個人の人権に重きを置いており、そこから言語権を演繹することが、実践的見地からも重要である。そのうえで、良好な言語環境を求める何らかの共同的作用を考えていくことが生産的である。国連の「市民的・政治的権利に関する国際規約」(B規約)の第27条も、少数民族に属する個人の権利を規定しつつ、当該集団のメンバーの結びつきを重視しており、個人と集団は、必ずしも対立関係にあるわけではない。 言語権を考えるにあたっては、それを単に新奇な権利として理解するのみならず、近代的な人権や現代的な環境権などの議論の成果を摂取したうえで、個人および集団の尊厳や幸福追求との関連でとらえ返していくことが生産的だろう。

(渋谷謙次郎)