陽子がスピンを持つということは、陽子が「自転」している事を意味する。円電流が磁気モーメントを生むので、陽子がスピンをもつということは、陽子が磁石としての性質を持つ事を意味する。陽子のスピンを揃える、つまり微小な陽子磁石の向きを揃えるためには、陽子を強磁場中におく必要がある。
単に磁場中に置くだけではスピンを十分に偏らせる事ができない。磁石の強さは熱とともに変化するが、冷やすほうが磁化は強くなる。スピンも同様で陽子を十分に冷やすことで偏り具合(偏極度)が向上する。量子論の言葉で言えば、ゼーマン分離したエネルギー準位の専有数はボルツマン分布に従うが、系の温度によってその偏りは大きくなる。
ところが陽子の磁気モーメントはあまりにも小さく、2.5 T の磁場の下、温度を 1 K に冷やしても陽子のスピン偏極度はたった 0.25 % にすぎない。仮に1000個の陽子があるとすると、右回り・左回りしている陽子の数はほとんど同じでその差はたかだか3個弱という事になる。
陽子の偏極度を劇的に向上する技術が 動的核偏極 (Dynamic Nuclear Polarization: DNP)である。
陽子に比べて電子の磁気モーメントは 2000 倍大きい。同じ磁場・温度の条件で電子はほぼ 100 % 偏極する。そこで電子の偏極度を陽子に「移す」。外部から電磁波を照射して電子のスピンを無理やり反転させる(電子スピン共鳴)。その時に電子は周りの陽子を巻き込み、そのスピンを反転させる。
偏極度が高いということは、スピンの向きがもとに戻るのも速い事を意味する。電子のスピンはすぐさま元の状態にもどるが、陽子のスピンは電子よりも1000倍ゆっくりと戻る。陽子スピンがもとに戻る前に、電子スピンを何度も反転させ陽子スピンを揃える。
DNPを実現するには、高磁場(2.5 T)・極低温(< 1 K)に加えて、偏極物質中に不対電子(対になっていない電子スピン)と電子スピンを反転させる電磁波(マイクロ波、70 GHz)が必要となる。
かつて散乱実験に使用していた常伝導磁石と希釈冷凍機を利用した偏極システム。He-3とHe-4の混合液による希釈冷凍法により0.5 K 以下極低温を実現します。
設置場所:理学部偏極ターゲット実験室
二重ガラスデュワーによる液体He-4冷却器による偏極システムです。真空排気により 1.3 K まで試料を冷却できます。
設置場所:理学部超偏極実験室(A105)
上記二種類の偏極標的開発システムを活用し、偏極標的開発を行います。二つのシステムの違いは冷却器にあります。希釈冷凍器は到達温度が 0.5 K 以下とより低い反面システムが複雑・大型になり、使用する液体ヘリウムも大量になりコスト面で不利になります。ガラスデュワーによる冷却器は到達温度が1.5 K と高いものの、極めて簡易な構造とヘリウム消費量も抑えることができます。
様々な試料の偏極可能性を探るにはガラスデュワーを利用し、特定の試料の偏極性能評価には希釈冷凍器を利用するなど、目的におうじてシステムを切り替えながら研究をすすめます。
CERNで行っているCOMPASS実験の擁する偏極核子標的システムは世界最大規模を誇る。標的試料は全長 2 m 程度になり、試料全体を巨大な希釈冷凍機によって 50 mK まで冷却する。2.5 T 超伝導磁石と 70 GHz のマイクロ波を用いて動的核偏極を行い、陽子偏極度(90%)、重陽子偏極度(50%)を実現している。山形大から研究者が常駐し運転・偏極度解析を遂行している。
大阪大学 核物理研究センター(RCNP)にも偏極標的システムがあります。他大学の研究者との共同研究も行っています。
偏極物質中に不対電子を混入させるにはいくつかの方法がある。これまで使われてきた方法はどれも何かしらの制約があり、試料に使用できる物質は限られていた。その制約を事実上とりのぞくために、新しい手法を開発している。これまでの方法では基本的に不対電子を偏極物質内に均等に混入させる。不対電子間の距離は 1μm 以下。
逆転の発想で、1 μm 以下の距離で均等に分布している不対電子の間に偏極物質を配置できればよいのではないか?ということで、偏極させたい物質を数十 nm の大きさに粉砕し、不対電子を予め溶かしておいた溶液に混入させる。
80 nm 程度に粉砕した LaF3 微粒子を 不対電子を含むTEMPO-エタノール溶液に混ぜた。動的核偏極により F-19 の偏極度が増大する事を確認している(D. Miura, T. Iwata∗, D. Kaneko, Y. Miyachi, G. Nukazuka, and H. Wauke, Prog. Theor. Exp. Phys. 2019, 033D01 )。偏極条件の最適化や他の試料への応用に取り組んでいる。