多元化するゲーム文化と社会/序章

このページでは、『多元化するゲーム文化と社会』(松井 広志井口 貴紀大石 真澄秦 美香子 編, ニューゲームズオーダー刊, 2019)の序章を公開しています。

電子書籍版:Amazon (Kindle), Gumroad (PDF + EPUB), BOOTH (PDF + EPUB) で販売 / 2000円+税 / ISBN978-4-908124-29-7

冊子版:3000円+税 / ISBN978-4-908124-30-3

《2019年5月25日発売予定》

※5/18、下記のイベントにて冊子版『多元化するゲーム文化と社会』の先行販売を行います。

序章 多元化するゲーム文化と社会

松井広志・井口貴紀・大石真澄・秦美香子


本書は、著者らが2015年7月より企画・運営してきた「多元化するゲーム文化研究会」(*1)の成果をもとにしながら、独立した論文集としてまとめたものである。序章では、本書のねらいと各章の概要を説明しておきたい。


【*1 多元化するゲーム文化研究会は、2015年の初頭から何度か会議(プレ研究会)を重ねて、同年9月に第1回の公開研究会を開催した。2018年9月現在、第8回まで開催している。】

複数の学問分野で行われてきたゲームについての研究は、ゲーム開発に関わる情報学・工学的研究、ゲーム産業やマーケティングに関わる経済学・経営学的研究、ゲームの青少年の発達への影響に関する教育学・心理学的研究、物語論の立場からフィクションとしてのゲームを扱う文学的研究、遊びや余暇との関わりから文化としてのゲームを扱う社会学的研究などに分類できるだろう。これらは、各学問分野の関心から、そこで蓄積されてきた理論と方法を、新たな対象としてのゲーム、特にビデオゲーム(*2)に応用する諸研究であった。それゆえ、実は最近まで、「ゲーム研究」という研究領域や包括的な「ゲーム論」は存在しなかった(*3)。


【*2 「ビデオゲーム」は、ディスプレイとデジタル技術を用いたゲームであり、和製英語では「テレビゲーム」と呼ばれる対象をさす。また、「デジタルゲーム」もほぼ同じ意味をもつ。対照語は、ボードゲームや会話型ロールプレイングゲーム(TRPG)などの「アナログゲーム」となる。】【*3 例えば、谷岡一郎は2000年代初めの時点で、「実を言えば「ゲーム論」などという学問はあるのかないのか分からないが、ゲームを数理的、心理的、(大衆)文化的に研究し、その発展・進化・伝播を考える学問」(谷岡 2003:20)であると述べている。】

しかし1990年代以降、ゲームに固有の構造を明らかにするルドロジー ludology を理論的基礎としたゲーム研究が盛んになってきている。ルドロジーは、従来の物語中心的なナラトロジー narratology との区別を念頭においた概念で、ルールやプレイヤー、フィクション世界の存在といった(*4)「ゲームに特有の性質」を重視する。ルドロジーの主な担い手はゲームデザインや哲学・美学(感性学)を出自とする研究者だが、より広範囲の人文学領域を巻き込むかたちで展開されてきた。こうして成立したのが、現在の欧米における「ゲームスタディーズ Game Studies」だ。ゲームスタディーズは、ルドロジー的な視点を前提にしつつ、その他の領域におけるゲームの研究を組み込むかたちで発展してきた固有の学問分野である。その内容面に関しては、欧米の代表的な著作であるケイティ・サレンとエリック・ジマーマン(Salen and Zimmerman 2004=2011,2013)やイェスパー・ユール(Juul 2005=2016)に見られるように、「ゲーム概念の整理と理論化」や「ゲーム論の体系性」が特徴だ。さらに、2000年代以降、ゲームスタディーズは学術上の制度化が進んでいる。


【*4 現代的なゲーム研究におけるルドロジーの概念は、1999年にゲームデザイナーのゴンザロ・フラスカ(Frasca 1999)によって提唱された。なお、その発想はヨハン・ホイジンガ(Huizinga 1938=1973)やロジェ・カイヨワ(Caillois 1958=1973)の議論を起源としている。】

では、こうしたゲームスタディーズの諸研究と比べると、本書の特色はどのようなところにあるのだろうか。このことに関しては、次項から論じていきたい。

なお、本節の流れは以下の通りである。まず、本書タイトルに含まれている「多元化するゲーム文化 pluralistic game culture」の意味を明確化することを通して、既存のゲームスタディーズと比べた際の本書の特徴を示していく。

続く1〜4節は、本書の第Ⅰ〜Ⅳ部の背景と主旨をそれぞれの部の編者が述べたパートになっている。まず1節では、井口がゲームの社会学的な実証研究をレビューしたうえで、第Ⅰ部に含まれる論文の概要を紹介する。次に2節では、大石がゲームに関するエスノメソドロジーや会話分析の動向をふまえて、第Ⅱ部の各章の概要を記す。さらに3節では、秦がゲームをめぐるジェンダーやセクシュアリティといった論点からの研究を概観したうえで、第Ⅲ部各章の内容を述べる。最後に4節では、松井がゲームスタディーズと社会学やメディア研究との関係を確認したうえで、第Ⅳ部の内容を記す。そこから、後の研究課題を示していきたい。

■ゲームメディア自体の複合性

本書のねらいを示すためには、タイトルにある「多元化するゲーム文化」の含意を明確にしておく必要があるだろう。本書のいう「多元化」あるいは「多元性」は3つの意味をもっている。

第一に、ゲーム自体の「複合性」である。そもそも、あるメディア(より正確にいうと、個々の medium)はそれぞれ固有の媒介性をもっており、それらの集合である複数形のメディア media が私たちを取り巻く環境となっている。こうした考え方に基づくと、ゲームもまた、特定の媒介性と物質性をもつメディウムが複合的に組み合わさって成立していると考えられる。

例えば、筆者の一人である松井は、会話型ロールプレイングゲーム(TRPG)について、この「複合性」という視点から分析を行ったことがある。TRPGは、ゲームマスターとプレイヤーの直接的対面、「弱い紐帯」の知り合い、クリエーター側の構造的な役割といった「人」、ルールブックやサイコロ・筆記用具などの道具、キャラクターの質感を高めるフィギュア、虚構世界の想像力を補助する読み物といった「モノ」、会場や建物、部屋や机といった「場所」のどの位相が欠けても成立しづらい「複合的メディア mixed media」なのである(松井 2018)。

ここでの複合的メディアという言い方は、美術における「混合技法」(ミックスドメディア)と同じ語でありつつも、メディア研究として固有の意味をもつ概念として用いている。美術用語としてのミックスドメディアは、複数の媒体を組み合わせることで、単体の技法ではできなった表現が可能になる。その類比で考えると、複合的メディアは、単体でもある種の媒体として機能している人・モノ・場所が複合することで、単独ではなしえなかった(単独とは異なる)媒介性をもつメディアとなることを意味する。

こうした複合性は、TRPGだけでなく、他のゲームでも重要な論点になる。人・モノ・場所が不可欠なアナログゲームだけでなく、デジタルゲームにおいても同様である。例えば、コンシューマー用ゲームを考えても、ゲーム機(本体)だけでなく、テレビ(ディスプレイ)や電源がプレイには必要である。また、通常のコントローラーに加えて、専用の周辺機器がないと成立しないゲームも多い。さらには、(より効果的に、あるいはより楽しくプレイするために)サードパーティ製のコントローラーなどを活用する場合もあるだろう。

このような、人とモノをある種等価なアクター(行為者)とみなして、そのネットワークや組み合わせで社会現象を捉えるのは、アクターネットワーク理論(ANT)に示唆された考え方だ。こうしたネットワーク化されたハイブリッドな「複合性」が、本書の多元性の意味のひとつである。すなわち、その場合の「多元化するゲーム」とは、①「さまざまな人・モノがネットワーク化・バイブリッド化して形成されている複合的メディアとしてのゲーム」ということになる。


■ゲームのメディアミックスな横断性

第二に、デジタルとアナログをまたぐ「横断性 transversality」だ。これは、2次元と3次元にわたって展開されるような、ゲームの(文字通りの)多元性でもある。

ゲームスタディーズの代表的論者であるイェスパー・ユールは、ゲームが「現実のルールreal rules」と「虚構世界 fictional world」の二層構造からなる、と捉える。ユールによると、伝統的な非電子ゲーム(アナログゲーム)のほとんどがルールのみから成り立つ抽象的ゲームであるのに対し、ビデオゲームはさまざまな具象的な世界観やストーリーである「虚構世界」を(ルールに加えて)もつ(Juul 2005=2016:9-10)。また、ルールの内実についても「創発型ゲーム」と「進行型ゲーム」という概念で区別される。創発型ゲームは、ルールが少数しかないが繰り返しプレイするタイプで、アナログゲームの多くはこの創発型ゲームに属する。一方、進行型ゲームは、ビデオゲームで確立した一度きりクリア型であり、映画のようにゲームデザイナーが出来事の順序をコントロールできる特性を有している(ibid.:102)。

このように、これまでのゲームスタディーズでは、デジタルゲームとアナログゲームを峻別し、それぞれの性質をまず定義してから議論を進めていくことで、理論枠組を構成してきた。また、これは欧米のゲームスタディーズだけではなく、日本のゲーム研究においても同様の傾向が見られる(*5)。


【*5 例えば、『デジタルゲームの教科書』では、「ボードゲーム」についての章が設けられているが、そこではボードゲームとデジタルゲームの差異の一つに「明示性」があると論じられている。ボードゲームの場合、プレイヤーは同時にルール実行者でもあり、あらゆるルールはプレイヤーに対して明示的に示されている。だが、デジタルゲームにおいては、ルールの実行者はコンピューターの中のプログラムであり、そのなかには、ユーザーに開示されないルールが含まれるため、プレイヤーとルールの実行者は異なる(デジタルゲームの教科書制作委員会 2010:325-326)。】

それに対して本書は、アナログゲームとデジタルゲームの違いを本質的なものだとは見なさない。実際のゲームは、アナログとデジタルを越境した多様なメディア環境のなかで存在している。こうした現象は「トランスメディア」としても議論されてきたが、特に日本の文脈が重視されるのが「メディアミックス」論の考え方だ。マーク・スタインバーグによれば、メディアミックスとは、「ある特定のキャラクターや物語や世界観を中心とするメディア上のモノや要素のシステム」や「メディアの周辺に構築された社会的関係のネットワーク」である(Steinberg 2012=2015:35)。

実際、現代日本では、あるビデオゲームの物語やキャラクターが、その作品内のみで独立していることはほとんどない。多くの場合には、アニメ、マンガ、映画、雑誌、ウェブサイトやSNSなどのネットメディア、さらには食玩やフィギュアとも連動しつつ、その世界観を成立させている。もちろん、ここにアナログゲームを付け加えることもできるだろう。実際、TRPGやボードゲーム、トレーディングカードゲーム(*6)には、綿密に計画されたマーケティングの結果、あるいは偶発的な連鎖も含んだメディアミックスの成果として、ビデオゲームから派生したものも多い。例えば、その起源から考えると、コンピューターのロールプレイングゲーム(CRPG)自体が、TRPGの応用から誕生したジャンルである。


【*6 英語ではCollectible Card Gameと呼ばれることが多い。】

こうしたデジタル/アナログの往還的な関係は、2次元と3次元の転位と言い換えることもできよう。近年では、2.5次元と呼ばれる舞台も盛んだが、これらの原作にビデオゲームの作品が用いられることもある。さらに言うと、前項の「複合性」で挙げたように個々のゲーム自体が「ミックスドメディア」であるため、実際には、②「複合的メディアであるゲームが、他のゲームや他のメディアとメディアミックスすることで、デジタル/アナログを横断して、相互に影響し合っている」ということになる。多元化するゲームの第二の意味とは、このようなものだ。


■さまざまなジャンルに展開するゲーム文化の多様性

第三に、さまざまなジャンルに展開する「多様性 diversity」である。

ゲームを成り立たせている日常から離れた時空間である「マジックサークル(魔法円)」(*7)という概念がある。ゲームスタディーズにおけるマジックサークルへの言及で有名なのは、ケイティ・サレンとエリック・ジマーマン(Salen and Zimmerman 2004=2011,2013)によるものだ。サレンとジマーマンにとって、マジックサークルは「ゲーム」とそれ以外の「ゆるい遊び」を分ける重要な概念である。後者は「遊びと遊び以外のこととの間には、ある枠が存在している。だが、その境界ははっきりしない」ものである。それに対して、前者に関しては「ゲームは、遊びについて物理的にも時空間的にも定義された中で行われるもの」として、マジックサークルの境界は「明確にある」とされる(ibid.:191)。


【*7 マジックサークルという概念の淵源であるホイジンガの著作自体には、マジックサークル自体についての記述はほとんどない。遊び(play)をめぐる議論において、「空間的制限」の一つの例として挙げられているのみである(Huizinga 1938=1973:35)。実際には、ゲームスタディーズの諸研究がマジックサークルに関する部分を繰り返し参照することによって、それがあたかもホイジンガの遊び論全体の主要な概念であるかのように強調され、マジックサークルをめぐる図式が事後的に構築されていったというべきだろう。】

そもそもサレンとジマーマンは、これまでのゲーム論について、ゲームに固有の論理的・数学的な構造に焦点を当てる「ルール rule」、プレイヤーがゲームや他のプレイヤーと取り結ぶ関係に注目する「遊び play」、ゲームが遊ばれる場面などより広い背景を探究する「文化 culture」という3つの図式から整理している(ibid.:10)。ところがこの3つの図式は、マジックサークルの〈内〉と〈外〉とを区別する視座が基礎になっている。ルールは、デザインされたシステム自体であるから、マジックサークルの〈内〉に対応している。遊びは、そのシステムに触れた人の経験であり、プレイヤーによるマジックサークルの〈内〉と〈外〉の越境に関わる。文化は、そのシステムに関わるより広い文化的状況であるので、マジックサークルの〈外〉に対応している。

しかし、こうした図式にはいくつかの問題がある。まず、マジックサークルははたして明確に存在するのだろうか。また、より根本的には、マジックサークルは誰にとってどのように観察されるものなのか。社会学は伝統的に、ある事象を社会的な「行為 action」の問題と捉える。そうした考え方を用いると、ゲームという概念は研究者がアプリオリに設定できるものではなくなる。むしろ、ゲームという行為は、社会的文脈のなかで特定の集団による固有の実践のなかで成立する、と考えられる。

現在のメディア状況を考えると、デジタルゲームに限っても、PCやコンシューマー機のビデオゲームだけではなく、スマートフォンでプレイするゲームが一般化している。これは、ゲームをプレイするデバイスがスマートフォンに移行したことを意味するだけではない。実際には、 Nintendo Switch のヒットが示すように、家庭用や携帯用のゲーム機は両者の境界を融解させつつ新たなかたちで展開している。ゲームセンターでのアーケードゲームも、ネットワーク対戦に対応しつつ存続している。また、 Playstation VR が代表的だが、「バーチャルリアリティ virtual reality(VR)」機器を使用した先端的な専用ゲーム機も普及しつつある(*8)。さらに、『Ingress』(Niantic 2013)や『Pokémon GO』(Niantic et al. 2016)は、スマートフォンのGPSとの連動によってリアル空間とバーチャル空間が重なるシステムを採用している。こうした「拡張現実 augmented reality(AR)」と呼ばれるこうしたゲームでは、生身の身体による地理的な移動がゲーム世界におけるアバターの「移動」にもなる(*9)。そこでは日常生活とマジックサークルの境界、すなわちマジックサークルの〈内〉と〈外〉は不明確である。


【*8 「virtual reality」を「仮想現実」と訳す場合は多いが、英語のvirtualには「実質上の」「(実際に)存在する」という意味合いがあり、日本語の「仮想」という語と距離がある。そのため、本章では「バーチャルリアリティ」とカタカナで表記する。】【*9 岡本健は、「ポスト情報」メディア時代の観光を考える立場から、現実の地理的空間とゲームの虚構世界での移動の重なりについて論じている(岡本 2018)。】

また、ゲームをめぐる文化を考えると、ジャンルの多様性という論点がある。ジャンルは、あらゆるメディア文化に見られるが、メディア文化への人々の理解を方向付け、またその理解によって不断に再構成されていくものだ(*10)。ゲーム文化でもこうした事情は同様だろう。例えば、ビデオゲームにおいて、アクション、RPG、シミュレーション、アドベンチャーなど、さまざまなゲームジャンルが構築されている(*11)。さらに、社会領域との関わりを考えると、現在盛り上がりつつあるeスポーツを想定すると分かりやすいが、「ゲーム」自体を一つの文化ジャンルと捉えることができる。ゲームの場合は、スポーツやギャンブルとの関係で、この文化ジャンルの範囲が決まっていると考えられる。


【*10 ジャンルというあり方は、カルチュラルスタディーズ(CS)では重要な分析視点であり、1990年代から重視されるようになっている(Hartley 1994)。】【*11 欧米のゲームスタディーズでは、こうしたジャンルに関する議論も盛んである(Wolf and Perron[ed.] 2014)。ただし、ジャンルの区分は日本で一般的なものと異なる。】

上記の状況は、デジタルゲームをめぐるメディア環境の複合化だけでなく、ゲームプレイのあり方の多様化をも意味している。現在の多様化したプレイ状況は、マジックサークルを前提としたゲームの〈内〉と〈外〉という枠組の再検討を促す。同様に、ルール/遊び/文化を明確に区別して、それぞれの性質を定義することは実態に合わなくなっているかもしれない。

本書は、こうした状況を視野に入れている。そのため、「多元化するゲーム」の第三の意味は、③「異なるメディア環境でプレイされ、さまざまなジャンルにわたって展開される多様なゲーム文化」となる。


***

以上の3つの意味は相対的に独立したものだが、それぞれ密接に関係してもいる。これらすべてに共通するのは、「ゲーム」を広い社会のなかで捉えることだ。つまり本書は、作品のルールや虚構世界を考えることに加えて、プレイヤーやゲームの文化を、それを取り巻く社会的文脈のなかで捉える。だた、これは私たちの独創的な視点ではなく、文化社会学や、カルチュラルスタディーズ、メディア研究で培われてきた、ある意味ではオーソドックスな視点である。

現在は、コンシューマー機やPC、アーケードのゲームが多くの人にプレイされているだけでなく、より古くからあるボードゲームやTRPGなどのアナログゲームが再注目されている。それに加えて、VRゲームやARゲームも次々と登場している。そうしたゲームの未来は、まさに「多元化するゲーム」と呼ぶにふさわしいものではないだろうか。「多元化するゲーム」をめぐる「文化」やその「社会」との関係を捉えていくことこそ、本書の目的である。

1.ゲームとユーザー/プレイヤー(井口)

本節ではゲームとユーザーについて論じる。ゲームとユーザー、社会との関係を考える際に重要なのは、ゲームがいくつかの場面で問題視されてきたことである。後の章でも論じられているが、歴史的にゲームは悪影響の対象として語られ関心を持たれてきた。例えば、「ゲームで遊ぶと暴力的になる」、「ゲームで遊ぶと頭が悪くなる」などである。ファミコンで遊ぶことで人との関わりを避けるようになると語った深谷昌志と深谷和子(1989)やゲームで遊ぶことで痴呆(現在では認知症)と同じ状態になると語った森昭雄(2002)などが有名だろう。

そうしたゲーム悪影響論の問題意識に基づいて研究は始まった。心理学を中心として「ゲームで遊ぶことによって本当にユーザー(プレイヤー)に悪い影響を与えるのか」という実験が多く行われている。例えば坂元章(2004)は様々な先行研究や調査、実験の結果からゲームの悪影響、少なくとも暴力的なゲームによる悪影響について「否定できない」と述べている。要するにまだまだわからないことが多く、引き続き研究する必要性を論じた。こうした流れはアメリカでも見ることができる(Lawrence and Cheryl 2008)。

しかし、心理学的な実験による研究が充実する一方で、社会学的な実証研究が十分ではなかった。どのような人が、なぜゲームで遊んでいるのか、その社会的属性や背景がまだまだわからないのである。例えば世界中でブームとなった『Pokémon GO』についてもゲームデザインや現実世界との関係の理論的考察が中心であり、実証研究は少ない。実証研究が行われても、研究の中心は「影響」であり社会的属性や背景ではなかったと七邊信重・小山友介・田中絵麻は述べている(七邊・小山・田中 2018)。そこで七邊らは『Pokémon GO』で遊ぶ人々の社会的属性とプレイ行動に注目して調査を行った。その結果、日本で『Pokémon GO』は男性、30~40代、人口200万人以上の地域に住む者のプレイ継続比率が高い、などのことを明らかにしている。このような実証研究を繰り返していくことで、どのような社会的属性や背景の人々がどのようなゲームで遊んでいるのかを明らかにしていくことができる。このような社会学においてはオーソドックスな手法は「多元化するゲーム文化」の研究に貢献するだろう。

そこで第I部では主にゲームで遊ぶユーザー(プレイヤー)視点に取った研究を取り扱う。例えば現代の日本社会でゲームのユーザーに関わる様々な社会問題や社会現象が起きている。ここでは以前に筆者が書いた具体的な事例(松井ほか 2017)も含めて三つ挙げてみよう。

第一に「eスポーツ」の日本社会における問題を挙げる。eスポーツとはゲームを競技として捉えることである。スポンサーからの援助やeスポーツの大会に出場して賞金を稼いで生計を立てる人をプロゲーマーと呼ぶ。世界的には浸透して、認識され始めているが、日本では十分に受け入れられているとは言い難い。わかりやすく言うならば「ゲームで遊んでお金を貰うなんで非常識じゃないのか」という考え方が日本では一般的だろう(*12)。


【*12 他にも、例えばアメリカの学校ではeスポーツ大会への出場が公休扱いになる例が増えてきているが、日本では、大会運営会社の代表が2017年のインタビューで「esportsの大会だと公休が取れません」と語り(謎部えむ「大会の運営と放送を支えるRIZeSTの代表が、esports×オリンピックに懸ける情熱【RIZeST 古澤明仁インタビュー】」https://note.mu/nasobem/n/n82d82d798566)、2018年になっても、普及団体が今後の課題として「大会出場を公休にしてもらうこと」を挙げている(徳岡正肇「eスポーツが既存のスポーツから学ぶべきことは? JeSU浜村副会長が登壇したセミナー「eスポーツの未来とJeSUの果たす役割」レポート」https://www.4gamer.net/games/380/G038078/20180528097)、という状況にある。】

第二に「ゲーム実況」である。「ゲーム実況」とはユーザーがゲームのプレイを動画としてウェブ配信しながら視聴者に見て貰うことである。リアルタイムで放映する生配信と予め録画した動画を動画サイトに投稿する二つのパターンがある。日本ではゲーム実況者がアイドル化することが多数あり、ゲーム実況で生計を立てている実況者もいる。ここで面白いのは、ゲームのプレイがスーパープレイ(上手なプレイ)に限らないことである。むしろスーパープレイでないゲーム実況の方が大半である。視聴者は何気ない普通のプレイやちょっとした失敗プレイを楽しんでいる。先ほど述べたプロゲーマーのゲーム実況を見て楽しむなら、プロ野球の試合などを見て楽しむのに近い感覚と考えやすく解りやすいが、そうではない。なぜ視聴者はスーパープレイでもない単なる素人のゲーム実況を見て楽しむのだろうか。

第三に「ソーシャルゲーム重課金問題」を挙げよう。「ソーシャルゲーム重課金問題」とはソーシャルゲームにお金を異常に費やしてしまうことである。「ソーシャルゲーム」の多くには「ガチャ」と呼ばれる電子くじがあり、ユーザーはお金を使って電子くじを引いて、レアなキャラクターやカードなどを入手できる。その「ガチャ」を使ってソーシャルゲームのキャラクター欲しさに数十万円使ってしまう事態が起こっているのである(*13)。欲しいキャラクターやカードのために「数十万円用意した」などの言葉はインターネット上で簡単に見ることができる。このような問題に対して企業側から自主規制やガイドラインが設けられるようになってきている。しかし、そもそもなぜユーザーはソーシャルゲームにそこまでお金を使ってしまうのであろうか。


【*13「「期間限定ガチャ」落とし穴 スマホ向け人気ソーシャルゲームで問題に」朝日新聞2016年3月2日夕刊11面。】

具体的な事例を三つ挙げたが、これらの現象や問題に対して、既存の研究だけでは十分に答えることはできない。例えばソーシャルゲーム重課金問題に対して、射幸心を煽るシステムやユーザーの射幸心が原因だという意見はある。それ自体はこれからも研究や検討する必要があるが、それ以外の視点からの研究が行われても良いであろう。たとえばこういった社会現象や社会問題に対してユーザー側から考えることが一つの切り口になるのではないか。そこで第一部では繰り返しになるがユーザーを中心に取り扱った研究を取り扱う。

第1章の井口の研究ではユーザーの利用動機に焦点を当てている。メディア研究で培われてきた利用と満足研究の手法を用いて、大学生がゲームで遊ぶ利用動機を探っている。

第2章の木島の研究ではプレイヤーの目線からモバイルゲームの楽しさを考察している。モバイルゲームの発展の経緯とスマートフォンの普及の経緯とを重ねあわせ、またアンケート調査と聞き取り調査の手法を組み合わせながら、サービスとして提供されるゲームをプレイヤーが何年も遊び続ける理由に迫っている。

第3章の加藤の研究では、2010年代に登場した「ゲームセンター=高齢者」言説のカラクリに、新聞記事と統計、考現学のフィールドワーク(観測)を通じてアプローチしている。ゲームセンターに高齢者が増加し、居場所になっているという報道が、どのような社会背景のなかで浸透していったのか、さまざまなデータをもとに政治的、経済的、文化的な要因を紐解きながら明らかにしている。

2.実践のなかのゲーム(大石)

本節では、第II部が本書の中でどのような位置づけにあるか明確にするための記述を行う。それは、ゲームの研究と相互行為に関する研究がいかなる位置にあるかという簡単な見取り図である。これについて概要を示すために以下の順で論を進める。まず、第二部の題名である「実践のなかのゲーム」が含意するところが若干難解な点を踏まえて、この題名が示そうとしている研究の志向について概要を述べる。ここでは、本節が本書全体の中でも際だって「社会学的な関心」の上にある章として執筆されていることを踏まえる。その上で、このような観点での研究がいかなる背景を持つものかわかるように、二つの点に焦点を絞って過去を含めた動向を簡易に記述する。すなわち、一つ目に社会学的な研究関心とゲームに関する研究が「相互行為」という概念によって接点をもつとはいかなることなのか、そして二つ目に現在の「ゲームと相互行為」に関する研究にどのような傾向が認められるかの概観についてである。

第II部が「実践のなかのゲーム」という題名であるのは、他の部題と比してバランスが悪いように思われるだろうか。しかし、第II部全体の関心を示す題名として、これよりふさわしいものはないだろう。それは、この題名が示しているものとしてもっとも重要なのが「ゲームが実践とは別に存在している」ことを含意していないという点であるからだ。すなわち、わたしたちの実際のプレイ実践によってゲームはそれとして成立し、ゲームの概念も維持されているという観点から本章での研究は行われている。

これは、換言すれば、ゲームというある種の秩序状態がその中の人の活動によって達成されているという考え方である。このようなゲームに限らない「(社会は)いかにして秩序を保っているのか」という問題は、大石による第7章にて概要が述べられているように、社会学の大きな関心の一つであると言える。その嚆矢であり、社会学の研究における基本的なプログラムを示したものとしてよく挙げられるのがタルコット・パーソンズの『社会的行為の構造』(Parsons 1937=1976、邦訳は第一分冊のみ)である。このパーソンズの主著については、どんな社会学史の基本書にも解説があるほどのものなので本論では割愛するが、この本や、この本を元にした研究から「規範」に社会学的研究が関心を持つようになったという点が重要なものとして挙げられるだろう。

これら多くの研究は、規範が「守るべきもの」であり、守らない場合になんらかのサンクションが伴うことで、それを避けるために規範は守られ、秩序は保たれている、と考えた。この考えを元にすれば、人は規範の通りに動き、その規範が示しているように社会は秩序を保つようになるという考え方になるだろう。ここから考えると、こうした研究では、「社会のおかれているモデル」を動かす小さなシミュレーターとしてゲームに関心を抱いていたのではないだろうか。

一方で、社会学でゲームの遊びの部分を含めた考察をかなり早い時期に行った記念碑的な研究であるアーヴィング・ゴッフマンの「ゲームの面白さ」(Goffman 1961=1985)という論考を参照してみよう。この論考は、小集団における相互行為の様相について考察された後に、それがゲームの面白さとどのように関係しているかが考察されており、「モデルケース」としてゲームを用いているというわけではないことが特筆できるポイントであるように思う。

ここまでの経緯を小括すれば、社会学では社会秩序の解明という命題に根ざした秩序論の系譜としてのゲームへの関心と、ホイジンガ、カイヨワなどの「遊び」という概念の下でのゲームへの関心とが並行して存在してきたということになる。ゴッフマンの「ゲームの面白さ」は、これらの関心が乖離したものではなく、相互行為(ゴッフマンは「対面的相互行為」としている)を軸にすると、案外と近い場所にあることを示した研究である。

このような状況の中で、上記の二つの観点を含めつつより詳細にゲームを行う相互行為に着目したのが、エスノメソドロジー/会話分析の視点を持つ社会学的研究である。実は、エスノメソドロジーの創始者であるハロルド・ガーフィンケルは、1963年というゴッフマンとほぼ同じタイミングで、「三目並べ」というよくあるゲームをもとに、パーソンズの「秩序」観に批判を加え、その後の主著『Studies in ethnomethodology』(Garfinkel 1967)にもつながる視点を示していた(*14)。しかし、実際に「ゲーム実践」そのものを分析の上で扱いうるようになったのは、比較的最近のことである。これにはゴッフマンの分析以降の時期に、会話分析が「手法」として確立し、ビデオデータを撮ることが技術的に容易になったことを受けて、実践そのものを分析することが可能になったためという点が大きい。


【*14 ガーフィンケルの当該の論文がいかにして「秩序論」と関わっているか、どのような内容であったかについては、秋谷直矩「エスノメソドロジーにおける信頼概念」(秋谷 2018)に非常に詳しい。エスノメソドロジーの視点の「ゲーム」への関心の深さをもうかがい知ることができる論考であり、本稿で書ききれなかった点についても詳細に述べられているため、参照して欲しい。】

ゴッフマンの先見的なゲームにおける相互行為の重要性の発見と、会話分析的立場からの研究全般が明らかにした「相互行為による達成」としての社会的行為という視点こそが、冒頭に述べた「実践のなかのゲーム」という部題の示す、研究志向を形づくったのだとひとまずは言うことができるだろう。

しかし、ごく最近行われているビデオゲームに関する会話分析的研究のレビューを見ると、ビデオゲームに関するエスノメソドロジー/会話分析的研究は「依然として多くない」(Reeves, Greiffenhagen and Laurier 2016:1)と書かれている。これはビデオゲームだけではなく、アナログゲームでも同様の傾向があるように筆者は考えている(*15)。例えばボードゲームならば、ケネス・リーバーマンの論考(Liberman 2013)などがあるが、これは優れてエスノメソドロジーの観点から行われているものではあるが、会話分析の手法を用いているとは言いづらい(*16)。ごく最近であれば、身体アクティビティに関心を抱きつつ、会話分析の手法でさまざまな研究を行っているロレンザ・モンダダがビデオゲームに関する論考をいくつか発表している(Mondada 2013)。


【*15 これには、会話分析がまず会話の一般的なやり方を明らかにしようとしたということ、また制度的場面の分析に注力してきたことなど、複合的な理由が存在している。】【*16 本格的な会話分析の手法が編み出されて以降の時期の数少ないゲームのエスノメソドロジー的研究に、Francis Kewの一連の研究があるが、その関心は強く「社会モデルとしてのゲーム」というところに根ざしているように思える(Kew 1986)。】

しかし言ってしまえば、ゲーム実践そのものに関する社会学的な研究それ自体も多いものではない。よって本部は会話分析も含めるものの、会話分析に限らないものまで視野に入れた、「ゲーム実践が何をしているのか」という点に着目した研究を集めることがゲームの社会学的研究の課題の一つだと考えて編まれたものである。

李による第4章は、現代的なゲームの実践がそのプラットフォームとの相互反映的な状況の中で自身の姿を変えていくことを論じたものである。従来の「遊び」概念が非日常との関連から考えられていることが、実践を参照すると現在では変容しているというところが論のポイントだろう。

髙橋による第5章は、あらためてゴッフマンのゲーム論に立ち戻り、その後のゴッフマンのフォロワーの論を参考にしつつ、どのようにさまざまなゲーム実践を研究の上で扱いうるかについて考えられた論考である。ここで紹介されているゲイリー・アラン・ファイン(Fine 1983)は、エスノメソドロジー的な視点や会話分析的なやり方も用いつつ、独自の相互行為に関する研究を行う研究者であるが、ゲームに関する論考は未邦訳ということもあり、あらためてゴッフマンを参照する向きだけではなくとも、ゲーム実践に関心を持つ上では重要な論考である。

臼田による第6章は、会話分析を用いたゲーム実践に関する分析である。実は、会話分析ではある状況のデータを用いたとしても、そこで明らかになるのが「より一般的な相互行為や会話のやり方」であることが多い。それはそれだけ会話がわたしたちの行為の基本単位であることをなによりも示しているのだが、それゆえに、「ゲームに関する会話分析」の研究が少ないことの大きな理由ともなっている(*17)。この臼田論文は、会話の一般的なやり方が、ゲーム実践を形づくり、ゲームにおける「仮想現実」を形成することに寄与している場面を記述することに成功した少ない研究の一つである。


【*17 会話分析のこの傾向の課題については、ゲームに関する論考ではないものの、Mondada(2002)での先行研究レビューがもっともコンパクトに記述を行っているので参照されたい。】

最後の大石による第7章は、ゲーム実践がかならずしも「相互」行為であるわけではない、というある意味原初的な関心に立ち戻って書かれた論考である。多くのメディアに関する受容、実践の研究の困難はここに根ざしているとも言えるだろう。そうした点は、メディアの物質性、あるいはアフォーダンスといった要素によって説明が試みられることも多いのだが、その別の解を、ゲーム実践を参照することで、ゲームに即して考察を行ったものである。

ゲームの実践を扱うというとき、その多くは実際にゲームプレイで何をしているかということよりも、ゲームの周辺に目を向けがちである傾向は否定できないものとしてあったように思う。本部に含められた論文は、いずれも「ゲームの実践というとき何をしているのか」ということに真っ向から取り組んだものとしてまとめることができるだろう。

3.ゲームとジェンダー/セクシュアリティ(秦)

ジェニファー・ジェンソンとスザンヌ・ドゥ・カステル(Jenson and Castell 2010)は、ジェンダーの視点から行われたビデオゲーム研究(英語で発表されたもの)をレビューし、この分野の先行研究全体の問題点を指摘している。第一の問題は、ジェンダーを「不足」としてとらえる(gender as lack)というものである。その意味は、性を二元論的にとらえたうえで、ゲームの中に女性が描かれていないことやゲームを女性がプレイしないことに注目し、女性とゲームに関するありきたりの議論を繰り返すことに終始しがちというものである(ibid.:52)。「ありきたりの議論」(*18)がどのような意味でありきたりなのかは詳述されていないものの、キャラクターやプレイヤーに女性の数が不足していると指摘する研究だけでなく、ジェンダーを自然化して捉える態度も含めてこのように表現されているように読み取れる。たとえば、ジェンダーとゲームに関する研究が登場した1990年代末頃には、女性プレイヤーは協力プレイができ探索的なゲームを好み、対決や暴力を含むゲームは避けがちであることなどが自明視されていたという点が、批判的にレビューされている(ibid.:55-56)。


【*18 原文で‘the tiresome and worrying persistence of familiar themes and unremarkable findings’とある部分をこのように訳した (Jenson and Castell 2010:52) 。】

これに対して、とくに2000年代半ば以降は、ゲームに対する好みの傾向は社会的・文化的背景などによって文脈依存的に決まるものだとみなす研究が増加し、ゲームをプレイする場(アーケードなのか、自宅の居間なのか、寝室なのか、など)とジェンダーの関わりに注目した研究や、ゲームプレイ経験の国際比較なども行われるようになってきたとされる(ibid.:62)。日本の研究でも、日本のゲームソフトの8割が男子児童を購買対象として開発されているという事実を指摘した上で、なぜそのような偏りが生じているのかを考察した野口李沙(2008)の例がある。

しかし、ジェンソンとカステルの議論では、男性ジェンダーに特化してゲーム作品やゲームプレイを分析するような研究はほとんど行われていないこと(Jenson and Castell 2010:55)、ゲームに描かれる女性キャラクターはコスチュームなどの面でかなり性的に描かれていることを指摘した研究が多い一方、男性キャラクターも実はかなり性的に描かれている点は見過ごされていること(ibid.:59)も論じられている。女性とゲームの関わりを固定的な性差の問題として片付けることがなくなったとしても、女性にのみ注目するという問題は残されているといえるだろう(*19) 。


【*19 男性・女性両方のゲームプレイに注目し、とくに男性ゲームプレイヤーの特徴を議論する論考は、たとえば井口(2014)がある。】

第二の問題は、ジェンダーを「なくてもいいもの」ととらえるという問題である(gender as superfluity)。たとえば女性プレイヤーの多さについて言及し、だからジェンダーに注目しても仕方ないと片付けてしまい、ジェンダーにまつわる問題を深く見ることがない態度などである(ibid.:52)。この問題に関しては、女性がゲームをプレイしている/していないという表層的な問題のみに取り組みがちな量的研究の問題点としても言及されており、第一の問題に関して紹介したような、ゲームプレイの具体的な状況や、ゲームに関心をもつ/無関心になるに至る背景に対する質的な分析の重要性も述べられている(ibid.:57)。

以上二つの問題は研究の「落とし穴」(pitfall)と言い表されており(ibid.:52)、ジェンダーの視点から研究を行う際に最も気をつけなければならないポイントであることが示唆されている。このレビューが発表されてから10年近い時間が経っていることもあり、さすがにこんな落とし穴にはまる研究が今から発表されることは多くないかもしれない。とはいえ、被験者の性別による違いを「ジェンダーの違い」と安易に分析してしまうのではなく、あくまでもジェンダー(被験者の性別とは区別されたものとして)に基づいた分析を行えば、それによって「女性化された男性のプレイ」や「男性化された女性のプレイ」などの多様な事象についても議論できるという指摘(ibid.:63)や、ジェンダーはいつも単一で不変のものだと想定することなく、どのような状況やどのような文脈において、ジェンダー化された形でプレイが行われるのかといった複雑な様相に注目すべきという指摘(ibid.:53,63)は、今後の研究にも参考になる部分が大きいだろう。

たとえば森下みさ子(2016)は、玩具が「遊ぶ身体」と直接にかかわっているのに対して、ゲームはコントローラーを介して身体と間接的につながるものであるために、「身体と切り離せないはずの性差を『遊ぶ』ゆとりが生じる」と述べる。それがただちにプレイヤーの性別とゲーム空間内のジェンダーを切り離すとまでは見ないものの、森下は、異なる性を選択するという「遊び」も可能にするゲーム世界がひらく「性意識のグラデーション」がプレイヤーの現実認識にも何らかの影響を及ぼすのではないかと考えている(ibid.:89-90)。こうした視点は、まさにジェンソンとカステルがいう、プレイヤーのジェンダーとゲーム世界のジェンダーを安易に同一視しないことによってもたらされる議論の深まりということを暗示している。

さて、ジェンソンとカステルのレビューでは議論されていないものの、ゲームをジェンダーの視点から分析する際に留意されるべき「落とし穴」は、他にも考えられる。その一つは、ゲームの中でジェンダーが表現・表象される方法に目を向けることではないだろうか。本章で既に論じられている通り、ゲームをプレイすることは本を読んだり映像を視聴したりするのとは同一視できない、特有の行為である。他のメディアではなくゲームを通してジェンダーを見る、ということに自覚的である態度が、ジェンダーの視点からのゲーム研究には求められる。本書に収められた3本の論文は、こうした課題に取り組もうとしたものであると考える。

秦による第8章は、ジェンダーの視点から行われたゲームについての研究が、ゲームのメインストーリー(カットシーンや事前にプログラムされた会話によって語られる、固定の物語)についての研究に偏りがちであることに注目し、ゲームプレイの部分をジェンダーの視点から分析することを試みる。また東による第9章は、分析対象として取り上げられにくい「低年齢向け」「アーケードゲーム」という二つの特徴をもつ『オシャレ魔女ラブandベリー』(セガ 2004)に注目し、プレイヤーである女児は周囲の大人(制作者や保護者)にどのような存在として想定されているかなどの点を考察している。西原による第10章は、これまでBL研究の中だけでなくゲーム研究の中でもほとんど注目されることのなかったBLゲームの時代による変化やジャンルとしての特徴を整理したという点で、ゲーム史という点からも貴重な論文であろう。

とくに、ゲーム作品についてのジェンダー研究は、プレイヤーについての研究に比べて、アニメやマンガとは異なるゲームの独特な側面である「プレイ」には注目してこなかったように思われる。本書の3論文はいずれも作品の重要な構成要素としての「プレイ」に着目しており、この点が既存の研究に新たな示唆をもたらす部分である。

4.ゲーム文化と社会:ゲームスタディーズ・ゲーム批評・社会学(松井)

本書では、ゲームスタディーズの現状を確認したうえで、「多元化するゲーム文化と社会」というテーマでの研究を行う必要性を述べてきた。また、そうしたゲーム研究の具体的なあり方として、ユーザーへの量的調査・質的調査といった社会学のオーソドックスな手法を用いて現代的な事象の実態を明らかにする研究(1節→本書第I部に対応)、社会学的な(相互)行為論の系譜にあるゴッフマンの応用や会話分析、エスノメソドロジーからのゲーム実践の考察(2節→本書第II部)、社会におけるゲームを捉える際に不可欠な、ジェンダーやセクシュアリティという視座からのプレイの分析(3節→本書第III部)といった方向性を示した。序章の最後となる本節では、新たな「ゲームの社会学」とでも言うべきこれらのアプローチと、冒頭で述べたゲームスタディーズとの接続を図った第IV部について紹介していく。さらに、そこから見えてくる本書なりの課題を示すことで、序章の締めくくりとしたい。

まず、ゲームスタディーズの日本での展開について述べる。前述したように、ゲームの研究は2000年代前半に欧米で制度化されていったが、それに呼応して日本での受容も進んだ。例えば、2006年には「日本デジタルゲーム学会」が設立され、2011年には立命館大学に「ゲーム研究センター」が設置された。もちろん、これ以前にも、ICTの発展を背景として1989年に創設された「日本シミュレーション&ゲーミング学会」や、2002年設立の「ゲーム学会(GAS)」といったゲームを扱う学術組織はあったが、2000年代後半からの流れは、欧米での潮流を背景にもった総合的・国際的なゲームの研究をめざす動向だと言えよう。ただ、日本のゲーム研究では、ゲーム開発に(直接的に)資する情報科学やその周辺の理工学領域、あるいは業界出身者による体験ベースの検討といった(それ以前からの)研究が多いように思われる。すでに欧米では、ゲームスタディーズの金字塔であるユールの『ハーフリアル』が2005年に出され、その後もゲームの哲学・美学的研究で優れたものが次々に出てきている。ゲームデザインやゲームスタディーズの「必携論集」は、こうした研究の成果のうえに成り立ったものである(Salen and Zimmerman [eds.] 2005; Wolf and Perron [eds.] 2014)。

日本はこうした動向から立ち遅れていた面があるが、近年、人文学的な方面のゲームスタディーズの成果が本格的に紹介され、さらに応用的な議論を展開した研究も行われてきている。なかでも、松永伸司は『ハーフリアル』の翻訳(Juul 2005=2016)を行い、ゲーム研究のレビュー(松永 2017)を手がけるなど、ゲームスタディーズの日本への導入に重要な役割を果たしている。また、欧米由来の枠組の単なる紹介ではなく、ゲームが「芸術」であることを詳細に論証した著作(松永 2018)をはじめとして、ゲームスタディーズの水準を押し上げる美学的研究を行っている。その松永による第11章は、含意が適切に理解されないことも多かった(サレンとジマーマンによる)マジックサークル概念の再定式化を行い、当概念の意義を改めて打ち出している。


ここまでゲームスタディーズの受容について述べたが、日本のゲーム研究を考える際に見すごしてはならないのは、広い意味のゲームをめぐる批評の成果である。それはさらに、雑誌やネットといったゲームの関連メディアで展開されてきた批評と、現代思想を背景にした日本的な批評におけるゲーム論とに、大きく分けることができよう。ここでは、前者を「ゲーム批評」、後者を「批評におけるゲーム論」と表記しておきたい。

前者の「ゲーム批評」に関して、アナログゲームでは、1970年代からのSF・ファンタジー(小説)のファンダムがその役割を担った。なかでも、安田均による海外ゲームの翻訳・紹介・批評といった一連の活動は特に重要である(*20)。80年代になると、ゲームブックを対象とした『ウォーロック』(社会思想社)や、ボードゲームの翻訳・輸入事業を手がけていたホビージャパン社(*21)による『タクテクス』(ホビージャパン)などの雑誌に、アナログゲームの商品紹介やレビューが掲載されていた。現在でもこうした系譜のもと、今ではアナログゲームとともにビデオゲームも含めたゲーム批評が行われることもある。例えば、『SFマガジン』2018年6月号の「ゲームSF大特集」はそうした成果の良質なものだろう。


【*20 安田均によるゲーム批評は書籍に限っても複数出版されているが、70年代から80年代における仕事が概観できるものとして『SFファンタジィゲームの世界』(安田 1986)がある。】【*21 ホビージャパン社の発行する雑誌としては、それ以前に1969年に創刊の『月刊ホビージャパン』がある。同誌が主に扱ったのは、最初期はミニカー、次いでミリタリー模型を中心としたプラモデルだったが、1970〜80年代にはアナログゲーム関係の記事もしばしば見られた。また、その後90年代には、『RPGマガジン』(1990年創刊)の方にTRPG関係のレビューが掲載されるようになった。】

ビデオゲームについては、『ログイン』(アスキー)など1980年代のパソコン雑誌を皮切りに、初のコンピューターゲーム誌『Beep!』(ソフトバンク)、『ファミリーコンピュータMagazine』(徳間書店)をはじめとした家庭用ゲーム専門誌で、具体的なゲームタイトルの紹介・レビュー記事が掲載されるようになった。とはいえ、『ログイン』から独立した『ファミコン通信』(その後『ファミ通』)の「クロスレビュー」がしばしば批判されるように、日本のゲーム雑誌は新作情報や攻略記事などがゲームメーカーの協力によって成り立っているので、大手のメーカーやビッグタイトルへの中立的な評価ができない構造になっているという指摘もある。

もちろん、ゲーム関連メディアのなかから、それを克服しようとする動きもある。例えば、1994年創刊の『ゲーム批評』(マイクロデザイン出版局→マイクロマガジン社)は、上記の問題を避けるため、ビデオゲーム関連企業からは広告を掲載せず、発売された後の製品をプレイしてから批評を行うスタンスを打ち出していた。しかし、同誌が途中から広告を掲載し、さらに2006年に休刊することになった事実からは、こうしたかたちでの批評が難しい挑戦だったことを示す。

メーカーと近い立場からではないゲーム批評は、2000年代以降、インターネットやwebメディア普及とともに盛り上がりを見せている。まず、多くの一般のユーザーによるレビューがある。amazonなどのショッピングサイトでのゲームレビューもあるが、より専門的なユーザー参加型のレビューサイトも発展してきた。そうしたレビューサイトの例としては、「mk2」グループのサイト群(*22)や、海外で多くのユーザーを獲得してきた「IGN」の日本版である「IGN Japan」がある(*23)。また、一般的なウェブブラウザで編集できるWikiというシステムを用いたサイトも多数存在している(*24)。


【*22 2000年にPS2用のゲームをレビューする「PlayStation mk2」(http://www.psmk2.net)が開設されて以降、現在では、さまざまなハード用のレビューサイトが運営されている。】【*23 IGNは、もともとアメリカで1996年に「Imagine Game Network」という名前ではじまり、2016年には日本語版の「IGN Japan」(https://jp.ign.com)も開設された(今井 2018)。】【*24 その例として、「ゲームカタログ@wiki」(https://www26.atwiki.jp/gcmatome/sp/pages/1.html)が挙げられる。】

次に、後者の「批評におけるゲーム論」について述べていく。そもそも、日本の「批評」とは、戦前期以来の新聞・雑誌、書籍といった出版メディアとともに発展してきた文化ジャンルである(大澤 2015)。そうした批評では、はじめは文学、さらには映画などの芸術作品を通じて社会を語るというスタイルが定着してきた。

1980年代のビデオゲームの普及を背景にして、90年代以降、技術的・表現的な先端にあるものとして、ゲームも批評の重要な対象になっていく。こうした日本的文脈をふまえた「批評におけるゲーム論」の先駆的なものとして、中沢新一「ゲームフリークはバグと戯れる」(中沢 1984)が挙げられる。また、特に影響力の大きいものに、東浩紀による「ゲーム的リアリズム」論(東 2007)がある。ただ、同書で直接論じられている対象は、主にライトノベルなどの文学作品における想像力であるため、ゲーム研究と接続されることは(あまり)なかったが、2010年代に入ってからは、前述のゲームスタディーズの日本への導入のなかで、美学領域においてそれを応用的に展開しようとする動きが出てきている(*25)。こうしたゲーム的リアリズム論とゲームスタディーズを架橋する議論の良質な成果の一つが、美学の視点からゲーム研究を行う吉田寛の論考(吉田 2018)である。


【*25 例えば、文部科学省科学研究費(基盤研究A)の「ポップカルチャー・ワールド概念を用いたポップカルチャー美学の構築に関わる基盤研究」(代表・室井尚)では、「ゲームの美学⸻ゲーム的リアリズム2.0」と題する研究集会が開催された。(https://kaken.nii.ac.jp/ja/grant/KAKENHI-PROJECT-16H01912/)】

さらに、近年では、さやわか(2012)や中川大地(2016)など、ビデオゲームを構造的・歴史的に語る著作も出てきている。これらの知見は、本書に収められた諸論文でも参照される。また、批評におけるゲーム論は、書籍のかたちだけでなく、同じく日本的批評の主要なメディアであってきた雑誌上でも展開されている。その代表として、『PLANETS』(7号、2010)や『ゲンロン』(8号、2018)といった批評誌でのゲーム特集がある。

本書第12章の著者である井上明人は、こうした批評誌でも多くのゲーム論を発表してきた、主要な書き手の一人である(井上 2010;2018)。本書の論文は『PLANETS』に連載の原稿に一部もとづきつつも、「ゲーム/遊びとは何か」という問いへの「メタ定義論」と言える(本格的な)理論研究になっている。


一方、上述してきたゲームスタディーズやゲーム批評とは、もう一つ別の文脈として本書が重視したのは、日本の社会学における伝統である。日本の、特に文化社会学では、見田宗介や作田啓一、井上俊などが、大衆文化の(アカデミックには顧みられることの少なかったような)対象に注目して、少数の事例ながらも、社会学理論と合わせて敷衍することで、説得力のある知見を導出するタイプの議論を蓄積してきた。こうした系譜のなかでゲームに関わるのは、井上俊の著作(井上 1977)だろう。ゲームを研究対象とした(欧米の)社会学の系譜は2節で述べられたが、日本の文化社会学でのこうした議論はそれとは相対的に独立していた。例えば麻雀などの伝統ゲームを対象として「社会のなかのゲーム」について考察した井上俊による『遊びの社会学』の知見は再評価されるべきものだ。しかし、さらに言うならば、こうした系譜を引くような、新たな「ゲームの社会学」も行われる必要がある。

ただ、現在の社会学は、実証科学化の流れにあると言っていい。こうした流れは、直接「役に立つ」(狭義の「公共」的な)ことが要請される今日の社会状況と呼応しているわけだが、その結果として今の社会学は「社会科学」的な側面が強くなり、逆にかつては強く含まれていた「人文学」的な要素が弱くなっている。もちろん、量的・質的調査に基づく実証研究によって得られる知見もある。実際、本書の第Ⅰ部はその良質な成果だろう。しかし、同時に、かつての文化社会学の系譜を継ぐような、オルタナティブな社会学的ゲーム論も要求される。鍵本による第13章は、著者がすでに上梓しているホラーゲーム論(鍵本 2018)と呼応するような、そうしたゲーム論だ。ゲームプレイでの思いどおりにいかない事態=「できなくなること」にあえて注目した本論文は、その問題設定やスリリングな考察という点で、上述した文化社会学の系譜にあると言える。

こうしたタイプの文化社会学は、解釈学≒人文学的な要素を含むという意味で、哲学・美学領域で先んじて展開されているゲームスタディーズと架橋しうる可能性を秘めている。実際、哲学・美学的なゲームスタディーズでの課題と本書で提示した問題は、重なる部分も大きい。例えば、上述した吉田寛は本書に収められた論考で「ゲームの地域史」の必要を主張しているが、これは本章で述べてきた概念を使えば「多元的なゲームの歴史」に他ならない。

そうした多元的なゲーム史の一つが、1990年代前半に一時的に盛んだった「メイルゲーム」あるいは「ネットゲーム」の歴史記述を行ったうえで、そのコミュニケーションと文化を分析した松井による第14章だ。雑誌(マスメディア)と郵便(パーソナルメディア)によって成立しているメイルゲームは、インターネット以前にもかかわらず、大人数が同じ虚構世界に参加するという特徴をもっている。メイルゲームは、これまでの(一元的な)ゲーム史ではその重要性が大きくは評価されてこなかったが、本書における「多元化」の三つの論点(ゲームメディア自体の複合性、ゲームのメディアミックス的な横断性、ゲーム文化の多様性)と関係したゲームジャンルなのである。

以上で述べてきたように、本書は、社会学の知見をふまえたゲーム文化の論集でありつつも、ゲームスタディーズやさまざまなゲームについての研究をふまえて、それらとの架橋を図った知的挑戦、あるいはゲーム風に言うならば「冒険」の成果でもある。

「ゲームとユーザー」「実践のなかのゲーム」「ゲームとジェンダー」「ゲーム文化と社会」という四つの部は、そうした本書の冒険のあり方を示したものだ。さらに、本編の論文で論じきれていないさまざまな論点を補うべく、各部のあいだに「学術的コラム」を配置した。そこでは、グローバル化するゲーム文化、ビデオゲームの音楽、ゲームと観光といった魅力的なテーマによる考察が行われている。

もちろん、本書『多元化するゲーム文化と社会』で、ゲーム文化のすべてをカバーしきれたわけではない。しかし、論文に多彩なコラムも含めた本書の諸論考は、今日のゲーム文化のいくつもの重要な部分を、これまで見過ごされてきた領域を含めて、確実に明らかにしている。本書の結果を新たな前提にして、多元化するゲーム文化と社会に関する研究(冒険)は、これからもさらに行われていくにちがいない。

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