深夜、ある女性が帰宅したようだ。彼女は七分丈の桜色のブラウスに黄土色のロングスカートを身にまとっている。手に鳥籠を持っている。家の中は暗く鳥籠の中の様子はよく見えない。彼女は施錠すると靴を脱ぎ、手も洗わずに書斎に向かった。彼女の足音に合わせて鳥籠がからんからんと音をたてている。翼をドアから差し込む月明かりをたよりにして見ると雨雲のような色をしていた。年季の入った翼だ。彼女の書斎は八畳ほどであり、家具は大きな机と椅子、本棚、この3つしか置かれていなかった。机にはライトとパソコン1台というとてもシンプルであるが本棚にはあふれるほどの本が詰まっている。収まりきらず、本棚の上に山積みにされている本も見受けられる。本が好きなのだろうか。彼女は窓の近くの壁の突起に鳥籠をかけた。鳥は動かない。かなり老衰しているようだ。鳥が好きなのだろうか。鳥は彼女を見つめていた。彼女も鳥を見つめていた。ふと鳥籠に雫が落ちた。彼女は泣いていた。失恋の涙だろうか、それとも故人を悼む涙だろうか。当然ながら判断ができなかった。人の感情を読むのは難しいという理由もあるが、なにより彼女の瞳を見ることができなかったのだ。なぜなら涙と同化していたからだ。まるでビー玉が熱で溶け出しているようだ。月明かりがそんなビー玉の様子をライトアップしている。はたして彼女の瞳が見えないのは月明かりのせいなのか、それとも------。しばらくして彼女はなにか決心をしたように唇にぐっと力を込めた。彼女は机に座りパソコンを起動し何かを書き始めた。
物心付いた頃からたまに見る夢があります。小さい子になって生活している夢です。夢の世界に鏡が見当たらず顔は確認できないのですが服装からしておそらく女の子です。シロツメクサが両サイドに咲いている通りを誰かと手を繋いで歩いています。視界の上の方は白く曇っていてよく見えません。夢だからでしょうか。花嵐が吹いていたらいいなと思います。視野が左右もあまり広くないためおそらく3,4歳でしょう。そして隣にいるのはおそらく私の母なのでしょう。なぜか私の首はあまり動かすことができず自分より背の高い人の顔をみることができないのです。夢はところどころ不便です。私は母親と思われる人に連れられ誰かの家へ遊びに行きます。そして訪問先の住人に笑顔で迎えられ嬉しそうです。8畳ほどの居間に案内され一緒におままごとをして遊んだりしています。住人はとても温かい笑顔で私に接しているのが声色から伝わってきます。この人とは知り合いなのでしょうか。
母親が部屋を離れました。すると急に住人の様子が変わりました。私の頭をなでていた手をすっと放しました。膝の上に置いた彼女の手は震えていました。彼女のさっきまでの灯火のような温かさは感じられません。様子の変化に心配になったため彼女の手に触れようとしたその時、急に私はよれて倒れました。夢だからでしょうか痛みは感じませんでした。彼女はナイフで私の触れようとした左手首を切りつけたのです。刹那の出来事でした。まるでマジックをしているかのように少女の左手から真っ赤な花が咲きました。花弁が宙を舞って地面へ落ちゆっくりと畳に滲んでいくのを見て、はじめて血液と分かりました。夢にしては実際に見たのかと疑われるくらいとても鮮明に描かれていました。
「助けて。いやああああ」
私の叫び声が聞こえます。夢はいつもここで急に終わります。指の誤操作で止まってしまったビデオのように。夢の中で私の魂が宿っているこの女の子は一体誰なのでしょうか。どうしても私の幼少期だとは思えません。なぜなら女の子は周りから愛されているのですから。
ピピピピピ
アラームの音が『起きろ』という日本語を発している訳ではないのに私の脳に起きろという指令を与えます。そして私の体にも指令が届きます。また朝が来てしまいました。眠い朝が。憎い朝が。私の知らない朝が。夜は昼が終わると勝手に来るしゴールが見えている世界なのに朝は活動するので自分で昼までもがいて行かなければならない終わりがよく見えない世界だからです。私も恋愛小説『恋焦-こいこがれ-』の主人公南京子の様に朝からしゃきっとした人間であればきっと1日中かたいスーツも良い姿勢で耐えられるような人間になれたのでしょう。ミステリー小説『Mr・Lion』の主人公平田洋助のように誰とでも仲良く付き合える人間であれば、職場で誰とでも良い関係を築ける人間になれたのでしょう。私の人生は変わっていたかもしれません。友人に囲まれた人生であったかもしれません。そのくらい私には魅力や強さというものがありませんでした。だから大好きな小説を読み、まるで自分がその主人公になったような気になり心を満たしています。重い体を無理やり布団から剥がし洗面所へ向かいました。足の裏に床のひんやりとした感覚を感じます。冬もかなり厳しくなってきました。こんなとき今から宇宙に行って地球を押して地軸の傾きを無くしたいなと思います。ミステリー小説『PLANE』に出てくるCAの三戸舞はきっとそういうことを簡単にしちゃうんだろうな…。そんなことを考えながら朝食の準備をします。準備と言っても朝食はお腹が空かないので平生は食パン四分の一切れにジャムをつけたものとジャスミンティーにしているので眠くてもできる簡単な作業です。この食事が一番胃の負担が少ないと思っています。最近は小麦粉よりお米のほうが胃にいいと言われていますが…。これからはおにぎりにしようかなと最近思っています。5分ほどで朝食を済ませ歯磨きとメイクをしに洗面所へ向かいます。鏡の前に立っている人間は全体的に薄く瞳孔さえも見分けられないような色素の目、色が薄く体調の悪そうな枯れ葉のような色の唇、奇妙なほど白い肌、あまりに薄くて蛍光灯と鏡によって光と同化してのっぺらぼうのように見えてしまいそうです。私はグリッターだけ塗りました。濃いメイクやカラコンをしてもよいのですが、自分を着飾るのに抵抗を感じたり、学校行事などで宿泊をする際、教師数人とは同じ部屋なのですっぴんを見せざる終えないのでもし濃いメイクをすれば私の薄さに気味悪く思われる気がして怖いのです。人に自分の変化に気づかれ表情や態度が変わるのを見るのが辛いのです。視線の不自然な動き、目の瞳の揺れ、口角の動き、どんなに小さなことでも嫌でも見えてしまいます。変化に気づかれ気味悪く思われるくらいだったら初めから薄く少し警戒されるほうがましです。メイクを終えたら次はヘアセットです。縮毛矯正がかかったセミロングヘアーは今日も寝癖一つついておらずまっすぐでした。無意識に髪の毛の下から後頭部に触れていました。不自然に毛量が薄く地肌が感じられ、途端に脳裏に親の顔が浮かびました。すると突然胃からせりあがってくるものを感じ私は急いで手を下ろしメイクを済ませ洗面所を出ました。身支度を終え朝6時20分。家を出る時間です。ドアを開けた瞬間強風が直撃し、とっさに紫色のネックウォーマーで口をかくしました。息を吐くと口の周りに温かい空気が広がるのを感じました。なんだか守られているような気分になります。自転車をこぎ職場に向かいます。今日は風が強くてこぐのが大変です。いつもは徒歩で横断歩道で止まるタイミングで小説を読みながら出勤しますが今日は時間がなかったので自転車を使うことにしました。よりによって強風だなんて。風は人の感情なんて気にせずに平等に吹きます。風という冷たい針は暖かい心が持つ厚い布には刺すことが出来ませんが、私のような冷え切った心が持つ薄い布には隙間を見つけて刺してきます。風によって下がってきてしまったネックウォーマを鼻の位置まで引き上げました。15分ほど自転車を走らせるとコンクリートでできた水色の建物が見えてきます。それが私の職場、青崎高校です。青色の鉄筋コンクリート構造の建物です。築50年くらいの建物ですが何度も改修工事をしているので建物の内部は今どきの構造をしています。私はこの高校に去年から国語の教師として勤務しています。
鳥の鳴き声で目を覚ます。鳥が僕の家の窓をくちばしでつついていた。ねずみ色をした普通の鳥だ。窓を開けてやると落ち着き僕の肩に乗った。今日は良いことがあったようだ。僕はこいつの背をなでてやった。僕のもとに毎朝来る鳥はいつも同じやつだ。左の翼に大きな傷を負っている。他の動物から危害を加えられたのだろう。前に道端で翼から血を流して地面に倒れているのを発見して家で処置をしてやってから、こいつはくるようになった。初めてこいつを見た時に僕は少年時代に飼っていた鳥を殺された記憶がフラッシュバックしてきて保護する気にはなれなかったが、僕の娘と似たようなものを感じいつの間にか家に持ち帰っていた。1週間前の出来事である。僕は一人暮らしであり話す相手もいなかったのでこいつが来てくれると嬉しかった。もう僕のことなど好きではない娘に会えているようで、娘とまたやり直せているようで、娘を支えているようで楽しかった。こいつの翼を治療していく自分をみつめるとこれまでの過ちを償っているようだった。今日も僕はこいつとの対話を原動力にして生きる。過去の過ちによってつくられた孤城の中で。
職員室の自分の席につき今日の授業で使用するプリントを印刷しようとすると隣の席の島寺冴に話しかけられました。島寺は40代くらいの女性で私の上司にあたります。英語の教師をしていて、私によく話しかけてくれる上司です。彼女は白髪混じりの髪をかき上げながら言いました。
「あっ、一ノ瀬先生、おはよう。高校前にある京堂つぶれちゃうんだってさ〜。今のうちにたくさん食べときな?」
島寺は缶コーヒーを飲みながら、熱いのか悲しいのか目を細めて言いました。京堂とは京都の料理を提供している弁当屋で私は毎日京堂のお弁当をお昼に買いに行っています。だから驚きました。また寂しくなりました。もう京堂のお弁当が食べられないからという理由だけではありません。京堂の従業員の一人に救われたという思い出があり、京堂が大好きだったからです。あれは私が青崎高校への勤務が決まりはじめての出勤日のことだったと思います。これから沢山の人と関わっていくことへの恐怖で足がガタガタして職場になかなか向かえずよれよれと歩いていたときに後ろから自電車を引いているエプロンをした女性に大丈夫かと声をかけられました。事情を話すと『相手は自分が思うほど自分に興味がない』という言葉をかけられました。たった一言の冷たい言葉でしたが、私には温かく感じられました。幼い頃の境遇が原因か私の心は相当冷え切っていたのでしょう。その言葉は私を安心させ、今も臆病な私はこの学校という人間関係オンパレードの場所で生きていけています。その日からその女性が経営しているお弁当屋京堂に通うようになりました。恩返しとして売上げに貢献したいと思ったからです。私は昔から人間不信なところがあり小説にのめり込むことで現実逃避し生きてきました。小説があればどんなにつらいことでも我慢できました。だから就活のとき教育機関につとめてもどうにかなると思っていました。しかし、現実はそう甘くなく、人と関わることの恐怖や、教師からのパワハラに耐えきれずとうとう小説を読んでいない時は無防備な気がして、落ち着かない状態になってしまいました。いつも小説は私の直径1メートル以内にあります。私の精神安定剤のようになっています。そんな臆病な私に勇気を与えてくれた女性のいる京堂がなくなるなんて…。私がこの世で信じている人間はあの女性だけでした。今度あの女性に挨拶に行こうと思いました。
島寺に教えてくれたことのお礼を言った後、かごに、輪ゴムでひとまとめにしてあるプリントを入れ職員室を出ました。今日は1時間目に授業があります。私が持っている学年は高校2年生です。高校2年生は勉強や芸術に重い分銅を置いて努力する人と遊びに重い分銅を置いて努力する人で二極化する時期です。双曲線の第一象限のようにどんどん学力にも行動力にも差がついていきます。決して限界には達さずによいペースを保ちながら。その姿を本当は褒めてあげるべきなのに私は全くそれができていません。私はこの性格のせいか生徒に距離を置かれる教師であるからでしょうか。それはきっと言い訳に過ぎません。教師という建前をきっと知れていないのです。もう教師になって2年が経つというのに。つくづく自分の無力さを感じました。自分の担当のクラスの生徒の顔と名前はなんとなく分かってきました。大体8つくらいのグループに分かれています。とにかくスクールカースト上位の座を保ち続けている派手なグループ、共通の趣味でお互いを満たし合うグループ、会う機会があれば話す程度のグループ、多様性というのでしょうか。しかし全員がグループという名の種に属しているわけではないようです。1人ポツンといる子もいます。私のように。伊織という人です。自己紹介の時に唯一下の名前で紹介してきたので名字はあまり記憶にありません。彼はいつも喋らずしんとしています。授業の様子を見てみてもこれと言って注目するようなところは見当たりません。いつも真顔と呼ばれる顔で表情一つ変えずこちらを見ています。授業中私の方をずっと見ている人は彼だけなのでとても印象に残っています。彼は文系のようです。彼の成績表の国語と社会と英語のみに現れている10という文字をみて察しました。こんな時昔の自分と比べて少し嫉妬してしまう自分がいます。もちろん生徒が質問に来て教えたところがテストであっていたりすると嬉しさを感じます。しかし島寺などの年配の先生が生徒を愛おしそうな目で見守っているような姿を見るとまだまだだなと自分の未熟さを感じます。きっと彼女たちは自分の生徒の成長を誇りに思っているのでしょう。生徒と自分を同じ高さのステージに立たせ身長を比べているような私は生徒を支える立場になれているのでしょうか。きっとなれていません。気づくとため息をついていました。チャイムがなり日直が号令をかけました。私は気持ちを切り替えるために深呼吸をしました。生徒と目を合わせるのが怖いと思う気持ちを抑えてみんなの顔を上からなぞるように見ます。これだけでも成長した方です。初めて授業をした時は教室の後ろの張り紙のあたりを見るので精一杯でした。私にとって人の視線は自分の足の裏を持ち上げる手のようです。地に足がついている感じがなくとても不安になります。顔を強ばらせながらも教師として一人ひとりを受け入れようと自分に言い聞かせました。そして授業の最後にちょっとした小説を書くという課題を出しました。私にとって大事な小説。それを課題にしてみるという新しい試みです。読書ノートをつけると言う宿題を出してもいますが、結局書くだけで提出前に急いで書くという子もいるようです。それでは意味がありません。こんなクラスでも、みんな小説を提出してくれるでしょうか。みんな良いこと書いてくれるはずだという期待よりみんな出してくれなかったらどうしようという心配が先に来てしまう私は劣っている教師です。心の中でみんなで頑張れと言いました。その言葉が本心からの言葉かはわかりませんが。きっと自分の罪悪感を消すためです。ドアの前に立っている次の教科の先生に会釈し教室を後にしました。教室を出ると残暑を感じさせるむおんとした熱気を感じました。しかしそれは私にとって少し安心感を与えるものでした。廊下は見渡す限り3.4人しかおらず空気がきれいでした。耳を澄ませ音を精一杯聞き取ろうとしました。鳥の鳴き声、カーテンが風になびく音、すべて清々しい気持ちにさせました。次の授業のために隣の教室に向かいました。ドアの前に近づいたとき数人の女子生徒の会話が耳に入ってきました。私は反射的に立ち止まり窓と扉の隙間に隠れました。
「てかさ、前から思ってたんだけど一ノ瀬きもくね?」
「えそれなそれな」
「がちむり」
他の子も話に乗ってきました。
「流石に色白にもほどがあるよね?』
「分かる、見るだけで吐き気がするんですけど」
「次は一ノ瀬の授業とかやだ。もうサボろうかな」
話はどんどん誇張していきます。彼女たちの言葉の重さを無視した吐き捨てるような声に胸が締め付けられるのを感じました。息を数秒間止めてしまった時のような苦しさを感じます。教師2年目ですがこんなに近くで自分の悪口を聞いたのは久しぶりです。
“白い、きもい、 脱色している”
何度も言われました。やっぱり皆私の顔が受け入れられないみたいです。足がすくみました。原因は容姿でした。私は父に似て虹彩の色素や肌や唇の色、髪の毛、あらゆるところが昔から周りより薄かったのです。就学する前まではその特徴は大好きな父とお揃いだったので私の誇りでした。しかし周りから言われるようになってからはただのコンプレックスでしかありません。クラスメイトは何もかもが薄い私が醜かったのでしょう。みんな私の目を見ると必ず動揺しました。小学生の時の私のあだ名は『アルビノ』でした。教師さえもそう呼びました。私は熱くなっている胸に手を当てました。すると胸の奥の方から指の間を抜けて何かが外へ出ているのが分かりました。手の感覚からして冷たいですがろうの煙のように柔らかいです。目には見えないため何かわかりませんがこれは精神的な影響が関係しているのかもしれません。ついに精神的にも限界がきたのでしょうか。そんなことを考えているとチャイムがなったので急いで教室に入りました。この変化が私の生活を黒く染めるなんてその時は思っていませんでした。
昼休み、お腹が空いて来た頃いつも京堂に唐揚げ弁当を買いにいきます。私が勤めているこの学校は生徒がゆっくりお昼ご飯を食べ、その後も友達との交流ができるようになっています。私にとっては苦痛でしかありません。京堂に行くには十分な時間があります。道の途中で子猫とその親の猫に出会いました。その子はとても大切にされているようでした。私の家庭とは大違いです。悲しみを通り越して呆れた気持ちになってきました。そんなことを考えながら歩いていると京堂の看板が見えてきました。木の板にかかれている墨が薄くなってきています。長年大事にされてきたという看板にはとても温かみを感じました。お店に入ると今日も女性は笑顔で出迎えてくれました。女性は優しく細い目を寝かせるようにしています。招き猫のようです。その時ふと、自分に異変を感じました。いつもこの女性の笑顔に和んでいる自分がいます。しかし今日はなぜか心が縛り付けられるように痛くなっている自分がいました。私は女性に心配させまいと無理に笑顔を作りました。きっともうすぐ京堂がなくなってしまうので悲しいのでしょう。
「いつものよね??今から揚げあがるからちょっと待っててね翼ちゃん!」
と女性に言われ、そのちょっとした待ち時間に小説を読むことにしました。今読んでいるこの小説はいつも持ち歩いていて、何度も繰り返し読んでいるものです。これを読むといや、持っているだけでもなんだか心が落ち着く気がします。私のこだわりを言っておくと本のカバー、本の見た目がいいと気分が上がるので自分で作ってみたりしています。布とリボンで可愛らしくしてみたり、はたまたちょっと変わった包装紙で包んでみたり、暗い気持ちも包んでくれるのがブックカバーの存在です。最近では島寺らにもらったお土産の包装紙で包んでいます。いくら人が嫌いになったって包装紙に罪はないのですから。
こんなことを考えていると、
「本当に翼ちゃんは小説が好きねぇ〜。」
女性はそう言いながら唐揚げ弁当を私にくれました。唐揚げは私の大好物です。
受け取って代金を支払いました。そしてお礼を言ってお店を後にしました。唐揚げのいい匂いがするなぁ、食べるのが楽しみです。
定時を過ぎ、帰る前に図書室へ小説を借りに行くことにしました。図書室は西棟の3階にあります。赤レンガのような色の塗装がしてある階段を静かに足音を感じながら上がっていきます。2階には高校2年生の教室があります。生徒のためにも自分のためにも少しでも生徒と関わる機会を増やすため高校2年生の教室を徘徊して全員が下校しているか確認することにしました。高校2年生は4クラスありますがどのクラスも明かりはついていませんでした。念の為全てのクラスを窓から除くと3クラス目の教室で女子生徒が校庭側の窓の方をみて何かをしているのが見えました。私は少しためらいを感じました。喉から出てくるはずの何かが無くなり空洞になったような感覚がしました。しかし教師としてしっかりしないと自分が許せません。私は勇気をもって教室の外から話しかけました。ホースに口をつけて息を吹きかけた時のような枯れた声が出ました。
「…ねえ、もう帰る時間だよ?どうしたの?」
すると彼女は一瞬肩を震わせ振り返りました。手にはスマホを持っていました。この学校は校内でスマホの使用が禁止されているはずです。彼女は私がスマホを見ているのに気付いたのかあわててポケットに隠しました。
スマホ、学校で使っちゃだめだからしまって。
本当は教師としてそう言うべきであり、いつもの私なら戸惑いながらもそう言っていたでしょう。しかし今の私は教師としての任務を遂行しなければという正義感よりも心がどくどくと鼓動に合わせて下落していくような感覚に陥っていました。注意をする側なのにいったいなぜでしょう。唇が震えるのを感じ何も言わずに彼女の前から去りました。彼女の顔が和らぎ口角が上がるのが見えました。彼女の笑顔は私を軽蔑するような笑顔でした。彼女から背を向けると途端に先程の感覚は消え、彼女に注意出来ず結局成長が出来ていないことへの悔しさが残りました。最近起こる異質な感情が邪魔をする現象は相手と向き合っている時のみに起こるようです。私は疲れを感じ図書室に行くことを辞め職員室のある1階への階段を下って行きました。足音がいつもより長い周期で廊下に響いていました。
こんな寡聞で後ろ向きな私の人生でも心から楽しいと感じる時があります。それは大好きな小説家の新作を買いに行く時です。新しい小説に出会えるなんて…。普通の人にとってはコンビニにお茶を買いに行くようなものかもしれませんが、私にとっては新しい家に引っ越しをするようなものです。期待する気持ちと書店に立ち入る人は知らない人ばかりなので話しかけられたらどうしようという少し不安な気持ちがあります。しかし実際に本屋に入ってしまうと入るまでの緊張感など忘れて安心感に満たされるものです。皆が相手のことに興味がなくなりひたすら小説を求め続ける空間だからです。今日は私が2ヶ月間待ち続けていた夜塚美霊の新作『月心中』を買う予定です。今日が発売日なので風邪を引いてもお腹を下しても全身骨折してでも絶対行こうと決めていました。それくらい私は彼女の小説が好きでした。本屋に入るとすぐに新作の小説のコーナーに向かい、『月心中』を手に取りました。表紙には橋の上に浮かぶ美しい満月の影の絵が描かれていました。心中のイメージが伝わってきます。裏表紙のあらすじを読むかぎりこの作品は何らかの原因で周りから非難されるようになり、常に人にかまってほしいと思うあまりに夜に皆が見ている月に本気で行こうと思い、常に月を眺めてしまうかぐや姫病となった患者を主人公にした小説であるようです。かぐや姫病の患者は最終的に満月の夜橋の上から身を投げてしまうらしく、満月の夜に何人もの患者が身を投げるので月心中という言葉を夜塚美霊は作ったようです。そのセンスにただただ尊敬しました。私は残酷な小説が大好きです。残酷な物語こそ小説の定義だと思っているほどです。現実では人が不幸になることは望んでいませんが、小説の世界は自由です。不幸な少女の気持ちを感じ被害者面をしたり罪悪感を抱いたりした時に自分の人生の濃さを感じます。私はすぐに小説を購入し本屋を出ました。幸福感につつまれて今までの嫌なことが全てなかったような気がしました。飛ぶことができそうです。帰り道、歩きながら先程購入した本を眺めることにしました。しかし私の考えは浅はかでした。ページを開いた瞬間風が吹き挟まっていた栞が飛んでいってしまいました。後ろへ行った栞を追いかけようと振り返るとそこには栞をもった男性がいました。いや服装からして男子高校生でしょうか。学生は頭の上で栞をキャッチしていました。彼は私の顔を見ると少し笑って
「やっと会えたな。」
と言いました。この人は何を言っているのでしょうか。疑問符で頭がいっぱいになりました。小説の中の美しいシーンのように思えました。ところがそのわだかまりは一瞬で消えました。なぜなら彼の容姿に驚いたからです。彼は私と同じで目の色素や、肌の色、唇が薄い人でした。しかし彼はひまわりのような笑顔をみせました。顔全体で作り出された見とれてしまうような眩しくて大きな笑顔は、ひまわり以外の言葉は思いつきませんでした。真っ白で凹凸のない画用紙を少し加工しただけでどうしてこんなに鮮やかなひまわりを描けるのでしょうか。彼はきっと私みたいに顔の薄さに苦労しているだろうに。そしてなぜか私はその少年に懐かしさを感じていました。真逆のルートで世界一周旅行をしスタート地点の対蹠点で出会った時のような奇跡を感じていました。顔も知らないはずなのに。私は疲れているのかもしれません。何も言葉を発しない私に彼は少し寂しそうな顔をし栞を押し付けて走っていきました。彼はなにを言っているのでしょうか。少し気になりましたが、考えても特に私に利益のないことだったので気にしないことにしました。それより早く帰って小説を読もうと思いました。夕日が帰路を知らせるように背後から私を照らしていました。
休み明けの朝のことです。
「一ノ瀬先生〜ちょっと相談があるんだけど」
放課後、島寺が帰る前に私に話しかけてきました。なにがあったのでしょうか。
「なんですか?」
「先週、1組の赤津美弥さんが放課後に相談に来たのよ。友達に裏切られる日々が続いて勉強に支障がでるほど精神的に辛くなってしまっているらしいのよ。ドタキャン?とかはぶられたとか言ってたわ。私流行に疎くてよく分からないけど。そこで人に裏切られたショックから立ち直る方法はないかってきかれたんだけど、ちょっと英語の教師の私には難しかったみたいで答えられなくてこまっちゃったわ。一ノ瀬先生だったらなんて答える?」
裏切られた時に湧いてくる憎しみを消す方法…。確かに答えはすぐに頭に浮かぶので時間的にはかなり話せると思います。しかし到底生徒に言えるような内容ではありません。だってすべてから逃げているとても劣悪な内容なのですから。私は昔から常に裏切りと生きてきた、といっても過言ではない人生を送ってきました。それくらい私は裏切りを人より沢山受けてきたのです。人間と関わることが苦手なのも、裏切りと生きてきたせいだと思います。私の隣に裏切りを置き続けたのは幼少期私が関わったすべての人です。人生は裏切りの連鎖だと思っています。物心付く前まで私はとても暖かい家庭に生まれたと思っていました。記憶力が未発達な脳の中はぼやけて顔はわかりませんが両手を広げて私を迎える手、頭を撫でられた感触など温かい記憶に満たされていたからです。『ずっと守るからね』と言う誰かの声も聞こえてきました。私はその言葉が嬉しかったのです。しかし、そんなひだまりのような温かい生活はずっと続きませんでした。3歳の頃からだんだん現実を見始めました。私は普通の家庭ではないと。瓶を投げつけられたり叩かれたりするのは愛情表現ではないということを。それから私の幼少期は真っ黒に染まりました。母は働かず、昼間はパチンコ、夜はクラブに行って遊び惚けていました。帰ってくる時間は早くて朝の1時。帰ってくると酔っているためぎゃーぎゃー癇癪を起こすのです。それに対し父は私に絶対翼を悲しませないからなと約束してくれ生計を成り立たせるため勤め先を増やし必死に働き、さらに母の面倒もみていました。しかし母は行動を改める気などなく、良くなるどころかさらにエスカレートしていき、ついには薬物を乱用しはじめるほどになりました。真面目で家族思いな父もとうとう疲れ果てて呆れておかしくなり、私が16歳になる頃には人柄が変わってしまい働かず、一日中酒を飲んで暮らすようになりました。私の頭を殴ったり、大声で騒ぎ立てたりしています。運の悪いことに両親の祖父母は既に亡くなっており周りに頼れる人などおらず、私は生活費を稼ぐためアルバイトを始めざる負えなくなりました。高校が終わるとすぐに職場に向かい家に帰るのは21時でした。お金を貯めるため悪い仕事にも手を染めました。しかし私がどんなにお金を貯めても財布は膨らみませんでした。母が私の財布から勝手にお金を引き抜いていたからです。私は夜中に母が私の財布からお金を取り出しているところを見た時胸が苦しくなりもう誰も信じることができなくなくなりました。このまま死んでもきっと私は後悔などせずむしろ快感を感じるだろうとも思いました。だれも笑わなくなった私の家庭にもう明かりや希望は無くなりました。
学校でも同じでした。小学生の頃『アルビノ』と呼ばれている中で唯一私を『翼ちゃん』と呼んでくれる人がいました。水崎未菜という子でした。その子は誰にでも平等に接する子で、児童からも教師からも信頼が厚い子でした。初め私はその子をひそかに頼りにしていました。あの子がいれば私の居場所は確保されると思っていました。しかし私の居場所なんてそもそもなかったのです。ある日私は見てしまったのです。あれは小学六年生の二学期のことでした。放課後、忘れ物を取りに教室に戻ると耳を塞ぎたくなるくらいけたたましい笑い声が教室から響いていました。教室に入ることがためらわれたので私は諦めて帰ることにしました。その時私は聞いてしまったのです。あの声は確かに水崎未菜の声でした。そして彼女は確かにこう言いました。「うちのクラスの白色固体って邪魔だよね。植物ならとっくに死んでいたのにね。」植物の白色固体はクロロフィルという成分が足りず光合成を行うことができないので死んでしまいます。おそらくそのことを言っていたのでしょう。水崎未菜のことは内心少し信頼していたのでショックでした。めまいがしました。そこからの記憶はありません。ただ私のことですから誰かに助けを求めるとは思えないので自力で重い体を引きずって帰ったのだと思います。裏切られたのはこの1回だけではありません。中学3年生の時アルビノと言ったことを謝ってきた男の子に映画館に誘われ、当日現地に行くとその子は違う女の子と歩いていました。その夜その子から罰ゲームを信じた私が低能だという内容のLINEがきました。最も傷ついた出来事をあげるとこのくらいでしょうか。とても私にとって生きづらい人生でした。もともと心が強い子ならこんなこと我慢できるかもしれませんが私はなぜか小さい頃から弱い子でした。だからきっと普通の子が背負える嫌な荷物を背負えなかったのでしょう。
そんな私は昔から小説を読むのが好きな子でした。父が小説家だったからかもしれません。父が優しかった時期のことです。私は父の部屋の本棚をあさり四六時中本を読んでいました。私にとって小説は友達であり終わりのない旅のようで小説を読むと長旅をしたような誇らしい気持ちになりました。将来父のような小説家になりたいと思うくらいでした。しかし現実を知り、変わってしまった人間不信な自分や精神的に弱い自分は小説家の「自分の言葉が不特定多数の人の意見を変えたり気持ちをかえたりするかも知れない職業」ということに恐怖を覚えました。人が何を思っているかわからないから責任なんて取れません。そして夢を諦めました。結局たまたま受かった大学で教授に教師になることを勧められ、その圧に負けて教師になりました。
結局私が赤津さんに言えることとしたら、裏切りによる憎しみから逃れるためには現実逃避が大切ということです。この意見が正解か分かりませんが、効いたという事実があるので、私は現実逃避という手段があること、私でも正しい答えが見つからないことを赤津さんに伝えました。それが私にできることの最大限の行為だと思ったからです。そんなことを考えているともう定時でした。今日は授業数が少なく作業時間が多かったため仕事はすでに終わっていました。私は島寺に挨拶をし学校を出ようとしました。椅子を引いたその時です。何かがバキッと割れる音がしました。すぐに椅子を引いて確認するとなんとヒビの入ったボールペンが落ちていました。慌てて拾うと、待っていましたという勢いで険しい顔をした上司が飛んできました。社会科の藤原芳子です。美意識が高くいつも派手な格好をしています。
「どうしていつもものを壊すの?もしかして瞳が薄すぎて見えないの?」
と彼女は険しい顔をして叱りつけられ、書類を押し付けられました。きっとこの仕事をやれというメッセージです。周りの視線がみんな私の方に集まりました。胸が締め付けられる思いがしました。止めてくれる人なんていません。生徒は全員下校していますし、唯一私に話しかけてくれる島寺はもう帰ってしまっているためやりたい放題です。なんて薄汚い考えなのでしょうか。渡された資料をみるとそれは教室の管理者の名簿を作成するという仕事でした。私の担当外で全くわからないものでした。
「私の担当外でわかりません」
というと
「はぁ?学生時代、部活で習わなかった?どんな内容でも後輩は学習するためにやるって習わなかったわけ?まあこんな顔も存在も薄い人を入れてくれる部活なんてないか。私は今日は研修で忙しいから無理だ、壁の棚の資料の中にそれに関連したものがあるから自分で探せ。」
と命じました。私は知っています。今日彼女は赤いハイヒールでした。赤いハイヒールを履いている時はいつもガラの悪いネオンの光る街に入って行きます。つまり研修というのは全くの嘘なのです。またボールペンを仕掛けたのも彼女です。もし彼女でなかったとしたらあんな早く私のもとに来るはずがありません。なんて無責任な教師でしょうか。私は泣き叫びたい気持ちを我慢しようとしました。しかしなぜかやったぞと喜んでいる自分がいました。自分で自分がなにを考えているのかがわからなくなりました。喜ぶのはむしろ藤原なのに。私は仕方なく仕事を引き受けました。書類を受け取った時に冷たいふわっとしたものを感じました。藤原の体から感じました。それは前に私が感じたものと一緒でした。同じ悩みをもっている人は案外たくさんいるのかもしれません。かといって藤原にこのことをいえる訳がありません。教員が全員帰った後、壁にぎっしりと並んでいる1000冊ほどの資料を物色し始めました。私より頭一個分ほど高い場所に昨年度の教室管理者名簿と書かれた書類を見つけました。取ろうとすると手が滑って書類が私の後頭部に落ちてきました。私はあまりの痛さに床に座りこんでしまいました。金属製の書類棚によりかかり後頭部を冷やします。涙が溢れました。今までの学校でのつらい出来事がフラッシュバックしてきました。あの教師は私が初めてこの学校に来た時に困ったらなんでも相談にのるよ、と言ってくれた人です。人間はなぜこんなに裏切ることが好きなのでしょうか。私は将来都合の良いように言って後で相手の感情を捻じ曲げるような人間にはなりたくないと思いました。せめて生徒を愛せなくても人権だけは守ってあげたいと思いました。
翌朝、私は自分の席で課題の小説の評価をしていました。B,B,C,B…表現が間違っていたり、言葉の使い方が違っていたり、言葉が重複していたり、悪く言えばさっと即興で雑に考えられたようなパッとしないような作品がみられました。内容も高校生カップルが付き合うなどおちのない話ばかりでした。私の説明の仕方が悪かったのでしょうか。小説を書かせるのはまだ早かったのでしょうか。今までの授業は生徒たちに伝わっていなかったのでしょうか。原稿用紙に書くのは斜線ばかりです。表現の使い方のミスが多いです。しかし、次の文章に私の手は波動を変えました。私の手は自然に花を描きました。そう花丸です。A評価。即答できるほどその文章は素晴らしかったのです。明るい話で私的には小説とは呼べなかったが美しい比喩表現、繊細な言葉の使い方、細やかな伏線の引き方、全てがパーフェクトで人を物語の世界に引き摺り込む力がありました。内容は、身寄りのない老父が一羽の鳥に恋をし自分が死ぬまで一緒に過ごす一時を描いた少し切ない物語です。これは誰が書いたんだろう 、と名前を見ると花鳥伊織とかかれていました。正直意外でした。彼がこんな素晴らしい才能を持っているなんて。感激しました。
「あら、花丸なんて初めてじゃない。どれどれ見せて」
突如、背後から声がしました。声の主は島寺でした。ちょうど給湯室から席に戻る途中だったらしく手に持っていたマグカップを自分の席に置き、私の机上にある伊織の原稿用紙を手に取り読み始めました。
しばらくして彼女は私に原稿用紙を返しきらきらした目で言いました。
「感動しちゃったわ。すごい。この年代の子が書く小説って登場人物が自分の年くらいの高校生の作品が多いって聞くけどまさか鳥と老父の話なんて。よく考えたものね」
「あっ、そう言えば今度ミラノ文庫の小説コンクールに応募するのを勧めてみたら?」
そういってパンフレットを私に手渡しました。そこには風によって髪をなびかせた少女の横顔が大きく印刷されていました。テーマは『羽ばたき』でした。青春という感じがしました。ポスターの雰囲気は世界のどこまでも広がる可能性や自由さを描いた彼の小説にどこか似ているものを感じました。よいアイデアだと思ったので彼に勧めてみることにしました。彼なら入賞できる気がしました。彼なら優秀な小説家になれるのではないかと思いました。
3時間目の授業でみんなに書いてもらった小説を返した後、みんなにお互いの書いた小説を読んでほしいと思ったのでコピーを取ったものをファイルに入れて教室の端に置いておきました。みんな読んでくれるでしょうか。生徒たちは皆彼の小説にとても心惹かれていました。授業の終わりに彼の席へ行きました。彼は分厚い本を読んでいました。題名は『LGBT ゲイ』と書かれていました。彼はゲイなのでしょうか。本に覆いかぶさるようにして読んでいて表情は伺えません。彼は私の気配に気づくとすぐに本を隠しました。
「ねえ、小説、普段から書いているの?」
彼は顔を上げ、すこしびっくりした表情をして答えました。
「はい。小説を書くのが好きなんです。今までいろんな小説を読んできてそう思ったんです。僕も小説を書いてみたいって。」
「そう。今回の課題を読んでいてあなたの小説には心惹かれるものがあったの。1つ提案があるんだけど小説コンクールに応募してみない?あなたなら、あなたの小説なら、きっと良い結果が出ると思うの。」
「小説コンクールですか...。僕の小説を。」
教室の窓から風が差し込み、すこし間があってから伊織くんは答えました。すこし戸惑っている様でした。
「少し考えさせてください。」
私は頷いて彼の席をそっと離れました。やはり迷惑だったのでしょうか。
伊織に背を向けた途端、顔のあたりにどっと熱が帯びてきたのを感じました。生徒に話しかけることなんて久しぶりです。きっと気づかないうちにかなり神経を使っていたのでしょう。世間ではコミュ障という分類に入る自分が嫌でした。
放課後、明日の授業準備を終え、帰ろうとすると女性教師2人に呼び止められました。同期の宮内詩と山内梨奈です。宮内の栗色に染めた髪は今日も綺麗に巻かれていた。ピンクのアイシャドウもぱっちりとした目にくっきりと塗られていて二度見してしまうような顔です。山内もずっと黒いボブで髪にそこまでこだわりはないようですが、いつも同じ角度で引かれたアイライン、自分も眩しくなってしまうのではないかと心配になるほど濃く塗られているグリッターは周りに一目置かせる力があります。2人は少し遠慮がちに言いました。
「翼ちゃん、よかったら今日一緒にご飯行かない?」
正直、今は人と外食をすることが苦手でありまた2人と盛り上がれるような話題があるわけでもなかったので断りたかったのですが職場関係がこれ以上悪化することは避けたかったため了承しました。私たちは学校から30分ほど離れたイタリアンレストランに行きました。もちろん提案したのは2人です。4人席を2人と私で向かい合って座りました。同期と言っても話すのは久しぶりなので緊張します。2人はすぐさまメニューを楽しそうに眺めています。私は出来るだけ軽いものをと思い、小さめのハンバーグを注文することにしました。注文を一緒にしてもらうために2人に頼むものを伝えると
「え、翼ちゃん少なくない?なにダイエット??」
と言われましたが笑って誤魔化しました。2人はピザやパスタ、サラダなど歓迎会や送別会をやるのかと思わせるほど大量に注文していました。ノリが悪いと思われてそうでとても居心地が悪いです。料理を待っている間、2人は黙る気配なく話を続けています。どこからこんなネタが出てくるのでしょう。私はひたすら聞いていました。2人は、私が参加できないような話ばかりします。2人で行ったLiveの話、2人が共通して担当してる学年の話。きっと今日私を誘ったのは私と話したいからではありません。あまりにも人を避ける私を校長先生が心配してあの2人に声をかけてくださったりしたのでしょう。余計なお世話です。私は職場の人と上手く関わる気があるのにもかかわらず上手く関係を築けていないわけではありません。人を信じられないのです。怖いのです。教師と生徒であれば教師は自分を守るために生徒を守るという利害関係が生じるので生徒の安全は守られます。しかし同じ立場となるとそういう利害関係は成り立ちません。だから何をされるか分からないのです。2人が高く笑う声が雷鳴のように変化し私の脳内に響き渡ります。2人が不快にならない様に私が話に参加しようとして、言葉を発するたびあからさまに話題をさっとを変えてしまいます。しばらくして料理がきて少し沈黙が続きました。突然宮内が私の方を見ました。
「翼ちゃんてさ、うちらのことどう思ってる?」
彼女は鎖骨にかかっている髪を手のひらで背中へはらいながら言った。彼女の黒い瞳の中にモノクロの私の顔が映っていました。私はもちろん頼りにしてるよ、と普通の答えを言おうとしていました。しかし急に胸の中が掻き回されるような思いがしました。そして急に呆れた時の様な冷めた気持ちが沸き起こりました。そして私は言っていました。
「どうせ私のことなんてどうでもいいって思ってるんでしょ。」
そう言っている自分に驚きました。そんなこと思っているつもりは全くありませんでした。突然現れた謎の感情に振り回されてしまったのです。その謎の感情が私の声帯を震わせたという言い方が正しいのでしょうか。2人は目を一瞬大きく見開き顔を見合わせ私を軽蔑した様な目でいいました。
「昨日の会話聞いてたんだね、あはは面白い。翼ちゃん以外とうちらとおんなじで性格悪いんだね。あははは。」
昨日の会話とはなんのことでしょうか。全くわかりませんでした。しかしそれよりも私は居心地の悪さに耐えられず代金を押し付けて店を出ました。ちょうど降り始めた冷たい雨が私の頬を撫でました。
伊織に小説コンクールに応募するように勧めてから数日がたった日のことです。私は放課後図書室にいました。今日はどんな小説を読もうか。ぎっしりときめ細やかな布の表面のように、規則正しく並ぶ本の背表紙を眺めていると視界に誰かの指が入りました。その人は夜塚美霊の”integral”という本を取りました。この本は夜塚美霊のデビュー作で数学研究者の日常をリアルに描いたものです。数学者の人間関係、家庭環境、政府との関係など数学者が今まで飲み込んできた苦さが伝わってきました。先ほど現れた指を目でたどるとなんだか見たことのある顔にたどりつきました。よく見てみると伊織でした。普段は前髪が長めで瞳はほとんど見えませんが、今日は髪を真ん中で分けていて彼の瞳が見えました。彼の瞳の色は早朝の光のようにとても薄い色でした。ふとそう思った瞬間、思考がめぐりこの前のサイン会であった少年を思い出しました。そう、あの少年は伊織だったのです。私は驚きを隠せず思わず借りようとしていた小説を手から落としてしまいました。彼もあの小説家の本が好きなのでしょうか。衝撃を受けた私にはそんなことくらいしか考えられませんでした。
翌日、私は2時間目に国語の授業が入っていたため高校2年生の教室に向かいました。教室に入った瞬間、投げかかる生徒の視線が気になります。人間と関わるのが苦手なら教師に向いていない、やめればいいのに、と思うかもしれません。確かに私は生徒と上手く向き合えませんが、生徒の文章と向き合う力は誰よりもあるし、そのことにやりがいを感じています。だから今こうして教師を続けられています。どんなに緊張する授業だって耐えられます。文章の書き方を生徒一人一人に合った書き方を推薦するのも楽しいです。ああ、次は一ノ瀬か、よくわかんないやつで授業も面白くないし退屈だな。きっとそう思われているに違いありません。私はだれにも目を合わせず教壇に行き荷物を置きました。すると前から生徒がこちらに向かってくるのを感じました。顔を上げると伊織でした。
「先生。やっぱり僕この前おっしゃっていた小説コンクールに応募してみようと思います。」
彼は薄い瞳をこちらに向けて言いました。
「この前コンクールの話をした時、少し迷っていたけど大丈夫?何か私にできることがあったら聞いて。」
私からそんな優しい言葉が出るとは思いませんでした。きっと嬉しかったのです。
「はい。迷うことがあったら先生に相談させていただきます。」
彼の表情は少しほぐれていました。口角が少し上がっています。
「がんばって。」
「ありがとうございます。毎日少しずつ校正していく予定なので放課後良ければアドバイスをもらってもいいですかか。」
「いいよ、私でいいなら。文芸部の人に相談して部室で一緒に作業してもいいか聞いてみるよ。」
「では、明日からの活動楽しみにしておきます。ありがとうございました。」
そう言うと彼は自分の席へと戻っていきました。
早速、次の日から活動が始まりました。最初はお互いに好きな小説家のお気に入りの表現などを紹介し合い小説に生かしたりました。何度も読み返して納得のいく表現を探したりもしました。今日は物語のプロローグの校正をします。私が口を挟むのは文法があっているかだけであり、文章の表現やストーリーには一切口を出さずにただ彼が書くのを見守っています。私の考えを入れてしまうと、黄色い花畑の絵に黒い絵の具を洗い流した水入れを倒してしまったような彼の色を最大限に発揮させた文章になりません。それは私にとって本望ではありません。
「そばで見てるから書いてみて。」
彼はもっと厳しい指導を想像していたのか少し驚いた顔で私の顔を見つめてきましたがやがてうなずき自分の原稿用紙を読み始めました。彼は教室では物静かな人ですが、私と二人でいるときは陽気な人でした。面白い小説の話や世間話など色々な話を私にしてくれました。彼自身のことも。彼はやはりゲイでした。私だけにこっそり教えてくれたのです。彼の話しは客観的かつ主体的で今どきの高校生を感じさせない知能の高さも持っていました。彼は基本的に一方的に話します。私はそれをひたすら聞いています。彼の意見を聞けることは嬉しかったです。しかし1回だけ私に質問してきたことがありました。
「先生。昔どんな学生だったんですか?」
急に手を止めて彼は私に聞きました。私の心のセンサーが鳴りました。これは素直に答えるべきなのでしょうか。
「普通だよ。普通の人生。」
裏切り続けられていたなんて言えるはずがありません。生徒になんて。教師にだって言う気はありません。
「つまんないなー。もっと心開いてくださいよー。」
彼は口を尖らせました。その目は笑っていました。
「ほら早くやって。」
私はこれ以上質問をされるのが嫌だったため彼を小説の世界に引き戻しました。
彼は少し残念そうな顔をしましたがすぐに原稿に視線を戻しました。彼が小説に向き合う姿はまるで本当の小説家のようでした。少しでも気に入らないところがあると首をかしげすぐに元の文を赤ペンで線を引いてしまいます。訂正した赤い文字もすぐに線を引いてなんども書き直します。もう原稿の上には赤しか見当たりません。よほどこだわりが強いのでしょう。
彼の一生懸命な横顔を見ていると不思議とある思い出がよみがえってきました。あれはきっと小学5年生の夏でした。小説家になりたいという夢を持っていた私は暇さえあれば小説を書いていました。初めて第一作が完成した時、学校の図書室の司書にそれを見せに行きました。幼いながらも小説家になるためには新人賞をとるか出版社に小説を見せにいくかしないといけないことはわかっており司書経由でそれを行おうと考えていたのです。ところが司書に見せてみると、暗くて怖いと言われました。一ノ瀬さんらしくない。せめて自分らしい小説が書けるようになってから来なさいと言われました。それから自分らしさについて考えました。帰り道、自分の小説の初めの一文をつぶやきました。
「母が死んだ。事故だった。」
たしかに暗いお話で八方美人で明るく振る舞ってしまっていた私にはお世辞にも私に合っているとは言えない雰囲気です。しかし小説の文章に自分らしさは必要なのでしょうか。文章は自分勝手に自由に書いても良いのではないでしょうか。もし自分らしく書いてしまったら主人公は自分と同じ性格になってしまいそうです。だから私はいつもみんなに言っています。小説の文章は自分らしく書かなくて良いと。文章ほど感情や環境を自分勝手に操れる空間はないと。それはきっと自分があの司書のようになるのが嫌だからです。
毎日そんなふうにゆったりとしながら彼が小説を校正しているのを見ていると小説を通して彼のことがわかっていくようでした。彼は普段前髪で目を隠しているため暗い印象ですが、ときどきひまわりのような笑顔をみせます。彼はとても素直な子でした。とてもありがたかったです。生徒のことを愛せる日がいつかは来るのではないかという思いが細雪のように私の中に降り積もるようでした。伊織という人間について知りたいと思っている自分がいました。
放課後に校正を初めて2週間程度が経過した頃、いつものように二人で小説の校正をしていると伊織は私の心に響くある一言を呟きました。
「小説には主人公を裏切る悪者もいますよね。そんな人物にもきちんと小説の中の役割があります。僕はそんな登場人物たちの役割を考察してみるのが好きなんです。本当はどんな気持ちなのか。その人の境遇などの情報を照らしあわせたりしてできるだけ小説内の描写から読み取ってみたりして。」
その言葉は私に家族のことを思い出させました。『裏切る』ということ。それがどんなものなのか。活動が終わって家に帰ってからも、寝ても覚めても私の頭の中に残り続けました。私は裏切るという言葉に対する考察が甘かったのかもしれません。少し先走りすぎたのかもしれません。もう少し慎重に思考、判断し生きようと思いました。
それから数日後の放課後。それは突然起こりました。伊織がとんでもない発言をしたのです。
「僕やっぱり小説コンクールに応募するのやめようと思います。」
私はとても驚きました。だって小説は順調に出来あがってきていたのですから。とくに昨日だって嫌そうな素振りは見せなかったし、とにかく私は衝撃を受け、彼がそのような発言を何故したのか問うこともできませんでした。彼は突然私に原稿を押し付けると背を向けて走り出しました。私は後を負いました。彼は屋上へ向かっていました。私は、屋上の端に座り込み空を見上げる彼の横に立ちました。夕焼けの中を鳥が忙しなく飛び交っていました。
「鳥って翼があるから空にとびたてていいですよね。僕も翼がほしかったなあ。昔飼ってた僕の鳥が友人に怪我をさせられたんです。あの日、友人が僕の鳥を見にきたのです。友人はきらきらした目で珍しそうに鳥を眺めていました。僕は完全に彼を信用していました。でも僕が部屋を離れている間に鳥は友人に羽を傷つけてしまったんです。その鳥はやがて死んでしまいました。僕はその時翼の大切さを強く実感しましたよ。翼は人間でいう手の役割へと進化しているという理由もあって、人間にとっても翼は必要不可欠なものです。」
名前が同じだけだがなぜか自分の存在を肯定されているようでとても温かい気持ちになりました。
その後しばらく沈黙が続きましたがやがて彼が口を開きました。
「ねえ、先生、臆ってどういう意味か知っていますか?」
なぜいきなりそんなことを聞くのでしょう。小説に関係する話でしょうか。
「臆病の臆とか…?」
私は思った通りに答えました。
「それもあるけど心を入れておくところという意味もあるんです。」
彼は急に遠くを見て懐かしそうに目を細めました。そのプレパラートのようなガラスには、悲しみを表す寒色の染色液が染み込んでいました。
「昔親に教えてもらったことがあるんです。人の心には鳥が住んでいます。その鳥の檻を臆と呼びその鳥の翼は記憶を持っていて精神的苦痛などにより剥げ落ちでいきます。小さくなった翼はやがて他人の翼を奪おうとします。奪った翼は自分の剥がれ落ちた翼を補うのに使われ、それによって自分の感情と相手の感情の両方を感じることがあるらしいです。」
「え、じゃあもしかして、心が悲鳴をあげるっていう表現ってただ単に擬人法を使っている訳じゃなかったってこと?」
「そういうことになりますね。」
もしかして、私から出てくる冷たくふわっとしたものは剥がれおちた翼なのでしょうか。そして今まで感じていた余計な感情は私の臆の中に入ってきた相手の感情なのでしょうか。私はいままでの謎が解けた気がしてすこしスッキリしました。しかしそれと同時に彼と一緒にいるとき彼の感情を感じたことが無いことに気づき不思議に思いました。
着信音で目が覚めました。びっくりしました。なぜなら電話なんて久しぶりだし、時刻は朝の2時だったからです。誰からでしょう。スマホの画面を確認すると見たことのない番号でした。なぜだか嫌な予感がしたので恐る恐る出ました。
「一ノ瀬翼さんですか?こちら海芳市立病院です。先程、お母様が中毒で救急搬送されましたが先程お亡くなりになりました。」
聞いたとたん私は携帯を落としてしまいました。頭のネジが次々と外れていくように頭がくらくらしていました。急に押し寄せた腹痛でとてもひどい状態になってしまいました。
「葬儀なんて…私やりませんからね。勝手に死んじゃえばいいのに!!!』
気づいたら私は叫んでいました。こんなこと言ってはいけないと分かっていましたし、病院の人にこんなこといっても仕方が無いことも分かっていました。きっと私は悲しかったのです。裏切りを受けたが私の心の片隅では優しい母がなぜかいたのだと思います。そしてその心がそんな母に生きててほしいと願っていたのだと思います。だからこの頬に涙がつたっているのでしょう。悲しむ一方でいままで憎んできた人の死を悲しむのがなぜだか悔しくてたまりませんでした。わたしはその場にうずくまり拾い上げたスマホをぎゅっと握りしめました。今日は仕事に行けそうにないです。
その夜、また同じ夢を見ました。少女はいつも通り住民と楽しそうにおままごとをした後花を咲かせこの世を去ります。しかし胸がしめつけられる思いはもうしませんでした。何度も見ているからかもしれません。幸せそうに笑う少女に嫉妬しているのかもしれません。一体この少女は私にとってどのような存在なのでしょうか。私は寝返りを打ってうつ伏せになり枕に顔をうずめました。
この服に身を包むのは去年の採用試験以来でしょうか。湿気取りの匂いが染み付いた黒いスーツを着用しました。下のズボンもきっと採用試験以来のご対面だと思います。これを着るのは異例の行事のときです。私には結婚式などに呼ばれる仲の人はいません。つまり私にとってこれを着ることは慶事ではないということを意味します。またこれを着る時が来るなんて。ため息がでました。髪型はシニヨンにし黒いシュシュをつけました。薄い色の髪に黒いシュシュは驚くほど似合っていませんでした。まるで満開の桜の木にカラスが留まっているようでした。しかし私ははシュシュを取ることをしませんでした。母に対する対抗心かもしれません。あなたはこんな羞恥心もなく、反抗的な子供を作り上げたということを主張し馬鹿にしたかったのかもしれません。鏡の前でくるりとまわって身だしなみを確認し家をでました。自転車で15分ほど走らせ、最寄りの青崎駅に到着します。ここから電車に乗り紫善町へとむかいます。私のふるさとです。タイミングよく電車はすぐ駅に入ってきたし中も空いていました。私は奥側の椅子の左端に座りました。日本人はシャイな性質を持っている人が多いのか、端の席を取ることの大変さを感じます。列車に乗っていると早く読もうとした建物の標識もあっという間に逃げてしまいます。気後れしているようでなぜか落ち着きません。まだ母の死という現実についていけません。そんなことを考えているとまもなく紫善町駅に到着することを告げるアナウンスがありました。私は慌てて立ちドアの前に移動しました。同じ車両の乗客は誰一人ドアの前に立っていませんでした。きっと周りの人は駅についてから席をたっても十分間に合うという事実を日々の出勤という修行で知ったのでしょう。なんだかあまり電車に乗らないことが周りの人にばれてしまったような気がして恥ずかしくなりました。早く周りの人の死角に入りたくて急いで電車を降り、早足で駅を出ました。それからスマホのマップを利用し目的地までの行き方を確認しました。建物はとても大きくすぐ見つかりました。新島ファミリーホールという建物です。入り口には母の名前がかかれた看板がありました。本当に母がなくなったと証明されたような気がしました。けれども数日たったからでしょうか、もうなんの感情も湧いてきませんでした。私は気づいたら父の姿を探していました。しかしどんなに探しても父の姿は見当たりませんでした。父は来られないほど衰弱してしまったのかと思っていると後ろから声をかけられました。振り向くと50代くらいの男性が立っていました。
「翼ちゃん、久しぶり。もしかしてお父さんを探しているのかな?」
この人は確か私の隣の家の住民である宮本さんだ。昔両親の容態が手に終えないほど悪化した時に何度か助けてもらったことがあります。白髪混じりのとかされていない髪は宮本さんに優しい雰囲気を与えていました。
「はい。お久しぶりです。」
やっぱり私の声はかすれてしまいまいた。臆病な自分に気づき今すぐ逃げ出したくなるような思いがしました。
「実はこの式を企画したのは芳光さんではなく私なんだ。彼は今日ここへ来てないんだ。俺も説得したんだけど全然行くといってくれなかったんだ。」
私は父と自分自身が式を仕切ることができなかったことを申し訳なく思い、頭をさげました。母と結婚しておいて葬式に来ないしなんて父の恨みもかなり強いものです。
「翼ちゃん、頭を下げないで。ぜひ今日の帰りにでも芳光さんに会いに行ってやってくれないか。きっと会いたがってるよ。」
嘘こけ、と思いました。しかし宮本さんに非はないので無理やり笑顔を見せうなずいておきました。実家なんて死んでもいくものですか。
「あっそうそう。翼ちゃんに伝えたいことがあるんだ。」
宮本さんはぽんっと手をたたいて話しだした。
「この前妻と駅前のカフェに行ったら芳光さんがいて男子生徒と話しているところをみたんだ。その男子生徒は何かを一生懸命書いて芳光さんはそれに指摘をしているようだったよ。」
とうとう私のことは興味がなくなって違う子供を構うようになったのでしょうか。一人暮らしを始めてだいぶ傷はいえたはずなのにお前はいらないと言われた気がしてまた胸が苦しくなりました。私の顔をみて察したのか宮本さんは申し訳なさそうな顔をしながら頭をぼりぼりとかきむしりました。
「あれ、翼ちゃんは知らなかったのか。てっきり翼ちゃんの彼氏かと思っていたよ。ごめんね。あはは。彼氏と彼女の父親と2人で話すなんてないか、あはは。ごめんごめん。芳光さん、趣味が合う子を見つけたのかな。あははごめんね今のは忘れてほしい。」
といって宮本さんは去っていきました。父が違う遊び道具を見つけて、弄んでいることに驚き腹がたちました。精神的におかしくなった母を見て私に嫌な思いをさせまいと一生懸命働いてくれていたんじゃないの?正義のヒーローみたいな顔には裏があったなんて。口の中が苦くなりました。私は手に持っている次第が書かれた紙を握り潰しポケットに入れると走って新島ファミリーホールを出ました。私はもう分かっていました。きっとこの人も私を裏切る人であるということを。
走りました。とにかく走りました。風を切ることで頭を冷やすためです。それだけではありません。自分自身に自分が泣いていることを気づかせないためです。風よりも速く走り涙を吹き飛ばしました。泣いていることを認めたら両親がした裏切りを許したようで悔しかったのです。母を悼み、父の行いを許しているようでとても悔しかったのです。冬の北風が私の頬を刺します。いつもならすぐネックウォーマーで隠していましたが、今はとても良い刺激でした。ずっと走り続けられるわけもなく息がだんだん切れてきました。体制も前かがみになってきてしまってます。10分ほど走ったところで異変を感じ立ち止まり顔をあげました。その途端私は言葉を失いました。なぜなら眼の前には私の実家があったのですから。なぜ私はこんなところに来てしまったのでしょう。一目散に走ったせいで周りが見えなかったのでしょうか。いや本当は私は父に会いたかったのかもしれません。あんなに散々裏切られた父に?私が父の前に姿を見せることでの存在を再認識してほしかったのかもしれません。酒を一日中飲んで酔い崩れている父に?私の中の強がりの私と本音を言いたい私が喧嘩を始めていました。人間は他人の心情を知るよりも自分の心情を知る方が何倍も難しいと思います。相手によく見えるように心情を着飾るからでしょう。だから免疫が外から入ってきた病原体と戦うように、人間も他人との関わりにより作りだされた偽の自分と真の自分が喧嘩をするのです。本当に人間は厄介な生き物です。引き返そうとしましたが、父が息をしているか確認したら出ようと思い家に入ることにしました。私はおそるおそるドアノブを回しました。父は昔から鍵を閉めない人でした。だからすぐ開くことを知っていたのです。案の定鍵はかけられていませんでした。おそるおそるあけると中からタバコの副流煙の匂いと酒の匂いがまざった悪臭がしました。私はあまりの強烈さにむせました。すぐにマスクを着用し中に入ると想像を絶する酷さでした。父はリビングにいて母の仏壇の前で寝ていました。父にも母の死を悼む気持ちはあったのでしょうか。周りには酒の空き瓶と使用済みのタバコが転がっていました。呆れて言葉を失いました。キッチンにはカップラーメンのカップが乱雑に積まれていました。まだ正義のヒーローを演じていた頃の父からは想像できない酷い様子でしたでした。人間ってこんなに退化するのだと感心させられるほどでした。父は私に背を向けた状態で寝ているのでまだ私の訪問に気づいていない気がします。
なんと声をかけるべきか迷っていると父は体勢を変えずに
「翼か。俺の介護に来てくれたのか。」
と言いました。父は私の訪問に気づいていたようです。私は気づくと持っていたペットボトルを父に投げつけていました。
「ふざけないで。お父さんはどんだけ私を裏切るの?私を一生守ってくれるんじゃないの?私が泣くことがないように努力してくれるんじゃないの?全部嘘だったの?不倫して、正義のヒーローごっこして酒のんで。ほんとなんなの?親ならもっと子供の見本になるような責任感がもっと必要なんじゃないの?お母さんの葬式にもでずになにやってんの?」
次から次へと発せられる鋭い矢に自分でも驚きました。今まで抱え込んでいたものが体内で膨張し外へ流れ出しました。気づいたら私は泣きながら怒鳴っていました。
「正義のヒーローごっこってなんだ。そんな遊びを翼とした覚えはない。」
私はその言葉に呆れ父と完全に縁を切ることを決心しました。父とは相容れないということが証明されたと思ったからです。私は外にでて職場に明日休みを取ることを連絡しました。家族の一員として父がこの先暮らしていける程度の家にしてから縁を切ろうと思いました。あの小さかった頃の父だけに恩を返すつもりで。私はまず家中転がっているゴミをすべて拾い、床も磨きました。次にキッチンのカップラーメンをすべて片付け、排水口も掃除しました。排水口に嘔吐物がつまっていてこちらまで吐き気をもよおしました。次に二階の母の部屋に家に行き遺品整理をしました。次々と家事をこなしているとあっという間に翌日の昼になっていました。睡眠時間を取らずずっと家事をしていたのでくたくたでした。その間父は手伝う気は一ミリもないらしくずっとねころんでだらだらしていました。時折、
「肩をもんでくれ」だの「酒をよこせ」だの「タバコ買ってこい」だの言ってきたが気づかない振りをしました。
「じゃあね。もうに二度と帰ってこないから」
実家に帰ってから一晩明けた朝、私はコンビニのサラダが入っている袋を投げつけ父にそう告げ返事も待たず家を出ました。雨が私の頬を撫でました。私は振り向かず駅に向かって走りました。やはり私は父を信じることができませんでした。
田舎なので帰りの電車は夕方であるのにもかかわらずとても空いていました。私はもう来ることのないと思われる自分の故郷を車窓越しに眺めました。そこは私が学生時代のときと何一つ変わっていない光景が広がっていました。子供の頃からよく一人で来ていた公園、必死で働いたコンビニ、嫌いだった高校、約20年ほどいた故郷一つ一つに思い出が詰まっており私色に染まっていました。
ふと人気のない野原にぽつんと立っている赤い屋根の一軒家を見つけました。私は自分の息が止まったことに気づかないほど驚きその家に引き寄せられました。その場所は初めて父が絵本を買ってくれた書店でした。朝、寝ぼけている私を起こしどこに行くのかと問う私に何も答えずただ、私の手を引いて連れて行ってくれたのをよく覚えています。そのサプライズが最初で最後の父からのサプライズでした。店員に桜色の紙で包んでもらった絵本を私にくれたときの父の笑顔、ありがとうと言った時に頭を撫でてくれた時の感覚は今でも忘れずに鮮明に残っています。私は涙を流しました。ずっと父のことは嫌いだと思いこんでいましたが実は昔の父の存在をまだ信じていたのかもしれません。昔のようにまた偉いね、すごいよと頭を撫でてほしかったのかもしれません。私は昔の優しかった父に祈りました。いつかまた目を覚ましてほしいと。
きっと来るだろうとは思っていた。今日は妻のお葬式だから。きっとあの子のことだから、僕に憎しみや恨み、殺意、どんな感情を抱いてたって来てしまうだろうと思っていた。だからこうして今娘がこの家にいることに驚いていない。葬式をやらなかったこと、部屋が汚いこと、数日間酒しか飲んでいないこと、娘に怒られると思うことは沢山思い浮かんだ。しかし過ちの孤城の中の僕は謝ることをしなかった。娘が妻に似ているからか僕は娘を見ると妻がいた時の生活を思い出し、むしゃくしゃしてしまったからだ。僕は言った。
「翼か。俺の介護に来てくれたのか。」
案の定この言葉は娘を怒らせた。しかし僕は言い返さなかった。我に返ったのだ。僕に言い返す権利などない。僕は娘が帰るまで過ちの渦に飲まれたままでいることにした。罪悪感が縄のように身に絡まった。
次の日の早朝、僕はいつも通りあいつに起こされた。精一杯窓を突いてきた。酒のせいで衰弱した体は立ち上がるのも苦である。壁を使いながらやっとのことで立ち上がり体を引きずりながら僕は窓を開けてやった。しかしこいつは家には入ってくるものの俺の肩に乗ろうとしなかった。ただ僕の顔の前で羽をぱたぱたとさせている。よく見るとあいつの羽はもう治りかけていた。僕は察した。あいつは自分の力で、生きていこうとしているのだと。それを支えた僕は少し誇りに思った。きっとこれは亡き妻からのメッセージだと思った。僕はその場に横たわり最期の浅い呼吸を感じた。あいつは僕の腰に乗って優しく虚しい声で鳴いた。
翌日も休みを取っていたためいつもより遅く起きて久しぶりに本棚を整理していました。私は本を買ったあと本棚に適当に入れてしまうのでいつも本棚がぐちゃっと見えてしまいます。奥の方に手をのばすと一冊本が出てきました。2年ほど前に買った夜塚美霊の作品です。彼女の作品は一文一文に熱く深い意味が込められていて気づいたら読みふけってしまいます。彼女の作品を見ていると彼女が輝いて見え自分も頑張ろうと思う反面、自分と比べ自己嫌悪をしてしまいます。彼女のような人になるためにはかなりの努力をすべきだとはわかっていますが才能やセンスなどやはり土台の質というものがあると思います。私にはそれが重く、苦しいのです。しかし苦しい思いをしてまでも彼女の小説には読む価値があります。そんなことを思いつつ小説を読んでいるとスマホが震えました。確認すると島寺からでした。
”一ノ瀬先生大丈夫?元気出して〜♡”
というメッセージと猫が手を振っているスタンプが送られてきました。島寺に事情は話していないので私になにがあったかは知らないはずです。私はなるべく心配をかけないように平凡な返信を心がけます。
”大丈夫ですよ!元気です”と私。
”良かった〜!何か持ってく?食べ物とか”と島寺。
”お気遣いありがとうございます。元気なので大丈夫です。”と私。
”あらそう?無理しなくていいのよ”と島寺。
”翼ちゃんに仲良くしてもらってるからお礼したかったのよ。”
“いつもお世話になっていますm(__)m”と私。
”まあゆっくりでいいから復帰してね!みんな待ってるわよ!”と島寺。
”明日には行けると思います。”
と返し画面を閉じました。私のトーク画面ではなんの進展もない不毛なコミュニケーションが行われています。私は島寺を信じているわけではないので仲良くしているとも思っていません。ただの職場の人間です。職場で失礼なく話せればそれでよいのです。また本棚の整理を再開しました。一通り終えた後全体を見渡すと左端の棚に紙が挟まっているのに気づきました。抜いてみると原稿用紙でした。その本には題名やプロローグはなくいきなり本文が書かれています。
”母は死んだ、事故だった。”
私が初めて書いた小説でした。丸っこくか弱い字でぎっしりと書いてあります。ぶどうジュースでもこぼしたのか、うっすら桃色のシミが見受けられました。私は小説家になれていたら今どんな生活をしていたのでしょう。誰にも顔を見られずアルビノなどと呼ばれずにはいられたにちがいありません。自分の未熟さに少し心臓の位置が下がりそうな心の重さを感じ私は原稿用紙を破りました。どんどん文字が裂かれ読めなくなっていきます。小説家に憧れていたころの強い自分の心も切り裂かれていくような気がして涙が溢れました。
小説をミラノ文庫本社へ送る日、私は朝伊織が職員室に完成した小説を持ってくるので少し早めに出勤しました。しかしなぜだか周りの教師の様子に異変を感じました。皆私の方に視線を向けますが、私が目を合わせるとすぐ反らします。私は一体何をしてしまったのでしょう。とても不安になりました。席につくと、島寺冴が険しい顔をしながら私に話しかけてきました。
「一ノ瀬先生、あんたそういう感じだったの?ショックだわ。」
「何があったのですか?」
彼女はスマホを操作し私に画面を見せてきました。誰かのSNSの投稿でした。そこには夜、職員室で書類をあさる私の写真があり、『#絶対金目当てで入ってきた教師』と書かれていました。おそらくこの前、藤原に頼まれた資料を夜遅くまで残って探している時の写真です。ちょうど書類の棚は見えていなく私の姿しか撮られていないためお金を盗んでいるという解釈も無理はありません。当時藤原は私に仕事を押し付けた後すぐに学校を出たためきっと違う人物です。なぜこんなひどいことをしたのでしょうか。頭の中でいろんな推測が飛び交います。周りの人の心情が自分の心の中で合わさっていくのを感じました。剥がれ落ちた翼を求めて私を避難する周りの人から翼を取ろうとしてしまっているのです。とうとう複数人から取るようになるなんて。吸血鬼のようです。自分の胸元に手を当てるといつもより冷たいふわふわとしたものが自分の体内からふきだしているのを感じました。胸の中がもわもわとしていて私の本当の感情を狂わせ始めます。私は今どんな顔をしているのか想像できませんでした。きっと周りの人と同じで人を見下すような顔をしてしまっているのでしょう。私の感情はもう胸の奥底へ押しつぶされてしまっていることでしょう。
「おい、一ノ瀬くん、ちょっといいかね」
急に背後から校長先生の声がしました。体が人に対して拒絶反応を起こし震え始めました。吐き気がしました。私はこのことを説明しても言い訳だと思われ意味がないと思いハンカチで口を抑え、申し訳ございませんと言い職員室を飛び出しました。こんな時に任されていた資料を取ろうとした、と言えればなんて楽なんでしょうか。学校での出来事でしたがこの世界はまだ信頼を勝ち取った世界ではないなと思いました。私は職員室を飛び出した足で屋上へ走りました。とにかく誰もいないところへ行きたかったのです。周りに誰もいないはずなのに先程のまるで獣をみるような周りからの視線がまだ向けられているような気がしてとても胸が苦しくなりました。とうとう私は屋上までの階段の途中でつまずいてしまいました。腰のあたりに強い衝撃を感じました。痛みにいっそう涙があふれだします。私は声を上げて泣きました。体も、心も弱くてすぐにくじけてしまう私は私が嫌いでした。自分自身まで信じられなくなりました。
「一ノ瀬先生!」
誰かが叫びながら階段を駆け上がってくるようです。
カタカタカタカタ
足音はどんどん大きくなります。
「来ないで!!!!!」
気づくと私はぎゅっと目をつぶってそう叫んでいました。しかし足音と声はどんどん大きくなっていきます。その声は学生の声でした。低くとても響きます。
「一ノ瀬先生!!!!どうしたんですか!」
真後ろから声がしました。声の主は彼、伊織でした。肩で息をしているような息使いでした。全速力で階段を駆け上がってきたのでしょう。
「帰って。授業始まるよ」
私は生徒になるべく心配をさせないよう平然を装って答えました。振り返らずに。だって、こんなメイクが崩れさらに充血した目をみせたら余計心配させてしまいますから。
「何があったんですか。教えてください。」
彼の声が耳を塞いだ私の手の隙間から容赦なく通り抜けて入ってきます。
「なんでもないよ。早く教室に戻りなさい。」
私は先程よりも少し声色を明るくし答えました。
「どうせ信じてくれないからですか?僕は信じますよ。一ノ瀬先生の言うこと。」
その言葉は私の心拍数を増やしました。どきりとしました。教師事情を生徒に言うことは許されないよいう理由が国語教師としての外側の私の気持ちで、打ち明けたい気持ちはあるけどどうせだれも信じてくれないから言いたくないという人間としての内側の私の気持ちがあったからでしょうか。返す言葉が無く黙っている私に彼はまた言いました。
「例え周りの人がみんな一ノ瀬先生を信じてくれなくても僕は信じますよ。世界はそういうものなんです。自分を信じてくれない人がいれば、自分を信じてくれる人だっているんです。だってひとそれぞれ考え方や価値観が違うんですから。そういう利害関係があるから社会は成り立っているんです。」
「なぜ私を信じるの?私は君を信じていないのに」
こんなことを言うのは教師として失格だと思いました。しかし情けながら私には彼の温かい心ならどんな鋭いものでも包み込むことができるだろうという思いがあったのかもしれません。
「僕は大きな大学病院で生まれて小さい頃から空手と将棋を習わせてもらえて毎月お小遣いをもらえていて家事もやってもらえて、一瞬当たり前のことのように思えるけどこんな生活はとても恵まれているんです。両親に信じてもらえているからこそ僕は期待され僕にお金を貢いでくれるんです。これは親自身が良い子供を育てたことの優越感を得るためという理由だけでは到底できないことですよ。僕は本当に幸せなんです。だからもらった信頼を今度は僕が誰かにあげたかったんです。一ノ瀬先生を見た時に思いました、ああ、この人にしようって。実は一ノ瀬先生はずっと僕が信頼をあげたくて探し求めていた人にそっくりだったんです。僕は一ノ瀬先生を選びました。一ノ瀬先生、あなたに僕があげることのできる信頼をすべて渡しますよ。」
「っっつ。」
彼の優しい言葉に涙があふれました。彼が本当に信頼をあげたかった相手が私ではなくても、今信頼をもらっているその事実が嬉しくてたまりませんでした。
「っっありがとう。少し落ち着けた気がするよ。」
私は振り返って彼をみて笑いました。彼の笑顔に負けないくらいのひまわりのように。
その後彼を教室に帰らせ、私は階段に座り込み広い天井を眺めました。
”一ノ瀬先生、あなたに僕があげることのできる信頼をすべて渡しますよ。”
先程の彼の言葉が頭に流れます。こんなことを言ってくれる人のいる世界は案外まだ自分が思うより安全な世界なのかもしれません。もう少し信じて良いのかもしれません。私は少し気持ちが軽くなったところで立ち上がり職員室に戻りました。
その日の放課後、私のもとへ来た彼はいきなり私の手を引いて学校を抜け出しました。彼の手は大きく固くがっしりとしていて苦なく私の手を包んでいました。私はなんとなく、いや、ついていきたいと思えたのでついて行くことにしました。伊織はしばらく走って野原にいきました。何も言わず地面に座ったので私も隣に座りました。彼は私の手をまだ握ったまま、自分の胸に当てました。彼の胸は硬くあたたかく、あの冷たくふわっとしたものは感じませんでした。
「君の心の翼はつよいんだね。君の翼を取ることができないよ。」
「僕の心は強いからそう簡単には翼が抜けないですよ。」
彼は優しくささやくように言いました。彼はまたひまわりのような笑顔を見せました。本当に真っすぐで元気な子です。気づいたら太陽が沈み月が顔を覗かせていました。私は帰ろうと言い立ち上がりました。しかし尻もちをついてしまいまいました。立ち上がる瞬間に彼が私の手を取り、自分の胸の方に引き寄せたのです。彼は真っ直ぐな瞳をこっちに向けていいました。
「ここで寝よう。僕が守ってあげるから。」
何処かで聞いたことがある言葉でした。私が世界で一番受け入れられない毒薬のような言葉でした。小さい頃の思い出がフラッシュバックしてきました。母のパチンコ代になるお金を身を削って働いて稼ぐ自分、人と目を合わせると怖がられる自分…自分…自分…。いつもなら苦しくてその場でうずくまっていました。しかし今日の私は頷いていました。彼はゲイで私を愛してないはずなのにどうしてこんな恋人のような声をかけられるのでしょう。また彼の優しさに助けられてしまいました。私は彼のなかに溶け込んでしまいそうです。自分が人を信じだしたことも、教師として生徒と密接な関係を持つことは許されないことも分かっていました。だから驚きと自分の緩んだ気持ちを引き締めようとしている自分がいました。しかし自分と同じ色のはずなのにまっすぐで優しい彼の目を見てしまうとまだここにいさせてほしいと願っている自分もいました。彼に私の閉ざした心の扉が開かれてしまったのかもしれません。私はそのまま彼に身を任せ寝てしまいました。いままで私なりに精一杯生きてきたつもりだから、今日だけは許してください。そう天に祈りました。なにより私は人を信じることができるようになったことが嬉しかったのです。
その夜また同じ夢を見ました。少女はまた母親と思われる人と家を訪問し楽しそうに遊び、死の花を咲かせ旅立って行きます。しかし今日はいつもと違う夢でした。母親と思われる人が私の目線までしゃがみ私の肩へ手をのせ私を見ている動作が追加されていたのです。その顔は母でした。母の顔を鮮明に見ることができたのです。大きい目、長く引かれたアイシャドウ、濃い唇、とても濃いメイクでとても似合っていました。彼女は私の母だということはあの女の子は私なのでしょうか。顔が似ていないし昔殺された記憶がないため少し奇妙に思えました。所詮夢の中です。勝手に話しを作るなんてよくあることです。きっとそういうことでしょう。しかしなぜ私はこんな夢をみるのでしょうか。
今日もいつもと同じ様に眠くて、憎くて、寒い朝がきてしまった、と思っていました。しかし今日はそんな朝ではありませんでした。学校につくと職員室がざわついていました。先日の私のいざこざがあったからでしょうか。よく耳を澄ませてじっとしているとだんだん状況がわかってきました。なにかとトラブルがあったようです。いつもなら気にしないようにしていますが今日はなにやら嫌な予感がしたので島寺に尋ねてみました。すると彼女はとても苦しそうな顔をし私を会議室に入れました。
「私もまだ受け入れられてないことなの。実はね昨夜花織伊織君が交通事故で亡くなったの…。」
えっっ
私は気づくと走りだそうとしていました。そう気づいたのは島寺に腕をつかまれてからです。彼女はすこし眉間に皺を寄せ静かに首を横に振りました。
「一ノ瀬先生、伊織くんに思い入れがあったでしょ。だからすっごくつらいと思う。なかなかすぐには受け入れられないと思う。でもね、もっと受け入れられないことがあるの。昨日の放課後一ノ瀬先生が帰った後、伊織くんがわたしのところに来たの。一ノ瀬先生はもう帰ったわよっていったら首を横にふったの。そして『明日一ノ瀬先生にこの手紙を渡してください。』と言って私にこの封筒を差し出したの。」
島寺は持っていた厚みのある白い封筒を私に渡しました。
「明日自分で渡せばいいじゃないって言ったらなぜか微笑むだけで何も言ってくれなかったのよ。仕方なく了解、っていったらありがとうございます!って。でも彼の手は震えていたけど瞳はいつもよりきらきら輝いていたわ。ふしぎよね…。」
ここまで言うと島寺はハンカチで顔を覆いながら泣き出した。私は泣くのをこらえながら渡された封筒を開けました。茶色くところどころシワがあり少し古い封筒のようです。「一ノ瀬翼様」と濃く癖のある字で書かれていました。そこには彼からの手紙と鍵が入っていました。その鍵は、私の実家の鍵でした。
* *
拝啓
一ノ瀬翼先生
どうか僕のずるいやり方を許してほしい。沢山の人を悲しませているのはわかっている。混乱させているのも分かっている。だから、なるべく順を追って説明できるように心がけようと思う。
君の両親は優しい両親と暴力的な両親どちらを覚えているだろうか。おそらくどちらも記憶としてあるはずだ。なぜ僕がそんなことが分かるかと言うと、君は生まれてから初めて発した言葉が『助けて。いやああああ』という言葉だったんだ。これは君の母の記憶だ。彼女がずっと小さい頃、彼女は両親の職場の同僚に手を傷つけられたんだ。幸い軽症で済んだが、その悲劇が原因で彼女の臆は傷つけられたんだ。精神的なダメージをくらうと人は臆の中の翼もそれを強く保つ能力もどんどん失っていくんだ。しかし彼女は本当に努力家で無理して社会に馴染もうと何度も挫折しながら頑張っていたよ。彼女が大人になって君を生む時にはかなり衰弱していて胎児に臆を作り出してあげることができなかった。そこで彼女は医師と相談して決断したんだ。自分の臆を君にあげることにしたんだ。もちろん僕は反対した。臆をあげてしまえば君の母はAIのように感情を失うからだ。彼女は確かに蒼白な顔をしていたよ。君の目には好き勝手に荒れている人間にしか見えなかったと思うが君の母は外から空っぽで無防備な心に入ってくる色々な感情や刺激に対応するのに精一杯努力していたんだと思う。だから君の母をどうか悪く思わないであげてくれ。君の心が少し臆病なのは君の母の臆を持っているからだ。その胸のなかにある鳥のぬくもりを感じてくれ。それが君の母だ。君は愛されている。昔も今も。これだけは忘れないでいてくれ。
そしてもう僕が誰かわかっただろう?この手紙を書いて、先生に託している僕は花鳥伊織と名乗っている一ノ瀬芳光だ。今朝の事故は僕のドッペルゲンガーを殺すための口実だったんだ。僕は君への謝る機会と謝り方を探していたんだ。ずっとひどいことをしていて済まなかった。あのときは僕も鬱になっていたんだ。治療して良くなった後もう今更無理だと諦めていた。だけど君に似ている鳥を拾って気づいたんだ。まだやり直せると。最後に君にあえて良かったよ。ありがとう。そしてすまなかった。
敬具
一ノ瀬芳光
P.S もしこんな僕を許してくれるのならばその鍵で僕の家に毎朝くる鳥をあと少しだけ保護してやってほしい。
* *
涙があふれました。物心ついたときから見てきた夢や私が感じていた愛は母の小さい頃の記憶だなんて。辛い人生の中で私をずっと影で支えてくれた1枚の翼は衰弱した母が私のためにと剥がれないように大事にしてくれたのでしょう。その翼は25年たった今も根強く私の臆の中の鳥も翼として存在しています。なんで気づかなかったのでしょう。不思議に思う気持ちと両親からの愛を裏切りだとと思ってしまった自分を情けなく思う気持ちが嗚咽へと変わりました。私はその場にしゃがみ込み泣きました。父が私を強くした。あの私が嫌った両親が。臆病な私を強くしたのです。今まで私は少しでもすれ違いがあるとその人を避け、心を閉ざしてしまっていました。しかし今回こうして2つの面の家族と関わり合ったことで自分の考えの浅はかさを知り、私は信じるということの大切さや温かさを学びました。両親によって自分の切れた羽を直し羽ばたけるようになりました。だから次は私の番です。強くなった私の翼にもう辿り着けない島なんてありません。私は手紙を胸の前でギュッと握りしめました。
「島寺先生、わたし小説家になります!」
私は泣いている上司にそう告げました。もう声はかすれませんでしたし心の中も雲一つない青空のように清々しい感じがしました。生まれてから25年、教師になって2年、友達や家族、生徒、教師と関わることが難しく苦戦してきました。周りの境遇もありますが自分が人間不信で弱いことが関係しています。何度も自分が教師に向いていないと確信し落ち込みました。しかし今、こうして自分が弱いのはもともとではないことや家族に大切にされていたこと、人を信じることの大切さを学び、人並みには心が広い大人になれた気がしました。そして私は人について誰よりも深く考え観察する能力があることに気づきました。今ならどこまでも羽ばたけると思いました。小説家になってから何度も大きな険しくそびえる島に遭遇すると思いますが、母からもらい父が気づかせてくれた翼を大きく広げて何度も飛び渡っていこうと思いました。また私のように人を信じられず悩んでいる人に希望を与えることができるのは私しかいないと思いました。もう自分が記した言葉が読者に与える悪影響を怖がる自分はいませんでした。なんだか人を信じられるように、いや信じたくなってきました。胸に手を当てましたがもう白くふわっとしたものは感じず透き通っている感じがしました。私の翼は自分の力で再形成しようとしているのです。
私の新しい人生のスタートを告げるように朝礼開始のチャイムが鳴り響きました。
どのくらいたっただろうか。外から差し込む朝日がパソコンに向かう女性の顔の鼻筋をなぞるように照らしている。突然彼女は筆を動かす手を止めた。何か完成したのだろうか。パソコンには大量の文字が刻みこまれている。タイトルは『臆』と書かれていた。
彼女は鳥籠を開けて鳥を親指に立たせた。そして鳥にそっと言った。
「お父さんの思い、後世に伝えられそうだよ。」
彼女は鞄から小さな紙箱を取り出した。蓋を開けると茶色の小さな凸レンズのようなものがひとつずつきれいに収納されていた。彼女はそれを人差し指にちょんと乗せ、ゆっくりと大きく開かれた瞳の中にそっとかぶせた。褐色が目に広がっていた。カラコンをつけた彼女の目は、しっかりと捉えた世界を褐色に染めていた。
END