神話の時代、世は怨霊で溢れていた。
人々は疑心暗鬼になり、ありとあらゆる犯罪や呪いが横行した。
それを嘆いた神々は人に力の一部をお与えになった。
その力を賜った選ばれし者たちは霊能者と呼ばれ、生者と死者の橋渡しを行い、世に安寧をもたらした。
こうして、世に霊能者が誕生したのである。
その力は脈々と受け継がれ、今この時も生者と死者、現世と黄泉を繋いでいる。
これは、その神話の続きであり、霊能者の末裔たちの物語であり、生者と死者の物語であり、救いと罪の物語であり、別れと恋、友情の物語であり、
そして、ありふれた家族の物語でもある。
1月1日、元旦。
まだ日が昇ってまもない朝焼けのなか、一人の少女が歩いていた。
その少女の名を桜という。
彼女の目には、幼い頃に姉・椿と見た光景が映っていた。
「姉さん、行ってきます。」
この世を離れた姉に向かってつぶやく。
今日は、桜にとって初めての霊能者としての仕事だ。
そして、その成功を祈るため、姉にこのことを伝えるため、鶴岡八幡宮へ初詣に行く。
「あと、1段っ」やっとの思いで登った石階段の先には朝早くにもかかわらず人がたくさんいる。
しかし何も苦ではなかった。「初仕事がうまくいきますように。」その願いを想うのがたまらなく嬉しいのだ。
今回は初仕事のために一般客とは別で一対一で祈祷をしてもらう。
桜はその場所へと向かった。
「桜様ですね。こちらへどうぞ。」
巫女さんに案内されるまま御殿の中を進んでいく。
案内された部屋で数分待つと、袴を着た神主の方が出てきて、そのまま祈祷が始まった。
神主の祝詞を耳にしながら怨霊と戦って死んだ姉のことを思い出す。
「うまくいくように見守っててね。」
そう言葉を残し、初仕事の現場へと向かった。
彼女の初仕事は、黄泉の国…死者の住まう国にいる一人の少年からの依頼だった。
彼の名は海。かつて継母と弟ーーー湊と暮らしていた。継母は彼のことを大切にしていたが海は馴染めずに反発。ある日、継母と喧嘩をした彼は衝動的に家を飛び出し、そして事故に遭い、そのまま亡くなったそうだ。
死んだ後もたった一人の血の繋がった家族である湊のことが忘れられず、今回依頼をしたのだという。
「俺は、もう一度湊に会いたい。伝えたいことがたくさんあるんだ」
海の言葉に、桜は姉の椿を思い出す。
「分かりました。そのご依頼、お引き受け致します。」
死者の願いを聴き、叶える。
それが現在の霊能者の主な仕事だ。
簡単なように聞こえるが、その実様々な課題が存在する。
その一つ、依頼が生者に関する場合である時。
生者のいるこの世と、死者の住まう黄泉の国は完全に切り離されている。
2つの世界は霊能者の力により、一時的に繋ぐことができる。
しかし、黄泉の国にも、死んでもなお成仏できずに悪霊となる死者は少なからずいる。
そしてその悪霊がこの世に迷い込むと、生者に悪影響を及ぼすことがある。
隔絶された世界を超えることは、奇跡であり、禁忌なのだ。
それ故、その禁忌を許された霊能者は相応の代償を背負わなくてはならない。
その代償はーーーーー
ー閑話休題。
桜は、海の縁の糸を手繰っていく。
海のように強い未練を残している者は、縁を探し易い。
深く、ふかく。
桜は、己の意識が何処ともわからない暗いところへと落ちていくような気がした。
「見つけた。」
人などほとんどいない、1月の海岸に佇む少年。彼が海の弟ーーー湊だ。
潮風になびく髪の隙間から見えるその顔は、どこか遠くを見つめている。
その姿はまるで、姉を恋しく思う妹ーー桜自身を彷彿とさせた。
「お隣よろしいですか?」
「僕のことですか?…構いませんよ。」
沈黙が降りる。
二人で打ち寄せる波をただ漠然と見つめて、十五分くらいたっただろうか。
「兄がいたんです。少し前に死んでしまったんですけど。」
ぽつり、と湊がそう言った。
海は唯一の肉親であり、たった一人の兄弟であったこと。未だに海の事が忘れられず、幼い頃2人で何度も遊んだこの海岸を訪れていること。
堰を切ったように、次々と彼は話し始めた。
全てが、兄である海のことだった。
「それほどまでに、お兄様を大切になさっているのですね」
「ええ。しょっちゅう喧嘩をしていたけれど、一番、大切な人でした。」
伝えなければ、と思った。
「お兄様は今、湊さんのそばにいますよ」
桜は、湊をまっすぐに見つめる。
湊は目を見開いた。
しかし、すぐに悲しそうな顔で笑う。
「ありがとうございます。」
そう言って湊は去っていこうとする。
…何も言えない。
全ての生者が最初から霊能者の話に耳を傾け、死者と会うために協力してくれるわけではない。
むしろ、そういった人の方が珍しいのだ。
姉や母からもそういったことは多々あると教わっていた。
分かっていた。分かっていたからこそ、自分の無力さを身にしみて感じてしまう。
ふと、脳裏に姉の言葉が蘇った。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
もしも、生者が話を聞いてくれなかったとき、どうすれば良いのか。
私がまだ10になったばかりの頃だったか。
姉にそんなことを聞いたことがある。
その時、姉はニヤリと笑ってこう言った。
「そうだねぇ。もし、生者が桜の話を聞いてくれなかったときは、…
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「それで、後悔なされませんか。
お兄様に会いたいのでは、ないのですか」
湊が、立ち止まった。
こころなしか、少し肩が震えている。
「...湊。」
海が、湊の背中に向かって声をかけた。
優しい声で呼びかける海。
湊が足を止める。
ー『会いたい』
そう願っていた兄がいる事に喜ぶと同時に困惑していた。
「…何で…兄さんは確かに…。」
死んだはずだ…。
その一言が、なぜか、どうしても湊には言えなかった。
「私達は死者の願いを聞き、死者と生者の世界を繋げる事を生業としています。海さんの強い願いを受けて、湊さんに会いに来ました。」
「それでは、私はこれで失礼いたします。」
深々と頭を下げ、桜はその場を離れた。
たった一人の兄弟が互いを思い合い、再会を望む。
それが叶った今、私は彼らの邪魔をしてはいけない。
海と湊が交わした言葉は、彼らしか知らない。
私は知ってはいけない。
それは、隔絶された世界を超えた2人だけの宝なのだから。
彼の深すぎる未練。その霧が晴れ青空が見えた時、彼らの再会は終わってしまう。
けれどそれは、悲しい別れなどではない。
苦しい別れでもない。
きっと新しい区切り、なのだ。
桜は家に戻り、あたりを見回した。
すると何やら母、楓が荷物の整理をしている。
「ただいま…旅行にでも行くの?」
「ああ、桜、おかえり。すぐに支度して。今から京都、いえ、白雪家に行くわよ。」
白雪家。
その言葉からひしひしと怒りが伝わってくる。
無理もないだろう。
私達、影月の人間にとって、彼らは切っても切り離せない因縁の相手なのだから。
白雪の家が見える。
影月の家にも引けを取らない大きさの立派な日本家屋だ。
門をくぐる。
桜の視界に、1人の青年が映った。
彼の名は晴。白雪家次期当主だ。
「お待ちしておりました。影月楓様、桜様。」
「まぁこんなに大きくなられて!お久しぶりですね。」
そういった母の言葉にも明らかな敵意が見え隠れしている。
「恐縮です。では、中へっ…!?」
顔を上げ、桜と目が合った晴の表情が突然、動きを止めた。
驚き、困惑、羨望、様々な感情が彼の目の奥に揺らめく。
「あの…どうかされましたか?」
「…何にもありません。さぁ、行きましょう。」
桜が問うと、晴は我に返ったかのように答える。
そして、何事もなかったかのように桜と楓を案内した。
桜は少し気になったが、それほど気に留めず、晴の案内について行った。
足を踏み入れた掛け軸のある茶の匂いが染み付く畳の部屋は、不思議とどこか懐かしい感じがする。
なにやら急を要する話がしたいと白雪家現当主、白雪明也が楓を呼び出したらしい。
桜は楓と別れ、一人部屋でじっと待っていた。
退屈だった桜があたりを見回すと、Ⅰ枚の写真が目に入った。
結婚式の写真だろうか。
男女二人が並んでいる。
男性は落ち着いた表情だが、女性の方は少し強張っていた。
だいぶ古いもののようで、写真からそれが伝わってくるほどだった。
ふと、机の端に置かれている古びた冊子に目が留まった。
誰のものなのだろう…。
少し罪悪感を抱きながらも好奇心に負けてしまった。
パラパラとページを捲っていく。
誰かの日記のようだ。
乱雑な筆圧の濃い字が日付ごとに2,3行ずつ綴られていた。
日記の最後の方のページに思わず目がいく。
ある日を境にその人の字は随分丁寧になり、落ち着きのある字になっていた。
やってはいけないことだとは思いつつ、ついそのページへと目を走らせる。
桜が日記を読んでいたちょうどその時、隣の部屋では白雪家現当主、白雪明也と影月家現当主、影月楓が話をしていた。
「100年に一度の■■を捧げる年です。ーーーがいない今、どうされるおつもりですか。」
「…」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
19✗✗年 5月✗✗日
義両親の勧めで影月家の分家の娘と見合いをした。翡翠さんという方だ。見合いというだけで嫌気が差していたが、翡翠さんと会った瞬間、そんな考えも無くなってしまった。これが、一目惚れというやつだろうか。ただ、緊張してしまった故か、あまり話しかけることができなかった。
19✗✗年 5月✗✗日
義両親に翡翠さんと結婚したい旨を伝えた。俺が結婚するという事実に喜んだのだろう。すぐ快諾してくれた。
19✗✗年 6月✗✗日
今日は、▲▲さんからの依頼があった。翡翠はよく仕事を手伝ってくれる。いつか、ちゃんと礼を言えるようになりたい。
19✗✗年 7月✗✗日
私は翡翠に愛されていないのかもしれない。
19✗✗年 10月✗✗日
翡翠の妊娠がわかった。生まれてくるのは男の子か女の子かどちらだろうか。今からとても楽しみだ。
19✗✗年 7月✗✗日
翡翠が出産を終えた。生まれたのは男の子だ。とにかく愛おしくて仕方がない。「明也」と名付けることになった。
19✗✗年 5月✗✗日
最近翡翠の様子がおかしい。明也が生まれて少ししてからだろうか。私とは必要以上に話をしなくなった。私がなにかあったのか聞いても「なんでもない。」の一点張りだ。何かあったのだろうか。
19✗✗年 6月✗✗日
翡翠が私と完全に話をしてくれなくなった。
19✗✗年 7月✗✗日
翡翠が部屋に籠りきりになった。家の者とも必要以上には会わなくなり、明也の世話を使用人に任せるようになってしまった。
19✗✗年 11月✗✗日
翡翠が死んだ。
何故翡翠は話してくれなかったのだろう。
何故死ぬまで病気のことを俺に話してくれなかったのだろう。
何故…。
19✗✗年 11月✗✗日
翡翠の死から1年がたった。
何故…何故…。
19✗✗年 1月✗✗日
翡翠…すまなかった…。
日記はここで途切れていた。
日記の内容に不信感を抱きながら、誰のものなのか名前を探す。
すると、冊子を裏返したところに照彦と書いてあるのを見つけた。
照彦…。確か白雪家元当主だったはずだ。
全身から血の気が引いていく。
私は白雪家元当主の日記を無断で見てしまった…。
しかし、日記の内容がどうも頭の中に残って仕方がない。
照彦さんとその妻である翡翠さん…。
私が黄泉の国にいる翡翠さんに輝彦さんの思いを伝えることができたのなら…。
しかし、すぐに首をふる。
白雪家と影月家は敵対関係なのだ。
白雪家の私情に足を突っ込むべきではない。
日記を元の場所に戻し、このことは忘れようと決めた。
そんなとき、突然襖の扉が開いた。
そこには、さっき案内をしてくれた晴という少年が立っていた。
「桜さん…でしたよね。祖父を知りませんか?」
「いえ…知りませんけど…。」
「そうですか。」
ついさっきのことが気になってしまう。
「あ、あの翡翠さんってどういう人だったんですか。」
驚いたような顔をしている。
「祖母は若くして亡くなったので、私もよく知りません。ただ、分家の中でも霊力が高かったとか。」
「そ、そうなんですか。いや、少し気になってしまいまして、、、気にしないでください。」
すると今度は彼がとっさに、顔を上げた。
「ど、どうしました?」
なにか思い悩んでいるようだ。ふと、決心したかのようにこちらに目を向けると、
「き、君の姉の椿は怨霊との戦いで亡くなったと聞いたのだが、それは本当ですか。」
思わぬ質問に言葉を一時失った。
「ええ…そうですね。姉とはお知り合いでしたか?」
「いや、そういうわけでは。また、当主の話が終わりましたら、こちらに戻るので。」
すぐさま立ち去ってしまった。
どうも晴が私の姉のことを聞いたのはただの興味本位には見えなかったのだが。
それよりも、翡翠さんについての話が、桜の頭の中からどうしても離れなかった。
しばらくして、楓が戻ってきた。
「桜、今日から何日かここに泊まるわよ」
「え、何かあったの?」
「当主との話が長引きそうでね…。先に帰ってもいいけれど、どうする?」
「うん、私もここにいる。」
「そう、これから夕食を出してくださるらしいから行くわよ。」
「はーい」
ーーー数時間後
白雪家での夕食を終えた桜は、1人廊下を歩く。
「疲れたぁ…。」
慣れない場所、知らない大人たち。桜を疲弊させるには十分だった。
「…そりゃぁそうだよね、ここは家じゃないんだから。」
「あ、そういえばさっきの人、何で姉さんのこと知ってたんだろう。」
ふとよぎる一つの疑問、その答えを探すうちに桜は道に迷っていた。
「え、ここどこ?このお屋敷広いのにまずくない?」
あたりを見回すと、恐らくこの家の人であろう晴とは違う男の子が2人いる。
双子だろうか。見分けがつかないほどそっくりだ。
「あの、すみません。影月家のものなんですけど、屋敷を歩いているうちに迷ってしまって…。」
「影月家の方ですか。でしたら、あちらの突き当りを右に曲がっていただいて…。」
「その先を進んだ左の角を曲がっていただければたどり着けると思います。」
「ありがとうございます!」
2人に言われたとおりに進む桜。彼らの言う通り、それらしき部屋を見つけたので戸を開けると、中には晴がいた。
部屋を見て、明らかに自分が使っていた部屋ではないことに気づいた。
「え、あ、失礼しました!!」
「待ってください。もしかして部屋の場所がわからなくてこちらへ来てしまいましたか?」
「はい…本当にごめんなさい。すぐに戻るので…。」
「よろしければ僕が案内します。」
「いいんですか?」
「もちろんです。きっと、弟たちがまた変な案内をしたのでしょう。すみません。」
「いえ、大丈夫です。じゃあ案内をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「では、こちらへ。」
5分程歩いたが、未だに部屋に着かない。
私はこんなにも歩いたのだろうか、と桜自身、驚いている。暫く歩いて、ようやく部屋に着いた。
晴にお礼を言う。
それまで抑えていた疲労がどっと溢れ出すかのように部屋に飛び込もうとする。
「あ、伝え忘れていました、当主があなたと話をしたいとのことです。明日の朝食後、 当主のいる翠玉の間に来てください。」
「分かりました。ありがとうございます。」
青年が去っていき、桜はほっと息をつく。
「なんでいきなり当主に呼び出されたんだろう。」
布団に転がり、考える。話とはなんだろうか。
自分はなにかやらかしてしまったのだろうか。
そんなことを考えているうちに、桜は深い眠りへと落ちた。
次の朝食後。
昨夜の不安を胸に翠玉の間へと向かう。
幸い昨日のように迷うことはなかった。
部屋の目の前についた途端、扉が開いた。
「桜さん。待っていました。どうぞお入りください。」
畳の上で白雪家の当主と向かい合う。それだけで緊張が最高潮に達しているのに、話なんて、まともに聞けそうにない。
「あの〜、私なにかやらかしましたか。」
すると明也さんは首を傾げた。
「なぜそのように?」
「白雪家当主に私が呼び出される理由など、それしかないかと。」
明也は微笑んで言った。
「そのように心配なさらくても大丈夫ですよ。」
「今回呼び出させていただいたのは、私の母、前当主の妻である翡翠のことについて相談したいことがあったからなんです。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー明也が6歳になる前、母である翡翠が寝込み始めた。はじめはよく見舞いに行っていたが、数ヶ月もすると見舞いにいけなくなるほどに翡翠の病は重くなっていた。「母さんはいつ戻ってくるの?」
幼い明也の問いに答えられるものなどいなかった。どうしても、どうしても母に会いたいと思った明也は、母と昔から親しかった使用人の部屋へ向かったのだ。
「霊力が落ちたとおっしゃいましたか?」
誰かと電話をしているようだ。なにやら緊迫した雰囲気に明也は、襖の前でじっと立っていることしかできなかった。
霊力。それは、この家において極めて重要である。と、幼い頃何度も聞かされていた。
それが落ちるとは…幼い明也には、理解できなかった。ただ、「霊力が落ちた」それを誰かが伝えているということだけは、わかったのだ。
その後、母は亡くなってしまった。
父は家業に追われ最後のその一度だけ、見舞いに行ったという。
時が経つに連れ、明也は、あの電話が何を意味するのか気になった。
電話の相手。それは、おそらく母だ。
そして、その電話の中に、「明也」という言葉が何度も聞こえた。霊力が落ちてしまうこと、それはこの家にいるものにおいて絶対におきてはいけないことだ。
翡翠の死の原因は霊力が落ちたことで、それは自分のせいだったのではないか。
自分が母を殺してしまったのではないか。
いつしか明也は、そう考えるようになった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「母は、私が7歳の頃に死にました。その時の私には聞けませんでしたが、あのとき母の身に何があったのか、母は本当はどう思っていたのか、それが知りたくて知りたくて仕方がないのです。」
「そう…だったのですね…。」
「そして…実は父に関しても母とのことで気になることがあって…。」
「…?」
「本当はしてはいけないことだったのでしょうが、母の部屋を何回か覗きに行ったのです。」
「その時、母は父の名前をつぶやきながら泣いていました。普段の父と母なら絶対にありえないことだったのですが…。」
「ありえない…とは?」
「父と母は、私のよく知る世間一般の夫婦のようには見えませんでした。仲が悪いというわけでもないと思うのですが、2️人の間には愛情はなかったのではないかと思っていたんです。」
「でも、私は今、それは勘違いだったのではと思っています。父も、母が死んだ直後はとても憔悴していたので、2人の間には、なにかすれ違いが起きたのではないかと思うのです。」
「父は、再婚を一度もしませんでした。それは、母を愛していたゆえにできなかったのではと思っています。」
「私は2人の気持ちが全てわかるわけではありません。もしかしたら余計なお世話かもしれない。それでも、2人の気持ちをお互いに明らかにしてほしいのです。」
「私が、当主様のご両親を引き合わせる…ということですか?」
「そうです。嫌なら断っていただいても構わないのですが…。」
「いえ、そんな…。ですが…そのような重要なこと、私に務まるかどうか…。」
「私の個人的な頼みですので、そのように気負わないでください。どうか、どうか両親を巡り合わせてください。」
明也が頭を下げる。そこまで言われると断れるはずがない。
「そのように頭を下げられるような立場ではありません。分かりました。お引き受けいたします。」
離れにある、黄泉の国へ通じる扉の前に立つ。
桜は考え事をしながら巫女の祈祷を受けた。
「まさか白雪家当主に依頼されるとは思ってなかったなぁ…。」
明也に気負わぬように言われたものの、未だ残る緊張を胸に扉へ入る。
ーぽちゃん、と音がした。
凍るような冷たい水の中を漂っているかのようだ。
波が引くような感覚に目を開ける。
神社と寺、鳥居と仏像。
神道と仏教の入り混じった奇妙な町並みと、妖しく光を放つ灯籠が、眼下に広がっている。
浮世の何倍もの大きさの月が、黄泉の地面を覆う水鏡にぼんやりと映っていた。
翡翠の縁の糸をたどり、彼女を探す。明也が渡してくれた写真を見ながら、慎重に、慎重に探す。全身から感じる気配がだんだんと濃くなっていく。糸の先を見ると、写真で見たような、凛としていてどこか儚げな翡翠らしき女性がいた。
「あの…白雪翡翠さんでしょうか…?」
「…?はい…。」
「私は影月桜と申します。影月家の現当主の娘です。仕事の依頼であなたを探しに来ました。」
「仕事…?」
「あなたの夫である照彦さんと、息子である明也さんのことについてです。」
すると翡翠は動揺したようにその瞳をゆらす。
「…何も話すことはありません。お帰りください。」
急に態度が変わった。やはりなにか理由があるのだろうか。
「どうしても貴方に会いたいと、明也さんが言っていました。」
「おかえりください」
「貴方の霊力と明也さんの…」
「お帰りください!」
力強く言われ、桜は一瞬怯む。それでも、明也が自分に頼んできたときの表情、言葉が忘れられずに負けじと挑む。
「何も告げないで、本当にいいんですか。明也さんは、影月の私にもかかわらず、あなたに会いたいと頼まれたんですよ!」
翡翠は桜の根気強さに少し呆れたようだった。そして何かに気付いたかのようにふと、驚いたような顔をした。
「明也が、霊力のことを、、、?」
「明也さんは、自分が翡翠さんの死の元凶だと、嘆いていらっしゃいました。」
「何故そのように…。」
翡翠はまるで自分を責めるかのように顔を歪め、小さくつぶやいた。
「…今なんと?」
「…もう話すことはありません。これが最後の警告です。これ以上私に干渉するおつもりなら、貴方に手を出してしまうかもしれません。お帰りください。」
翡翠はそう言って頭を下げた。
そこまでされるともう干渉する事もできず、一旦この場を諦め、現世に帰ることにした。
「お母様の霊力が無くなったのは、あなたのせいではないと思われます。」
桜は現世に戻ったあと、白雪家に赴いて黄泉の国であったことを明也に包み隠さず話した。
「ご両親を引き合わせることができず、申し訳ありません。」
「お気になさらないでください。元はといえば私が急に頼んだことですので…。」
「母が拒むのなら無理強いはしません。わざわざ私の頼みに応えようとしていただいてありがとうございました。」
「っ…。」
それでも諦めきれないのか、明也の表情は口惜しそうなものだった。
再び黄泉の国へ通じる扉の前に立つ。
「やっぱり諦めきれない…。」
これ以上は余計なおせっかいかも知れない。
翡翠からすれば迷惑極まりないかもしれない。
それでも、明也、翡翠、そして照彦の3人を引き合わせる。そう決めたのだ。
それにしてもあの翡翠の固い決意のこもった眼差しを思い出すと、すぐにどうにかできる気もせず、部屋へ戻る事にした。
布団に寝転がりながら解決策を考える。
なにかいい策はないだろうか…。
ふと、明也と照彦の顔が脳裏に浮かぶ。
霊力について話した時の翡翠の一瞬の狼狽え。
「二人に黄泉の国へ付いてきてもらうことができれば…。」
しかし、依頼主である明也や直接関係のない照彦に手間を取らせたくない。
なるべく自分一人の力で解決したいのだ。
それに、明也は付いてきてくれるかもしれないが、翡翠があれほど嫌がっているのだ。
照彦のことをそう簡単に説得できるようには思えない。
そんなことを考えているうちに桜は眠っていた。
次の朝。
洗面台に移る自分の顔は心なしか昨日よりも疲れたように見える。
事が行き詰まっているときにぐっすり眠れるはずもなく結局少ししか眠れなかった。
一晩中考えたが現状を打開できる策など他に思いつくはずもなく、桜はのろのろと明也の部屋へと向かう。
足取りがどうしても重くなってしまい、明也の部屋の前で足を止める。
依頼主の明也本人がもういい、と言っているのだ。
やめておいたほうがいいのか…。
それでも、明也の、翡翠のことをどうしても諦めきれていないあの表情を思い出し、勇気を出して部屋の中へと入った。
中では明也が壁に飾られていた家族写真を悲しそうな目で眺めていた。
明也は私に気が付くと非常に驚いたようだった。
「桜さん…?」
「いきなりごめんなさい。やっぱり諦められなくて…。」
「また挑戦してくれると…?しかし…。とりあえず座ってください。」
昨日ぶりに改めて白雪家現当主と向かい合う。
「明也さん。単刀直入に言います。照彦さんを連れて、一緒に黄泉の国へ来てくれませんか?」
「私が、父と一緒に…!?しかし、父は私がこうして母のことを影月家の者に話したことを良く思わないでしょう。」
「ましてや影月家の者と一緒に黄泉の国へ行くなんて…。私だけではだめなのでしょうか?」
「この際なので、正直に言わせていただきます。先日、案内された部屋で照彦さんがおいていったと思われる日記を勝手に読んでしまいました。無礼なことをしてしまい、申し訳ありません。」
桜はそう言って頭を下げた。
「そんな、顔を上げてください。…続きをお願いします。」
「…そこにはお二人の馴れ初めと、翡翠さんが照彦さんのことを愛していなかったのではないかという疑問が綴られていました。お二人のすれ違いに気付いていただくためには、これが一番手っ取り早い方法なのです。どうかお願いできないでしょうか?」
「…私は依頼主です。自分が依頼した方にこうして頭を下げられる筋合いなんてありません。…わかりました。父のことは、私が説得しましょう。」
「ご不便をおかけしてごめんなさい。お願いします。」
その日の夜。
桜は明也とともに照彦の部屋へと向かう。
その時の緊張は初めて明也の部屋に行くときのものと比べ物にならなかった。
この照彦との交渉に全てがかかっているのだから。
照彦の部屋の前につく。
「桜さんは部屋の前で待っててください。私が直接話します。」
「お願いします。」
明也が部屋に入る。
照彦が自分と共に黄泉の国へ行く事を承諾してくれるか不安で、廊下を行き来してしまう。
いけないことだと分かっているが、つい聞き耳を立てる。
「どうした明也。何か用事か?」
「父さん。話があるんだ。」
「お前が話…?珍しいな。まあ座って話そうじゃないか。」
少し間が開く。
「それで、話とは?」
「…父さんと、母さんのことだ。」
「…その話なら、何十年も前に終わったじゃないか。」
照彦の声が幾分か低くなる。やはり触れてはいけないことだったのだろうか。
「...。」
「どうした、明也。急に黙って。」
「…単刀直入に言わせてくれ。影月家現当主の娘、桜さんと一緒に黄泉の国へ行って、母さんと話をしてくれないか?」
「………。」
「父さん…?」
「行かない。」
「父さん、お願いします。」
「…なぜ私が、影月家のものについていかなければならない。そもそも、母さんと話とはなんだ?」
「それはっ…。」
「……僕はずっと昔から父さんと母さんの関係性について疑問を持ってたんだ。そのことについて桜さんに仕事の依頼をした。」
扉の向こうでドンッと何かをたたくような物音がする。
「…影月家の者に依頼をした、だと…?」
「お前は自分の立場を分かっているのかっ!!」
「白雪家現当主が影月家の者に依頼をしただけでなく、私がそれについて行くだと…。ふざけるなっ!!」
「父さん!!」
「この話はこれで終わりだ。これ以上話すことがないなら、出ていきなさい。」
「……はい。」
明也が部屋から出てきた。
「…桜さんすみません。父を説得することができませんでした。」
「いいんです。元々敵対している家系ですし、相手が私のような年端の行かない娘です。ああなってしまうのも無理はありません。」
「影月に依頼したことであんなにも怒るとは…。あそこまで言われればこの後また話してもだめでしょう。」
「どうなさいますか…?」
「仕方ありません。桜さん、私だけでも行くことは可能でしょうか。」
「問題ありません。なんとか頑張ってみます。では、これから黄泉の国へ通じる扉へ向かうので、おいでください。」
明也と共に黄泉の世界への扉をくぐる。
前回と同じ、凍てつく水。
前回と同じ、妖しい灯りと奇妙な町並み。
前回より...少し昇った月。
翡翠の縁の糸をたどり、また翡翠を探し出す。
しかし、翡翠の縁の糸は大変複雑になっている。翡翠が自分たちと会うことを拒んでいるからだろうか。
それでも桜と明也は糸をたどる。
すると、翡翠の気配が濃くなるにつれてそのしがらみはなくなっていき、1本の直線となった。
それをたどり、桜は再び翡翠と対面する。
「翡翠さん。」
桜の声に気づいた翡翠は驚いた顔をした。
「なぜまた来られたのですか。前回お伝えしましたでしょう。これ以上詮索されようものならあなたに手を出しかねないと。」
「ごめんなさい。それは分かっています。」
「ならばなぜ…。」
「どうしても、あなたに会わせたい人がいるのです。」
「会わせたい、人…?」
まさか、という風に翡翠が首を振る。
「明也さん。おいで下さい。」
「…明也…?でも、どうして。」
「桜さんの霊力を使って僕も連れてきてもらったんだ。母さんが僕に何も話したくないのはわかっている。それでも、母さんに全部背負わせたままのうのうと生きるなんて僕にはできない。」
「………。」
「…小さい頃からずっと、疑問に思ってたんだ。僕のせいで母さんは霊力を失ったんじゃないのか。母さんが死んだのも、そのせいじゃないのか!?」
「それは違うっ!」
「父さんと母さんが仲が悪かったのだって、なにか隠してるからなんだろっ!」
「黙りなさい。」
空気がビリビリと震えた。
「…わかったわ。全部話すから。だから、これ以上憶測で物を言うのはやめなさい。」
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私が明也を出産するとき、大変な難産だった。
このままでは、生まれる子ーー明也が死んでしまうかもしれないと聞いた。明也は、ようやく授かった、照彦さんとの大事な一人息子だ。
だから、明也が健康に生まれてほしくて、照彦さんとの愛の結晶を消してしまうのが嫌で、陣痛に耐えながら私は祈った。
(お願いします…子どもを、死なせないでください、明るく元気に、健やかに生きていられる体に生まれるようにしてください…!!)
祈りの甲斐あってか、私は元気な男の子を生んだ。「明也」と名付けられたその子は、すくすくと元気に育った。
毎日毎日成長していく明也を、照彦さんと共に見守ることが何よりの幸せだった。
でも、ある時から、自分の体に異変がおきた。
霊能力者、ましてや1000年以上続く白雪家において絶対にあってはならないことーー霊力が落ちていたのだ。
このことが明るみになってしまえば、私はこの家にはいられなくなる。明也や照彦さんといられなくなってしまうのだ。
それがわかったときにはこの世の終わりかのように絶望した。
でも同時に、明也に責任を感じさせないためにも、何が何でも絶対にこのことは秘密にしなければと思った。
最初の頃は、誰かとあっても何も問題はなかった。日常生活において、霊力が落ちたことを隠すのは決して無理なものではなかった。
しかし、時が経つにつれて、そうもいかなくなった。
霊力がなくなったせいで、照彦さんの仕事を手伝えなくなると、彼から何があったのか、自分にできることはないかと聞かれたが、霊力の低下など答えられるはずもなく、曖昧な返答しかできなかった。
産後の肥立ちが悪く、免疫力が下がったせいもあってか、私は病気にかかってしまった。きっと、霊力の低下を隠し続けた代償だろう。
こうもなると、ついに人とは一切会えなくなる。
私は、白雪家に嫁いできたときから親しくしていた使用人とすら電話越しにしか話せなくなった。
自分が段々と死に近づいていっているのが分かった。
自ら望んで白雪家に嫁いだにも関わらず、結局大した手伝いもできなかった。
照彦さんにも明也にも、これからたくさんの迷惑をかけるだろう。
しかし、これでいいのだ。
自分の霊力を犠牲にして明也を生むことができた。
私にとっても、明也にとっても、これが一番良い選択なのだ。
唯一心残りがあるとすれば、やはり照彦さんと明也のことだろう。
自分が死んでもなお、なにかの形で影月家の者が私の未練を晴らしてくれたら、などおこがましい事を考えてしまう。
しかしこれから私が黄泉の国へ行っても、この秘密はずっと守り続けなければならない。
何らかの形でこのことが明也の耳にでも入ったら大変だ。
あの子はいずれ、白雪家当主となるのだから。
そう思いを残し、私の魂は黄泉の国へと飛び立っていった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ーーだから、私が死んだのは、あなたのせいではないの。」
「でも、霊力は…」
「それは私が選択したこと。私がただ、大切な我が子を守りたいから選んだことなの。だから、もう二度と自分を責めないで。自分のせいだなんて思わないで。」
「母さん…。」
「…ずっと隠していてごめんなさいね。でも、貴方のためだったの。そこだけは理解してほしいわ。」
「…俺の方こそ、何も知らないのに、母さんと父さんの全てを知ったかのように物言って。…本当にごめんなさい。」
「…桜さん。あなた、現当主の娘さんよね?」
「はい。」
「…ありがとう。何度も説得して頂いて。明也のために、話さないことが一番だと思っていたけれど、きちんと話すことができて、なんだか解放された気分だわ。」
「見て見ぬふりをしていたけれど、本心ではやっぱりどこかでけじめをつけなければと思っていたのね。」
翡翠の朗らかな表情をみて、桜もまた、今までの緊張感から解放された。
明也が自分の方を向く。
「桜さん、本当にありがとうございました。私がこうやって母と共にお互いを理解することができたのは桜さんのおかげです。」
「いえ、私は自分の仕事をはたしたまでです。…もう少し、お母様と話されますか?」
「そうしたいところですが、影月家当主との話が片付いていないものでね。そろそろ戻らねば。」
明也とともに元の世界へと向かおうと道を進んでいく。
すると、急に前を歩く明也の足が止まった。
「…明也さん?どうされました。」
「父さん…。」
一瞬その言葉の意味を理解することができず、明也の前を覗き込む。
そこには照彦が立っていた。
一体どういうことだろうか。出発する前、確かに照彦には同行を断られたはずだ。
「…立ち聞きする気はなかったんです。ただ、どうしても気になってしまって…。」
桜達以上に驚いていたのは後ろで桜達を見送っていた翡翠だった。
「貴方が…どうして。」
翡翠も照彦もどうすればよいかわからず、立ち尽くしている。
そんな二人を見かねた桜は、ここぞとばかりに翡翠に話しかける。
「翡翠さん、先ほど解放された気分だと言っておられましたよね。話すべきことがあるのは、明也さんだけではないのでは?」
翡翠は思い悩んでいた。
本当に自分の気持ちを打ち明けるべきだろうかと。
「…翡翠。ずっと謝りたかったんだ。翡翠はあれ程までに辛い思いをしていたのに、俺はその間、勇気が出せずにずっと翡翠と面と向かって話そうとしなかった。理解しようとしなかった。…本当にすまなかった。
「でもなんで…。」
「…今日の朝、明也が私のことを説得しに来たんだ。俺と翡翠のことで、影月家の者に依頼をしたから、ついてきてほしいと。だが、影月の者に依頼をした。それだけでつい激昂してしまい、ついていくことを拒んだんだ。それでも翡翠のことというだけで気になってしまって…。」
「………。」
「どうして…話してくれなかったんだ?霊力のこと…」
「…不安だったんです。白雪家にはいられなくなる…。それが怖くて…。」
「話してくれれば、何とかした…!」
「何で…そんなのわからないじゃないですか!今だから言えるのでしょう!?私が生きていた頃は少しの心配すらしてくれなかったくせに!!」
「そんなことはない!確かに、君の見舞いに1度も行けなかった…私に勇気がなくて君に声をかけられなかったのも、何もかも事実だ。…俺だって怖かったんだ。君に愛されてないと思ってたから。それでも、俺は君を愛していた。言ってくれればなんとでもした!」
「君は…私を信じられなかっただろう。荒んでいて、まともに会話も交わさなかった相手だ。無理もないだろう。きっと、私のことを愛してはなかったと…」
「違う!!」
「私は…わた…し、は…」
必死に言葉を紡ぐが、うまく繋がらない。
それがもどかしくて、翡翠は一筋、一筋と涙を流す。
それに気づいたのか照彦が慌てて言う。
「すまない…ずけずけと…。落ち着いたらでいいんだ。今度は君の話をちゃんと聞くから。」
翡翠が呼吸を整え、口を開く。
「私は、あなたを愛していなかったことなんてありません。天と地がひっくり返っても。」
翡翠の目には、強い決意がこもっていた。
直球に伝えられたことに驚いたのか、照彦は翡翠から少し目をそらす。
「少し、昔話をしますね」
「ああ。」
「私は、見合いのずっと前からあなたを慕っていました。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
10年に1回、白雪家と影月家間の交流として宴会が開かれる。翡翠が照彦を知ったのは、翡翠が11歳のときに催された宴会だ。
周りには大人ばかり、自分にはまだ理解できない話が飛び交う空間が退屈で仕方なかった翡翠は、こっそり宴会を抜け出し、使用人のもとへ行っていた。
使用人とともに膳を運んでいると、縁側に座った青年を見つけた。
「ねぇ、あの人はだれなの?」
「あぁ、あの人は白雪家の照彦様ですよ。次期当主だと言うのにあんな格好を…。」
「ほんとよねぇ。自覚があるのかしら」
見てみると、照彦は着物を着崩し、大変不機嫌そうな顔をしている。その姿に一瞬怯んでしまったが、月明かりに照らされたその姿はとても凛としていた。思わず魅入ってしまい、膳を落としそうになる。
「うわっ。」
その時、照彦が膳を支えてくれたのだ。
「大丈夫か?」
「あっ、す、すみません!ありがとうございます。」
「別に。気をつけて。」
「はっはい!」
何年経っても、私はその人のことを忘れることができなかった。
ある日、私にお見合いの相談が来た。
指示に従って部屋の中で待ち、彼が現れた時は驚いた。
しかし、彼は私のことを覚えてはいないようだった。
当たり前だ。何年も前に少し話したぐらいしか関わりがない者のことなど、覚えているはずがない。
そんなことを考えているうちにお見合いは終わってしまった。
どうしても気分が下がってしまい彼の問いに曖昧な返事しか出来なかった。
だから、彼との結婚はないだろうなと思っていたのだ。
しかし、後日彼から結婚の申立があった。
全然話さなかったにも関わらず、彼が何を思って私を妻にしたのかは、わからない。
でも私は、慕い続けてきた彼との結婚という事実にただ喜ぶことしかできなかった。
この先、なにがあっても彼を守り抜こう。そう決意した。
明也を授かったとき、自分は幸せなのだと改めて感じた。
しかし、幸せな時間は続かなかった。
明也を生んだのと引き換えに霊力を失った私は、照彦さんの仕事を手伝うことができなくなった。
何度も自分と葛藤した。
このことを打ち明けるべきなのか。
でも、この家において重要な霊力を失ったこと、それはすなわちこの家にもう居られなくなるということ。
照彦さんと明也にもう二度と会えなくなるなんて、そんなの耐えられない。
なにより、霊力を失った自分から照彦さんや使用人たちが離れていくのが何よりも怖かった。
そんな曖昧な思いを抱えたまま、私は病気になってしまった。
そして間もなく、誰に何を伝えることもできないまま、私は死んでしまった。
黄泉の国に来た後、何度後悔し、自分を責めたことか。
もういっそこのまま消えてしまいたいーーー
そんなことを考えていた時、桜さんが黄泉の国へやってきた。
これは神様がくれた最後のチャンスだ、そう思った。
でも、やはり勇気が出なかった。
死んでからも自分のことを気にかけている鬱陶しい女…そう思われるのが怖かった。
桜さんが帰った後、私はまた自分を責めた。
後日、桜さんが明也を連れてきたときは自分の目を疑った。
いっそもう、全てを桜さんに話して楽になってしまおうかと思った。
しかし、明也が霊力のことを気にしている今、優先させるべきことは私と照彦さんのことではない、明也に責任を背負わせないことだ。
私は極限まで本当のことを話すことに抵抗した。
このことに触れれば、必然的に私の霊力が無くなったことも話さないといけないと思ったからだ。
でも、明也はその事に既に気づいていた。
私は抵抗を辞め、素直に本当のことを話した。もう隠しきれないと思ったし、何より、明也が憶測でものを言ってそれを真実と思い込むことは阻止せねばと思ったからだ。
私が照彦さんと話せなくなった理由も、全て明也が彼に打ち明けてくれるだろう。
全て終わった。これでいいのだ。
そう思っていたら、照彦さんが現れた。
しかも、全ての会話を聞いていたと。
やはり、神様は意地悪なのだ。
覚悟を胸に、照彦さんと対峙する。
恐怖で全身が震え、そんな自分を隠すためにきつい物言いをしてしまった。
でも、私が照彦さんに愛されていないと思っていたのは事実だった。
しかし、人は焦ると憶測で物を言ってしまう生き物なのだろうか。
彼は、私が彼を”愛していない”のだと言った。
自分は彼を愛していたのに、その事さえ伝わっていなかったのかと、彼に怒りさえ感じた。
なんて傲慢なのだろう、自分だって彼に愛されていないと勝手に思い込んでいたくせに。
彼が私の話をちゃんと聞いてくれると言った時、いよいよ覚悟を決めた。
ちゃんと打ち明けよう、私のためにも、彼のためにも...。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「...以上が、貴方に対する私の全ての思いです。わかっていただけましたか。」
「ああ...本当に済まなかった。君がそんなに葛藤していたなんて...。知らなかったで済まされないほどに、君は思い悩んでいたんだな。」
「ええ…でも、私も貴方がそれほどまでに想ってくださっていたとは知りませんでした、いや、知ろうとさえしませんでした…
どうやら私達はお互いに勘違いをしていたようですね。
意味のない悩みをずっと、ずっと…。」
「そのようだな。」
二人は何も言えなかった過去の自分への後悔と悲しみ、そしてなにより”愛しあっていた”という幸せな事実に涙が止まらなかった。
「貴方にもう一度あえて本当に、本当に良かった。」
翡翠と照彦は出会って初めて笑い合うことができた。
真っ暗な黄泉の国を照らす、涙を灯しながら。
「...帰ろうか。」
「ええ。お見送りします。」
現世へと通じる扉の前に立つ。
「... 母さん、 母さんの思いを知れて良かったよ。どうかお元気で。」
「翡翠。君と分かり合えて本当に良かった。元気でな。」
「明也も照彦さんも、体に気をつけて…。
さようなら。」
現世へ通じる戸を潜ろうとしたその時、
「待って、桜さん。」
「どうしましたか…?」
「実は、あなたに伝えておきたいことが…」
「…?」
「私が死んだときーーー」
そして桜たちは無事に、現世へと戻ったのだった。
白雪家の家族の再会は、長い霊能者一家の因縁に幕を閉じた。
数日後――
目が覚めると、真っ暗な闇の中にいた。
ぼんやりと見える幻想的な世界。
黄泉の国だ。
私は、なぜここに...?
その時、声が聞こえてきた。
「...桜、よく聞いて。大変なの。危険が...大きな災いが日本に襲いかかろうとしている。すぐに京都へ行きなさい。手遅れになる前に――」
落ちたような衝撃で目が覚める。
シーツや身体が汗で滲んでいる。
「...夢...?」
動揺しているのが自分でも分かる。
夢で聞こえてきたあの声...あれは紛れもなく、姉の椿の声だった。
彼女が私に危険を呼びかけている...?
姉は何年も前に怨霊との戦いで命を落としている。
…ただ事ではない。
ベットから飛び起き、急いである場所へと向かう。
夢の中では危険だということを伝えられただけで、具体的に何が危険なのか、どのような災いが起こるのか知らされてない。
影月家の書斎 。
そこには古くからの書物が取り揃えられている。なにか手がかりが得られるはずだ。
何千冊もある本の中から、手がかりになりそうなものを見つけ、手当たり次第に読んでいく。
「...これは...?」
数時間後――
桜達影月家は、白雪家へと集合していた。
「まさか、数日でまたお会いすることになるとは。」
「楓殿。一体どのような理由でまたこちらに?」
「急にやってきてすみません。どうしても、桜が話したいことがあると...。」
皆が一斉にこちらの方を向く。
「私の夢で、数年前怨霊との戦いで死んだ姉の声が聞こえたのです。そこで、彼女にこう言われました。」
「ーーー大きな災いが日本に襲いかかる。すぐ京都に行け、と。」
「それがどうかしたのですか…?」
「姉は、何度か未来予知のようなことをしていたんです。自分が近いうちに任務で死ぬことや、少し昔は大災害を。私に話していた予知は全て当たっていました。」
「でも桜、具体的にどんな災いが起こるか、椿は言っていたの?」
「ううん。でも姉さんの様子から、ただ事ではない気がして…。それで、こちらに参りました。」
「しかし、何が起こるかわからない限りは…」
「そこで、私の家で昔の書物を調べてみたんです。そこで、気になることがいくつかありました。」
「約千年前、都で疱瘡が大流行しました。それが原因で民衆だけではなく、貴族、皇族も命を落としました。このことはご存知でしたか?」
「ええ、まあ。」
「疱瘡の流行の直前、影月家の陰陽師がこんな記録を残していました。こちらはある日の記録です。」
「ーー天満大自在天神を筆頭にあまたの霊が列を成せり。皆、発疹いでたり。疱瘡のさまならむや。」
「この記録に書かれている疱瘡は天然痘のことです。天満大自在天神は、日本三大怨霊の1人、菅原道真です。列をなしている者には、天然痘の症状が現れていました。」
「そのおよそ五百年後、応仁の乱がありました。このときも、その惨事を目の前で見た影月家の陰陽師が記録を残していたんです。」
桜が一つの書物を取り出し、あるページを開く。そこにはこう書かれていた。
「ーー天満大自在天神、崇徳院、平将門を筆頭にあまたの霊が列を成せり。皆、発疹いでたり。疱瘡のさまならむや。平安のときのものと覚ゆ。何かわろきが起こらむ。」
「平安のときの列とは違い、崇徳院、平将門がいます。そして2つの列に共通していることは天然痘で死亡した人の霊が大行列をなしていることです。」
「そしてこの数年後、都では再び疱瘡が大流行し、その時の将軍が亡くなりました。」
「この記録を残した陰陽師は、後にこの行列を倭の国に災いが起きる前兆であると記しています。」
「都で天然痘が流行する前、どの時代でも似たようなことが書かれているのです。」
「それと、もう1つ。皆様ご存知の通り、私は数日前、明也様からのご依頼を受け、彼の母親、翡翠様に会いに行きました。」
明也と照彦が頷く。
「全ての事が終わり、明也様と照彦様を現世へ送り、私も戻ろうとした時に翡翠様に呼び止められたのです。その時に彼女にこう言われました。」
「私が死んだ時のことで、疑問に思うことがある、と。」
皆が顔をしかめる。
「疑問、とは?」
「私も翡翠様に同じように聞きました。すると、彼女はこう言いました。」
「ーー私がかかった病気の症状が、1000年前に流行していた病、天然痘にとても似ている。」
「天然痘...!?」
「ええ。天然痘は、人類が唯一撲滅したとされている病。それが翡翠様がかかった病気に似ている。私はこの二つのことを、偶然では片付けられないと思いました。」
「そして、次の話に移る前に、明也様と母様から、人柱制度についての詳しい説明をお願いしたいのです。」
二人が驚いたようにこちらを見る。
「桜あなた…そんなことまで調べていたの?」
「はい。姉の言動から、とにかく危険で事を急がねばならないような雰囲気が受け取れましたので。」
「…わかりました。私から話しましょう。」
楓が手を挙げる。
「人柱制度が始まったのは、先ほどの書物にも書かれていた、天然痘の流行が始まってからです。それによって、天然痘で亡くなった人々の怨霊が溢れだした。そこで、その怨霊たちを封印するために人柱という制度が始まりました。人柱の封印が解かれるのは100年に1度、その時が来るまでに必ず霊能者がその者の霊力を捧げなければなりません。それは、現世と黄泉の国の怨霊の間を隔離する
”柱”となるのです。しかし、その場合その者の霊力をすべて捧げる必要があり、命はともに消えてなくなります。
つまり永遠の死を遂げます。
霊能者の犠牲により怨霊は、また100年封じ込められ、現世の天然痘は消え、人々の安全が守られるのです。」
「以上が、人柱制度についての説明です。これでよかったかしら。」
「はい。ありがとうございます。」
「…私が読んだ書物には、人柱制度のちょっとした説明と、今までの、人柱を捧げた年代が記録されていました。私が見た記憶によると、前回の封印は1900年代前半のこと。
次に人柱を捧げるまでには、もう十年ないのではないですか?」
「…予想はしていたけれど、そこまで知っていたとはね。私と明也様もそのことについて話していたの。そして、今の話を聞いて大変なことになったと思っている。」
「大変なことになった、とは?」
「桜は実際にその書物を見たから分かるだろうけど、最後に人柱を捧げた年が正確に分からない状況なの。」
楓と明也の顔には、明らかな動揺が見て取れた。
「そして、人柱は必ず、封印が解ける十五年前から十年前の間に捧げなければいけないと決まっているわ。でも、最後の年が分からない今、すでにその時間を過ぎている可能性がある。でも、その可能性が今、確信になった。何百年か前にも、その間に人柱を捧げることができなかったことがあってね。そのとき、影月家の次期当主だった者が天然痘で亡くなり、その何十年か後にはまた天然痘が流行りだしたという記録があるの。そして、その書物の著者はその時のことをこう言っているの。」
「これは怨霊の祟りだ、と。」
「そのときから人柱が途切れることはなかったんだけれど、翡翠様が天然痘と似たような症状で亡くなり、椿が災いの予言をした今、人柱が途切れていることは確か。つまり…。」
「「今から数十年もしないうちに、また天然痘が流行する。」」
明也と楓の言葉が重なる。
「つまり、僕たちはそれまでに、この状況をどうにかしないといけない…?」
「どうにかって言ったって、一体どうやって…。」
先ほどまで静かに話を聞いていた晴の弟たちが狼狽える。
次第にあたりがざわつき始める。
楓が口元に立てた人差し指を重ねる。
すると、あたりはたちまち静かになった。
「静かに。この状況をどうにかさせる方法がないというわけではありません。今からその方法を説明します。」
「天然痘の病原は、人柱が捧げられている、黄泉の国にある三大怨霊の像です。そして怨霊が黄泉の国から現世へ来れるのは、私たち影月家が黄泉の国へ行くのに使っているあの扉だけ。つまり怨霊も現世に出てこれるまで少しの時間がある。封印が解けてから怨霊が現世に出ていくまでに、全ての怨霊を封じなければならない。しかし怨霊が現世に出てきたら終わり、その時点でもう感染は始まります。なので、像から現世へ通じる扉までに怨霊がたどり着く間に、皆で怨霊を封じます。」
「でも、黄泉の国の怨霊たちにとって三大怨霊は最も崇められている存在。私たちは普段、三大怨霊の像に近づくことはできない。しかし、三大怨霊の一人である菅原道真が祀られている、北野天満宮にある黄泉の国へ通じる扉から入れば、一方通行ではありますが像がある所へ行くことができます。」
「あの…。」
晴が遠慮がちに手を挙げる。
「封印が切れた怨霊をまた封じる、とは新しい人柱をその時に設置するということですか。」
「…いえ。その方法もできなくはないですが、人柱はなる者が大量の怨霊を封じるだけの霊力を持っている必要があります。しかし不甲斐ないことに、今の影月家と白雪家、それぞれの分家の方にも、それだけの霊力を持っている方はいません。こういった非常事態に備え、影月家と白雪家には合計三枚のお札が代々保管されています。怨霊を全て像の前に集結させ、同時に三大怨霊の像一つずつにお札を貼ります。そうすれば、怨霊を封じることができるはずです。」
「なるほど…。」
「失礼します!!」
「どうした、そんなに慌てて。」
明也の問いが終わらないうちに、部屋に入ってきた者が言い出す。
「ただいま、京都中で天然痘の症状を模した人々が急増しています!」
その場にいた全員が顔をこわばらせた。
「なっ…んだと…!?」
「もうそんな早くに…!?」
「時間がありませんっ!緊急事態だと分家に今すぐ連絡し、病人の対応を任せ、本家の我々は直ちに怨霊を見つけ、北野天満宮へ向かいましょう!」
「「はい!」」
白雪家から出たとき、自分は目前の光景を信じることができなかった。
倒れている人々。病院へ向かう列。その全ての人々に、先程の書物にのっていた天然痘の症状、全身に真っ赤な発疹が広がっていた。
急がなくては。
怨霊はおそらく、まだ黄泉の国から出たばかりだろう。
北野天満宮に到着した。
目の前から何かが押し寄せてくる感覚。その怨霊の禍々しい霊力に飛ばされそうになる。それでも、桜たちは中へ急いだ。
形容しがたい“ナニカ”がそこに居た。
この世のありとあらゆる恐怖を詰め込み、悪意を固め、悲しみを押し込んだ、とでも例えればよいのだろうか。
その“ナニカ”...三大怨霊が今にも封印を破ってこんとしている。
それらは、私達をみとめると、その深淵を映した眼で睨みつけてきた。
この3体の怨霊ほど恐ろしいものなどこの世にあるのだろうか。
そう思うほどに、それらを目の当たりにしたときの恐怖心は計り知れなかった。
それでも、その場にいた霊能者に、諦めようとするものなどいるはずがなかった。
怨霊を黄泉の国の像の前に向かわせなければ。
現世からはなさなければ。
守らなければ。
「私と明也様で怨霊を像のところまで追い込むわ。だから、桜、晴、星、光、あなた達でこの札を貼って封じ込めなさい。」
封印などしたことがない。それでも、ここで断れば、日本全土に危険が及ぶ。
私達は顔を見合わせ、大きくうなずいた。
重く、淀んだ暗い霊力。息が詰まりそうなそれを全身で浴びながら私達は一歩ずつ進んだ。
明也と楓がたった二人で、莫大な霊力を使い三体の怨霊を追い込んでいく。桜たちはそれについていき、流れてくる攻撃を防ぐのに必死だった。霊力と霊力の戦い。それは、激しく恐ろしいものだった。
「っっ…。」
楓と明也の霊力が次第に限界に近づいてくる。
私は、何もできない。怨霊討伐経験など一度もない。
霊力を使って戦ったことなど。
自分の無力さを悔やみながら後ろで必死についていくしかできない。
あと少し、あとほんの少しで扉をこえ、像へたどり着く。
閃光と爆音。
三大怨霊が一角、平将門と鍔迫り合いをしている明也と、それに合わせるようにして霊力を乗せた剣で切り込む晴。
その隣では両家の女性陣と照彦が崇徳天皇に術を打ち込んでいる。
そして私は分家と星、光とともに菅原道真に攻撃を仕掛けていた。
終わらない戦い。
全身から汗が吹き出るのを感じる。
一向に倒れる気配のない怨霊に絶望して、諦めたくなってしまう。
「桜さん!!!」
「ーーーえ?」
緊迫した表情で叫ぶ目の前には、交わしきれないほどの攻撃が。桜の持つ霊力では太刀打ちできそうにない。
あぁ、終わったな。母さん、役に立てなくてごめんね。姉さん、私にはできそうもないや。
ごめんなさい。
「母さんっ!」
「父さんっ!」
二人はもう限界のようだ。
もっと、私に大きな霊力があれば。
もっと、私に経験があれば。
もっと、姉さんのような、力があれば。
神様、神様
…どうか、どうか、どうか、どうか、
「桜…桜...!私が貴方に危険を伝えるのが遅すぎたんだね。ごめんなさい。本当に、ごめんなさい。でも、もう大丈夫だから。」
聞こえる。
確かに、どこからか聞こえるのだ。
椿の声が。
怨霊たちの霊気が一気に押し寄せてくる。
あぁ、これで霊能者もこの世も滅んでしまうのだろうか。そう思っていた時、目の前が光の霧に包まれた。
眩しくて、目をつむる。
光が収まり、恐る恐る目を開く。
そこには.........
姉が、いた。
「ありがとう、桜。」
もう大丈夫だと、そう笑う姉は、頭に黄金色の冠を被り、巫女装束を身に纏い、薄く化粧をしていた。
眦に引かれた朱と唇の鮮かな紅がおしろいにいっそ残酷なまで綺麗に映えている。
影月直系の霊力を織り込み、特別な材料で作られたその装束と化粧。
それが意味するものは、
「...人柱。」
ありえない。姉さんは死んだはずだ。
きっと、きっと何かの間違いだ。
姉さんが、人柱になるわけがない。
だって、姉さんは歴代の霊能者のなかでも特に霊力が高くて、怨霊との戦闘技術も、死者の心残りを解決する術も、全部、全部、私なんかよりずっとずっと優れていて、それで、それで、それで、それで、それで、
「はっぁひゅっ」
言葉に成り損ねた、息のようなものが引き攣れるように口から溢れていく。
息の仕方が解らない。
「桜、落ち着いて。深呼吸して。」
そんなの無理だ。何で、姉さんが…?
昔、私が将来人柱になる話を聞いてしまったことがある。それから、ずっと覚悟はしてきた。本来なら私がなるはず。姉さんは、私が人柱になることを防ぐために…?
私が、自分で大切な人を消した…?
私のせいだ。私の、私の、わたしの
そんな思考が駆け巡り、桜は地に座り込んでしまう。そして、視界が暗くなる。
「しっかりして、桜。」
だめ、そんなのできない。
頬に涙が伝う。あぁ、私じゃだめだったんだな。何で、もっと早く気づかなかったのだろう。姉さん、ごめんなさい。
「しっかりしなさい!」
頬を打たれる感覚。
「今泣くことは許しません。立ちなさい。次期当主、影月桜。」
無理だ。力が入らない。いきなり知らされるんだよ?姉さんが死ぬのは自分のせいだって。そんなんで動けるわけがない。
「関係ない。立ちなさい。あなたには、桜には託されたものがあるのでしょう。やらなければならないことが目の前にあるでしょう!!」
あぁ、そうだ。昔姉さんに言われたじゃないか。
「私は、封印の準備をします。その間、桜に結界を張って守っていてほしいの。できるわね?」
いや、そんなのいや。
でも…。
随分昔のことだったかな。
「桜。」
「なぁに、姉さん?」
「もし私がいなくなったら、みんなを守り抜いてね。」
…そういうことだったのか。あのときは何も知らなかったけれど、家族や白雪家の人を守ってほしかったんだね。
姉さんは、私に未来を託してくれていたんだね。
「桜ならやれる。負けないで。」
ーーうん。姉さん。ありがとう。
私、つなぐから。
絶対に途切れさせないから。
見てて。
視界が明るくなる。その瞬間、自分の霊力に違うものを感じた。
「姉さんの、霊力…」
ーー桜、私の力を使って。
「分かった。ありがとう。」
晴のもとへ、一目散に駆け出す。
「晴さん!」
「...桜さん!」
「今のところなんとか抑えこんでいますが、すでに限界を越える者も出始めています。そろそろ僕にも…」
「ありがとう晴さん。私も戦います。」
「…!ありがとう。」
言わなければならない。
深呼吸を、ひとつ。
「晴さん、落ち着いて、聞いてください」
「ーー私には今、姉の霊力が宿っています。」
「ずっと昔、姉が教えてくれたまじないのようなものがあるんです。それは、姉の霊力が高かったからこそできたものなんです。」
「今、桜さんに椿さんの霊力が宿っているということは…。」
「えぇ、今の私ならできるかもしれない。」
そう言い放つ桜の目には、大切なものを守るという決意が込められている、そう晴は感じた。
「ただ、いくら姉の霊力が宿っているとはいえ、私の実力で出せるのはせいぜい1、2回程度。なので、私が術を唱える間に晴さんは、持っている刀に最大限の霊力を込めてください。」
「分かりました。2人で、この戦いを終わらせましょう。」
桜が駆け出し、結界を張る。
「ーー大地よ、空よ、あまねく命よ、闇を祓ひて天下に光をもたらせ」
「ばいばい、桜。」
椿の声が響く。姉さんも、一緒に戦ってくれてたんだよね?
今までの自分じゃ出せないような力が出てくる。怨霊たちが消えていき、薄暗かった黄泉の国が光に照らされる。
あぁ、終わった。
姉を奪った冬は去り、もうすぐ桜の季節になる。
あの戦いでは、沢山のものを得た。
次期当主の座。
怨霊との戦闘技術。
そして、少しの間学校を休む権利。
それに対して、失ったものは姉ただ一人。
姉さんは、影月椿は、人柱として、この世を去った。
長い時間だった。
世界は守られた。…姉さんの犠牲によって。
世界を救えたことを喜びながら、姉さんを失ったにも関わらず何故か冷静でいられる自分がいる。
それは間違いなく、姉に託された思いがあるからだろう。
…姉さんの部屋。
姉さんが死んだと伝えられた時から、一度も入っていなかったな。
「桜さん。」
ふと、後ろから声をかけられる。
そこには晴がいた。
「…椿さんの遺品整理ですか。」
「はい。」
「…そうですか。手伝っても?」
「もちろんです。ありがとうございます。」
晴と一緒に姉の遺品を片付けていく。
「…僕と椿さんは、随分前にあっていたんです。あなたと知り合う前から。」
驚いた。そんなことを聞くのは初めてだったからだ。
「6年前、白雪家で行われた宴会で、初めてお会いしました。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
その日、白雪家で開かれた宴会では、白雪の双子...星と光のお披露目が行われていた。
二人はお披露目より前から優秀だと評判だった。
僕なんかよりも、ずっと。
すれ違う人、挨拶に来る人、使用人。
全ての人々から向けられる嘲笑、侮蔑を含んだ瞳。
恐ろしくて、気持ち悪くて、僕はその場を逃げ出した。
その場にいたくない、そんな思いでとにかく裏庭に駆け込む。
僕だけだと思っていたのに、
そこには一人の少女がいた。
桜の木の下で、黒い髪を風に靡かせ、深紅の瞳に僕の姿を映している。
「あなた、なんで泣いてるの?」
そう言われて初めて僕は、自分が泣いていることに気付いた。
「っあ…」
だめだ、泣いたら、だめだ。
また、次期当主に相応しくないって、みっともないって、言われる。
「なに我慢してるのよ、べつに誰かに言いふらしたりなんてしないわよ。泣きたいなら、泣けばいいの。」
ハッとした。
「実は、さっきの宴会で…」
自然と、自分の気持ちを吐き出せた。それは止まることを知らなくて、どこかスッキリした。
その少女は、何も文句を言わずに僕の話を聞いてくれた。僕が話し終わった頃、その子は口を開いた。
「そっか、頑張ったね」
「でも、双子の方が優秀だっていうことは本当だ。きっと、僕は次期当主にはなれないんだ。僕なんて...」
そう言うとその子はキッと眉を吊り上げる。
「それ!その、僕なんて...ってどうにかならないの!?」
何を言っているのか理解できなかった。
だって僕は星と光みたいに天才じゃない。
剣術だって父さんに比べれば全然だ。
それに、それに、
「才能がなくたっていいじゃない。だってほら、君はこんなにも努力してるんだから」
彼女は僕の手を持ち上げた。
皮膚は硬くなって、豆が沢山できてしまっている。
そう言って彼女は太陽のように笑った。
あぁ、眩しい。
「うん、ありがとう。」
すると、遠くからその少女を呼ぶ声が聞こえた。
「あ〜呼ばれちゃったぁ。じゃあ、また会おうね!」
「あ、あの、僕、白雪晴っていうんだけど、君、名前は…?」
「影月椿。これでも次期当主だよ。」
そう言って、彼女は走り去っていった。
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「それ以来、僕はずっと彼女が忘れられなかったんです。」
「そうだったんですね。」
「ずっと想い続けていた人が死んだと言うのに、こんなに冷静でいられる自分が正直怖いです。」
「奇遇ですね。私もです。姉が死んだというのに。」
「そうですね…。」
ふと、一冊のノートに目が留まる。
それは姉が何年も前から姿を消す日まで一日も欠かさず書き続けていたものだった。
パラパラとページを捲っていく。
すると、なかから一枚の紙切れと、二枚のきれいな便箋が出てきた。
「これは…。」
それは椿の日記の最後のページと、私と晴、そして家族にあてた手紙だった。
一文字も見逃さぬように、ゆっくりと、丁寧に、ページに書かれた記録を読む。
4月✗✗日
まず最初に、今日の記録は、今まで書いてきた内容の何よりも長い文章となるだろうな。でも、この文章を見つけた人は、絶対に最後まで読んでほしい。ここには、私が明日から死んだこととして扱われる経緯を詳しく書くからね。
昨日の夜にまた予言をみた。
今から十年以内に災いが起きると。
そのことを母様に伝えたら、今日の朝、彼女に呼び出された。とても大事な話があると。母様の部屋のドアを開けると、母様だけでなく父様もお祖母様もお祖父様も皆座って私のことを待っていた。
その時に悟った。私は人柱になるのだなと。
正直、母から改めて言われたあの言葉をすぐに受け止めることはできなかった。
覚悟はしていた。
家系の中でも、私が母様よりもお祖母様よりも霊力が強いことは、ずっと昔から気づいていた。
私は自分が人柱になることと、その時が来るまで失踪し、戸籍上では死んでいることにするとだけ伝えられた。後のことは私が決め、その時が来るまでの失踪場所などは母様が手配してくれるらしい。
前から覚悟はしていたけれど、思い描いていたことがいざ目の前の出来事になると、やはり冷静に物事を整理できない。
心残りと言われれば思い浮かぶものはたくさんあるけれど、一番に思うのはやはり桜のこと。ずっと一緒に暮らしてきて、あの子の成長を最後までとはいかないが見守れないのは辛い。だから私は、屋敷の近くでありながら同時にあの子のことを成長を祈れる鶴岡八幡宮で巫女として働くことにした。
ふいに、あの子のことを思い出す。
幼い頃から隣にいてきた子だもん。まだ、成長を見ていたかった、と考えてしまう。もし、いつか私が死んだと分かったとき、私が桜に変わって人柱になったことを知ったらどうなるだろう。そう、不安でたまらない。
だから、私は桜に手紙を残します。手紙は、この日記帳に挟んであります。もしも誰かがこの記録を見つけたのなら、桜に渡してあげてください。
こみ上げる想いを我慢しながら、二枚の便箋へと目を走らせる。
桜へ
桜がこれを読んでるときにはもう、私はこの世にはいないのかな。
桜。何も知らせることができなくてごめんね。繊細で優しい貴方には、突然の出来事過ぎて理解できなかったと思うし、信じられなかったと思う。それでも、桜は戦ってくれたんだろうな。そういう子だもの。昔から。後悔がないといえば嘘になるけど、こうして桜に思いを残すことができて幸せだよ。でもね、私が死んだのが自分のせいだなんて思って自分を責めないで。正直人柱として死ぬのは怖いし、もっと生きたいという思いももちろんあるよ。でも、世界の平和を守るためにヒーローとして死ぬなら、少なくとも私が生きた人生に存在意義は十分にあるでしょう?
ありがとう。私は優しくて誰よりも思いやりのあるあなたの姉さんでいられて幸せでした。
そしてあなたは世界一かっこよくて強くてすごいお姉ちゃんの妹なんだから、胸を張って生きなさい。それが、お姉ちゃんの最後の願いです。いつまでも見守ってるからね。
大好きだよ。桜。
影月椿
晴も便箋を開いて、椿からの手紙を読む。そこには、こう綴られていた。
晴さんへ
あなたは私のことを覚えていないかもしれないけど、最後まで読んでくれたら嬉しいです。
6年前、あなたに初めて会った時、なんて優しい目をした子なんだろう、って思ったんだ。私にはないような優しさがこもっていたの。君の話を聞いてて、努力家なんだなぁ、きっとこういう人が、世界を破滅から救うんだろうな、って思いました。
あの時君は、自分なんか次期当主にはなれないと言っていたけれど、君の努力は絶対に報われる。だから諦めないで。私が言えることはそれだけです。
立派な当主になってください。
頑張れ。
影月椿
頬に生ぬるいものが伝う。
それが私の涙だと気づくのにそう時間はかからなかった。
この数ヶ月流せなかった分の涙を、全部、全部流したように思う。
姉さんがいなくなった。その事実が、より鮮明に、これ以上ないほど残酷な姉さんの優しさで、突きつけられた。
二人で泣いた。
姉さんとの思い出が走馬灯のように駆け巡る。
ありがとう。
ごめんなさい。
大好き。
そんな言葉が浮かんでは、声にならない嗚咽となって口からあふれる。
その日、今年最初の桜の花が咲いた。
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これは、世のために、
その体を、
その心を、
その命を捧げた、
誰も知らない誰かの話。
きっといつか、花開くことを願って。
物語は、まだ、ここから。
【完】
*この物語はフィクションです