学生YMCA第50回夏期ゼミナールに参加して 2024.9.14
鳥取大学Yシニア 学生部委員 板野靖雄
2024年9月13日から15日まで、東山荘にて全国学生YMCA夏期ゼミナールが行われた。夏期ゼミナール(以下夏期ゼミ)は夏期学校、夏季集会に引き続き1973年から毎年行われてきた。今年度が第50回である。私自身は、学生として、シニアとして、学生部員として参加しており、今回で21回目の参加となった。
夏期ゼミへの学生の参加人数は2010年台では2015年度の74人(22大学)をピークとし、50人~60人台で推移してきた。しかし、2020年、2021年はコロナ禍でオンライン開催となった。その後、2022年度は24人(7大学)、2023年11人(7大学)まで減少した。
次第に厳しくなっていた学Y運動に、コロナ禍が追い打ちをかけた。「集まるな、人と話すな、外に出るな」、という感染対策の規制は学Y活動そのものを規制するものであった。学生による夏期ゼミ運営委員会の伝統も途切れてしまった。
このような困難さの中で、今回は第50回目の節目の会であり、シニアに広く参加を呼びかけた。そして学生18名、シニア19名、スタッフ・講師12名の参加となった。学生たちにとっては、シニアに囲まれる会となった。
夏期ゼミには新しい出会いを求めて集まる学生たちがいた。「今も学Yを生きている」シニアがいた。何年もの空白があるのに、一瞬の内にそれを飛び越えて話ができる。ここには「出会い以上のものがある(仲井間健太)」。
児童・生徒・学生の心と魂に関わり続ける人たちがいた。そして聖書の言葉を、自分の言葉として、心を込めて学生に語る人たちがいた。それは美しい瞬間であった。14日の早朝、富士山のなだらかな稜線が一点の欠けもなく見えた。富士山の美しさが、学Yの美しい「時」に呼応してくれたように感じた。
さて今回のテーマは「小さなわたし、弱いあなた 戦争と暴力の時代を生き延びるために」。なんという戦争と暴力の時代を生きているのかと思う。私たち自身は戦争当事者ではない。しかし日々、戦場より泣き叫ぶ子供たちの顔と声が届けられる。破壊された瓦礫の街の映像を目にする。私たちは準当事者としてこの時代を生きている。
今回、ウクライナから日本に避難してきたロベルト・トカチェンコ君が、日本に来て一から始めた日本語で語ってくれた。ロシアによるウクライナへの侵攻が始まった。キーウにいた彼は、銃撃戦の音を聞く。家の近くにミサイルが着弾する。死体を積んだトラックが通り過ぎる。「戦争で人を殺したくない、死にたくない。」彼はリュック一つでポーランドへの国境を越える。彼は17歳。18歳からは徴兵され、出国は禁止される。これは良心的兵役拒否だ。しかし祖国を失い。故郷を失い、家族を失い、友を失い、学校教育を失う。17歳の少年にこの様な大きな決断をさせる戦争を憎む。そして彼は日本にたどり着く。YMCAの支援を受ける。今は都営住宅に住み、高校一年からやり直している。国の生活保障は2年で切れた。「今困ることは生活費」。アルバイトで生活費と学費をまかなっている。彼はロシア語話者、ウクライナ語話者の多い避難民の中でも孤立する。「夜一人で泣きます。友達が欲しいです。深い話の出来る友が欲しいです」。ロベルト君の困難さと孤独を私たちは心に刻んだ。
国際ネットワークの中でウクライナ避難民を救出し、サポートしてきたYMCAの活動を誇りに思った。「これらの最も小さい者のひとりにしたのはすなわちわたしにしたのである(マタイ25章40節)」。YMCAは、ウクライナ避難民、ロベルト君を通してこのイエスに出会っている。
14日の朝の集いで話した事をまとめる。
今回の夏期ゼミのテーマ「小さなわたし、弱いあなた 戦争と暴力の時代を生き延びるために」。ここで掲げられる「小さいわたし、弱いあなた」とは何かと問いかけられた。そこで「聖書は『小さき者』をどのように語るのか」を考えていく。それを通してみんながテーマに迫って行くことが出来ればと思う。
19歳の時に三浦綾子の『塩狩峠』を読んだ。その1週間後自分の死に立ち会う夢を見た。ベッドの上で死にゆく自分を上から眺めていた。死にゆく自分は叫んだ。「神様、僕の生き方はこれでよかったのでしょうか」。上から眺める自分は、どんな返事がくるのが、ドキドキして待っていた。もう一度叫んだ。しかし答えがなかった。そこで目が覚めた。その次の週の日曜日に教会の門をくぐった。しかしおよそ2年で教会をやめた。「あなたの罪のためにイエスが死なれたのです」、その言葉が苦しくなったから。
ところが鳥取大学入学の翌日に三浦綾子の講演会のビラをもらった。帰り道に鳥取YMCA 会館に誘われ、斎藤あき彦先生と連れ合いの香子さんに出会った。その帰り、斎藤先生に「板野君、来週から聖書研究においでよ」と言われ、その通り参加することになった。まるでイエスに、「あなたを、人間をとる漁師にしてあげよう」と声をかけられて、すぐに網を捨てて、ついて行ったシモン・ペテロのようだ。
聖書研究会で斎藤先生は言い続けた。「自分の言葉を語れ、借り物の言葉はいらない。自分の思いを言葉にしていくことだけに意味がある」、「聖書は面白い、私が面白いと思う聖書は人も面白い」、「分かってはならない。真理は持ち物にならない」。今までこのようなことを語る人に会ったことはなかった。
斎藤先生と香子さんに膨大な時間をかけて、関わってもらった。それは、お返しすることの出来ないものであった。自分の命を生きることを与えてもらったのだ。実にイエスの死も、私の罪を責めるためではなかった。私に命を豊かに与えるためのものだったのだ。
ちなみに三浦綾子の講演会のビラを配ったのは、その7年後に結婚することになる連れ合いの昇子さんだった。
大学卒業後地元の岡山に帰り、病院で医者として働いてきた。 昨年定年となり再雇用で働いている。医者としての前半はリウマチ・膠原病、肝臓病の患者さんを診てきた。後半の20年は、主に高齢者、認知症の患者さんの、栄養、摂食嚥下評価、胃瘻造設に関わってきた。
なぜ関わり続けたのか?それは、「院内飢餓」に出会ってしまったからだ。
病院の中には栄養障害でやせ細った患者さんが沢山いた。栄養失調で足が骨と皮になった患者さんたちの写真を見て、当時小学生だった我が家の子供が「これはどこの国の難民?」と尋ねた。私は答えた「協立病院の難民」と。これを人権の問題と考え、取り組んできた。
マタイ25章31~46節を読んでもらった。この物語のモチーフは人類最古の宗教であるゾロアスター教の「終わりの日」「最期の審判」に由来する。少しをおどろおどろしい描写だ。
ここでまず、聖書の読み方について一つ伝えておく。聖書は、情報を伝える「情報言語」で書かれていない。この箇所を読んで、「『天使』はいるのかどうか、「『悪魔』には『手下』がいるのか。地獄には『永遠の火』があるのか。これらは嘘か、本当か」と事柄の真偽を問うてはならない。そうではなくこれを書いた、作者の思い、こころ、魂を読みとくのだ。この「表現言語」を解釈し、そこに込められたメッセージを取り出すのだ。
「私の父に祝福された人たちよ、世のはじめからあなた方のために用意されている御国を受け継ぎなさい。あなたがたは私が空腹の時に食べさせ、渇いていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに見舞い、獄にあったときに訪ねてくれたからである(34~36節)」「いつあなたにそのようなことをしましたか」という問いにイエスは答える。「あなたがたによくいっておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわちわたしにしたのである(40節)」
このマタイ25章の言葉がいつも迫ってくる。 食べられず、飲み込めずやせてしまい、手足が固まってしまったお年寄りの姿は、この聖書の箇所の「空腹の者」「渇いた者」「獄にあった者」そのものだった。イエスは彼らを「私の兄弟」と呼ぶ。さらに言う。「これらの最も小さい者のひとりにしたのはすなわち私にしたのである」と。「最も小さい者」は「私だ」と言う。彼らの飢え渇きは私の飢え渇き、彼らの苦しみは私の苦しみ、だから彼らの喜びは私の喜びとなる。イエスは「泣く者と共に泣き、笑う者と共に笑う」人なのです。
この「私にしたのである」を『主よ、われら誰に行かん(井上良雄)』は、こう表現している。「隣人がわたしどもの傍らに飢え渇いた姿で立っているのは、私どもにとって単に重荷として、厄介な存在として立っているのでなく、私どもがそこでだけ神と出会うところの人として立っている」
いのちの危機にある「最も小さい者」の中に神がおられる。神が彼ら共に飢え、渇いている。彼らに関わることは簡単ではない。重荷と感じる事もある。しかし「そこでだけ」神と出会うのだという。大勢でなくともよい、そのひとりに関わるか、何もせず見捨てるか。そこに天国と地獄の分かれ目がある。それは神に出会うか、出会わないかだ。
イエスが弟子たちに教えた祈りがある「わたしたちに必要な糧を今日与えてください(マタイ6章11節)」。これを栄養サポートチームの祈りと考えて取り組んできた。
旧約聖書が構想され、創世記が生み出された時代はどのような時代であったか?それはバビロン捕囚の時であるという。イスラエルは強国バビロンによって国土を破壊され、国を失っている。人々は家族を失い、生活を失っている。そして奴隷としてバビロンに強制連行される。エルサレム神殿は破壊され信仰の根拠を失っている。それがいつまで続くのかわからない。このような「戦争と暴力の時代」の中で旧約聖書は生み出されている。
新約聖書のイエスの時代はどうであったか。ユダヤは大国ローマに侵略され属国となっている。そしてその統治は傀儡政権ヘロデ王の統治のもとにある。またユダヤ教の神殿国家体制に組み込まれている。人々は三重の権力に支配されていた。大土地所有者は富んでいくが、多くの農民は重税に苦しみ、格差が広がっていく。その中で病の者、卑賤とされた職業につく「地の民」らは「罪人」として排除されていた。イエスはこのような「戦争と暴力と権力と差別」の中で、「神の国の福音」を語ったのである。穏やかな平和の中で「福音」は語られたのではない。そこでは生半可な言葉は通用しない。こんな苦難の「世界」のただ中で「福音」は語られたのである。
これらの聖書の時代背景は、現代の状況に恐ろしいほど合致する。米国のイラク戦争、アフガン戦争、香港の言論弾圧を続ける習近平、プーチンのウクライナ侵略、イスラエルによるガザでのジェノサイド。繰り返される戦争、軍事大国の横暴、殺される住民、荒廃する国土、生まれ続ける難民、富める国の経済支配、貧困と格差の増大そして差別。国家と何か。人間とは何か人間はなんと同じ愚かさを繰り返しているのか。ならば今、私たちの時代とは、イエスの時代とまさに同じ苦難の時代である。だから聖書を読む。聖書は苦難の世界を生き抜くための人類の文化遺産であるのだから。
詩編146編9節には「主は寄留の民を守り、みなしごとやもめを励まされる(9節)」とある。戦争の文脈で読み解くなら、「寄留の民」とは捕虜・奴隷にされた外国人、そして難民である。「みなしご」は戦争孤児である。「やもめ」は戦争で夫を失った妻、息子や娘を失った母である。これら戦争の被害者を守り、励ますのが旧約の神である。社会的に弱くされた者が公平に扱われること、それが旧約の神の正義である。それはお恵みとしての福祉ではない。
古代メソポタミアにおいて、為政者(皇帝、王、政治家)には、社会的弱者を保護が求められていた。それが為政者の「正義」の務めであった。しかし旧約聖書では、その社会的弱者の保護をイスラエルの民自身が果たすべき事として語っている。申命記24章には「人道上の規定」として「寄留者や孤児の権利をゆがめてはならない。寡婦の着物を質にとってはならない(7節)」とある。申命記は、エジプトを脱出したイスラエルの民に、語られた規定である。これは為政者や王への規定ではない。イスラエルの全ての人々に語られた「神の律法」である(『詩編の思想と信仰(月本昭男)』。ここでは民自身が当事者である民自身が責任を負うのである。
なぜイスラエルの人々は社会的弱者を大切にしなければならないのか?それが繰り返し語られている。
「あなたは、あなたの神、主の聖なる民である。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選び、ご自分の宝の民とされた。主が心引かれてあなたたちを選ばれたのは、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あなたたちはどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の愛のゆえに、あなたの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラオの支配する奴隷の家から救い出されたのである(申命記7章6~7節)」。
イスラエルの民を神はなぜ選ばれたのか? それはイスラエルの民がどの民族よりも貧弱であったからだという。数も少ない、武力も弱く、財力も乏しい。
だから選ばれたという。ただ「神の愛の故に」。イスラエルの民はそれを心に刻む。
「あなたはエジプトで奴隷であったが、あなたの神、主が救い出してくださったことを思い起こしなさい。私もそれゆえ、あなたにこのことを行うように命じる(18節)」。自分たちがかつて奴隷として、エジプトの寄留者であった。そこで苦役を負っていた。だからその自分たちの苦役の記憶の故に、他の人に苦役を及ぼしてはならない。そして自分たちを救いだしてくださった「主なる神」をいつも「思い起こす」。これが「寄留者、孤児、寡婦」を大切にしていく「原点」である。それが「神の戒め」、律法である。
「神は自己相対化の視座である」荒井献。「神は砕かれた魂を軽んじられない」 詩編。神は自己絶対化の道具ではない。否、あなたの自己絶対化を打ち砕く。
まして神は戦争の道具ではない。聖書を読む、それは私自身の生き方が問われることである。聖書研究、それは聖書を論評するのではない。研究の対象は我(私の生き方)と我々(社会・共同体のありかた)である。私が聖書を問うのではない、聖書が私を問うのだ。
『今聖書から聴く 22の平和説教集』「平和の福音を告げる」中道基夫
サムエル記8章4~19節
イスラエルは出エジプトの後40年の荒野の旅を終えて、約束の地カナンに入り、ヤハウェ宗教を中心とする緩やかな12部族連合体ができる。指導するのは一代限りの士師であった。その時代に鉄器文明を持つペリシテ族の侵攻を受け敗北する。モーセの十戒を収めて神の箱を奪われる。民衆は一致して敵にあたることのできる王政国家を要求する。戦争のできる強い国家が戦争を抑止すると考えるからだ。
主は民の上に君臨する王の権能について民衆に伝える。「王はあなたの息子を徴用・徴兵する。兵士となり犠牲となる。あなたの娘を徴用する。あなたの土地を奪う。あなたの奴隷を奪う。王政を支え、軍事力を維持するために税を取り立てる。こうしてあなたたちは王の奴隷となる。王のゆえに泣き叫ぶが、神はもはや応えてはくれない。神を失う。」王を持つこと、国家を形成することは神を捨てることだ、神の国と王国は天秤の両側のように拮抗する。神の国は王国を相対化する。
基本原則を作った関田先生の言葉から
基本原則で「私たちは1人1人の人権を守り、正義と公平を求め、喜びをともにし痛みを分かち合う社会を目指します」
無視された人格、差別された人間、この人たちの人権を守る、そこにYMCAの使命があるのです。一人一人の人権を守り、正義と公平を求めることがYMCAの使命です。
原則に「アジア・太平洋地域の人々への歴史的責任を認めつつ、世界の人々とともに平和の実現を目指します」とあります。平和の問題です。マタイ福音書に「平和を作り出す人は幸いだ」とあります。平和はイエスの使命、そしてYMCAの使命です。日本はアジア太平洋戦争でどれだけの「寄留の民、孤児、寡婦」をつくり出してきたのでしょうか。皇民化政策として言語、文化を奪ってきました。
「私たちはすべての人々が生涯を通して全人的に成長することをお願い、すべてのいのちをかけがえのないものとして守り育てます」YMCAの使命はこの「いのちの尊重」にあります。いのちは神により「良し」と造られている。人間を含めたすべてのいのちの大切さが根本にある。尊いこのいのちをYMCAは守り、支え導くのです。いのちに対する愛情を育むのです」
先週,水害の被災地、真備で行われたYMCAのチャリティーコンサートに駆けつけました。青山学院ハンドベルの演奏と倉敷児童合唱団の歌とダンスを見ました。ハンドベルは皆で力を合わせて神に捧げる美しい音楽を作り上げていました。子供達と青年の姿を見ながら、ガザとウクライナの子供と青年の姿を思いいうかべました。子供たちは爆撃で殺されるために生まれてきたのではない。青年は戦場で人を殺し、殺されるために生まれてきたのではない。そう強く思いました。
「空間に人々が集い、寛ぎと自己鍛錬のなかで共生の作法が学ばれ、成熟する。そうした豊かな空間を作り出すところにしか、いま希望は見いだせない『新しい戦前 (内田樹・白井聡)』。
学Yという空間は、その人が共に生きることのできる人へと成長すること、その成熟を願うこと、そのような豊かな空間であったのです。だから私たちが次に起こす「良いことと」は「人から育てられた私たちが人を育てる(齋藤皓彦)」ことです。 日本YMCA基本原則で語られるYMCAの「使命」とは「いのちを守り育てる」こと、「人権を守り、正義と公平を求める」こと、「平和の実現に努める」ことです。そこにある希望とは、それを為す「人を育てること」です。共に生きることのできる「人を育てること」です。平和を作り出す「人を育てること」です。「人を育てること」それがYMCAの行うことです。希望はそこにあります。今は「そこにしか希望を見いだせない」。
本日の様々なプログラムの中で、自由に語り会いましょう。この自由という言葉の重さを確認しながら。昨年の夏期ゼミで九州大学学Yシニア新林智子さんの朝の集いで語ってくれたことを思い起こしながら。彼女が参加したWSCFの.woman leadership tanning。そこには同時代を生きる仲間がいた。彼女が、「世界からもらってきた言葉」は「自分たちで聖書を読んでいいんだ!自分たちで話をしていいんだ!」だ。もちろんそこには、ミャンマーSCMからの参加者のように、「沈黙でしか国の実情を語れない者もいた」。「自由は自明のことではない」。学Yでずっと言われてきた。「聖書を自由に読む」「自分たちで聖書を読む」「聖書を自分の言葉で語る」のだと。しかしこの自由は当たり前ではなかった。
私たちはこの自由を使って、人類の文化遺産である聖書の思想を読み解くのだ。そしてそれを世界に届けるのだ。それはこの「でたらめの世界(宮台真司)」に「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように流す(アモス書5章24節)」」ためだ。
さあ今日のプログラムに進んで行きましょう。